奴隷制廃止の世紀1793−1888
マルセル・ドリニー 著
山田芙美、山本周重 訳 白水社文庫クセジュ刊
🦊 お待たせして御免なさい(WBCオールスターで忙しかったもんで)。
さて、なぜ今更奴隷制廃止と言うか、と言うと、今なお日本人は、重い
階層性社会のドツボにハマって抜け出せない、「井の中の蛙」で、
大海を知らず、自分らこそ優秀な民族なり、と信じているから。
例えば、明治期に日本に民主主義を「輸入した」という福沢諭吉にしても、
彼の矜持は武士道にあり、アジアの諸民族をバカ呼ばわりしていたそうな。
また(当ブログーおらが家が村で一番ーー参照)
1、石原莞爾(1889〜1949)ーー「関東軍満蒙領有計画」で、彼は
y
このように言う。
平定ーーグンバツ官僚の掃討と官職財産没収。関東軍による現地
支配層の完全複滅。
統治ーー軍政下で日、支、鮮3民族による自由競争。ただし日本人は
大企業と知的分野。朝鮮人は水田開拓。支那人は工業労働、つまり
士農工商の押し付け。
2 銀行家、商人渋沢栄一。(1840〜1931)ーー「商業こそが政治をリードする。
民を救うものは財政である。そして、個々の商人(及び政治家が)仏の導きに
(あるいは儒教の教えに)従って己れを律したならば、民の暮らは平安なるべしーー
しかし、現実はそうはならないのはーー残念だが、私はもう引退した身なので、
新聞もよう読まず、よくは知らない」
3 中国史専門家、ジャーナリスト内藤湖南(1866〜1939)
彼は、京都大学を中心とする中国史家グループを代表する碩学であり、第二次大戦前
の中国改革と、日本の中国政策について発言し続けた。
A・フォーゲルの内藤湖南研究書によれば、ーー湖南に対する戦後の評価「日本帝国主義
の大陸侵略を美化する役割を果たした」とするあまりにも単純な見方を排し、1880年代末
から90年代にかけて、日本の中国政策、つまり中国の改革において日本の果たすべき役割
に向けられていた。
第一の役割ーー中国に対する日本政府の外交政策と軍事活動。
第二の役割ーー日本政府とは別次元で、様々な立場から中国と関係を持った人々の活動である。
日中文化同一論の立場にある湖南にとって、日本の対中国政策は、欧米諸国に比べて、
より深い中国理解に基づいており、改革モデルとしての明治維新に対する深い自信があった。
1850年代末から60年代にかけての世代の人々は、多くは討幕勤王系の人々であり、
明治維新を改革の模範と見なした。湖南も、明治維新を無私無欲な改革の理想的モデルと
考えていたことは明らかである。
長年にわたって中国の改革を観察し続けてきた湖南は、ある時点から、中国が自分のこと
すら処理できない国になってしまったと考えるようになったーー
そしてヨーロッパ諸国にとって中国は単なる商売相手に過ぎず、ただ日本だけが有効な
援助を与えうる文化的にして戦略的な位置にある、しかし日本人はそのことを
理解していないと彼は述べ、批判の矛先を今度は日本に向ける」
4 頭山満(1856〜1944)
頭山満は「興亜運動」を主張した。終生、著書も官職もないくせに、隠然たる
力を持った国士だった。第二回総選挙で民党優位がわかると、彼は軍国主義へと
急旋回する。
「何をおいても軍艦を作って、支那を屈服させなくてはならぬ。外敵はすでに境界
まで来て、示威運動を試みているではないか。今日の急務はまず対外策だ」こうした
急転向は「国士」などと称する人々に共通している。ーー
ここからとつぜん、日本の中国指導という飛躍が飛び出し、これが高まると、
「世界を統一する」という「思想」になる。
「今日のままでは、未来の戦争に日本は全く無能力たるを免れない。日本には
鉄がない。石炭も少ない。そこで日本の急務は、鉄と石炭を十分ならしめ、
軍需品を独立せしむる制度と経済組織を完成せんとすることにある」その具体策
として、日本と中国が国際法上の一団体となる、すなわち「連邦の体」になることを
提言した。そうして、「戦争の時には、支那の土地をも鉄道をも物資をも日本の内地
同様に使用できるようにする」ことが日本の生存の不可欠の条件になると説いた
のである。
⭕️日本軍部はすでに方向を決めていた。第一次大戦は、未来戦争が、全国を賭けた
総力戦になると教えてくれた。山室信一氏によると、1916年、千賀鶴太郎は、
