イジメツ子の同窓会









只今留守にしております。なんちゃって、今朝方このページに入れておいた

大量の文章がどっかへ逃げていってしまったらしく、2枚のスナップショット

のみがお留守番ーーというぐあいで、ジンドーに修復方依頼中ですが、順番まち

だそうです。戦後日本を知ってる方も知らない方も、「知ってるつもりの方」も

是非読んでいただきたく、少々お待ちくださるよう、願い上げます。🦊

2月23日



今日、商業用ホームページ作成代行業から返答あり。iPadからは修復の手段なし。

で、デストップからホームページを開いて、どこかの「ごみすてば」から、

「自分で捨てた」原稿が一時保管してあるか探して、それを元ブログへドロップ

せよという…ところで、きつねのデスクトップは2階に長いことほったらかしで、

埃を被っている。そこに、古い世代の使いにくいブログ用ソフトがまだ入っている。

いることはいるが、「キツネと遠近・・・」にはつながりません。他の「三菱UFJ」

の「マイページ」なんかはちゃんと繋がる。だからサーバーの故障では?

キツネは84歳なりの身体的故障をかかえており、とても悩ましい。

これで3度目だが、「自分で捨てたのはアウト」だから書き直せという。

ところで今回の「いじめっ子の同窓会」は、元の本が455ページもある

面白いけど精密な文章で(キツネは読み終わるのに1ヶ月かかった)

韓国人の歴史学者である著者は、「いじめっ子日本」に対し「我々韓国人は、

歴史を決して忘れない!」とのメッセージを強く込めている。


基地国家の誕生ーー朝鮮戦争と日本、アメリカ

南基正 (ナム・ギジョン)  著    市村繁和  訳

2023年      東京堂出版  刊




2024年   2月28日      🦊








イジメっ子の同窓会

昨日同窓会へ行った。そしたら昔のイジメっ子が、図々しく隣の席に

座っている。「おい、いじめっ子!お前のおかげで僕の学校時代は

地獄の毎日だったんだぞ」とは言わず、せいぜい元気よく(これが限度)

「俺の名前を覚えてるんだろうな!」と怒鳴ったが、「?」とそれっきり、

返事もなし。今国会の議員諸氏のように「記憶にございません」で済ます気か

コノヤロウ!

 基地国家の誕生ーー朝鮮戦争と日本、アメリカ

南基正(ナム*ギジョン) 著     市村繁和訳

東京堂書店       2023年  刊
🦊  この本の中に、韓国人の歴史家である南基正は、日本人に対する

強いアピールをこめている。「我々韓国人は、歴史を決して忘れない」と。


p93  朝鮮戦争の勃発と日本ーー基地国家の誕生

1  開戦直前の在日米軍の編成

朝鮮戦争前における米国の日本占領軍は、米陸軍第八軍と第六軍、

米極東海軍(Naval  Forces,Far East),  米極東空軍(Far East  Air  Force)

英連邦軍(British   Commonwealth Occupation Forces,Japan)

を根幹としていた。このうち、

占領管理のための軍事占領の中心だった第八軍(横浜)傘下には第九軍団

(札幌)・第14軍団(仙台)・第11軍団(日吉)・第八軍司令部(横浜)が、

第六軍(京都)傘下には第五水陸両用軍団(佐世保)・第一軍団(大阪)・

第十軍団(呉)がおり、軍政機構としては軍政団および軍政中隊が配置

されていた。このうち第一、第九軍団は1949年に廃止され、日本占領の

ための主力部隊である米第八軍隷下の4個師団は、朝鮮戦争の勃発当時、

表2--1のように再編されていた。


一方、日本占領軍の軍政機構は、1949年まで米極東軍総司令官によって

統率される占領軍の編成に従いながらも、他方では日本占領だけのための

別途の組織を形成していた。特に地方軍政機構は、日本の地方行政機構と

対をなして編成された。横須賀は、他のすべての地方軍政機構と違って

特別地区として編成され、在日米海軍横須賀基地内に軍政府が設置されて

いた。ところで、こうした軍政機構も、朝鮮戦争の直前には大幅に縮小

されていた。対日講和に備えて占領業務が軍事的任務から民事的任務に変わり、

民事的任務も次第に縮小されて日本の行政部署に業務が移管されていたのだ。

さらに各府県の民事部は次第に縮小され、各地方民事部の指揮権は最高司令官

直属となった。横須賀の軍政府名称も民事部に改称された。

戦争初期に劣勢だった戦況を逆転させるうえで、海軍による海洋統制権の掌握が

決定的に貢献した。朝鮮戦争勃発以降、日本海域にいた米海軍艦船は極東海軍

司令官ジョイ(Turner Joy)提督の作戦統制下にあった。彼が司令官職にあった

第96機動部隊は、軽巡洋艦ジュノー、サムナー級駆逐艦4隻、デイーゼル潜水艦

1隻、旧型哨戒艦数隻で構成されていたが、朝鮮戦争勃発前には日本への密輸品

取り締まりと日本沿岸の機雷掃海作業をしていた。第96機動部隊の上陸機動捜査部隊

(司令官はドイル海軍少将)は揚陸指揮艦マウント・マッキンリー、攻撃輸送艦

カバリアー、攻撃貨物輸送機ユニオン、予備艦アリカラ、戦車揚陸艦(LST)1隻で

編成されていたが、在日米軍と共同で上陸訓練を行うために日本へ到着したばかり

だった。

朝鮮戦争勃発直後、ジョイ提督は駆逐艦ド・ヘイブン、マンスフィールド、コレット、

ライマン・スウェンソンを韓国支援船団に命名し、韓国海域に対する哨戒活動に

投入した。(英国もまた戦争勃発直後に艦隊を急派したが)、このうちの一部は

第96機動部隊に、トライアンフ、コサック、コンソートは第77機動部隊に

合流され沖縄に送られた。

米国が地上軍の投入を決定した翌日の7月1日、ジョイ提督の司令部は日本で

利用可能な兵力を集めて韓国に輸送する計画を立てた。初期に米陸軍第24歩兵

師団の一部は戦闘地域に空輸され、残りの兵力は日本商船管理局に所属して

佐世保に停泊していた第96・3機動船団所属のLSTに乗艦した。

これらのLSTは日本人の乗組員が操船していたが、朝鮮戦争の勃発前には

米占領軍に軍需品を調達し、アジア大陸から日本本国に送還される戦争捕虜

たちを輸送する任務を遂行していた。米軍の軍事海上輸送部の船舶によって

増強されたジョイ提督の上陸機動部隊(TF90)と、チャーターされた日本商船

は、米陸軍第24歩兵師団と第25歩兵師団を釜山に展開させた。

(中略)

