戦争の記憶をアメ玉のようにしゃぶる人たち
戦争の記憶をアメ玉のようにしゃぶる人たち
つまり、「戦争はおいしいぞー」とか、「カッコイイぞー」とか、
「儲かるぞー」とか、誰彼かまわず言いふらし、特に若者の
憧れる「スポーツの英雄」並みに、「戦争の金メダル願望」を
煽る。武器がアメ玉のように通販で買える国もある。
自国民に、「過剰防衛」ジルシのアメ玉を舐めさせると、
「僕らは戦争が苦いものとだけ教わってきた。今度は戦争の
ほんとの味を(やり方を)教えてくれ」などと、若者はいう。
よしよしとばかり、甘いアメ玉みたいな戦史を与えて、彼らの
やる気を掻き立てる。間違った方向へ・・地獄の地政学へ・・
ドルのメダルや円のメダルや仮想通貨のメダルを獲得するために、
地球そのものを破壊する変な「地球防衛」のアメ玉を舐めながら。
🦊:ジョン・ダワーの著書「敗北を抱きしめて」(当ブログの
憲法綱ひきどちらが勝った?参照)によれば、米軍による
占領初期の「非軍事化と民主主義化」という理想が、実は
アメリカ人自身によって当初から「無かったことに」されかかった
が、それにも拘らず、改訂は行なわれず、憲法9条の不戦の誓いは
日本人の心の奥に住み続けている。
同書によれば、
<「非軍事化と民主主義化」という理想は、実はアメリカ人自身
によって崩されようとしていた。強力な官僚である通商産業省が
創設されたのが、占領が終わる3年前であったという事実は、
日本の官僚組織を強化したのはアメリカであったことを
鮮明に示す例である。
しかし、それより何より重要なのは、連合軍最高司令部自体が
仕事のやり方を通じて、官僚組織としての模範を示したことで
あった。マッカーサー元帥の権威は「最高」であり、その
司令部が発する命令は絶対であった。
狐曰く:クレイジー・モンキー=ロシアのプーチン
または日本の安倍前首相
『日本も核武装すべきじゃないのか?』と言ってるそうな。
まさにジョン・ダワーの言う「想像力の欠如、狭量と独善』
ついでに飴玉中毒。
「戦争の文化」 パールハーバー・ヒロシマ・9・11・イラク
ジョン・ダワー 著
三浦洋一・田代泰子・藤本博・三浦俊章訳
2021年 岩波書店刊 (上下)
上巻 第1部 開戦
p4 屈辱
1941年12月8日、アメリカ東部時刻の正午過ぎ、フランクリン・
ルーズベルト大統領は、上下両院の合同会議で、史上名高い
開戦演説を行った。冒頭、大統領はこう述べた。
「昨日、1941年12月7日ーー歴史に残る屈辱の日ーー
アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍および航空隊によって
突然かつ意図的な攻撃を受けました」
歴史に残る屈辱の日ーーこの言葉は、直ちに歴史に刻まれた。
殆ど知られていないことだが、この巧みなレトリックは、
演説の推敲過程で付け加えられたものだった。
6隻の空母から飛び立った第1波の攻撃隊が真珠湾を急襲した
のは、午前8時前であった。それから3時間後、ワシントン
時間では午後8時頃、ルーズべルトは秘書を呼んで国民への
メッセージを口述し始めた。
演説は、大統領自身の言葉であり、そのタイプ原稿には、
大統領による鉛筆書きの修正跡がたくさんある。・・
「屈辱」という言葉が入ったルーズベルトの実際の表現が、
その後どれほど大きな影響を持つことになるだろう・・
p5 暗号としての「真珠湾」
その演説の時から、「屈辱 infamy」といえばアメリカ人は
「真珠湾」を思い出すようになり、日本の背信と欺瞞を示唆
する言葉になった。それは背後からの一刺しであり、必ず報復
せねばならず、決して忘れてはならないというニュアンスを
帯びた言葉であった。そして2001年9月11日、ニューヨーク
とワシントンでテロ攻撃が起きたとき、コメンテーターたち
が使った最初の言葉が「屈辱」であった。あと数ヶ月で
真珠湾攻撃から60周年というこの日、評論家や政治家、
そしてテロに驚愕したアメリカ国民が、殆ど反射的に思い
出したのが、「真珠湾」であった。映画のフラッシュバック
のように過去と現在が一瞬で融合した。ジョージ・ブッシュ
大統領は、9月11日夜、「今日、21世紀の真珠湾が起こった」
と日記に残した。リベラル派のコラムニスト、ポール・
クルーグマンも、1年後にこう振り返った。「9月11日の
国民感情はかつての真珠湾にあたるものであり、9月11日
に始まった我々の戦いは、かつての第二次世界大戦にあたると
考えてもおかしくない」。日米戦争では「真珠湾を忘れるな」
が最も流布したスローガンであった。開戦から3年と8ヶ月後、
ヒロシマと長崎に原爆が投下されるまで、この叫びは止ま
なかった。世界貿易センタービルが破壊され、ペンタゴンが
攻撃を受けた後は、全米の至る所で「9・11ーー私たちは
決して忘れない」がスローガンとなった。
標語がこのように似ているのは、単なる偶然ではない。
9月11日を忘れるなという表現は、アメリカ人の殆どが
真珠湾攻撃との類似性をすぐさま理解したが故に、
とりわけ効果的だったからである。
シカゴのケネディ高速道路上の看板には、中央に「Never
Forget」と書かれ、その左右に「1942年12月7日」と
「2001年9月11日」という日付が書かれていた。
意味するところは明白で、説明は不要であった。・・・
世界貿易センターの跡地は「グラウンド・ゼロ」と名付け
られたが、これは元来ヒロシマと長崎の爆心地を呼んだ
言葉である。1945年初め、硫黄島の摺鉢山で海兵隊員が
星条旗を掲げる有名な写真があるが、そのイメージに
重ねるように、煙が燻るマンハッタンの跡地に消防士が
星条旗を掲げる写真が広く流布した。敵を打ち破り、勝つ日
まで戦いつづけるというアメリカの英雄的決意のシンボル
であった。1945年の兵士と2001年のニューヨーク消防士
の写真が並べて掲げられることも多かった。
ブッシュ大統領と彼のスピーチライターたちは、機会ある
ごとに、新たなテロの危機をできるだけ昔の枠組みで説明
しようとした。ルーズベルトが日本に開戦を宣言したよう
に、ブッシュは素早く「対テロ戦争」を宣言した。すると、
2001年と1941年の大きな違いは見失われてしまった。
強大な軍事力を持つ日独と違い、国境にとらわれないテロ組織
は装備も貧弱で、臨機応変の「非対称」的戦略に長けていた。
彼らは幽霊のように現れては消えた。だが、ブッシュにとって
は2001年とのそういう違いよりも、重要だったのは、
ルーズベルトやトルーマンのような戦時大統領として自分を
位置付け、政治的求心力を強化するチャンスを得たことで
あった。その後、2002年1月29日の一般教書演説では、
第二次世界大戦からの比喩が一段階上がり、イラン、イラク、
北朝鮮をまとめて「悪の枢軸」と呼んだ。これは明らかに、
ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと帝国日本が1940年
9月、三国軍事同盟によって形成した「枢軸」関係を指していた。
さて、サダム・フセインとバース党の専制支配を打倒した後、
どうするのか。その構想のための歴史の利用と誤用は、
もっと露骨で執拗であった。この戦争の目的は、いかに
勝つかよりも、勝った後にあった。イラク侵略の前、米政府
高官は、戦後日本の「成功物語」を持ち出した。日本と同じ
ように、征服者は丁重に迎えられ、目覚ましい復興と民主化が
続くだろうというのである。現実には、ブッシュがマッカーサー
を気取った瞬間はすぐに消え去り、「イラクの解放」だったはずが、
暴力が広がり分裂した国を長期に占領することになった。
そうなってもアメリカ政府は、日本の比喩を使い続けた。例えば
2005年5月30日、カリフォルニア州のノースアイランド海軍
基地でブッシュ大統領が行ったスピーチは、殆どすべて日本占領
の話であった。会場には第二次世界大戦の退役軍人が招待され、
大統領はイラクで戦っている米軍兵士のうち、第二次大戦で、
「日本帝国を打ち負かした強力な軍隊の一員」であった祖父
を持つ米軍兵士の名前を一人ひとり読み上げた。公の場で個人の
名を挙げて共感を得るのは、ブッシュがよく使う手である。
同時にこの時ブッシュは、フランクリン•ルーズべルトの
(そして次のトルーマン大統領の)英知と、先見の明と、
決然とした態度を賞賛した。・・
すべては2つの教訓を教えているという。一つは、歴史が一巡
して、再び始まったということである。
「この記念日を迎えた我々は、再び戦争の渦中にあります。
今再び、アメリカの国土は奇襲攻撃を受け、数千の人びとが
冷酷に殺されました。今再び我々は、アメリカが象徴するものを
ことごとく嫌悪する強敵に直面しています。今再びアメリカと
同盟国は、ほぼ全ての大陸に展開した軍によって戦いに従事
しています。今回もまた、アメリカが勝利するでしょう。
