菊とヤクザ



🦊:  ルース・ベネディクトは、その研究を出版するに

あたって、本人の発案で、タイトルを「菊と刀」とした。

菊とは皇室、刀は(第二次世界大戦までの)日本人の

国民的特性として、武士を頂点とする「階級性」を

意味する。「国葬」直後の今、政治をめぐる環境を

言い表すなら、「菊とヤクザ」だろうか。

現に、元首相のお膝元山口県では、安倍家の跡目争い

が始まり、地元住民を抱き込んで・・・とか、

現在の首相についても、後継者として急遽御曹司を

首相秘書官に・・などと巷の噂になっている。

そしてその背後には「統一教会」がいて、票の

取りまとめを手伝っているらしい。階級性は撤廃されても、

その代わりに「ヤクザのシマ争い」が日本政治の特性に

なっている。

彼ら議員は議会で何をしておられるか?政治学者諸氏によれば、

一般に「議会は法律を作る場所」と思われているが、そうでは

なくて、それは「議論の場」である。提案された法の中身につき、

保守、革新の双方が議論を戦わせ、結果、成立か廃案かが決まる

ものだそうだ。

そうだとすれば、「議論が第一」のはず。ヤクザ内閣の場合は、

議論を避ける、議会を開かせない、特有のアイマイ言葉で

事実を隠す、など、「議論無用」で閣議決定が優先することになる。

これには日本語のアイマイさが大いに役立っているだろう。

「丁寧な説明」などと言うのもその一つ。「事実に基づく説明」

ではなくて、「相手を刺激しないよう言葉を選んでツク嘘」

のことだったりする。


論理的でない、なんて言われても、「論理的って何さ!そんなんは

野党の屁理屈だ」と言う風呂屋の喧嘩みたいなのが、議員諸氏の

頭の中身なんだから、対話が成り立たない。それは議会に限った

ことではなく、「何で反対するのさ?反対なんかするから分断が

起きるんじゃないか」と言う庶民も多いだろうう。非論理的

(アイマイな)日本語と、いにしえよりのお上崇拝が依然として

頭をを占める
日本人が、民の面倒をみない(看るふりをしていた)

人物を良き統治者として「国葬」にする、それは「戦犯である人物」

を首相に据えたかつての戦後日本国と米軍の、長い長い癒着の

成果でもあるだろう、という説にキツネも賛同する次第。

情けないことではある。


対話よりもライフル(=核兵器)という約半分のアメリカ人と、

対話よりも金儲け施策(高所得者向け)という日本政府は、

結婚の約束を交わしているらしい。結婚とは、他国の利益の

ために日本の国土を戦場にすることだ。昨今、北朝鮮からの

ミサイルと米軍の「迎撃弾」が日本上空を飛び交うという

事態になり、いよいよ結婚間近となりつつある。婿さんの

言うとおり、軍備増強(=憲法改定)、軍事予算増強(=その

金はアメリカ軍需産業の利益に)そして我慢ならぬことだが、

またしても勝ち戦(アメリカ依存の)の夢を見る。70年前と

同じく。(果たしてアメリカはアフガニスタンの民衆を

護ったか?)


