我が魂を聖地に埋めよ
我が魂を聖地に埋めよ
デイー・ブラウン著 1970年にアメリカで出版
1972年 草思社刊 鈴木主税(すずき・ちから)訳
(下巻 p9) キャプテン・ジャックの試練
🛑私はただの一人だが、人々の声である。かれらの心に何が
あるのかを、私が話す。私はもう戦争を望まない。ただ、人間に
なりたいのだ。あなたは私に対して、白人の持っている権利を
拒んだ。私の皮膚は赤いが、心は白人の心と同じだ。私は
モドック族である。死を恐れないし、おとなしく岩に横たわる
こともしない。私が死ぬ時、敵は私の下敷きになるだろう。
あなたの兵隊が攻撃したのは、ロスト・リバーで戦っている時
だった。彼らは私を、傷ついたシカのように、あの岩に追い詰めた。
・・・
私はこれまでいつも白人に、私の土地に来て住めと言った。そこは
彼らの土地であり、キャプテン・ジャックの土地である。
ここに来て私と一緒に暮らしてもかまわない。そうしたからと言って
腹を立てたりはしないと言ってやったのだ。私は誰からも一銭も
貰わず、買ったものについては支払いをした。私は常に白人のように
暮らしてきたし、まさにそうしたいと望んでいた。いつでも平和に
生きようとし、
人に何かを求めたことなど決してなかった。
銃で撃って殺し、罠によって捕らえた獲物によって、常に暮らしを
たててきたのだ」ーーモドック族、キントブッシュ(キャプテン・ジャック)
カリフォルニアのインデイアンは、彼らの住む土地の気候のように大人し
かった。スペイン人は彼らに名前を与え、教会を建て、改宗させ、
そして彼らを堕落させた。部族組織はカリフォルニアのインデイアンの
間では、それほど整備されていなかった。個々の村には指導者がいたが、
この戦争が嫌いな人々の中からは、大戦闘酋長は生まれなかったのである。
1848年に金が発見されると、世界中から数千人の白人がカリフオルニアに
押しかけ、そこに住むおとなしいインデイアンから自分たちの欲しい物を
奪い、それ以前にスペイン人が堕落させていなかった者を堕落させ、今では
忘れられて久しい土着の人々を組織的に絶滅へと追いやった。
チルラ、チマリコ、ユレブレ、二ぺワイ、アロナといった名前をはじめ、
およそ100を超えるバンド(部族)のことは、もはや誰の記憶にも残って
いない。彼らの骨は100万マイルにも及ぶ高速道路や駐車場や地方住宅の
石の土台の下に埋もれてしまったのである。
カリフォルニアの無抵抗なインデイアンの唯一の例外は、オレゴンとの境
に位置するトウーレ湖の近くの比較的厳しい風土に住むモドック族
だった。1850年代までは、モドックはほとんど白人の姿を目にしなかったが、
やがて移住者がひきも切らずに群れをなしてやって来るようになり、モドック族が
大人しく諦めるだろうとあてにして、彼らの一番良い土地を占領した。
モドック族が戦う気勢を示すと、白い侵入者は相手を皆殺しにしようとした。
だがモドック族は待ち伏せをかけて仕返しをした。この時期に、キントブッシュ
という名の若いモドックは成人しつつあった。モドックが白人と殺し合いなど
せずに一緒に暮らすことができないのはなぜか、彼には分からなかった。
トウーレ湖地方は空のように果てしがなく、シカもカモシカもアヒルも鴨も
魚も、そしてカマス(百合科植物)の根も、すべての人間の必要を満たすに
足りた。キントブッシュは、白人と平和な関係を結ぼうとしない父を諌めた。
酋長だったその父はキントブッシュに、白人はすぐに裏切るから彼らを追い出さぬ
かぎり平和は望めないのだと語った。それから程なく、酋長は白人移住者との
戦いで殺され、キントブッシュがモドック族の酋長となった。
キントブッシュは白人の居住地へ行き、信用できる白人を見つけて、彼らと和議を
結ぼうとした。ワイリカで、彼は善良な人々と会い、じきにすべてのモドックが
そこで交易をするようになった。「白人が私の土地を訪れるたびに言ったものだ」
とキントブッシュは語っている。「家をたてて住みたければそうしてもかまわない、と。
私は、彼らがこの土地にやってきて我々と一緒に暮らすことを望んでいた。白人と
一緒になりたかったのだ。若い酋長は、彼らの着ている服、家、幌馬車、立派な家畜も
気に入っていた。ワイリカに住む白人は、自分達のところを訪れるそれらのインデイアン
に新しい名前をつけた。モドック族の者はそれを面白がり、しばしば仲間同士でもその
名前を使った。キントブッシュはキャプテンジャックだった。・・・
白人が南北戦争を始めた頃、モドック族と白人の間にもめ事が起こった。モドック族の
者は、家族を養うためのシカを見つけて殺すことができない場合、しばしば農場者の牛を殺し、
馬が必要になれば移住者が放し飼いにしている馬を無断で借用したのである。モドック族の
白い友人たちは、インデイアンがその土地を移住者に使わせる代償として課した「税金」
だと考えて、そのことに目をつぶったが、移住者の大半は腹の虫がおさまらず、自分達を
代表する政治家に働きかけ、条約によってモドック族をトウーレ地方から排除しようとした。
条約委員はキャプテンジャックをはじめ他の主だった者たちに、北に移動してオレゴンの
保留地に入れば、自分の土地に数頭の馬と幌馬車、農機具、さまざまな道具、衣類、食料が
すべての部族にあたえられ、それらはいずれも政府から支給されると約束した。キャプテン・
ジャックはトウーレ湖の近くに自分の土地を持ちたがったが、委員はそれを認めなかった。
いくらかためらったあげく、ジャックは条約に署名し、モドック族は北に移ってクラマス
保留地に入った。だが、最初から紛争が生じた。その保留地はクラマスインデイアンの
領土に属し、クラマス族はモドックを侵入者とみなした。モドック族が木を切って柵を作り、
割り当てられた農地を仕切ると、クラマス族がやってきてその柵の横木を盗むのであった。
政府が約束した品物はついぞ送られてくる気配がなかった。(ワシントンの大会議は、
モドック族の支給品を購入するための予算を認めなかったのである)
部族の者が飢えに苦しむ有様を目にすると、キャプテンジャックは全員を引き連れて
保留地を出た。彼らはかつて住んでいたことのあるロスト・リバー渓谷に入り、猟獸や魚や
カマスの根をさがした。しかし、その渓谷に住む白人は、モドック族がその近くをうろつく
ことを好まず、政府当局にしばしば苦情を訴えた。キャプテンジャックは部族の者に白人から
遠ざかっているように注意したが、300人のインデイアンが白人の目につかないようにして
いるのは容易なことではなかった。1872年夏、インデイアン総務局はキャプテンジャックに
警告を発し、クラマス保留地に戻るよう通達した。ジャックは、自分の部族の者はクラマス族
と一緒には住めないと答え、昔からモドックの土地だったロスト・リバーのどこかに
モドック族の保留地を作ってくれと要求した。インデイアン総務局はその要求を妥当なものと
考えたが、農場主たちはその肥沃な牧草地がわずかなりともインデイアンに与えられることには
反対だった。
1872年秋、政府はモドック族にクラマス保留地に帰れと命令した。ジャックがそれを拒否すると、
軍隊にモドック族を強制的に送還する任務が与えられた。1972年11月28日、冷たい雨のなかを
ジェームズ・ジャクソン少佐の第1騎兵隊所属の38人の騎兵からなる1個中隊はクラマス砦を
出ると、ロストリバーに向かって南進した。夜明け前に騎兵隊はモドック族の野営地に着き、
馬を降りて銃を構え、小屋を包囲した。・・・
ジャックが姿を見せると、ジャクソン少佐は、モドック族をクラマス保留地に連れ戻せという
大統領の命令を伝えた。「行くことにしよう」とジャックは言った。「部族の者を全員連れて
行くが、私はあなた方白人の言う一切のことを、もう信用しない。いいか、あなたは私のこの
野営地に、まだ暗いうちにやってきた。私と私の部族の者はおびえた。私は逃げも隠れもしない。
私に会いたければ男らしくやってきて、私と話をしろ」
ジャクソン少佐は、自分は面倒を起こすためにやってきたのではないと言った。そしてジャック
に、部族の者を兵隊の前に集めろと命令した。それが済むと、少佐は隊列の外れにあるヨモギの
茂みを指して、「あそこにお前たちの銃を置け」と命令した。「なんのために?」とジャックは
たずねた。
「お前は酋長だ。お前が銃を置けばお前の全ての部下がそれに倣うだろう。言う通りにすれば、
何も面倒は起こらないのだ」
キャプテンジャックはためらった。部下が武器を放棄したがらないことはわかっていた。
「私はこれまで白人と戦ったことはない。戦いたいとも思わない」と彼は言った。キャプテン・
ジャックは銃をヨモギの茂みに置き、他の者に自分に倣えと合図した。インデイアンは一人ずつ
進み出て、それぞれの銃を重ねていった。スカーフェイスド・チャーリーが最後だった。彼は
自分の銃を既に積まれている山の上に置いたが、ピストルは腰につけたままだった。少佐は
ピストルを渡せと命令した。
「俺の銃をとりあげたではないか」とスカーフェイスドが答えた。
少佐はフレーザー・バウテル中尉に声をかけた。「あいつを武装解除しろ!」「そのピストルを
よこせ、キサマ、早く!」とバウテルは前に進みながら命令した。スカーフェイスド・チャーリーは
