May I Help You?   先進国日本の勘違い




1. 軍人石原莞爾 ・・当ブログ「おらが家が村で一番」参照

「関東軍満蒙領有計画」で、彼はこのように言う。

平定・・軍閥、官僚の掃討と官私財産没収、関東軍による

現地支配層の完全覆滅。

統治・・軍政下で日、支、鮮3民族による自由競争。ただし

日本人は大企業と知的分野。朝鮮人は水田開拓、支那人は

工業労働。つまり「士農工商」の押し付け。


2. 銀行家、商人渋澤栄一・・「おらが家が村で一番」参照。

「商業こそが政治をリードする。民を救うものは財政である。

そして、個々の商人(及び政治家)が仏の導きに(あるいは

儒教の教えに)従って己を律したならば、民の暮らしは平安

なるべし。・・しかし、現実にはそうはならないのは・・

私の残念に思うところであります」。


3. 中国歴史専門家、ジャーナリスト内藤湖南。・・彼は

京都大学を中心とする中国史家グループを代表する碩学であり、

第二次大戦前の中国の改革と、日本の中国政策について

発言し続けた。


内藤湖南ーーポリティクスとシノロジー

J.A.フォーゲル著  井上裕正訳  1989年  平凡社刊


🦊:この本は、アメリカ人歴史学者フォーゲルの、京都大学

人文科学研究所での内藤湖南研究の成果であり、湖南に対する

戦後の評価ーー「日本帝国主義の大陸侵略を美化する役割を

果たした」とする、あまりにも単純な見方を排し、彼の学説を

原点に立ち帰って検証しようとするものである。


本文p13  1880年代末から90年代にかけて、日本の中国政策

(戊辰変法、台湾問題)と言う政治問題が湖南の関心を中国に

惹きつけた。そこでの湖南の主たる関心事は、中国の改革が

日本の軍事介入で行われるものであれ、あるいは中国人自らの

手でなされるものであれ、いずれにせよ、日本の中国政策、

つまり中国の改革において日本が果たすべき役割に向けられて

いた。この日本の役割については、2つの次元に分けて考える

ことができる。第一に、日本政府の中国に対する外交政策と

軍事活動である。第二に、日本政府とは別の次元で、さまざまな

立場から中国と関係を持った人々の活動である。日中文化同一論

の立場にある湖南にとって、日本の欧米政策は、欧米諸国に比べ

て、より深い中国理解に基づいており、それゆえにその重要性も

大きいものであった。また、湖南の強いナショナリズムーー

それは明治、大正、昭和の日本において広く行き渡っていた。ーー

は行論中で「私」とあるべきところを、日本人である「我々」と

表現させた。同時代中国に関する湖南のさまざまな主張は、

「我々」日本人が政府の内であれ、あるいは外であれ、中国に

対して何をなすべきかを模索したと見ることができるのである。

湖南の主張の背後には、改革のモデルとしての明治維新に

対する深い自信があった。湖南は、一般に言うところの明治の

第一世代、ケネス・パイルのいわゆる「明治日本の新世代」

に属した。1850年代末から60年代に生まれた、この世代の人々

は、明治維新に個人的には参加しなかったが、多くの場合、倒幕

勤王系の人々である。彼らは明治維新が成し遂げた変革を改革の

模範と見做した。中国の改革とそこでの日本の役割を模索した

湖南にとっても、明治維新は改革の模範として絶えず脳裏に大きく

存在し続けた。明治維新が自分にとってなんであったかを湖南は

明確な形で述べなかったが、それを無私無欲な改革の理想的モデル

として考えていたことは明らかである。(中略)