ーー自発的隷従の日米関係史ーー

松田武   著    岩波書店  2022年刊


p165  「おわりに」ーーより

「沖縄返還とは何だったのか」

🛑  沖縄返還協定が、協定締結後の日米関係ならびに日本に

及ぼした影響について要約したい。

1つは、沖縄米軍基地の自由使用の主張並びに沖縄返還協定の

締結は、米国の長年の願望であり続けてきたが、その米国の

主張が、沖縄返還交渉を通して日本政府によって容認されたこと。

2つは、沖縄返還協定の中で謳われている「本土並み」の返還とは、

従来から米国が固守してきた沖縄米軍基地の自由使用権が日本本土

にも同じように適用されることを意味したこと。

3つは、佐藤、ニクソン日米両首脳は、1969年11月21日の共同声明

において、「沖縄施政権の返還は、日本を含む極東の諸国の防衛

のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げになるような

ものではない」と宣明した。日本が米国に沖縄および日本本土の

基地自由使用権を容認したことは、基地の自由使用の適用範囲を

決定する権利が、米国に事実上委ねられたことを意味する。

それと共に、協定締結以降、世界戦略を展開する米国の判断と決定

次第で世界各地において、沖縄および日本本土の基地から米軍の

軍事展開が可能になったことを意味していた。

4つは、米国は、沖縄返還後、核兵器を沖縄から撤去すると約束

した。それが沖縄返還交渉の表の部分であるとすれば、裏の

部分は、朝鮮半島、台湾、東南アジアでの非常事態の際には、

沖縄および日本本土への核兵器の搬入および貯蔵することに

対して日本が米軍に最大級の柔軟な対応をすることを保証

ーー即ち日本は米国に「否(NO)」と言わない約束(密約)をした

ことであった。その約束は1960年の日米安保条約で合意された

事前協議制度の形骸化に繋がる重大な決定であったことを意味

している。言い換えれば、「本音」と「建前」の使い分け、

すなわち日本の伝統的思考枠組みによって、政府指導者

はじめ大部分の国民は、精神的ストレスの比較的少ない、気楽に

「依存していたい」方を選択していると考えられるのである。・・

そして、「日本が米国に守ってもらっている」という負い目から、

「いかにすれば日本の安全を守ってもらえるか」、「米国を

怒らせない」方法、「米国とうまく付き合う」方法、いわゆる

「日米同盟をいかに維持し、管理するか」といった日米同盟の

運用方法が彼ら間では大きな関心事となっているように思われる。




p9  日米同盟の捉え方ーー3つの行為主体ーー


戦後日米関係について、筆者は3つの行為主体が、ある時は国際

舞台で協力し、また別の時は反発しながら、2国間関係を築いてきた

と考えている。第1の行為主体が米国、第2が日本の保守勢力、

第3が日本の国民と考えている。・・(🦊:  第1の行為主体についての

記述は割愛、後のライシャワー大使についての章に譲る)

第2の行為主体としての日本の保守勢力は大きく分けて、

1つは戦前から戦後までを生き延びた保守政治家と、戦後新たに台頭

した経済界の指導者並びに国家官僚から成る日本の支配層である。

前者は、吉田茂、鳩山一郎、芦田均、岸信介、それに旧財閥の

末裔などで、後者は金融界および産業界の指導者、それに

植田俊吉などの大蔵省および外務省の国家官僚など、いわゆる

「同盟の橋頭堡」の役割を果たす勢力である。


もう一つの保守集団は、中小都市の指導者や農・漁村部の大半

の住民から成っている。彼らは、関税問題など自己の経済利益

や、インフラ開発事業計画など居住地域の利害に直結する問題に

関心を示すが、国際問題に関心を示すことは少ない。ゆえに、

彼らの対外政策への影響力は、時折のロビー活動や陳情の場合を

除き、限定的である。しかし、彼らが保守主義者であることに

変わりはなく、前者との共通点は反共産主義にあった。

要するに、保守勢力の関心は、日本独自の「天皇制を基本と

しつつ国民統合」のあるべき姿、いわゆる「国体」を

共産革命の脅威から護ることと、「資本主義」即ち私有財産

制度を脅かす共産主義拡大の阻止、それに日本の文化的伝統を

堅持することにあった。保守支配層は、反共産主義であると

同時に、現実主義的なプラグマティストで、かつナショナリスト

であった。かれらは、占領期に米国から導入された「自由」や

「人権」、それに「民主主義」の政治理念を受け入れ、広めて

行くことよりも、失われつつある戦前の日本の伝統的な価値や

制度を再び復活させることの方に熱心であった。


米政府の対日交渉担当官は、交渉相手である日本政府の高官が、

「貴国が私たち日本政府に何をして欲しいのかをご教示ねがい

たい。但し、公の場で私たちに圧力をかけるようなことは

しないで頂きたい」(Tell me what you want us to do.