自由が確保される時まで、我々が戦いを止めることはありません」。
もう一つの教訓は、敗北した日本の実例に希望と勇気の源が
見出せるということである。「アメリカと日本の専門家たちは、
日本人が民主主義を受け入れるはずがないと明言していました。
しかし、彼らは間違っていました」と大統領は続けた。
アメリカ人が意欲を失わずに立派に戦えば、イラクでも日本と
同じように民主主義が根づくだろうというのであった。
p12 「真珠湾のブーメラン」
(「ミッション達成」から2年あまり経って)オサマ・ビン・
ラディンはまだ捕まっていなかった。イラク侵略の理由として
大々的に宣伝された大量破壊兵器もアルカイダへの援助も、
偽りであることが判明していた。占領したイラクは、殺し合いの
止まらないカオスに陥っていた。
(ブッシュと側近たちは、)第二次世界大戦との比較に惹きつけ
られていたが、その類推の殆どは誤りであった。歴史を悪用すると、
それはひび割れた鏡になる。それに気づかないとき、待っている
のは悲劇である。そして実際、悲劇はやってきた。・・・
(真珠湾はアメリカ人の心を深く掻き乱した)例えば9月11日の
後、「真珠湾」という言葉はアメリカ人の怒りと、迅速かつ完全な
報復への欲望を表現しただけでなく、国家として全く備えが
なかったことへの深いショックを思い出させた。
「眠っている間に」攻撃されたという真珠湾のイメージ、そして
堅固な要塞であるアメリカが、実は敵の決然たる攻撃の前には
危うかったというぞっとするような認識が、突然蘇ったのである。
9月11日の後、アメリカの情報機関がなぜ事前の察知に失敗
したか、直ちに熱心な分析が行われた。そして調査委員会は
「システムの失敗」であったという診断を下し、政府組織の
改革を提案した。それは半世紀以上前の真珠湾論争の時と同じ
内容であった。・・
官僚組織というものは、調査委員会が何を提案しようと、改革
を骨抜きにして、抜け道を見つけるものである。こうして真珠湾
は、人間の心理、誤解、暗愚を象徴する暗号(コード)と
なった。真珠湾は、米国に想像力と良識が不足していること、
アメリカが無垢で献身的で世界の「例外」だと言った考えが
神話に過ぎないことも明らかにした。人間心理の構造的な欠陥を
自覚せず、偏見や先入観を持ったままでいると、敵の意図や
能力を見極める視線が歪む。特に人種、文化、宗教が絡む場合は
そうなりやすい。勢力を拡大するために、敵が人々のどんな不満
を利用するかも把握できなくなる。
さて、「想像力の欠如」という概念は、日本の指導者たちが
明らかに戦争を準備していたのに、ワシントンの高官とハワイの
司令官たちが明らかに1941年12月の急襲を予知できなかった
理由を説明するのに役立つが、2001年9月11日の場合、想像力
の欠如は真珠湾よりも目に余る。世界貿易センターに対する
最初のテロ事件が起こったのは、9・11の8年前であった。
オサマ・ビン・ラディンとイスラム主義の過激派がイスラム法
による宗教令という形で「ユダヤ教とキリスト教の同盟」に
聖戦を布告し、全ての国のイスラム教徒に対して「アメリカ人と
その同盟国の人間を市民であれ軍人であれ、全て殺せ」と命じた
のは、2001年より半年以前のことである。これはまさに、公然
たる宣言であった。ワシントンの権力中枢の周辺にいた人々は、
アメリカ本土に対するテロリストの脅威を国家安全保障上の
重要課題にするよう訴えたが、無駄に終わった。(中略)
同時多発テロ以前、軍事戦略家の注意はアメリカの覇権に
対する脅威としての中国に注がれ、国内政策においても、ジョン・
アシュクロフト司法長官が掲げた10の優先政策の中に、テロ
対策は含まれていなかった。
政権のトップレベルの怠慢と固定観念が暴露された点では、
9・11は真珠湾の失態を上回るものがあった。
「イラクの自由作戦」という名で米軍がイラクを攻撃した
2003年3月19日は、真珠湾攻撃の12月7日や9・11と同じく、
一方的に攻撃を仕掛けた侵略の日となった。(侵略者となった
という恥辱を背負うのは、今や私たちアメリカ人なのだ=
アーサー・シュレジンガー・ジュニア)
(中略)
以上のように、9・11事件後、真珠湾や第二次世界大戦との
類似性に頼る論法が広く浸透した。そこから生まれた、おそらく
最大のブーメラン効果(自分がした類推によって自分の判断が
誤ってしまう現象)は、先の世界大戦における枢軸国同様、
剥き出しの軍事力さえあればテロも打ち破れると信じてしまった
ことである。ワシントンの高官の殆どが、この考えの虜に
なった。「戦時大統領」を自称してイラクに侵攻した後も、
ブッシュは反米思想や反乱の根源を見ようとせず、司令官達に
敵の死体の数を質問し続けた。小規模な非国家的根源による
襲撃が、強力な国民国家による攻撃と同じものとみなされた。
基本的には犯罪行為であり、本来、多国間の幅広い協力で
対応すべきテロ行為が、通常の軍事力で対応すべき脅威として
扱われた。それは無分別で逆効果であるにとどまらず、完全な
失敗を招いたのである。・・・
2001年9月11日の1年以上前、のちにブッシュ政権の外交政策に
影響力を発揮する保守主義者達は、アメリカの外交軍事政策を
根本的に改定しようと活動していた。彼らは、従来の政策を
一変させ、何か破壊的で触媒的な事件ーー新真珠湾(a new
Pearl Harbor)を思い描いていた。そうなれば軍拡は容易になり、
中東、特にイラクにおける攻撃が容易になる。彼らはアメリカ
合衆国の領土内でそうした事件が起こることを望んでいたわけ
ではなかったが、9・11事件は彼らの目的にピッタリと合致した
のである。
第4章 無垢、邪悪、忘却
p86 無垢
1942年、ハリウッドの巨匠ジョン・フォード監督は、
モノクロのドキュメンタリー映画を制作した。『12月7日』と題する
この作品は、当初は82分の長さだったが、劇場公開前には32分に
カットされ、1943年度アカデミー賞の短編ベストドキュメンタリー
賞を受賞した。カット前の『12月7日』は、滅多にないほど生々しく
露骨である。・・
(ハワイの快適そうなバンガロー風の家、典型的なアメリカ市民と、
彼の分身であるC(conscience=良心)という男との対話。
ハワイの美しさ、平穏さ、豊かな経済、民族的多様性の素晴らしさ、
などなど。話は尽きない。
Cはいう、ここは住民の37%が日系人だ。彼らの仕事はアメリカナイズ
されているし、合衆国に忠誠を誓っているようにも見える。・・
だが、この連中は、神道という「宗教まがいの」異端の教えを信仰し、
祖先と日本の天皇への崇拝を義務だと思っている。もしこれがアメリカ
だというなら、えらく異国風のアメリカだぜ。
ジョン・フォードのカメラはハワイに住む様々な日系人にフォーカスする。
海軍将校クラブの庭師。小舟で漁をする漁師。タクシー運転手。床屋の
若い娘。寂しがりの水兵とダンスホールでおしゃべりをしているきれいな
娘。妙に米軍施設に近いところで暮らしている、一見普通の家族ーー
みんなスパイなのだ。・・・背景の音楽に、耳障りなドラの音が侵入
してくる。・・時はすでに12月7日、日曜日の朝である。
フォードが描いた奇襲攻撃の場面は、本物のように見えるが、ほぼ全て
後で制作した画像である。9・11事件と違って、パールハーバーの
奇襲場面については、本物の画像は残っていないからである。
港に錨を下ろした太平洋艦隊、ヒッカム飛行場に整列した飛行機、
野球ボールであそぶ水兵たち、浜辺のヤシの木の下の兵士たちを前に
野外ミサをしている白髪の神父。神父は、愛する人に忘れずにクリスマス
の贈り物をしましょうと諭す。すると、その直後、日本軍の戦闘機の
第1波が姿を表すーーどこからともなく、「まるでイナゴの群れのように」
近づいてくる機体のブーンという唸り音が執拗に響く。そこにナレーター
の劇的な声が重なるーー「地獄の扉が開いた。人間の作った地獄、いや、
日本製の地獄だ」。
『12月7日』の奇襲攻撃の場面は、当時としては滅多にない出来栄えで、
今日でも見ていられないほど痛々しい。短いバージョンの方を見ても、
まるでフォードが混沌と虐殺に魅入られて、カメラを忘れたかのような
観がある。敵機はあちこちから押し寄せ、襲来は永遠に続くかのよう
である。アメリカ兵たちは不意を突かれ、持ち場にかけ戻ろうとする
ところを、繰り返し銃撃される。カメラは飛行場から飛行場‘へ、軍艦から
軍艦へと動き回る。飛行機も軍艦も爆破され、炎を上げて焼け落ちる。
ナレーターはルーズベルトの有名なフレーズ「屈辱の日」を何度も繰り返し、
痛ましい声で死者は2343人であったと告げる。ここで場面は墓地に変わる。
襲撃で亡くなった七人の男達の肖像がゆっくりと映し出され、故郷の
物言わぬ遺族達の映像が続く・・
父母、妻、そして、死んだ男が見ることのなかった生まれたばかりの
赤ん坊。死んだ男達は出身地も職業も様々で、アメリカ社会の多様性を反映