p252  「新支那論」

1923年の夏に有馬温泉で病後の保養に努めていた湖南を

「新支那論」の執筆に駆りたてた直接の契機は、同年に漢口で

起った排日運動である。・・以下、本書の内容を追って見ていく

ことにしたい。

湖南は、近年中国で起こっている排日問題にいついて、・・

「日本と支那の関係は、何時再び困難に陥るかもしれぬと

考えられ、あるいはどうしても一度は破裂すべき余儀なき

経路にむかっているように考えた方が良いではないかと思ふ」

と述べる。ところで、このような主張は、これまでの湖南には

想像もつかない内容のものである。かつて湖南は、日清戦争直後

の中国は効果的な改革によって自強できることを日本から学んだと

考えていた。しかし、今や彼は、中国人はこの悲劇的な敗北から

ほとんど何物をも学ばなかったと主張していく。李鴻章は中国の

弱点を最も正確に認識していた人であるが、「如何せん頑迷な

支那人の盲目的なやり方を抑える力がなくて」日清戦争の勃発を

食い止められず、中国人はその敗北を「李鴻章の敗北」とみなし

た。・・その後の袁世凱は李ほどにも西洋文化を理解できなかった

し、また改革精神においても、李には及ばなかった。そして清末の

立憲政治論は、立憲政治を「西洋の盛んな所以、日本の盛んに

なった所以」と盲信した「立憲政治万能論」であった。それに

比べれば、1020年代中頃の改革論者たちは、西洋諸国は「その

社会組織の根底が支那のそれとは違っている」と考え、「西洋文化

に倣うには、支那の社会組織を根底から改革せねばならぬ」と深く

理解するようになった。しかし、このような「若い人は、支那の

歴史を知らず、自分の国の弊害がどういふ点から来ているという

ことも知ら」ないと、湖南は厳しく批判する。彼らは「欧米で

学生生活を送ってきた人々であっても、支那に帰って支那の官場

生活に感染されないものはない」。排日運動に奔走する彼らは、

「李鴻章や袁世凱時代までの政治家のごとく、外国の如何なる点に

優秀な能力があり、如何なる点に恐るべき潜在力が籠っているか

といふ事を理解せない、まるで酔狂人のごとく狂い回って、見物人が

妨害さえしなければ、それを成功だと心得ている」。(中略)


1900年義和団事変に際して列強諸国は、協調して北京と天津を

「共同管理」した。「然るに今日では有効な外国の共同といふ

ことが全く望みなく、支那にも騒乱を制限して支那人の安全を企望

するといふ様な政治家もいない。また、「支那では政治家が職業と

して無意味な主権論を担ぎ回るとき、日本人に対する侮蔑心から

して、延いては更に他の外国人に対する態度もだんだん横暴になって

行きつつあるとき、そして日本は隠忍の上にも隠忍して、結局は

破裂せねばならなぬような道程をとっているとき、それで利害関係を

最も痛切に感ずる日本が、支那との間に何時までも無事に進んで

行こうと云ふことは、人間の知恵では考えられない事である」。この

様に湖南は述べ、中国の現状に対する日本の忍耐がすでに限界に

達しつつある事を暗に示唆したのである。・・

長年にわたって中国の改革を観察し続けてきた湖南は、ある

時点から、中国が自国のことすら処理できない国になってしまった

と考える様になった。そして中国がそうなった理由を彼は論理的には、

民族にはそれぞれ年齢がある、という仮説で説明した。すなわち

中国はとうの昔に、政治、軍事的な年齢である青年期を経過し、

現在は文化生活を送る老成した年齢にあるというのである。

また共産主義者も含めて現代中国の青年たちは、このような中国の

文化や歴史に見られる特徴を理解できず、西洋化や急進的改革の

スローガンを叫ぶに過ぎない、と湖南は批判する。そしてヨーロッパ

諸国にとって中国は、単なる商売相手に過ぎず、ただ日本だけが中国

に有効な援助を与えうる文化的にして戦略的な位置にある。しかし

日本人はそのことを理解していないと彼は述べ、批判の矛先を

今度は日本人に向ける。それまで湖南は中国の改革をいつも念頭に

おいて、中国にとって、また日中関係にとっても最善な道を模索

し続けてきた。ところが1910年代末から20年代における中国の

状況に直面した湖南はついに、中国人には自国を運営する能力すら

ないと判断せざるをえなかった。こうして彼は、中国の政治や経済の

諸機関を効率よく運営するには、中国人自身でやるよりも、むしろ

日本人と協力した方が良いと確信するに至ったのである。(以下略)


