ウクライナは民主主義の旗手なのか



ウクライナ動乱ーーソ連解体から露ウ戦争までーー

松里公孝     著    2023年     ちくま新書


本書まえがきより・・・・

2022年2月24日、ロシア軍はウクライナの軍事施設、防空施設に

ミサイル攻撃を仕掛けると同時に、南北から国境を越えてウクライナに

侵入した。その後の14ヶ月間、ウクライナでは多くの人命が失われ、

多くの家屋や生産機能が破壊された。勤労者が職場に通い、学童が学校に

通うという当たり前の生活が出来なくなった。

私自身にとっても、ロシア軍が最初に襲ったチェルニヒウに、義母が

住んでいること、かつて自分が楽しく仕事をしたマリウポリ、イズエム、

バフムトなどの都市が次々に灰燼に帰していったことから、個人的にも

本当に嫌な思いをした14ヶ月間であった。

戦争が始まったとき、多くの専門家と同様、「プーチンがここまでやるか」

ということに驚いたが、同時に既知感、「またか」という感覚は否め

なかった。このような戦争は、ソ連末期からコーカサスや環黒海地域で

繰り返されてきたものであり、今回の戦争は、一つの事例が付け加えられた

ものにすぎない。

過去14ヶ月間に私が痛感したことは、ウクライナという国が、日本人に

とっては縁遠い、知られざる国であるということである。・・・

私たちは、冷戦終了・ソ連崩壊後の現代史について、次のようなイメージを

持ちがちである。21世紀の最初頃まではアメリカ一極主義が安定し、

旧社会主義国では体制移行が進んだ。イラク戦争や2008年のコーカサス

での戦争の失敗から、アメリカ一極世界が動揺し始め、旧社会主義国でも

権威主義が台頭してきた。特にロシアは軍事大国化し、旧ソ連領に干渉

している。この一旦安定したものが再び動揺しているという有力イメージ

に対して、本書で問いかけたいことは、私たちはまだ1989−91年に始まる

社会変動の只中にいるのではないかということである。特に、ソ連継承国

の多くは1990年の経済水準を回復していない。金さえ有れば何でも買える

便利な資本主義社会にあって、庶民は35年前の生活水準を回復していない

のである。貧困の問題が直視されない代わりに、親露派対親欧米派という

二項対立が、現地について何も知らなくても現地情勢を説明できてしまう

魔法の杖のように振られる。これは、現地に対する偏見であると同時に、

日本人が自国の貧困問題に取り組めなくなっていることの反映ではない

だろうか。


p273        ドンバス戦争

ドンバスは、2014年以後のウクライナ動乱で最も大きな被害を受けてきた

地域である。(ドンバス地方は、ドネツク州とルガンスク州からなる。地図参照)
p275.   ドンバス戦争


ドンバスの代名詞となっている石炭業は州中央で発達している。

製鉄、冶金はマリウポリなどアゾフ海沿岸、機械産業はクラマトルスク

など州北部に集中している。ドネツク州中北部は、ドンバスの一部と

いうよりもハルキウからロシアのロストフに連なる機械工業ベルトの

一部である。機械工業が発達しているということは、インテリの

人口比率が高いということである。・・ウクライナにおいて、

ドンバス人が「炭鉱夫」、「荒くれ者」という偏見を持たれてきたように、

ドネツク州内部でも、クラマトルスクやマリウポリの市民は、炭鉱地帯の

ドネツクと同一視されることを露骨に嫌う。

マリウポリでは、当時社会民主党化を掲げていた野党ブロックの政治家

さえ、「ドンバス人は炭鉱夫なので、命令された通りに動く。我々は

冶金業者なので、説得され、納得しなければ動かない」などとけしからん

ことを言っていた。価値判断は別として、「炭鉱夫であることと住民の

政治意識とは関係がある」という意見は、ドネツク市民からも聞く。

炭鉱労働者は、毎日坑道に入る前に、「またお天道様が拝めるかな」と

思うそうである。特に石炭の枯渇が近づいているドンバスでは、

立つことができない、匍匐して進まなければならないような坑道も多い。

過酷な労働の条件は独特の生死感を生む。

このような人々に、本人たちが嫌がるイデオロギーを押しつけるのは

やめた方が良い。炭鉱労働者は、2014年以降、一貫してドネツク軍の

兵員の重要部分を成している。


p404    ドネツク空港の廃墟にて

(2017年8月、筆者はドネツク生まれの五十歳代の古参兵に連れられて、

ドネツク北西部のドネツク空港の廃墟を訪れた)空港近辺から砲弾の

