はたちの時代ーー重信房子自伝


はたちの時代ーー60年代と私


重信房子  著           2023年   太田出版  刊


🦊皆さん、「よど号事件」を覚えてますか。まずはその辺から彼女の

話を聞きましょう。


p332    よど号ハイジャック作戦

全体には明らかにされませんでしたが、(赤軍派)長征軍を塩見、田宮さん

で直接指導し、国際根拠地建設のための日本脱出作戦が、すべて当面の要

となって行きました。塩見さんも田宮さんも、その脱出作戦に加わる考え

でいました。京都大学の小俣さんが通訳となって69年にはキューバの

在日大使館にも働きかけたりしたようでした。のちにPFLPと交流のある

キューバの友人が、69年から70年に赤軍派からの要請で、話を自分が

聞いたことがあると言っていました。赤軍派はとても積極的だったが、

革命を焦り過ぎていると感じたと言っていました。彼等にしてみれば、

キューバは実際に世界の革命勢力の国際根拠地として、その役割を既に

果たしており、客観的物質的条件のないところで、赤軍派から世界党、

世界赤軍と言われても、戸惑ったことでしょう。

塩見さんの歴史認識や革命論のひらめきは、新しい視座を開くものが

ありました。私や赤軍派の仲間たちは、そこに魅力を感じて結集して

いましたが、その思いつきが現実の作戦となると、緻密性に欠けて

いました。その分、人間性も社会性にも欠けて、政治的にも共感の

得られないまま、そこを決意で乗り越えようと、周りに求める形に

なります。彼が信頼する長征軍の人たちも、「塩見の要求を満たし

たいけど、無理ばっかり」と言うのが実情だったのです。

武器奪取がうまくいかず、長征軍隊長の前田さんは次の手として、

社学同(社会主義学生同盟)の中央大学時代の友人のAさんの協力を

得て、日本刀と短剣を入手しました。Aさんの友人が、ヤクザから

随分値段を吹っかけられて入手したようです。また、資金調達が必要

だとして、ロシア革命のためにスターリンも銀行強盗をやったとし、

革命のために手段を正当化する風潮もありました。その発想の影響は、

私自身、後々まで持ち続けました。「赤軍心得」に反するという

批判が出たり、そのうち部隊の人が逮捕されたり、森、上原さんらの

作戦不参加が出されたりと、長征隊長の前田さん自身も塩見計画には

重荷だと、疑問を持ち始めていたようです。

長征軍には「初志貫徹」の小西さんも居ました。小西さんは東京大学

医学部に入った頃、いつも一番前で授業第一に通い、左翼や全共闘

(全学共闘会議)などが授業まえに、教室に演説に来ると、「授業の邪魔

をするな」と追い出す学生で、「苦虫」という仇名だったと本人が私に

話していました。医学部問題で真面目に考え始めている時、大学当局が

処分や機動隊導入で対処したことに怒り、活動に加わることになった

とのことです。小西さんは「7・6事件」の後に「話を聞かせてくれ」と

関東学院大学に乗り込んで来て以来、赤軍派の活動に加わっていました。

決断は慎重ですが、決定したら初志完徹の人なのです。塩見、田宮さんに

とっては心強い同志だったでしょう。

塩見、田宮さんの不退転の国際根拠地作りのための脱出、ハイジャック

作戦が固まるにつれて、武器、金、人の準備を急いでいました。キューバ

なら、飛行機が着陸したら渋々でも受け入れてくれるだろうが、飛行機が

日本から飛んでいくには給油が必要です。ソ連や中国は大国で、相手にも

されないかもしれないし、反米戦争当事国である点で、朝鮮民主主義人民

共和国が妥当だろうし、朝鮮からキューバに行くことも考えられるなど、

塩見さんらは、軍指導部の間で希望的観測で決断したようです。こうした事は、

2月下旬から3月初めに固まり、結局武器は日本刀で資金は出発するそれぞれが、

家族や友人から多額のカンパを引き出すことに決めたようです。

この頃、非軍事的な政治局の書記機能は、山田孝さんと私が担い、出版、救援

に加え、4月1日に「日本革命戦線結成大会」を日比谷公会堂を借りて行う準備

をしていました。

大衆路線の重要性は、一連の69年の敗北から教訓化し、革命戦線の拡大を再び

目指していました。3月13日の「全関西革命戦線決起集会」の後、私が大阪から

京都へ戻ったところ、塩見さんが、長征隊隊長の前田さんとタクシーで移動中、

逮捕されたと連絡が入りました。3月15日のことです。

この時点では、既に作戦準備に入っていたようです。後の報道や裁判などで知った

ことですが、ボーイング727機の継続飛行距離が2000kmあるというので、

3月16日に模擬演習し、20日に集結して、羽田空港便からのハイジャックを

21日に決行する予定だったようです

3月13日の「全関西革命戦線決起集会」の後、私が大阪から京都へ戻った

ところ、塩見さんが、長征隊隊長の前田さんとタクシーで移動中、逮捕された

と連絡が入りました。3月15日のことです。

