昭和の妖怪岸信介





最近の山口県の自民党候補が出した宣伝ビラに、岸一族の家系図が載せられ、

この候補者が由緒正しき家柄の出であることを、ほこらしげな、物欲しげな、

いかにも長州「正論」派らしい政治姿勢がミエミエであった。

そこで、長州人の岸信介がどうやって戦犯として絞首刑を逃れ、のちに首相

にまで登り詰めたか、また、そもそも彼が満州で何をしていたか、を学んで

みたい。


「昭和の妖怪」岸信介
 
岩見隆夫  著   2012年中央文庫  刊  (再販)


🦊 ものの本によれば、岸信介は切れ者(頭脳明晰)で、凄い人繰り(人をたらし込んで、

味方につける)であるらしい。

また、東条のような無邪気さ(天皇崇拝の真心をかくそうともしない)とは正反対に、

己の数十年先の運命をも計算してして行動する、コンピューターのようなひとであった

ともいわれている。

東京裁判で彼が免責されたのは、自分が開戦命令を発したのでもなく、軍を動かす立場

にはない官僚に過ぎず、戦争に「賛成」しただけであって、「首謀者ではない」こと、

つまり天皇を免責したのと同じ理由かららしい。

では、彼は満州で何をしたのか。



🔴  p62   「満業」の成立

岸は関東軍と固く結びつき、軍部との人脈を広げることに熱心だったが、満州の土地にも

人にもほとんど愛着を示さなかった。岸にとって満州は経営と統治の対象であり、次の

ステップへの足場ではあっても、馴染む場所ではなく、いわんや骨を埋める気などなかった。

昭和12年7月岸は総務庁次長として渡満する。総務庁長官は星野直樹、当時の国務総理は

張景恵(チョウ・ケイケイ)である。

ここで、満洲国の機構に簡単に触れておくが、形式上の主権者は皇帝で、溥儀(清朝の廃帝)

がその地位にあった。皇帝の下には一応国務院(行政)、立法院(立法)、監察院の3院政が

布かれた。しかし、立法府は一度も開かれていない。・・・

国務総理は皇帝を補佐する唯一人の国務大臣だった。国務院には実業部(のち産業部)、司法部

などの部制度が布かれて、それぞれ大臣と呼ばれる満州人がトップにすわったが、実権は

日系管理の次長が握り、各部の次長会議が事実上の閣議となった・・・

総務庁長官は、実質的には総理大臣にあたる。事実上の副総理である総務庁次長に収まった

岸が取り組んだのは、産業開発5か年計画の実施だった。・・・

日支事変が勃発し、「独走する関東軍」のすがたはますます鮮明になっていた。東京では、

戦時体制に備えて、企画院が設置され、満州の産業5ヵ年計画も、戦時物資動員計画へと

次第に性格を変えていく。

だが、当時の満州の産業開発システムは、戦時に不向きだった。昭和8年に満州国経済建設

要綱ができて以来、1業1社方式による特殊会社制度を中心として開発は進められていた。

それを近代的な重工業国に切り替えていくには大手術が必要である。「というのは、一方に

国策会社、満鉄が8億の巨資を擁して厳然とかまえている。他方には満洲国の産業統制方針

というものが目を光らしている」という状態だった。(中央公論12年12月号)


🛑「当時の満鉄の総裁は、松岡洋右氏だった。松岡氏も鮎川義介(日本産業=ニッサン)

もまた岸君もみんな長州の出身であり、しかもよく知っている親しい間柄であった。

二人は同じく長州の秀才として、幼児から郷里の先輩に注目され、相並んで世に出てきた。

ニッサンの満州進出に、岸君が参画し、大いに力を尽くしたことは疑いのない事実である」

(星野直樹『岸信介来たりまた去る』より)


「2キ3スケ」のうち、2キは政治の実権を握り、3スケは経済、産業の実権を握っていた。

この3スケがいずれも長州人で、・・・この3人の関係抜きで『満業』設立の真相を理解

することはできない」(阿部慎之助『岸信介論』)という見方は迫力を増してくる。

🛑  昭和12年10月29日、『満業』の設立は日満両国から一斉に発表された。こうして

日産は商号を満州重工業開発株式会社『満業』と改称、資本金4億5千万円、満州国政府と

日産が対等出資する国策会社として、満州にデビューしたのである。それ以後の『満業』

の歩みは、満洲国の運命と同様、苦渋にみちていた。鮎川が最初に構想したアメリカからの

資本導入は、日中戦争で日本に対する世界の風当たりが強まり、怪しくなった。

3年後、駐満ドイツ公使ワグネルが持ちかけた「満州の大豆」と」「ドイツの機械」との

バーターも、対英作戦の戦備充実が第一だとするヒトラーの反対にあって、破談におわった。

鮎川は、ドイツからの帰途、「諸事、満州行きの初志は期待を裏切られ、私は完全に満州に

望みを失った。満州に見切り
つける決心をしたのはこのときである」と書いている。(私の履歴書)