しているのだが、アジア系は一人もいない。「我々はみな同じ。我々は
皆アメリカ人」とナレーターが語る。・・(中略)
ジョン・フォードは、「外国系」アメリカ人が「破壊工作」をすると思い
こんだ。・・多分『12月7日』は、当時の人種差別的風潮をどの情報源よりも
強力に伝えている。この1942年には、アメリカ合衆国本土(ハワイは
含まれない)西海岸に住むおよそ11万人の日系アメリカ人が収容所に監禁
された。(連邦議会と大統領府がこの事実を公式に謝罪したのは、ようやく
1988年になってからだ。また、強制収容も、フォードの『12月7日』の
制作も、日系人コミュニティによる破壊工作は存在しなかったことが
明らかになった後のことだった)
(映画『12月7日』がはっきりと後の9・11事件の前触れ的表現になっている
のは、映画の最後の数分間で)それは犠牲者の為の葬儀シーンを紹介する場面
である。写真、名前、アメリカのどの地域の出身か、遺族の無声の映像ーー。
このシーンは深い感銘を与える。9・11事件の後、多くの報道機関が『12月7日』
に似た方法でテロの犠牲者に賛辞を捧げた。例えばニューヨークタイムズ
は、世界貿易センターの犠牲者達の肖像写真に短い経歴をつけて掲載した。
当然、これは何週間も続くシリーズとなった。誰もが、明るく晴れた朝、
いつものように仕事をしていた人々だった。・・・
9・11の場合、国の心臓部の非軍事都市が攻撃されたので、自分達は侵犯
されたのだという感覚はハワイよりも強いものがあった。
こうして『パールハーバー』と同じく、『9・11』は‘罪なきアメリカを
生々しく象徴する記号となったのである。
(9・11以後、民間の有力な政権サポーターたちが、このイスラム教徒
たちが「我々の自由を憎んでいる」説を広めた。例えば、軍事歴史家の
ヴィクター・ハンソンは、「テロリストが我々を憎んでいるのは、
我々の行為のゆえではなく、我々が我々だからだ。」(9・11は、
飢えや搾取からきたものではなく、憎しみと嫉妬に駆り立てられた
殺人なのだ)
このハンソンの結論は、根拠に乏しかったとはいえ、明快であった。
「戦争が何かを解決したことはない」と考えてはいけない。それどころか
「20世紀の3大惨禍、すなわちナチズム、、日本軍国主義、ソビエト
共産主義は、戦争と粘り強い軍事的抵抗によって打ち破られたでは
ないか。ハンソンは「戦争は我らの父」というヘラクレイトスの言葉を
引用し、だから現在あるこの悪を根絶するためには、アメリカ合衆国は
高いモラルを掲げ、必要とあらば「単独で行動する」用意がなければ
ならないと主張した。
このように、アメリカの単独行動を高らかに呼びかける声は、イラク
という国民国家へと「邪悪」が移転する先触れとなった。
p104 忘却
アメリカに対する苦言は受け付けない。それどころか、苦言は存在する
ことさえ認めない。大統領執務室のこの神学は、まるで石が水を弾く
ように、現実を受け入れなくなっていた。9・11から3年後、ペンタゴン
が編成した特別調査団は、「悪」という観念を政治化するのはやめるべき
であり、イスラム教徒は我々の自由を憎んでいるのではなく、我々の
政策を憎んでいることを強調すべきだと報告した。
テロリストのネットワークが「イスラム内で変容しながら拡散しており、
20世紀における寛容と全体主義の対立は継続中」であることは事実で
あるが、「アメリカ合衆国は、思想をめぐるグローバルな格闘の最中にあるが、
西側一般とイスラムが戦争をしているのではない。このことを我々は理解
しなければならない」と強調した。同時に、9・11以後のアフガニスタンと
イラクへの米軍の侵攻が、怒り、不安定、被害を生み、それが反抗を
引き起こしている事実を列挙し、次のように指摘した。「圧倒的多数の人々
は、イスラエルに有利でパレスティナの権利に不利な、一方的支援とみえる
ものに反対の声をあげており、イスラム国家が専制国家と見做している国家
ーーとりわけエジプト、サウジアラビア、ヨルダン、パキスタン、湾岸諸国
へのアメリカの支援が長期にわたっており、増強さえされていることに
抗議している」
それから数ヵ月経った2005年1月、ペンタゴンの国防科学委員会に
提出された特別調査団の報告書の「補足文書」はブッシュ政権の戦争設計者
の狭量と独善を、一層厳しく批判している。すなわち「敵の動機を理解する
唯一の方法は、敵の文化を形作った歴史的、宗教的枠組みをきちんと理解する
ことである。イラク戦争を起こし、戦後の枠組みを起こそうとしたアメリカ
人が、イラク人の性格や態度を形成した枠組みを明確に理解していなかった
ことは明らかである。アメリカ人とそのリーダーたちは、もっと謙虚になり、
自らについて、歴史の中の自らの位置について、よりよく理解した方が良い。
おそらく他のどの国民にも増して、アメリカ人は周囲の国々の歴史のみならず
自らの過去に関しても、絶えざる記憶喪失の症状を呈している」。
p106 現在の世界を理解するために、過去の事実のどれを見ればよいか。
それはすぐにはわからないことが多い。例えば1895年から1905年に
かけて、アメリカ合衆国が太平洋地域で勢力を拡張したことは、意外に目に
入りにくい事実の一つである。19世紀から20世紀への変わり目に、アメリカ
帝国主義はハワイとフィリピンを手に入れて一気に拡張しこれが40年後、
日本の真珠湾攻撃の前提となった。アメリカは、米西戦争の1901年、
政治犯収容所のあるグアンタナモ(スペイン領キューバ)と、9・11後に
議論を呼んだ水責めという拷問方法を手に入れた。
さらに、ブッシュ政権が繰り返した拡張主義的な決まり文句が登場したのも
米西戦争の頃である。9・11では、アメリカは潔白だとか、道徳的に優れて
いるとか、「我らの自由」といったレトリックが対テロ戦争やイラク侵略の
正当化に使われたが、それは1世紀前にアメリカがスペインとの戦争で
フィリピンを奪取した時、1897年から1902年まで続いた地元住民の
抵抗を武力で押しつぶす際に常套句化した表現であった。
こうした常套句のいくつかは、その後、より当たり障りのない表現に
変わったが、典型的な表現や趣旨は変わっていない。いわく、「慈善的併合」
(ウイリアム・マッキンレー大統領)、「白人の責任」(アメリカによる
フィリピン併合を支持したラドヤード・キプリング)、「文明化という使命」
キリスト教徒の「褐色の兄弟」に対する義務(フィリピンの初代提督で、
のちにアメリカ大統領になったウイリアム・ハワード・タフトがフィリピン人
エリートに向かって言った言葉として有名)。
1898年にアメリカがマニラ湾でスペイン艦隊を破ったと聞いたアルバート・
ベバリッジ上院議員は、星条旗にくるまれた軍神マルス、富の邪神マモン、
そして神という華麗な(そして不朽の)イメージを、こう表現した。
「我々はアメリカの製品の販売拠点を世界中に作るのだ。我々の商船は、
太平洋を覆い尽くす。我々は、我々の偉大さに見合った海軍を作り上げる。
その拠点の周辺には我々の旗が翻り、我々と交易する、素晴らしい植民地が育つ
だろう。交易の翼に乗り、我々の旗を先頭に、アメリカの社会組織が広がる。
そしてアメリカの法、アメリカの秩序、アメリカの文明、アメリカの旗が、
野蛮で暗愚だった地域に根を下ろし、神の代理として、彼の地を美しく、
輝かしいものにするのだ」。(中略)
こうした過去の人間たちが、ジョージ・ブッシュのゴーストライターたちの
そのまたゴーストたちだった。
世界に関する知識において、ブッシュ大統領は、マッキンレー大統領と
同じであった。マッキンレーは、フィリピンがどこにあるか知らなかったが、
それでもフィリピンを「自由と法、平和と進歩」のためにアメリカ合衆国
が併合すると宣言することはできた。ブッシュ大統領は、私は戦時大統領
たるべく神に導かれていると、頻繁に口にした。これに似て、マッキンレー
大統領の場合は次のような有名な話がある(信憑性は少々怪しいが)。
ある日彼は、ホワイトハウスを訪れたメソジスト派教会の代表団の前で、
跪き、光と導きをお与えくださいと全能の神に祈った。すると神は、
『かの人々(フィリピン人)を受け入れる他に、なんじらがなすべきことはない。
フィリピン人を教育し、彼らを高め、開化し、キリストの僕とするのだ。
神の恩寵により、彼らの力と共に最善を尽くせ。キリストの死は彼らのためでも
あったのだから』とマッキンレーに語ったのである。(スペイン支配の下で、
多くのフィリピン人が既にキリスト教に改宗していたことに、マッキンレー
大統領は気づかなかった。これはブッシュ大統領が、スンニ派とシーア派の
反目はおろか、イスラム教全般についても知識がなく、知ろうともしないでイラク
と戦争を急いだことに似ている。フィリピン提督に任命されたタフトは、
フィリピン人をアメリカ化するのがアメリカ合衆国の「神聖な義務」だという