p265  満州と「満州国」

湖南は、中国を改革するときに、外国の武力行使が許されるかという

問題について、必ずしも一定した見解を持ってきたわけではなく、

そのことが彼の政策論議 の顕著な特徴でもあった。ところで、

武力行使の是非という難題に彼が最初に逢着したのは、中国の

改革問題ではなく、むしろ満州問題においてであった。1913年の

7月に発表した満州問題に関する論説の中で、次のように述べている。

「支那に対する外交政策として支那人の感情を極端に顧慮する必要は

ない。・・末広博士(末広重雄京大教授)の放棄論は、帝国主義に

反対して大陸に領土を広めないという方針であるから、支那人に良い

感を与うべきはずであると思われるが、事実はさうでない。支那人は

近頃不治の病に罹った病人が生命に関することを言わるるのを嫌う

がごとく、自己の力の及ばぬ地方に対してもその統治権に対する

自尊心を傷つけらるるのを好まない。・・

当時、湖南は日本人の満州移住を、歴史的理由からもまた経済的理由

からも是認していた。満州の歴史を取り上げた論説で、彼は数世紀の

間に満州や朝鮮の地に興亡した国々と日本との関係を跡づけている。

その結果、一般に日本はそれらの国々と中国に引けを取らないほど

長い関係の歴史を有し、時には渤海国との場合の様に、中国以上に

親密な通商、外交関係にあったこともあると彼は指摘する。

(1934年に彼が胃癌で亡くなる前の3年間に執筆した論説と書簡

には)彼がアジアにおいて必要と考えた目的、つまり改革を達成

するためには武力行使が許されるかという、終生彼を悩ませ続けた

テーマに対する心の葛藤が投影されている。・・

その中で彼は、清朝最後の皇帝であった溥儀に対する関東軍参謀

石原莞爾の「取り扱いにつき心配」な旨を記している。この書簡に

登場する矢野仁一は、湖南とは京大における15年に及ぶ同僚教授

であったが、1932年に京大を退官し、関東軍外務局臨時嘱託、

満州国外務局嘱託となり、「満州国」を正当化する理念、すなわち

儒教的な「王道」の理念作りに尽力したのである。他方、石原莞爾

も「満州国」の建国理念として「王道主義」を選択した。かつて

立花撲(たちばなしらき)や孫文もアジア諸民族の「大道」を主張

した時期があるが、そのような思想が、石原に少なからぬ影響を

及ぼしたことは間違いない。・・

ちょうど関東軍が溥儀を「満州国」の執政に就任させた頃、湖南は

「満州国」について初めて論説を発表した。その中で彼は、「今度

の新国家は、そういう軍国的の希望を持って生まれたのではなくして、

この肥沃な地方に世界民族の共同の楽園を作ろうという」「現在の

東亜情勢の上からも非常に重要な事件である」と述べている。

清朝と日本との関係において、清の皇帝だった溥儀を元首に戴く

ことは歴史の流れに逆行するが、「満州国」は清朝と「建国の

精神は全く違っており、君臨すれども統治しない日本の天皇と同様

に、彼は国民統合の象徴として十分な役割を果たすだろう。・・

次に湖南は、満州の開発と日本との関係について、「今度の新国家

は、日本の嘱託事業というのではなく、新国家が自己存立の目的を

持って、その資源としては日本の資本並びに日本人の能力によって

満州土着人の訓練をし、その訓練を更に拡大して新国家の基礎に

しようと云ふ」ものでなくてはならない、と注文をつけている。

また日本の当局者に対して、特に経済活動の面で、日本人の間に

醜態を暴露することがないよう、十分に考慮すべきことを提言し、

「日本人は、他の自治組織を尊重して活動しなければならない、

それに関して、「日本人の大陸進出の先駆となって、これまで

働いた人々はやはり豪傑肌の人物が多く、創業の際には非常に

役立つけれども、施政時代に入って民政の安定など平和の事務

には不向きな人々も少なくないと助言する。

こうして最後に湖南は、「満州国の新国家もかくの如く速やかに

建設されたのは、全く日本の軍人の勲労による」と述べて関東軍

の功績を一応評価しながらも、「軍人がいつまでも新国家の組織に

重要なる関係を持っていると云ふことはよほど考えものであって、

満州の将来に対しても国防組織などは満州新国家の軍部として別に

新たに考え、日本の軍部というものの関係は、なるべく早く手を

切る必要があると思ふ」とのべ、軍部に釘を刺している。更に彼は

この点に念を押すように、「軍人の単純なる精神は、ややもすれば

自己に陶酔して何事も武力で行いうるというような妄語を起こす

こともないではないから、ことのついでに苦言を呈しておく所以

である」とこの論説を結んでいる。


(1932年5月15日、湖南の旧友である犬飼毅首相は、海軍青年

将校を中心とするグループによて暗殺された。=5・15事件)

