国家は合法的な暴力の独占によって成り立つ



法と暴力の記憶(当ブログ・政治的に遅れた国と・・・参照)より

「近代政治システムと暴力」

菅野稔人(かやの・としひと)

1970年生。  「東京大学大学院総合文化研究科」

21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究員



🦊:   「帝国主義時代」と「帝国時代」というテーマは、菅野氏の

「法と暴力の記憶」から拝借した。

キツネも薄々気づいてはいたものの、頭上に覆い被さっている巨大な雲の

正体を、命名することさえせずに過ごしてきたアホな青春期とその後の

無為の年月をやっと取り戻した気がする。(もう手遅れかもなー)

「帝国主義的な植民地支配」に対して「帝国」の覇権の実態とは・・

現在で言えば、大アメリカ帝国、帝国志望国中国、一歩遅れた国境拡大主義の

ロシア(=旧ソ連)・・という具合。本書によれば、

「ここで述べられている覇権のあり方は、かつての帝国主義による植民地支配

とは異なるものだ。それは、ある土地への支配力を得るために、その土地を

自らの主権のもとに併合するようなことはしない。そうではなくその地域の独立、

つまり領土主権を空洞化することによって、当該地域への支配権を確立するのだ」

と。

オット、領土主権を空洞化するって、それはもしかして我が日本のことかしら?




(p81)    政治的な領域を存立させるもの

🛑ある集団が暴力的行為を手段として用いるということは、暴力が集団のもとで

組織され、行使されるということに他ならない。暴力が集団的に運用されるという

運動があれば、そこで形成される集団がどのような形態をとっていようと、つまり

村落共同体であろうと、家共同体であろうと、(政治的なものが)不可避的に出現して

くるのだ。

(カール・シュミットは、「政治的なものの概念」の中で、政治的なものを特徴づける

固有の標識とは、敵・友の区別であると述べている。敵・友の区別は常に、暴力を通じた

敵との闘争の可能性を含んでいるということである。)