考えに、神のお言葉がなくてもおそらく同意見であった。
しかし、エミリオ・アギナルド率いる多くのフィリピン人は、合衆国への併合
によって「高め」られようとはしなかった。ゲリラによる執拗な抵抗が続いたが、
米軍は「フィリピン反乱」(地元抵抗勢力は独立闘争と呼んだ)を叩きつぶした。
戦闘は残酷であった。1902年4月に刊行された公式報告書には、「兵や将校は、
例外なく地元民に面と向かって「ニガー」(クロンボ)と呼ぶ。地元民もニガーが
どういう意味か理解し始めている」とある。
ある米軍将校は、フィリピンの10歳以上の住民は武器が使える潜在的な敵だから、
「殺して燃やして」、一帯を人っ子一人いない荒野に変えろと部下に命令した。
(中略)
フィリピンの戦争では、最終的に米国軍人が5000人以上、フィリピン人兵士が
2万人、そしてフィリピンの民間人が少なくとも20万人余り死んだ。双方による
残虐行為の他、戦争に起因する飢餓を考慮すると、民間人死者は100万人に上った
とする説もある。その後アメリカ合衆国が国外で行った戦争がみなそうであった
ように、控えめな推計でさえ、アメリカ軍の死者数との比率は驚くほど不均衡である。
例えば、ブッシュ政権が終了した時点で、イラクでの米軍人の死者は総計4000人趙
であった。他方、米軍の侵略による直接、間接の「暴力」によるイラク人死者数は、
おそらく数十万人に上る。
血塗られたフィリピン征服戦争、あるいはそれに続く数十年ーー中央アメリカと
カリブ地域に軍事介入した30年間を含めてーー海外におけるアメリカの活動が
無垢で博愛的であることを、アメリカの世論が疑うことはなかった。
イラク侵攻から7ヶ月後、フィリピンを訪れたブッシュ大統領は、得意の「歴史の
教訓」を繰り返した。「団結した米軍兵士たちは、かつてフィリピンを日本軍の
植民地支配から解放しました。我々は団結し、かつてこのこの島々を侵略と占領から
救ったのです」。例として上がったのは、やはり第二次世界大戦であった。大統領が
言いたかったのは、疑り深い連中が言いそうなこととは逆に、イラクのような
非西洋国が民主主義を受容できることは、第二次世界大戦後のフィリピンの
デモクラシーが証明しているのだということであった。『ニューヨーク・タイムズ』
はこれを「ブッシュ、イラク再建のモデルとしてフィリピンを引き合いに」という
見出しで報じた。
ビン・ラディンの演説や著述は、9・11の前も後も、第一次世界大戦後のヨーロッパ
による略奪や占領だけでなく、中世の十字軍にも言及しており、不信心なキリスト
教徒、ユダヤ教徒を盛んに糾弾している。だが、ビン・ラディンのプロパガンダ
の中心は、最初から一貫して現在の問題である。パレスチナ人の窮状、1990年から
1991年の第一次湾岸戦争以後、サウジアラビアの聖地に米軍基地が置かれていること、
中東のエネルギー資源を欧米がコントロールし、サウジアラビア、エジプトなどの腐敗
した強権的政府を援助していること、などである。欧米のダブルスタンダードは、
ビン・ラディンの主張に頻繁に出てくるテーマであり、・・こうした怒りを無視して
きたことが、9・11の前後だけでなく、「イラクの自由作戦」が惨憺たる失敗に
終わってからも、何年にもわたってテロリストを有利にしたのである。
p123
1991年の湾岸戦争では、アメリカ首脳部は、フセイン政権を武力で転覆することは
回避した。湾岸戦争のとき統合参謀本部議長であったコリン・パウエルは、バグダッド
侵攻に反対した。彼によると、それは「自分で始めた戦争を、どう終わらせるかろくに
考えていなかった日本人」に関する本に影響されたからであった。「砂漠の嵐作戦」を
指揮したシュワルツコフ将軍は、バグダッドを侵攻しないという決断が正しかった
ことを、別の文脈から述べている。すなわち、ベトナム戦争の苦い経験として、国際
世論、国内世論という法廷における「正統性」という問題があること。もし自分が
指揮する部隊がバグダッドに入っていたら、「我々は今もあそこにいたと思う。
天然アスファルトの穴に落ちて化石になってしまう恐竜のように。足掻いても足掻い
ても抜け出せず、我々は占領軍として、イラク全土の管理コストを100%支払って
いたことだろう」。
ブッシュ大統領(父)も、戦略顧問だったブレント・スコウクロフトと共に当時を
回想して、似たことを1998年に述べている。「サダムを排除すれば、計り知れない
人的、政治的コストがかかったことだろう・・。イラクへのルートを辿っていたら、
アメリカは今も敵がい心に満ちた国の占領国だっただろう。
p124
湾岸戦争後のイラクに対する経済封鎖による被害を無視したことは、もう一つの忘却
に繋がった。乳幼児の死亡率を取り上げた最初の報告の一つが、1992年の
「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に掲載され、その結論部分は
広く引用された。すなわち、「これらの数値は、湾岸戦争と経済制裁がイラクの5歳以上
の子供の死亡率を3倍に引き上げたことを強力に証明している。1991年1月から8月
までに、4万6900人の子供が死亡したと、我々は推計している。(その後経済封鎖
継続したことによって、死亡数はさらに増えた。ある有名な研究者によれば、その数字
は34万3900から52万9000の間であった)
ワシントンの政府も、ロンドンの政府も、これほど幅のある、しかし膨大な数字に異議を
申し立てなかった。こうした数字を政治的にどう利用するかが問題であった。
「イラクの自由」作戦が進行中の2003年3月27日、キャンプ・デイヴィッドでブッシュ
(子)大統領と臨んだ記者会見で、イギリス首相トニー・ブレアは、ブッシュ大統領との
合意に基づく完璧な発言をした。「過去5年間に、イラクの5歳未満の子供40万人が
死んでしまった。この子供たちは死ななくても良かったのに、イラクの政権下にいるが
ゆえに死んでしまった。だからこそ、我々は今行動しているのだ」。
自分は安全な場所にいながら、遠く離れた地域に混乱と苦難をもたらした結果、そこで
何が起きているか想像するのは難しい。相手への思いやりも倫理観も鈍化する。物理的に
破壊があまりに遠いところで起こると、現実性を感じにくい。太平洋戦争が確かに
そうであった。1945年、アメリカによる空爆で、600余の都市が破壊し尽くされた後、
敗戦日本に足を踏み入れたアメリカ人のほぼ全員が、大きな町が瓦礫と化し、
何百万もの人たちが家を失った光景に衝撃を受けた。2003年バグダッドを占領した
アメリカ人も、大量破壊兵器が見つからなかったばかりか、「システム麻痺」を目指し、
湾岸戦争から13年にわたって展開された経済制裁が、ほとんど修復不可能なまでにイラク
社会を麻痺させたことを知って驚愕した。2003年5月、イラク占領政府を率いることに
なったルイス・ポール・ブレマーの反応もまさに同様であった。イラクに出発する前、
ワシントンで大慌てのブリーフィングを重ねたが、その時は「この国がいかに徹底的に
「破産」しているかについての実感は得られなかった、と後に回想している。
とはいえ、イラクが「破産」した原因については、ブレマーは全く疑問を抱いていなかった。
サダム・フセインの野蛮と腐敗、「ひたすら中流階級と民間セクターを破壊した」独裁者の
「歪んだ社会主義的経済理論」、「バース党が支配する経済」の下で、「国家の独占企業が
幅を利かせ、物価を人為的に低く抑える「歪んだ補助金」が締め付けた、何十年にもわたる
拙劣な経済運営、こうしたものが経済を荒廃させたのだと彼は考えた。2003年、アメリカ
がイラクに侵攻した時、イラクの子供たちにすでに栄養失調と早世が広がっていたことは
事実であった。しかしその原因がアメリカ主導の経済制裁だと主張するのは、「バース党の
公式プロパガンダ」に過ぎないと、ブレマーは断言した。
ロバート・フィスクが、こう書いている。「イラクの自由作戦」で解放者たちがバグダッド
に入った時、経済制裁という事実は一連の話から幽霊のように消えてしまった。
初めにいたのはサダム・フセイン、その次に登場したのは「自由」だった。
第二部 テロ
p224 「非戦闘員」の消滅
「非戦闘員」という概念が消滅したのは、英米によるヨーロッパ戦線においてであった。
早くも1941年7月、イギリスの司令部は、ドイツ空爆の目的の一つを、「全住民、特に
工場労働者の士気を破壊すること」と明記した命令を出した。
この空爆作戦(1942年初頭、特に工場労働者が多い都市リューベックを破壊)の
実施にあたり、アーサー・ハリス英空軍中将は、焼夷弾と高性能爆弾を組み合わせて
使用すべしと主張し、その理由をこう述べた。「火災の恐怖だけでは足りない。我々は
ボッシュ(第一次世界大戦以降に使われた、ドイツ人を意味する蔑称)の頭上に
