プーチン


ドミトリー・トレーニン 著  「ロシア新時代」より


p334   統合の失敗

ソ連解体が新しい時代をもたらした。・・

ボリス・エリツィン大統領やアンドレイ・コズィレフ

外相は、文明世界に参画するロシアなるスローガンを

掲げたが、それはつまるところ西側への統合を指した。・・

ロシアは悪名高い北朝鮮の体制やカストロのキューバ

との関係を最小限に抑え、中央アジアの権威主義的な

諸政権に対しては民主主義を標榜する指導者然として

振る舞おうとした。新版「文明化の使命」である。

(ポスト・ソ連のロシアが目指したのは、完膚なきまでに

合理的な民主主義であったが)大半のロシア人は権利が

責任に応じて伴う民主主義を欲しようとしなかった。

説明責任と参加、また自己規制と結びついている自由

といった諸原則を伴う民主主義を欲しようとしなかった

のである。ほとんどの人々が望んでいたのは、むしろ、

抑圧的で汚職に塗れたソ連共産主義を排除し、物質的に

豊かな自由世界に早急に足を踏み入れることであった。

これには、いつの間にか作られていた不平等という

おまけがついてまわり、一定の人々は現実的な貧困にも

甘んじなければならなかった。生き残りを果たし成功を

遂げた最適合者が必ずしも最良の人々とは限らない。

程なくして民主主義が多くの人々に魅力的に映らなく

なったのも、なんら不思議なことではない。政府は

このことをに気づいていた。エリツィンは、新生ロシア

のための「国家理念」を推し進めるように命じた。

コズィレフ外相は、民主的連帯を語ることをやめ、国益に

焦点を当てるようになった。・・このような雰囲気の中で

唯一の現実的価値とは、ドルやセントに換算できるもので

あった。やがて、一部の特権層が法外な勢いで巨万の富を

得るようになり、彼らは国内の政治・経済での席巻ぶりと

見合うよう、海外での地位拡張に乗り出した。


ロシアのエリートは、エリツィン流民主主義という薄っぺら

な土台の上に一から新国家を建設しようとするよりも、

見たところより堅牢な、伝統的な大国政治という地盤の方を

選んだのである。よく知られているように、エヴゲニー・

プリマコフは1996年の外相就任時、こう宣言した。

「ロシアはこれまでも大国であったし、今なお大国であり、

将来も大国であろう!」これは、ロシアのエリートが

元気を取り戻すきっかけとなった。事実、誰もが賛同した。

ただ、新しい時代の「大国」の意味するところが判然と

しなかった。


当時のロシアは行動の自由を保ち、「ひざまづいていた」

訳ではない。しかし、西側へ重く寄りかかり、その指南を

あてにしていた。ロシアの 1991年の窮状を、第二次世界

大戦後のイギリスやフランスのそれと比べてみると良い

だろう。イギリスと違い、ロシアがアメリカとの特別な

関係の構築を守備よく果たすことは決してなかった。

エリツィンは92年にワシントンを訪れた際にアメリカ

との同盟を求めたが、ジョージ・H・W・ブッシュ

(父)大統領をして言わしめたのはーー今や世界規模

の対立も終焉しておりーーもはやそのような同盟は不要、

とのひと言だった。

北大西洋条約(NATO)という同盟は依然残っていたが、

ロシアにはーーかつてのモスクワの衛星諸国が加盟する

中ーー心配するなと告げられてきた。これがロシア側に

多くの不和の種を生み出した。ロシアにしてみれば、

NATOの拡大はロシアの脆弱さに付け込む西側の

働きかけの象徴となっており、また、モスクワに対する

信義違反でもあった。(原注:ある人々の正しい指摘に

よれば、ーー冷戦期の境界を越えてNATO加盟国が増える

ことはないという保証を、ミハイル・ゴルバチョフが

一度として与えられなかった、ということが問題なのでは

ない。ロシア人は、自分たちが対立によって一方的に傷を

負い、自らの帝国を失い、西側的な価値を受け入れる

ことになったと考えていた。彼らが次に‘期待していたことは、

西側に受け入れられることであったが、代わりに目撃したのは、

ロシアの国境に向かって冷戦期の軍事同盟が拡大することで

あった。このような事態が起こった理由を問うロシア人たちの

推断は往々にして誤ったものであったが、彼らは心底懸念を

抱いていたのであった。)