この2日後、湖南は「犬飼首相のことども」を執筆して、故人の

功績を讃え、彼を失ったことは日本にとって大きな損失であると

その死を悼んだ。

事件後、関東軍の独断専行が日増しに強まっていった。・・

(現に学者たちがこぞって「満州国」を賛美し)1932年に儒教

雑誌『斯文』の巻頭論文「王道主義」の著者は、当時日本で最も

著名な「日本主義者」であり、また儒教研究者でもあった

井上哲次郎であり、彼はこの論文で盲目的な対外強行主義を

唱道しながら、「満州国」の建設を儒教的「王道」の実現として

賛美していた。このような言論こそは、まさしく湖南が危惧する

ものだったのである。ついで1932年の斯文特集号では、発行元

である斯文界の重鎮塩谷温の基調論文に始まり、ついで学会、

政界、華族、軍部といった各界指導者の論説が続き、またまた

「王道」や「満州国」を激賛する短文や詩も多く掲載されていた。

そして、それらの論説などはほとんど学者や大学教授の手に

よって書かれていたのである。湖南が満州国について書いた

最後の論説「満州国今後の方針について」の中で、満州の

ことについて精通しているはずの学者たちが、日増しに無責任な

言動をおこなっていることに対して明らかに憤慨している。

「多くの国家といふものは、いずれも歴史的発展の結果によって

成り立ったものであるが、しかるに新しく成立した満州国だけは、

その点異様な物である」(支那、朝鮮、日本からの移民という

材料を、日本人の方針により組み立てられた国家である)

