「大国アメリカに戦争を挑んだ日本はエライ!」は本当なのか?
🦊 SNSで、真面目くさってこんなことを主張するのは、若い人
だろう。でなければ老害の人(自分がボケているのも知らずに、
若者を叱りつける人)だろう。
例えば真珠湾攻撃。これについては、山本五十六司令官万々歳!と
いう人も、愚物と貶す人もいて、両論が闘い疲れた現況だ。
しかし、「真珠湾攻撃は、必敗の戦争に突入し、巨人アメリカを
連合国の陣営に決定的に推しやった日本の決断こそが、政戦略レベル
の愚行だったのである」と喝破する本が出た。「連合艦隊、
なかんずく機動部隊は、与えられた任務を完璧に達成したと言えよう。
それ以上でも以下でもない」と。
勝敗の構造ーー第二次大戦を決した用兵思想の激突
大木毅 著 祥伝社 刊 2024年2月
🦊 p136 具体的には、山本の残した文書から「第一航空戦隊・第二航空戦隊
(合わせて空母4隻)によって、月明の夜、又は黎明を期し、全航空兵力を持って
全滅を期し敵を強襲する」とある。また、一個潜水戦隊(潜水艦6ないし10隻程度の
部隊)を用いて真珠湾に近迫、航空部隊と呼応して敵を雷撃し、この場合、敵の
狼狽出動を真珠湾口に近く要撃して、湾口の閉鎖を企図するともある。
また、攻撃直後に上陸作戦を敢行し、真珠湾を占領できるのではないか、と口に
したことなども、山本の真意を裏付ける証拠となろう」
「おそらく、これほどの打撃を与えれば、アメリカ国民の士気を挫き、開戦初日
に勝敗を決する可能性もないわけではない、と山本は夢見たのではなかろうか。
けれども、日本の国力や組織の硬直は、その願望が現実となることを許さな
かった。
ハワイ占領に必要な陸軍部隊を運ぶ輸送船は、南方攻略だけで手一杯で、とても
真珠湾侵攻を実行する余力はなかった。何よりも、空母機動部隊のみならず、
輸送船団まで出してしまえば、真珠湾への途上で発見される可能性も高くなる。
さらに、ハワイ作戦の準備が進むにつれ、機動部隊の給油問題、浅海面魚雷や、
徹甲爆弾の準備など、様々な問題が露呈し、山本が構想したような大規模な作戦
は実行不能であることも判明した。そのため、山本も開戦第一撃でアメリカに
致命傷を与えることを諦め、短期間に連続的な打撃を加えることで講和に追い込む
と、考えを改めたように思われる。・・
🦊 アメリカ政府の中に、対露作戦に日本軍を利用するため、アメリカとの同盟を
誘うというような気運もあったという。しかし、ドイツ軍のヨーロッパ制覇を信じて
そちら側にのめり込んだ日本は、軍費調達のため、南アジアへの侵略を開始。これを
「南進」と称した。食料や鉱物資源を盗みに出かけたのだ。だからこっちをやめて、
真珠湾攻撃に回す金も物も無い。たった一度の奇襲攻撃で、アメリカ人が震え上がり、
日本攻撃を止めると思った?だがそうはいかなかった。アメリカの日本大使館の不手際
もあって、宣戦布告が遅れ、奇襲の後になってしまった。「卑怯な日本の奇襲攻撃」
というアジテーションが米国民の心をしっかりと捉え、米政府の思う壺となり、日本
憎しの復讐心が一気に燃えあがった。
p138 第二撃は可能だったか
昭和16年12月8日、空母6隻から発進した航空隊は奇襲に成功、米太平洋艦隊の主力は
撃沈・撃破され、所在の航空機300数十機が撃墜もしくは破壊されたのだ。かかる成功
にもかかわらず、なぜ第二撃を加えて戦果を拡張しなかったのか、第三次攻撃をかけて、
真珠湾の海軍工廠や燃料タンクを破壊するべきだったとの批判が日米両国側から
湧き起こった。イギリスの歴史家H・Pウィルモットの、真珠湾攻撃に再検討を施した
著書によると、日本機動部隊の随伴駆逐艦の積載燃料、再給油に要する時間、損傷機数
と種類、再攻撃に使用できる機種と機数、地上目標を攻撃するための大型爆弾の有無