戦後のドイツと違って、ロシアは冷戦の敗者と見做されることを

頑なに拒んできた。また、外国軍の占領下に置かれることも、

外部から身を守ることも、あるいは内においては、「経済の奇跡」

の恩恵を受けることもなかった。これらとは対照的に、ロシア

の国内総生産(GDP)はおよそ半分まで縮小し、2007年になるまで、

1990年当時のGDPの水準を取り戻すことができなかった。その後、

GDPは再び落ちこむ事となった。ロシアはむしろ第一次世界大戦後の

ドイツと似ていた。規模と地位の双方において凋落‘したが、依然として

大きな領土を抱えるとともに潜在的には力を備え、ソ連時代の行動を

めぐる不幸かつ曖昧な疑念とがーーたとえ無実のものであってもーー

ついて回っていた。ロシアが西側を期待はずれに感じているよりも


遥かに大きく、西側はロシアに失望していた。98年の金融危機の落胆

の中、それはロシアを見捨てるという姿勢に繋がった。西側は、かつての

畏怖の念に駆られるほどのものであった、そして今や柔軟に迎合する

ロシアをもはや敵対者とは見做さなくなった。しかし、ほとんど

奇跡的に、9・11のテロリストによる攻撃が起こったことで、機会の

窓は再び開かれた。プーチンは地球規模での西側との戦略的提携を

模索したのである。このような期間がなんとか1年以上続いたが、


ジョージ・w・ブッシュ(子)政権のロシアに対する冷ややかな姿勢に

よって雲散霧消した。ワシントンは次第にイラクや「拡大政策」を重視

するようになっていった。


p340   ロシア単独主義

ーー安直な再統合構想ーー

こうして、1990年代に少なからぬロシア人が目指したような、西側へ

“参画する“統合ーー「フランス・モデル」ともいうべき路線や、その後

2000年代初頭に「NATOとの同盟」という形で追求された西側との

“対等な統合“は、とうとう現実のものとはならなかった。片恋のように

邪険にされたロシアは、2000年代半ば、振り出しに戻って自らの

大国ぶりを再び主張する方針に転じた。


定義上、大国とはいかなる主体からも指図を受けるものではなかった。

ロシアが今後アメリカに首根っこを押さえつけられるようなことは、

どんなことがあってもあり得ない、とプーチンは言い張る。プーチン

時代の公式の基本理念によれば、ロシアは「跪いていた状態から立ち

上がった」。核兵器を保持するとともに、エネルギーという新たな

使える道具を獲得した。急激に高騰する石油価格を背景に、少な

からぬ人々が石油を一つの武器とさえ見做してきた。以来、高まる

大国意識が、更なる統合主義的な志向を妨げたーーあるいは、

少なくともこのような志向に対する深刻な制約をもたらした。

大国たるもの、他国を統合することはあっても、自らを統合する

ことはない、というのである。ロシアの場合、そのどちらも実際

にはあり得ないことであった。2003年以来、モスクワによって

再開されたーー単一経済空間(原注=ウクライナをロシア、

カザフスタン、ベラルーシと経済的に統合することを目指して、

2004年に浮上した構想。この構想は、04年末のウクライナでの

オレンジ革命を経て、持ち得たであろう意義を失ってしまった)