(米極東空軍麾下の第13空軍はフィリピンに、第20空軍はグアムに、第5空軍が

沖縄に配置されていた)。日本から出撃した空軍のB-26とF-82は、地上軍の

作戦を航空支援する役目を遂行した。ところが、これらの機種は航続距離と

到達にかかる時間のため、標的上空での滞空時間に制限があった。B-26には

M2重機関銃、ロケット、燃料、4000ポンドの爆弾などを搭載できたが、

積載数が充分でないという限界を抱えていた。F-80は、日本から離陸する

しかない状況で、有効航続距離に制限を受けていた。この戦闘機はキャリバー

50機関銃を8挺搭載しており、高速ロケット18機を積載できた。しかし

燃料を全て積載すると、戦闘飛行半径は225マイルにしかならなかった。

したがって、F-80は戦闘地域でわずか数分だけ攻撃に参加し、日本に

引き返さなければならない状況だった。こうして、これに代わって

米本土からプロペラ式戦闘機のF-51ムスタングが投入されたのである。



p98  在日米軍の出動

(連合国軍は朝鮮戦争の勃発とともに戦闘部隊へと再編され、韓国の

最前線に送られた)最初に派遣された部隊は、米軍の緊急行動部隊として

派遣されたものだった。トルーマンは6月27日の国連安保理決議を待たず

26日の夜にマッカーサーへ米海軍と空軍の韓国出動を命令し、27日には

韓国における作戦行動権を付与した。マッカーサーは在日米軍第八軍のうち、

まず第24歩兵師団(小倉)を韓国へ派遣し、同時に第7艦隊を台湾海峡へ

派遣した。28日には米極東空軍の韓国上空からの爆撃が、29日には米艦隊

の北朝鮮に対する砲撃が始まった。すでに6月29日付の日本の日刊紙では

「ジェット戦闘機や軽爆撃機が南朝鮮に向けてひっきりなしに飛び立っていく。

そして夥しい機関銃弾の跡をつけて帰ってくる」という内容を扱っていた。

朝鮮戦争の間、日本の15の空港が米極東空軍の基地となった。

また、米国政府は英連邦各国など友好国に、韓国への軍隊投入を要請した。

(7月7日には国連安保理決議に基づいて、マッカーサーが国連軍最高司令官

に任命され、すでに日本の占領・管理のための総司令部(GHQ)の置かれていた

第一生命ビルの屋上には、星条旗と国連旗が同時に翻ることになった)

(以下略)


p102   基地化の実相

以降、日本の基地は、朝鮮戦争に投入されて戻ってくる在日米軍の戦闘基地

として戦争に編入されていった。それはまさに「日本全土の基地化」と言い

うるものだった。数字上に表れる基地化の実相は次のとおりである。

戦争が終わる1953年1月31日現在、日本国内には733ヵ所の米軍基地が

あった。その広さは約14万haであり、これは日本の国土面積の0・378 %に

当たる。このうち陸上訓練場が76%、飛行場が13%、幕舎ならびにその他が

11%などである。過去700万人規模の日本軍が使用した軍用地が約30万ha

だったが、その半分を米軍基地が占めていたことになる。これだけ見ても、

組織構成あたりの米軍の基地接収面積が、いかに広大なものであったか

がわかるだろう。他にも海上訓練場が日本列島を囲むように散在していた。

1953年2月、水産庁の調査によると、防潜網と海底障害物を含む米軍の

施設総数は76ヵ所で、これに提供された日本の水域は4万8千㎢ で、九州に

匹敵する広さだった。これを訓練種目別に見てみると、対空射撃、空中戦、

対地射撃、砲撃、水上射撃、上陸訓練、乗船荷役、機雷投下、魚雷発射、

艦砲射撃など多様なものだった。

これらの基地は原則的に無期限接収であり、米国の要求に従って無限に接収・

拡大が可能だった。日米合同委員会が基地接収時に調印する「日米施設区域

協定」は、1952年7月26日に締結後の1年余りの期間に11回ほど改定され、

無期限使用のための接収件数が14件増加したばかりでなく、訓練場と

飛行場なども47ヵ所ほど拡張された。(中略)