などを仔細に調査した上で、第二撃を実行すれば大きなリスクがあったろうと結論づけ
ている。したがって、第一撃のみで引き上げた日本側の指揮官南雲忠一(ナグモチュウイチ)
中将の判断は適切だったというのが、ウイルモットの評価だ。
また、ハワイ作戦当時、軍令部第一(作戦)部長の福留繁は、「もとより油槽も工廠施設も
軍事目標であることは万々承知しており、攻撃計画にあたっては一応もニ応も検討した。
が、それらを叩けば非戦闘員に被害が生じ、戦時国際法違反になることを恐れて「直接の
戦力たる戦艦及び航空機に対する攻撃に専念することに定めた」と、回想録で釈明している。
また、当時機動部隊が有していた艦載機は、すべて単発機であり、爆弾搭載能力には限界
があった。こうして考察してみれば、真珠湾の第二撃は計画もされていなければ、その用意
もなかったと結論づけてもよかろう。
したがって、連合艦隊、なかんずく機動部隊は、与えられた任務を完璧に達成したと
言えよう。それ以上でも以下でもない。
🦊 ウクライナ戦争にショックを受けてか、「再軍備!軍事予算拡大!」果ては「核爆弾保有l」
の声が高まっている。果たしてその声の主は、戦争と経済、国力と戦争、金さえあれば勝てる
のか(軍政の無知蒙昧)等について考えたことがあるのか、怪しいもんだ。
p102 幻想の「重点」
バルロッサ作戦(1941年6月ー12月)の失敗の過程をたどれば、作戦立案時点ですでに決定的な
誤断が内包されていたことが見て取れる。
戦争とは何かを追求した名著「戦争論」をものしたカール・フォン・クラウゼヴィッツ
(プロイセン)は「重点」の概念を用いて、何が戦争の勝敗を決するファクターなのかを
考察した。クラウゼヴィッツによれば、敵のあらゆる力と圧動の中心こそが重点であり、
これを全力で叩かねばならない。敵の軍隊が重要であれば、それを撃滅し、党派的に分裂して
いる国家であれば首都が重点となるから、これを占領する。同盟国頼みの弱小國であれば、
その後ろ盾となる国が派遣する軍隊が重点であるから、その主力を撃破しなければならない
と、戦争論には記されている。
この思想はドイツの軍隊に受け継がれた。第一次世界大戦のタンネンベルク包囲殲滅戦で大功
を上げ、国民的英雄となったヒンデンブルク元帥などは、「重点なき戦争は、人格なき
人間と同じである」とまで言い切っている。
にもかかわらず、かような思想を叩き込まれていたはずのドイツの参謀将校たちは、第二次
大戦で重点を明確に定めることなく作戦を立案し、「人格なき人間」の振る舞いを演じた。
史上最大の陸上作戦となった1941年のソ連侵攻である。
ではヒトラーが、いずれ果たすべき目標ではなく、具体的な行動としてのソ連侵攻を決意
したのはいつのことで、どういう理由だろうか。
1940年夏、ノルウェー、デンマーク、ベネルクス3国、フランスを降したドイツは、
ヨーロッパの覇者となっていた。ヒトラーは孤立したイギリス人に和平を提案したが、
英首相ウィンストン・チャーチルは徹底抗戦の姿勢を崩さない。そのためヒトラーは、
英本土を直撃する決意を固め、英本土航空戦を開始した。しかし、兵力に勝るドイツ
空軍に対し、イギリス空軍は粘り強く抗戦し、勝敗は容易に決しようとしない。
手詰まり状態に陥ったヒトラーは、東方に目を向ける。イギリスが孤軍奮闘しているのは、
やがてアメリカとソ連が参戦すると考えているからだろう。それなら東に矛先を転じて、
ソ連を粉砕すれば、東方植民地帝国の建設並びにイギリスの抗戦意思打破という一挙両得
の効果があるはずだ。ヒトラーは次第に対ソ戦実行へと傾斜していった。(中略)
最終的には1940年12月18日に総統指令第21号が発せられ、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」