この時点では既に作戦準備に入っていたようです。後の報道や裁判などで

知ったことですが、ボーイング727型機の継続飛行距離が2000kmあると

いうので、3月16日に模擬演習し、20日に集結して、羽田航空便からの

ハイジャックを、21日に決行する予定だったようです。

(公安当局は、二人の出入りしていたアジトを張り込んでいたようです)。

アジトから出てタクシーに乗り、信号で車が停止した時、追跡してきた

刑事らの職務質問にあったのでした。塩見さんは、車を降りて走って

逃げたが、結局二人とも逮捕されてしまったのです。塩見さんの容疑は、

10・21闘争の準備に東京薬科大学へ鉄パイプを運ぶよう指示したことなど、

前田さんはピース缶(タバコの容器)爆弾の隠匿など、二人とも「爆発物

取締法違反」で逮捕されてしまいました。

逮捕後も、残った軍事部門の田宮さんらは、塩見さんなしに作戦を

行うのか、塩見奪還作戦はどうかなど作戦の見直しか続行かを検討し、

模擬演習を続行しつつ作戦続行を決定します。しかし、長征軍で作戦にも

関わってきた京都大学の森さんと現思研(現代思想研究会)の上原さんが、

朝鮮行きは意味がないこと、塩見逮捕後、もっと抜本的な立て直しが必要で、

ハイジャックを強行するなら参加しないことを最終的に田宮さんに告げ、

作戦から撤退してしまいました。田宮さんは計画から撤退する二人に

怒りはあったかもしれませんが、敵対的措置をとるような振る舞いはして

いません。何といっても仲間だからです。後の連合赤軍とは全く違って

います。

こうして、田宮さんらと残った作戦参加部隊の9人は、3月28日に作戦を

決行します。ところが、田宮組と小西組、岡本組などに分かれて搭乗する

予定が、羽田から飛行機に乗り込んだのは、田宮組と岡本組の一部だけだった

のです。田宮さんはこの時初めて飛行機に乗ったので、予定の半分の人員で

作戦を決行するか迷い、決行地点の名古屋上空まで迷いつつ、結局立ち上がらず、

作戦を行わない事にしたそうです。

福岡に着いて東京に問い合わせると、小西組もまた飛行機に乗った経験者がおらず、

列車に飛び乗るように最後の駆け込み乗機の方が、検査されないだろうと考えて、

ギリギリに到着したため、チェックインが終了し乗れなかったことがわかりました。

岡本組の阿部さんも同様に乗り遅れました。早まらなくてよかったと、東京に戻り

作戦を再度練り上げ、この時の乗機が予行演習となり、作戦部隊は勝利を確信した

のでした。

70年3月31日、羽田発福岡行きの日航機351便「よど号」ボーイング727型機が予定

より10分ほど遅れて御前7時21分に離陸すると、赤軍派にハイジャックされることに

なりました。乗客は131人、石田機長以下乗務員は7名で満席状態でした。

離陸して約10分後、水平飛行に移った時「ベルトを外してください」というアナウンス

の後が、チャンスだと決めていたようです。神奈川の座間空域を過ぎたところで、

9人は一斉に行動を起こしました。当時の新聞によれば、田宮さんは左手にモデル

ガン、右手に短刀、腹には登山ナイフ、他の8名も日本刀、短刀、鉄パイプなどの

武器を持って操縦室と機内を制圧しました。石田機長によれば、「よど号」には

3万5000ポンドの燃料を積んでいて、(目的地までの燃料の他、目的地に降り

られない場合の代替空港への燃料など規定により積んでいた)、赤軍派の「朝鮮

ピョンヤンへ行け」という要求を満たす量の燃料は積んでいましたが、「燃料が

足りない」と言うと、赤軍派は専門知識を持っていなかったようで、福岡(空港)へ

着陸給油することに同意したそうです。

こうして午前9時ごろ、福岡空港に着陸し、機動隊の包囲の中で政府側の説得、

引き伸ばしを拒否しつつ、赤軍派は幼児、女性ら23人の釈放に応じています。

釈放した最後の乗客がタラップを降り切った時、待機していた機動隊が駆け上がっ

ていったので、慌ててハッチをしめさせて、危機一髪、機動隊を振り切ったのです。

その後「よど号」は、午後1時15分、福岡空港を離陸して北朝鮮のピョンヤンに

向けて出発しました。

日米両政府は、福岡空港での投降説得に失敗すると、日米安保条約ばかりか、米韓

安保体制も動員して、この「よど号」機を韓国側へと誘導して、作戦を失敗させよう

と動き出していました。もちろん、こうした動きは秘密裏に進行していきました。

石田機長は、戦時中、朝鮮半島上空を飛んだ経験があり、日本政府が作戦部隊側要求

で差し入れた貧弱な地図でも目印の島があるので、有視界飛行でピョンヤンに行く事

を決意したそうです。

「よど号」機は、日本政府から福岡空港で、周波数を国際緊急通信波の121・5メガ

サイクルで交信するよう指示されていたようです。そして機長は、38度線を超える

直前に121・5メガサイクルの周波数をやめて、131・1メガサイクルで交信するよう