声を上げて笑い、自分は犬ではないのだから怒鳴るなと言った。バウテルは腰の拳銃を抜いた。
「このろくでなしめ、返事の仕方を教えてやる」。スカーフェイスドは自分は犬ではないと
くりかえし、ピストルはそのまま持っているつもりだと付け加えた。バウテルが手にした拳銃を
かまえると、スカーフェイスドも腰から拳銃を抜き、二人は引き金を引いた。モドックの銃弾は
中尉の上着の袖を撃ち抜いたが、スカーフェイスドには弾丸は当たらなかった。そして彼が、
すぐさま武器の山に近寄り、その上から自分のライフルを取り上げると、モドックの全ての戦士が
それに倣った。騎兵隊の指揮官は部下に発砲を命じた。しばらくの間活発な撃ち合いが続いて
いたが、やがて兵隊は後退した。一人の死者と7人の負傷者は、その場に置き去りにされたまま
だった。その時までには、モドックの女と子供は丸木舟に乗り、南のトウーレ湖目指して懸命に
こいでいた。キャプテンジャックと戦士たちは、うっそうと茂る葦に身を隠しながら、岸伝いに
その後を追った。彼らは湖の南のモドック族の伝統的な避難所、カリフォルニアのラヴァ・ベッド
(溶岩地帯)へと急いだのである。
ラヴァ・ベッドは燃え尽きた火の土地で、その一帯は至るところにほら穴やクレヴアスが散在し、
100フィートの深さに切れ込んでいる谷もあった。キャプテンジャックが自分の砦として選んだ
ほら穴は、噴火口を思わせる大きな空洞で、自然の胸壁がその周囲を取り巻いていた。
ジャックは、自分の部下の者はわずかな戦士でも、必要ならば軍隊を相手に戦えることを知って
いたが、今は兵隊が自分たちをそっとしておいてくれることをのぞんでいた。
🦊 (ここで事件が起こった。フッカージムの率いる少数のバンドは、キャプテンジャックの
野営地の対岸で野営していたが、兵隊と数人の白人が彼らの野営地に近づき、だしぬけに
発砲し始めた。一人の母親が抱いていた赤ん坊と年取った女を殺し、数人の男に負傷させた。
フッカージムとその部下は、死んだ仲間の復讐のため、逃走の途中で農場を襲って12人の
白人移住者を殺した)
🛑殺された移住者の中には、ジャックがよく知っていて、信用していた者が何人か含まれて
いた。野営地に現れたフッカージムに、彼は詰問した。「私の友人を殺してくれなどと
頼んだ覚えはない。お前たちは勝手にそんなことをやったのだ」
キャプテンジャックは、今や間違いなく兵隊がやってくると覚った。復讐のためとあらば
必ず彼らはやってくる。そしてモドック族の酋長であるからには、彼がフッカージム等の
犯罪の結果を引き受けなければならないのであった。・・・
キャプテンジャックは、部族会議を開き、部族員に自分の考えを伝え、説得しようとした。
「平和委員(政府から派遣された白人の仲裁人)と交渉し、フッカージムのバンドを救うと
ともに、保留地として良い土地を獲得したい。私がお前たちに求めるのは、自制して待って
もらいたいということだ」と彼は言った。しかし、フッカージムとその仲間たちは、「平和
委員の腹黒い策略には何度も騙された。兵力が整い次第、彼らは我々に飛びかかり、最後の
一人まで殺してしまうだろう」と言った。そして、この次の和平会議の席で平和委員を
殺そうと提案した。「我々の酋長ならば、この次に顔を合わせたときに、キャンピー将軍
(ワシントンのグレート・ワリア・シャーマンから当時の平和委員会の監督官として派遣
されていた人物)をお前が殺せ」
約50人の男のうち、わずか12人ほどの彼の忠実な配下だけが反対した。
「キャンピーとの会談で、モドック族の望むところを将軍に訴える」とジャックは言った。
「何度も要請することにしよう。それで彼が条件を呑んだら殺さない。わかったか?」
「わかった」」と全員が言った。
「それでも良いか?」
「良い」と全員が同意した。
1873年のグッドフライデーは晴れで、兵隊のキャンプとラヴァ・ベッドの山塞の
中間にまだ残っていた会議のテントの厚い布を、冷たい風がはためかせていた。
遅れて到着した委員はテントに着くと、持参した葉巻を一人ひとりに配り、
焚火の燃えさしを使って火をつけると、全員が火を囲んで石に座り、しばらくの
間黙って煙をふかした。フランク・リドルが後に回想しているところによれば、
キャンピーが最初に発言した。「彼は、自分はもうかれこれ30年も
インデイアンと接触していることになるが、ここに来たのも平和な関係を結び、
じっくりと話し合うためなのだと言った。さらに、何であれ与えると約束したもの
は必ず手に入れられるようにするし、自分についてくるならば、すばらしい土地に
連れてゆき、そこに落ち着かせてやる。そうすれば、白人のように暮らせるだろう
と言った」・・・
キャプテンジャックは、自分たちはモドックの土地を離れたくないのだと言い、
トウーレ湖とラヴァ・ベッドに近いどこかに保留地を作ってくれと求めた。
ミーチャム(政府委員の1人)は、ジャックが、前と同じ要求を繰り返したので
いらだっていた。彼は声を張り上げ、「子供のように振舞うのはやめて、
男らしく話をしようではないか」と言った。そして、平和に暮らせる場所に
保留地が見つかるまで、それを望むモドックはラヴァ・ベッドにいても
かまわないという提案をした。
ミーチャムと10フィートほど離れて、差し向かいに座っていたションチン・
ジョン(モドック族)が、その時怒気を含んだモドック語で、委員に黙れと言った。
その瞬間、フッカージムが立ち上がって委員の傍らにつないであったミーチャム
の馬に近づいた。ミーチャムの外套が鞍に乗せてあった。フッカージムは外套を
取り、袖に手を通すとボタンをかけ、焚火の前をいくらかおどけながら歩き回った。
他の者は話をやめて彼を見守った。「ミーチャムに似ていると思うか?」と彼は
おぼつかない英語で訊ねた。
キャンピーは明らかにフッカージムの言葉の意味を察した。彼は「ワシントンにいる
グレート・ファザーだけが兵隊を移動させる権利をもっているのだ」と言い、
ジャックに自分を信じてくれと求めた。
「ぜひ言っておきたい、キャンピー」とジャックが答えた。「あの兵隊が取り囲んで
いる限り、われわれは平和を結ぶわけにはいかないのだ。いずれこの土地をのどこか
に家を建てさせると約束するつもりなら、今日約束してくれ。さあ、キャンピー、
約束するんだ。他に望みはない。今がチャンスだ、お前の話は聞き飽きた」
ミーチャムはキャプテンジャックの声に容易ならぬ緊張を聞き分けた。
「将軍、御生だから約束してやってくれ」と彼は叫んだ。
キャンピーに口を開くといとまを与えず、ジャックが出し抜けに焚火から離れ、
ションチン・ジョンが将軍の方に向き直った。「兵隊を引き上げて、俺たちに
土地を返せ」と彼は叫んだ。「おしゃべりには飽きた。もう話し合いはしない」
キャプテンジャックが振り向き、モドック語で言った。「オト・ウエ・カウ・
タクス・エ」(用意はいいぞ!) 彼は上着の下からピストルを抜き、まともに
キャンピーに狙いをつけた。
🦊 キャンピーは死んだ。キャンピーの軍服を剥ぐと、ジャックはモドックたち
を率いて山塞に帰り、兵隊の来るのを待った。歩兵隊が山塞を陥れたとき、そこは
既にもぬけの殻だった。兵隊が外部から補給され、隠れ場を突き止め、逮捕に
向かうと、キャプテンジャックは待ち伏せをかけて、先遣隊に致命傷に近い打撃
を与えた。
🛑それからほどなく、フッカージムのバンドは兵隊に降伏し、特赦と引き換えに
キャプテンジャックを狩り立てる手助けをするとすると申し出た。・・・
彼らはクリアーレイクの近くでジャックを発見し、交渉を持ちかけ、自分たちが
やってきたのは降伏を勧めるためだと言った。兵隊はモドック族を公平に
処遇し、食物も豊富だと彼らはジャックに言った。
「お前たちはこの谷間をうろつくコヨーテにも劣る」とキャプテンジャックは
言った。「お前たちは兵隊の馬に乗り、政府の銃を持ってここへやってきた。
私を追い詰め、兵隊にひき渡して、自分たちの自由を買い取るつもりなのだ。
生命が快いということに気づいたらしいが、あのキャンピーという男を殺す
約束を私に迫った時には、お前たちはそう考えていなかった。私はいつでも
生命が快いということを知っていた。だからこそ白人と戦うことを望まなかった
のだ。戦うことになれば、我々は手を携えて、戦いながら死ぬのだと考えて
いた。今になって分かったのは、キャンピーほか2、3名の者を殺したために
命を失うのは、私ひとりだということだ。お前たちと降伏した他の連中は
うまく立ち回って、食物も豊富だということらしいな。鳥のように陰険な
心を持った者たちよ、お前らは私を裏切ったのだ。・・・」
ギザギザの岩と灌木の茂みを縫っての激しい追跡ののち、少人数の一部隊
が、キャプテンジャックと、最後まで彼と行動を共にした3人の戦士を包囲
した。降伏するために姿をあらわしたジャックは、キャンピー将軍の
青い軍服をまとっていたが、それはひどく汚れ、ボロボロになっていた。
彼は銃を1人の兵士に手渡した。「ジャックの足はくたくただ」と彼は言った。
「死ぬ覚悟はできている」
🦊 フッカージム以下153人の生存者はインデイアン・テリトリーに追放され、
ほとんどの者が世を去った後の1909年に、政府は残りの51人のモドックに
オレゴンの保留地に帰る許可を与えた。「キャプテンジャックの死体は密かに