の実行が決定されたのである。
p106 具体化する作戦計画
第二次世界大戦後、生き残った国防軍の将軍たちは、ヒトラーの命令への服従という
義務ゆえに対ソ戦を遂行したのであって、自分たちは決して積極的ではなかったとする
「伝説」を流布した。けれども、その後の研究の進展により、ヒトラーの決定が下される
前から、ドイツ国防軍がソ連邦侵攻の計画を練っていたことが明らかにされている。
かかる動きの背景には、ドイツが西方作戦を実行している間に、ソ連に背後を衝かれる
のではないかという不安があった。1939年9月にポーランドに侵攻し、西部地域を占領
したドイツは、同じくその東部地域を我が物としたソ連と国境を接することになっていた
のである。両国間には不可侵条約が存在していたが、ドイツはそれを信じて安心するほど
ナイーブではなかったのだ。結局、ドイツ陸軍総司令部(OKH)は、1939年から40年に
かけて西部戦線で英仏連合軍と対峙している間、さらにはその後も、ソ連がドイツに侵攻
してきた場合の作戦計画を練り続けていた。
しかし、当初は防衛を主眼に置いていた対ソ作戦は、西部戦線でフランスが脱落した
後に、積極的な色彩を帯び始める。1940年 7月3日、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー
砲兵大将は、OKH作戦部に対ソ戦を検討するよう指示した。ドイツ陸軍首脳部は、
ヒトラーと同じく、ソ連を倒せば、さしもの頑強なイギリスも希望を失い、講和に
応ずるのではないかと考え始めていたのである。
翌4日、ハルダーは、ドイツ東部の防衛を担当する第18軍の司令官と参謀長を呼び、
国境にソ連軍の大兵力が集結していると告げた上で、攻勢計画の立案を命じた。
これは、7月22日付け「第18軍開進訓令」に結実する。そこには、ソ連がドイツに
侵攻した場合のみならず、死活的に重要な石油を産するルーマニアに脅威を
及ぼした時にも「紛争」に突入すると想定されていた。こうして、国防軍が対ソ戦を
視野に入れ始めたところに、ヒトラーの意思決定が重なって行ったのである。
加えて、ドイツ国防軍にはソ連軍の実力軽視、それも根拠のない過小評価があった。
1940年7月21日に開かれた会議で、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
元帥は、ソ連軍が使用し得る優良師団は50個ないし75個程度と予想されるから、作戦
に必要なのはドイツ軍80個ないし100個師団ほどだろうと述べた。驚くほどの楽観では
あるけれども、これが当時のドイツ軍に蔓延していた暗黙の了解なのであった。
ハルダーは、7月29日に、第18軍参謀長エーリヒ・マルクス少将に、独自の作戦計画を
起案するように命じた。マルクスによる作戦案は、(のちにマルクス・プランと呼ばれる)
ドヴィナ川北部、ヴォルガ川中流域、ドン川下流域を結ぶ線を到達目標とし、食糧、
原料供給地であるウクライナとドニェツ川中流域、軍需生産の中心地、モスクワと
レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)を占領するという壮大な計画であった。
本章冒頭に示したクラウゼヴィッツの概念に従うなら、ハルダー以下のドイツ陸軍
首脳部は、首都モスクワこそがソ連の「重点」だと考えていたのである。
ところが、12月25日にOKHの作戦が報告された際、ヒトラーは重要な構想を発表した。
この時期のヒトラーは、根拠のない楽観に基づき、ソ連軍主力が重点であるが、これを
撃滅することは容易いことで、その後、モスクワほかの重要地点を占領すれば良いと
考えていたらしい。