1952年7月26日には、外務省で日米合同委員会の両国主席代表である

ウイリアムス准将と井関佑二郎外務省国際協力局長が調印して、

「行政協定に基づく日本国政府とアメリカ政府との間の協定」

が締結された。これは「日米施設区域協定」の名でよく知られている。

これによると、提供される施設や区域は、無期限で使用されるもの

(無期限使用)、移転場所が決定されるまで一時的に使用されるもの

(一時使用)、そして1953年3月31日までに返還される予定の民間所有

住宅など3種類があり、無期限使用は300件、一時使用は312件、

民間所有住宅671件(以降、196件追加)が米軍のために提供されていた。

無期限使用に分類されるのは、飛行場、訓練場、高射砲陣地、弾薬庫、

貯油所、武器修理工場、兵営、軍港などの主要施設で、大部分は講和発効

以前から使用されてきたものだ。また、一時使用に分類されるものは、

飛行場、練兵場、港湾司令部、兵器廠なおどの軍事施設の他に、主に集団

宿舎(兵士クラブ、士官宿舎、軍人軍属とその家族のための宿舎)、倉庫、

事務所、クラブハウス等だった。

無期限使用の対象は飛行場や訓練場のような主要施設であり、それは

拡大傾向にあったのだ。


p106朝鮮戦争と沖縄

一方、朝鮮戦争の勃発は沖縄にも大きな影響を及ぼした。

「最低限の駐機場整備」に止まっていた当初の計画が変更され、

7月には格納庫の追加建設が開始されるなど、軍事施設の拡張が進め

られた。6月27日、グアムのアンダーソン基地駐屯の爆撃部隊に対して

嘉手納への移動命令が下され、7月1日までに移動がほぼ完了した。

米本土から爆撃部隊が沖縄へ移動し、7月16日のソウル爆撃のために

47機のB29が嘉手納基地から出撃していった。8月中旬、横田基地と

嘉手納基地には計98機のB29が集中していた。格納庫の追加建設は、

こうして増派されたB29部隊を収容するためのものだった。11月からは、

読谷、ボーロー、普天間などに造られた補助飛行場の拡充整備が始まった。

一方、7月が終わる前に沖縄駐屯部隊の大部分は韓国の戦場に移動し、

戦闘に参加していた。7月下旬には新しい歩兵部隊が沖縄に到着し、3週間

の訓練を受けて前線へと派遣されていった。1950年9月から11月まで、

読谷、嘉手納、宜野湾、浦添、真和志(マワシ)など、沖縄の随所でいわゆる

「一掃」と表現される施設や土地接収が展開された。沖縄の基地問題が

ここに始まっていたのだ。

1951年5月18日付け「沖縄タイムズ」には、「沖縄の大海軍基地の完成が

間近であるとの記事が 載せられた。沖縄県の嘉手納を中心とする極東最大の

飛行基地が建設されていたが、この飛行場には米国の保有している最強の

戦略爆撃機B-36の着陸が可能になるということだった。このために

約6500万ドルの巨費が投入される予定であるという事実も指摘されて

いた。(予備基地も合わせると5ヵ所の飛行場が「嘉手納飛行基地群」を

構成することになった)沖縄駐屯第20空軍司令官ステアリー少将は、これら

飛行基地群を太平洋の関門とみなしていたが、それはここが東シベリア、

満州、中国本土、東南アジア、インドなどの広域をカバーしていたからだ。

日本本土やフィリピンの基地とは異なり、「太平洋のジブラルタル」沖縄は、

南北の両側に展開可能な便利な基地だったのである。

1951年8月10日の「沖縄タイムズ」の記事は、日本の建設会社が基地建設を

下請け受注したとの事実を伝えている。清水建設が240万ドル、大日本土木が

110万5000ドルの契約を受注したとの内容だった。沖縄の「軍作業」の募集

人員は大幅に増えた。1950年に入って6ヶ月の間に約9000人増加したのだ。

朝鮮戦争で急増した軍作業がなければ、沖縄の経済は彼ら5万人の失業者を

抱えていたのだ。朝鮮戦争と結びついた沖縄における軍関係の労務は、

一種の「救済であり恩恵」だったと言える。(中略)