発掘され、防腐処置を施したのちにカーニヴァルの見世物として展示され、
観覧料は17セントだった」
p47 野牛を救うための戦い
🛑 聞くところによると、あなた方はわれわれを山の近くの保留地に定住
させるつもりだそうだが、私は定住したくない。草原を歩き回るのが好き
なのだ。草原にいれば自由を満喫し、幸福でいられるが、定住する
我々は
青白くなって死んでしまう。
私は槍を捨て、弓も盾も置いたが、安心してあなた方の前に出られる。
私はこれっぽっちも嘘をついていないが、委員たちの方はどうなのか
わからない。彼らは私と同じように潔白なのか?その昔、この土地は
われわれの父のものだった。だが、川へ行ってみると、岸に兵隊の
キャンプが出来ていた。そこの兵隊は私の木を切り倒し、私の野牛を
殺している。それを見て私の心は張り裂けんばかりになり、悲しみで
いっぱいになった。・・・
無慈悲に獲物を殺したままそれを食べない白人は、子供になってしまった
のか?赤い皮膚の人間が獲物を殺すのは、生命を保ち、飢えないため
なのだ。ーーーカイオワ族酋長サタンターー
私の部族のものが先に白人に対して矢を射たり発砲したりしたのではない。
この問題をめぐって双方の紛争が起こり、私の部族の若者は戦いの踊りを
踊ったが、そのきっかけを作ったのは我々ではなかった。あなた方こそが
先に兵隊を送り込んだのであり、我々はそれに応じたに過ぎない。2年前に、
私は野牛を追ってこの街道へやってきた。私の妻と子供がまるまると太り、
身体が温まるようにしてやるためだった。だが、兵隊が我々に発砲し、
その時から雷鳴のような音は絶えず、我々には行き場がなくなってしまった。
カナデイアン川のほとりでもそうだった。それに、1人になって泣いている
わけにもいかなかった。青い服を着た兵隊とユート族は、暗くなってあたりが
静かになった夜、出し抜けにやってきて、我々の小屋に火を放ち、焚火のように
燃やしたのだ。獲物を殺す代わりに、彼らは私の部下の勇者を殺し、部族の
戦士たちは死者のために髪を切って短くした。テキサスでもそうだった。
彼らは我々の野営地に悲しみをもたらし、我々は雌の野牛が殺された時の
雄の野牛のように出かけて行った。我々は白人を見つけては殺し、彼らの
頭皮は我々の小屋に吊るされた。コマンチ族は弱くもなければ盲目でも
ない。生まれて7日目の仔犬とは違う。成長した馬のように強く、遠くが
見えるのだ。我々は白人の道を奪い、そこを進んでいった。白人の女は泣き、
われわれの女は笑った。
だが、あなた方が私に言った言葉で、気に入らないことがある。その言葉は
砂糖のように甘くはなくて、ヘチマの実のように苦い。あなた方は
われわれを保留地に移し、家を建て、病気を治す小屋をつくってやりたいのだ
と言った。私はそんなことは望まない。私は草原に生まれた。そこには
快い風が吹き、太陽の光を遮るものは何もない。私が生まれた場所には
囲いなどなく、全てのものが自由に呼吸していた。私はそこで死にたい。
壁の中はいやだ。リオ・グランデとアーカンソーの間のすべての小川と
すべての森を私は知っている。私は、以前に父たちが暮らしたように暮らし、
彼らと同じく幸福だった。
ワシントンに行った時、グレート・ファザー(大統領)は私に言った。
「すべてのコマンチの土地はわれわれのものであり、誰も我々がそこに
住むことを妨げない」と。それなのに、なぜあなた方は、我々が川と太陽と
風に別れを告げ、家の中に住むことを求めるのか?われわれに野牛を
諦めて羊にしろなどと言ってはいけない。若者はその話を耳にし、悲しみ、
怒っている。そのことはもう話さないでくれ。・・・
テキサス人が私の土地から出てゆけば、きっと平和がおとずれよう。だが、
あなた方がいま我々に住めと言った土地は、あまりにも狭い。テキサス人が
取った場所は草が豊かに茂り、一番良い木がはえるところなのだ。
そこが我々のものになっていたら、あなた方の求めに応じるだろう。
だが、もう手遅れだ。白人はわれわれが愛していた土地を取り、
今やわれわれは死ぬまで草原をさまようことを望むばかりなのだ。
ーーーヤムバリカ・コマンチ族。パラ・ワ・サメン(テン・ベアーズ)ーーー
1868年12月のワシタの戦いののち、シェリダン将軍は、シャイアン、
アラバホ、カイオワ、コマンチの諸部族全員に、コップ砦に出頭して
降伏せよと命令し、それに応じなければ青色服の兵隊に狩り立て
られて殺され、絶滅の憂き目を見るだろうと伝えた。
死んだブラック・ケトルの跡を継いで酋長となったリトル・ローブが
シャイアン族を連れてきた。イエロー・ベアーがアラバホ族を出頭
させた。しかし、誇り高く自由なカイオワ族は、その呼びかけに
応ずる気配を見せずシェリダンはハード・バックサイド・カスターを
派遣して、彼らを強制的に屈服させ、あるいは壊滅させる
ことにした。
カイオワ族にとって、コップ砦へ行き、武器を捨て、白人の施しに
すがって生きるのは意味のないことだった。酋長たちが1867年に
署名したメデイシン・ロッジ条約は、彼らに住む場所を与え、
アーカンソー川の南のどの土地でも「野牛が群れをなして徘徊して
いる限り」そこで狩をする権利を彼らに保証していたのである。
アーカンソーとレッド・リバーの西の支流に挟まれた平原は、
じりじりと押し寄せてくる白人の文明に追われて、北から逃れて
きた数千の野牛で埋まっていた。カイオワ族は足の速い子馬を豊富に
持っており、弾薬が乏しい時には弓を使った。彼らは食糧や衣類や
住居の必要を賄うに足るほどの獲物を殺すことができた。
それにもかかわらず、青色服の騎兵の大部隊は、レイニー・マウンテン・
クリークのほとりに設けられたカイオワ族の冬の野営地にやってきた。
戦いを望まず、サタンタとローン・ウルフは護衛の戦士を連れて、
カスターと交渉するために出かけて行った。
サタンタはがっしりした体格の偉丈夫で、その漆黒の髪はたくましい
肩まで垂れ下がっていた。その腕と胸には筋肉が盛り上がり、飾り気の
ない表情には自分の力に対する強い自信が溢れていた。彼は顔と身体に
鮮やかな赤の塗料を塗り、槍に赤いペナントをつけていた。遠乗りと
激しい戦いを好んだ彼は、腹いっぱい食べ、心ゆくまで飲み、笑えば
腹の底から笑った。彼に接すれば敵でさえ愉快になった。
カスターを迎えるために馬を進めながら、彼は満面に笑みをうかべて
いた。だが彼が手を差し出した時、カスターはそれに触れようとも
しなかった。カンザスの砦の近くに居て白人の偏見を充分に承知して
いたのでサタンカは怒りを抑えた。それにブラック・ケトルのように
部族の者を殺されたくもなかった。交渉は冷たい雰囲気の内にはじまり、
二人の通訳が双方の発言を通訳した。
サタンタは、部下の戦士の一人で白人の御者から多くの言葉を教え
られたウオーキング・バードを呼んだ。ウオーキング・バードは誇らしげ
にカスターに話しかけたが、兵隊酋長は首を振っただけだった。この
カイオワの撥音する英語が理解できなかったのである。・・・
結局、通訳がサタンタとローンウルフに、カイオワ族のバンドをコップ砦へ
連れてゆかなければ、カスターの兵隊に壊滅させられてしまうということを
わからせた。さらにカスターは、休戦の約束を無視して、突然酋長と護衛の
戦士の逮捕を命令した。彼らはコップ砦に連行され、部族の者がやってきて
一緒になるまで、囚人として監禁されることになったのである。サタンタは
その一方的な言葉を冷静に受け入れたが、使いを送って部族の者を砦に
呼ばなければならないと言った。彼は自分の息子をカイオワの村に派遣したが、
コップ砦に同行せよと命令するかわりに、西の野牛生息地に逃げろと警告
したのであった。
カスター将軍の軍隊がコップ砦に戻る間、逮捕されたカイオワのうち、
毎晩数人が逃亡した。しかし、サタンタとローンウルフの見張は厳しく、
二人は逃げることが出来なかった。青色服がやっと砦に着いた時には、二人の
酋長が捕虜として残されていただけだった。それを怒ったシェリダン将軍は、
部族の者全部がコップ砦にやってきて降伏しない限り、サタンタと
ローンウルフは吊るされるであろうと宣言した。
こうした悪計と裏切りにあって、カイオワ族の大半はその自由を放棄
せざるをえない立場に追い詰められたのである。わずかに小酋長の
一人、ウーマンズ・ハートだけが自分の配下と共にステークド・プレーン
に逃れ、親族のクワハデイ・コマンチに合流したのであった。・・・
トウモロコシを植える時期までには2000人のカイオワと250人のコマンチが
新しい保留地に定住していた。コマンチにとって、政府が彼らを強制的に
野牛狩りから農業に転向させたというのは、いささか皮肉な事態だった。
コマンチはテキサスで主として農業に依存する生活を営んでいたのだが、
白人がそこにやってきて彼らの農地を奪い、生き延びるために野牛を
を狩らなければならないように仕向けたのである。今や親切な老人の
ボールド・ヘッド・テイタム(禿げ頭のテイタム=新任の管理官)は、
インデイアンがトウモロコシの栽培について何も知らないかのように、
白人のやり方にならって農業をやれと教えようとしていたのである。
そもそも最初に白人にトウモロコシの種を蒔くことを教え、その
育て方を教えたのは、インデイアンではなかったろうか?