しかも、ハルダー以下のOKH首脳部は、ヒトラーの指示に従い、作戦案を修正した。
あるいは作戦を発動してしまえば、モスクワを最優先目標とするよう、総督を説得できる
と確信していたのかも知れぬ。けれどもこのような妥協の結果、1941年1月31日付けの
「バルバロッサ作戦開進訓令」は、最重点目標がモスクワなのか、ソ連軍主力なのか、
あるいはそれ以外の重要地点なのかを明示しない、曖昧なものとなった。
p110 先細りの攻勢能力
1941年6月22日、ナチス・ドイツはソ連邦への侵略を開始した。バルト海から黒海
まで、およそ3000キロの戦線が開かれ、そこに総兵力約330万が投入されたのだ。
この大軍は三個師団に区分されており、北から南の順に「北方軍集団」「中央軍集団」
「南方軍集団」と呼称されていた。
奇襲により、ソ連機多数を地上で撃滅し、航空優勢を得た空軍の支援をうけ、装甲部隊
を先鋒としたドイツ軍は破竹の勢いで進撃した。ドイツ軍の侵攻は無いと誤断した
赤い独裁者ヨシフ・スターリンが、度重なる現場の戦闘準備要請を握り潰していた
こともあって、不意打ちを受けるかたちになったソ連軍部隊は、次々と撃滅されていく。
とくに、最重要正面である戦線中部を担当するドイツ軍中央軍集団の猛進はめざましく、
その装甲部隊は、開戦1週間ほどでソ連領内400キロの地点まで達していたし、ミンスク
周辺における最初の包囲殲滅戦も成功、7月初旬までに捕虜32万を得ていた。
しかし、こうした戦果も、実は暗い影を引きずっていた。というのは、かくも華々しい
進撃でさえも、可能な限り国境付近でソ連軍主力を捕捉・撃滅し、奥地への撤退を
許さないという「バルバロッサ」作戦成功の大前提を満たすには不十分だったからで
ある。
そのような事態が生じた理由は幾つかある。これまでドイツが西方作戦やバルカン作戦で
対した敵とは違って、ソ連軍将兵は、ドイツ機甲部隊に寸断され、通信、補給の線を
切られても、いっこうに降伏しようとはせず、頑強に抵抗し続けたのだ。ドイツ軍と
しては、それらの残存部隊に対処しないわけにはいかず、貴重な兵力はさらなる進撃
ではなく、後方の掃討戦に使われることになる。かような小戦闘での損害は、個々には
わずかなものであったとはいえ、次第に累積していき、ドイツ軍の戦力を削いでいった。
また、ロシアの地形も、ドイツ軍の前進にブレーキ痕をかけた。ロシアの悪路での進撃は、
舗装道路が四通八達し、場合によってはガソリンスタンドで給油することもできた、1940
年の西方の侵攻のようにはいかなかったのだ。道路によっては脆弱で装甲車両の重みに耐え
られず、陥没してしまうものさえあった。ゆえに、ソ連軍主力の捕捉撃滅に不可欠の高速機動
など望むべくもなかったのである。
さらに、補給の問題もクローズアップされてきた。ソ連の鉄道はヨーロッパ標準軌と軌間が
異なるため、列車輸送を行うにはレールの工事が必要になるが、それには時間がかかる。
そのため、前線部隊が進めば進むほど、鉄道線の補給端末との距離は遠ざかるばかりとなった
のである。この前線と鉄道端末の間の補給線は、自動車部隊の輸送によって維持されていた
が、そうした即興的対応も次第に困難になる。かかるマイナス要因が累積した結果、
ドイツ軍、とりわけ装甲部隊の消耗は危険な水域に達した。
p114 モスクワ南方資源地帯
こうした状況に直面し、ヒトラーと国防軍首脳部も、ソ連軍主力を重点とし、これを
壊滅させたのち、ヨーロッパ・ロシアを手中に収めるとの構想が実現不可能になったことを
知った。では、これからどうすればいいのか。(中略)
南部ロシアの工業、資源地帯の確保を優先するヒトラーと、戦略的な目標であるモスクワ
こそが勝敗を決する重点だと主張する陸軍の対立が顕在化する中、ある変化が生じた。