「日本の欧州戦役に対する地位」という論考で、次のようにのべている。
「今次の大戦において絶好の教訓を得たのは、人口や金の豊富なばかりでは、戦争に
終局の勝ちをうることはおぼつかない。かならず軍需品が自国で自給せらるるまでに、
機械だけでなく、物資までも皆内国で得らるる事にならねばダメである」
🦊 前置きが長くなったが、キツネの言いたいのは、同時代の日本人と欧米人の、
頭の中に、どういう知恵や知識や思考能力が詰まっていたか、あるいは欠けていたか、
比較してみるには、適当な本だと思うからだ。さて、本題
⭕️ p10 奴隷制に対するレジスタンス
18世紀の西欧では、寛容という理念と、自由と権利の平等を基礎とする自然権を
強く擁護する考え方がめばえ、また新たな政治・経済が生まれると、奴隷制は
この新しい経済発展にとって、ブレーキでさえあった。
とは言え、奴隷制が導入されていた植民地では、いずれの時期においても、闘争が
途絶えることのない社会であったことを忘れるべきではない。奴隷は、自らの境遇
を決して受け入れることはなく、さまざまな形で抵抗していた。今日この事実は、
「奴隷制に対するレジスタンス」と呼ばれている。1845年4月の「マコー法」に
関する議会審議において、植民地における奴隷制の維持を支持する人々が、奴隷は
「恵まれて」おり、炭鉱や工場労働に従事するプロレタリアートよりも良い環境に
置かれていると悪びれることなく主張していたのに対し、奴隷制廃止のための
フランス協会(1834年設立)の指導者のひとりであったアジェノール・ド・ガスパラン
は強い調子で反論している。
⭕️「この恵まれた「神による」被造物を見たまえ!彼らは市場で売られている。
グアドループだけでも15年の間に、奴隷人口の3分の1以上、つまり9万人中3万8千人
が売られている。奴隷はめぐまれている!だから彼らは逃亡するのだ。彼らは至る所で
逃亡している。諸君は
警備の人数を倍増することを余儀なくされている。5年の間に
警備の人数は5千人から9千人に増えた。黒人の逃亡を防ぐために、そして黒人が閉じ込め
られている場所の出入口を見張るために、諸君が警備の員数を倍に増やしたことから、
何百人、何千人ものフランス人兵士が命を落としている。奴隷は恵まれている!だから
諸君は、奴隷が船を所有することを禁じる条項を諸君の法律に書き込まねばならなかった
んだ。諸君は、これほどまでにも取りざたされているこの恵まれた状態から奴隷が
逃げ出してしまうことを恐れているのだ!」
奴隷人口が増加するにつれ、抵抗の仕方が多様化したため、奴隷制を維持するためには、
より強力で費用のかさむ抑止力を維持し続けることが必要となった。
大多数の奴隷の日々の生活は、サトウキビ畑や綿花畑、製糖工場、そして公共事業に
おける過酷な労働、 鞭打ちの刑、足枷、牢獄など、牧歌的な暮らしとは異なる性質の
ものであった。このため、植民地社会では、奴隷制に対する抵抗が絶えず発生していた。
労働を拒否したり、仕事に対するやる気・熱意が欠如しているということは、よくある
ことであった。このため、奴隷監督は、鞭を手にして奴隷を仕事に駆り立てざるを得
なかった。
このように、仕事が常に強制されていたことは、自由主義経済学者が奴隷制を批判する
理由の一つとなっていた。自由主義経済学者は、奴隷労働は、19世紀に実施されていた
分業や機械化とは両立し得ない、時代遅れなものであると考えていた。
p25 18世紀、奴隷制廃止論者は少数派で孤立した存在であった。というのも、当時、
奴隷制が存在しない植民地にという将来を構想することは、国家利益に潜在的に反する
ものであるとして、往々にして非難されていた大胆な試みであったからである。植民者や
船主が奴隷制廃止論者を植民地の敵、ひいてはフランスの敵であると強い調子で告発する
宣伝活動を展開していたことから、奴隷制維持を支持する考え方は、極めて大きな影響力
を持っていた。フランスにおいては、「黒人友の会」がフランス領植民地支配の破壊を
目論む英国の傀儡組織であると常に批判されていた。
p26 反奴隷制主義の起源
この点を踏まえた上で、反奴隷制主義と奴隷制廃止主義の基礎となる考え方が如何なる
