プーチンのロシア
「ロシア新戦略」(ドミトリー・トレーニン著)への
解説 :河東哲夫 :(2012年)
p397 (冷戦が終わり、ソ連が崩壊して20年が過ぎた。
それに続く6000%ものハイパーインフレ、東欧諸国の
ソ連離れ・・疾風怒涛のロシアは過去のものとなり)、
かつて植民地主義によって世界を支配してきた欧米と、
これに支配されて来たものの間の関係の精算というテーマ
が前面に出てきたものだとも言えよう。その中で、
旧ソ連圏、そしてロシアは、相変わらずの帝国崩壊にも
比すべきプロセスの中にあって、その方向は定まらない。
オスマン帝国は、1922年に崩壊したが、その核である
現在のトルコが政治、経済面で新たなアイデンティティを
ようやく確立し始めたのはつい最近のこと、つまり崩壊後
80年以上も経ってからのことであるし、オスマン帝国の
周縁部だった中近東は今でも不安定な状況にある。
旧ソ連圏もこれから何十年となく自らのあり方を試行錯誤
していくことだろう。・・この本は、そのような現在の
旧ソ連諸国の状況を、政治、経済、社会、軍事、外交に
わたって概観したものである。
著者トレーニンは、事実の間を糸で結びつけ、それらの
意味を見つけて提示する。そしてそこには、彼独特の諧謔
と、物事の本質を見抜く力、そして進歩への楽観主義がある。
p398 「国の形が問題」
トレーニンはこの書物で、実質的には多民族国家であった
ソ連とは異なり、ロシア人が国民の大多数を成す現在のロシア
連邦は、「国民国家」となる可能性を持つ、しかしロシア人が
「ロシアの国民」としての一帯性をまだ自らに感じていない、
という。「法治主義、所有権の保証、市場メカニズム、そして
価値観といった仕掛けなしには、近代的民族国家は形成できない。
いまいましいことだが、今のところロシアではこれらの要素は欠落
している。参加型民主主義を実現できた時に初めて『国民』と
いうものが広範に成立したということができるだろう」という悲痛な
言葉を吐くのである。そしてそれは、彼が所々で披露する、ロシア
の将来についての願望の混ざったいくつかの明るい予想とは見事に
矛盾している。ここには帝政時代以来、ロシアのインテリが抱えて
きた葛藤ーー願望と現実のはざまでのーーが如実に現れている。
p399 「近代の欠落」
ロシアという国家のあり方、その基本はこの国が、16世紀に始まっ
たヨーロッパの重商主義的な植民地主義の流れの上に、建設された
ままの国である、ということである。つまりヨーロッパは暴力で
植民地の金銀を収奪し、アフリカの奴隷を「取引」して富を築いた
が、他方ルネサンス、宗教改革で人間を教会への従属から解放し、
産業革命によって富を自ら生産できる社会を創った。世界の主流は
ゼロサムの重商主義からプラスサムの産業経済に移行したのである。
・・・
一方ロシアはルネサンス、宗教改革、国民国家、民主主義体制の構築
という過程を経ることがなく、武力で周囲を征服したのちは、その
土地の資源(毛皮。のちに石油、ガス)を利用するだけで止まった。
(トレーニンは言う)「ロシアは失った領土を再併合しようなどとは
考えておらず」、「ロシア人の約85%は、ロシアが大国だと信じて
いる。だがそのほぼ半数が、ロシアは経済大国となって初めて世界で
尊敬されるだろうと考えている。確かに『エリート』は帝国根性が
抜け切れていないが、彼らは過去への郷愁に浸りたいがためにロシア
の限られた資源を傾注するようなことはしていない」。・・・
このような認識に基づいて、彼は次のような国際的結合を提案する。
それはまず、「グローバル化された世界にあって、ロシアは先進国・・
と手を組む必要がある。・・ロシアはこれらの国々と、技術移転や、
近代化のための盟約を取り交わし、ソフトパワーを、「ロシア対外
政策の中心に据え」、「中央アジアにおいてロシアは・・
カザフスタンと緊密に共働することで、CSTO(集団安全保障条約機構)
を紛争の予防、管理、解決のための、より効果的な道具に変える」。
また、「中国やその他の上海協議機構加盟国と協働し、アジア大陸の
中心で安全保障を取り仕切っていくための責任を引き受ける」。そして
これらを合わせて、「ロシアは、CSTOの同盟国、NATOやEUのパートナー
諸国、、さらには中国、インド、日本、韓国といったアジアの隣国から
なる、ユーラシアの軍事、安全保障協力メカニズムを確立する必要がある」
と言うのである。
p400 近代化を妨げる「広い国土」
ロシアの国のかたちは、「広い国土と豊かな資源」である。だが、昔ロシア
人が征服した多数の少数民族がいる広大な土地ーー両端の時差は9時間もあり、
2007年当時の首相コズロフは、極東のために送金した予算が3ヶ月経っても
現地に届いていないとして、下僚を叱責している。ーーを、十分な雇用や消費財
の供給なしに統治せよ、と言われたらどうする。それは、力によるしかない。