石の瓦礫を落とすのだ。ボッシュを殺し、ボッシュを恐怖に落とし入れるのだ」。
対独空爆作戦において、イギリスは戦闘員と非戦闘員を全く区別しなかった。
アメリカも同じようにして、日本に対する空爆を行った。ヨーロッパとの最大の違い
は、日本には石造の建築物があまりなかったことであった。
そもそもドイツや日本の枢軸国自身が、戦闘員と非戦闘員の区別など無いと叫んで
いたから、それを逆用すれば、英米は無差別攻撃を正当化もできた。例えば、
「一億一丸」、「一億一心」、「一億玉砕」、「一億総特攻」ーー日本自身が唱えた
こうした過激なスローガンは、自国のすべての男、女、子供を戦闘員と見做したに
等しかった。
日本の指導者は、米軍が民間人を空襲していると非難していたが、その一方で、
日本海軍の技師たちはアメリカの都市に細菌爆弾を投下するため、「潜水空母」
と呼ばれた巨大な伊400型潜水艦(特殊攻撃機3機を搭載、全長120mを超える
当時世界最大の潜水空母。アメリカ本土攻撃を狙ったが、実戦に投入する前に
日本は敗戦)を就航させた。日本の航空技師たちはアメリカ大陸を横断し、
ニューヨークまで含むいくつもの都市を攻撃できる、「富嶽」と名付けた
6発エンジン搭載の長距離爆撃機(全長45m、B29の1.5倍の長さの航空機、
途中で開発中止)を構想していた。日本の科学者たちは、核兵器開発も検討
していた(検討の結果、理論的には開発可能だが、技術的には近い将来には
実現不可能とされた)。こうして、戦意 morale が舞台に登場すると、
倫理 morality は退場したのである。
(中略)
ある国が暴力的な行為に出ようとして、政府が秘密の計画を進めるとき、
大衆的想像力がシンクロすることはよくあることである。英米がドイツへの
空爆を強化していた1943年7月、ウォルト・ディズニー・スタジオは、
『空軍力の勝利 Victoy Through Air Power』と題する70分のアニメ映画を
大急ぎで製作した。この映画は、亡命ロシア人の戦略家アレクサンダー・P・
デ・セヴァルスキー少佐による、真珠湾攻撃から半年後に出版された
ベストセラーに基づいた作品であった。セヴァルスキーへのインタビュー
が何箇所か挿入されているほか、アメリカの飛行機がどんどん最新型
になり、爆弾がどんどん大きくなって、隣に立っている人物たちを圧倒する
場面がある。
ラストシーンでは、アニメの爆撃機がアラスカの基地から日本を攻撃する。
上空から市街地が見え、爆弾が落ちると、工場、機械、造船所が破壊される。
すると映画は空から見た太平洋に変わり、長い触手を伸ばす不気味なタコ
(日本)に、爪を立てた強い鷲(アメリカ)が何度も襲いかかる。ある
評論家は、このシーンを「長すぎるどんちゃん騒ぎの破壊シーン」と評して
いる。やっつけられたタコは粉々になって消え、明るい空に陽が昇る。
「アメリカ・ザ・ビューティフル」(愛国歌)が流れる中、風にはためく
リアルな星条旗に鷲が舞い降り、“Victory Through Air Power“の
タイトル文字が出て終わる。最後の数分は、もっぱら長距離爆撃機で粉砕
される日本の描写であった。
この映画の通りであれば、戦略爆撃機は悪い敵を打ちのめし、連合国兵士の
生命を救うのみならず、経済的にも軍事的にも効率的であり、戦争恐怖と
悲惨を忘れさせてくれそうでもあった。だが映画評論家のジェームズ・
エイジーは、こう指摘している。「爆弾の素晴らしい威力が宣伝される一方
では、その下で苦しみ死んでいく敵国人民が描かれていない。実際、この
映画には民間人が全く登場しない」。とりわけ不快なのは、「最後の場面
が陽気なホロコースト願望」の表現になっていることであると。
これとは逆に、『ニューヨーク・タイムズ』は、「娯楽性と情報性を兼ねた
愉快で刺激的な映画だ」としてディズニー氏を称賛した。「次から次へと
爆弾が落とされ、轟音と共に日本が焼き尽くされる」シーンで、映画は終わるが、
それは「興奮させる場面の連続で、目が釘付け」になると熱く語り、
「空軍力の勝利」がプロパガンダとしても、これほど我々を勇気づける
プロパガンダは長らくなかった」と結んでいた。1943年8月、ディズニーは
ルーズべルトとチャーチルにこの映画のフィルムを送ったと言われている。
カナダのケベックでチャーチルと会談しているルーズベルトはこの映画に
感心し、フィルムを統合参謀本部に回送した。ケベック会談は英米の戦略を
調整した重要な会議であったが、この時アメリカは「日本打倒の為の空爆
計画」と題する文書をイギリスに示した。そこには、日本空爆の目的の一つは
「人的損害による労働力の不安定化」にあると記されていた。(中略)
p235 空爆の標的・日本
軍の用語で最も無難なものとして使われたのは、「鉄道操車場」といった表現で
あった。実際の爆撃は焼夷弾が相当な割合を占め、天候の影響で投下位置が
不正確なまま実行するのが普通であった。より直裁なのは、米第8空軍の作戦記録
にある「市街地」とか「都市と町」という表現であった。米軍の最高首脳部は、
早い時期から遠回しな名称を組み合わせて、「都市部工業地域」を攻撃せよと
命じていた。ただ、アメリカが「都市部工業地域」を明確に爆撃の中心に据えるのは、
空爆の対象を日本に移してからのことである。その場合も、公式にはアメリカの
作戦の基本目的は、軍事目標の破壊にあるとされていた。
日本での爆撃目標を選定する作業が本格的に始まったのは、1943年2月である。
それは、最新鋭の長距離爆撃機B29がアジアに配備されるよりも前であり、B29の
基地となる太平洋の島々を米軍が奪取するよりも前のことであった。この頃、
すでに軍需生産の大半が都市部の零細な「下請け」や「家内」工業で行われている
という日本の事情から、都市爆撃が望ましいと判断されていたのである。
米軍は、ユタ州のダグウエイ実験場に日本とドイツの労働者階級の住宅の
レプリカを作った。日本の木造住宅のレプリカは、12軒ずつ4列建設し、
そこにいろいろな焼夷弾を投下して破壊する実験を行った。(ドイツ用の
住宅は、レンガ作りの大きな二階建て集合住宅であった)。それは日本の
生活文化を再現したようなところがあった。日本式家屋の設計者に選ばれた
のは、建築家アントニン・レーモンドであった。彼は日本で暮らした経験があり、
日本建築の美的感覚に深い影響を受けていた。レーモンドは、細部にこだわって
自分の知識を注ぎ込んだ。民間業者に頼んで日本の建材に最も近い物を確保し、
檜に最も近い木材として(アラスカの)シトカ産スプルースを選んだ。漆喰の
代わりにアメリカ南西部産のアドベ粘土を使い、畳はハワイから運び込んだ。
まずニュージャージー州フォートディックス近郊にプレハブ工場を作り、
そこで組み立てた家のパーツを1600キロ離れたユタ州にトラックで輸送し、
実験で破壊されるごとに新しいものと取り替えた。レーモンドによる家屋の
描写は、細部への愛着のようなものさえ感じさせる。「家屋には布団、座布団、
その他日本の家庭ならどこにでもあるものは全て配置した。爆撃実験は昼と
夜、雨戸を開けた時と閉めた時に分けて行った」。なお、イギリス空軍は
日本本土空襲には参加しなかったが、初期の段階ではイギリスでも「何軒
かの日本家屋を建てて爆撃実験を行った。(イギリス側の設計図を見た
レーモンドは、「どこかの本から取ってきた」もので、「太い柱で、寺でも
立てるような設計になっている。全くの見当違いだ」と言って相手に
しなかった)
(中略)
焼夷弾攻撃が米陸軍航空軍の作戦に明確に組み入れられたのは、レプリカ
住宅での爆撃実験が始まった時期と同じ、1943年5月のことである。技術者、
科学者、戦略計画担当者が10月までに完成させた『日本ーー焼夷弾攻撃
のためのデータ』によると、焼夷弾攻撃には生産施設、軍事施設、貯蔵施設
に対する「直接効果」と、労働効率の低下、労働者の死傷、輸送と
公共サービスの中断、日本人の士気低下といった「間接効果」が補完しあう
ことも指摘していた。・・・
こうして、爆撃目標の選定作業は加速していった。爆撃計画担当者たちは、
本州の6大都市ーー東京、名古屋、大阪、神戸、横浜、川崎ーーに焦点を
絞り、9月の推定では、6大都市の推定死亡者数は50万人以上となっていた。
米陸軍航空軍情報部(A2)の内部計画書には、「我が小委員会は、
6大都市が完全なカオスとなり、最大58万4000人が死亡する可能性を
想定した」と書かれている。・・・(中略)
p239 大都市への焼夷弾攻撃
1945年3月9日、米第20空軍司令官カーチス・E・ル・メイ将軍は、
低高度からの大規模な夜間空襲を命じ、その結果、東京の住宅密集地帯が
焼け落ちた。夜間の低い高度での侵入は、B29のエンジン負荷を減らし、
迎撃機や高射砲による日本の防衛力を減殺した。ルメイは、高高度でしか
使わない防御用機銃、射撃手、弾薬、装甲等の大半をB29から取りはず