中央軍集団前面で抵抗していたソ連軍部隊を撃滅、その陣地を奪取したのだ。
一方南方軍集団は、プリピャチ・ドニエプル湿地南方にあったソ連軍部隊の拘束と撃滅に
努め、8月24日までにドニエプル川西方地域のほとんどを占領していた。
つまり、中央軍集団方面から有力な装甲部隊を南へ、ウクライナに展開するソ連軍の
後背部に進撃させ、ドニエプル川流域に展開する南方軍集団と協同して、挟み撃ちに
するという作戦を遂行する前提が整ったのである。
この状況をみたヒトラーは、8月21日、モスクワ進撃を唱えるOKHの反対を一蹴し、
中央軍集団麾下第二装甲軍団のキエフ転進を命じた。このときヒトラーは、重要なのは、
クリミア半島やlドニェツ工業・炭田地帯の奪取、コーカサスからのソ連軍に対する
石油供給の遮断、レニングラードの孤立化だと述べている。少なくともヒトラーは、
経済的目標がソ連の重点であると判断したのだ。
ところが、南進を命じられた第二集団司令官のハインツ・グデーリアン上級大将は、
名うてのモスクワ重点主義者だったから、ここに言葉の決闘が生起する。(中略)
(グデーリアンとハルダーは、ヒトラーに会い、持論をとうとうと述べた)
首都モスクワは、政治、交通、通信の中心であるのみならず、重要な工業地帯である
から、そこを占領すれば、ソ連国民の受ける衝撃は計り知れない、と。それに対し
ヒトラーは、ウクライナの資源と食糧は、戦争遂行のカギを握っていると断じ、有名な
言葉を発した。「私の将軍たちは、戦争経済について、まったくご存じない」
ヒトラーは南方進撃を命じたが、(中央軍集団の補給は深刻な状況にあり、グデーリアン
のいうような即時モスクワ進撃は、実現不可能であったから)ヒトラーの命じる
第二装甲集団を南下させることは唯一実現可能な選択肢であったとする説が、現在では
有力である。
いずれにせよ、ヒトラーに転進決定により、ドイツ軍は再び大きな戦果を上げた。
スターリンがキエフ死守を命じ、撤退を許さなかったこともあって、ソ連軍は大損害を
出した。
9日月下旬のキエフ戦終了までに、約45万の兵員を擁する4個軍団が壊滅したのである。
p117 「台風」作戦
ドイツ軍はキエフ包囲戦に勝利し、ウクライナ征服の見込みを確実なものとした。
また、この間に北の重要都市レニングラードを孤立させ、包囲下に置くことにも
成功している。こうして、東部戦線の南北両翼が安定したのを見たヒトラーはhc、
ついに将軍たちに同意し、モスクワ攻略「台風」作戦の実施を認めた。
だが、結論を先取りするならば、このモスクワ攻略作戦は、発動前から失敗を運命
づけられていた。ここまでの戦いで、ドイツ軍は弱体化し切っており、首都攻略に
必要な打撃力を失っていたからである。季節もまた、泥濘の秋、ついでロシアの
厳しい冬と、大規模な軍事行動には不向きな時期に突入していた。さらに戦略的に
見るならば、作戦が成功し、モスクワを占領したところで、それがスターリン体制
の崩壊、対ソ戦の勝利に直結する保証など、どこにもなかったのである。
モスクワ攻略は、当初順調に進んだ。ドイツ軍はソ連軍の戦線を突破し、ヴャジマ
とブリャンスク付近の2箇所で、敵の部隊を包囲する。しかし、ドイツ軍の補給は
限界に達していた。突破を成し遂げ、急進して機動戦に持ち込もうとした機甲部隊
も、次々に燃料不足で足踏みせざるを得なくなった。攻撃の要となる戦車の消耗も
深刻であった。そこに悪天候が追い打ちをかける。10月6日から7日にかけての夜、
中央軍集団の戦区に、最初の雪が降ったのである。翌朝、溶けた雪は舗装されて
いないロシアの道路を泥沼にしてしまった。「道のない季節」、泥濘期が始まった。
道という道が、英語の戦記で「2フィートの深さのぬかるみ」と表現される沼沢と