But  don’t press us publicly.)と口にするのを、しばしば耳に

するという。「寄らば大樹の蔭」や「長いものには巻かれろ」

の諺や、ここに引用した対日交渉担当官の発言にも表れているように、

日本の保守的な指導者は、戦後日本が生き延びていくには、世界の

覇権国である米国と手を結び、米国に政治、経済、文化のすべての面で

依存しつつ、運命を委ねて進んで行くことが、「現実的」かつ唯一の

「選択肢」であると信じているように思われる。・・・

(少数の例外を除いて)大多数の保守主義者は、対米一辺倒や対米追従の

方針が正しいということは歴史的にも経験的にも「証明済み」であると

考えている。


ところで、保守支配層には大きく分けて次の2つの対米姿勢が見受けられる。

1つは、「打算的現実主義」の対米姿勢である。それは日米の非対称的な

国力の違いから、卑怯にもはじめから4つに組んで真正面から徹底的に

議論する気のない、あるいは、最悪のシナリオとして交渉の決裂を覚悟

してまでも自国の立場を主張する信念や主体性に欠けた「打算的現実主義者」

のそれである。

もう一つは、「米資日脳(American  Money  .Japaese Brain)型」日米協調論者

の対米姿勢である。それはちょうど「負けて勝つ」の諺やお家芸の柔道技のように

力において日本を圧倒する米国を、日本に有利な方向に誘導し、米国の力を利用

して、日本の国力の増進を図る日米協力論者のパターンである。その先例は、

1920年代の対中国政策において幣原喜重郎、出淵勝次などの外務省高級官僚

や実業家渋沢栄一などが唱えた「米資日脳」論に窺うことが出来る。


米国との交渉の際は、敗者という弱い立場にあった日本の外交エリート

たちは、相手の顔色をうかがい、日本は米国に「見捨てられる」のでは

ないかと必要以上に気を揉むことが多かった。(中略)



p17   第3の行為主体としての日本国民ーーその横顔

第3の行為主体とは、知識人や文化人並びに‘Attentive Public’