軍隊にも似た上意下達(権威主義)の行政組織と、密告、相互監視を駆使する
諜報機関が必要になるのである。
アメリカは、「働けば豊かになる」という信念と、皆が平等で政治に参加できる
民主主義という“内発的“な要因で、あの広い国土の一体性を維持しているが、
ロシアは「国土と資源」という、所与の豊かさを“力で“維持する国なのである。
そこでは支配者は支配することに固執し、大衆は支配者から分前をもらうことを
期待する。ロシアの富を独占するエリートたちは、米国に対する異常なまでの
警戒感を煽って国内の統一を維持したが、そのために国富は軍備に浪費されて
民需産業は育たなかった。そして現在では、投資資金は収益率の高い石油、ガス
部門に集中し、製造業は忌避される。資源を差配する者の数は限られるが、
中産階級は育たず、社会における格差は大きいままである。
18世紀初頭、ピョートル大帝はヨーロッパに倣って強い政府を作り上げた。
それ以来、ロシアの社会は、権力と富を握る貴族、村落共同体における自治と
領主への奉仕の狭間に生きる農民大衆、そして一握りの知識階級から構成される
ようになった。・・ロシアの場合、大衆の多くはかつて農奴であり、17世紀に
強化されて、1861年、アレクサンドル2世によって廃止されるまで実に200年強、
農奴制はロシア人のメンタリティーを形成したのである。そこでは、中央の権力
によって守られた領主には表面上服従して見せる一方、村落の土地は自分達で
管理するという伝統に基づく、自由(ロシア語で、「自由気まま」に近い言い方)
への強い欲求があった。だからこそ、普段は忍耐強いと言われるロシアの農民は
17世紀のステンカラージンや18世紀のプガチョーフの乱のように、一度立ち上がる
と、手のつけられない残忍さを発揮して、領主一族を殺害したのである。ロシアの
支配者は、これを“ルースキー・ブント“(ロシア大衆の蜂起)と呼び、今でも
極度に恐れている。・・・
p402 近代化を妨げる「豊かな資源」
1929年のアメリカの大恐慌時代には、ソ連経済は輝いていた。それは
ちょうど重化学工業化の時にあったし、電化を進めるため、海のような
ダムが方々で建設された。こうしたものは、計画経済に適合していたの
だ。だが、アメリカが戦争で(兵器生産で)2倍に膨れたGDPを、戦後、
耐久消費財生産への転換で維持したのに対して、ソ連は軍需中心の経済
を維持したままだった。それに、計画経済は、消費財の生産には向か
ない。人間の需要と欲望は計画できないからだ。ソ連は「核ミサイルを
持った開発途上国」と揶揄されるようになってしまった。
ロシアの製造業は、今でも窮状にある。トレーニンがいうように、
「ロシアは共産主義から資本主義に移行する過程で道を見失ってしまった。
資源輸出がもたらす貿易黒字が通貨ルーブルのレートを押し上げ、国内
の製造業を不利なものとする。たとえ製造業を立ち上げようとしても、
市場経済を前提にした消費財生産を経営できる人材が少ない。
そして彼らを支えるべき中間管理職層で、自主的、合目的的な動き
ができるものが更に少ないため、組織を近代的に経営するのは
至難の業になる。熟練労働者が少ないために、社内で研修して資質を
高めると、給料の高い他社に転職して行ってしまう。
ビジネス・スクールの学生たちがアパレル製造のビジネス・プランを
作ろうと思っても、適する糸も生地もボタンもないという状況に直面
する。サプライ・チェーンがないのである。著者トレーニンも、この
本の終章で、「先進的技術を身につけ、イノベーションのための能力を
構築することがなければ、ロシアは大国と見做されなくなるだろう・・
ロシアは解体し始めるに違いない・・エネルギー資源がロシアを救う
こともないだろう」と、彼にしては悲観的な予言をしている。
p403 石油収入に支えられたポピュリズムーープーチン下のロシア
資源の生産、輸出と、それが生み出すサービス業だけに依存する経済は、
広汎な中産階級を生み出せない。だから、昨年12月に幾つかの都市で
盛り上がったかに見えた批判集会も、大衆の広い支持を得られないままに
いるのである。大衆は、1980年代末、エリツィンに煽られて共産党叩き
に加わったものの、「留学帰りの青2歳たちによる改革」が6000%
のインフレで生活を破壊しただけで終わったために、一切の改革アレルギー
を示すようになっている。本来なら民主化を担うべき中産階級は元から
層が薄いうえ、力で押さえつけようとする上層部と、恩恵を期待して
指導者に擦り寄る大衆の間に挟まれて窒息し、石油経済のもたらす安易
な生活に逃避してしまう。
大衆は、エリツィン時代、「自分達の富」を少数の資本家たちが簒奪して
しまったと思っており、これら資本家たちを力で押さえつけ、国内の治安を
回復して、賃金・年金を上げてくれたプーチンを支持している。大衆に
とっては、民主主義という言葉は混乱と犯罪の横行と同義語であり、改革