化す。キャタピラ装備の車輌でさえも、走行困難となり、ドイツ軍の前進は
止まった。11月15日、泥の海と化した地表が凍結するのを待っていた中央軍集団は、
攻勢を再開した。南では、グデーリアンの第ニ装甲軍が交通の結節点であるトゥーラ
の包囲にかかる。北では、突進した先遣部隊の一部が、双眼鏡でクレムリンの尖塔を
視認できる地点まで到達した。
しかしーーそこまでであった。ナポレオンがロシアに侵攻した1812年と同様の、
異常気象とさえ言える厳冬に苛まれたドイツ軍には、もはや攻勢を続ける余力は
残されていなかったのである。
12月5日、そうして疲弊し切ったドイツ軍将兵に、満を持したソ連軍が襲いかかる。
極東から増援されたシベリア師団や、T−34戦車などの新型兵器を投入しての反撃
を支えきれず、ドイツ軍は無惨に敗走していく。
p120 結語
仮想敵の重点がどこにあるかを正しく判定することは、戦略、作戦の立案に必須の
要件といえる。例えば現在のウクライナ侵略戦争の展開などは、その重要性を証明
していると言えるだろう。
しかしながら、ドイツの参謀将校たちは、何がソ連の重点であるかを突き詰めて
考えることなく(もっとも、ドイツが衝くことができるような重点が、当時のソ連に
あったかは疑問であるが)、敵主力、首都モスクワ、ウクライナの資源地帯と、
「幻想の重点」の間を揺れている状態のまま、史上空前の大作戦を実行したのである。
********************************************************************************
🦊 ここまで読んでくると、「大国に戦いを挑む」のは「よかでごわす」「日本の誉れ
でござんす」なんていうのは、軍歌の歌詞にもなりずらい。第一、真珠湾攻撃なかりせば、
原爆は日本に落とされなかったろう。米政府は、人類未踏の核爆発実験の場として「無垢の」
荒らされていない、実験成功の紛れもない証拠として公示できる、手付かずの土地として、
広島を選んだ。長崎の場合は、たぶん別の理由かも知れないが、米政府とマンハッタン計画の
推進者たちは、手を打って喜んだであろう。米国民の承認を得るには、「にっくき害獣」、
「神の与えたもうた使命」、「アメリカの正義」、その他色鮮やかな飴玉が必要だったから。
🦊 海軍は軍艦がご自慢だった。
「軍艦行進曲」 瀬戸口藤吉作曲
ジャンジャンジャガイモ、サツマイモ!ソレ!
マモルモセメルモクーロガネーノオ、
浮かべる城ぞターノミーなるうー
浮かべるその城日の本のお、
みくに(皇国)のその船日の本にィ
仇なす国を攻めよかし・・と。
これは小学生版で、前奏曲はジャンジャンジャガイモ、サツマイモ!
となる。2番以下は何のことかよく分かっていないが、とても調子の
良い曲で、我々子供は唄いまくった。
戦の相手は強ければ強いほど、負けた側にとっては名誉になる?はてね。
海軍は原爆の計画を知らなかったのかねー?軍艦は自衛のため、と歌詞には
あるのに、どうしてはるばるハワイまで攻撃に出かけたの?
2 石炭(いはき)の煙は大洋(わだつみ)のー
竜(たつ)かとばかりなびくなり。
魂うつ響きはイカズチ(雷)のー
声かとばかりどよむなり。万里の波濤を乗り越えて
皇国の(みくにの)ひかり輝かせ
🦊 軍歌というものは無邪気なものだ。2番では祝戦勝の酔いどれ歌になる。
もう一つ、手毬唄(お手玉唄)
一列談判破裂して
日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシアの兵
死んでも尽くすは日本の兵
5万の兵を引き連れて
6人残して皆殺し
7月8日の戦いに
ハルピンまでも攻め寄せて
クロパトキンの首を取り、
東郷大将バンバンザイ!
🦊 何が言いたいかって?