(注意深い公民)と呼ばれる人たちからなる市民層である。

「注意深い公民」は、農民、主婦、会社員、労働者、学生、商店主など

様々な人たちからなる市民層である。

一般に、知識人(通称インテリ)は、アカデミック・インテリから政策

インテリ・それに実務インテリ、さらにテレビ番組に出演するタレント・

インテリまで、多様な人たちからなる社会集団である・・

第1の知識人グループには、戦前の諸価値に固執する超保守主義者や、

中道リベラルの知識人もいなくもないが、大半は、穏健な保守主義者

から成る学識経験者である。かれらは、時の世俗「権力」や「権威」に

有機的に結びつき、教育機関やマス・メディアを通して、大資本や

支配的な政治集団の論理を国民の間に普及、浸透させることが自分の

社会的役割であると捉えている。そうすることで彼らは大勢順応型

の世論形成に貢献するのである。


p47  変わりそうで変わらない米国の深層文化

🛑独立達成後、ヨーロッパから北米大陸に移住した白人は、18世紀

から19世紀にかけて西方へ広がる自由地を求め、領土拡張を押し

進めたことはすでに述べた。西漸運動の過程で、アメリカ先住民に

対する人種退去や虐殺行為がしばしば行われた。一方、

南部では黒人に対する人種差別や虐待暴力事件が奴隷制度の下に

おいて頻発した。これらの蛮行の背景には、白人の有色人種への

恐怖ならびに人種差別感情があった。


時代は下る1950年代。日米政府は1950年代の初めに対日平和条約

の内容を巡って激しく議論を闘わしていた。米国内では「マッカーシー

旋風」(赤狩り)が吹き荒れ、黒人差別もひんぱんに行われていた時期

であった。南部諸州では、人種隔離と黒人に対する人種差別がまるで

日常茶飯事のように行われていた。

ところで人種隔離政策は、白人住民が安心して暮らせるように人種間に

越え難い壁を作り、黒人への恐怖感を和らげることに主眼があった。

合衆国憲法は「法の前の平等」の原則を高らかに謳ったにもかかわらず、

「必要は法をも曲げる」の強弁と人種隔離政策によって、南北戦争後、

南部白人の人種差別意識と恐怖心が心の奥深くまで温存されることに

なった。そのために、白人の黒人への暴力や抵抗意識が弱められると

いうよりも、むしろ人種差別意識が暴力を正当化する手助けにも

なった。そのことが、米国において人種、民族を問わず数多くの

良民を現在まで悩まし続けることになった。


次に、米国の対日外交姿勢に見られる米国の深層文化について

更に深く掘り下げたい。米国は、対日占領期は勿論のこと、

日本が独立を回復した後も、引き続き日本を「勝者」の目から

ながめており、かつて戦場だった沖縄は勿論のこと、日本を、

あたかも自分の家の「裏庭」のように米国の一部と見做していた。

そして、米政府は、日米2国関係において、「日本問題」を、

米国の思い通りに処理出来ると信じて疑わなかった。

軍部も激戦の末占領した「沖縄」を手放すことなど一瞬も

考えていなかった。そういうわけで米国防省内部では

「沖縄は米軍が大変な犠牲を払って確保した島である。

せっかく多大の犠牲を払って確保した東洋一の工業国だ。

なんでみすみす手放せようか」といった発言がしばしば

聞かれた。

しかし、米国が第二次世界大戦の主要な戦勝国であった

とはいえ、「沖縄」占領統治、ましてや沖縄の領有問題

となると、ことは想像するほど単純ではなく、ハードルは

極めて高かった。筆者は、「沖縄問題」を複雑かつ難しく

している要因の一つに、米国がそれまで辿ってきた膨張主義

の歴史とその影響があったと考えている。

その影響力の一つは、建国にまつわる米国の国民国家としての

アイデンティティの問題であった。英帝国の植民地であった

米国は、戦争(武力)によって独立を勝ち取った。当時、ヨーロッパ

諸国の大半が君主国であったのに対して、米国は君主を持たない

共和国としてスタートした。米国は、共和主義と「反帝国主義」

を自画像として大切にしてきた。19世紀に入ると、米人口の自然

増加に加え、ヨーロッパ各地からの大量の移民が米国に流入する

ようになった。それに伴い、東北部から西部への国内移住、すなわち

西漸運動が高まった。西方に広がる広大な土地への欲求が国民の

間に強まる中で、米国は「マニフェスト・デスティニー」の掛け声

の下に隣国メキシコと干戈を交え、その結果、136万平方キロメートル

の広大な領土(現在のテキサス州、コロラド州、アリゾナ州

ニューメキシコ州、ワイオミング州の一部およびカリフオルニア州、

ネバダ州、ユタ州の全域)を手にいれた。

歴史研究者の間では、19世紀は帝国主義の時代であると言われている。

米国人が自国のアイデンティティとして「反帝国主義」の自画像を

抱いていたにせよ、米国のメキシコに対して取った行動が、ヨーロッパ

帝国主義国のそれと何ら変わるものではないことは、誰の目にも

明らかであった。確かに、米国は力を行使して欲望を満たすことは

出来たが、しかし、それによって大きなジレンマに陥ることに

なった。それは、いかにして米国は反帝国主義国家としての自画像に

傷を付けることなく、国民の更なる領土欲求を満たすかという問題

であった。


したがって、米国は何としてでもその解決策を見つけ出さなければ

ならなかった。そして、米国がたどり着いた苦肉の策は、敗戦国メキシコ

に1500万ドルを支払うとともに、メキシコの対米債務325万ドルをも