のようなーー他の独立国家共同体(CIS)諸国との経済統合の

試みは、一貫性に欠け、ロシア自身の脆弱さや一層の独立性を

求めるCISのパートナーたちの要求がその妨げとなってきた。

ロシア・エリートの間で時折囁かれる新帝国主義的な言説にある

ように、依然万事が「安直」であった。・・


ある国が大国然と振る舞うようになる過程で、失地回復運動とは、

順序としては国家として自立した後にやってくるものである。

だが、自立を果たすより先に始まることだってある。大国とは、

その内政について他国からの関与を受けない至上の権限を備えて

いるものだ。これらの国々が民主主義であれば、主権在民という

ことになる。専制的な大国の場合、その体制は外国からの圧力に

鈍感となる。ソ連解体後のロシアはーー統治される者たちの同意を

受けた、その軽度な権威主義的な体制によりーー後者の部類に入る。

そこで内政における自立性とは、支配エリートにとっての十分な

までの主権を意味する。実態として、彼ら支配エリートは法律や

道徳上の上位にいる存在だ。国際通貨基金(IMF)によって

配布資料が書き換えられるたびにロシアの連邦予算のあり方も

移ろい、モスクワの聴衆が外国人の講演に耳を傾け、外国人顧問

は最高位のロシア人官僚たちにたやすく接近することができる

ようになったーーそんな90年代の経験は、2000年代の支配者に

回顧されることもない。


プーチンの目標とは、外国の圧力を受ける恐れのないーーまた

外部から支援を受ける心配のないーー支配体制を作り上げる

こと、そしてそれを、巧みに操作された諸政策の組み合わせに

よってもたらされた継続的な民衆からの賛同の上にしっかりと

据え付けることだった。2000年代半ばの石油、天然ガス

による収益の莫大な流入が、これを大幅に可能ならしめた。

外国人は自分達の仕事に専念するように告げられ、国内の

評論家連は、プーチンの言うところの「外国大使館にたかる」

西側の「第5列」すなわち内通者として不適格者の烙印を押され

た。彼が目指すものとは、戦略及び内政面での自立性の結合であり、

盛んに採上げられるようになった主権民主主義という決まり文句

の中身を形作るものであった。民主主義とは政治参加を求める

ものであり、今日のロシアではそれは希薄であることから、

実際は主権官僚主義により近い。


ともすれば大国という概念は、その国の民族的境界を越えた

意味合いを帯びることもある。ロシアの伝統主義者たちは次の

ように考えている。大国とは、舞台の上に立つ王の如く、従者や

嘆願者の群れに祭り上げられるものである、と。現実主義に

根ざしたロシア指導者が見るところ、世界とは、一握りの本当

の意味で主権を備えた諸大国ーーすなわちアメリカ、中国、

それから1990年代の幕間を経て今や再興を果たしたロシアーー

そしてこれらの大国それぞれの「勢力圏」からなっている。

ロシアの指導者たち、そして彼らの助言者たちはこう信じている。

諸大国が力を伸ばし圏城をめぐり、影響力を伸ばし権威を打ち

立てることは、グローバル政治の本質である、と。


このような見方からすれば、地域的な優越性を打ち立てることは

自然かつ安定的であるが、全世界を覆うような優越性とは、幻想

でありまた脅威になりかねないものである。

この競り合いの中で、ソ連解体後のロシアの位置とは、根っからの

修正主義であった。つまり、モスクワはアメリカ「単極時代」そして

冷戦終結と共にアメリカの打ち立てた「新世界秩序」の妨げであった。

ロシアそのものは、自らの政策を完全に防衛的なものと捉えていた。

どこかの国が世界規模で優越的になる(そして我々はそれ以上の

ものとなる)のを阻止する、(少数の大国によるグローバルな寡頭制の


一形態としての多様性の促進と併せ、ロシアは旧ソ連の(帝国的)空間

にーー所有権ではなくーー緩やかな統制を取り戻すことを目指してきた。

(中略)


p353   第二次世界大戦をめぐる論争

1990年代半ばまでに、ロシア指導部は一つのことを発見した。自分達の正統性

について、1940年代のドイツ侵攻に対する勝利に勝る根拠を持ち得ていない

ことである。

スターリンが死去し、共産主義の最後の歌声がニキータ・フルシチョフの失脚

によって鎮まると、ブレジネフと彼の取り巻きが正統性として頼ることが

できたのは、対ナチス・ドイツ戦勝の一点のみであった。戦勝記念日(5月9日)

を祝う伝統の起源は、1945年に遡るに過ぎない。ゴルバチョフは当初

これを引き継いだが、次第に控えめにさせた。赤の広場での軍事パレードを

止めさせたエリツィンだが、95年の戦勝50周年の機を使って、西側指導者

たちとの連携ぶりを見せつけようとした。プーチンは軍事装備の実践展示

であるパレードを復活させると共に、それを拡大させた。彼は軍事パレードを、

ロシアの国益に目を向けようとしないアメリカに対して警告を送ることにも

活用した。2007年、プーチンはアメリカの政策を第3帝国(ナチ・ドイツ)