p75  岸の資金ルート

岸が役人離れしたスケールで満洲国を切り回し、人脈を作ることができたのは、十分な資金の

裏打ちがあったからだと見るのが自然である。在満期間よりはかなり後のことになるが、

いわゆる『細川日記』の昭和19年9月4日付の記述が、岸とカネの関係をたどる場合、極めて

示唆的だ。

「岸は在任中数千万円、少し誇大に言えば億をもって数える金を受け取りたる由、しかもその

参謀は皆鮎川にて、星野もこれに参画しあり。結局この2人の利益配分がうまく行かぬことが

東條内閣瓦解の一つの原因であった。さすが海千山千の藤原銀次郎が驚いて話していた」

とある。日記の筆者、細川護貞は肥後(熊本)藩主、細川家の当主で近衛文麿の女婿。

近衛の秘書もつとめ、東條内閣の頃は高松宮殿下に各方面の情報や意見を伝える役目をした。

東條と岸が対立し、それが東條内閣崩壊の誘因になったことはすでに知られており、岸自身も

「私はサイパンの決戦の前に『とにかくサイパンで最後の決戦をやられてはどうですか。

全てをあげて』と言ったら『そんなことは統帥の問題であって、お前ら文官にわかるものでは

ない』『いや、わかるわからないじゃなくて、軍需生産に責任を持っている者から言うと、

もしサイパンがとられたら、B29が毎日、日夜を問わず日本を襲撃するだろう。そうすると

軍需生産は出来なくなるんだ』、『そんな大事な工場はみんな地下に埋めろ』『あなたはそう

言われるけれど、そんなことは1日にしてできるものではない。だからこそここでサイパンが

とられたら、どうにも手がつかんじゃないか』こんなやりとりになった」「サイパン陥落の後、

『この戦争の状態を見ると、もう東條内閣ではどうしようもない。だからこの際総理が辞め

られて、新しい挙国一致内閣を作るべきだ』ということで頑張った」(岸信介回顧録)と

自慢げに語っている。この記述について、1941年の衆議院予算委員会での社会党議員の

質問に対し、当時総理大臣の岸は頭から否定した。・・・

満州時代から岸と東条の仲が深かったことは知れ渡っていたが、細川日記の昭和19年10月16日

付けの箇所に、次のように書かれている。「朝K君を訪問、談たまたま東条に及びたるに、

彼は昨年、中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直ちに重役以下釈放と

なりしことあり。これはその金が東条のものなりしをもってなりとのことにて、以前より

里見某なるアヘン密売者が、東条にしばしば金品を送りたるを知りおるも、恐らくこれならん

と」ここでは東条の金脈ルートが中国に関係しているらしいことと、アヘンとの絡みが臭って

くる。



p79  甘粕正彦に1千万円を調達

🛑  「カネ作りとなると、たいていの場合は岸さんに頼もうということになりましてね」と

言いながら、古海忠之(フルミ・タダユキ=大蔵官僚。20年から満州国総務庁次長)が明かした

秘話は極めて示唆に富んでいた。「たとえばこんな話がある。甘粕正彦の排英工作・・

要するに特務(スパイ)だな。この甘粕のために岸さんが1千万円作ってやったことがある。実は、

私たちは妙な会を作っていた。メンバーは岸、甘粕、椎名、鮎川、大蔵入省同期の青木実

(満州国経済部次長、戦後は合同証券会長)、飯沢重一、それに私など10人ぐらいで、岸さんと

甘粕が中心だった。会の名前はなかったが、アジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどう

あるべきか、ということを皆で話し合っていた。懇談だけにとどまらず、具体的な行動もとった。

日本の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕の中国での排英工作を支援したりした。そういう意味では

  1. 会というより派と呼んだ方がふさわしかった・・

「そして甘粕の排英工作のことですが、この工作の必要性は岸さんも認めていた。ところがその

ための資金が足りないという問題があった。甘粕は沢山の資金を持っていたが、使う方もバカ

大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールを持ってましたね。大量の工作資金を必要と

するのに、甘粕は決して自分で資金作りをしない。そのため、ずいぶん私どもも甘粕のために

資金作りをしたものです。

甘粕は総務庁の機密費を使ったのだが、星野さんが総務庁長官になって「機密費の流用はまかり

ならん」ということになり、甘粕は排英資金の調達に困ってしまったわけです。それで甘粕に

頼まれて私が岸さんに取り継いだんです」

古海の記憶によれば、その時の岸とのやりとりはこんな調子だった。

「甘粕が困っている。1千万円必要だと言っている」

「何か担保はないか」

「鉱山の採掘権を持っている」

「そうか、採掘権さえあれば大丈夫だ。それぐらいはたいしたことではない。いままで一度も

鮎川から絞ったことがないから、あの男から取ってきてやる」

「とにかくそれだけの大金(今のカネにしておよそ百億円)の資金作りをあっさりその場で引き受け

たのです。結局岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を1千万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の