ものであったか、その概要を明らかにすることは重要である。
まずは、このような試みを行う際には国家という枠内にとどまることは出来ないという
ことを抑えておこう。反奴隷制運動においては、本質的に、時代にかかわらず、一貫して
国際的かつ世界各国の人々が関与する運動に自動的に組み込まれることがその
特徴の一つであった。
反奴隷制主義の根本的な考え方は如何なるものであったのだろうか。
その起源を、英国で見られたものと、フランスで見られたものの二つに区別することが
できる。
一つ目は、キリスト教的な反奴隷制主義である。この反奴隷制主義においては、
あらゆる人々がそこから生まれたとされるアダムとイブの原初的なカップルが人類の
起源であるとの考え方を示す創世記に基づいた、福音的平等主義と呼べる考え方が
その源泉となっている。
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つまり、人類全体がこの唯一の起源である同一の原初的始祖から生まれており、
このため、人類間の序列化を構想するあらゆる考え方や、ある人種がその人種で
あるがために別の人種に搾取されるような形式が、一も二もなく糾弾されることになる。
この人類に対する平等主義的、単一起源的な考え方は、18世紀の時点においてもまだ
普及していた「生まれながらの奴隷」という考え方の論拠を覆した。「生まれながらの
奴隷」という考え方は様々な種族に枝分かれした人類間の不平等という前提、あるいは
ハムに対する呪い(ハムの呪い=ノアが宣告した呪いの言葉[カナン(末っ子ハムの子供)は
呪われよ。兄たち(セムとヤペテ)の下僕となるように]をその根拠としている。一方、
反奴隷制論者は、人類の単一性を明確に主張している、本源的に聖なる書である創世記
の主張を、このような疑わしい論拠によって覆すことは出来ないと考えていた。
16世紀半ばの有名なバリャドリッドの論争では、アメリカ地域のインディオを人類では
ないものとして位置づけようとしたスペインの主張に対し、インディオは人間であると
いうことが認められている。この論争では、当時広まり始めていた人類多元説が反躯
され、人類一元説が正当なものとして認められている。
この福音書に着想を得た平等主義の思想は米国や英国で支配的であった。宗教に端を
発していることは、19世紀までつねに英国と米国における反奴隷制の特徴と
なっており、数多くの牧師が運動を主導していた。クエイカー教徒は、極めて早い
時期に、彼らが建設したペンシルバニアでは、信者に奴隷制の実践を禁じている。
ペンシルバニアでは、基本的に奴隷制は存在しておらず、奴隷制が経済の中心で
あったことは一度たりともなかったが、少なくとも「クエイカー教徒であると同時に
奴隷の所有者であることはできない」とする原則がはっきりと打ち出されていた。
反奴隷制主義のもう一つの起源は、自然権に根ざした反奴隷制主義と呼ぶことが
出来るものである。この思想は、とりわけ、フランスにおける反奴隷制主義の源泉
であった。
啓蒙主義の特徴を持つこの思潮において、自然権は、生まれながらの平等という
理念に基づき、人間は平等であるとの考え方を生み出した。モンテスキューは、
鋭い筆致で、君主国間の政治的な力関係、商業的利益、そして奴隷制を制度として
一切糾弾することもなかった教会の立ち位置など、奴隷制支配的なものを正当化する
あらゆるものを一掃している。
モンテスキューに続き、一流の著述家たちが反奴隷制に関する文献を極めて数多く発表
している。
奴隷制に関するこのような糾弾が18世紀に増加したことは、驚くべき矛盾をはらんで
いる。米国、フランス、オランダなど、植民地における奴隷制に誰よりも関与していた
ヨーロッパの国々の一部、そして米国が、まさにこの奴隷制の絶頂期に、奴隷制を根底
から糾弾することになる考え方を展開していた。この明白な矛盾の原因を経済発展網
に帰するべきであろうか。西欧における歴史的な類を見ない経済的繁栄は、その結果の
一つとして、個人主義を至上の価値として支配的なものとし、社会的集団でも国家でも
なく、人間を全て関心の中心に置くことになったのではないだろうか。人間を全ての関心
の中に置くということは、自らと潜在的に同じ権利を有している他人を奴隷に陥れる