カイオワにとっては事情はまったく異なった。
戦士たちは、土地を耕すのは女の仕事だと考え、馬に乗って狩をする
者のすることではないと思っていた。それに、トウモロコシが必要に
なれば、これまでずっとそうしてきたように、ペミカン(干し肉と
ドライフルーツを油脂で固めた保存食)と肩掛けをウイチタ族のところ
へ持ってゆき、トウモロコシと交換することもできた。ウイチタ族は
トウモロコシの栽培は得手だったが、太りすぎていて動作が鈍かったので、
野牛を狩ることは出来なかったのである。
夏も盛りになる頃には、カイオワ族はボールド・ヘッド・テイタムに
農業に拘束される生活について、苦情を訴えるようになっていた。
「私はトウモロコシは嫌いだ」とサタンタはテイタムに言った。
「歯が痛くなる」。彼は筋の多い長角牛の肉を食べることにも
うんざりしていた。そしてテイタムに、カイオワ族に武器と弾薬を
支給し、野牛狩りができるようにしてくれと求めた。その年の秋
カイオワとコマンチはおよそ4000ブッシェルの穀物を収穫した。
だが、5500人のインデイアンと数百頭の馬に分配してしまえば、
それは長持ちのする量ではなかった。_1870年春には、インデイアン
たちは飢え、ボールド・ヘッド・テイタムは、彼らに野牛狩りをする
許可をあたえた。:・・・
🦊 (1870年の夏、カイオワ族はレッド・リバーの北の支流で盛大な
太陽踊りを催したが、その間にも、戦士たちはわずかな施しを
目当てに保留地に帰るよりも、そのまま平原に止まって、野牛とともに
豪勢な暮らしをしたほうが良いと話し合った)
🛑 踊りが終わると、若者の多くはテキサスへ行き、自分達の土地を
奪ったテキサス人を襲撃した。彼らが特に目の敵にしたのは、カンザス
からやってきて、おびただしい数の野牛を殺した白人ハンターだった。
白人ハンターは皮を剥ぐだけで、血だらけの死体は平原に残したまま
腐らせてしまうのであった。
カイオワとコマンチにとって、白人は自然のすべてを憎んでいるように
見えた。「この土地は古い」とサタンタは1867年にラーニド砦で
オールドマン・オブ・ザ・サンダー・ハンコックと会ってその相手を
叱りつけた。「だが、あなた方は木を切り倒してしまい、今ではこの
土地はまるで価値のないものとなってしまった」メデイシン・ロッジ・
クリークでは、彼は平和委員にむかって再び苦情を訴えた。「その昔、
この土地は我々の祖先のものだった。だが、川へ行ってみると、岸に
兵隊のキャンプができていた。そこの兵隊は私の木を切り倒し、私の
野牛を殺している。それを見て、私の心は張り裂けんばかりになり、
悲しみでいっぱいになった」
🛑 100人の戦士を率いてキッキング・バードはレッド・リバーで
州境を越え、テキサスのリチャードソンの兵隊への挑戦として、わざと
郵便馬車を拿捕した。青色服が出動して戦いを挑むと、キッキング・バード
は見事な戦術を駆使し、兵隊に正面からぶつかる一方、2つの部隊に敵の
側面と背後を突かせて相手を挟み撃ちにした。焼け付くような太陽のもと、
8時間にわたって騎兵隊を翻弄した後、キッキング・バードは戦闘を中止し、
勝ち誇る戦士を従えて保留地に戻った。・・・
グリーソン将軍とボールドヘッド・テイタムは、テキサスを襲撃したことで
酋長を叱責したが、インデイアンのハンターたちが政府のわずかな支給品を
補うべく家族のために持ち帰った野牛の干し肉や肩掛けについては何も
言えなかった。
その冬、カイオワ族の野営地のかがり火の周りでは、4つの方向から進んで
来る白人の話で持ちきりだった。サタンタは絶えず動き回り、しょっちゅう
他の酋長たちに声をかけては、これらの方針について提案をするのであった。
至る所で彼らは、鉄の馬のための鉄の道が自分たちの野牛生息地に向かって
進んでくるという噂を聞かされていた。彼らは、鉄道が自分達の野牛を
プラット川とスモーキーヒル川から追い払ってしまうことを知っていた。
自分達の土地に鉄道が通るのを黙って見過ごすことは出来なかった。
サタンタは砦の役人と話をしたいと思った。兵隊を引き上げ、野牛の
群を脅かす鉄道も無くして、カイオワ族に昔通りの生活をさせてくれるよう
説得するつもりだったのである。・・・
🦊 187357年春、インデイアン嫌いの移住者を相手に困難な立場にあった
テキサス州知事は、ついに酋長の釈放に反対するテキサス人を押し切って、
インデイアン諸族との「大会議」に出席することに同意し、当日はサタンタと
ビッグトリーも兵隊の監視つきで出席を許された。
🛑 「カイオワ族は、管理所近くの農場に定着しなければならない。さらに
食料を受け取り、3日おきの点呼に答え、若者のテキサス襲撃をやめさせ、
武器と馬を捨てて、文明化されたインデイアンにふさわしく、穀物を栽培
しなければならない」と知事が発言した。また、「サタンタとビッグトリーは、
そのような条件が満たされるまで、砦の営倉に留めて置かれる」とつづけた。
ローンウルフは、囚人の即時釈放を求めたが、知事は承知しなかった。
🛑 ローンウルフの失望は甚しかった。「ワシントン政府は私と私の部族の
信頼を裏切り、約束を破った。もはや我々にとって、戦争のほかに道は無い。
我々はそうせざるをえない立場に追い込まれた」
(退任したテイタムの後任)監督官ヘイワースは、知事がサタンタとビッグトリーを
営倉から釈放して、良き意志を表さなければ、流血、ーー場合によっては戦争の
開始ーーが避けられないと考え、知事に状況を説明し、強く寛大な措置を求めた。
カイオワ族は完全に武装して会見の場所にやってきた。戦士が営倉の周りに配置され、
逃走に備えて足の速い馬が用意されていた。
その状況はテキサス州知事に伝わっていた。彼はカイオワ族が課された条件を
必ず守ることはわかっていたと言い、サタンタとビッグトリーを釈放し、
その身柄を監督官に預けると宣言した。こうして二人は自由の身となり、
ローンウルフはまたしても無血の勝利を勝ち得たのである。
🛑 平原では、その夏の終わりには全てが悪化していくようだった。
来る日も来る日も、太陽が照りつけて乾燥しきった土地を一層
乾燥させ、小川の水は涸れ、おびただしいイナゴがつむじ風のように
飛来して空を鉛色に覆いつくし、干からびた草を根こそぎに荒らした。
そういう事態が数年前にこの土地を襲ったならば、水を求めて右往左往
する百万頭もの野牛の蹄が草原を鳴動させていたことだろう。だが、
今や野牛の群れは見当たらず代わりにその骨と腐りかけた蹄が果てしなく
つづく荒涼たる風景が広がっているばかりだった。ほとんどの白人ハンター
はこの土地を去っていた。・・・多くのインデイアンが飢えを凌ぐために
保留地に帰らなければならなかった。
管理所では全てが混乱していた。陸軍とインデイアン総務局の方針は
常に食い違っていた。補給物資は届かず管理者の中には許可なく保留地の
外をうろついたインデイアンを罰するために物資の支給を停止する者も
いた。7月の半ばに、シル砦管理所に登録されていたカイオワとコマンチの
半数が姿をくらましていた。あたかも魔法の力におびき寄せられたかの
ように、これらの野牛で暮らしをたてる部族の最後の者たちは、残された
唯一の野牛生息地、ムクロジの木の生える場所すなわちパロ・デユロ渓谷の
中心にたどり着いた。そこは平原に深く切れ込んだ大地の裂け目で、
オアシスのような泉や小さな滝や小川に水が溢れて柳やバッファローグラスが
常にみずみずしく緑に生い茂っていた。この渓谷への入り口は、野牛の群が
作ったいくつかの細い道だけだった。この地に足を踏み入れた白人はごく
わずかで、その存在を知る者はほとんどいなかった。
1874年の夏の終わりから、インデイアンと野牛はここに避難所を見出した。
インデイアンは、自分達の冬の需要を賄うに足るだけ、この動物を殺した。
彼らは注意深く肉を切り取ると日に当てて乾燥し、皮についている髄と脂肪は
蓄え、腱を加工して弓弦と糸を作り、角はスプーンやコップにし、毛はロープ
やベルトに編み、毛皮はテイピーの覆いや衣類やモカシンを作るために保存
した。木9の葉が黄ばむ月の初めに、渓谷をうるおす流れのほとりにはカイオワ、
コマンチ、シャイアンのテイピーが林立し、彼らは春まで食いつなぐ食糧を
蓄えていた。ほぼ2000頭を数える馬は、豊かな草を野牛と分けあっていた。
恐れなしに、女は自分の仕事に精を出し、子供は水のそばで遊んだ。
クアナとクワハデイ族にとっては、それはこれまで通りの生活であり、
ローンウルフとカイオワ族、そして管理所を逃れてきた他の者にとっては
これは本来の生活のやり直しであった。
だが、白人の方針をこのように無視することは、空っぽの保留地を管理する
側にとっては、もちろん容認できない事態だった。不屈のクワハデイ族と
その同盟者が冬の隠れ家に落ち着くか着かぬうちに、グレート・ワリア・
シャーマンは軍事命令を出し始めた。9月には青色服の5つの部隊が行動を
開始していた。ダッジ砦からベアーコート・ネルソン・マイルズが南進し、
コンチョ砦からはスリーフィンガーズ・マッケンジーが北に軍を進めて
いた。ニューメキシコのバスコム砦からはジョン・ダヴィッドソン大佐と
ジョージ・ビュエル大佐が発進していた。連発銃と大砲を装備した数千人の
青色服が、野牛を救い、自由な生活を営むことのみを望む数百人の
インデイアンを探索し始めたのである。トンカワ族をスカウト(偵察隊)に
雇い、9月26日に大きなパロ・デユロの村を発見した。ローンウルフの
カイオワは、猛烈な最初の攻撃を凌いだ。不意をつかれはしたが、戦士たち
は、女と子供を逃すあいだ持ち堪え、そのあとモウモウと立ちこめる硝煙の
中を退却していった。
6月27日の夜明け前、戦士たちはアドービウオールに馬を近づけ、補給基地
にいるすべてのバッファローハンターを一掃する強力な突撃の準備を整えた。
だが、プレーリードッグが地面の至る所に穴を穿っていて、多くの馬がそこに
足を取られ、顔に塗料を塗った騎士もろともつまずいたり転んだりした。