させた。その結果、「超空の要塞スーパーフォートレス」の積載可能
弾薬量は約25%(焼夷弾で約1360kg)増えた。この東京大空襲でも
その後の空襲でも、表向きの爆撃目標は軍需工場とされていた。
実際には、トマス・ソールが丹念に実証したように、米軍の内部では、
民間人が意図的に、ひとまとめに殺されるという事実を誤魔化すことは
ほとんどなかった。3月9日の空襲の際、幹部乗組員に配布された「東京
の都市工業地帯」という資料の「標的概要」には、「標的地域面積は
10平方マイル(約26平方メートル)、1平方マイルごとの平均人口は、
10万3000人、おそらく、世界の他の近代都市がこの平均人口を上回る
ことは無いと書かれていた。つまり操縦士たちには、「爆撃対象地域が
100万人前後の人口を持つことを、明確に知らされていたのである。
また「標的概要」には、爆撃の重要性として、「死傷者を出し、労働者
には転居を強い、労働力を復旧作業に振り向けさせ、労働者の士気を
低下させることにより、東京とその周辺の軍需工場の雇用が直接的な
影響を受けること」という記述があった。
1945年3月以降、米陸軍航空軍副官アイラ・C・イーカー中将は、
戦後のインタビューでこう表現している。「地域全体を焼いて熟練労働者
を殺すことは、大変理にかなっていた」。
この東京大空襲は、広島への原爆投下を除くと、単一の爆撃としては
日本に最も大きな被害をもたらした。ル・メイの部隊は334機の爆撃機
からなり、高度約1500mないし2700mの地域に約200トンの爆弾を
投下した。戦後の公的調査には、その後の雛形となった「爆弾投下
報告書」が収録されている。「目視により標的を爆撃。大火災を
確認。対空砲多少あり。戦闘機による反撃なし」。・・・
(爆撃後の写真による推定では、工業地区、商業地区、人口稠密な
住宅地区の中心部を含む15.8平方マイル(約41平方キロ)であった。
それから5ヶ月後の広島への原爆投下まで、これだけの規模の空爆は
なかった。東京大空襲による大火災が起こした嵐は時速45kmから90km
となり、「燃え木」が海にまで飛び散った。アメリカ政府の文書によると、
まるでハリウッド映画のスペクタクル場面に入り込んだような上昇気流が
発生した。「大気が極めて不安定になり、高度1800mのB29が完全に
仰向けになった。強烈な熱風により、搭乗員は全員、酸素マスクを装着
しなけければならなかった」(アメリカ戦略爆撃調査団報告書)。
地上にいた男、女、子供にとって、それはどんなものだっただろう。
たとえば、実際にあったことだが、火事嵐の中を逃げる母親が、背中の
赤ん坊が燃えているに気づくというのは。
🦊;この本には、45枚ほどの写真が載せてあるが、その中の1枚に、
ダワーのいう、黒焦げの母親の体の、背中部分だけが白く焼け残っており、
傍にこれも真っ黒焦げのちいさな死体が転がっているという、悲惨な
写真がある。・・
日本当局者は、降伏の前と後も、自国の被害を小さく見積もる傾向が
あったが、それによっても、この空襲で、東京全体の4分の1、
約26万7000の家屋が倒壊した。警察が死体を片付けるのに25日かかった
が、死体で水路が詰まっていることがあった。これは火災から逃れようと
飛び込んだ川や運河が火事嵐によって熱湯になり、人々が死亡したからで
あった。ラジオ・トウキョウ(戦時下日本の海外向け放送)はこの爆撃を
『虐殺に等しい』と表現し、日本の当局者は死亡者数を不思議なほど
細かく8万3793人、負傷者の半数から2倍と推定した。住居を失った人は
100万人以上であった。ルメイは戦後の回想の中で、この歴史的な空爆の
罹災者は「炙られ、煮られ、焼かれて死んだ」とあっさり述べている。
(🦊:東京大空襲の1945年3月9日から19日にかけて、名古屋、大阪、神戸
が集中爆撃を受け、人口稠密なこれら都市の約83平方キロが消失したが、
皇居は残った。皇居への爆撃は、日本の天皇の存在が後で有利に使えそうだ
という理由で、回避するように命令されていた。川崎も横浜も空襲に
晒された)。
とりわけ1945年3月9日から10日にかけての死傷者数は、その後の空襲に
よる死傷者に比べても凄まじいものであった。だが、本土のアメリカ人には
違う印象が伝わっていた。
1945年5月30日のニューヨーク・タイムズは、「米軍の沖縄上陸」を
第一面で大きく扱っているが、「東京消失」に関しては扱いが小さく、
「51平方マイル焼き払う。B29、東京を5回攻撃」との見出しがついて
いた。この記事はグアムのルメイ司令部発となっていて、「何マイルにも
広がる瓦礫、・・そこはかつて、重要な兵器庫、発電所、エンジン工場、
日本経済の大きな部分を占める家内工業があった」と書かれ、東京の51平方
マイルが消失と、妥当な数字を挙げている。・・(そして次ページには)
驚きの推定死者数が初めて出てくる。「約100万、ひょっとするとその倍
の天皇の臣民が死んだかもしれない」。のこりの記事は、6回の空襲の
日付と、損失したB29の数が中心である。この記事では、東京大空襲による
推定死傷者数が実際の10倍から20倍も誇張されている。これだけの死者数を
書きながら、それは第一面では解説されなかった。しかも『ニューヨーク・
タイムズ』のような権威ある新聞が、兵器庫、発電所、エンジン工場家内工業
に対する爆撃で、100あるいは200万の「天皇の臣民」が死亡したと平然と
書いて、そのまま今日まで放置しているのである。
第8章 テロ爆弾
p245 「焼き仕事」(バーンジョブ)と「二次的投下目標」(セカンダリー・
ゲット)
🦊:1945年、6大都市以外の、人口10万以下の中小都市には、「産業上の
重要性は全く無いと知りつつ」、「単に燃えていないという」理由から、
「臨機的標的」つまり正規の軍事目標ではなく、「帰還時に飛行機の爆弾を
減らすなどのために、臨機に爆撃」する対象だった。これらの作戦は、焼き仕事、
か牛乳配達(日常業務)とか呼ばれた。
アメリカ戦略爆撃調査団は、戦後の報告書でこう結論付けている。「都市部への
焼夷弾攻撃によって、被災地の住宅、小規模な商業、産業施設、相当数の重要な
工場が完全に消滅」し、広島と長崎を含め「日本の都市住民全体の約30%が
住居を失った。日本の都市は効率の良い爆撃目標であり、搭載爆弾量の3分の1、
1945年5月以降では4分の3が焼夷弾であった」。・・・
民間人を意図的に標的にするということを「非人間的な蛮行」(1939年の
ルーズベルト大統領の言葉)と非難した時期から、それこそが主要な方法と
なる1943年までには、心理上、道徳上の大きな飛躍がある。これは、通常の
破壊兵器から核兵器へという科学技術上の飛躍に匹敵するが、当時もその後も、
この飛躍の大きさに人々はあまり気づいていない。戦後のフォーチュン誌の論説が
述べたように、日本空爆は原子爆弾を頂点とする新しい戦争の始まりであり、
それは「都市を次から次へと日常的に抹殺すること」を特徴とする、「史上初の、
劇的な空の戦争」であった。しかし、対独戦、対日戦に従事した人々の中には、
正義の戦争というアメリカの理念が根本から危機にさらされていることに、
憂慮した人が、少数ながらいた。例えば、フィリピンでマッカーサーの情報
参謀であったボナー・フェラーズ准将は、1945年6月17日ーー偶然にも、
日本の約60の中小都市への爆撃が開始された日ーーの覚書に、アメリカ
による空爆は「全ての歴史の中で、最も非情かつ野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」
であると書いている。
対日戦争時、ルメイ将軍の下で若き爆撃計画官であったマクナマラ(ベトナム
戦争時の米国務長官)は、こう語っている。「もし我々が負けていたら、我々は
戦争犯罪人として訴追されていただろう。そうルメイは言った。(焼夷弾攻撃を
指揮したルメイは、戦後、自分の行為の道徳的、法的な問題性を気にしていた)。
しかし同じ所業が、負けたら不道徳とされ、勝ったら不道徳で無いことになる
のは何故だろう?」
マクナマラの問いに対する答えは、それほど遠いところにあるわけではない。
想像力不足、歴史書の記述は勝者が決めるのだし、何が道徳的かの基準も、
勝者が決めるからである。
🦊:第9章 「原爆をめぐる葛藤」
あまりにも話が悪辣すぎて、キツネごときには理解しかねる。
そこで、いくつかの文章をつまみ出して、「文化としての原爆投下」を
覗いてみよう。
p279
トルーマンは引退した後、飾り気のない言葉遣いと常識的な考え方を
した大統領としてやや誇大とも言える賞賛を受けることが多かった。
トルーマンのような実利的な考えの持ち主が、戦争の大釜の中で、
最高権力者になったとき、あるときは人口密集都市を原爆の標的に
することを承認し、あるときは恐るべき新兵器を旧約聖書の「破壊