権利を、
一も二もなく人間的価値から除外する事だったのではないだろうか。
道徳的価値観の変化に加え、経済的次元における変化も存在した。
分業に基づいた、経済的個人主義、職業選択の自由及び市場経済の出現により、
最大限富裕になることを追求することが人生の目的となった。この新たな経済的
パースペクティブにおいて、以降奴隷制は、この進行中の変化の妨げとなる。
18世紀の新しい経済思想は、1750年代に飛躍的に発展し、哲学的アプローチと
収斂しつつ、奴隷制を糾弾するに至った。「自由主義者」あるいはその後そのよう
に呼ばれることになる人々は、奴隷制は時代遅れで古めかしい、およそ生産的で
ない労働形態であると強く主張していた。
アダム・スミスの言によれば、「自由労働は奴隷労働より豊かさを齎す」。
今日ではよく知られているこの経済的な考え方は、最初、デユポン・ド・ヌムール、
ミラボー侯爵、ボードー神父、あるいは彼らのすぐ次の世代の後継者である
チュルゴーやコンドルセなどの1750年代末の重農主義者が表明していた。
フランス革命直前の1788年に、パリで「黒人友の会」が設立され、奴隷制禁止運動
の3つ目の核が形成されている。
その急進性と米国革命に賛同していたことで当時有名であった文筆家ジャック・
ピエール・ブリッソと、1784年からパリで生活していたジュネーブの大銀行家
エチエンヌ・クラヴィエールが主要な設立者である。クラヴィエールは1782年の
ジュネーブ革命の主導者の一人であり、1784年から1789年にかけて行われた
大規模な金融オペレーションで中心的役割を担ったのち、フランス革命政府の財務大臣
となった人物である。彼らは自らを、英国と米国の奴隷制廃止論者の考えをフランスに
普及させることを目的とする、ロンドンの反奴隷制協会の支部のようなものであると公言し
ていた。
このように、独立直後の米国、英国、フランスの極を基盤とした国際的な組織が設立
され、情報が交換され、人々が行き交った。
国際競走が激化する中においては、最初に奴隷貿易を廃止すれば、他国に益(植民地の
砂糖から得る)をもたらすことになる。このため、各国が協調して行動するのでなければ
この(kおぞましい貿易)を非合法化しこれを禁止するようその他全ての列強に強制する
ことはできない。黒人友の会はこのような考え方に完全にとらわれており、奴隷制の
終焉自体は廃止という善行によって奴隷の生活条件が変わり、植民者の心性が変化
するであろう遠い未来の実現目標とされた。
とはいえ、これらのいかなる団体も、奴隷制をすぐに廃止すべきであるとは考えて
いなかった。あらゆる団体は、奴隷制を漸進的に終焉させるための計画を練り上げ、
提案していた。漸進主義が基準となったため、成人奴隷は奴隷であり続け、決して
解放されることはないが、彼らの生活や労働環境の改善が政治的な目標となった。
解放はそれ以後の世代からの問題とされた。
ブラジル向けの黒人奴隷貿易は、ポルトガルがほぼ独占して請け負っていた。
ポルトガルは400万人以上のアフリカ人捕虜を移送し、その殆どを1822年の独立
までポルトガルの植民地であったブラジルで売却していた。アンゴラの他、
ギニア湾やアフリカ東海岸のモザンビークが主要なアフリカ人捕虜の調達地で
あった。また、1820年から1850年にかけての数十年の間に、違法な奴隷貿易に
より毎年5万人以上の奴隷がブラジルに新たに運ばれてきた。しかしブラジルでは
反奴隷制運動が早い時期に発生することはなかった。この要因としては、ナポレオン
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のポルトガル侵攻から逃れるためにリオに避難してきたポルトガル王によって宣言
されており、反奴隷制運動を担う者(奴隷制経済と無関係のエリート層)は形成され
にくかった。
また、奴隷制が「自明のこと」と考えられていたことがもう一つの要因となっている。
というのも、ブラジル社会は、極めて保守的であったカトリック教会によって強固に
構造化された階層性と不平等性を特徴としており、あらゆる階層で奴隷制が実施され
ていた。1816年から1831年の間にリオに住んでいたジャン・バテイスト・ドウブレに