破片を拾い集めて、「お土産」とプレゼントしてくれた。「ソ連製の

砲弾破片はすぐに錆びる。これはまだ金ピカだからNATO製だ」と言って。

次に彼は、空港の近くにある、かつての中産階級街に建立された有名な

民間人犠牲者の慰霊碑を見せてくれた。車で端から端までゆっくりと

走って3分くらいの短い通りで212人の民間人が死に、そのすべての

名前が、空港廃墟から採取された石板にきざみこまれているのである。

彼は唐突に、自分と同じ苗字の名を指して言った。「ご覧なさい、

これが私の息子です。民間人で23歳でした」。


p278   ドンバス産業革命

1775年、クチュク・カイナルジ条約によって、オスマン帝国から

ロシアに渡された土地と、ドン・コサックの土地を合わせてアゾフ県

が設置された。ロシア帝国領となったことにより、この土地への

セルビア人、ギリシャ人などの移住、植民が活発化した。

1792年から95年にかけてエカテリノスラフ(エカテリナ帝の栄光)

県が導入され、後の社会主義期には「ドニプロペトロウスク、

これは、18世紀以来ロシア政府が得意にしてきた工業化の方法だった。

19世紀後半のロシア帝国は欧州産業の最後のフロンテイアだったので、

欧州起業家のロマンを掻き立てたのだろう。たとえばジョン・ヒューズは、

ウエルズで成功した製鉄業者であったが、55歳にして、自分の工場を解体

して機械、装備を船に積み、ロシア帝国に移住した。そして1872年、

エカテリノスラフ県バフムト郡の辺境に銑鉄工場を建てた。今日の

ドネツクでもヒューズは(銅像を建てられ)敬愛されている。

ヒューズと同様の外国人起業家として、クラマトルスクの発展に寄与した

プロイセン人のエドガー・アデルマンが挙げられる。1860年代、ハルキウ

ーータガンロク鉄道線が開通した。同線とユーゾフカ炭田の分岐点に、

石炭の積み替え駅としてクラマトルスクが生まれた。やがて付近で石灰岩の

鉱脈が発見され、アデルマンが石灰、防火素材を生産する工場を建てた。

こうした先行的な工場群が、軍需産業や宇宙開発においてソ連を牽引した

新クラマトルスク機械工場の基礎を成したのである。


p283   ドネツク州における共産党支配の終焉

赤い企業長・・共産党支配の終焉によって生まれた権力空白を埋めたのは

1990年地方選挙の結果、州議会やドネツク州議会に進出した「赤い企業長」

であった。赤い企業長とは、利潤、株主への配当を極大化するだけではなく、

工場が立地している地域社会の行政を代行し、ライフラインを維持することも

自らの使命と考えるような企業経営者層である。社会主義時代、社宅だけで

はなく公営住宅全般の管理、ガス管の敷設と管理、学校、幼稚園の建物

補修、学校給食への食材の提供、除雪などは財政基盤の弱い地方機関(ソヴェト、

ラーダ)ではなく、当該地の企業、集団農場がしばしば代行していた。

資本主義への移行から30年以上経った今日でも、旧ソ連圏では、企業は利潤

のみを追求するのではなく、地域社会全体の面倒を見なければならないという

考え方は根強い。旧ソ連圏では、企業経営者は「雇用提供者(ラポタダーチェリ)」

としばしば呼ばれている。現役世代へのサービスだけではなく、元従業員に

年金の払い足しを行ったりするので、選挙になれば高齢者層も左右できる。

つまり、住民の雇用を提供できる人間のみが住民のリーダーになる資格がある

というのである。工業化が上から強力に進められたウクライナ東部では、企業

城下町的な地方政治のあり方が極端なものになったのである。

1990年春に州やドネツク市の指導部に入った赤い企業長の中から、後の全国

政治家が何人も出た。


p324    ドネツク空港空爆

(2014年9月、マイダン政権(=キエフ政権)側は、5月11日に予定された

人民共和国の独立を問う住民投票を武力を用いてでも阻止し、ウクライナ残部

では5月25日に大統領選挙を行なって、自らを正統化する構えだった。

分離派(ウクライナからの分離を主張)はこの逆で、住民投票でマイダン革命を

事後正統化するのを阻止する構えだった。分離派活動家は、ウクライナ

選挙管理委員会を襲撃し、投票用紙を棄損し、選挙管理委員を誘拐した。

妨害は功を奏した。

5月7日、つまり住民投票4日前、0SCE(欧州安全保障協力機構)との協議の後、

プーチン大統領は、ウクライナ大統領選挙を行うことの意義を認めると

同時に、人民共和国は住民投票を延期するよう(自分の部下とも正反対の)