p115    兵士と物資輸送の中継基地

開戦当時、日本に駐屯していた米軍は約12万5000人だったが、朝鮮戦争の

期間に最大時で35万人が駐屯していたという話もある。彼らはすべて日本

を通過して韓国の前線に向かった。投入される部隊の規模が次第に大きく

なったことが鉄道輸送が必要となった主な理由だった。

米軍と英連邦軍など国連軍兵士の輸送に加えて、韓国軍の輸送にも国鉄が

動員されていた。その一例は「鉄道終戦処理史」に確認できる。これに

よると、米第七師団の第32歩兵連隊が日本に移送され、日本で戦闘訓練を

受けた後、韓国の前線に入った。5日間で計9つの地域から客車72両で輸送

された事実を見ると、相当数の韓国軍兵士が日本に上陸し、訓練を受けた

ことがわかる。右の資料から確認されるのは、韓国の前線に編成、投入

された米第七師団は、約8000人の韓国軍を編入して作ったものだ。

さらに、マッカーサーの要請で、米統合参謀本部は州兵師団を増派したが、

これらの部隊は日本を経由して韓国の前線に投入された。

韓国の前線で使用された弾薬は、米国の本土から一度、日本各地の在日米軍

弾薬庫に収納された後、韓国に輸送されていった。

1946年に規定された第三鉄道輸送司令部業務第28号には、火薬類は標記トン

数の3分の2を超えて積載することは出来ない、と規定されていたが、在日

兵站司令部はこれを全面改訂し、大型爆弾の輸送が可能なように圧力を

加えた。日本の運輸省は、1950年11月17日、米軍の砲弾類の輸送は、

火薬類のトン数を制限する「火薬類輸送規則」に沿わなくても問題に

ならないとの解釈を伝えた。日本の法令がもともと占領軍には適用され

なかったために問題にならないというのが、そうした解釈の根拠だった。

佐世保市もまた、出撃基地であると同時に物資輸送の最前線基地だった。

特に仁川(インチョン)上陸作戦開始後、艦船の佐世保港への出入りが急増した。

1日70隻余りの入港と出港、常時港湾に係留中の大小船舶は100余隻に達した。

さらに渇水期を迎えた韓国で深刻な水不足現象が報告されると、佐世保は

飲料水補給港の役割まで担うことになり、数多くの民間タンカーが飲料水

運搬船に改造されて、釜山港へ向かう給水作戦に動員された



このように朝鮮戦争下で、日本の電力、交通、通信部門など各種の

公共施設と事業軍事利用が増大したが、そのうち輸送部門は飛躍的に

強化されていった。表2-5に見られる通り、朝鮮戦争以前には月平均

30〜40万トン級だった国鉄の軍事輸送は、2〜3倍に激増した。

さらにこうした軍事輸送は、作戦上緊急を要するものだったために、

毎日2800両の空車を準備していなければならず、その結果、

全体の20%を老朽または廃棄貨車で動員、充当しても、毎月述べ

6〜7万両が不足した。したがって、駅前に溜まった滞貨によって

日常業務にも支障が生じていた。

よく発達した国鉄は、日本が輸送中継基地となるための基礎条件を

充分に備えた天恵の基地であることを立証した。GHQ民間輸送局

と第八軍の第三鉄道輸送司令部は、「動乱輸送」への協力を国鉄に

要請した。これに対して国鉄は、「関釜」(下関〜釜山)連絡船を

動員した兵士ならびに物資の輸送、韓国の鉄道事情についての資料

提出、物資調達と技術援助のための諸般の措置及び機密維持、

輸送に対する警備などの役務を提供した。


p123 物資補給と訓練、休養のための後方基地

後方基地の役割のうち、戦争の影が最も鮮明に表れたのは、おそらく

兵士のための休養を提供する慰安所としての役割だろう。

基地はその周辺に、一般社会とは区別される独特の社会を作り出した。

基地周辺の歓楽街の出現である。兵士らは死の影が垂れ込めた戦闘と

訓練の間に、束の間の歓楽と慰安を求めて集落に出て、集落には彼等が

撒いたお金が溢れた。

朝鮮半島に一番近い福岡県の芦屋は、開戦と同時にC-119輸送機約90機で

編成された輸送部隊が移動してきたことで、極東地域最大の空輸基地と

なっていた。過去に石炭と米の積出港だった小さな港町は、突然巨大な

歓楽街に変貌していった。ビアホールとキャバレーが入り乱れ、米軍を

相手にする職業女性が全国各地から流れ込み、一時3000人を超える

ほどだったという。

オクラホマ州兵師団が駐屯していた北海道千歳町(現、千歳市)もまた、

「アメリカ西部の街」のように変貌していった。山口県岩国市も、米軍兵士

を相手にする「職業女性」が深刻な社会問題として頭をもたげており、この

「通りの女たち(街娼)」に対する一斉取り締まりが実施された。「職業女性」

を性病感染源と捉えた米軍当局の要請によるものだった。

基地周辺の歓楽街とは異なり、RCCという名称の、米軍公認の「帰還休養施設」

も設置された。米軍がやみくもに設置したRCCは、日本国民の情緒を考慮せず

不興を買っていた。1952年5月には奈良市の平城京跡地に、米軍の幕舎、倉庫、

PXや食堂などが増築された。基地周辺の歓楽街が抱えたさまざまな問題の内、

RCCはその周辺で進む集落の遊郭化によって、子どもたちに及ぼす影響と関連して

特に問題となった。

朝鮮戦争の期間に進んだ基地化の現実を日本国民一般が直接皮膚で感じるように

なったのは、このように基地周辺が歓楽街になっていく問題を通してのことだった。

岩国市の次のような事例は、いわゆる「情操防波堤論/公制度擁護論」の立場から

出てくるもので、「通りの女性たち」がいなくなれば、「良家の子女たち」、

すなわち「日本人の貞操」が脅かされるというものだった。

「基地国家」日本で展開された「平和運動」に「純潔な存在としての民族」

という右翼的な精神性が、反米主義の情緒として流れていたことも注目する

必要がある。


p155  武器産業の復活

🦊  本文によると「朝鮮戦争の勃発は日本経済に起死回生をもたらした。

当時、経団連会長だった石川一郎は、朝鮮戦争が勃発すると、これを(天佑)