よる数多くのデッサンや絵画では、奴隷だけが働き、水の運搬人、髪結い、髭剃り、
庭師、靴の修理屋、パン焼きなど、あらゆる仕事をこなしている都市の日常生活の
情景が数多く描かれている。
ブラジルでは、1880年前半に至るまで、組織立った奴隷廃止運動が生まれることは
なかった。キューバとブラジルは国際的な反奴隷制の動きに最後まで抵抗した国である。
ブラジル社会において、奴隷制が[道徳的に糾弾]されるようになったのは、1860年代
から、奴隷所有者が、ヨーロッパで契約労働者としてブラジルに来るよう働きかける
募集運動を行い、イタリア人、ドイツ人、ポーランド人など、大量の白人移民が
ブラジルにやってくるようになると更に強まった。大量の白人移民が来たため、
ブラジルの人口構成は徐々に変化し、多くの国民が奴隷制を擁護することは無くなって
いった。
p60 サン・ドマング(今日のハイチ共和国)における奴隷蜂起と最初の奴隷廃止
(1791~1794)
1763年春からフランス革命軍と、カリブ海地域の西洋列強国である英国、オランダ、
スペインの間で戦争が始まった。奴隷所有者が二つのグループに分裂している状況は、
反奴隷軍の勝利の一つの要因であった。
1791年8月21日から23日にかけて、当時の植民地の首都であったカップフランセから
ほど近いプレーヌ・デユ・ノルにあるルノルマン・ド・メジ所有のプランテーションで、
反乱の口火が切られた。根強く残っている伝承によれば、反乱に先立ち、おそらく
8月14日の夜に、「カイマン森」と呼ばれる森の中の切り開かれた場所で、キリスト教の
儀式を織り交ぜたブードウー教の影響を受けた呪術的、宗教的儀式が執り行われた。
こ儀式の中で、奴隷たちはセシル・ファテイマという名の女性祈祷師の周りに集い、
自由を獲得するために戦うことを誓った。ジャマイカからやってきた奴隷のブクマンは
学識があったこともあり、儀式の「主催者」となった。
ブクマンは、奴隷による反乱の最初期の指導者の一人であり、反乱の早い時期に
殺されている。
(この儀式の歴史的実在性を疑う人々もいるが)この儀式はハイチにおいて人々の
記憶に根強く残っている。この反乱と戦うため、フランス議会は、まずは部隊、軍艦、
そして多額の資金等を送った。
続いて、議会はこの奴隷反乱に脅威を感じるであろう全勢力を結集させるべく、白人と
有色自由人を接近させる政策をとる。そのための政府代表委員3名が1792年9月初めに
サン・ドマングに到着した。1793年8月、政府委員ソントナックスは、カップフランセ
において、今後、奴隷は存在しなくなる旨布告した。その後、政府委員エチエンヌ・
ポルヴェレルが南部地域で同様の布告を行った。1791年の法令によって有色自由人は
政治的な権利を附与され、完全なる権利を有す市民となった。
このように、奴隷武装蜂起が始まって2年が過ぎる頃には、急進的な奴隷制の廃止が、
外部に対抗し、植民者を従わせることを可能にする唯一の方法となっていた。
というのも、自由人となり、市民となり、その結果兵士となると数多くの黒人が
必要であったからである。
奴隷制が廃止されるとすぐに、「サン・ドマングの新たな人々」の代表として、
新たに議員3名が選出され、国民公会で議席を得るためにパリに派遣された。
(この議員3名は、戦争のため非常な苦労の末に1764年1月
にパリに到着したが)
奴隷廃止の決定が、そのような権限を持っていない2名の政府委員によって下された
ので、彼らが到着した時には、サン・ドマングにおいて奴隷制が廃止されたという
ニュースはまだパリに届いていなかった。このため3名は「反乱植民地のf代表」
とみなされ、逮捕されてしまう。釈放された後、1794年に黒人として初めて
フランス議会に登院したジャンバテイスト・ペレイが、植民地の状況を報告し
通常法によってではなく憲法を修正することで廃止されるーー奴隷制全廃を通告した。
この審議において出席していた全議員が満場一致で奴隷制廃止に賛成票を投じた。
p105 米国ーー南北戦争と奴隷制の終焉
1787年、奴隷制が徐々に廃止されていた北部の州と、タバコ、綿、砂糖などを生産
するため、経済の大部分を奴隷労働に依拠していた南部諸州の間の妥協が憲法に
盛り込まれることで、国家形成に向けた動きが進展した。1787年憲法では、奴隷制は
