32時間マラソン通訳
1945年のクリスマス
ベアテ・シロタ・ゴードン 著
平岡磨紀子 訳 1995年 朝日文庫 刊
ーー日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝ーー
🦊 キツネは常々、日本国憲法は米軍からの最上の贈り物だと
言ってきた。この本を読めば、その意味がわかると思う。
ベアテ・シロタは1923年、ウイーン生まれ。父レオ・シロタは
著名なピアニストで、29年に家族を伴って来日。ベアテはその後の
10年を日本で過ごし、渡米留学し、卒業後米国で就職したが、45年に
GHQ民政部のスタッフとして来日。日本国憲法草案の作成に携わった。
🛑 p17 プロローグーー再会
プロペラ機が高度を下げ始めた。・・私はコンパクトを取り出し、鏡の中の
自分を確かめた。ニューヨークを飛び立ってから丸2日以上も経っているのに、
私の目は光を帯び、エネルギーにみちていた。私はコンパクトの鏡の中の自分に
向かって声を出さずに祈った。どうかパパとママに会えますように。
グアム島を飛び立ったプロペラ機は、8時間もかかって日本の海岸線に近づいていた。
海のブルーと砂浜の境は、白い波のレースで縁取られていた。砂浜の向こうに
人家と田が現れた。トランプのカードを敷き詰めたような田畑は日本人の几帳面な
国民性そのもののように思われた。帰ってきた。・・
5年ぶりに見る日本の風景に、私は鼻の奥がキュンと痛くなった。抹茶色の林、ネズミ色
の瓦屋根、黄色の細い道、懐かしい私の育った日本が眼下に広がっていた。
しかし田園風景を過ぎると風景は一変した。赤茶けた土の上に、焼け残ったビルと煙突が
つき刺さっている。緑の色彩はなく、ボロ布を被せたような地面が、ただただ広がっていた。
私は生まれてはじめて乗った飛行機から、皮肉にも戦争に負けることはないと言われた
「神国日本」の変わり果てた姿を見ることになった。新聞の写真では知っていたが、肉眼で
みるのとはまったく違っていた。
多分そこは横浜だったろう。相模湾から厚木はすぐなのに、プロペラ機は乗客にアメリカの
勝利の姿を印象づけるためか、わざと遠回り低空で旋回しているようだった。その演出は
まさに効果的だった。
「こりゃすごいや」「やってくれましたね」機内の軍人たちは口笛を吹いて窓に群がった。
彼らの無邪気さに、私は水を浴びせられたように気持ちが沈んだ。彼らと同じように
アメリカ国籍を持ち連合軍司令部GHQの職員として赴任してきているが、彼らとの違いを
思い知らされた。私にとっての祖国は、家族のいる国だった。私はもう一度祈らずには
いられなかった。パパとママが無事でありますように・・・
1945年12月24日、私は連合軍司令部GHQの民間人委員として日本に赴任した。ニューヨーク
から西部の海軍基地サンデイエゴに飛び、そこからハワイに飛んで一泊、翌日、太平洋の
小さな島ジョンストン島に寄り、グアム島を経ての、30時間を超える長旅だった。
(厚木基地は)かつてそこが日本最大の海軍航空隊基地であった証拠は、白い腕章を巻いた
日本人が米軍の指揮にしたがって、アメリカ兵よりも活き活きしながら立ち働いている
ことだった。
彼らは服装から元日本海軍の軍人であることがみてとれた。・・
軍人の一人と視線が合った。私は反射的に今までの習慣で下を向いた。しかし彼は深く
お辞儀をしたのだった。戦争前あれほど威張っていた軍人が、22歳の私に頭を下げたの
だった。その時、私は日本が本当に戦争に負けたことを実感した。パスポートのチェック
は形式的なものだった。私はすぐにジープに乗り込んで東京に向かった。荷物はトランク
が2つ。残りはニユーヨークの友人のアパートに預かってもらっていた。
横浜市に入ると、飛行機からは見えなかった空襲の激しさが12月の冬空の下で凍てついて