提言をした。その最大の動機は選挙である。米国の政治学者ポール・ダニエリ

も指摘したように、ロシアがクリミアとセヴァストポリを併合しただけなら、

約200万票の親露票が消えるだけである。しかし、クリミアに加えて、

300万票から500万票のドンバスの親露派がウクライナから消えたとすれば、

ウクライナ大統領選挙では、ウクライナのNATO早期加盟を掲げるような

候補しか勝てなくなる。したがって、「クリミアは取ったがドンバスは

ウクライナに押し戻す」というのが、ロシア指導部にとってはもっとも旨味

のある政策だったのである。・・・

ユーロマイダン革命(2014年)以降のウクライナにおいては、共産主義思想と

共産党が非合法化され、それに代わってウクライナ史の独特の理解が国家

イデオロギーとなった。2015年12月、すでに議会選挙で敗北した共産党

そのものが禁止された。


p250    2015年の地方選挙

ソ連継承国の場合、選挙が市民の自発的選択というよりも、票の動員数

という色合いが強いので、与党政治家にとって支配党の建設は重要な

役割を果たす。ウクライナにおいて大統領による知事任命制が維持されて

きたのも大統領が、知事地方行政府という選挙媒体(政党代替物)を失い

たくなかったからである。


p266    ゼレンスキー旋風

(俳優ゼレンスキーの当たり役として、高校教師がウクライナ大統領に

なるという『公僕』というテレビドラマがあるが、)このドラマを地で

行っているのが、2018年以降のゼレンスキーの人生である。(彼の政党の

名は『公僕』である)。2018年の議会選挙では、得票率73%という驚異的

数字で当選した。ゼレンスキー下では、大統領議会制的な制度運営が

なされている。具体的には①大統領が、首相を指名し、議会は承認する

のみ、⓶大統領は政治課題、首相は経済という大統領議会政治的な

分業が成立している。③大統領は、首相を解任してトカゲの

尻尾切りをする。

ドンバス住民は、「人民投票さえ成功させれば、ロシアを押し切る

ことができるだろう。プーチンは嫌々かもしれないが
私たちを引き受け、

私たちを内戦から救ってくれるだろう」と、素朴な幻想を抱いていた。

これに対し・・人民共和国のリーダーたちは、「住民投票の結果は

おそらくロシアを動かさないだろうし、ぎゃくに、この投票の結果、

確実に内戦がはじまる。それを覚悟の上、投票されたし」とは市民に

伝えなかったのである。


p324    ドネツク空港空爆

9月11日の住民投票は、ドネツク共和国の「独立」を承認したが、その後も

タルータ知事と人民共和国との間の二重権力は続いた。

(クラマトルスクのような北部中心都市と,南部中心都市マリウポリと、

ドネツクの間の距離はほぼ同じであるが、マリウポリ〜ドネツク間は

見晴らしの良いステップであり、戦車が自由に走れるが、人民共和国への

北からのルートは鬱蒼とした森の中を一本道が通っているだけである。

ドネツク市民は、自分自身に戦争が迫っているとは感じなかった。

ドネツク市にとってマリウポリは近く、州北部は遠いという空間感覚は、

政治や軍事における距離感にも反映された。

ドネツク市民は、100万都市に向かってキエフの新政権が戦争を挑むなど

想像もできなかったのである。この認識を変えたのが、5月26日の

ウクライナ軍によるドネツク空港の空爆だった。


p330    民間砲撃の伝統

ウクライナ側は、ドンバス戦争に向けた準備を大急ぎでした。2014年3月13日

最高会議は国民衛兵隊法を採択した。国民衛兵隊は、中核となる内務省軍に

マイダン革命が生んだ諸式武装集団を接合した。これは、革命が成就したから

といって刀狩りをして右翼を怒らせないための措置であった。右翼がドンバスに

行って死んでくれれば、新政権にとって1石2鳥だった。2018年4月までは

ドンバス戦線の主役は通常軍ではなく国民衛兵隊であった。なし崩しに戦線が

激化したため、ウクライナ兵は訓練不足で前線に送られ、モチベーションの高い

ドンバス兵や各地を転戦してきた強者であるロシア義勇兵に対峙することになった。

