ポスト帝国ロシアとユーラシア大陸


ロシア新戦略

ドミトリー・トレーニン 著

河東哲夫、湯浅剛、小泉悠 訳

2012年  作品社 刊


🦊:この本の著者は「カーネギー国際平和財団モスクワセンター所長。

ゴルバチョフ政権では、外交交渉の最前線を担った。欧米にも

深いパイプをもち、現在のロシア・ソ連諸国について、最も

バランスの取れた分析を行う専門家として、世界的に定評が

ある」ーー本書のカバーより。



p116  重要なことなのだが、今日のロシアにおいては、「運命

共同体」といった、想像上の共同体は存在しない。ソ連が終末を

迎えたために、壮大な規模の共同体(幻想)も終わったのだ。

帝政の時代には共産主義、秘密主義、そして外国旅行の制限に

よって縛られていた。今日のロシアでは社会が形骸化して、公的な

ものであれ、伝統的なものであれ何かの障壁で縛られているという

ことはない。成功した者であればあるほど、一般からの距離は遠く

なる。エリートはいても、大衆を導こうとはしないのだ。公的なもの

よりも、私的なものの方が勝っているのだ。それに社会のどの方向

から見ても、国は腐敗し過ぎていて、民族的な意識を掻き立てるもの

にはならない。ロシア人は、(旧ソ連の崩壊によって)国の政治、

経済、社会、そして精神的なもの全てが突然崩壊するというトラウマ

を経験しているために、私的な生活の方を大事にするようになった。

国境の線引きとか、政府の陣容などには構わない。血縁、地縁、

そしてコネは残っている。かつては同じ共同体を重んじ、強く

愛国主義的だったロシアは、個々人の中に閉じこもってしまった。

だからかつては皆の生活する場であった公共のスペースは、今では

全く手入れがされていない。集合住宅の住居部分はどこかの国の

大都市のマンションであるかのように改装されメンテナンスも

いいが、共用の階段は薄汚れ、エレベーターは軋む。だがどうにか

しようとする者はいない。

自己防衛のためのナショナリズムを産むような、外国からの軍事的

脅威を感ずるものは全体の37%しか居なかった。この数字は、コソヴォ

紛争直後の2000年には49%、イラク戦争開始後の2003年には

57%であった。2009年にはロシア住民の52%は、外国からの脅威

はないと答えており、政府も同様の立場である。それによって

軍の改革は20年も遅れて、やっと2008年に開始された。軍備の

近代化に至っては、2010年代の課題として棚上げされたのだ。

祖国を守る「聖なる」はずの国防が二次的なものとされたのも、

不思議ではない。ロシアに住む人々は、安全保障、国防に過度の

負担をすることには同意するが、自分自身が軍事行動に引き込まれる

のは嫌がるのである。脅威が存在していることを認識している者

でさえ、何かを、ましてや自分の生命を犠牲にする用意はない。

世界の利益となることであろうが、(かつてソ連がアフガニスタン

に介入した時に言われた)「世界に対する責任感」に賛同する者は

14%しか居ない。自分自身の国のためであろうが、(33%しか

国を守ろうとしない)である。外国からの攻撃に対してロシアを

守る用意のある者は57%しかいないのだが、そのような攻撃は、

現時点ではおよそあり得ないだろうと思っているようだ。これに

対して、自分自身と家族を守る用意のあるものは88%にのぼる。

国益を最も大事なものとするのは6%しかおらず、80%は自分自身

の利益が最も大切だと答える。・・


プーチンは、・・今日的なロシア主義とでも言えるものを推進した。

これは反共産主義であると同時に反リベラルでもあるものである。

その基本的な価値観は、権威主義的な国家、そして政治力の集中

である。経済力は政治力に根ざすものとされて、政治力に従属する。

それに、宗教的な価値観(特にロシア正教の)、愛国主義、外交戦略

における自律性の維持、そして大国としての地位の保持が加わる。

保守主義者たちは、自分の権力を維持するためには近代化を支持する

ことさえある。ただし、それが自分達の権力を危うくしない限りにおいて

であるが。

保守主義者たちが民主主義に対して示す態度は、興味深いものだ。

彼らは民主主義を目標とするのではなく、民主主義のいくつかの

成分を、自分たちの行うことを正当化するために利用する。

プーチンはエリツィンそしてゴルバチョフという前任者たちの経験

から一つのことを学んでいる。それはこの二人とも、初期は人気が

高かったが、じきに支持を失い、権力を譲渡しなければならなく

なったということである。・・そこでプーチンは、権力を維持する

ためには、圧倒的な人気を獲得してそれを維持し続けなければ

ならないと悟ったのだ。それを彼は実行し、メドベージェフに

それをバトンタッチした。プーチンが奉じているもう一つの教訓は、

