輸入し損なった民主主義とうまく根付いたサン・シモン主義
「サン・シモン主義と渋沢栄一」
鹿島茂一氏講演; 明治大学国際日本学研究
200年3月31日
http://hd1.handle.net/10291/13153
より抜粋
🗣(1867年渋沢は徳川慶喜の弟昭武の会計係として第二回パリ万博に
同行する) 徳川昭武一行の世話係の銀行家フリューリ・エラール
という人と、昭武の家庭教師としてついている陸軍大佐のヴィレットという
人がいた。当時、渋沢の時代の日本では、武士はオールマイテイ、
商人、農民はゼロということだったんですけれども、フリューリ・
エラールとヴィレット大佐を見ていると、その差は全然無い。
この平等な社会というのは、何で生まれるのだろう。それを俺は
見極め、封建的な社会を変えたいと考えて、渋沢は様々な形で
社会を観察してゆくことになります。その観察の元となったのが、
フリューリ・エラールという銀行家なんです。この銀行家にいろんな
所に案内してもらううちに、渋沢の頭の中に、日本の封建的な社会を
ひっくり返して、革命を起こして四民平等の社会を作るには何が必要
かということが朧げにわかってきたんです。それは何かというと、
ジャンジャック・ルソー流の、あるいはフランス革命的な平等思想
では全然なかったんです。これは意外ですが、
渋沢は、共和思想とかそういうものにはほとんど関心が無いんです。
そういう政治的、体制的なものには興味がない。
まあ、当時は第二帝政という、ナポレオン三世の帝国ですから
フランス革命当時の共和思想に触れる機会がなかったとも言える。
しかし、そうしたことよりも。渋沢が半商、半農で稼ぐ農民の
出身だったことが大きい。つまり、渋沢はじぶんの身分である
商人という視点から日本を平等社会にするには何をしたらいいかと
考えたわけです。そのあげく、社会革命の方法として、これだ!と
思ったのは、意外なことに「株式会社」だったんですね。株式会社
こそが革命の方法であると、彼はこう理解したんです。(中略)
しかし僕は、もしかすると渋沢が株式会社を大誤解して作り上げた
日本的資本主義システムと、第二帝政期についに変革の原動力と
なったサン・シモン主義というものは、何かしら共通点があるのじゃ
ないかしらとと、急に思いついたんです。
サン・シモン主義とはどういうものか、ここでちょっと説明しておきます。
最初にフーリエとサン・シモンが社会主義という言葉を使い始めた
けれども、(マルクス・エンゲルスの説と比べてみると)これは全然
社会主義とは関係ないということがわかる。サンシモン主義を
ものすごく分かりやすく要約しちゃうと、資本主義的エートス
(国民的、民族的な倫理観)が無い土地において、ブラックマーケット
p
型ではない、テクノクラートの調整する管理型の資本主義を外部注入
して、そこにいきなり高度資本主義を作っちゃえ、という考え方です。
では、このサンシモン主義の元祖であるサン・シモン伯爵というのは
どんな人かというと、・・・・・
若い頃にアメリカ独立戦争に参加して帰ってきたというから、一応
理想主義的な共和主義を信奉していたようです。しかし、フランスに
帰ってきて大革命を経験するうちに考えが変わってくる。フランスは
大混乱に陥っていたんです。
革命政府は金が無いので、アッシニアというもの(つまりペーパーマネー)
を過剰発行して、それが当然大暴落。ところでこのアッシニアは、
亡命貴族から召し上げた土地、建物を担保にして発行されたので、
暴落したアッシニアをかき集めれば国有財産が全部手に入る。
サン・シモンはベルギーの銀行家と組んで一生懸命アッシニアを
買い集めて、よし、国家を乗っ取っちゃえということを始め
たんですが、革命政府の横槍で、それは失敗しちゃうんです。
その時に彼が言ったことは、「社会は、王様、貴族、僧侶、軍人、
官僚、こういう人は要らない。必要なのは実業人だけだ」という
ことを言うんです。つまり、工業、商業、農業、その他全ての
産業に携わって自分の労働によってお金を作り出していく人々、
ただし資本家と被雇用者の区別は彼の頭の中には無いんです。
そういう人たちが社会を作るのである。「産業人による、
産業人のための、産業人の社会」を作ろうというのが、
サンシモン主義の基です。そのためにはどういうものが必要
かというと、物が、人が、お金が動くこと、それがサン・シモン
の重要なコンセプトなので、物が停滞することは、何も生まない。
タンスの中にため込まれたお金は、富を産みださない。それに
対して、お金が動き回ると、それだけで富が産まれる。
同じように、人間が一か所に居るだけでは何らの国富というものは
生まれてこない。物がA地点からB地点へ移動することによって、
物というのは価値を持ち、そしてそれは富へと繋がっていく。
ならば、流通(サーキュレーション)を生み出すようなシステムを
作らなければいけない。という風に考えまして彼は、お金の
サーキュレーションとしての銀行、物と人のサーキュレーション
としての鉄道、それから物と人を結びつけてそこのところで
新しく何かを作り出すための株式会社を社会変革の原動力
に据えたんです。・・・・
ところでこの時代、ナポレオンの甥のルイ・ナポレオン・
ボナパルトがスイス、イギリスとかそういう所で亡命生活を
おくっているうちに、サン・シモン主義の布教パンフレット