兵員が戦闘で劣勢なウクライナ武装勢力は、自分達が優位である火砲に頼り、

しかも銃後の民間家屋、民間施設を狙うようになった。当然戦時国際法は無視

することになる。さらに良くないことに、「我々は撃っていません。あれは

ウクライナの信用を毀損するために、人民共和国が自分を撃っているのです」

などと宣伝し始めた。これを真に受ける西洋側外交官も政治家もおらず、

またいわゆる民主主義国家も、民主主義を掲げる政党も、ウクライナに

対して何も言ってこなかった。これはウクライナにとって恐るべき国際的

孤立である。

ドンバスの外から主に兵員が動員されるウクライナ軍と違って、人民共和国の

将兵にとって、ウクライナ支配地域、例えばマリウポリの住民の中には親戚、

知人が多数いる。そこで、人民共和国は、2015年のサルタナへの砲撃(人民

共和国の砲撃によって多数の住民が死傷)を最後に、民間家屋を狙った攻撃を

やめ、ウクライナ側からの民間家屋砲撃に対してはウクライナ兵士への狙撃や

塹壕攻撃で応じるようになった。

2017年8月に私がドネツクを訪れた時の観察では、この自制的方針が人民

共和国の内部的正統性を高めたようであった。もはや「どっちもどっち」

(目には目を)論は住民からは聞かれず、人民共和国住民は自分達を一方的被害者

として感じるようになったのである。


p409     越境する兵士


(2017年8月ドネツク人民共和国に入ることへの許可を得て、バフムトへ向かった。

人民共和国でもウクライナ側でも検問所でかなり待たされたりして、夜の8時に

やっとバフムトの検問所を越えられたが、そこからタクシーでドネツクまで

行っても、夜11時に始まる外出禁止までに市に着けない)検問所の軍人が、

親切に、ゴルロフカ在住の兵士ピョートルに話をつけてくれ、彼が同居している

レーナのアパートに一泊して、翌朝ドネツクに向かうことにする。

深夜の夕食となったが、レーナとピョートルはボルシチでもてなしてくれた。

検問所からここへ向かう途中で私が買ったウオッカを皆で開けた。

彼の出身地ゴルロフカはドネツク人民共和国で最も大きな戦争被害を受けた

都市である。ピョートルは「「ロシアの春」に共鳴し、助けようと思って

2014年初めにクリミアに来た。後にゴルロフカ担当の準軍事組織司令官に

なるイーゴリ・ペズレルと知り合った。ペズレルは、ウクライナの捕虜を

銃殺するシーンをユーチューブに載せたことで悪名を世界に馳せた司令官

である。

クリミアがロシアに併合された3月18日、ピョートルは、2014年の夏は

義勇兵として戦い、11月に人民共和国が創設されると、最初の兵士となった。

(通常人民共和国兵は3年間の兵役義務があるが、彼は退役せずに軍に

留まり)2016年にゴルロフカの大学に入学した。「第二の高等教育資格」を

得たいと思ったのである。夕食を共にする中で、私たちはペズレル

司令官の残虐行為についても話すことになった。「たとえその捕虜が

戦争犯罪を犯していたとしても、捕虜の状態にある者を銃殺したら

戦争犯罪ですよ」と私は言った。「そんなことは知っているよ」と

彼は答えた。「でも、あまりに多くの子供が殺された。僕には

止められなかった」。



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🦊  「ウクライナだけが正しい民主主義の担い手で、ロシアと

プーチンは「国際法違反」のゴロツキである」という報道記事が世界を

駆け巡り、岸田首相は理由もわからずに(これ幸いと)尻馬に乗り(選挙目当てで)

ウクライナ支援の増額を決めた。ウクライナ政治の現状は如何に・・

本書によれば、どうも違うらしい。特にドネツク市の人々は、特にロシアと

ロシア人に恋してるわけではないらしい。また、キエフのウクライナ政府は

対ドネツク戦争をしかけて民間人殺害に先鞭をつけ、さらに自分達の犯罪を

相手のせいにする、今流行りのフェイク報道は元々得意技だったとか。

本書は、長年ウクライナに住んで足で稼いだ著者の実体験に基づく研究である。

ここから、東部ウクライナの現状への理解が生まれることをキツネは願う。


2023   10