人気というものは個人についてまわるものだということである。

与党や政府が指導者の人気にあやかることはできず、他方、政府に

反対する者たちが大衆的な人気を博するのを許してはならないのだ。

こうして、権力を(プーチンという)一人の人間に代表させることで、

個々人に分裂してしまった社会を繋ぎ止める、というやり方が、ソ連

崩壊後のロシアで安全性を確保していく秘訣として当面機能している

のである。


私は、選挙における票の操作ーーさんざん糾弾されているーーのことを

言っているのではない。主なテレビを支配することは、エリートが

権力を保守するためには死活的に重要なことではあるが。ここで

言っているのは、年金を除いては予算の全部を削ってみせるようなーー

年金額は伸びる一方だーー、人気取りを目的とした政策のことである。

年金生活者というものは、他のどのグループよりも熱心に投票に行く

のだ。こうして、ソ連以前からのロシアの社会に根を張っている、

家父長的な政府を求める声に応えることで、プーチンの人気は獲得

されたのである。そのような声は、共産主義政権の時代に益々強く

なっていた。しかし、これらの者の支持に依存することは、帝国を

維持することにもつながる。それは、ロシアを含む国際的な

状況に益々そぐわないものになっているのである。

他方、ロシアが再び民主主義に向かって歩み出せば、今度は「民族

問題」、そして領土問題が起きかねない。独立運動がコーカサス

北部以外にも台頭するかもしれない。2010年の国勢調査においては、

カリーニングラード市民の中には、自分達はロシア人であるよりも、

「カリーニングラード人」だ、とする者がいた。

同時に、ロシア人の心の中では、民族というものを超越しようとする

気持ちよりも民族的な要素のほうが勝ってしまうのかもしれない。

民族主義はこうして、ロシア国内の境界線、そして外国との国境を

不安定なものとしよう。圧力が高まって、これらの境界、国境が

不安定になると、広範な地域の安定が脅かされることになる。



p36  ポスト帝国の定義

私は「ポスト帝国」という言葉を使っているが、今日のロシアを

形容するには他に良い言葉もあるだろう。私にとってこの言葉は、

帝国としての状態からかなり時間をかけて脱していく過程を表す

ものにすぎない。ある国がもはや帝国ではなく、帝国に戻ることは

ないが、帝国であった時代に染み付いた多くの特徴をまだ残して

いる時期のことである。ロシアは共産主義から資本主義に移行する

過程で道を見失い、またそうなってしまった理由も定かでない状況

にある。そして終着駅が定かには見えないような、歴史的な変容が

進行しているのである。つまりソ連の衛星国、そして諸共和国と

違って、ロシアは帝国が残したものと取り組まねばならなかった

のであり、それ故に西側に溶け込むこともできず、西側とうまく

やっていくことさえもできずにいるのだ。2000年代にロシアの

社会は変わった。消費が盛んとなり、中産階級が台頭した。しかし

政治など公共生活の面では、90年代に比べて後退が見られた。

国内の政治においても外交においても、帝国的な要素が目立つ。

今日のロシア連邦は、国内においては新ツァーリズム的とも言える、

やや強権主義的な政体である。それは、国民の同意を得た強権主義

であるとも言えよう。外交面においてもロシアは、かつてのソ連邦

構成共和国を別個の国と認めながらも、その全てを外国として見て

いるわけではない。

何人かの学者と専門家は、ロシアはまだ完全には分離していない

帝国であると主張している。つまり、ソ連の崩壊には最後に

ロシア連邦の分解ーー部分的なものかもしれないがーーが

続くはずだというのである。彼らはこうした過程は21世紀

初頭の今、一時的に止まっているが、北コーカサス、そして

もしかすると他の地域にも及ぶだろうと言う。・・


他の数々の帝国も完全には分解していないことを述べて

おきたい。イギリスはジブラルタル、フォークランド諸島、

バミューダ諸島、ディエゴガルシアその他の小さな領土を

いまだに保持している。フランスはギアナ、グアダルーペ、

タヒチなどおよびDOM-TOMと略称される広大な海外領土を

維持しているし、オランダでさえヴェネズエラの沖に幾つか

の島を領有している。これら、かつてのヨーロッパ植民地主義

の最前線に共通して言えることは、プエルトリコの対米関係

についても言えることだが、ここに住む人たちが以前の宗主国

との関係を維持したがっているということである。

主権というものよりは、経済的な繁栄と社会的な進歩の方が

重要なのである。だがこの点については、ロシアが同じような

ものを提供できるかどうかが決定的に重要になる。(中略)