の火」になぞらえ、またあるときは、それでも「女性と子供」には
ほとんど危険はないだろうと空想したのである。このことは、現代の
心理戦が、いかに事実否認や妄想願望から切り離せなくなって
いるかの例証である。
p264
どれくらいの男、女、子供が死んだか、正確にわかることはないで
あろう。疎開する人、往来する部隊、錯綜した状況の中、8月初旬
における広島と長崎の実際の人口がどれくらいあったか、明らか
でない。周辺の居住地帯は完全に壊滅し。再興に役立つ戸籍や地籍
などの記録も消えてしまった。死体を早めに処理する必要があった
ため、配偶者、子供、近所の人や同僚の死体を自分で火葬した
人もいた。原爆投下の数日後、児童達は同級生を焼く2度目の
不気味な炎を学校で見ることになった。身元不明者については、
死体を焼却する大きな薪の山が組まれ、そのまま火がつけられ
た。・・
大半の人は、核爆発の熱線による火傷、ガレキの落下などの
「爆風の二次的影響」、火災による火傷によって死亡した。
アメリカ爆撃調査団の臨床的表現によると、「一人がいくつもの
外傷を負ったため、理論上は。明らかに何度か繰り返し死んだ
ものが多くいた」。大多数は即死ないし数時間で命を落としたが、
数日、数週間、数ヶ月と苦しんで亡くなった者も少なくなかった。
投下直後、医療と言えるものはなく、(大半の医師、看護婦が
死亡)軟膏、治療薬、鎮痛剤はなく、相当な時間が経っても医療は
全く不十分なままであった。その後何十年も、数十年経っても、
原子爆弾による外傷あるいは疾病で亡くなる人が続いた。・・
p270 ゼロを予期する
このように見てくると、原子爆弾が人間に及ぼした影響は、
ほとんど異常とも言うべき悪意の結果であるように思われる。
事実、こうした影響は事前に予想されていた。例えば、
1944年9月、原爆投下に選ばれた搭乗員を訓練するために、
第509混成部隊が結成されたが、この部隊は高度8000から
9600mという例外的な高さからの精密爆撃に焦点を置いて
いた。ある記録によれば、「リトルボーイ」と「ファットマン」
の155個の模擬爆弾を砂漠に投下し、原爆の爆風で墜落
しないよう、爆弾投下直後に機体を完璧に傾ける訓練を延々と
行った。・・
新型爆弾の実験まで2ヶ月となった1945年5月初め、
「マンハッタン計画」(原爆開発計画)の科学研究部門の
責任者であったロバート・オッペンハイマーは、搭乗員
に降りかかる原爆特有の危険について、こう述べている。
「放射線との関係では、爆撃機はゼロ地点(爆発点)から
4km以内に近づかないこと、また爆撃機は、放射線物質の
雲を回避しなければならない」。オッペンハイマーは
その後、放射線は非常に高い確率で、少なくとも半径1km
の範囲で・・危険であると暫定委員会(極秘委員会)に
知らせていた。
1945年7月中旬、ニューメキシコ州の砂漠で爆発実験が
行われた際にも、爆撃機搭乗員に対するのと同様の、
綿密な注意が払われた。約150人の軍の将校と科学者たち
が、ゼロ地点から1.4km離れた「ベースキャンプ」
に掘った深さ0.9m、幅2.1m、長さ7.6mの待避壕から
爆発を観察した。原子爆弾は高さ30mの鉄塔に設置され、
そこから約9.2m離れたところに司令センターなど最も
近い観測施設が置かれた。そこにはセメントで補強され
何層にも土で覆われたシェルターが作られた。
32キロ離れた場所で観察していた人たちに対してさえ、
「ゼロ(爆発)2分前」にサイレンが鳴れば、「直ちに
地面にうつ伏せになり、顔と目は地面にむけ、頭はゼロ地点
に向けない」ように指示が出された。
最初の閃光の後の光景を見るために、溶接工事用の濃い
遮光メガネが配布され、飛来する瓦礫で負傷しないよう、
2分間はうつ伏せでいるよう告げられた。・・
原爆の開発、使用を計画、実行した米英の科学者と、
ヨーロッパからの亡命科学者からなるエリート集団は、
新たな集団破壊兵器の時代を築いた。彼らは自分たちの
目を保護しながら、爆発をしっかりと観察していたが、
彼らに見えなかったのは、正確には一体どういう人たちを、
どう言う機会に、どれくらい殺戮するのか、ということで
あった。オッペンハイマーは、原発一つで死ぬ日本人は、
せいぜい2万人ぐらいだろうと予測していた。
(そのオッペンハイマーも、のちにこう回想している。
原子の破壊力を利用することについてどう思うかと聞かれて)
「もはや世界はこれまでと同じではあり得ない。私は
ヒンドゥー教の一節を思い出した。ヴィシュヌ神は、無数の
腕を持つ姿に変身し、こう言う。「我は死神、全世界の
破壊者なり」。そこにいた人たちは皆、これに似た感覚を
抱いていたと思う」。
だが、彼ら科学者も米英の指導者たちも、新兵器が世界を
変えるほどの大破壊をもたらす可能性を、すでに認識して
いた。・・
「世界の終末」(アボカリプス)と言う言葉が、関係者
たちの語りに登場していた。例えば、7月16日の
原爆実験に立ち会ったトマス・ファーレル准将は、
その場で神性、破壊、破滅といった言葉を思い出した。
「長く続く恐ろしい轟音。この世の終わりの警告。
ちっぽけな存在である人間が、全能の神にのみ許された
力を弄ぶ。そんな冒涜を犯した。・・我々はそう思わずには
いられなかった」。
化学者で、爆発物の専門家であったハーバード大学の
ジョージ・キスチャコフスキーは、トリニティ実験場の
光景を見て、「およそ想像できる限り、これは世界の終末
に最も近い」と述べた。・・・
英国のチャーチル首相は、ポツダムで原爆実験成功の知らせを
聞いた時、「神の再臨だ。天罰のための・・」と言ったという。
(トルーマンは、7月25日、日記にこう書いた。それは
(ソドムとゴモラを全滅させた)伝説の、天からの火かも
しれない」。
p274 死神になる
死神となった政策決定者、軍の将校たちは、世界の終末の
予感を抱きながら、綺麗な言葉でそれを包み、心で打ち消して
済ませようとした。彼らは、この新兵器を使わないという
選択肢を一度たりとも検討しなかった。母たちを灰にし、
胎児に放射線を浴びせることについても語らなかった。
中堅以下の科学者の要請にもかかわらず、投下目標の
再検討もしなかった。2発目を投下する前に、動揺した
日本の指導者たちに時間を与えるべきかどうか。それも真剣に
検討しなかった。・・・
マンハッタン計画の軍事面の総責任者であったレズリー・
グローブス将軍の表現によると、投下地選定の「支配的要素」
は、「日本国民の戦争継続の意志を最大限に打ち砕く地点
であること」であり、この要素に比べれば、軍需工場が
あるかといった純軍事的要素は二の次であった。全体にもっとも
重要視されたのは、完璧な実験に必要な条件、つまり原爆投下
まで空襲を受けておらず、かつ「原爆の威力ができるだけ
明確に判定できるよう、被害が市街地の範囲に集中するサイズ」
の都市であることであった。
科学者、兵器設計者、爆弾製造者、戦争立案者は、被曝の対象は、
「軍事目標」だと言い続けた。「軍事目標」とは、広島、長崎以前に
64都市を焼き払った絨毯爆撃の中で、彼らが磨き上げた心地よい
偽装語であった。
p279. 戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救う
事実否認や妄想願望ということとは別に、戦争を早く終わらせて
米兵の命を救うことが原爆投下の具体的な目的であったという
理解が、今でも主流である。
2発の原爆を投下し日本の降伏を早め、本土上陸作戦を実行せずに
済んだことによって、どれくらいのアメリカ人の生命が救われたか。
これが日本降伏後、激しい議論の的になった。(トルーマンは戦後
何年も経ってから、コロンビア大学での対話集会で、救われた人数を)
「原子爆弾は、もう一つの正義の兵器でした。それが、数百万の命を
救ったのです」と語った。
チャーチルは、「原爆が120万の連合国兵士(うち100万は米兵)を
救った」と回想し、名著とされる『第二次世界大戦』の最終巻では、
原爆投下を独特の雄弁で、こう正当化した。「広域的で無制限な殺生を
避け、戦争を終末に導き、世界に平和をもたらすこと、数回の爆発で
圧倒的な力を見せ、苦悩を強いられた人々に癒しの手を差し伸べる
ことはーーこうしたことは、我々が味わった辛苦と危難の後では
解放の奇跡のように思われた」。
8月9日にラジオで放送されたポツダム会談に関する報告で、
トルーマン大統領は広島に投下された「原子爆弾の悲劇的重要性」
について言及したが、「戦争の苦痛を短縮させるために」原爆を
使用したと語った。
「何千もの・・」と言った表現は、単に「あまりにも多い」ことを
表すレトリックであった。これは同時に、数年前まで心にかけていた
道義的な配慮から、アメリカの戦争計画者たちがいかに遠く離れて
しまったかを表してもいた。例えば真珠湾攻撃の前には、フランクリン・