と表現し、日本を天が助けてくれたものと受け止めた」

朝鮮戦争特別需要が発生した5年間の主要物資契約高の推移

を見てみると、表3-3に見られるように1952年から武器関連

契約が首位を占めることになった。特需開始後5年間の全期間

を通じ、武器関連物品の累計額は1億4849万ドルで、1億438万ドル

の石炭、3370万ドルの麻袋、3110万ドルの自動車部品、2956万ドル

の綿布などを抑えて、物資需要の首位だった。朝鮮戦争が及ぼした

影響の中での、武器産業の復活とこれをめぐる日米経済協力の強化は、

最も注目に値する帰結のうちの一つだった。

旧軍需工場の活用は、すでに1945年10月頃から始まってはいたが、

敗戦直後の混乱期にあった状況で、施設の活用を希望する業者は

ほとんどなかった。したがって、朝鮮戦争の勃発直前までは、

工作機械などを中心に民間へ払い下げる場合が無くはなかったが、

大部分はフィリピンと中国、英連邦諸国に対する中間賠償品目

に指定され、約20%が撤去された状態だった。しかし、朝鮮戦争

勃発と同時に旧軍用施設の活用を要望する意見が提起され始め、

特に武器が特別需要として発注されてからは、産業界がその払い

下げをめぐって積極的な動きを見せ、旧軍需工場の活用問題は

焦眉の急の関心事となった。

1951年度には呉海軍工廠など、5つの軍需工場が再稼働し、

1952年に入ってわずか3ヵ月という短い期間に、大阪陸軍工廠の

播磨製造所など、5つの主要軍需工場が再び門を開いた。大部分は

一部施設の貸与を受けた一時使用だったが、形式的にであれ、

「民需産業への転換」という体裁を帯びて稼働されていた。


p156  財界の動き

こうした変化に応じ、日本財界の動きもまた活発になった。1952年

8月、経団連はダレス国務長官顧問の訪日直後に設置した「日米経済

提携懇談会」を「日米経済協力懇談会」に拡大・発展させ、その傘下

に「防衛生産委員会」を設置して「特需発注の計画化に関する基礎的

調査」を実施しながら、武器関連産業の復活を目標に活動を開始した。

防衛生産委員会のほかにも、武器特需に関連して活動していた団体と

しては、「兵器生産協力会」と「特需商社懇談会」、「兵器生産懇談会」、

「関西特需協力会」「中部重工業懇談会」などがあった。

1952年3月、GHQがこれまで武器生産を禁止してきた「武器ならびに

航空機生産制限に関する件」を緩和、改訂すると、5月にはすでに迫撃砲

528門の特需が発註された。こうした過程で米軍の発注した大量の武器

特需は、この間PD(軍や公的機関からの調達要求書)工場に制限されていた

武器製造を民間工場に拡大した。結局この措置は戦後に温存された日本

の潜在的な軍需物資生産力を復元させる契機となった。米国は、この時期

に賠償徴発の対象から除外した施設の72%に武器生産能力が備わっていると

みなしており、そのうち80%〜90%は即刻実用化できるものだった。

たとえば、戦時に最大の軍用航空機生産を誇った三菱重工は、特殊専用機械を

分割されない状態でそっくりそのまま保有しており、戦時に雇用された技術者

600人も残っていた。また、旧中島航空機(のちの富士重工業、現SUBARU)も、

戦時に稼働した特殊設備の3分の2が稼働可能な状態にあり、500人の技術者も

有していた。「兵器生産協力会」の調査によると、1952年現在、主要武器生産工場

は合計119社に達した。1953年9月1日には、将来予想される軍事部門の需要に対応

するために「武器等製造法」が施行された、

武器生産再開に伴い、企業系列の再編成の動きが活発になり、敗戦以降息を潜めていた

旧財閥が1953年に入ると立て続けに再結集に踏み切り、武器生産部門における独寡占

構造が復活した。旧中島航空機系列4社の合併で富士重工業が設立され、「理研コンツエルン」

系列11社の統合、旧三菱重工系列3社の合併などがこの時期に行われた。特に三菱重工

系列の代表者は、経団連防衛生産委員会の要職を独占しており、この委員会はちまたで

「三菱機関」とも呼ばれた。この委員会が1953年3月に立案した「防衛力整備に関する

試案」、いわゆる「経団連再軍備案」によると、この先6年間の艦船建造22万4100トンの

うち、三菱の3つの造船所が4万7000トンを占めて首位を取り、航空機部門では年生産

975機のうち364機を占めた。また住友系列は、関西地方に武器生産の独占構造創出を

図り、住友金属を中心に、小倉製鋼、小松製作所、大阪金属、大阪チタニウム、関東特殊

製鋼などの系列会社を編成した。三井系列もまた、日本製鋼所が赤羽工場で調達生産を

開始したのをはじめとして、1953年には傘下の山陽化工が神戸製鋼を中心とする

「瀬戸内海グループ」に参加した。

先に述べた武器とは、銃砲弾、砲、発射火薬など、完全な武器と部品の他に、爆撃機

から投下する羽根付き弾や落下傘、照明弾、ナパーム弾タンクなどを含んだものである。

また、これとは別個に、米大使館と日本銀行では「広義の武器」を別途設定・集計している。

広義の武器とは、右の一般的な武器に加えて、補助燃料タンクをはじめとした一切の

航空機部品、火薬類、装甲車部品、光学機器、武器検査機、ボートなどの物資を総括して

おり、役務提供部門においても武器修理はもちろん、航空機、自動車、船舶の修理一切を

含んでいた。航空機関連で最大の発注に数えられるのは、1952年7月、昭和飛行機に

軽飛行連絡機の分解修理を発注したものだった。1953年から1954年までは、F-86戦闘機

とT-33練習機の機体ならびにエンジン分解修理を発注し、ジェット機関連の最初の発注を

記録した。受注企業は三菱重工と川崎航空機だった。こうした分解・修理・部品生産の

段階を経て、1956年には初めて完成機であるLM-1連絡機27機が富士重工業に発注された。

これは戦後最初の完成機生産であり、航空機産業復活の出発点となった。



p160      武器特需の効果

朝鮮特需は有力な市場を日本経済に提供し、慢性的なドル不足を解消する上で大きな役悪を

果たしたのはもちろん、日米安全保障体制の経済的な基礎である日米経済協力の基礎を

用意した。その過程には、米国の対日政策転換に迅速に応じた日本財界の動きがあった。

しかし何よりも重要なのは、「特需」が日本の潜在的な軍需生産能力を復元する効果を

生んだという事実である。(以下略)


🦊  道半ばで老人はくたびれてきた。そこで、南基正の論文の核心に触れておこう。

明治に戻りたい右翼や、軍国主義政治家や、ロマンチックな民主主義啓蒙家の軌跡にも

興味があるが、それは別のブログにまとめたい。


p411   朝鮮半島休戦態勢の耐性と日本

(2018年4月27日、韓国の文在寅大統領と、北朝鮮労働党委員長金正恩が、板門店に

会し、非核化と平和に向けて協議をした結果、板門店宣言が発表された)