いた。ビルというビルは煙で燻され、炎の痕跡をとどめていた。窓ガラスは見事に無かった。
しかし、ビルとビルの間の焼け跡は、耕されそこに畑が作られていた。
東京に入った時は夜になっていた。私の胸は踊った。日本に戻れることが決まった時、私は
両親に電報を打っていた。赤坂の実家か、新橋の第一ホテルのロビーで待っていてほしい
と。・・・
銀座に着いた。新橋は目と鼻の先にあったが、ひとまず宿舎に荷物を置かなくてはなら
なかった。指定されていた米軍婦人部隊(Woen’s Army Corps)の宿舎は銀座の近くの焼け残った
ビルにあった。女性ばかりの6人部屋に荷物を置くと、待ってもらっていたジープに飛び乗った。
新橋の第一ホテルは、当時GHQの高級将校の宿舎になっていた。そんなことを知らなかった
私は、勢いよくドアを押した。ロビーは暗かった。カシミアのコートを着たママと、シルクの
ワイシャツのおしゃれなパパが、私の名前を呼んでくれるはずだった。
しかし、ロビーには、2人の将校の他には誰もいなかった。フロントで、年配の白人夫婦が
来なかったかと聞いた。話をしていた将校は、私の只事ではない様子に興味をもって私を
呼び止めた。彼らにとって私は何ヵ月ぶりかに見る若い西欧女性だったからだ。
「両親とここで会うことになっていたのです。ニューヨークから電報を打ってあったの
ですが・・」
私の声はすっかり上ずり、涙声になっていた。「電報だって?あなたは見渡す限りの焼け跡を
見たでしょう。どこあてに打ったのですか?電報など届くはずがないじゃありませんか?」
将校の一人がさも呆れたといった様子で言った。私が半泣きの顔になっているのを見て、
もう一人が尋ねてくれた。「ご両親の名前は?」私は両親の名前とピアニストという職業を
告げながら自分の身体が鉛のように重くなっていくのを感じた。電報が届いていないのでは
ないかなどど、一度も疑ったことは無かったのだ。日本が戦争に負け、半身不随の国になって
いることを改めて知らされた。
「レオ・シロタ?そんなに有名人だったら探しやすいんじゃないか?」2ヵ月前の10月中旬に、
タイム誌の記者が軽井沢で両親に会っているという情報があり、両親が生きていることは、
ほぼ間違いない。私は、自分をはげました。「レオ・シロタさんなら私、知ってます」
フロントの女性が寄ってきて、たどたどしい英語で声をかけた。
「父を知っているのですか?どこで見たのですか?」日本に来て初めての日本語が思わず
口をついて出た。相手はびっくりして私の顔を覗きこんだ。」「日本語、お上手ですね」
「どこで、どこで見たんですか!」
「ピアニストのシロタさんなら、昨夜JOAK(東京中央放送局)のラジオで演奏を聴きました」
その瞬間、私の頭の中でファンファーレが鳴り響いた。テープ録音など無い時代なので
生演奏にちがいない。JOAKに電話すると、今朝早く軽井沢に帰ったことがわかった。
担当者は親切に住所を教えてくれた。「パパとママが生きている」そのことを確認できた
だけでも十分だった。
自分が次に何をすべきかがすぐにわかった。
「シンバシノダイイチホテル デマツ ベアテ」フロントで電報を頼んだ。さっきの将校二人は
まだ同じテーブルに座っていた。「君は軍人?」「アメリカの市民です」「民間人なのに
よく日本に来られたね」一人が言うと、もう一人がその答えを知っていると言わんばかりに
横から口を挟んだ。「通訳として来たんだろう。日本語が達者だものなあ」
私は、東京で少女時代を過ごしたので、日本語は普通にしゃべることができる。両親に会い
たかったばかりに、GHQに職を求めて、日本に帰ってきたのだと説明した。
二人はただ格好の話し相手が現れただけで十分だったようで、できるだけ引き伸ばしておく
ために、ホットチョコレートを注文してくれた。職場から直接焼け跡の東京に来た彼らは、
ニューヨークの話を聞きたがった。白い細かい泡の立つチョコレートは今日がクリスマスで