ルーズベルト大統領はこう述べていた。「空からの残酷な爆撃が、・・
身を守る術のない何千人もの男、女、子供を不具にし、死に至らしめて
いる。このことは、文明国の市民の心に深い衝撃を与えてきた」。
空爆の初期に精密攻撃を計画したアメリカ人もまた、敵の非戦闘員に
何千もの死傷者を産まないよう、できるだけのことをしようと真剣に
検討していた。
こうした時代は永遠に過ぎ去った。その代わりに出現したのは、恐怖の
創出、最大限の無差別的軍事力の展開、空前の破壊力を持つ兵器の開発、
そうしたものに依拠した現代の心理戦であった。
※※※※※****************************
🦊:オリンピック終了の花火を合図に、ロシア軍が突然ウクライナに侵入
した。ウクライナ全土を制圧し、ウクライナの現政権を引っ張り下ろし、
傀儡政権の下で「ロシア領ウクライナ」を実現しようという計画だった
らしい。核大国ロシアだぞ、どうだ、怖いだろう!みたいな脅し文句を
口にする、なんとも幼稚な「心理戦」、今時は流行らない。アメリカだって、
流石に軍隊派遣なんかしないで、経済的封鎖作戦を強化して様子見だ。
こうなったら核爆弾がなんの役に立とうか。お互い、使えない兵器だ。
すでに民間人数百人が爆撃を受けて死んだ。幼い子供も。
なのに、プーチンはいう「これは侵略じゃない」。全世界がスマホで
見てる。テレビしか持っていないロシアのおじいさんとおばあさんは
プーチンの嘘を嘘とも思わないんだろうが、若者は「馬鹿じゃねーの」
「前世紀ならともかく、今時脅しと暴力で世界制覇とは」「プーチン、降りろ」
「ロシア人は戦争を望んでなんかいない」と。
ところで、だ。問題は日本だ。おつむの中が「アメリカ万歳」の輩が
核兵器の共同保有、なんて言い出した。なんでも、「アジアの警察官」
と自称しておったぞ。ダワーのいう想像力不足、自分のついた嘘に
自分が騙される自惚れ鏡。世界の、というのはおこがましいから、
「アジアの」とは笑わせる。悔しかったら、中国を相手に宣戦布告して
みなはれや。アジアは手強いぞ。
アメリカ人も、いい加減世界制覇の夢から覚めると良い。いいからさ。
原爆を生み出した科学者さんたち。せっかくのIQを、地獄の犯罪に
使った、(まさしく閻魔様の裁きは免れ難い)その自覚を取り戻して、
せめて近い将来の宇宙的犯罪を防ぐべく、骨折ってほしい。
(下巻は纏めにくいので、ここでおしまい)。
2022 3 5
追記:2022 3 10
『欧州季評』 あふれるロシアの闇資金ーー戦車走るまで動かぬ英国
ブレイディみかこ(1965年生まれ。英国在住)による寄稿
2022年4月10日、朝日新聞“交論“ より抜粋
「英国に住んで四半世紀になる。今日までいろんなものを見てきた。
ブレア政権がイラク戦争を始めた時には空爆や英軍兵士の写真で
新聞紙面が埋め尽くされた。2015年に英軍がシリアを初空爆した
時には『キャメロンの戦争』の見出しが躍った。(中略)
ロシアのウクライナ侵攻で、英国内でも怒りが湧き上がっている。
だが英国は、ロシアの富豪の資金洗浄のハブと呼ばれてきた国だ。
20年に発表された英国内務省の報告書にも「英国経済を通した
ロシアの、あるいはロシア関連の違法な資金の大量な流れ」は
続いていると記されている。
NGOトランスペアレンシー・インターナショナルの分析によれば、
汚職で告発されたり、プーチンとのつながりを指摘されたリした
ロシア人の英国内の所有資産は約15億ポンドにのぼる。
14年時点で15万人のロシア人が住んでいると報じられていた
ロンドンは「テムズ川のほとりのモスクワ」と呼ばれてきた。
英国には「ゴールデン・ビザ」とも呼ばれる投資家向けの
ビザ制度が存在し、英国企業や英国債などに200万ポンド
(約3億円)を投資すればビザが与えられ、5年後には永住権が
与えられた。投資額が500万ポンドならば3年後、1千万ポンド
ならば2年後に永住権が獲得できた。が、ロシアとウクライナの
緊張が高まった2月中旬、英政府は「英国の人々の期待に応えず、
腐敗したエリートたちに英国にアクセスする機会を与えた』と
してこのビザ制度を廃止している。
※※*
ロシアの富豪たちの英国政治への影響力も取り沙汰されるように
なった。20年には、与党・保守党に170万ポンドの献金をした
ロシア人女性の夫がプーチン大統領のもとで財務大臣を務めた
人物だったとわかりスキャンダルになった。この女性はメイ首相
(当時)と会食したり、ロンドン市長だった頃のジョンソン首相
とテニスをしたりしていた。
ジャーナリストのニック・コーエン氏は、英国ではロシアに
関する真実を伝えることが困難になっていたとガーディアン誌
に書いている。ロシアのマネーパワーは、英国の言論の自由
さえ脅かしていたというのだ。政権による圧力があるわけでも、
権力者からの圧力があるわけでもない。訴えられたら大変な
ことになるのでメディア側に自主規制が働いていたと彼は言う。
もちろん、英国の判事たちがロシアの富豪に買収されていた訳
ではない。そうではなく、富豪に訴えられると莫大な裁判費用が
かかるので、リスクを冒さなくなっていたのだ。例えば、
ジャーナリストのキャサリン・ベルトン氏がプーチン氏とその
周辺の人々の闇の部分を明かした「Putin’s People」が出版
された時、ロマン・アブラモビッチ氏ほか数人のロシア人の
富豪に訴えられたため、版元のハーパーコリンズは150万ポンド
の裁判費用を支払ったという。よっぽどのベストセラーになる
確証でもなければ、払いたくない額だろう。
※※*
ロシアの富豪たちのおかげで英国の一部の弁護士たちは懐を
肥やしてきた。政治家もサッカー選手も不動産業者もギャラリー
のオーナーも同様だ。慣れというものは恐ろしいもので、そのうち
「汚れた金でもないよりはまし」という態度が蔓延し、批判すれば
お高くとまった理想主義者と言われるようになった。欧州連合(EU)
離脱とパンデミックで先行き不安な経済に対する悲劇的見方が、
「仕方がない」という無力感にもつながった。
だが、慣れと無力感に麻痺しているうちに、遠くで戦車が走り出して
いた。ジョンソン首相は米紙ニューヨーク・タイムズへの寄稿の中で、
「ロシアへの経済的圧力を最大化しなければならない」と書いた。
まるで英国が経済制裁の先頭に立っているかのような勇ましい口ぶり
だ。
すでに18年には英国下院外交委員会が報告書を公表し、ロシアの
領土的野心に歯止めをかける方法は、プーチン政権が英国をはじめ
とする海外で行っている資金洗浄を阻止することだと訴えていた。
下院外交委員長は、今年1月にもロンドンにあふれるロシアの闇資金
が英国の安全保障上の脅威になっていると発言した。それを放置して
きた英政府の責任はどうなるのだろう。
ようやく3月初めに、英国資産を通じた外国所有者による資金洗浄を
困難にする法案が英国議会に提出された。戦車が走り出すと急に物事
が動く、だがそれは、裏を返せば戦車が走るまで何もしなかったこと
の査証でもあるのだ」。
🦊はこの記事を読んで、英国が計算ずくでEUから離脱した、その
わけが、ロシアとの蜜月にあったことを理解した。EU結成の頃の
理想「EU加盟国は、互いに国境を超えて侵略しない」こと、(この
項、狐の間違い。ロシアはEUに加盟していない。だから必然的にEUは
NATOとともにロシア包囲網の性格を持たされ、今回の侵略につながった。
あからさまなNATO拡大方針が招いた誤算だと指摘する声もある)
の誓約が1日のうちにぶっ飛び、侵略する側が「うちこそイジメられ、
狭いところに押し込められているんだ。この戦いは防衛戦だ。
EU、NATO、アメリカ、お前らこそが組んでオレたちを殲滅しよう
との陰謀を企んでいるじゃあないか」
と、まるで第二次大戦の時の日本軍みたいなことを言ってる。
そしてその後ろだてとして、ロシア国民(ある本によれば、従順で
頑強で、まるで兵隊になるべく生まれたような)がいる。彼らは
ナチスに勝利したという過去の輝かしい記憶が忘れられないのかも
しれない。(それでも、資本主義時代に育った若者達は、自分らの
知らないところで戦争が始まった、と怒りの声を上げており、何千人
もの逮捕者が出た)そのプーチンの頭の中には、「栄光の大ロシア」が
あるらしい。他にも「一帯一路の中華大帝国」とやら、「核の
オモチャ大国」とやら、過去の歴史に学ぶ、ブクブクの膨れ頭が
導く、反平和、戦争嗜好の集団が、垣根を破って侵入してくるかも
しれない。
だが、人間としての常識、平常心、平和を結ぶ心、それを持ち続け、
人道無視の鬼どもに立ち向かわなくてはならない。それができなければ、
地上の見栄えのしない雑草にも劣る。
最後に、その雑草代表として、チチコグサ、またはチチコグサもどき、の
写真を載せておく。
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