帳消しにするということであった。そして、それへの「同意」を

メキシコから得た証拠として、契約の形でグアダルーペ・イダルゴ条約を

結んだ。米国は、通常、賠償金を受け取る側の戦勝国でありながら、

メキシコに「贖罪金」を支払い、反帝国主義国としての米国の自画像と

アイデンティティを守ろうとしたのである。加えて、キリスト教国と

してメキシコ国民に対する「罪悪感」や「良心の呵責」を多少とも

和らげようとした。

さらに米国は、1898年の米西戦争の際にも、米墨戦争の時と同じ

ような行動を敗戦国スペインに取っている。米西戦争後、米国は、

スペインの領地であったフィリピン諸島を領有する際に、パリ講和

条約(1898年)及びワシントン条約(‘1900年)を結び、スペインに

1000万ドルを弁済することに同意した。そうすることによって、

米国は、本来ならば「帝国主義」との批判を受けることになる

「海外領土の領有」への贖罪に努めた。

同時に、米国の海外膨張主義の動機が、ヨーロッパ帝国主義

のように搾取と「利己主義」にあるのではなく、「現地人を

教化」し、「文明を伝播する」という純粋な目的と利他主義に

あると主張して、米国とヨーロッパ帝国主義との違いを強調した。



第3部   ・自発的隷属の固定化ーーより

p89   ライシャワーと日米新時代

🛑  「60年安保」闘争は米大統領訪日中止を余儀なくさせただけ

ではなく、岸内閣を退陣に追い込んだという点で、私たちの

記憶に残る大規模な大衆政治運動であった。さらに、「60年安保」

闘争は、政府の多くの指導者を含む、当時全米で屈指の知日派

として知られていたライシャワーにとっても、彼の対日認識を

大きく揺るがす大事件であった。

ライシャワー教授は、安保騒動の事件をとりあげて、1960年に

「日本との断たれた話」(The Broken  Dialog with Japan)という

題の論文を「フォリン・アフェアーズ」に投稿した。彼は、安保

騒動を戦後日本史における重要な転換点であると同時に、「戦後

日本の政治と日米関係にとって最大の危機」と位置づけた。

ライシャワーは、安保騒動の原因を、日本についての米国側の

情報不足とアメリカ大使館の人材不足にあると捉える一方、

安保騒動を日米騒動の「最大の危機」と呼んだ。・・・

さらに、大使館の人材不足の問題に加えて、ライシャワーは、

アメリカ大使館の態度や姿勢にも問題があると考えていた。それは、

アメリカ大使館が「安保反対」を叫ぶ日本人を十把一絡げに

マルクス主義者とみなし、彼らに対して剥き出しの「パワー

と敵意」、それに反共産主義を露骨に表した形で応答していた

という点であった。そのような対応はマッカーサー・ジュニア

駐日アメリカ大使の場合、特に顕著であったという。

ライシャワーは、そのような対応の仕方では、親米的に

なる可能性のある多数の日本人を反米に追いやってしまうだけ

でなく、彼らを共産主義陣営に追いやってしまうことになると

心底から心配していた。

ライシャワーは、「安保騒動」によって露呈されたアメリカ大使館の

諸問題を是正するには日本の国民との幅広い接触が重要かつ必要と

考えた。・・


p92   ライシャワー米大使の課題

ライシャワー米大使は、東京での記者会見において、「米国が世界各地に

軍事基地を展開するのは世界平和を維持するためであり、それは米国

及び世界に脅威を及ぼしている好戦的な勢力に対抗する防衛的な性質の

処置である」と説明し、米国の動機の純粋性を強調した。そして彼は、

日本の左翼系知識人が、米軍基地の世界的展開を帝国主義だとか

「基地租借帝国」だと決めつけ、米国の善意や動機の純粋さを理解も

せずに米国を批判し、誤解していることを大変残念がっていた。・・

ライシャワーと同じく、日本専門家のファーズも、日本の知識人に

大いに失望していた。ファーズによると、日本の知識人は60年の

安保条約の改定が世界平和を希求する米国の「善意」に基づいたもの

であることを理解していないということであった。加えてファーズは、

日本を共産主義の侵略から守り真の中立と独立を維持するためには、

再軍備するしか選択肢はないことについて真剣に考える知識人が皆無に

近いことを大変残念に思っていた。・・

更にファーズは、「もし米国民や議会が日本国内での発言や出版の内容を

もっと知っていたら、日本の貿易は深刻な影響を受けていたかも

しれない。日本がある程度守られているのは、米国が(その内容を)

知らないからである」と日記に書き記した。ところで、ファーズの

この発言は、米国民の多くが日米安保条約を「一方的に日本に有利な

条約」と見ていたことを示唆している点で興味深いと言えよう。

というのは、日本の国民も少なからず日米安保条約に対して被害者意識

と不満を抱いており、日米両国民の間にはある種の「認識のずれ」と

「相互不信」の溝を見てとることが出来るからである。


p94    ライシャワー大使の安保条約観

ライシャワーが、(1960年の新安保条約の改定を)「経済的にも、

政治的にも、軍事的にも米国や自由世界にとって年を重ねる度に

日本の重要性がますます明らかになってきている」との現状認識を

述べた後続けて、なぜならば、在日米軍基地および在沖縄米軍基地

が利用できて初めて、東アジア全域に対する米国の軍事プレゼンスの

実効性が発揮しうるからだ、と持論を力説した。・・(中略)