インデイアンは馬車で逃げようとした二人のハンターを見つけ、その二人を
殺し、頭皮を剥いだ。その銃声と大地を揺るがす馬の蹄の音で、煉瓦の塀の
中に居る白人は急を知り、射程距離の長い野牛用のライフルで応戦し始めた。
インデイアンはいったん後退し、伝統的な包囲攻撃に切り替え、機を見て
個々の戦士が槍を投げ、あるいは窓越しに発砲した。15人の戦士が死に、
それよりも更に多くの者が重傷を負っていた。
平原一帯にインデイアンは四散した。彼らは徒歩で、食物も衣類もなく、
身を隠す場所とてなかった。やがて数千人の青色服が4つの方向から
進んできて、組織的に彼らを狩り立てた。ローンウルフと252人の
カイオワはなんとか捕獲を免れたが、やがて逃げることも不可能になった。
1875年2月25日、彼らはシル砦にたどり着き、降伏した。その3カ月後、
クアナ・パーカーはクワハデイを引き連れて降伏した。
シル砦では、降伏したインデイアンのバンドは柵の中に集められ、そこで
兵隊が武装解除した。彼らが持っていたわずかな財産は山積みに
されて焼かれた。保留地を離脱したことについて責任があると酋長戦士
たちは、独房や、高い壁で仕切られた屋根のない氷室に監禁された。
彼らを捕らえた者は、檻の中の動物にあてがうように、毎日生肉の
塊を投げてよこした。
🦊 軍当局は、フロリダのマリオン砦の地下牢に、サタンタと26人の
カイオワを送り、裁判にかけた。3年後、サタンタは病院の窓から
身を投げ、ローンウルフも、それから1年後に病死した。
🛑 偉大な指導者たちがいなくなり、かつて強力だったカイオワと
コマンチも消滅し、彼らが救おうとした野牛も消滅した。その全てが、
わずか10年足らずのうちに起こったことだった。
p97 ブラックヒルズをめぐる戦い
🛑 白人は、この土地のどこの場所についても、定住し、あるいは
それを占有することが許されず、またインデイアンの許可なくしては
当該地域を通過することも許されないーーー1868年の条約ーー
我々は白人がここに居ることを望まない。ブラックヒルズは私の
ものだ。白人がここを取ろうとしたら、私は戦う。ーータタンカ・ヨタンカ
(シッテイング・ブル)ーー
白人はまるで蛆のようにブラックヒルズに群がっていて、私は彼らを
出来るだけ早く立ち去らせてくれることを望む。泥棒の首領(カスター将軍)
は去年の夏、ブラックヒルズに道路を通したが、グレート・ファザー(アメリカ
政府)がカスターの仕業による損害の補償をしてくれることを望む。ーーー
バプテスト・グッドーー
ブラックヒルズとして知られている土地を、インデイアンは自分達の中心と
考えている。スーの10の部族は、そこを自分たちの土地の中心だと見なして
いるのだ。ーーータトケ・インヤンケ(ランニング・アンテロープ)ーー
グレート・ファザーの部下の若者は、この丘から金を持ち出そうとしている。
彼らがそこを数多くの馬で一杯にしてくれると良いのだが。そのことを
考えるにつけても、私は部族の者が生きている限り面倒を見てもらえることを
望む。ーーーマト・ノウパ(トウー・ベアーズ)ーー
グレート・ファザーが委員に言うには、すべてのインデイアンがブラックヒルズ
に権利を持ち、インデイアンがどのような結論に達しようと、それは尊重され
なければならないということだ、・・
私はインデイアンで、白人から愚かな男だと思われている。だが、それは私が
白人の忠告に従ったからに違いない。ーーーシュンカ・ウイトコ(フール・ドッグ)
わがグレートファザーは大きな金庫を持っているが、我々も同じだ。あの丘は
我々の金庫なのだ。・・我々はブラックヒルズを700万ドルで手放したい。その
金を利子付きで貯めておいて、家畜を買えるようにしたい。それが白人のやり方
だ。ーーーマト・グレスカ(スポッテド・ベア)
あなた方は我々をひとところに集め、その頭に毛布を被せた。あそこの丘は
我々の財産なのに、あなた方はそれをくれと言う。・・・あなた方白人は
我々の保留地jにやってきて、我々の財産を勝手に持ち出し、それだけで満足
するどころか、我々の金庫をそっくり取り上げようとするのだ。ーーー
デッド・アイズ
この土地を離れたいと思ったことはない。私とと血のつながるすべての者が
ここの地面の下に横たわっており、私が土に還るときには、やはりここの土に
なりたいのだ。ーーーシュンカハ・ナビン(ウルフ・ネックレス)
我々はじっと座り、彼らが何も言わずにここを通って金を運び出すのを見守って
いた。わが友人たちよ、ワシントンを訪れたとき 、私は数人の若者を連れて
あなた方の金をしまってある家に入ったが、私の見ている所でその家から
金を持ち出す者はいなかった。しかるに、あなた方のグレートファザーの
部下は私の土地にやってくると、私の金がしまってある家(ブラックヒルズ)
に入り込み、金を持ち出すのだ。ーーーマワタニ・ハンスカ(ロング・マンダン)
わが友よ、長年の間我々はこの土地に住んでいた。グレートファザーの土地へ
出かけていって面倒を起こしたことなど一度も無かった。我々の土地へやってきて
面倒を起こし、いろいろ悪いことをやった挙句、仲間に悪事を教えたのは、
グレートファザーの部下なのだ。・・・あなた方の仲間が大きな海を越えて
この国にやってくる以前には、そしてそのときから現在までに買いたいと
申し出た土地で、これほど豊かなところはかつてなかった。わが友よ、
あなた方が買おうとするこの土地は、我々の持っている最上の土地なのだ。
私はそこで育った。私の先祖はここで暮らし、ここで死んだ。だから
私もここにとどまりたい。ーーーカンギ・ウイヤカ(クロー・フェザー)
あなた方は我々の獲物と生活の糧を、この土地から追い払った。
今では我々に残された価値のあるものは、あなた方が手放せと求める
この丘を除いて何もない。・・・この土地にはあらゆる種類の鉱物資源が
沢山ある。そして地面の上は太い松の林に覆われており、ここを手放して
グレートファザーに与えることは、我々にとっても白人にとっても
この上なく貴重な最後のものを手放すに等しいのだ。ーーーワニギ・スカ
(ホワイト・ゴースト)ーー
🛑 レッド・クラウドとスポッテド・テイルの率いるテトン族がネブラスカの
保留地に落ち着いてから程なく、莫大な金がブラックヒルズに埋蔵されている
という噂が白人居住区に流れ始めた。
パハ・サパすなわちブラックヒルズは、世界の中心であり、戦士たちが偉大な
精霊と語り、幻覚を求める神の住居であり、聖なる山であった。1868年に
グレートファザーはこの丘を無価値だと考え、条約によって、そこを永遠に
インデイアンに与えた。その4年後、白人の鉱山師は条約を侵犯しはじめた。
彼らはパハ・サパに侵入し、白人を狂気に駆り立てる黄色い金属を求めて
岩の道や澄んだ水の流れる小川をあさった。1874年には金を渇望する
アメリカ人の声がひどくやかましくなったので、軍隊にブラックヒルズ偵察
が命じられた。合衆国政府は、1868年の条約によって、インデイアンの
許可なしに白人がそこに立ち入ることが禁じられていたにもかかわらず、この
軍事戦略を開始するに先立って、わざわざインデイアンの同意を求める手間を
かけなかった。赤い桜の月に、1000名余りの騎兵がエイブラハム・リンカーン
砦から平原を越えてブラックヒルズに向かった。彼らは第7騎兵連隊に所属し、
その先頭に立って馬を馭していたのはジョージ・アームストロング・カスター
将軍、すなわち1868年にワシタでブラック・ケトルのサザーン・シャイアンを
虐殺したスターチーフその人であった。スー族は彼をパフスカ、つまりロングヘアー
と呼んでいた。ロングヘアーが遠征してきたことを知ると、レッドクラウドは
抗議した。「私はカスター将軍がブラックヒルズに入り込むのが気に入らない。
あそこはスー族の土地だからだ」そこはシャイアン、アラバホ、スーの他の
部族の土地でもあった。インデイアンの怒りがあまりにも激しかったので、
グレートファザー・ユリシーズ・グラントは、「法律と条約によってその土地が
インデイアンのものとされている以上は、そこに侵入するすべての企てを阻止する」
決意を披瀝した。
だが、カスターがその丘は「草の根から下に」金が詰まっていると報告すると、
白人の集団が夏のイナゴのように雲集し、夢中になって砂金をふるったり、
岩を掘ったりした。カスターが補給用の荷馬車を通すため、パハ・サパの中心部
に切り開いた道は、じきに盗人街道となった。レッドクラウドは、オグララに
支給される食糧と支給品の質の悪さをめぐって保留地の管理人と揉め事を
おこしていた。・・・そのことに気を取られて、レッドクラウドはカスターの
ブラックヒルズ侵入がスー族の若い部族に与えた衝撃の大きさを充分に評価
出来なかった。秋になると、北の土地で狩をしていたスーたちがレッドクラウド
保留地に帰って来はじめた。彼らはパハ・サパ侵入に対してスズメバチのように
腹を立て、戦士団を編成して丘に戻り、なだれ込んでくる鉱山師を追い払おうと
主張する若者もいた。しかしレッドクラウドは、若者たちに自重せよと忠告した。
彼はグレートファザーが約束を守り、兵隊を派遣して鉱山師を追い払ってくれると
確信していた。
🦊 だが、そうはならなかった。多勢の若者が、荷物をまとめ、テイピーを畳んで
保留地から出ていった。彼らはシッテイング・ブルとクレイジー・ホースに
従うようになっていた。政府の委員たちは会議を招集し、数人のおとなしい酋長と
安上がりな買収交渉をまとめることを目論んだが・・・
🛑 彼らが会議の場所ーーレッドクラウドとスポッテド・テイルの管理事務所の間の
ホワイトリバーの岸辺ーーに到着した時、その周辺の平原はおびただしい数の
馬の群れが草を喰んでいた。東はミズーリ川から西はビッグホーン地方まで、
スーのすべての部族とシャイアンおよびアラバホの友人が集まり、その数は2000人を
超えていた。
(1868年の条約によれば)「その譲渡を取り決める条約は、当該地域に居住し、あるいは