そこで言われている友とは、敵と戦うために協同して暴力を組織化し、必要に応じてその

暴力を行使する集団のことにほかならない。・・・

こうした観点はマックス・ウエーバーにも見出される。ウエーバーによれば、ある集団が

政治的なものかどうかは、その集団が追求している目的によって決まるのではなく、

それが暴力行使という手段を用いるかどうかによって決まる。

何らかの目的によって政治団体を定義することは出来ない。なぜなら政治団体であれば

どのような団体にも見出されるような固有の目的といったものは無いからだ。

だから政治団体を定義するためには、目的ではなく、その目的を追求するための手段

に着目しなくてはならない。その手段が暴力である。

実際、マックス・ウエーバーはこう言っている。つまり、ある団体に、秩序や支配の

偽証のために暴力を用いるという特徴が見出されれば、それが村落共同体であろうと、

個々の家共同体であろうと、ギルドや労働者団体であろうと、すべて政治団体と

呼ぶべきである、と。

ウエーバーにおいて政治団体と言われているものは、この意味でカール・シュミットの言う

友に対応している。どちらも暴力を集団的に用いるところに成立するからだ。

そしてシュミットの言う敵とは、ウエーバーの言い方を援用すれば、その集団が課そうと

する秩序や支配に対抗するもの、と言うことになるだろう。内部に存在するものであれ、

外部に位置するものであれ、そうした敵を倒したり、取り締まったりするために暴力を

用いるという運動、これが政治的な地平を存立させるのである。


p84    暴力への権利の一元化

国家ができる以前は、氏族や村落共同体、ギルド、宗教組織といった、今では中間団体と

呼ばれるようなさまざまな団体が、暴力をノーマルな手段として用いていた。しかし国家が

出来るとそれらの団体は暴力を用いる権利を失ってしまう。つまりそこでは国家だけが

合法的に暴力を用いることができるようになるのだ。例えば正当防衛の場合のように、

国家に認められた範囲内でしか暴力を合法的に用いることができなくなる。民間の警察や

軍事企業が暴力を行使するような場合でも、それは変わらない。・・・

さまざまな集団がノーマルに用いることができる状態から、国家だけが暴力への権利を

持つ状態へ、国家の成立を境にして暴力の体制が大きく変容するのである。

国家は合法的な暴力行使を独占しているだけでは無い。さらに暴力を合法的なものと

非合法なものに分割する権利をも独占しているのだ。ある暴力が非合法であるということは、

それが実際に取り締まりの対象とされることと切り離せない。暴力によって他の暴力を

押さえ込み、取り締まるという運動が、暴力の独占を可能にしているのだ。このことは

歴史的にも確かめられる。ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスが述べているように、

歴史的には、銃器の発明による軍事テクノロジーの発達や貨幣経済の進展などによって、

物理的暴力そのものが一極に集中するという事態がまず起こった。そして、その一極化

によって生じた暴力の格差に基づいて、その暴力のエージェント(行為主体)は、それまで

多元的に存在していた政治団体を武装解除させながら、他の暴力を取り締まり、それによって

自らだけが暴力にへの権利を持つことを「実行的に要求」していったのである。


p87   国境による国家の領土化

理論的に言って、合法的な暴力の独占は、ある限定された空間における独占としてしか

ありえない。その独占がなされる範囲として、統一的な領土が立ち現れてくるのである。

(中略)

ところで、統一された領土は国境線によって外部から区切られることになるが、その

国境線を確定する作業は、国家同士の相互承認を必然的にもたらすだろう。つまり、

国境線を引くということは、他の国家がその先に存在することを認めるということに

他ならない。他の国家の存在を承認することなしに国境線を引くことはできない。

もちろんこれは、国境線をつうじて向き合うことになる双方の国家に当てはまる。

こうした相互承認を通じて近代的な国際関係が形成されてゆく。・・・

そこでは、一つの主権国家は他の主権国家からの承認がなければ存在し得ない。

たとえ、ある地域で暴力を組織化したエージェントがどれほどそこの住民から合法的な

統治機構として承認されていても、他の主権によって承認されなければ、それは主権国家に

なれないのである。(中略)

(なぜその秩序が地球全体に課されることになったか、については)

主権を確定する国境の概念自体が、いかなる主権にも属さない土地というものを認めない

からである。それは世界中のあらゆる土地を特定の主権に帰属させようとする運動を

もたらし、帝国主義列強による植民地獲得競争がその運動を体現した。


p90     領土化を通じた暴力の変容

(🦊:一部を要約)