功労で、関東軍からあちこちの鉱山の、採掘権を貰っていたのです。その後、鮎川は岸さんの

斡旋で甘粕にカネを出し続けていました。

ここに登場する甘粕というのは、関東大震災のとき、無政府主義の大杉栄を殺害したことで有名

な陸軍憲兵大尉甘粕正彦である。事件のあとフランスに亡命し、その後どういう経緯からか満州

に腰をすえ、国づくりに参画した。当時の満州を知る人たちのあいだでは、甘粕の人物評価は

大変に高く、特殊な実力者だった。満州映画協会(満映)理事長、満州国政府顧問などに就任して

いる。やはり岸の部下だったAによると、甘粕は「とにかく、大変な文化人だったですよ。いつも

女優がそばにいてね。満映の他にも謀略もやっていたんです。・・大東公司なんていうダミーを

作ったりしてね。まあ、満洲国の陰の帝王ですよ。それと、軍事内閣(東條内閣?)のスポンサー

でもありましたね」



p84  アヘン・のルートの謎

🔴 とにかく、甘粕をめぐる膨大なカネの流れに、東條、岸らが介在していることは確かだが、

出入りの関係は複雑に交錯しているようではっきりしない。・・・

さらに福家俊一がもたらした次の話は、古海証言と食い違う部分もあるが、重要である。

「それと甘粕はカネが有り余って仕方がないほどだった。岸さんが1千万円作ってやったなんて

信じられんな。それは満映設立資金のことじゃないか。あれが確か1千万円だったはずだ。

理事長に甘粕を据えたのは岸さんだったからね。とにかく甘粕がカネに困ったなんてことはない。

というのは、実はこれは極東軍事裁判でオレも国際検事団からさんざん調べられたことなんだが、

アヘンの上がりが莫大だったんだ。甘粕さんは、里見某という男が上海でアヘンの総元締めを

やっていた。このアヘンはインドのベルナス・アヘンで、英国の軍艦が堂々と上海に陸揚げ

するんだ。臨検などできやしない。それを里美に売る。英国にとっては大きな財源だった。

英国は国際連盟で『アヘンは人類の敵だ』なんて叫んでいながらウラでこんなことをやって

いたんだね。これこそ国際的謀略だよ。それはそれとして、その莫大なアヘンの上がりが

軍事機密費として使われた。関東軍が1株、満州国政府が1株という形で、甘粕もその1株を

もっていた。それが当時のカネで月80万円にもなった。月にだよ。だから甘粕は満洲国の

役人や軍人が内地へ出張するときには、飲むなら赤坂の『長谷川』、泊まりは帝国ホテル

に行けという調子で、後から一括して支払ってやっていたほどだ」

さらに里見某の名前は極東軍事裁判にも登場した。昭和23年2月の法廷において、国際検事団は

A級戦犯容疑者,星野直樹の罪状朗読の中で、「1939年から1945年まで、北支派遣軍の下で、

中国においてアヘン作戦を実行した証人サトミは、1940年まで彼によって販売されたアヘンは、

ペルシャ製のものであったが、その後彼は満州産アヘンを販売した」と述べている。また、

この法廷で検事団は、「1939年、奉天総領事は、この年の売却額は9090万8000円に

累積したと報告し、アヘンは関税に次ぐ満洲国の財源であることを記している。彼は1940年に

おける生アヘンの買い入れは4347万円に達するであろうこと、また純益は5600万円と評価

されると述べた」と追求し、証拠書類、供述調書などを提出した。アヘン資金は、満洲国の

経営に深く根を張っていたのである。

中国経済史研究家、小島麗逸はアヘン・ルートの1つをこう説明した。

「問題は機密費です。これは仮説ですが、機密費がアヘンの利益によって賄われている疑い

が濃いのです。当時、満州には中国から沢山の労働者が出稼ぎにきていました。一番多く

送り込んでいたのは山西省で、ピーク時には年間100万人くらい来ています。ところが