のそれと比べさえした。メドヴェージェフの夜ーー終戦から65年目の、しかし

戦争からの生き残りはほんの一握りとなってしまったーー2010年のパレードは

過去最大のショーとなった。これは間違いなく一般のロシア人の琴線に触れる

ものであった。甚大な犠牲と苦難の記憶は、いまだに息づいている。

世界最強の軍事組織をーー事実上単独で、と、多くの人が付け加えることだろう

ーー打破したことを誇りにしているのである。ロシア人にロシアが成し得た

世界史への最も重要な貢献を訪ねたら、彼らはおそらくナチスに対する勝利を

挙げるだろう。ソ連解体に倍増するほど重要なこの事件は、国民意識を作りあげ

唯一前向きに捉えられる柱なのである。

終戦記念日の5月9日は、1960年代よりソ連・ロシアにおける本当の意味での

国民的な一日となっている。ソ連がその最後の数十年間に知られていたような

「人民のソヴィエト的共同体」とは、共に第二次世界大戦の産物であった。

現在生きている多くの人々は、まだ生まれていない。だが、ソ連の、そして今や

ロシアの国家プロパガンダの成果そのものがそこに表れている。大半の一般の

ロシア人にとって、大祖国戦争は依然神聖なものである。彼らが共に抱いている

歴史の中で、それは誰もが誇ることのできる出来事なのである。祖国ソ連は20世紀

の悪の権化、ナチズムを打倒したのだと。

かくして、ソ連の第二次世界大戦の勝利は「神聖視されている。これに見直しを

求める者は誰でもロシアの敵、あるいは少なくともその不幸を願う者である。・・

2万2000人のポーランドの士官並びに民間人が虐殺された1940年のカティン

の森事件(🦊:ソ連のスモレンスク近郊の森で、ポーランド軍将校、国境警備隊員、

警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部によって虐殺された。

=ウイキペディアによる)の犯罪性を最初に認めたのはゴルバチョフであり、

エリツィン、さらにプーチンもこれに続いた。(2010年、プーチンとポーランド

のドナルド・トゥスク首相によって、事件70周年を記念する感動的な儀式が執り行わ

れた)長い間、ロシア人評論家の面々は、この大虐殺を1920〜21年にかけての

ポーランド軍に囚われた3万2000人のロシア人捕虜が死亡した苦い経験と同一視

していた。1940年の行為は20年前に起こった事件に対するスターリンの復讐

かもしれない、とプーチンは仄めかしている。多くのロシア人にとり、この

ポーランド人士官たちは政治的抑圧の時代に非業の死を遂げた幾百万の中に

列せられる人々であった。多くがロシア帝国の臣民として生を受けたポーランド人

そしてバルト諸国の人々は、夥しい数のソ連人と運命を共にした。メドヴェージェフ

が言うところの、これら「スターリンとその取り巻きが関わった犯罪」のおぞましさ

にもかかわらず、この「カティンの森」事件は集団殺戮とは断じ難い。いずれの

行事でも守られる、プーチンがポーランド人の記念碑にひざまずく様は、これからの

和解に向けた重要なシンボルとなっている。

だが、カティンのプーチンは、旧ワルシャワ・ゲットーでのブラント(ヴィリー・

ブラント。旧西ドイツの首相)ではなかった。本質的なところで、ロシアの公式

見解は何も変わっていない。清廉潔白な人間など居るわけがなく、もとよりソ連は

その対外政策において、西側の列強や中東欧諸国のいずれに比べても非はなかった

というのである。ロシア政府が目指しているのは、スターリンの所業に対する

政治的そして法的な責任をロシアが負うのを防ぐことにある。こうした背景から、

ロシアはバルト諸国がソ連によって併合されたことを認めたものの、それが

具体的な結果を生む「占領」であったことは否認している。ロシアは犯罪的行為

については触れるが、集団殺戮という言葉は避けている。プーチンとメドヴェージェフ

は、ロシアが「敗戦後の」ドイツのように、長らく一段下の位置に置かれ、道義的に

低く評価されることを望んでいない。いつまでも問題児扱いされるのを潔しとしない