「こういう来歴で出来上がった国家が果たしていかなるものに

成長してゆくか、見通しの難しい問題だと思ふ」と彼は述べ、

そしていずれにせよ、「満州国」の将来は、日本人と中国人が

どの程度に協力できるかに間違いなくかかっていると湖南は

述べている。


学者として、またパブリシストとして、湖南が最も許せなかった

のは、「満州国」建設の理念として古代中国に生まれた「王道」

ということが頻りに唱えられて、建国の理想とされているという

ことであった。その王道というものが歴史上実現された時代と

いうものは殆ど無かったのであるから、つまり古来からの理想

として持ち伝えられた教訓にすぎない。且つこの理想という

ものは、誠に結構で、何人も異議を挟む余地がないが、それを

行う人の如何によっては、時には却って理想と反対の結果が

生じることもあることも、歴史上に見受ける所である。(かかる

結構な理想を排斥する必要はないとはいえ)ただ、王道に

対していかなる具体的な内容を盛るべきかということを最も

深切に十分に考ふべき必要があると思ふ。「まず第一に考え

ねばならぬことは、満州国の実際の事情を正しく且つ確かに

知るということであり、更にあらゆる国家の歴史をもよく

了解しておって、このような人為的国家にあっては如何なる

組織にすることが一番良いかということを十分に自分自身で

考えうる人が、国家の中心に居るのでなければできぬことである」

と提言する。その際彼は日本の明治維新には「勿論国家の

手本として採るべきところが多々ある」としながらも、「もっぱら

日本などで完成した文具的政治機構などを模倣することをその

国家の重要な仕事とするは、非常に間違っている」と警告する。

すなわち、「満州国」の機構はあくまでも「満州国の実際の

事情に合ったものでなければならない、と湖南は主張するのである。

湖南は最後まで、政府や軍部の方針を無批判に賛美する学者たちの

仲間には加わらなかった。・・彼は現実を知らない、空想論、

理想論は大嫌いだった。彼の考えでは、「王道主義」によって

「満州国」の正当性を学問的に裏づけようとしている学者たちは、

中国史の知識を現代問題の正しい理解に役立てているとは決して

言えなかった。学者が批判という責務を放棄して国家の道具と

化してしまうならば、中国の前途に如何なる希望があるというのか。

湖南の苦悩は重く、また深かった。


p176  湖南が最も強く主張したかったことは、中国は、共和政治

に向かう歴史的発展を踏まえた改革を必要としているという

ことである。しかし現実の中国を知れば知るほど、彼は中国人には

改革を実行する能力がないと判断せざるをえなかった。こうして

彼は、日本が援助しなければ、中国人は軍閥、官僚、欧米列強の

圧迫によって間違いなく苦しめられると考えるようになった。

とは言っても同時に彼は、日本の軍国主義者や日本の利益しか

考えない中国政策が、中国人の苦しみを一層重くすることも懸念

していた。そして歴史は彼の恐れた方向へ流れていったのである。・・


(彼は、中国農村に、伝統的なリーダー=彼のいう「父老」を

中心とする「平等主義」郷団が存在したが、それが中国史の

中期に解体していったと主張する)。しかし、中国共産党は新しい

「郷団」を設置し、それを起点として省から国家に至る連邦制的な

組織を構築した。その意味において、彼らは湖南の夢を実現したと

言えるかも知れない。しかし、彼らが地域社会の犠牲の上に、

中央集権的な支配体制を復活させたことに対しては、地下に眠る

湖南も黙ってはいないだろう。もしかしたら、1920年代に中国共産党

を非難した湖南は、そのような共産主義に潜む中央集権的な体質を

察知していたのかも知れない。・・

彼は中国の改革に日本という「国家」が大きな役割を果たすべきで

あると主張したが、これはある意味彼のナショナリズムの表明

でもあった。(しかし、日本人の多くがそうであったように)日本の

中国侵略に対する中国人の抵抗が、彼らのナショナリズムの表明で

あったことを、湖南は理解できなかったのである。そこに彼の限界

があった。(以下略)

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🦊:これを読んだ限りでは、どうしても内藤湖南という学者の

「現代人」になりきれない部分、「国民国家」という全く未経験の

政治体制に理解が及んでいないこと、ジャーナリストとして出発した

というにしては現実社会を知らずに、一種の夢を見た、という

印象が残る。

ところで、フォーゲルはこの本の中で「湖南の夢」という表現を

用いているが、確かに彼の夢、またはロマンであったかも知れない。

そういえば、ジャーナリスト出身で、同じように「清廉潔白な維新」の

夢を小説にした司馬遼太郎も、大学でモンゴル語を学んだ。彼の場合は、

大陸への夢では無かったが、夢みがちな若者のロマンを紡ぎ出して、

日本人には大いに受けた。この頃のテレビ番組で、湖南を見直すという

雰囲気のがあったが、「何も知らない中国人に、新しい共和主義的国家

の作り方を伝授したい」という湖南の希望を、かつての軍国主義日本の

大陸侵略の正当化に利用されないかと、キツネは心配になる。

アメリカにせよ日本にせよ、「俺にまかしとけ」というほど、自由平等、

民に開けた正直な政治がなされているわけでもなし。余計なお節介は

世界制覇の夢を捨てきれない独裁者か、または核の帽子を脱げない軍人

の夢を実現させるだけ。(今まさにその悪夢のような事態が起こり、

大地震のようにヨーロッパを揺さぶっているんでは?)

「脅しの地政学」はいい加減にして、懲りない日本人、勘違い日本人は

卒業しようぜ。

渋沢栄一について・・

キツネとて万札は喉から手が出るほど欲しいが、新しい1万円札に、

好好爺然とした彼の顔を見るのはあまり嬉しくない。なぜ聖徳太子

に替えて、渋沢なんだろう?

彼は清廉潔白、慈善事業でも有名な経済界の「花咲か爺」であるらしいが、

「国の富を進めてゆく」ことこそ、これからの日本の進むべき道であると

言い、具体的に兵力増強を、とは言わないが、民についてこう言っている。

「万一日本が危ういようになった時は、外国にある者は皆、帰り来たりて

父母の危邦に入り、祖国のために防護の任務につかざるべからず。また、

すでに祖国にあるものは、あくまで踏みとどまって国に一命を捧げざる

べからず。決して外国に逃げ出すとかいうことを許さぬ」。

だが彼の創った第一国立銀行(のちの朝鮮銀行)は、見事に軍部の御用を

つとめ、大陸侵攻のお膳立てをした。そのことについて問われると、彼は

「私が銀行業を辞めてからもう10年余なります。その間のことは、

あまり覚えておりません。欠かさず新聞を読むといったこともしないので」

とおっしゃったとか、(キツネが聞いた噂では)。

今日の経済発展の源は、渋沢のような明治期の旧幕臣たちの功績で

あるという、国内共通認識があるらしい。そこまではいいが、それを

民の暮らしのために活用したのか、富国強兵の実践訓練のために活用し、

民の命、アジア人の命を容赦なく奪ったのか、果たしてどうか。

万札の次の候補は「山縣有朋」じゃあるまいなー。


2022 3  22