指示されたとのことです。これが韓国軍のコールサインの周波数だと判るのは、後の

ことです。指定された131・1メガサイクル合わせると、「こちらピョンヤン、この

周波数はピョンヤン進入の管制電波である」と英語で「よど号」機にコールして

きました。そのコールに従って着陸しました。3月31日午後3時18分のことです。

しかしそこは北朝鮮ピョンヤンではなく、韓国の金浦空港だったのです。敵も慌てて

準備したため、うまく対応できず、米軍機も遠くに駐機していたり、空港近くでテニス

をやっている人々を乗客でも見つける状態だったようです。空港内に、共和国国旗も無く、

赤軍派の者たちも疑いを持ち、ここは韓国で朝鮮ではないと見破ってしまったのです。

よど号の田宮さんらは「ようこそ歓迎します」と日本語で話しかけてきた代表に、

「金日成首相の肖像画を持ってきて欲しい」と要求しましたが、それ以来戻ってこなかった

とのことです。コックピットから小西さんが身を乗り出してそばに居た兵士に「ここは

ソウルか」と聞くと、「イエスソウル」と答えた後、「ピョンヤン、ピョンヤン」と訂正

するなど、敵もドタバタです。

この偽装がバレると、今度は「よど号」機を金浦空港から飛び立たせまいと、あれこれ

の手を日米韓政府は使いますが、交渉は長引くばかりです。3日にわたる田宮さんらと

日本政府交渉を繰り返し、乗客99人とスチュワーデス4人の代わりに、当時の運輸政務

次官だった山村新治郎氏が乗り込んで人質となることで合意が成立します。

こうして4月3日午後6時5分、乗客ら全員を釈放して、「よど号」機は、金浦空港から

ピョンヤンに向けて飛び立ちました。日本中をテレビの前に釘付けにした日本初の

ハイジャック作戦は、日米韓政府の介入というドラマのうえで、乗客乗員が全員帰国した

ことで一段落しました。


🦊  この間、地上で後方支援活動を続けていた重信さんの元に、ノートの1枚に田宮さんの

字で書かれた「出発宣言」が、乗客によって密かにもちだされ、届けられた。このことから

わかるように、乗客は概ね若者たちに好意的で、「人質らしくない」協力ぶりだったとか。ー

(朝鮮当局は、赤軍派のピョンヤン滞在を許可し、山村次官や石田機長らを歓待し、人道的

処置による解決に協力しました)


⭕️出発宣言ーー全ての日本プロレタリア諸君、人民諸君、同志諸君!そして全ての革命世界

プロレタリア人民諸君!我々は今、出発せんとしている。ハイジャックで・・・

この時代を領導しようとする我々は、まず自らをこの時代にふさわしい主体に転化し昂め上げ

なければならない。我々は固く信じる。我々が言葉だけでなく、現実的に徹底した「国際主義

者」になりきった時のみ、プロレタリア人民の心を固く捉えるだろうと。ハイジャックはその

出発点である。われわれは、明日羽田を発たんとしている。我々は、かつていかなる闘争の前

にもこれほどまで自信と勇気と確信が内から湧き上がってきたことを知らない。

我々は日本の同志に心から感謝する。この歴史的任務を我々に与えてくれたことを。

日本の同志諸君!プロレタリア人民諸君、全ての政治犯を奪還せよ!前段階式武装蜂起

<相互作用>世界革命戦争万歳!そして最後に確認しよう。我々は“明日のジョー”である。

1970年3月30日  午後10時30分      田宮高麿ーー



p352   深まる弾圧ーーー再逮捕

(前略)

救援連絡センター(🦊重信さんの勤務していた部署。革命戦線の多くの獄中者の救援は

差し入れ、面会、弁護士との討議、公判費用など多岐にわたった)の新聞「救援」4月号、

5月号で「赤軍派」ならば人権を無視して良いのか」という記事に示されるように、

尾行や赤軍派だけ分断して機動隊が暴力を振るい、顔写真を撮り、抗議にリンチ、

逮捕後も弁護士選任をさせないなどの酷いものです。こうした弾圧を、マスコミも

「赤軍罪」と称したものです。

この頃は女性活動家も増えており、二人一組で行動し、一人が尾行を撒く時にうまく

共同したりしています。女性を舐めている刑事もいて、ある仲間の女性が撒くために

パチンコ屋に入り玉を弾いていると、刑事が隣の席に来たので出ようとすると、

「こっちの台、出るから玉やるよ」などと、大量に玉をくれたので貰った、との報告が

ありました。これをきいて、「絶対ダメ。相手は馴れ合いを作ろうとしている。玉を

貰ったりするのは舐められているから、二度としないように」と年下の仲間に注意した

事もあります。



日本委員会の活動は地下化し、次々と逮捕が迫る中、作戦(PBM作戦=塩見議長奪還作戦、

海外根拠地作り、財政、兵站のための作戦)は政治工作よりも国際根拠地を進める考えが

主流となり、動きが難しくなりました。この頃、私は再び逮捕されました。今度は、

大菩薩峠事件(🦊1969.11.5     山梨県甲州市の大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派学生53人が