通常法によってではなく、憲法を修正することで廃止される旨規定された。
新たな州が数多く合衆国に加入したことで、「奴隷州」と「自由州」の間のバランスが
大きく変化した。新しく加入した州は奴隷制擁護維持派を支持したため。各州が2名の
代表を送る上院において、改革案を可決することが困難になった。反奴隷制論者と
関係を有していることが周知の事実であったアブラハム・リンカーンが大統領に選出
されると、1860年、北部州と南部州は断絶する。1861年2月4日に11の州が別途
「合衆国」を創設すると、すぐに2つの陣営の間で戦争が始まった。
この戦争は4年間にわたり激烈に展開された最初の「近代戦」だった。
1864年6月、工業化が著しく進んでいた北部に南部が敗北する形で戦争は終結した。
リンカーンは直ちに奴隷制の廃止を宣言した。
1865年12月6日、議会が可決した合衆国憲法修正第13条は、「奴隷制及び本人の
意に反する労役は、犯罪に対する刑罰として、合衆国あるいはその管理に属する
いずれの地にも存在してはならない」と規定している。
p110 賠償金問題
🦊 (奴隷制廃止令によって奴隷を手放す羽目になった植民者に、失った[財産」
に対し補償金を出すか否かで、議論が分かれた。ある国は、政府の負担で、また
ある国では全く支払われなかった。奴隷制が法的に廃止されるのなら、所有者は
当然補償金を受け取る権利があるという人々と、ある人間を別の人間が所有する
という、不当な暴力行為から解放され、自然権が回復されるのだから、賠償金は
一切支払われるべきでないとする人々が対立していた)
⭕️ コンドルセは1781年の時点ですでに極めて明確かつ急進的な立場をとっていた。
「我々は、奴隷所有者は彼らの奴隷に対しいかなる権利も有しておらず、奴隷を
奴隷状態に留め置く行為は所有権の行使ではなく犯罪であること、法律によって
奴隷を解放することは、所有権の侵害にはあらず、本来であれば法律が極刑でもって
罰するべき行為の容認を止めることを意味しているということを明らかにした。
それ故、裁判によって盗品の所有権を剥奪された泥棒に対していかなる弁済義務も
負うことはない」
これに対し、プランターに対する賠償金支払いに賛成する人々は、奴隷制及び奴隷
貿易は正当かつ完全に合法的なものであると考え、各国は一貫して奴隷所有や奴隷貿易
を奨励し、それらに出資法律や規制という無視することのできない手段で保護してきた。
奴隷制廃止によって、奴隷所有者は所有物を取り上げられることになるため、公共の
利益のために行われるあらゆる収用と同様に、賠償金の支払いを伴うべき所有権の侵害
であると一貫して主張していた。
解放令によって奴隷を失う所有者に対する賠償金支払いの問題は、ずっと以前から議論
されていた。英国でもフランスでも奴隷は合法的な所有物であるとの意見が大部分であり、
奴隷制廃止に伴う所有者への賠償金の付与は当たり前のことと考えられていた。
フランスでは、植民者からの賠償金請求を個別に検討するための「賠償金委員会」
が設置された。同委員会は1850年代末まで存続している。
この賠償金は、米国を除き、19世紀においてはほぼ一般的に支払われていた。
米国では、南北戦争で敗北した南部に対し奴隷制廃止が強制されており、
奴隷所有者に対し賠償金が支払われることは一切なかった。
⭕️ サン・ドマング(後のハイチ共和国)の事例は特殊である。
サン・ドマングでは、奴隷蜂起により奴隷貿易が廃止され、奴隷制が復活することは
なかった。植民者はこのため、他の殆どの奴隷植民地において、奴隷所有者が
立法府の廃止令によって「強奪されたもの」という地位が認められ、比較的寛容な
額の賠償金を受け取っていたのと根本的に異なっていた。
つまり、前述のコンドルセが主張してきた立場が適用されたということである。
(植民者は、反乱奴隷から受ける虐殺を恐れていた。主人を殺害する方法としては、
薬殺も多かった)とりわけ虐殺から逃れるためにハイチから逃げ出した植民者に
対しては、往々にして即時に支援の手が差し伸べられた。フィラデルフィア、ボストン、
あるいは米国のその他の港において、フランス当局はハイチから逃げ出してきた
植民者に対し支援を与え、フランス本国においても即座に支援している。