そこに利害を有するすべての成人男子インデイアンの少なくとも4分の3がその作成に
関与し、あるいは書名しない限り、・・有効ではなく、強制力を持たない」と言うこと
である。たとえ会議に出席したすべての酋長を脅迫し、あるいは買収することが出来た
としても、委員会は、怒り、万全の武装を整えた数千人の戦士たちから、高々数十人
分の署名を手に入れるだけで精一杯だったはずである。
インデイアンの感情を察知して、委員たちは丘を買収しようとしても無駄だと悟り、
鉱物資源についての権利をめぐって交渉することに決めていた。
「さて、我々はぜひ聞いておかなければならないのは、わが同胞にブラックヒルズを
採掘する権利を与えてもらえるかどうかということだ」とアリソン上院議員が
切り出した。「金あるいは価値のある鉱物が発見されるかぎり、公正かつ妥当な額を
払う用意はある。・・金あるいはその他の価値ある鉱物が堀りつくされてしまえば、
この土地は再びお前たちのものになり、好きなように処分してかまわない」
委員はインデイアンに、ブラックヒルズはしばらくの間だけでも白人に「貸して」
やってくれと頼んでいるのだ。
(数日おいて20人の酋長を集めた会議では)酋長たちは、ブラックヒルズは、仮に
売るとしても安い値段では手放せないと、はっきりと伝えた。委員側から提示された
額は、採掘権を年額40万ドルで譲れというものだった。またスー族が丘を売っても
よいと言うのであれば、600万ドル15年分割で支払うという条件が出された。
(ブラックヒルズの一つの鉱山だけで500万ドル以上の金が産出されることを
考えると、それは実際にかなり低い額だった)
スー族の全権を委任されたスポッテド・テイルは、両方の提案をきっぱりと
断った。ブラックヒルズは賃貸しもされず、売却もされなかった。
委員たちはワシントンに帰って、スー族にブラックヒルズを放棄させることが
出来なかったと報告すると共に、インデイアンの要求を無視し、「丘の価値に
見合う正当な評価」だとして一定の金額を割り当てることを議会に勧告した。
このブラックヒルズの強制買収は、「インデイアンに最後通牒として提示」
すべきだと、彼らは言った。
こうしてのっぴきならぬ一連の措置がとられることとなった。そのために、やがて
合衆国軍隊はインデイアンとの戦いで最大の敗北を喫し、究極においては
北部平原インデイアンの自由がついに失われるという結果がもたらされるのである。
・・・
1976年2月1日、内務長官は「敵対的なインデイアン」がそれぞれの保留地に
出頭する期限が切れたので、彼らの処置は内務省から軍当局に委ねられる、
陸軍が現下の状況において適当と考える行動を取られたいと、陸軍長官に
通達した。
1976年2月7日、陸軍省はミズーリ方面軍司令官シェリダン将軍に、
シッテイング・ブル及びクレイジーホースのバンドを含む「敵対的な
スー族」にたいする作戦の開始を命令した。このような政府の機構は、
一旦動き始めると呵責のない力をふるい、無慈悲かつ制御し得ないものと
なった。
(保留地への出頭期日、1月31日が迫る)12月の末に、仮に数千人の
「敵対的なインデイアン」がどうにか管理所にたどり着いたところで、
彼らはそこで飢えを免れなかったはずである。保留地では、冬の終わり
に食糧事情がひどく悪化したため、数百人のインデイアンが3月になると
保留地を離れて北に獲物を求め、政府の支給する乏しい食糧を補おうと
していたのである。
1月31日の最後通牒は、独立派インデイアンに対する宣戦布告に等しい
ものとであった。気候が暖かくなるにつれ、各部隊は北に移動して野生の
獲物と新鮮な草を探し始めた。その途中、ブリュレ、サンサーク、
ブラックフットの各スー部族と別のシャイアンのバンドが一行に合流した。
・・これらの数千人のインデイアンがロー川のほとりに野営している間に、
更に多くの若い戦士が保留地を出て彼らの仲間に加わった。そして、
青色服の大部隊が3つの方向からやってくるという噂をもたらしたのは、
彼らであった。スリースターズ・クルックが南から、ワン・フー・リンプス
(ギボンズ大佐)が西から、ワン・スター・テリーとロングヘアー・カスターが
東から、それぞれ前進して来たのである。
1876年のその日、クレイジー・ホースは夢を見て本当の境地に入り、
(神ワカンタンカのお告げにより)白人の兵隊との戦いに際して、
スー族に彼らがやったことのない多くの戦法を示した、(軍事上の言い回し
を使えば、ゴールはリーノウ隊の側面を突き、敵を森に後退させた。
彼は更にリーノウを脅かし、急いで後退することを余儀なくさせ、
インデイアンはその機に乗じて相手を総崩れさせた。その結果ゴールは
数百人の戦士を引き上げて、カスターの縦隊に正面攻撃をかけることが
出来た。一方、クレイジーホースとトウー・ムーンがその側面と背後を
たたいた。
一人のアラバホの戦士は、カスターは数人のインデイアンに殺されたと
言っている。「彼は鹿皮服を着て四つ這いになっていた。脇腹に銃弾を受け、
口から血を流していた。その後、数人のインデイアンが彼に群がって、
私にはもう何も見えなかった」
誰が殺したにせよ、ブラックヒルズに盗人街道を作ったロングヘアーは、
部下の全兵士と共に死んだ。しかし、リーノウの兵隊はフレデリック・
ベンテイーン少佐の援軍を得て、川のずっと下流の丘に濠を掘って
立て籠っていた。インデイアンは、その丘を完全に包囲して、夜通し
敵の動きを監視し、翌朝ふたたび戦いをはじめた。酋長たちの放った
斥候が帰って来て、多勢の兵隊がリトルビックホーンに向かって進んでくる
と報告した。
会議が開かれ、野営地を引き払うことが決まった。戦士は弾丸をほとんど
使い果たし、新たに多勢の兵隊を迎えて弓と矢だけで戦うのは愚かしいこと
だった。
カスター敗北の報が伝わると、東部の白人は、それを虐殺と呼び、人々は
怒りに沸きたった。彼らは西部のすべてのインデイアンを罰することを
望んだ。シッテイング・ブルをはじめ戦闘酋長を罰することができなかった
ので、ワシントン大会議は、見つけたインデイアンを片っ端から処分する
ことに決めた。すなわち、保留地に留まっていて、戦いに参加しなかった
インデイアンたちである。
7月22日、グレート・ワリア・シャーマンは、スー族の土地の全ての保留地を
軍の管理下に置き、そこに居るインデイアンを片っ端から処分することに
決めた。
7月22日、グレート・ワリア・シャーマンは、スー族の土地の全ての保留地を
軍の管轄下に置き、そこにいるインデイアンを戦争捕虜として扱う権限を
与えられた。
8月15日、大会議は、インデイアンにパウダーリバー地方とブラックヒルズに
関するすべての権利の放棄を求める新しい法律を作った。彼らはその法律を
作るにあたって、1868年の条約をまったく顧慮せず、インデイアンは合衆国
を
相手に戦争を始めて条約を破ったのだと主張した。それは、保留地のインデイアン
にとって理解し難いことだった。彼らは合衆国の兵隊を攻撃しなかったし、
そもそもシッテイングブルの部下にしても、カスターがリーノウにスーの村を
攻めさせるまで相手を攻撃しなかったからである。
保留地のインデイアンを平和にしておくために、グレートファザーは9月に
新しい委員会を派遣し、酋長たちをたらし込み、あるいは強迫して、
ブラックヒルズの計り知れない富を白人の所有に移す法律文書への署名を
確保しようとした。この委員会を構成した何人かの委員は、古くから
インデイアンの土地の問題を扱ってきたやり手であり、特にニュートン・
エドマンズ・ヘンリー・ホイップル主教、サミュエル・D・ヒンマン師が
そうだった。レッドクラウド管理所において、ホイップル主教が祈りを
ささげ、そのあとジョージ・メニーペニー委員長が議会で決められた
条件を読み上げた。
「私の心は、長年にわたって赤い皮膚をした人々に向かって暖かく
開かれてきた。われわれがここに来たのはグレートファザーの
メッセージをお前たちに伝えるためであり、れわれはそれを一字一句
たりとも変えることはできない。・・・大会議がお前たちへの手当てを
継続するため今年の支出を決めた時、そこにある種の規定が盛り込まれた。
その規定は3つあるが、それが遵守されない限り、議会はもはやお前たち
への支出を認めない。それらの3つの規定とは、第一にお前たちが
ブラックヒルズとその北の地域を放棄することであり、第二にお前たちが
以後ミズーリ川の近くで食糧の支給を受けることであり、第三に、
グレートファザーにミズーリ川から保留地を通ってブラックヒルズのある
新しい地域に至る三本の道路の敷設を認めることである。・・・
グレートファザーは赤き皮膚の子らに温情を持って接すると言われ、
そのためにこのインデイアンの友人たちから成る委員会を任命し、
その指示によって計画を案出させることになった。それは、インデイアン
民族を救い、彼らが日増しに勢力を失ってついには最後の者が自分の墓を
待つといった事態を生ぜしめることなく、白人のように偉大で強力な
存在になれるようにするためなのである」・・・・以下略
***************************************************************
🦊 この本が出版されたのが1970年で、ベトナム戦争に絡んで
大ベストセラーになったそうだが、それで何かが変わった訳ではなく、
アメリカ人は相変わらず「白人のグレート・アメリカ」に弱い。
(特にトランプの独演会に集まる人たちを見る限り)
アメリカ政府は、いわゆる「チヂミ思考」を学校教育に持ち込まない
よう、手を打っているらしい(との噂だ)
イギリス王権から資金援助を受けた「領土拡大請負人」集団は、
独立後もアメリカ政府に引き継がれて、「白人入植者の土地拡張要求」
に応えて活動を続けた。そして、ワシントンもベンジャミン・フランクリン
も、その中に含まれていたという。・・・・