を見て、ウーン、これはすごい、もし俺が皇帝になったら
全部これを実現しちゃおう、と思っていたんですが、・・
1948年に二月革命が起こって大統領選挙が行われ、
ナポレオン三世は当選して大統領になっちゃった。
思ってもいなかった権力が向こうから転がり込んで
きて、大いに喜んだナポレオン三世は、かねてより
心に誓っていたサンシモン主義のプログラムを実行に
移します。そうして抵抗に遭うとこれをクーデターで倒して
しまって、第二帝政というものをつくります。そして
ブレーンとしてサンシモン主義者を、特に分離派、分派の
ミシェル・シュバリエ、それからペレール兄などを雇います。
ミシェル・シュバリエは万国博覧会の産みの親であり、
英仏通商条約という関税撤廃システムの最初のアイデアマンです。
それから、ペレール兄弟というのは、ロスチャイルド銀行型とは
違ったベンチャー企業型の銀行を作ろうと思ったんです。
というのは、当時の銀行というのは産業投資のための銀行じゃ
なかったんです。A地点とB 地点と、C地点という3つの地点で
支店をもうけ、その為替差益によって利益を上げていくのが、
旧来型の銀行のシステムです。ロスチャイルドもそうでした。
彼らは大金持ちからの金を利率の高い外債に投資する。今の
ファンド・トラストと同じですね。アメリカでも、大金持ち
からの預り金を一番利益の上がりそうな所に投資するわけですね。
これは産業投資とは全然関係ないです。
ところが、ペレール兄弟はサン・シモン主義者の一員ですから、
小さな金を大きくして、それを産業に投資し、産業を
作り出そうと考えました。というのは、フランスというのは、
フランス革命が起こったために、イギリスから産業革命が
50年も遅れちゃったんです。この差はなかなか縮まらなかったん
ですけれども、ナポレオン三世の時代にサンシモン主義の登場に
よってこの差が一気に縮まった。第二帝政の後半にはイギリスを
追い越すまでになります。・・・・
さて、最後に話をまとめたいと思います。・・・・
渋沢栄一は、幕末にフランスに派遣されることで、必然的に
日本とフランスという2つの社会の「差」を意識させられました。
そして検討、分析を経て自分の問題点を見つけて行ったのです。
明治の日本人、特に渋沢栄一、福沢諭吉はこれをやりました。
🦊 🦊🦊: 異議あり!
🗣(渋沢の業績としては)製鉄業、鉄道、化学肥料の工場、さらには
帽子、靴、劇場、社交場としての東京会館とか東京商工会議所、
東京証券取引所までつくりました。今の一橋大学もそうです。渋沢栄一が
いなかったら、日本はうまく資本主義社会になったかどうかわからないと
いえるのです。一方で渋沢は、各人は自分の儲け範囲というものを決め、
それ以上はぜんぶ社会に還元するという「知行合一思想」を広めようと考えた。
(これもサンシモン教会というものを作って、産業人にとっての倫理行動と
いうものを主張したサン・シモン主義に非常に近い)
渋沢栄一は、四民平等を実現し、日本を変革するその武器としての株式会社
および銀行というものを作ります。(渋沢が作った第一銀行とは、「国立」
という名がついていますが、日本では最初の民間銀行です)それ以後
渋沢が作った株式会社は500以上です。おかげで、日本は西欧の文物を輸入
しながら、日本というアイデンティティを」失わずにに済んだ。
🦊🦊🦊; ちょっと待った!!
🗣これこそが、わが「国際日本学部」がやらなければならないことです。
日本人は・・海外から輸入されたさまざまな画期的なアイデアを改良すると
いうのはうまいですよね。しかし、問題自体を日本人が考え出すことは
殆ど無いんです。しかしこれからは、問題を輸入して改良するのではなく、
問題そのものを考えなくてはならない。そのためには、日本と国際を
比較して、差異と類似から独自の問題を育てていかなくてはならないのです。
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🦊🦊: 異議あり!
渋沢と福沢の学問は、それぞれ狭い範囲にかぎられており、渋沢は儒教の
伝統から先へ進むことができず、その先の「四民平等」も、これまでに
実現したことのない「夢物語」を語ったにすぎない。それ以上に、儒教由来の
「東洋は日本を中心に回る」説を土台にして、その上に「権力者と商人の」国家を
つくり、国民は商人の雇われ人として、人間であるような無いような存在だ。
「天は人の上に人を作らず」なんて言っても、福沢先生はアジア人については
バカ呼ばわりをしていたとか。彼も西洋通というにはちと狭い、「西洋に倣え」の
学者?というのが近頃の評価らしい。
明治政権は民主主義を輸入しなかった。それでも、家のどこかにあるはず(明治の人
は偉いから)などと思っている人も多いかも。けど、「日本の民主主義を絶やすな!」
などといくら国会で叫んでも、「民を欺く」議員連中の対応をみれば、
「ウチには民主主義なんて元から無かったんだ!」と気付かされるばかり。
🦊🦊: ちょっと待っl
キツネにもわかるように言ってくれ。「失わずに残った」というからには、
普通に見られる現象でしょうね。それとも神棚の奥に、大事に祀っているのかな?
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8月某日