サン・ドマングから逃げ出した避難家族を支援するための措置が一定の条件下で
採られており、これらは19世紀の間、1870年代初めまでつづいた。これらの措置
の利益を享受したのは植民者の子孫であった。これらの支援は、慎ましやかな生活を
送っている人々に対する「人道的な」性質のものであり、植民者が奴隷を失ったこと
に対する賠償金であるとは見なされていなかった。
フランスは、1793年から1804年の間ハイチを離れざるを得なかった植民者の財産に対し
ハイチが1・5億金フランの賠償金を支払うことを条件に、この旧植民地の独立を承認した。
ハイチ共和国は、1838年の協定に基づき植民地賠償金をフランスに支払った。その支払いは
30年間に及んだ。(自ら解放を勝ち取った46万人以上の奴隷の価値の「返済」を意味する
のだろうか・・・)賠償金の算定にあたっては、奴隷の数は組み込まれておらず、不動産(土地、
住居、精糖工場、コーヒー農園、倉庫)が記載された。しかしながら、これらの生産手段は
それを動かす奴隷がいなかったとしたら、どのような価値があったのだろうか。この点に
ついては、今日でも議論が続けられている。
「強奪された」植民者に対する賠償金は、植民地列強の政府予算から支払われていた。
これに対し、ハイチ人に課されることになったサン・ドマングの賠償金は、ハイチ人
自身によって支払われている。この「独立のための」と呼ばれた負債を支払うため、
歴代のハイチ政府は、放棄された植民地の広大な土地に形成された細分化された土地で
農業を行う農民に対し、コーヒーで支払いが可能な税金を課した。つまり、元植民者
への賠償は、農民によって生産されたコーヒー輸出によって支払われたということである。
(以下略)
******************************************************************************
🦊「もはや戦後ではない」という造語が流行った時期があった。「あの戦争」は、もう
泥棒風呂敷に包んで納戸に放り込んだ。つまり「なかったことにした」という意味らしい。
最近では二階氏の「自民党はびくもしない」の発言があるが、これは氏の年齢にありがちな
「我は永遠の現役」妄想からくる老人ボケだろう。また某氏の「今や世界中から日本円を
買いに来てる。これが現在日本の実力というもんだ」は、「円を買いに来てるのか、売りに
来てるのか」がわからない困った政治屋で、自分では嘘をついてるつもりがない。
トランプ候補は叫ぶ「MAGA」!!昨今の日本でもMake Japan Great Againの声は低い
地鳴りのように響いている。何がグレートなものか。押入れの風呂敷を解いてみなさい。
中には何やら和綴の書があり、日本人は優秀。他のアジア人は奴隷、または日本軍兵士
として充当できる、などという馬鹿哲学が臭気を放っている。
まさに「そこに智はあるんかい!」だ。智と言うより智の伝統というべきか。
ギリシャ時代から続く「我および我々」についての深い考察と議論だ。
狐はチャンバラ日本史が大嫌いだ。どこの大名が「国盗り名人か」、天下人に相応しい
のは家康か、秀吉か、など武家政治礼賛を持って太平のグレートな日本を語る輩だ。
また渋沢先生が、金持ち天下の差別社会を完成させたからといって、アジアでの軍部
爆進の手伝いをした、彼の第一日本銀行の業績まで美化するのは如何かと思う。どうせ
紙幣にするなら、いっそ現在の天皇陛下はどうだろうか。英国に倣って?
2024 7
🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊🦊
きつねからお願い!!
来年2月半ばをもって、現在のサーバーとの契約期間切れに伴い、URLを移籍しようと
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新しい「キツネと遠近両用めがね」も、資金難で、旧URLを移籍できるかどうかわかりません。
まあどうせ短い余生なので、(医者によれば、あと15年ですと)これを機会に消しといた方が、
親族はホッとするでしょうが。未練というやつですかね。タタッタリしないからご安心を。
2024年 12月