先住民vs帝国ーー興亡のアメリカ史 アラン・テイラー著
橋川健竜 訳 2020年 ミネルヴァ書房 刊
p1 カトーバ地図の世界
カトーバの鹿皮地図
1721年、サウスカロライナ植民地総督フランシス・ニコルソン卿は、
同植民地のチャールズタウン(のちのチャールストン)にて、ピードモント
高原から訪れたインデイアン首長たちの代表団と面会した。
後代には「カトーバ族」として知られている彼らは、自分達は11の
集落の緩やかな連合に属していると考えていた。首長たちは鹿の皮を
渡したが、そこには、自分達の集落を円と円が繋がったネットワーク
として示した地図が、あしらわれていた。・・・
地図の作り手は、地図の栄えある真ん中に、11のカトーバの集落を
名前付きの円で示した。カスイー、チャラ、サクシパハ、スッカ、
サテイリー、ワズミサ、ウオタリー、ウイアビー、ユーチンである。
チェロキーとチカソーという、よく知られている2つの先住民族の
名前も地図に出ているが、彼らは隅の方におかれている。沢山の
先住民族をインデイアンと一括りにするなら、どれだけニュアンスが
失われるか、注意せよと、この地図は私たちに警告しているのだ。
p2 図示される先住民の流儀
カトーバたちは新しく着任した総督に先住民外交を教えこむべく、
地図を渡したのだった。この地図は、地理的に大きいか小さいか
ではなく、先住者と植民者の双方を含む、諸民族間の社会的、
政治的な関係を伝えるものである。
13の先住民集団はさまざまな大きさと場所の円で示され、うち
ナソーが最も大きく、真ん中で,最も優位を占めている。この地域に
いた数多くの他のインデイアンを省略することで、地図はニコルソンに、
カトーバの諸族は、そして特にナソーこそが、広大な内陸部のより
広範な先住民世界へと繋がるのに適切な導線として役に立つ、総督の
欠くべからざる友人であると請け合ったのだ。
1721年のカトーバの地図は、植民者の政治体を2つしか描いていない。
チャールズタウンは左側に、複数の直線が直角に交わって走る図柄で
描かれ、また「ヴァージニア」という名の箱が右下側を占めている。
カトーバたちは柵囲いされた環状の集落で楕円形のウイグワム(小屋型
の先住民住宅)に暮らしており、季節と生命が自然に循環していくのを
反映する円の形に、精神的に最も安心を覚えるのだった。まったく
対照的に、彼らは植民者たちを格子形に図示した町と正方形の建物で、
つまり見慣れない不自然な形でもって認識した。大いに円熟した
(ウエル・ラウンデッド)先住民は、新参者たちを融通のきかない輩だと
見なしたのである。
この地図は、分かち合った土地にて共存することを植民者が学ぶのを
期待して、先住者がこの新参者を、先住民の外交、交易の結合関係に
取り込もうと試みたことを示している。
並行した線がヴァージニアとチャールストンを両方とも、先住民の円に
結びつけている。これらの線は交易者と外交担当者にとって作法に間違い
の無い正道に当たり、これを踏み外そうものなら、この世界では暴力に
見舞われかねないのである。ナステイーに接触するには、然るべき作法に
則るなら、まず贈り物と交易品を携えてナソーに代表を送ることが求め
られた。ヴァージニア人やカロライナ人に従属することを受け入れる
どころか、ナソーは自分達を、先住民が支配して先住民流に動かしている
世界における、商取引と権力の仲介者だと役付けしたのだ。
この地図ではインデイアンが中心を押さえていて、植民者は周縁的な存在
に止まるのである。
p13 入植の始まりーーシベリアからの移住の波
北アメリカの入植は1492年(いわゆるコロンブスによるアメリカ発見)よりもはるか
前に始まり、ヨーロッパではなくてロシアから起こった。最初のアメリカ人は、
約1万5000年前から1万2000年前にかけて、北東アジアのシベリアから移住して
来たのである。移住者たちは少人数の集団を組んで、毛皮の厚いマンモスを含む
毛むくじゃらで厚い肉をまとった草食の(しかし危険な)大型哺乳動物の群を、
あちこち広く追ってまわった。
世界の氷がより大量に北極の氷床へと凍りつき、海面が約360フィート下がって
シベリアとアラスカが繋がった氷期に、狩猟者たちは穂先に石器をつけた槍を
携え、革の覆いをつけた小舟で海岸に沿って進むか、または歩くかして、
北アメリカに入ってきた。約1万年前の全地球的な気候温暖化によって太平洋が
海面上昇し、その後陸橋が消え失せることになろうとは、彼らは知る由もなかった。
続いて約9000年前にアサバスカン語系の移住者による第二の波があって、最終的に
アメリカ南西部まで移住し、そこでアパッチ及びナヴァホとして知られるようになった。
第三の波は約5000年前にやってきて、この時はイヌイットの祖先が北アメリカ
極北海岸に入植し、また彼らと近縁のアリュートがアラスカの南と西にある島々を占領
した。その間に、第一の子孫は南へ東へと、北アメリカ中に、更に南アメリカへと
広がっていった。研究者にはパレオ・インデイアンとして知られる彼らは、最初は15~50
人ほどの小さなバンドで、狩猟と採集をして生活した。大型猟獣を常食にして、(食べる)
量は豊かだったおかげで、パレオ・インデイアンの人口は増加した。バンドは大きく
なりすぎて一つの場所で維持できなくなると分裂して、ほとんどは他の場所に移った。
およそ9000年前までには(さらに前かもしれないが)先住民は、ベーリング海峡から
約8000マイル離れた、南アメリカの最南端に達していた。
p7 アメリカ例外主義
(新しい歴史の見方が、近年の歴史研究者の努力によって広まり、
「アメリカ例外主義」は過去の学説となった)
🔴 大陸史家は、先住民を重要な存在として、植民地史の中に
書き直そうとしている。・・
大西洋史と大陸史の新しい組み合わせは、ヴァージニアのジェイムズタウン
y
(1607年)とニューイングランドのプリマス(1620年)に最初に埋め込まれた
イングランド文化の「種子」を強調する、古いアメリカ植民地史に異議を
となえる。「アメリカ例外主義」として知られるこの古い歴史が提示するのは
イングランド平民の植民者がヨーロッパの融通のきかない諸習慣、社会の
階層秩序、資源の封殺から逃れて、試練と機会に満ちた豊かな大陸に向かう
という、国の起源についての神話である。彼らは試練を受けて立ち、一心に
働いて深林を農場へと開拓し、成功を収めた。その過程で彼らは起業家的で
平等主義的な、自分で同意しない限り、支配されることに甘んじない個人主義者
になった。彼らがイギリスの支配に対して反抗し、独立した共和制の諸州連合を
作ったのは必然であった、というのである。・・・
しかし、アメリカ例外主義の物語は都合よく出来ていて、植民地化の重いコストを
見えなくしている。何千もの植民者には激しい労働があるばかりだったし、また
病気やインデイアンの敵対行為によって、早々に死を迎えるだけだった。そして
成功を収めた者は、その運の良さを、インデイアンから土地を奪い、年期奉公人
とアフリカ人奴隷の労働を搾取することで手にいれたのだ。
1492年から1776年までの間、北アメリカは人口を減らした。伝染病と戦争が
インデイアン を、植民者が彼らに入れ替わった以上の速さで殺していったため
である。また、18世紀には、植民地にやってきた者はそのほとんどが、自発的に
渡ったヨーロッパ人ではなくて、奴隷制度の地へと力づくで徴発されたアフリカ人
であった。
伝統的な歴史物語だと、植民地アメリカが文化的、物理的に幅広かったことーー
大西洋岸のイギリス植民地の、はるか向こうに広がる幅があったのだーーも見えなく
なる。多くの先住民諸族は、西へと向かうイギリス人ではなく、メキシコから北上
してくるスペイン人、シベリアから東に向かってきたロシア人、あるいは五大湖及び
ミシシッピ川を探索するフランス人という植民地化推進勢力に遭遇したのである。
植民地期のこれら冒険的な企ては、一つ一つが個々の環境と、また多種多様なインデイアン
と独特に相互作用して、さまざまなアメリカを作り出した。その全てが後のアメリカ
合衆国に寄与していったのだ。植民地アメリカは、イングランド人がアメリカ人に
なるという単純な話よりも、はるかに大きな広がりがあったのである。
p14 アーケイック期への移行
その前、北アメリカでは全地球的な気候の温暖化で北極部の草原が次第に縮小
し、温帯の森林が増大した。気候変動と熟達した狩猟者たちが移り住んでいった
ことが組み合わさり、最も大型の哺乳動物は、マンモスを含めほとんど絶滅した。
遊動するバンドは適応を余儀なくされ、新しい、より多様な戦略をとって、より
さまざまな種類の食料源に手をつけるようになった。・・・
役割づけはジェンダーに基づいていて、男性が漁撈と狩猟を行い、女性が野生植物
を収穫して食料に加工していた。
アーケイック・インデイアン(考古学的には、その祖先であるパレオ・インデイアン
と区別してそう呼ばれる)は、サカナ、鳥、甲殻類、野生食用植物がとてもふんだんな、
より永続的な集落を設けた。バンドは各々の領域の境界をよりはっきり定め、四季で
1巡する活動と移動をそのなかで行うようになり、動植物を、それぞれの数が増えてくる
季節ごとに捕食、収穫した。例えば南西部では、夏と秋にバンドの構成員は分散して、
シカ、ワピチ、ビッグホーン(オオツノヒツジ)、アンテロープを狩った。冬の雨季が
到来すると、そこでヒラウチワサボテンとマツの実を収穫した。春には再び分散して
根菜類と猟獣を探した。アーケイック・インデイアンの草原のバンドが、数を増して
環境を異にする数多くの場所に広がって行くにつれ、彼らの文化はより多様になり、
言語、儀礼、神話物語、親族関係システムが別々になっていった。
北アメリカの先住民諸族は1492年までに、少なくとも375の異なった言語を話して
いた。しかし彼らは互いに孤立していたのではない。交易が長い距離を跨いで彼らを
結びつけていたからである。考古学者は、中西部やグレート・ベースンの遺跡では