板門店宣言の発表された2018年4月27日は、朝鮮半島が最も休戦体制の解体に近づいた

日であり、朝鮮半島に住む人々が最も確実に平和への希望を抱いた日である。板門店宣言

の発表直後に行われた複数の世論調査で、文在寅(ムンジェイン)大統領の国政遂行評価は

70%を超えており、特に板門店宣言については保守層を含めた80%以上の国民が支持

していた。周辺諸国も基本的に板門店宣言を歓迎していた。前年、戦争の危機が現実化

した中、国民の危機感と疲労度が極限に達していたこと、そして戦争の再発が朝鮮半島

周辺のどの国にとっても他人事ではない構造が背景にあった。この時、東北アジアの

指導者たちは、何としても戦争は避けなければならないとの思いを共有していた。しかし

その思いには濃淡があった。

その思いが最も薄かったのは当時の安倍晋三首相である。安倍首相には、危機が

迫る中での偶発的な衝突がもたらす破壊的な結果への想像力が足りなかったように

思われる。むしろ、その流れ(板門店宣言の成功)を好ましくないと思っていたように

思われるのだ。2017年の危機をかろうじて回避し、2018年に始まった朝鮮半島平和

プロセスへの安倍首相の態度は冷淡だった。時にはあからさまにネガティヴでもあった。

それはなぜか。朝鮮戦争が終焉し、その休戦体制のもとに成立し東北アジア休戦体制

が解体されると、朝鮮戦争に基地国家として組み込まれた日本の存在も意味を無くし、

その役割も終焉する。たとえば朝鮮半島平和プロセスの中で議論の的になっていた朝鮮

国連軍後方司令部の問題が、こうした事情を反映していた。そのようなことが予想

される中で、安倍首相と日本政府は「脱基地国家」のあり方を想像し、転換を準備する

ことが出来なかったのである。日本政府は東北アジア休戦体制の維持に「基地国家」

としての存続を賭けていた。2018年以後、朝鮮半島を中心に展開した東北アジア

国際政治の中で日本が見せた行動は、本書の主張である「日本=基地国家」論を逆の

方向から正当化した。そして改めて、そのことが持つ問題点を明らかにしたように

思われる。

一方で、2010年代以降、朝鮮半島とこれを取り巻く東北アジアには戦争と休戦の

体制が基本構造として定着した。そして、その対立の前線も米ソ間ではなく、

基本的には米中間にあったと言える。1972年(沖縄返還、日中国交回復など)に

この状況は劇的に変化したが、2010年に中国のGDPが日本を上回り、日中関係が

悪化し始めたのと機を一にして、米中関係がにわかに緊張した。

その後、米中戦略競争が激化する中、北朝鮮の核・ミサイル能力が高度化し、

朝鮮半島休戦体制の本質が再浮上することによって戦争の機運が高まった。

2017年に戦争の危機を乗り越えたあと、(板門店宣言=2018年に、停戦から終戦に

持っていくことを目指して、文在寅韓国大統領と金正恩北鮮労働党委員長の間で

結ばれた平和構想)朝鮮半島レベルで平和プロセスが展開される一方で、東北アジア

レベルでは日韓関係が極度に悪化したことが新たな問題を提起した。朝鮮半島に

おける国際政治において、日本というファクターがどのように作用しているかに

ついて、解明する必要があったのである。

シンガポールとハノイを経ながら朝鮮半島平和プロセスが失速していく過程は、

東北アジア冷戦および朝鮮半島休戦体制の耐性を確認する過程でもあった。

また、その過程においては、朝鮮半島平和プロセスに対する速度調整を要求する

(🦊  ジャマする?)日本がこの体制に深く根ざしていることも確認された。

それは、表面的には歴史戦として展開したが、その内容は安全保障をめぐる

地政学的対立だった。

以下、朝鮮半島休戦体制の解体を試みた文正寅政権の平和プロセスに対する

日本の対応を追跡することから始めなければならない。

韓国の政権交代によって登場した尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権の主導による

日韓関係の改善が、朝鮮半島休戦体制の強化に繋がっている構造を確認する

ことで、「日本=基地国家」論の持つ意味が明らかになるだろう。


p433   朝鮮半島危機の構造、休戦の実体

2017年、朝鮮半島は戦争寸前の状態だった。それは2015年の4月以後、朝鮮半島

の空を戦争の暗雲が覆う「4月の危機」が恒例化したことに端を発しており、

北朝鮮の核・ミサイル問題をめぐって南北および米朝間の緊張が高まる中,毎年

4月に米韓合同軍事演習が行われることに関連する。2016年1月、北朝鮮は

4回目の核実験を行い、2月には光明星4号を打ち上げた。これに対応するため、

当時の朴槿恵(パク・クネ)政権は終末期高高度防衛ミサイル「サード」の配備

に踏み切る姿勢を示し、開場(ケソン)工業団地の稼働を中断した。さらに

朴大統領は、北朝鮮の体制崩壊にも言及した。3月に入り、国連では7回目の

北朝鮮制裁決議案を採択し、歴代最大規模の米韓軍事演習が始まった。

演習にはB52爆撃機とF22戦闘機、原子力潜水艦など最先端の戦略兵器が動員

され、北朝鮮に対する占領作戦と斬首作戦も含まれた。これに対して北朝鮮は

激しく反発し、「先制的な正義の作戦遂行」の一時的打撃のターゲットとして

青瓦台を挙げた。さらに金正恩委員長は、核弾頭を任意の時間に発射できるよう、

万全の準備をする必要があると述べた。

韓国と米国がサード配備に向けて議論を始めると、中国は、空軍の爆撃機を

飛ばしてサード基地を破壊する用意があると反発し、「朝鮮半島で混乱や戦争が

起こった場合、恐れずに相対しなければならない」と緊張を高めた。

7月に北朝鮮は5回目の核実験で応じた。これに対し韓国では、韓国製のミサイル

防御システム(KAMD)、先制攻撃能力の導入に向けた議論が高まり、更に当時の

保守党であるセヌリ党の中からは核保有や戦術核の最配置も必要だとする主張

も出るようになった。くわえて、国連は更なる対北朝鮮制裁決議を採択した。

このような経緯によって、挑発と制裁の悪循環が構造化したのである。

[中略)