警察の急襲により逮捕される)の「殺人予備罪」が逮捕の理由です。

この日は5月9日の母の日の前日でした。私は許される条件がある時には、大晦日、正月、

母の日など、普段何もしてあげられない家族、両親に、顔だけは見せようと心がけて

いました。そして会った折には自分の活動について率直に伝えてきたので、家族は反対

しつつも協力的でした。

特に父が「赤軍派の幼稚な思想で、民族も人民も判っていない者が国際主義、国際根拠地

など、うまくいかんだろう」と批判しつつも、自分の信念に沿って生きることは奨励する

という立場だったので、その親心に助けられて、家族は様々に支援してくれました。

母も母なりの考えかたで、心配しつつ「房子が反日共だから、選挙では社会党に投票する」

と、楽天的な人なので、私は助けられていました。

明日は母の日なので、最終電車で2時近くにやっと家につき、姉とおしゃべりをして寝て

から、午前中に母へのプレゼントを買いに街へ出る事にしました。近所の人が、通り道に1台、

町田署の刑事が二人見張っていると教えてくれました。いつものことなので、一人でバス停に

向かおうと家を出ると、100m先に車を停めて見張っていた二人の刑事が車を降りて徒歩で

尾行してきました。どうせ、母の日のプレゼントを買いに行くだけだからと、そのままにして

バス停に向かいました。バス停のところまで来ると、二人の私服刑事が後ろから声をかけて

きました。

「あの〜、ちょっとお尋ねします。あなたは重信房子さんですか?それともお姉様の方です

か?」と聞くので、「どちら様ですか」と聞くと、「町田署の者です」と答えました。

「なぜ、そんなことを聞くのですか」と尋ねると、「あの〜、もし妹さんの房子さんの方

だとすると、実は逮捕状が出ましたので、我々は逮捕するよう警視庁本庁の方から言われて

おります」と大変律儀に、真面目に答えます。一瞬、「いいえ、私は姉です」と振り切って

逃げるべきかと考えましたが、それでは姉たちに迷惑もかかるし、逃げ切れるとも思え

ません。
それで観念して言いました。「私が房子です。でもお願いがあります。私は今

母の日の
プレゼントを買おうと出てきたところで、服も靴も姉のものを拝借して来ました。

姉に迷惑を
かけたくないので、このまま着替えに自宅に戻りましょう。どうぞついて来て

ください」と言って、踵を返して歩き始めました。二人はついて来ました。自宅に戻ると、

家にいた姉に、「逮捕状が出たんですって、捕まるので、姉の服返すからって刑事さんに

言って、戻ってきたところなのよ」というと、「あら!」と姉。

姉は「すみません、少々お待ちください。お茶でも」と言い、わたくしも「服を着替える

ので、外で、ちょっと待っててください」と言い、扉をを閉めて姉に東山さんへのいくつか

の連絡を頼みました。そして、獄中で使う洗面道具の日用品だけを持って、家を出ようと

すると、丁度父が門から入って来ました。「お父さん、また逮捕状が出て捕まっちゃったの。

今度は長い
かもしれないけど心配しないでね。何も悪いことしてるわけじゃないし」と言う

と、父は「そうか、頑張ってこい」と答えました。

町田署に着いて少しすると、顔見知りの本庁公安刑事が駆けつけて来ました。そして、

「一旦家へ帰しちゃダメですよ」などと町田署の刑事を私の目の前で批判していました。

こうして再び菊谷橋署で取り調べが始まりました。既に昨年の11月の初めての逮捕

「4・28凶器準備集合罪」の時に、大菩薩峠事件についてはあれこれ尋問していたもの

です。今回は、大菩薩事件の「殺人予備罪」を口実に、「ヨド号」事件を追及するつもり

です。それでも、塩見さんら逮捕されている人々の供述からも、私がハイジャック作戦に

関与していない事は分かっているはずです。でも「お前のような目立つ奴はいつでも、

こっちが捕えたい時には、こうやって逮捕できるんだ」と、赤軍派特捜班長の高橋刑事は

言っていました。




p374   パレスチナ連帯の夢ーー🦊1970年代に入って

残された赤軍派指導部の間では、論争が始まっていました。獄から出て自分であれこれが

考えていた私は、国際部の「日米同時蜂起」準備にも、労働者国家の国際根拠地化にも

疑問を持ち、打開策を探していました。まずよど号グループとの連絡回復を求めましたが、

その方法が見つかりません。また米国派遣部隊も、どう日本を出発するかメドも立って

いません。・・

赤軍派の路線は、「先進国革命主体論」で、第三世界の革命が抜けていると、友人に借りた

「世界革命情報」誌やサミール・アミン、フランツ・ファノンなどの本を読みながら思い

ました。むしろ抑圧された第三世界人民と帝国主義本国の人民が結び合うことこそ、世界

革命の道だと確信しました。69年と70年、パレスチナは新しい、そして厳しい戦いの

連続のなかにありました。

67年の第三次中東戦争は「6日戦争」と言われるように、イスラエル軍が先制攻撃によって

エジプト、シリア、ヨルダン、イラクなどのアラブ諸國の空軍機を破壊し制空権も奪い、

短期のうちに勝利しました。(中略)


p386   森恒夫さん指導下の赤軍派

71年に入り、堂山さんが離脱したことで、森路線が全面的に主張され始めました。特に

京浜安保共闘との共闘の深まりです。71年1月25日の、共産同赤軍派・日本革命戦線と

日本共産党革命左派神奈川県常任委員会・京浜安保共闘共催の、「蜂起戦争武装闘争

勝利政治集会」の基調報告として提出された論文(「赤軍」特別号に示された内容)です。

この論文が71年の赤軍派の軍事・政治方針となり、連合赤軍を産む内容とも言えます。

🦊(中国共産党の毛沢東思想に基づく持久戦略を高く評価。しかし中国共産党はスターリン

主義を精算しきれず「一国持久戦論」に止まっている限界があるがその限界を克服すべき
pお
道は、世界革命戦争を「世界的持久戦」として戦う事にある。また日本政府の破防法弾圧