のである。彼らはむしろロシアを勝利者の先頭にいるものとし、この勝利を国家や

国際的な力の源泉に展示させようとしている。赤の広場の戦勝記念日パレードがーー

2010年には、ロシア人に続き、米、英、仏、そしてポーランドの部隊が、世界

各国の指導者が見守る中行進したようにーーこの求められているイメージを形成する

一助となりうる筈である。・・

繰り返し謝罪し、許しを乞うことを拒む態度は、ゴルバチョフ並びにエリツィン

の時代に過剰な批判と自己否定に終始し、歴史の肯定的な側面についてしっかりした

評価が必ずしもなされてこなかった、というプーチンの確信とむすびついている。

爾来、プーチンは積極的なロシア愛国主義を支える言説を展開してきた。

2006年以降、ロシアは複数の学校教科書について、歴史家のアレクセイ・ミレル

のいうように、「国家にだけでなく、政治権力に対する忠誠として理解される

愛国主義の育成」を目指して入念な見直しを行なっている。新たな「歴史の垂直性」

は強い国家、主権、軍事的な強さ、西側の拒絶といった一連の理念に支えられる

ことになった。2009年には、大統領付属の「ロシアの利益に損失を与える歴史の

捏造の試みに対処する」委員会が立ち上がった。プーチンは自分自身のためにのみ

発言をしているのではない。大多数のロシア人は、政治的階層も含めて、現代史の

難問を取り上げて論じることに熱心ではない。社会学者による調査では、早くも

1992年から、ロシア社会は歴史について肯定的かつ励まされるようなものでなければ

聞く耳を持たなかった、ということを示している。今や大半の人々が、あらゆる

「歴史上の」難問はゴルバチョフのグラースノスチやエリツィンの言論の自由の

時代に完全に解決された、と信じている。社会は、これまで学んできたことにうんざり

し、またそれによって自信を失っている。全体主義の本質と個人の責任について

議論をすることなどもうたくさんであった。価値観のない、道徳規範とは無関係の

生き方をする風潮が蔓延していた。ソ連を知らない若いロシア人の多くは、ソ連史に

ついて自分自身で選り好みしながら学んでいる。彼らは払ってきた犠牲よりも

「偉大さ」を重視したがる。

スターリン主義の犯罪に対して頻繁になされる告発は、今や怒りと敵意を呼び起こす

ものとなっている。ロシアは何度となく西側に対抗する者として自らを位置づけて

きた。ソ連時代には国民の祝日であった十月革命記念日(1月7日、旧暦10月25日)

ーーエリツィンの元では「合意と和解の日」と名付けられていたーーが、2004年、

ポーランドの占領からのモスクワ解放(1612年)を記念した「国民団結の日」に

移し替えられた。

プーチンは特異なロシアの進む道がユニークであるとの考え方を退けてきたが、ロシアは

つい最近も自らについて非西側的な、場合によっては反西側的な自画像を描いてきた。

西側とりわけアメリカやイギリス、そして「病的なまでに反ロシア的な」ポーランドや

バルト諸国の追随者たちは、ロシアにとって根っから攻撃的で居丈高、おまけに敵対的な

存在だと言うのである。



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🦊:少し過激な発言をお許し願うとして、5月9日までに停戦できなければ、・・

なにしろプーチンはどことやらのシェルターにこもって元気にしているらしいが、

その日100人ばかりのロシア人の自殺者が出ても驚かない。出なくても驚かないが。

プーチンは、それ用のピストルか毒薬を携帯しているか。いないとしたら、あのナチス

の大悪人、ヒトラーにも劣る、と、人間ランク付けが決まってしまう。

ま、外相のラヴロフ氏が国連の場で、あれほど堂々と大嘘をつくんだから。

「恥ずべき行為」とか「非人間的」とかいう概念が、そもそも無いんだろうな。

「ちょっとした、誰にでもある野蛮行為」とか言い換えるんだろうね。


日本人だって、いばれたもんじゃないが。


それにしても、国連もコケにされたもんだ。



2022   4   8