彼らは劣悪な環境の中で沢山死んでいきました。死ぬとたちまち衣服を剥がされ、金歯も

抜かれる。これは仲間たちが奪ってしまう。しかし、遺体は中国では土葬の習慣があるので、

貨車に積んで故郷へ送るんです。その時に遺体の腹を割いて、熱河省で採れた生アヘンを詰める。

現地にももちろん受け手が居て、これを取り出す分けですね。こういう仕事を関東軍の

特務機関の連中がやって利益をあげていた。このカネが回り回って、満洲国政府の日本人官吏の

機密費に流れた可能性が強いんですよ」

当時、満洲国尉安県の副県長でアヘン撲滅に当たったという藤川宥ニ(国際善隣協会理事)は、

アヘンの実態について、「とにかく、あの頃の中国人の半分は、アヘンを吸っていました。

ことにインテリはほとんどで、役人でも大臣までがタバコのように吸っていたんです。だから

醒めてくると仕事にならない。これはやめさせなければ、と行政の末端で、それこそ命がけ

で撲滅しようとしましたよ。禁煙総局をつくり、栽培を縮小し、専売にしてその益金をアヘンの

禁断政策につかうことにしたわけです。それで、一時はいいところまで行ったんです。

しかし戦争になってしまってダメになりました。謀略、機密資金を簡単に作るにはアヘンが

一番です。戦争になれば禁断政策などはお構いなしですよ。熱河省のアヘン栽培も復活しました。

しかしそれは満州国内ではなく、南方へ持っていって売るわけです。上海や香港に持って行けば

華僑が多いですから、莫大な利益になったはずです」

以上の証言で見ると、一方では英国から里見某を通じて甘粕に入るルートと、満州国政府が

熱河省産のアヘンを、南方で密売していたルートの少なくとも2つの筋から満州を舞台に

想像もつかない巨額のヤミ資金が渦巻いていたということは間違いないようである。

🦊  昭和20年8月、終戦とともに、甘粕は青酸カリを飲んで自殺。



p102   つらぬいた「日本のための満州国」

🔴  岸信介は昭和11年10月満洲入りをはたし、その在満3年間は、(満洲国の寿命である13年の)

真ん中にあたる。・・・

満洲時代の岸の生き方は、まさしく独善の匂いが充満していた。岸が手がけたことは、全てに

ついて和平と逆の戦争遂行の道に繋がり、満州は岸という才知長けた妖怪人間を抱え込むこと

によって、後戻りの利かない消耗戦の先進基地に仕立て上げられていく。


多くの満洲為政者の中でも、とりわけ岸は徹底して東京向きの姿勢を崩さず、「日本のための

満洲」を貫いた。彼が強力に推進した開発と統制経済の施策は、関東軍を奮い立たせはしたが、

土着の満州人は、塗炭の苦しみに追い込まれることになった。満州国総務庁の法政処参与の

証言によると、

「岸さんは満洲産業建設を進めるため、沢山の特殊会社と法律を作った。日系官吏には法律を

沢山作ってそれを武器にするという傾向があって、中国人から『法匪』(ホウヒ)と嘲られるほど

でした」という。法匪によって、満州に作り出された窮状は、極東軍事裁判におけるキーナン

主席検事と元満州国皇帝、溥儀との質疑によると、次のようなものだった。

キーナン検事ーーあなたは専売法によって規制されていた日用必需品、すなわち日本軍によって

専売されていた日用品の名前を挙げることができますか」

溥儀証人ーー専売されていた最も主なものはアヘンでした。その他、例えば綿花とか糧食という

ような種々雑多なものが専売されておりました。統制経済が行われてから、一切の物資は日本人

によって接収され、鉱業あるいは工業などは全部日本人によって統制され、中国人は経営する

ことが出来なくなりました。

キーナン検事ーー綿布統制法は実際的に、強制的に実施されたものですか?