大西洋岸からの海貝の殻を、また海岸部では五大湖地方からの銅やロッキー山脈からの
黒曜石を発掘している。これらの物質の交換とともにアイデンティティーやイノベーション
も伝播したのであり、交易する諸部族は、長大な距離を越えて互いに影響を及ぼしあった
のである。
p27 旧世界への農作物伝播
東西両半球の強制的な結婚は、ヨーロッパ人にとっては人口動態上の急増を、アメリカ世界
にとっては人口動態上の大惨事を意味した。地球の総人口に占める先住アメリカ人の割合
は、1492年の約7%から1800年には1%未満へと落ちこんだ。同時にヨーロッパの人口は
1492年の8000万人から1800年の1億8000万人へと、2倍以上に上昇した。
この増加で、世界人口に占めるヨーロッパの割合は1492年の11%から1800年には20%へと
上昇した。ヨーロッパの成長は食糧供給が増大したことによっていた。より多くの食糧を
摂取した人々は生き残り、より多くの子孫を残すからである。この常用食糧の改善は
第一に、もともとアメリカ人世界で栽培されていた、多くの実を付ける新しい食用作物が
ヨーロッパでも取り入れられたことによっていた。農耕に勝る先住民は、旧世界の作物
よりも収穫量の多い作物を栽培していた。ヘクタールあたりの平均収穫量をカロリー量
で計算すると、キャッサバ(990万)、トウモロコシ(730万)、ジャガイモ(750万)は、
従来からのヨーロッパの穀物、つまり小麦(420万)、大麦(510万)、エンバク(550万)に
優っていたのである。新世界の種子を旧世界の土地に播くことで、アフリカとヨーロッパの
食糧供給は劇的に増大した。移入された植物はより狭い土地でより多くの収穫を農民に
もたらした。たとえば、一組の農民家族を養うには、少なくとも5エーカーの畠に穀類を
植える必要があったが、ジャガイモなら、同じ広さの土地で3家族を養えた。また、
新しい作物はより順応性があり、旧世界の農民は従来からの穀物には向かない土地で
栽培を行えるようになった。小麦とは異なり、トウモロコシは砂地の土地でも生育し、
暑い気候でもよく育った。またジャガイモは、いかなる穀類にも不適な、寒冷な
土地でもよく実をつけた。トウモロコシとジャガイモは事実上、旧世界の農民が、
栽培を行う領域を拡大したのだ。熱帯植物であるキャッサバは16世紀の間にアフリカ
に導入されて繁茂した。トウモロコシはイベリアから地中海に沿って東へとひろがり、
農民の食生活に欠かせなくなった。ジャガイモは北、中央、東ヨーロッパに拡大して
いった。
p28 環境を変える動物
事実上、コロンブス後の交換は大西洋のアメリカ側の人口を減少させ、ヨーロッパと
アフリカ側の人口を増加させた。その余剰の人口は最終的には西へと溢れて、
大西洋世界のアメリカ人側にあった人口の空白を再び埋めることになる。
この移動は生き残った先住民を少数派にした。今日のカナダとアメリカ合衆国
に当たる地域では1800年までに、500万人のヨーロッパ系アメリカ人と
100万人のアフリカ系アメリカ人が、すでに同地域の先住民60万人を上回って
いた。植民地化を推進した勢力はアメリカ世界に新奇な動植物を持ち込んだ。
意図して持ち込んだものも、偶然に持ち込んだものもある。ヨーロッパ式の
農業を営むと決めていた植民者は、自分たちの家畜ーーミツバチ、ブタ、馬、
ラバ、羊、牛ーーと、栽培植物ーー小麦、大麦、ライ麦、エンバク、牧草、
ブドウの木ーーとをもたらした。しかし、植民者は意図せずして雑草とネズミを
持ち込んだ。移入された動植物は、急速にかつ飽くことを知らずにアメリカの
環境に広がり、土着の植物、動物、人々に害をなした。要するに、先住民が
命をつなぐのに当てにしていた野生の動植物を食べ尽くした。侵入してきた動物
をインデイアンたちが食すると、植民者たちは抗議の怒号をあげ、補償を要求
した。拒否されると、怒れる植民者は、インデイアンの集落を襲撃して焼き打ち
にして報復した。
🔴 人口動態上の大災難と生態上の変化にもかかわらず、インデイアンは、植民者
による征服を妨げて遅らせるには十分な数が生き残った。本当に誰も住んでいない
土地など、植民地化勢力はどこにも見出さなかったのである。・・・・
p131 イギリス領アメリカ
他の帝国(フランス、スペイン、ポルトガルなど)に比べると、イングランドの君主
は植民地の人々に対し、権力をほとんど行使しなかった。基本的には、17世紀
前半当時の王権は資力にことを欠いていて、国王の特許状による許可を受けた
民間の関係者たちに、植民地の建設を委託していたからである。それらの特許状
は、領主たちに植民地領域の権原(タイトル)のみならず、
植民者を統治する権利をも授けた。ただし、主にヴァージニアなどいくつかの
植民地では、王権は領主から支配権を取り上げていた。王領植民地では王様が、
領主植民地では領主が総督と評議会を任命したが、有産の植民者は、
植民地財政への権限を持つ代議会を選出することを要求してやまなかった。
p125 ジョージア植民地ーー受託者植民地
国王ジョージ二世を称えてジョージアと名付けられた新植民地は、ジェイムズ・
オーグルソープ将軍が率いるロンドンの博愛主義者、社会改革家の集団に
委託された。1733年、オーグルソープはジョージアの最初の植民者たちを
率いて大西洋を渡り、サヴァナ川河口近くの断崖にサヴァナの町を建設した。
この「ジョージア受託団」は、負債で投獄されていた者を彼らの新植民地に
送ることで、イングランド都市部での貧困を軽減しようと期待していた。
新植民地の自分の農場で一生懸命働いていれば、怠惰癖は治癒されるだろうと
いうのである。この道徳の錬金術によって、イングランドの慈善を使い果たして
いた人々は生産的臣民となって自己改善に、そして価値があるが攻撃を受けそう
な境界線(スペイン領フロリダ)にて帝国の防衛に励むのである。16世紀には、
南西部州の植民発起人たちが、イングランドの身体強健な物乞いたちに
名誉挽回をさせる収容作業施設地としてヴァージニアを提案したのだが、
受託者集団は事実上、彼らの計画を復活させたのだった。1733年から
1742年まで、受託者集団は約1800人の慈善対象の植民者を無料で輸送
し、小農場を与えた。他の移民者は、土地を無料でという可能性に魅力を
感じて、自腹で渡航した。受託者集団は自由身分の家族が耕す、数多くの
こじんまりした農場からなる植民地を望んでいた。奴隷にされたアフリカ人
に依存する、より少ない数のより大きなプランテーションからなる植民地
は望んでいなかった。(奴隷制度は、受託者集団がジョージアの植民者に
教え込むつもりだった労働の規律を蝕む恐れがあったのである。ジョージア
は、収益の上がる奴隷システムを拒絶した最初で最後の植民地だった)
しかし、こうした規制はより野心的な植民者を苛立たせた。受託者団は
非現実的で鈍感で指図がましいと、彼らは憤慨していた。カロライナの
白人が安泰で成功を収めていることと対比したのである。ジョージアの
不満分子は「阻むもの無しの自由と財産を」というスローガンのもとに
集結したが、この標語は、白人は、奴隷を保有することを認められてこそ
自由になれる、と主張しているわけだった。
これは、自由とは他の誰かを従属させる力次第で得られる、特権的な地位
であった18世紀の帝国においては理屈に合っていた。
1751年、受託者団はあきらめてジョージアをお王権に引き渡し、王様は
奴隷制度を認めた。
1752年には白人約3000人、黒人600人だったのが、1775年には
白人1万8000人、黒人1万5000人に急増していた。西インド諸島や
カロライナと同様に、奴隷にされたアフリカ人とインデイアンの
土地を搾取することによって、プランター・エリートが非常に
裕福に、そして政治的に強力になったのである。
とてつもない数の人命・・先住民、植民者共に・・というコストを
払って、イングランド人は北アメリカ大陸に、身入りがよくて活動的で、
一層の発展性がある基地を確保した。南西部州の植民発起人たちの
期待した通り、ヴァージニアとメリーランドはイングランドの工業製品を
消費し、輸入品に取って代わる商品作物を栽培して、イングランドの
貿易収支を改善した。そして植民発起人たちが予言した通り、チェサピーク
は本国でダブついていて危険と見なされた何千人もの貧しい労働者を吸収
した。しかし、(彼らの予想し得なかったことだが)ヴァージニア人の平和は、
何千ものアフリカ人を奴隷化することで贖われたのである。
植民地のヴァージニア人は、エリート支配とポピュラー(俗受け思考)政治、
そして白人種優越主義の、アメリカらしい相互依存を作り上げたのだった。
この独自の組み合わせが、イングランド領アメリカを次第に本国とも、
他の帝国の植民地とも異なったものにしていったのである。
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🦊 テレビのドキュメンタリー番組で、ある外国の歴史家が言っていた。
「歴史に学ぶといっても、プーチンのようにいにしえのピョートル大帝や
エカテリナ女帝を手本に、大ロシア帝国の再現を目指す、英雄志願はやめて
もらいたい。今のロシア国民は、未だにそのレベルを脱していないようだ」と。
中国の習さんもアメリカの大統領も、新帝国時代のトップ争いを夢見て
いるのかな?習さんのモデルは、まさかモンゴルのチンギス・ハンじゃあ?
それではちょっと漢民族のプライドが許さん。となれば毛沢東?いまだに
毛沢東ファンの中国人も多いと聞いてはいるが、さーてね。むしろ
「新中華帝国の初代皇帝」を名乗りたいのか。
アメリカの「グレート・ファザー」はどうだろうか。彼の冠には、特大の
ダイヤのような殺人石が嵌め込まれている。もう彼は押しもオサレもせぬ
帝王なのだ。その石の魔力によって、アメリカ人が彼を仰ぎ見ているうちは、
戦争は無くならない。