要するにライシャワー大使は、日本本土と日米新時代(1960年代)に

おける米国の最重要課題は、日本と「長期にわたる恒久的安全保障協定

を結ぶことであると考えていた。そうすることで、米国は日本から

「自発的な対米協力を引き出すことが出来るというのであった。

ライシャワーは、「(在日米軍基地の自由使用を可能にする)日米安保

条約の効果が発揮されるには、一にも二にも日米安保条約に対する

日本国民の圧倒的な支持が得られるか、そして、国民の支持を維持

できるかどうかにかかっている」と考えていたからである。また、

1960年の安保騒動が立証したように、国民の支持は得られて当然

とこれまでのように軽く考えてはいけない。努力して勝ちとらなくては

ならないものである」とライシャワーは考えていた。・・

ライシャワーが、日本国民との幅広い「対話」をいかに重視して

いたかは、ハーバード大学時代からの友人ファーズを、駐日アメリカ

大使館文化広報担当官に起用したことにもよく表れていた。

というのは、それまでは政治担当と経済担当の2名の公使が

起用されていたが、ライシャワーが大使に赴任してからは、

広報文化担当の公使が新たに加わり、政治、経済、広報、文化担当の

公使からなるトロイカ体制が採用されたからである。



p98  「イコール・パートナーシップ」の構想

ライシャワーが発信した「イコール・パートナー」のメッセージは、

(日本国民に向けて)これまでの対米依存の生き方を見つめ直し、

これからは日本人が責任感の強い国際人に育ってほしいと願う彼の

熱い思いが込められていた。というのは、ライシャワーは、日本国民が

近視眼的で国際問題にも現実的に対応できないこと、さらに、日本政府が

「弱者の恐喝」の手法を使って米国から多くの資金、情報、技術を手に

入れ、米国に全面的に依存していることを、これまで嫌というほど見て

きたからであった。・・

他方、ライシャワーの米国民向けのメッセージには、日本人を米国の

真の「イコール・パートナー」として対等に扱うよう、これまでの日本人

に対する態度を今一度見直すことへの期待がこめられていた。

一つは、日本人に対して父親のように振る舞うパターナリズム(温情主義)