や民主化を標榜する野党政治家は西側から資金を受け取っている悪者だと
思っている。
このような状況で、近年のロシアは民主主義を標榜しつつ、それを嘲笑うと
いう、シニカルな「政治工学」の極致を示した。新しい正統派は、
都合に合わせて「設計」され、政治家は政府提供の住居、公用車などに
絡めとられる。そして選挙での投票、開票にも、当局による作意が加わる。
それは近代国家としての体面を保ち、G8の一員として認められるだけの
民主主義のうわべを繕いつつも、トレーニンが第1章でいうように、
「民主主義の幾つかの要素を、自分達の行うことを正当化するために
利用しているに過ぎない」のである。
プーチンは、「大資本家」に奪われた石油、ガスの利権を政府の手に
戻した上で、賃上げ(ロシアの労働者の3分の1は予算から資金を得ている)
、年金引き上げというバラマキ政策を行なって、インテリ、大衆を納得
させてきた。2000年〜07年のロシア経済は原油価格が急騰する中、GDP
が実に7倍強となる高成長を示し、ロシアはいわば「幸せになったソ連」
ともいうべき状況を呈した。トレーニンが言うように、「指導部は
ピョートル大帝(改革者)たらんとしながら、ゴルバチョフのような末路を
辿る(改革がコントロールを外れて混乱をもたらす)ことを恐れ、
差し当たっては、ブレジネフのように振る舞う(原油収入を社会に配分し
て当面を糊塗する)」に至ったのである。
p404 新大統領の十字架
ブレジネフ時代の「心地よい停滞」(経済は停滞していても、暮らしは
まあまあ)は、1985年の原油価格の暴落で破られたが、今回の幸せも
世界金融危機で破られた。それまで石油輸出収入の一部を積み立てて
おいたおかげで経済が大きく崩れることはなかったが、今の国の在り方が
前向きなものを産まないことが如実になったのである。ロシアの青年達は、
西側と全く変わらない自由さと能力を持っているが、今の社会では公務員、
国営大企業の社員になる以外、安定した生活は送れないと思っている。
そして、政府、国営企業では自分達の能力は発揮できないことも知っている。
社会の流動性は極度に低下し、その中で与党「統一」の党員になったもの達が
マシなポストを侵蝕していく。従って、自己実現を欲する野心的な青年達は、
国外への移住を志向する。2011年5月の「新時代」誌によれば、この三年間
で125万人のロシア人が国外に移住した。(その全てが青年だというわけで
はないが)
新しい大統領はーーそれはおそらくプーチンだろうがーーこのようなロシアを
統治してゆくことになる。・・新大統領が取ることのできる政策の幅は
限られている。プーチンは経済「近代化」の政策を強化するのだろうが、
経済を金融、財政、税制などの間接的手段ではなく、企業に対する指令
で動かす体質から抜け出せず、かつ官僚が予算を流用、私用することによって
あらゆる政策を台無しにしていくことだろう。そして、大衆に対しては石油、
ガス輸出収入のバラマキ政策を続けるしかない。
とはいえ、原油価格、天然ガス価格は当分上昇傾向を続けるだろうから、ロシア
がドル・ベースでは世界第4位から5位のGDPを築くことは十分ありうる。
そうした中、外交面では時々「ロシアの国益に基づいた」独自性を発揮して、
アメリカの鼻を明かしては、社会の喝采を浴び、(但し経済の近代化を難しく
するほど西側の機嫌を損ねることはしない)、普段はバラマキ政策で凌いで
いく、そして生きがいを求めるインテリは国外に移住していくーーロシアは
当面、このような国であり続けよう。
※※※※※※※※※****************************
🦊: ローマの昔から、賢い皇帝、愚かな皇帝がいた。ロシアにも、賢い
為政者、愚かな為政者がいた。アメリカはどうかというと、自分の出自は
ともかくとして、民主主義という、アメリカの政治スタイルをドーンと据えた
大統領もいれば、たかがネズミの巣を壊すのに、「かかってこい!」と
ばかりに大軍を率いて海を渡る、戦争好きな大統領もあり、また現在では
“皇帝“トランプのスローガン、Make America Great Again の旗を
振る半分の国民を従え、絵に描いたようなポピュリズム政治を仕切る、
前大統領など、さまざま。(日本のことは置いといて)
今、少々頭のおかしなプーチンを、極限まで追い詰めるような、無駄な
発言を避け、(核兵器のボタンに手をかけるような事態だけは避け)
プーチンがなんとか「俺が勝ったのかな」と錯覚してくれるように、うまく
誘導するよう、軍人出身のアドバイザーが、バイデン氏に知恵を貸していると
聞く。
己の無知に気付かないで、「こんな人たち(反対意見の者)に負けるわけには
いかない、とばかりに周りから遠ざける、それは愚かな為政者の第1番目の特徴だ。
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