龍の背中のノミみたいな情けない国なのに、龍と一緒に世界制覇した、
つもりになってるおめでたい国民にはなりとうないわ。
2024 5
なお、マルクス・プランではこれだけの大作戦を、9ないし17週間で完遂するものと
していた。当時のドイツ軍が、いかに自らの能力を過信していたかを示していると表現
言えよう。
一方、ドイツ国防軍最高司令部(OKW)でも、国防軍国防軍統帥幕僚部長(作戦部長)
アルフレート・ヨードル砲兵大将がOKHとは別の視点から対ソ戦を検討するように、
部下のベルンハルト・フォン・ロスベルク中佐に命じていた。9月15日、ロスベルク
が完成させた「東部作戦研究」なる報告書(通称ロスベルク・プラン)では、ソ連が
取りうる作戦を考慮した上で、敵の対応策で最も危険なのは、国土の深奥部まで退却
し、ドイツ軍が補給の困難に苦しみ始めたあたりで反攻に出ることだとされていた。
まずは妥当な考察と言える。
ただし、それに対するロスベルクの方策は、ヨーロッパ・ロシアを南北に分けている
巨大な湿地帯(プリピャチ湿地)の北に2個軍集団を配し、(この兵力配分はマルクス・
プランにおいてもほぼ同じだった)その南側の軍集団に快速部隊を集中してモスクワ
に突進させつつ、プリピャチ湿地の南方に総兵力のおよそ3分の1を投入、前進させる。
北の2個軍集団と南の1個軍集団は、前面のソ連軍が東方に逃れるのを阻止しながら
進撃、プリピャチ湿地の東で手を繋ぎ、全戦線にわたる攻勢に出る。
最終目標とされたのは、アルハンゲリスク、ゴーリキー、ヴォルガ川、ドン川を
結ぶ線であった。このように、ロスベルク・プランはソ連軍主力を重点と
みなす作戦案であり、モスクワを重視するマルクス・プランとのブレが生じて
いたと言っても過言ではない。
p109 決められなかった「重点」
1941年6月22日、ナチス・ドイツはソ連邦への侵略を開始した。バルト海から
黒海まで、3000キロの戦線が開かれ、そこに総兵力約330万が投入されたのだ。
この大軍は3個軍集団に区分されており、北から南順に「北方軍集団」「中央軍集団」
「南方軍集団」と呼称されていた。奇襲によりソ連機多数を地上で撃滅ぽおいし、航空
優勢を得た空軍の支援を受け、装甲部隊を先鋒としたドイツ軍は破竹の勢いで進撃
した。ドイツ軍の侵攻はないと誤断した、赤い独裁者ヨシフ・V・スターリンが、
度重なる現場の戦闘準備要請を握り潰していたこともあって、不意打ちを受けるかたち
なったソ連軍部隊は、次々と撃滅されていく。
とくに、最重要正面である戦線中部を担当するドイツ軍中央軍集団の猛進は目覚ましく、
その装甲部隊は、開戦1週間ほどでソ連領内400キロの地点まで達していたし、ミンスク
周辺における最初の包囲殲滅戦も成功、7月初旬まで捕虜32万を得ていた。
しかし、こうしたこうした戦果も、実は暗い影を引きずっていた。というのは、かくも
華々しい進撃でさえも、可能な限り国境付近でソ連軍主力を捕捉撃滅し、奥地への
撤退を許さないという「バルバロッサ」の作戦成功の大前提を満たすには不十分だった
からである。
そのような事態が生じた理由は幾つかある。これまでドイツ軍が西方作戦やバルカン
作戦で対した敵とは違って、ソ連軍将兵は、ドイツ装甲部隊に寸断され、通信・補給線を
切られても、いっこうに降伏しようとせず、頑強に抵抗し続けたのだ。ドイツ軍としては
それらの残存部隊に対処しないわけにはいかず、貴重な兵力はさらなる進撃ではなく、
後方の掃討戦に使われることになる。かような小戦闘での?損害は、個々にはわずかな
ものであったとはいえ、次第に累積していき、ドイツ軍の戦力を削いでいった。
また、ロシアの地形も、ドイツ軍の前進にブレーキをかけた。ロシアの悪路での
進撃は、舗装道路が四通発達し、場合によってはガソリンスタンドで給油する
こともできた、1940年の西方侵攻のようにはいかなかったのだ。道路によっては
脆弱で装甲車輌の重みに耐えられず、陥没してしまうものさえあった。ゆえに、
ソ連軍主力の捕捉撃滅に不可欠の高速機動など望むべくもなかったのである。
さらに、補給の問題もクローズアップされてきた。ソ連の鉄道はヨーロッパの
標準軌と軌間が異なるため、列車輸送を行うにはレールの工事が必要となるが、
それには時間がかかる。そのため、前線部隊が進めば進むほど、鉄道線の
補給端末との距離は遠ざかるばかりとなったのだ。この前線と鉄道端末との
あいだの補給線は、自動車部隊によって維持されていたが、そうした即興的
対応も次第に困難になる。
かかるマイナス要因が累積した結果、ドイツ軍、とりわけ装甲部隊の消耗は
危険な水域に達した。7月のスモレンスク包囲戦における勝利など、表面的
には華々しい成果を上げていたものの、ドイツ装甲部隊が有する稼働戦車の
数は先細っていくばかりだったのだ。
p114 モスクワか、南方資源地帯か
こうした状況に直面し、ヒトラーと国防軍首脳部も、ソ連軍主力を重点とし、
これを国境会戦で壊滅させたのちに、ヨーロッパ・ロシアを手中に収める
との構想が実現不可能になったことを知った。では、これからどうすれば
いいのか?