ロシアはヨーロッパ安全保障と経済にあまり組み込まれて

いない一方、独立した周辺国との関係を御していかなければ

ならない。課題は主なものだけでも大変なものである。

こうした状況は長く続くだろうから、ロシアは自分の場所と

役割、そして重点をおくべき政策とそれを実現する方法を

探して迷走するに違いない。これらの課題にどう決着を

つけるかは、ロシア自身にとってだけでなく、その隣国

や中国、EUといった東西の大勢力、そしてアメリカに

とって非常に重要なことである。アメリカでは、ソ連帝国が

崩壊して以後はアメリカがユーラシアの主要勢力になった

ように考える専門家達がいた。だが、ある年長の外交官に

よれば、米政府の主要な関心は、ソ連が復活するーーもう

あり得ないことであってもーーのを妨げること、そして

ユーラシアでの米国のプレゼンスを維持し、ロシアによって

締め出されるのを拒むことであって、ユーラシアでの優位な

地位を占めること自体は目的とされていない。


ユーラシアはとてつもなく巨大で、信じられないほど多様だが、

経済、政治、そして軍事面で益々一つにつながりつつある。

毎年(ASEANを中心に)開かれるアジアとヨーロッパの間に

開かれる ASEMその他の会合は、ユーラシア内部の結びつきが

強まっていることの象徴である。EUの東へ向けての拡張、

中国、インドそして韓国の交流、トルコとイランの人口増と

政治面での活発さ、パキスタンとアフガニスタンに絡む危険性

とリスクの数々、現代に蘇ったシルクロード、そしてカスピ海

の東西に向けて伸びる石油、天然ガスのパイプラインなどの

新しい輸送路、これらすべてのことは、ロシアがまだ行方の

定まらない旧ソ連諸国の外側で、自分より豊かで活気とパワー

があり、人口も多い諸国、そして彼らが形成する同盟や連合に

囲まれている。「ヨーロッパでは最後尾だがアジアでは先頭」

という存在ですらありえず、ユーラシアの東西において遅れた

周縁部になってしまう危険性に直面しているのである。・・

しかし、旧ソ連地域で帝国主義の残滓を引きずっているのは

ロシアだけではない。皮肉なことだが、ソ連から分化した

新しい諸国家も、帝国、そしてある場合には植民地主義の

シンドロームを持っている。それら諸国は以前の宗主国たる

ロシアからあえて距離をとり、自国のために何か新しい神話を

作り上げて歴史を書き換える一方で、その振る舞いはソ連的と

称される数々の特徴ーー二枚舌、本音の欠如、そして頑迷さ

ーーを示しているのだ。

今では「元のソ連」とか「旧ソ連圏」などといっても、ユーラシア

の将来を考える上でほとんど役に立たない。個々の国がどうなるのか、

ということの方がより大きな意味を持つ。多分、ヨーロッパ東部

では最大のウクライナ、中央アジアでは最大の人口を持つ

ウズベキスタンと天然資源に富むカザフスタンなどが、地球の

トレンドを作り出す重要な国となるだろう。しかしグルジア、

クルグスタン(キルギス)のような小さな国であってもその近隣

を超えた問題となりうる。これらの国は、領土の一体性を保持

する一方で、国内の諸民族の権利も擁護しなければならず、

国家を建設していく一方で国際的な視野も持たなくてはならない。

また、石油、天然ガスのパイプラインをめぐる国際政治や、近隣国

への出稼ぎ・移住の問題も、帝国そして植民地主義が崩壊した後の

課題として、これら諸国の前に立ち現れる。

だが、こうした課題の性質を理解し、うまく処理していくには、

近年の出来事、そして過去の歴史を振り返って見なければならない。


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🦊:  原爆の生みの親、大悪魔のオッペンハイマーが、第二次大戦の

終盤で、まだドイツが降伏していなかったら、果たしてドイツに

原爆を投下することに同意しただろうか?

彼は晩年、広島の原爆被害の実態を知って、大いに後悔したのだそう

だが、そのため、早くから核の拡散防止について提言していたという。

今、ウクライナへのロシアの侵攻の現場で、軽量核兵器の使用が現実味

を帯びてきている。まさかヨーロッパで核戦争は起こるまい、と誰もが

油断していた。1968年の核不拡散条約は守られ、NATOと核大国

アメリカの醸し出す抑止効果を疑うことは無かった。

だから、突然プーチン大統領が反米感情を募らせて、国境を乗り越えて

ウクライナを呑み込もうとしたことにびっくり、国連も経済封鎖以外に

これといった対策も浮かばないまま、1ヶ月が過ぎた。「拡散防止」は

紳士協定であるのに、プーチンは紳士ではなく、戦争犯罪者だから始末に

悪い。

この本の著者は、2012年の段階で、ロシアは旧ソ連諸国に侵攻する

つもりは全くないと証言しているが、それから10年経って、その予言は

けし飛んだ。

戦争の行方はいかに。


本書から1枚だけ地図を拝借して、ここに載せておく。



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