や自衛隊の治安出動準備、72年の「沖縄偽返還」を帝国主義の軍事外交の要ととらえて、

そこに向けて決戦を挑む、72年武装蜂起論を表明した。ーー本文より要約)

こうした中で、堂山さん離脱後の中央委員会が開かれました。この中央委員会は、私が

参加した最後の中央委員会でしたが、その冒頭で、森さんを指導者として承認するように

何らかの事が行なわれたのでしょうが、記憶にありません。

森さんが議長報告で、上赤塚交番での銃器奪取闘争で射殺された、京浜安保共闘・革命左派

のリーダーたちと自分の判断で共闘を開始していることを誇らしげに語りました。軍関係の

人たちは感動的に話を聞いていました。森さんは、ブント諸派は口先ばかりだと批判し、

対権力闘争を現実的に命がけで担っていると、革命左派を高く評価し、彼らこそ我々と最も

近しい同志だと語りました。

梅内さんは、指名手配中であるばかりか、赤軍派の仲間の不用意な自供などから、福島医科

大学の仲間も何人も逮捕され苦境にあるのに、冷たい森さんの対応には腹に据えかねていた

のでしょう、森さんの主張を批判し続けました。この梅内さんの批判に、森さんは突然

立ち上がり、「何を言うか!俺が赤軍派を辞めるか、お前が辞めるか、どっちかだ!と

どなりつけました。いつもの温厚な人柄と違って、初めて無頼漢のような振る舞いを見て、

私は驚きました。梅内さんも森さんの剣幕に驚きつつ、「批判を真面目に受け止めろ!」

と言って立ち上がり、一触即発状態になってしまいました。(中略)

森さんは、軍の一元化によるM作戦と、革命左派との共闘の拡大を柱とする国内建軍持久戦

戦略による銃による殲滅戦として、72年沖縄返還蜂起を描いていたと思います。

この方針は、これまでの国際根拠地論の否定です。そして、軍による一元化のために

中央委員会を廃止したようです。私自身は既に海外出発準備に入っていたので、その再編は

知らされていませんでした。たとえ知らされても、反対意見を述べるに留まったでしょう。

新しい森さんのまわりの中心的な人たちは軍の隊長たちで、森さんを信頼し、「オヤジさん」

と慕う者たちです。彼らは経験は浅いけれど真面目な人たちです。しっかり森さんを支えて

いきます。しかしその一方で、老練な国際部のメンバーや、兵站を指揮していた古株の人は

排除され、逮捕されていきます。

森さんが最高指導者に就いて1か月、71年から森構想が動き始めました。私はパレスチナ派遣

体制をととのえる活動、ことに私自身の旅券の入手の情報が漏れれば、別件逮捕で

出国を阻止されるので、慎重に対応していました。

この頃、軍の友人の中から「話を聞いてくれ」と何人かが連絡してきました。

夕暮れの公園のブランコに座って話しながら、「もう赤軍派を辞めようと思う。やっぱり

堂山さんが去ったとき、自分も呼び止められて戻ったが、そのまま辞めるべきだったな。

かつて赤軍規律では「人民のものは針一本盗まない」と言ってたのが、「人民の財産に

手を出すのではない。革命のため、カルロス・マリゲーラやスターリンらも、銀行強盗を

行って来た資金調達だ」って言うけど・・・」と、沈んだ声で話し、「度胸試し」といって、

ひったくりまで言い出すような軍になったと嘆いていました。

「そんな事になっていたのか・・・」と私も一緒にため息をつく事しかできませんでした。


p393    パレスチナへの道

当時はまだ、個人の海外旅行は珍しく、外貨持ち出しも1000ドルと日本円も3万円以上

持ち出せない出国管理の厳しいときです。中東のガイドブックなどは見当たりません。

それでも手探りで準備を続けました。

(中略)

1971年2月28日午前11時半、スイス・エアー機に乗り込み、ベイルートに向けて日本を出発

しました。


p399   パレスチナから見つめる

私は3月1日にベイルート到着以後、アラブ、パレスチナ戦場でPFLPと協同を開始

しました。到着後まもなく、日本発の記事で私のアラブ行きが報道され、クエートの

新聞にも転載されました。(3月15日毎日新聞、「赤軍女リーダー潜入、アラブゲリラと

接触か」)