あることを私に思いださせてくれた。日本での長い、しかし充たされない第一日は終わった。
(🦊 翌日、第一ホテルで父と再会し、手を握りあったまま話をした)
🔴 お互いに話さないといけないことが、あまりにも多すぎた。・・
父はヨーロッパにいる自分の姉弟の安否を気づかっていた。実は、私たちシロタ家は、
ロシア系のユダヤ人なのだ。その運命を気遣うのは私たちの民族の、戦後の挨拶であった。
父は、フランスやオーストリア、スイスにいる親戚の情報を全く掴んでいなかった。私は
自分の知っていることを、立てつづけに報告することになった。父は5人姉弟、母の異母兄弟
に至っては15人もいたから、私の報告は大変だった。
父の弟でモーリス・シュヴァリエのマネージャーをしていた叔父は、フランスのヴィシー
に住んでいたが、突然ナチスの警察に踏み込まれてアウシュヴィッツ送りになったこと、
とっさの機転で裏口から逃げた従妹のテイナは助かったこと、父の甥イゴールは、
ノルマンデイー作戦で戦死したこと、母の身内でスイスにいた者は無事だったが、
オーストリアに住んでいた親戚は、みんなナチの強制収容所送りになったことを話した。
話をしていると、ふっつりとシャンデリアの灯りが消えた。「今日は2回目の停電ね」
とロビーにいた誰かが言った。
(🦊 3日後にやっと軽井沢に行けて、病気の母と再会することが出来た)
🛑 木製のベッドに、目の下に紫のクマを作り、白い水枕のような肉体を気だるそうに
持たせかけている女性がいた。母だった。「ママ!」涙で詰まって、その後は言葉に
ならなかった。・・・
極度の食糧不足、特に蛋白質の不足が、パパの身体を骨と皮に痩せさせ、母を反対に
太らせたのだった。親子水入らずの夜のパーテイーは、ミルクパーテイーが主役の
ささやかなものだった。母はこの日のために取っておいたと言ってとっておきの
スキムミルクを出してきた。
テイーカップの暖かさを慈しみながら、視線を合わせて談笑することが、メインデイッシュ
だった。私のお土産は、銀座4丁目角にあったPX(米軍関係者以外は立入禁止の店)で買った
チョコレート・バーと、WACの女友達から貰った缶詰とクッキーだった。(これらの品は、
母の手に渡って数時間後には少しの米と数個の缶詰に変貌していた)
話すことは山ほどあったが、そうした事柄よりも、さしあたり今後のことを話し合わなくては
いけなかった。
GHQから貰っていた休暇は3日間だった。その間に、両親を軽井沢から東京に移さなければ
ならない。軽井沢の寒さは、60歳のパパと病身のママにはあまりに過酷だった。パパにも
神経痛の兆候があった。ピアニストには致命的な病気だ。
翌日は、突然の引っ越しさわぎになった。行く宛は無かった。お金さえだせば、と考えていた
東京のホテルは、焼け残ったもの全てを連合軍が接収しており、民間人が宿泊できる所など
存在しなかったのだ。私の宿舎はWAC から神田会館に移っていた。病気の両親のために一室
もらえないかと頼んだが、婦人宿舎だからという理由で許可が降りなかった。残された方法
は、パパの生徒をたよることだけだった。
(戦後、パパのもとに通っていた弟子たちは裕福な家庭の子女が多かったが、戦争はその消息
すら断ち切ってしまっていた。そんな中で、原宿の金子茂子さんだけと連絡がつき、焼け残っ
た彼女の家に、両親を落ち着かせることができた)
金子さん紹介のお医者様は、診察料は食べ物と引き換えという条件が付いていた。お医者さん
自身、薬を手にに入れるのに、食べ物を持っていくのだという話だった。・・・
お医者様の話からつい脱線してしまったが、数日後に陸軍の軍医さんに診てもらうことで解決
した。お薬はビタミン剤だった。それで、ママはみるみる良くなって、すぐにベッドを離れる
ことが出来た。3日間の休暇は、慌ただしく終わった。