溥儀証人ーーこれらの統制法は全部実施されて、その結果中国人は冬になっても綿や綿布を手に

入れることが出来なくなったために寒さで多くの人が凍死し、あるいは病気になるような状態

でした。私が個人として聞いたところによると、この統制あるいは配給などによって、中国人が

白米を売ると、そういうこともまた法を犯すということになりました。・・

キーナン、溥儀のやりとりはまだ延々と続くが、ともかく在満日本人の非情と楽天主義は、

満州を異様な国に変えていった。岸はそのシンボリックな存在であり、あらゆる面で推進者

だった。小坂正則の、「満鉄の最後の総裁だった山﨑元幹という人が4年くらい前に亡くなった

が、この人は克明に日記をつけていたらしい。それらが発表されるのを嫌った旧満州の関係者が、

日記を遺体と一緒に墓に埋めてしまった」という証言は、そうした異様さのカゲを今日まで

引きずっていることの査証である。満洲での特異な体験が白日の下に晒されるのを、かつての

在住者たちは歓迎していない。また、満洲時代の岸を追ってみて、発見したことの一つは、

関係資料、記録類がほとんど残されていないことだった。岸自身の証言も皆無に近かった。

『日本帝国主義下の満洲』を書いた近現代日本経済史家の原明は、「私も実は満洲時代の岸に

ついて調べてみたいと思い、ご本人にも面会を申し込みましたが、断られた。椎名さん

(🦊 椎名悦三郎=満洲時代の岸の腹心の部下。第二次岸内閣で通産相など要職を歴任)には

会えたが、肝心のことになると固く口をつぐんでしまって、結局目新しいことは何も出て

きません。満州を考える場合、当然旧満洲国政府のことは欠くことが出来ないのですが

どういうわけか昭和11年から14年までの関係文書だけが散逸していて、研究者としては

怖くて手がつけられないのが残念
です」と語り、同様の嘆きは何人かの研究者からも聞かされた。



p107  政治資金は濾過器を通せ

🔴  昭和14年10月、満州を去るにあたって、42歳の岸は2つの注目すべき発言を残している。

その一つは別れ際、岸の部屋に集まった武藤富男ら数人に、何を思ったか政治資金の

作り方を一席弁じた。

「政治資金は濾過器を通った綺麗なものを受け取らなければいけない。問題が起こった

時には、その濾過器が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいる

のだから、関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過器が不十分だから

です。・・・

満州時代に濾過器のトレーニングを終了したことの、得意な宣言なのか、満州を離れる

開放感から本音が出たものか、今日の岸にまつわるあれこれを理解する上で、40年も

前に岸の口から漏れた濾過器発言はまことに暗示的である。そして、今にして思えば、

満州全体が政治家岸を産み落とした濾過器であり、「岸のための満州」だったことが

理解できるのだ。岸式の濾過器は、性能が良好と見えて、これまでのところ田中角栄の

ようなミスを犯すことなく岸は「きれいな水を飲み続けているということだろう。

しかし、岸とカネの疑惑、あるいは癒着問題になると、証言者には、次のような

弁護論が多かった。

「岸さんのカネの使い方を、世間でとやかく言う人が多いが、それは見当違いだ。

自分のためにカネを使うことは少ないですよ。親分肌のためにかえって損をしている

くらいです。・・彼は国士です。ゼニ、カネで政治をやっているのではない。(松田令輔)