イスラエルの情報機関はこうした情報に敏感だということをPFLPから教えられた私たち

2人は活動を分担し、私はPFLPの情報センター「アルハダフ」のボランテイアスタッフ

として公然と活動し、奥平さんは軍事訓練を経てパレスチナ・中東地域の革命家たちと

レバノン南部前線で共同生活を開始しました。言葉は不十分でも、文化や習慣が

違っても、帝国主義の植民地支配に抗して闘う者同士、必ず通じ合えるという楽観的な

確信のもと、パレスチナ解放勢力と希望通りの活動を始めていました。

日本人と違って、アラブの人々の垣根の無い親しさが民族性で陽気な人々なので、

ずいぶん助けられました。ここパレスチナの民族解放の観点は、(日本の民族運動とは

違い)抑圧される側の階級性、人民性に貫かれています。抑圧された民族の解放闘争は、

戦いを通して、他民族の困難に共感・連帯する視座があります。

数ヶ月間の見聞で、私と奥平さんは、自分たち赤軍派の観念性を自覚し、武器闘争の

考え方もずいぶん変わりました。パレスチナにおける武装闘争は、当時のパレスチナ

難民キャンプに暮らす民の意志を代表する戦い方であり、どの家族も解放のために

息子、娘たちが参加することを誇りとしていました。強い愛情と支援の中で戦うことは

戦士たちの誇りを育て、犠牲を厭わない戦士をさらに育てていきます。赤軍派だって

自分たちの戦いは、どんな厳しい社会的な批判でも、やり抜く使命感を持って戦って

来たのですが、人民に支えられて戦う姿はうらやましく、眩しいと感じました。

奥平さんはすでに訓練を終えて、前線に配置されていましたが、トルコやチャド、

アラブの国の人々も含め、パレスチナ戦列の多様な義勇兵と暮らしています。

彼は水を得た魚のように、生き生きとして楽しそうです。奥平さんは、

描いていた通りの国際義勇兵の一員として戦いの中にあることをとても喜びながら、

一緒に一時過ごした日本の赤軍派の仲間を早く呼びたいと、話していました。

活動は想定以上に順調で、すでに国際根拠地の萌芽は戦場に形成されており、世界中

から様々な革命・解放組織も支援や学習訓練に来ていました。私たちは国内の赤軍派

本部に人材派遣を要請し、訓練がすぐに可能なことも伝えました。が、それに関する

返事は無く、森さんにはその考えは無いようでした。


p403    統一赤軍結成

7月に塩見さんが獄中から「綱領問題について」と題する論文を提起したとのことです。

その内容は、大衆から自立した革命部隊とこれによる武装闘争蜂起をめざし、客観的条件

よりも主観的条件を重視し、「革命戦争の型は戦争の担い手の主観的要素の如何によって

決まる」「戦争の問題とは人間の問題である」として犠牲を恐れない革命的な集団的英雄

主義、共産主義的精神・規律が戦いの源泉となる」と主張していたとのことです。

とにかく7月の塩見さんの「路線転換」は、ゲリラ路線を提起し、獄外森指導部を支持した

ことで、獄中と獄外の対立矛盾は解消されたようです。

この頃、秋の蜂起に軍事訓練をし帰国するはずだった

「よど号」機で北朝鮮に向かった国際根拠地建設の仲間たちは、71年7月に赤軍派の

路線の過ちを自己批判し、早くも赤軍派路線との訣別を宣言したようです。

71年8月6日付けで赤軍派と京浜安保共闘の党である日本共産党(革命左派)の共同の機関誌

「銃火」が発行されて「7月15日統一赤軍結成」が表明されました。この「銃火」が

後の連合赤軍の軍事論の基本を示していくものです。

「赤軍は、全人民的総蜂起ーー日本革命戦争に勝利から、休むことなく米帝国主義打倒、

ソ連社会主義帝国打倒ーー世界革命戦争へと前進し」と、初めて「ソ連社会帝国主義」と

主張しました。そして「統一された赤軍は、中央軍と人民革命軍の連合軍である・・・

連合軍は、遊撃戦を何よりも展開し、建軍武装闘争によって軍事路線を深める中で、

共産同赤軍派中央委員会と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会はそれぞれの路線を検証し

発展させ、新党結成を勝ち取る覚悟である。尚イデオロギーの問題については、今後整理し

提起することを確認する」としています。

アラブの私たちの元に、革命左派との「統一赤軍」という内容が届いたのはこのビラに

よってです。後の青砥さんの自供によると、赤軍派の革命戦線と京浜安保共闘が大衆的な

政治共闘で知り合って革命左派のMさんが永田洋子(ナガタ・ヒロコ)さんの指示で71年4月

始めに、青砥さんを訪ねてきたことから、両組織の関係が深まったようです。青砥さんから

森さんに連絡を取り、革命左派からの10万円の借金要請と、赤軍派への銃の貸与の話と知り、

直ちに森さんからMに合意の回答をし、金銭を渡したそうです。この後、永田さんは坂口弘

さんと上京し、森さんと協議し資金と武器を補い合い、共同建軍計画までも生まれていった

とのことです。この7月23日、米子の松江相互銀行が銃を持った4人組に襲撃され、600万円

が奪われた事件が発生しています。

これも赤軍派のM作戦で、この銃は、革命左派から譲り受けた2丁の銃が含まれていました。