の言動や、日本人を見下したような態度が対日占領期の米国人にしばしば

見受けられたことが挙げられる。もう一つは、今や日本の経済が、

北アメリカ経済と西ヨーロッパ経済と共に、自由世界の3大コンビナートの

一つに位置づけられていることから、日本をこれまでのように軽く扱うわけには


いかないという現実があった。さらにイコール・パートナーの言葉は、経済成長の

真っ只中にあって敗戦からようやく立ち直り自信を取り戻してきた日本人の

耳に心地よく響いただけでなく、「日米対等」を意味する「パートナー・シップ」

は、日本国民の自尊心をおおいにくすぐる言葉でもあったからである。


(日米のイコール・パートナーシップの具体的な中身を彼は明確に述べていないが、

この関係は)1970年代から2010年代にかけて厳しい試練に遭遇することになる。

それは、田中角栄内閣による1972年の日中国交正常化外交と、翌年の日本独自の

資源供給を目指した資源外交、それに2010年の民主党鳩山由紀夫内閣による

「普天間基地取り扱い問題」の形で現れることになる。イコール・パートナーシップ

の「自覚と責任」が何を意味していたかを理解するには、米国の対日政策が「善意

からではなく明確に自覚した自らの利益に基づいたものであり、その主たる目的

が「日本の行動の自由を制御し、日本を米国の管理下に置くこと」にあったことを

今一度想起する必要があろう。

ライシャワー米大使の計画が、親米派と国民との対話を通して新しい日米関係の

中立主義への傾斜に「歯止めをかける」ことにあったことはすでに述べたとおりである。

しかし、後にライシャワーは、そもそも3委員会(経済、文化、科学)の合同委員会の

設置の動機が「日本人の神経を逆撫でしかねない日米関係の軍事色を薄める」点に

あったことを彼の「自伝」の中で明らかにしたのである。



p173  「日米関係の人間化のために

🛑  日米関係の人間化(humanization)を促進するための筆者の提案内容は

次の通りである。

一つ目は、米国民とのコミュニケーションの対象を、首都ワシントン行政府の

高級官僚や政治家に限定するのではなく、連邦議会議員の選挙区が点在する

全米各地の有権者まで広げることが重要と考えている。そうすることで初めて

コミュニケーションの輪が多くのアメリカ市民、大学教員、大学生などにも

広がっていくことが期待できよう。

2つ目は、そのためには、すでに説明したように、日米関係を含む国際問題

に関心を抱いている日本国民、とりわけ知識人や文化人は、自分の意見を

英語で分かりやすく表現し、それを著書にするなり、論文にするなどして

発表し、まずはアメリカ市民に自分の思いを届けることである。自分の

意見を発信する際には、アメリカ留学やさまざまな日米交流活動を

通して築いた人的ネットワークは網の目のように全米各地に張り巡らされる

ことになり、それを通してアメリカ市民の日本理解が深まっていくことに

なろう。一部の国民の間には、「米国は一旦言い出したら他者の意見に

耳を傾けるどころか、どんなことがあっても意見を変えない国だ」といった

歪んだ米国の固定観念が見受けられる。しかし、米国には外国人の意見に

真摯に耳を傾け、真剣にそれから学ぼうとする良心的な人も多いことを

筆者は体験上知っている。

私たち国民がそのような地道な努力を重ねていけば、諸外国から見て

負の結果を齎しかねないと思われる、自国中心的、あるいは「独善的」

とも受け止められかねない米国の行動に歯止めを掛けられるかもしれない。

あるいは全く不必要と思われる軍事力の行使を米国に思いとどめさせる

ことになるかもしれないからである。そのことは、短期的および中・長期的

には米国の大国としての信用低下を未然に防ぐことになり、それが究極的

には米国の国益に資することにもなるであろ。さらに、そのことは、「自分の

意見を述べない」、「のべたがらない国民」、「いつまで経っても自国の

意見を持たない国」、「主体性に欠ける国」、「自国の行動に責任を

持てない自治能力に欠ける国」、「真の主権国からは程遠い国」といった

日本に関する否定的な固定観念や偏見を大きく変えることにも繋がるであろう。



p176  新たな価値の発見へ


🛑  私たちは、国の安全と平和維持のためには、半ば諦めの境地から核の

抑止力に依存することを仕方のないことと受け止めてはいないだろうか。

私たちは、「核の抑止力」に代わる新たな「価値」と「術(すべ)」を創造

する十分な努力をし続けているだろうか。それとも、核の抑止力に依存

し続け、その虜に堕してはいないだろうか。・・

これからも我が国が、国際社会の品位ある国として尊敬されたいと願う

ならば、私たちは世界の多種多様な人々が抱えるニーズや問題に取り組み、

国際社会の一員として無理のない範囲でしっかりとその責務を果たして

いくことが大切であると考えている。・・

現在の私たちが選んでいる選択肢と姿勢は、私たちを当事者意識の希薄な

弱々しい国民にしてはいないだろうか。別の表現をすれば、本来、「自由」

とは常に人に緊張をもたらすものである。それゆえに、自由をかけがえのない

価値と考える人たちは、模索し、考え抜くことにより今よりも一段と民度の

高い成熟した人間に成長するのではないだろうか。

***************************************************************

🦊:   「日米関係の人間化」の章で述べられたように、この書物が

一日も早く英訳され、巨大な「島国」アメリカの人々に読まれるようになる

ことを、キツネも願っている。



10月27日

11月初め      リュウノウギクが咲き出した。

南の軒下で、日照は半分ほど。足りない分は

ガラス戸からの反射光で、十分補っているらしく、

毎年よく咲いてくれる。

咲き初めのちょっと不揃いな花びらと、風に

揺らぐ細い茎が野草らしい美しさなので、

肥培はしない。