国民国家が成立するのも、こうした国家の同一性を前提としてだ。実際、国家の存在が国境で

囲まれた領土的な同一性によって体現されるということがなければ、歴史を超えて存続して

きた国家、というナショナルな歴史観は成り立ちようがない。



p93   現代における政治システムの変容

近代政治システムが成立したのは、暴力の集団的な実践が、国境による領土の区画化と

結びつくことによってであった。そこでは、土地が国境によって区画化されることで、

暴力への権利がそこに一つ割振られる。

ある集団が合法的に暴力を行使し、戦争することができるためには、土地を取得し、

占領し、国境線によってそこを囲むという作業が不可欠だ。帝国主義による

植民地支配はこうしたロジックの延長線上でなされた。

🛑これに対して、現代の覇権国家は、ある地域の支配権を獲得するために

その土地を獲得するといった戦略は採らない。多くの植民地は独立を果たし、

植民地支配という覇権のあり方はもはやメジャーなものではなくなっている。

では、どのような戦略が現代の覇権の主要なあり方になっているのだろうか。

2003年に起こったイラク戦争を例にしよう。アメリカはなぜイラクに戦争を

仕掛けたのだろうか。「大量破壊兵器の保持」というのがまったくの口実でしか

なかったこと、これは今では明らかになっている。イラクの石油利権を手に

入れるため、というのが一般的に理解されている戦争の理由だろう。実際、

石油利権ということで言えば、アメリカはイラク戦争以前からイラクの石油利権

に関して有利な立場にあった。1991年の湾岸戦争以降、イラクは経済制裁を受けて

おり、国民の医療品や食料などの購入に石油の販売代金を当てるという条件の

もとでのみ石油の輸出が認められていた。イラクはこのため、国際市場の相場よりも

かなり安い値段でしか石油を販売することができず、またその販売代金は国連の

管理下に置かれていた。その廉価な石油の8割近くを買い占めていたのがアメリカの

石油会社である。アメリカがどうしてもフセイン政権を倒さなければならないと

結論したのは、フセインが石油代金の決済にユーロを用いようとしたからである。

このフセインの決定は、世界の石油取引に莫大な影響を与えずにはおかないものだった。

事実、当時すでにイラクの原油は世界の石油需要の5%ほどを占めていた。

アメリカが莫大な赤字を抱えながらもドルの価値を維持することができ、また国家破綻

から免れているのは、ドルが国際的な石油取引を決済できる唯一の通貨であるからだ。

ドルが排他的に石油と結びついているという国際経済体制を維持するために、アメリカは

イラクを攻撃した。従ってイラク戦争の背後に、資源や市場を獲得するためにその土地に

侵略するという植民地主義的な原理を見ることはできない。むしろそこにあるのは自らの

覇権を支えるグローバルな経済システムの維持のために暴力を発動するというロジックだ。

具体的な富や領土ではなく、利益を確保するための制度やルールが、暴力との実践の賭金と

なっているのである。強調すべきは、そこで賭金となっている経済システムは特定の

土地に根ざすものではないということである。それは全地球的なものであり、土地を

取得しなくても自らの支配権をさまざまな地域に及ぼすことができるような可能性を

開く。いわばそれは土地の取得と支配権とを分離させるのである。(中略)

では、どのようにその覇権は領土全体を空洞化させるのだろうか。それは、

自らがコントロールし得る「経済的な権力のラウム」(ラウム=空間)を各主権国家

の上に被せることで、主権がこれまで持っていた社会的、経済的な内実を空洞化

していく。その反動としてそれら主権国家の内部で、生活の基盤や既得権を失う

ことを恐れた国民によって、ナショナリズムの要求が激化されるのである。

政治システムは集団的な暴力の実践の上に成り立っている。それは暴力を管理し、

秩序づけると同時に、暴力が組織的に暴走する危険をその都度増殖させる。

政治システムを思考するとは、暴力のロジックやその歴史的展開を捉えることで

あると共に、それがもたらす危険をいかに縮減し、回避するかという実践的な問いに

挑むことでもあるのだ。



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🦊:   戦争は暴力の独占から始まり、暴力独占のヌシは、国家防衛の名のもとに

若者を駆り集める。ウクライナ人ならば、戦争に行くしか、道はないのだ。

「そこから逃げるヤツは男ではない」、これは男を永遠に縛る。しかし、今時の

戦争に勝つために必須なのは若者じゃない。ウクライナのゼレンスキー大統領は

叫ぶ「もっと武器を、迎撃ミサイルを!」と。ドイツ製の高性能戦車を操るのは

人間だが、それはもはや機械の部品でしかない。戦争は機械がやる。だから若者は

悪い暴力から逃げて良い。そのままでは、戦争の仕掛け人を肥え太らせるだけだ。

彼らは軍事の機械化で儲ける。それだけでなく、「機械の人間化」にも力をいれている。

巨大軍需産業こそが、現代戦の勝者、仕掛け人、扇動者、しかも彼らにはみずからの

祖国というものがない。(当ブログ=死の商人が軍縮を言うか?参照)

だから彼らには失うものがない。なぜアメリカはこんな遠くの島国に執着するのか。

それは彼ら(政党、軍部、軍需産業)の経済的利益のため。だからアメリカの若者は

このような政府を倒さねばならない。そのために民主主義はある。

アメリカ政府が「敵はアイツだ」と言ったから、ハイハイと中国向けの自衛軍強化

を叫び、問答無用で戦争ムードを煽る、日本政府をこそ、日本の若ものは阻止しなければ

ならない。そのために憲法はある、とキツネは言いたい。



2月某日