この米子事件を最後に、軍による資金徴発作戦は終えて、銃奪取に向けた「殲滅戦」を軍は

方針化して行きます。

森さんが見るには、革命左派は軍事的な能動性、攻撃性の欠如があり、これらの問題の原因

を革命左派の掲げる「反米愛國」路線に求め、それが革命戦争を行なっていく上で障害に

なっていると捉えたのである。こうして確認された共同軍事訓練に対する赤軍派の態度は、

「赤軍派が革命左派を指導しようとする立場に基づいたものであった」と植垣さんは述べて

います。失敗の原因を問うと「正しい自分達」は除外し、外因論に陥ります。その結果、

方針では自分達を正当化してしまい、現実と切り結べず願望や「べき論」を述べる傾向が

ありました。違いから学ぶのではなく、許さないあり方、「違い」を「過ち」と同義語に

扱うやり方で、どちらかが支配してゆくのが、新左翼党派の悪しき傾向としてありました。

🦊  1972年3月、連合赤軍の山岳アジトから、粛清、殺害された12人の遺体が発見された。

リンチ被害者の一人である遠山美枝子さんについて、重信さんは次のように記している。

⭕️共同訓練のために新倉(群馬県倉渕町)へ迎え入れた革命左派の人々が、「水筒を持って

こなかった」ことで、その素人のような振る舞いを、赤軍派側が何度も批判しました。この

最初の出会いから不審と競争の論理が生まれて来ます。「水がなくとも頑張る」と革命左派

が答えることで険悪になり永田洋子さんが水筒の件を自己批判して、一旦は収まったよう

です。その後、森さんが革命左派の仲間の離脱問題や大量逮捕問題について、赤軍派のことは

棚上げにして、繰り返し総括を要求したようです。

こうしたことの反動として、革命左派も違いや違和感について批判しています。植垣さんの

文によれば、永田さんから遠山さんに「何で山に来たの?」という問いから始まりました。

永田さんら革命左派の基準に照らして遠山さんの態度や服装が、革命左派の描く「革命家」と

認められない分、追求していきます。

赤軍派にとってはびっくりするようなアプローチだったでしょう。遠山さんは「革命戦争を

更に前進させるために、自ら軍人になり革命戦士になる必要を理解したから山に訓練に来た」

と答えています。

永田さんは遠山さんの指輪を批判し、(この指輪は、私もよく知っていますが、彼女が20歳に

なった時、母親が「活動の中で手元不如意になっても、この指輪を質屋に入れて帰って

来なさい」と遠山さんに贈ったものです)会議中化粧をしたとか、(荒れ止めのリップクリーム

らしい)髪を梳かしたとか、ストーブのところに座って男の同志に司令するだけで、少しも

動こうとしないなどの批判もあり、それらを遠山さんは認めなかったと植垣さんは述べて

います。永田さんが「赤軍派は苦労していないのよ。小屋はあるし食料はあるし・・・。

山の生活はそんな簡単なものじゃない。私たちが何であんな苦労をしてきたか分からない」

と泣いてしまったとのことです。森さんは、こうした革命左派の日常活動の「批判の方法」

に、衝撃を受けたと思います。これが共産主義化の道を作るのではないかと考えたの

でしょう。翌日、赤軍派だけの会議を開き、「遠山さんへの批判は赤軍派全体への批判で

ある」と言い、革命左派の批判にもっと率直に答える遠山さんを批判します。続いて赤軍派の

みんなで「何だ、昨日の態度は!」と森さんに同調し、遠山さんに指輪を外せと非難します。

そして森さんは、革命左派の人たちに遠山さん批判の受け入れを表明し、「我々赤軍派は

遠山さんが総括できるまで山を降りない。山を降りるものは殺すと確認している」と宣言

しました。「遠山問題」は、このように、個々人に問題と責任を負わせ、「共産主義化」

として責任追及してゆくことで、組織を個に解体し続ける出発点となりました。森さんは、

この「遠山問題」で初めて日常生活のあり方の重要性と革命任務を自覚的に結びつけたよう

です。ブントは、路線方針など政治主義的に、その見解の一致を行動の基本としています。

しかし個々人の問題には介入せず、個々人が革命家の自覚を持って恥じない範囲で自由に

過ごそうということでしょう。教条主義ではなく、プチブル的な自由主義であり、寛容とも

言えるし、だらしない組織性で知られています。ところが毛沢東派は、特に「4人組」の時代

でもあり、日常生活のあり方一つ一つの中で、利己主義は無いか、走資派の芽は無いかという

批判的活動と、その追及を受けた自己批判など、告発し追及するスタイルの文化大革命、

思想革命を重視していました。

乗り移るように、森さんは「個の強化論」へーー「強い自分が弱い他者を批判を通じて支援

するーーという方向に、組織形成をすすめたのだと思います。指導部から「弱い」と認定

された遠山さんや行方正明さん、進藤隆三郎さんらは、活動を中断させられて総括要求を

求められ続けます。

1971年12月、赤軍派と革命左派指導部の間で、新党結成が進められて行きます。

そして、新倉ベースに居た赤軍派の者たちに新党が結成されたと告げられました。

連合赤軍党の結成です。

(この時点かもっと前の時点で、私は赤軍派を除名されていたようです)