2018年、金委員長による新年の辞と、p北朝鮮の平昌(ピョチャン)オリンピック

への参加は、この流れからすれば急旋回だった。

オリンピック後に訪米した韓国の特使団に託した文在寅大統領の南北首脳会談の

よびかけに、金委員長が応じ、その報告を受けてトランプ大統領が金委員長との

首脳会談に応じると答えた。そして4月27日、歴史的な南北首脳会談が板門店で

開催された、板門店宣言には「終戦宣言」が目標として設定された。また、宣言

には寸断されたままの鉄道と道路をつなげることが盛られた。繋がった鉄道と

道路が東北アジアの地図を新しく書き換え、東北アジアに戦争の危機を植え付けた

朝鮮半島休戦体制を改め、板門店体制と呼ぶべき秩序の構築が謳われたのである。


p436   朝鮮半島平和プロセスの経緯

「日韓1965体制」とは、歴史清算と安全保障の交換関係を基本構造とする。その背後には、

「休戦という名の戦争」を戦う韓国と後方基地日本を結合させようとする米国の強い

意思が働いていた。朝鮮半島の分断と対立は恒常化し、周期的に戦争直前の危機が作り

出され、これに対応する形で権威主義体制が硬直化した。光州における市民の蜂起は、

この体制への異議の申し立てだった。

国家暴力の前に一旦は鎮まったが、1980年代を通じて抵抗は続き、ついには1987年に

民主化革命を迎えることができたのである。光州民主抗争の過程で独裁と分断克服の二重

課題が提起され、1987年の民主化の熱気は統一への熱望として噴出した。1988年の

7・7宣言を発端とする「北方政策」のもと、朝鮮半島休戦体制解体の試みがこのとき

始まったのだ。

しかし、米朝の間で交渉の場が設けられることはなく、日朝交渉も決裂したことで、

この試みは挫折した。問題は空白になっている米朝問題である。2018年2月に

平昌で始まった朝鮮半島平和プロセスは3度目の試みだったが、これが米朝交渉として

展開したのは当然の結果だった。

平昌での雪解けは、トランプ大統領が金正恩委員長との会談を受け入れたことにより

弾みがつき、板門店宣言を経てシンガポール米朝首脳会談へと進んでいった。しかし、

今度は日本が問題だった。韓国で進歩政権が誕生した反面、安倍政権の歴史認識が

後退する中、日韓の歴史和解プロセスが停滞したのである。朝鮮半島平和プロセスに

出遅れた日本政府は、その年の10月に韓国で「元徴用工」/「強制動員」問題に

関する大法院判決が出たことに対して、これに即座に外務大臣談話を出して「国際法

違反」と非難し、朝鮮半島平和プロセスに進む文在寅政権を牽制した。

しかし、朝鮮半島平和プロセスをめぐる日韓両政府の相互不信は、もっと早い時期から

はじまり、すでに両政府間に深い溝を作っていた。平昌オリンピックの開会式は朝鮮半島

平和プロセスの開始を世界にアピールするイベントでもあった。しかし安倍首相の反応は

冷たかった。2月9日の、開会式を控えた7日には東京でマイク・ペンス副大統領と

共同声明を出し、北朝鮮の「微笑み外交」に目を奪われてはならず、北朝鮮には「最大限の

圧力」をかけていくべきだと強調した。このようにして安倍首相は平昌で盛り上がりを

見せていた和解ムードを牽制した。平昌での日韓首脳会議で、安倍首相がオリンピック終了後

の米韓軍事演習の再開を要求し、これに対して文在寅大統領が「内政干渉」と突き放したのは、

この後の日韓関係を象徴する予兆的な場面である。北朝鮮への「最大限の圧力」が必要と

考える安倍首相と、オリンピックを平和プロセスの開始と位置付けていた文在寅大統領との

亀裂が確認された瞬間である。

このような文在寅政権への日本側の疑念は、2917年5月に刊行された政策提言書「提言

日米同盟を組み直す」にすでに表れていた。この提言書で筆者らは、韓国に対する日本の

政策は次のようなものであるべきだと結論づけていた。第一に、文在寅政権に対して2015年

合意の履行を継続的に要求すること、そのために日韓関係が冷え込んでも構わないという

ことだった。そして、文在寅政権が過度に北朝鮮との関係改善に乗り出す場合、米国と共に

日本が牽制すべきであるというのが第二の結論だった。2017年末から2018年初頭にかけて

の事態は、この提言書が実行に移される最初のきっかけとなったのである。

かつて金日成による朝鮮戦争を承認し、指導した国であるロシアは、朝鮮戦争を終わらせる

責任を負う。プーチン大統領は、米朝間の戦争間近の雰囲気の中で、トランプ大統領に

金日成との会談を促していた。その意味で、ロシアは朝鮮半島に訪れていた2018年春の

隠れた立て役者だった。他方、日本は朝鮮戦争における後方基地として、戦争を戦う米国を

支援した。米国の公式戦史に記されているように、日本は「後方支援の要塞」であり、米国は

日本無しには戦争を遂行できなかった。日本は朝鮮戦争の真っ只中、サンフランシスコ講和

条約を締結して独立したが、それは戦争に繋がる米軍基地を抱えてのことであり、その意味で

日本は朝鮮半島休戦体制にしっかりと組み込まれていた。本書ではその実態と意味を解明する

ことに努めた。


p441   蚊帳の外からの安倍外交

2018年3月8日、トランプ大統領が金正恩に会うと述べたことは安倍首相に衝撃を与えたと

おもわれる。平昌における南北鮮和解ムードを様子見していた安倍首相は、いよいよこれに

対抗しようとした。ここから、終戦宣言を目指して朝鮮半島平和プロセスを推進する韓国政府の

「和平外交」に対し、朝鮮半島での現状維持を目指す日本政府の全方位的な「対峙外交」が

開始された。安倍首相は早速、3月9日朝、トランプ大統領と電話会談を行い、CVID(完全、

検証可能かつ不可逆的な非核化)に向けて「最大限の圧力」をかけ続けることを強調すると

ともに、拉致問題の解決に向けて協力を要請した。この時期の日本の対ホワイトハウス外交に

おける窓口の役割を果たしていたジョン・ボルトンの回顧録によれば、

ボルトンは、金正恩委員長との首脳会談がもたらす恍惚感に囚われ迷走するトランプ大統領の

外交を現実の近くに縛り付ける重い鍵(a heavy  metal chain)のような存在として安倍首相を

評価していた。ボルトンは、金正恩・トランプ首脳会議は韓国の作品であり、「外交的ダンス」

を牽制することを自分の任務とした。4月12日、ボルトンは韓国の鄭義溶(チョン・ウイヨン)