同じような「世話好きな岸」の証言をたくさん聞いた。そのなかで異色は、戦後の日本に

亡命していた韓雲階(カン・ウンカイ=元満州国政府経済部大臣)、帳燕卿(チョウ・エンケイ

=同実業部、外交大臣)、汪兆銘政権の高官、趙毓松(チョウ・イクショウ)の3人の生活を

岸は30年にわたって見てきたというのである。松本益雄はそのいきさつを次のように

説明している。

「もともと私は中国が好きだったし、戦後感ずるところもあって、余生は日本に亡命

してきた中国人たちを世話することに捧げようと決心しました。それで昭和25年に

韓さんが亡命してきたときに、門司の家を引き払って東京に移り、本格的に取り組む

ことにしたのです。すぐあとには韓さんを頼って張さんや趙さんもやってきた。・・

しかし、私ひとりの力では無理なので、満州に縁のある岸さんに頼みに行くと、快く

協力してくれました」

岸弁護、岸びいきが少なくない一つの理由が、こうしたノーと言わない岸のこまめさに

あることは確かだろう。複層のうちの陽性の一面である。


p111   満州国は私の作品

🛑 満州を去るにあたっての、今一つの発言。岸は林銑十郎内閣の商工大臣、悟堂卓雄

から次官として呼び出され、10月19日大連港の埠頭から乗船するにあたって、記者団に

次のような離別の言葉を述べた。

「出来栄えの巧拙は別にして、ともかく満州国の産業開発は私の作品である。この作品

に対して私は限りない愛着を覚える。生涯忘れることはないだろう」

私の作品という、刺激的な言葉に対して、岸を知る証言者たちは一様にある種の戸惑い

を示した。武藤富男は、「それは言い過ぎです。岸さんの大言壮語ですよ。彼も自分なり

に全霊を打ち込んだことはその通りですが、何と言ってもその時間はわずか3年にすぎ

ません。彼は関東軍の圧倒的な力を背景として飛躍しただけで満州に骨を埋めるつもり

ではなかったことは明らかです。彼が力を発揮できた範囲というのは行政に限られて

いたのですから。そんな大ボラを言うと、満州に理想郷を作ろうとして、最後は切腹して

果てた男たちに相済まないと思いますよ」と反発した。また古海忠之も、「ちょっと

言い過ぎですね。満州の国造りへの基礎的努力という点では、やはり星野さんの存在が

大きかった。まだ満州の基礎さえ固まっていなかった頃に、星野さんや私もその1人ですが、

大蔵省の一団を連れて行って国造りをはじめたのです。しかし、5か年計画の実行

の段階で、どんどん法律を作って、これを推進したという点では、作品と言っても

いいかもしれない」と部分肯定の反応をした。古海のような意見を述べたのは、木田清、

前野蕃、松田令輔など、かつての岸の部下たちに多かった。

「そんなことは言えないな。計画そのものは陸軍省や関東軍があらかじめ基礎案なる

ものを作って、具体化の段階で岸が参加してきたわけだからな」と頭から否定して

かかる者もいて、「私の作品」発言の波紋は、なかなかデリケートなのである。

だが、それらよりもはるかに強烈に迫ってきたのは、武藤富男が証言の最後に付け足した

次のような武藤と星野の問答である。

「私が昭和19年7月、東条内閣が崩壊した直後、星野さんを訪ねた時、星野さんは、

私に、『岸は先物を買った』というのです。『どういうことですか』と尋ねると、

星野さんは『東條内閣を岸が潰したことだ』とだけ言って、どうしてそのことが

先物を買ったことになるのかについては何も言わないのです。戦後、再び星野さんに

会った時、もう一度『先物を買ったというのは、岸さんが敗戦を予期していたこと

なのですか、それとも戦犯を免れるためということまで考えて岸さんが東條内閣を

潰したとあなたは見通したのですか』と問い直してみたのですが、相変わらず

星野さんは黙したまま答えてくれませんでした」

星野の直観通り、岸と東條のケンカが、先を読んだ計算づくのことだとしたら、

これは恐るべき妖怪というほかはない。岸は満州という濾過器をくぐり抜けることに

よって、とてつもない図太さを身につけ、次々と権力へのステップを踏んでいった、

ということなのか。満州をハダで知る生き証人は日増しに減っているのである。

日本人の歴史に正しく位置づけられなければならない「満州国の興亡」が、生半可な

理解で、記憶の外に遠ざけられていく不安を感じる。だが、このレポートを締めくくる

にあたって、日系の頂点に、岸信介という近代史が生んだ異色の人物が君臨したこと、

さらに岸の強引な満州政策がその後の本土に移入され、戦禍と敗戦に繋がっていった

ことに、ほとんど疑問を差し挟む余地がないことを報告しておきたい。



p115     権力への野望

断片的な証言をつなぎ合わせながら、「戦後の岸」を漠然とながら、岸が描いているに

ちがいないグランド・デザインが浮き出てくる。おそらく岸は(大の釣り好きであったらしい)