ヒトラーは、戦況がいまだ有利であると認識されていた頃、1941年7月
14日に総統指令第33号を下達、中央軍集団の装甲部隊を引き抜き、南方軍
集団に増殖させて大都市のリコフを奪取。続いてドン川を渡河して、油田
のあるコーカサス地方を占領させるとの構想を示した。加えて、中央軍
集団の別の装甲部隊を、北方軍集団に再配置、レニングラード周辺のソ連軍
包囲を支援させる。装甲部隊を引き抜かれた中央軍集団は、歩兵部隊のみで
モスクワに向かおうというのである。
すなわち、モスクワの重要性を軽視し、北のレニングラードと南のコーカサス
に向かって兵力を分岐作戦案で、当時のヒトラー戦略の迷走ぶりを示した
ものと言える。ハルダー陸軍参謀総長も、このような策は無意味だと憂慮した。
(幸か不幸かこの作戦は中止された)
かくて、南部ロシアの工業資源地帯の確保を優先するヒトラーと、政治的、
戦略的な目標である首都モスクワこそが勝敗を決する重点だと主張する
陸軍の対立が顕在化するなか、中央軍集団正面で変化が生じた。
同軍団正面で抵抗していたソ連軍部隊を撃滅、その陣地を奪取したのだ。
一方、南方軍集団は、プリピャチ湿地地方にあったソ連軍部隊の拘束と
撃滅に努め、8月24日までにドニエプル川西方地域のほとんどを占領して
いた。つまり、中央軍集団方面から有力な装甲部隊を南へ、ウクライナに
展開するめソ連邦軍の後背部に進撃させ、ドニエプル川流域に展開する
南方軍団と共同して、挟み撃ちにするという作戦を遂行する前提が
整ったのである。
この状況をみたヒトラーは8月21日モスクワ進撃を唱えるOKHの反対を
一蹴し、中央軍集団麾下第二装甲集団のキエフ転進を命じた。この時
ヒトラーは、重要なのは、クリミア半島やドニェツ工業・炭田地帯の
奪取、コーカサスからのソ連軍に対する石油供給の遮断、レニングラード
の孤立化だと述べている。少なくともヒトラーは、経済的目標がソ連の
重点であると判断したわけだ。
ところが、南進を命じられた第二装甲集団司令官のハインツ・グデーリアン
上級大将は、名うてのモスクワ重点論者だったが、ここに言葉の決闘が
生起する。(中略)
グデーリアンは、「首都モスクワは政治、交通、通信の中心であるのみならず、
重要な工業地帯であるから、そこを占領すれば、ソ連国民の受ける衝撃は
計り知れない」と、とうとうと述べた。
それに対しヒトラーは、ウクライナの資源と食糧は戦争遂行のカギを
握っている」と断じ、有名な言葉を発した。
「私の将軍たちは、戦争経済について、全くご存じない」(ハインツ・
グデーリアン『電撃戦』上巻)
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