「新党路線は、共産主義化を通じて勝ち取る。総括が進めば敵が見えてくる

ように」と森さんが述べたとして、新党に結集して全員で総括を勝ち取ろうと

坂東さんが告げたそうです。

中央委員会は委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長が坂口弘、その他

中央委員は序列順に寺岡恒一、坂東國男、山田孝、吉野雅邦の4人であり、

中央委員会のメンバーは計7人です。

そしてこの日、遠山さんらの「弱い者たち」に対する暴力的総括要求が始まり

ました。森さんは持ち前の懲罰主義を「共産主義化」と誤認し、暴力による

非人間的な指令によって、結局12人の仲間を殺害します。革命左派は、新党結成前

にも2人を殺害しているので、14人が殺害されたことになります。こうした社会と

隔絶した山岳での「共産主義化」の戦いは結局包囲されます。幾人かはその中を

頑強に死力を尽くしました。そして最後の仲間が、72年2月19日から2月28日まで

軽井沢「あさま山荘」で最初で最後の銃撃戦を経て新党、連合赤軍は幕を閉じました。

🦊  この粛清事件の第一報が、日本のマスコミから入った。森さんのせいで何かとんでも

無いことが起こったに違いないと、確信した。すぐにバーシム(奥平のアラブ名)に連絡し、

この第一報の後に知った、殺されたのは1人ではなく、十数人に及ぶらしいことも伝えた)

⭕️バーシムは驚愕に目を見開き、今度は彼が泣き崩れました。バーシムは、傍にあった

本を取り上げると号泣を押しとどめるように、滂沱の涙を拭いもせず、以下の同じ箇所を

何度も何度も繰り返し読み続けました。

「隊伍を整えなさい。隊伍とは仲間であります。仲間でない隊伍がうまくいくはずが

ないではありませんか!我々は、隊伍を整えた、全軍は91人と72丁の銃を残すのみと

なった。多くの者が失われたが、残った者は、どのような困難と欠乏にも耐えうる

革命の志に結ばれた一心同体の仲間のみであった」

これは、ちょうど友人が送ってくれた「映画批評」という雑誌に載っていた竹中労さん

の「毛沢東青春残俠伝」の中の、中国革命の長征の苦しい時期の一節です。

この一節をバーシムは、繰り返し、繰り返し暗くなるまで、震える声で何度も読み、

心を鎮めようとしていました。

同士を殺す隊伍には、革命は担えないし、人民を解放する資格もない。同志愛で

結ばれていなければ、困難で命懸けの戦いは長続きしない。それはパレスチナで

学び、日本の母体を失い、一握りの数えるほどの仲間から再出発した私たちの

生々しい実感でした。私とバーシムは、起こった事情も判らないけれど、同志愛と

革命の不可分であることを国内に伝えようと語り合いました。


🦊  重信さんという人は、なかなか話し上手だな、と思わせる。人によっては「人たらし」

という見方もあるらしい。

最近の朝日新聞によれば、(2024・4・12 夕刊)連合赤軍の指導者、森恒夫や永田洋子らが

逮捕直後に遺族たちへ送っていた手紙がこの度公開された。森が遠山美枝子さんの遺族に

送った手紙の一節・・・<自分で自分の顔を殴らせたり、(略)寒中の柱に立ったままロープ

で縛って何日もそのままにし、美枝子さんを死に至らしめたのです>遠山さんが苦しい中、

何度も「お母さん」と呼んでいたことを明かし、<私はそれら全てを「総括ができていない

証拠にして行った。これが一片の弁解の余地すらない事実です>と、「総括」と称したリンチ

の理由についても言及している。手紙の最後には<私は生ある限りそのお怒りを受け続ける

つもりでおります>と自己批判の道を歩むつもりと綴られていたが、その2ヶ月後、森は

刑務所で自殺した。ーーー

🦊キツネが問題にしたいのは、血を見ないで、ジワジワと痛めつけて衰弱死させる、という、

リンチの手法だ。人は想像力無しでも生きて行ける。だが血を浴びるのは恐ろしい。我が手に

染みついた血の記憶は殺人者の頭を狂わせる。だが、雪山の寒さが罪人を殺した、または

ひどい飢えが罪人を死なせたとて、こっちの手は汚れてはいない。だとすれば、森を自殺に

追い込んだのは、人の死に関わる想像力の復活だろうか?それとも遺族からの「なぜ?」

という問いかけだろうか。

第二次大戦中、戦時リーダーである東條英機は、例えば掃除人夫のおばさんにも優しく

接したというので、評判が良かったらしい。だが戦いが負け続けて、兵士がジャングルで

飢え死にしているのも知らずに(知らされずに)、彼は必勝を信じ、部下の軍人の抜擢と

追い落としを駒にして、ゲームをたのしんでいたという。

想像力を育てない教育は、日本人をダメにする。戦争の当事者だった日本人は、さまざまな

資料を活用しないで、未だに「びくともしない日本」の一冊に頼っているようだ。


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