その池に釣り糸を垂らしながら、反応を待っているのであろう。

岸が内閣を組織し、最初に釣り上げた大魚は「安保改訂」だった。岸は一旦竿を収めた

ように見せかけながら、次のサカナを狙っている。


p125  改憲論をぶちまくる

昭和52年5月3日、岸は金沢市内の護国神社で開かれた清水澄(シミズ・トオル=憲法学者。

最後の枢密院議長。新憲法施行の年、22年9月25日、熱海、錦ヶ浦で入水自殺)顕彰会

の発会式に出席した。長男の清水虎雄は父の自決について、「ほんとの理由はよく

わからない。私の想像だが、明治憲法に殉じたのだと思います。最後の枢密院議長として

新憲法草案を天皇から 諮詢され、答申した。個人的には明治憲法を護りたかったのに、

新憲法を答申したことに責任を感じていたのではないでしょうか。死ぬ2日前前に父は

追放処分を受け非常に落胆していました。追放で、もう何もできなくなったと思ったの

でしょう」

この後、岸は自分が会長を務める自主憲法制定国民会議主催の第9回国民大会「金沢大会」

に出席した。岸はこの席で次のようなスピーチをしている。

「・・・残念なことには、従来憲法に対する国民の関心が比較的薄かったんじゃないか。

よく政治家の一部は現憲法が国民の間に定着しつつあると、言っております。定着して

いるのではなく無関心であり、この責任はやはり政治にある。真正面から議論するのを

怠っている結果であります。現在の自民党を結成する際にも、当時の鳩山先生や河野先生、

その他の諸先輩と共に、政治綱領の一つとして『自主憲法の制定」を掲げたのであります。

ところが残念ながらその後自民党自身がこの綱領に冷淡であり、十分にその目的を達成

していないということは、かつての自民党総裁の私として非常に慚愧に堪えないところ

であります」

戦後の政界復帰の時から、岸が表向き掲げたスローガンは、明快に2つ、「反共自主外交」

と「憲法改正」に絞られ、一つは「安保改定」で一応決着をつけた。残る憲法改定に、

岸は絶えざる執念を燃やし、それは妖怪じみた活力の源泉であった。・・・

いつどこで改憲問題を話題にしても、岸は決まって上半身を乗り出し、1オクターブ

声を高めてぶちまくる。「成立過程と内容の如何ですよ。国に元首がいないんだ。

こんなことはないですよ。やっぱり元首ははっきりしとかなきゃいかん。これは

国家の基本である。それから、国防だ。私はもちろん、戦争をしようとか、そんな

ことは考えていないけれども、少なくともね、やはり国を防衛するのは国民の

義務の一つであり、国に忠誠を尽くさなくちゃいかんということをないがしろに

するのがまちがっとる。それから二院制。無駄ですよ。あれ、総理大臣が同じ

ことを2度やらなけりゃならんのだよ。だから、私が憲法改正するときは

一院制にすると思います。だいたい今のは翻訳調だからね

へんな文句でしょう・・・」

証言者の1人、長谷川峻は、「岸さんの保守の道筋を判断する力はたいしたものです。

(聞いた話だけど)この前の選挙では今まで行ったことのない島にまで出かけたと

いうじゃないですか。そして、演説が終わると演壇からポンと飛び降りてみせる

カール・ベームは芸術的興奮から指揮台を飛び降りるんだそうだけれどもね」と

皮肉まじりに岸の健在ぶりを語った。この1年間だけを見ても、岸は6回外遊している。

高齢で(81歳)手控えている気配はない。

かつて日中で名前を売った旧内務官僚出身の古井喜美(元厚生大臣)は、そんな岸への

懸念をかくさなかった。「岸さんが何をたくらんどるかだ。国際的にもインドネシア

行ったり、韓国、台湾だけじゃないよ。大きな幅で動いてる。僕は岸さんについて

心配してるんだ。軍事拡張問題で段々キナくさい匂いがしてきた。例えば自衛軍備

限界が怪しくなり、核兵器まで持てそうになってきたろ。それから岸さんが火を

付けたか、向こうが言ったか知らんが、アメリカが韓国から撤退するちゅうことに

なって、日本の自衛軍備強化論が起こっとるだろ。肩代わりだ。アメリカは求めて

来るに決まっとるし、岸さんだよ、火元は。それから不景気。輸出は頭打ちでやりよう

がないから、兵器産業で景気をよくしようという考えが強くなってるだろ。これは

戦争さ。消耗しなけりゃだめだ。こりゃ定石だよ、昔から。それの本山というか、

大局的にそういうことを睨んで、そういう傾向を誰が助長しているかだ。考えて

見ろよ。頭のねえ国会議員なんて何もそんなこと考えとりゃせんから」

古井の毒舌は核心を突いていると思われる。



p132  岸の大ジャパン主義と竹内好の岸批判

昭和35年、安保闘争の頂点で竹内がとった行動は、広く知られている。

新安保条約が衆議院本会議で強行採決された翌日の5月21日、竹内は

東京都立大学教授の辞表を提出して学園を去った。友人たちに送った

辞任挨拶には、「私は都立大学の職に就くとき、公務員として憲法を尊重する

旨の誓約をいたしました。5月20日以後、憲法の眼目の一つである議会主義が

失われたと、私は考えます。しかも国権の最高機関である国会の機能を失わせた

責任者が、(清瀬一郎)であり、また公務員の筆頭者である内閣総理大臣(岸信介)