国家安保室長に会い、4月27日の南北首脳会談で非核化の議題を避けるよう要求した。

同日午前、ボルトンは谷内正太郎(ヤチ・ショウタロウ)国家安全保障局長に会い、日本の立場を

確認した。日本は韓国と「180度」異なる立場にあり、これはボルトンの立場と「ほぼ同じ」

だったと評価している。谷内は、日本人拉致問題にも言及し、その後、日本人拉致問題は米朝

首脳会談におけるもう一つの議題となった。4月12日、ボルトンと谷内の会談は、「すべての事

がひっくり返ることを望んでいた」ボルトンと日本が意気投合した瞬間だった。

(2019年、ベトナムのハノイで米韓首脳会談行われたが、結果は「破談」に終わった。

安倍首相はその前後に米首脳部に電話攻勢をかけ、文在寅の平和構想に耳を貸さないよう

説得し続け、ついでに拉致問題に目を向けるよう仕向けた。ボルトンは、文在寅大統領が、

1965年の基本条約を覆そうとしていると理解していた。そして、この条約の目的を、

1905年から1945年までの日本の朝鮮半島植民地支配に由来する韓国民の敵意に

終止符を打つものだと(日本の観点から)説明し、トランプがこの「長広舌」を途中で

切り捨てたことについて、これで良かったと評価している。


p 445   韓国の政権交代と休戦体制の強化

2022年3月の大統領選挙では、尹錫悦(ユン・ソンニョル)候補が薄氷の勝利をおさめ、

前政権が推進した政策を全否定し、圧倒的な軍事力による圧迫こそが「真の平和」を

保障するという圧力政策を取るようになった。

こうして歴史問題を封印し、安全保障協力を進める「歴史・安保」交換構造が復活した。

例えば、千々和泰明の「戦後日本の安全保障」である。この本が出版されたのは2022年

だが、あたかも尹錫悦の出現を予期していたようである。

千々和は「日本と日本にとって重要な朝鮮(少なくともその南部)、台湾が、パワーの

裏付けによって同一陣営によってグリップされているという極東地域秩序」のことを

「極東1905年体制」と呼んだ。すでに台湾を勢力下に置いていた第日本帝国が日露戦争

の勝利によって朝鮮半島を確保し、これで東アジアの力の空白を埋め、秩序が保たれて

いるというのである。ここで「日本の朝鮮・台湾への植民地支配」は「正しかったという

ことにはならないが(中略)当時の国際政治における冷酷な現実」として処理されている。

一方、戦後においてこの体制は日米同盟と米韓同盟によって維持されていると述べ、

これを「米日・米韓同盟」という概念で表現した。

日米同盟と米韓同盟の二つの同盟が実態として一つであり、その起源が1905年にあった

とするこの解釈は、驚くべき事実を明るみに出した。朝鮮半島休戦体制が「極東1905年

体制に起源を置いているということである。そこに朝鮮半島休戦体制にこだわった

安倍首相と「極東1905年体制を作り出した明治の元老たちが繋がるのである。

2022年9月27日における安倍晋三・元首相の国葬思想は、この「極東1905年体制」の

思想を共有している。安倍元首相の葬儀に参列した韓徳寿(ハン・ドクス)首相は会見で

文在寅政権時代に「国際法的に見れば一般的に理解されにくいことが起きたのは事実」と

日本側の認識(🦊条約で決められた一言一句もおろそかにすることは許されず、速やかに

履行すべし、の一点張り)を受け入れた。その日の国葬で、菅義偉首相が伊藤博文の死を

悲しむ山縣有朋の心情になぞらえて弔辞を読み上げていた。山形は主権線と利益線の概念で

構成される日本の地政学(🦊日本はアジア第一のエライ国であり、さらなる発展のために

植民地から搾り取る権利を有し、領土拡張のため戦争を仕掛けるのも正当化される)を創案

した当事者であり、伊藤は大韓帝国の義兵長(義勇軍の指揮官)安重根(アン・ジュングン)に

狙撃されるまでこれを実行した当事者である。国際法は彼らが韓国を飼い慣らす有効な手段

であり、国際法でその侵略的な行動を包んでいた。

菅前首相のこのような発言の背景には、安倍内閣時代からすでに復活の兆しを見せていた

地政学的構想がある。北岡伸一や細谷雄一などの「新しい地政学」グループが代表だが、

彼らの「新しい地政学」において、韓国は排除の対象である。韓国が日本軍「慰安婦」問題

と「徴用工」問題において「自己主張」を展開し、国際規範を逸しているからというのが

その理由だ。北岡は、日本主導の「西太平洋連合」構想を提起したこともある。その連合

構想からも韓国は外されているが、それは韓国が条約・宣言・合意を守らない国であり、

「法の支配」と両立しないというのが理由だ。(中略)

安倍元首相の国葬で滲み出た主権線の思想は、安倍首相(当時)による戦後70年談話の思想

でもあった。そして、2023年3月6日、韓国政府によって大法院判決への解決策が提示され、

日韓関係の修復と日米韓安保協力の緊密化が可視化されると、朝鮮半島有事の際の日本の

役割に関して、日本が米韓連合司令部の意思決定過程にアクターとして参加すべきだという

主張が出た。「極東1905年体制」の思想は、「日韓1965年体制に連なり、それは朝鮮半島

休戦体制の思想を成していたと言えるだろう。



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🦊  戦後の学校教育の現場では、日本は民主主義の国であり、財閥は「解体」されており、

軍隊のグの字もナシ、海外侵略など頭のどこにも無しの優等生国家であるとのウソが

教え込まれてきた。キツネも知らないことが色々あるが、この本で大分勉強させてもらった。

戦後も戦前も、一続きの「明治保守政権」の継承に過ぎず、権勢欲と金の欲が今また「令和」

の議会政治を押し流してゆく。やってられんわー。