であります。このような憲法無視の状態の下で私が都立大学教授の職に留まる

ことは・・・・」と印刷されている。

教授の職を捨てただけでなく、60年安保闘争に竹内は行動的だった。

学者、文化人の集まりである「安保批判の会」「安保問題研究会」の有力

メンバーであり、居住地の武蔵野市では「安保闘争批判武蔵野市民の集い」

を作ってデモをやっている。5月18日「安保批判の会」代表の1人として

岸に面会し、国民請願の尊重を訴えた時、岸は「尊重します」と答えたが、

次の日採決が強行された。この直後発表した竹内テーゼは激越である。

「5・19を境にして、安保闘争の性格は変わった。今や民主か独裁か、

これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でない

ものは民主である。中間はあり得ない。この唯一の争点に向かっての態度決定が

必要である。そこに安保問題を絡ませてはならない。安保に賛成する者と反対

する者とが論争することは無益である。論争は独裁を倒してからやればよい。

独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである」

この竹内テーゼは安保闘争を棚上げするものだと、当時反日共系の全学連の

攻撃の的になった。しかし、請願とデモ以外に闘争の手段を持たなかった社共両党

などには歓迎され、「民主主義を守る✖️✖️の会」が各地に生まれた。丸山真男、

清水幾太郎らと共に、竹内は岸打倒のいわば理論的扇動者だったと言える。その頃、

竹内は講演会に出ては、「今まで我々はあまりにもお人好しでした。何回も彼を

許した。戦犯であることを許し、ベトナム賠償の時に許し、許すごとに彼は我々の

許したことを栄養に吸い取って、ファシストとして成長してきた」と訴えた。

多くの反安保知識人と違って、竹内が改定阻止の第一の理由においたのは、新安保

が米国の中国敵視政策に追随したもので、それが日中国交回復の妨げになるという

点だった。米国より先に、竹内の反安保の原点に中国があり、アジアがあった。

岸と竹内の対面が実現しておれば、岸はそれに何を期待したのだろうか(竹内との

面談を持ちかけたのは岸の方だったが、竹内は頭からこれを断った)という問いに

久野収(哲学者、京都大学出身)は次のような解説を加えた。

「竹内さんは、アジアにおけるナショナリズムの伝統を国家よりもっと深いところ

で組織し直して、国権主義とか国家膨張主義を撃とうとするものですよ。つまり

階級主義とかマルクス主義を通して革命するのではなく、ナショナリズムを通して

それをしようというものだ。それにはアジアの下からの民主主義が有効と考えた

わけですよ。岸はそこを利用しようとした。岸も日本の民族主義を使って国家機構を

作り替えようとする点では竹内さんと重なり合う点がある。しかし目指すところは

全く正反対なんだ。岸は上からの変革だ。膨張主義です。大ジャパン主義ですよ。

悪徳が輝いていますよ。国家膨張主義をいったん認めた限り、光り輝くものに変わって

しまうわけだね」

「岸とアジア」の関わり合いは岸政治のもっとも重要なポイントであるという、久野の

指摘は傾聴に値しよう。

岸は評判のいい政治家ではない。戦前戦後を通じて、岸と行動を共にし、今は距離を

置いている赤城宗徳は、「頭が良くて行政をテキパキ片付ける官僚政治家としては

立派だね。だけど民衆政治家ではない。大衆に対する愛情がない。人情味がないんだな。

彼の政治路線も、占領政策を是正しようとしたのはいい。だが、そう言いながら対米

一辺倒の路線をとってきた。私はこれは矛盾しているとおもいますね」と不評の原因を

指摘した。

しかし、岸の周辺の人たちは総じて岸の人柄に惚れ込み、スケールの大きさを指摘する。


(中略)


p260   新覇権主義とは

🔴  それは、すでに指摘したように、米国と深く提携し、アジアの盟主的地位を固めながら

独自の防衛体制を強化していく国家経営の路線。新大東亜共栄圏構想と言うべきか、中型

膨張主義と言えばいいのか、あるいは岸流の新覇権主義とも言えようか。

インタビューで、日米開戦のことを聞いた時、岸はなんのてらいもなく言ってのけた。

「勝つと言うことよりも、日本がともかく生きていく最低限のものを戦争によって確保

しなきゃいかん。日本に対して油の供給が抑えられている。日本が立っていくだけの体制を

作らなければ、ということだった。戦争で勝つと言うことならば、アメリカまで攻めていく

ことになるが、そんなことは誰も考えなかった。日本の最低限必要なものを確保するために

必要な戦闘行為、戦争、そうして自分達に有利な時期において講和をしてやっていくべきだ。

こういう考えだった」

それを岸は胸を張って答えた。生きるための日米開戦という選択。その正当性を岸は今でも

確信し、豪も修正を加える必要を感じていない。

久野収は、岸の権力的体質としぶとさの裏に潜むものについて、「岸の思うツボですよ。

日本人の原哲学、民族エゴイズムの、岸は強力な指導者だね。反動的イデオロギー

としてなんぼ批判しても、岸はびくともしませんよ」と言う。

岸が「憲法改定、これは今後もやります。やりますけれどもなかなか私の目の黒い

うちにできるとは思っていない」と語るのを聴いて、岸の後継者に恵まれないことへの

苛立ちと孤独を感じた。


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🦊 岸信介も、その後継者を自称していた安倍晋三も、現在2023年にはすでに鬼籍に

入り自民党内は跡目争いが、激しくなってきたらしい。「異次元の」軍備予算増加法案は

可決された。しかも将来のどこかで「異次元に突入」するらしい。それで日本はどうなる?

それは「カラスに聞いてくれ!」てなことらしい。頭がカラッポ。それでも民主主義風の衣

だけは抜け目なく着込んでいるので、「自民党はビクトモシナイ」そうな。日本人は

オール長州連合オシだったっけ?


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昨日、病院へ行ったところ、循環器系はおおむね順調に動いているそうだが、

カルシウムの沈着というのは、他の臓器、特に血管にも起こりやすいとのこと。

夜中に椅子に腰掛けて3~4時間もipad で遊んでおると、足が浮腫む。これは

もう年貢の納め時と心得、ここらでおしまい。

(花の写真だけはまだ続けたいが、ipad の充電が100%にいくのに時間がかかり過ぎ。

こちらも寿命かな。

ノコンギクの花芽が見えてきた。花色が青空のような青であってほしいがどうかな~)


2023   6月   24日