p41 連合軍総司令部へ
🔴 連合軍総司令部が置かれていた第一生命ビルは、おそらく東京では一番立派な建物だった
ように思う。一階は、高い天井をアール・デコ風のデザインの太い柱が支える豪華な作りで、
正面から入ると左手にエレベーターが2基ある。そのエレベーターで6階に登ると、左側に、
民政部の部屋があった。もともとはボール・ルームだったもので、6階と7階が吹き抜けに
なっていた。民政局の中には、日本の国内政治を担当する部と、朝鮮を担当する部があって、
40人ほどが働いていた。国内政治を担当する部は、更に細かく仕事が割り振られていた。
やがてやってくる憲法改正などの作業のために、マイロ・ラウエル中佐が中心となって、
政党や民間の研究会と連絡をとりながら調査をしていた法規課、のちに憲法の前文を担当する
ことになるアルフレッド・ハッシー海軍中佐は政務課、財政のエキスパートだったフランク・
リゾー大尉は経済の責任者、地方政治はセシル・テイルトン少佐が担当。広報担当の
オズボーン・ハウギ海軍中尉は、ジャーナリスト出身だった。私の所属した人権に関する課は、
その当時はまだ政党課といっていた。日本の民主政治の根本となる政党の調査と、民政部が
全力をあげて推進していた公職追放の調査なども分担していた。責任者のロウスト中尉は、
1m80センチを超える長身の持ち主だった。
「ベアテ、あなたは日本で15歳まで育ったのですね。日本語が5達者とある」上から回ってきた
私の履歴書を見ながらロウストさんが言うと、横からワイルズさんが、「そいつは頼もしい
や。日本語の他に話せる言語は?」と目を細めて尋ねた。「両親がキエフ生まれですので、
ロシア語、私はウイーン生まれですし日本に来ても少女時代ドイツ語学校に通っていました
のでドイツ語、フランス語は特別に家庭教師について習いました。アメリカの大学では
スペイン語をやりました」
「こりゃすごい!英語と日本語を入れると6カ国語出来るんだ。中佐、我々は才色兼備の
言語学者を仲間に持つことが出来ましたよ」私は楽々と「仲間入り」の試験にパスしたのだ。
「ベアテ、我々の仕事は、新しい民主主義の日本を建設するために、軍国主義時代に要職に
ついていた人物を追放することなんだ。あなたは女性だから、女性の小さな団体を調べて、
該当する人を探し出してほしい」ロウスト中佐から与えられた最初の仕事だった。
p44 マッカーサー元帥は、1945年8月30日、フィリピンのマニラから愛機バターン号で
厚木に降り立った。・・・
🛑 元帥は飛行機の通路を行ったり来たりしながら、構想を練っていた。ホイットニーや
軍事秘書だったボナ・フェラーズ准将が幕僚達に取らせたとされるメモによると、婦人の
地位向上がトップに出てきたという。
「日本の婦人の立場は極めて低いことは、諸君も知っているとおりだ。婦人の参政権を与える
ことは、日本人に民主主義とはこんなことだと示すのに最良の手段だ。そして、速やかに行わ
なければいけないのは、政治犯の釈放、教育の自由化、自由かつ責任ある新聞の育成・・だ」
マッカーサーの口から矢継ぎ早に出た日本改造計画は、もちろん元帥一人の頭から出てきた
ものではない。のちに9月22日に正式に、「降伏後における米国の初期対日方針」として公表
され、民政局に重要資料としてファイリングされていた指令と同じ内容だ。いずれにしても
日本の占領プランは、GHQの幹部が日本に来る前の飛行機で、すでに会議が始まっていたこと
になる。ホイットニー准将はマッカーサー元帥の大のお気に入りで、GHQでも毎日夕方になる
と、元帥の執務室に入り込んでは1時間も2時間も話し込んでいた人だ。
頭の切れる卓抜した指導力は、マッカーサーが懐刀としただけのことはある。
後で分かったことだが、ホイットニー准将の役割は大きかった。
「今日大砲は沈黙している。一大悲劇は終わった。・・」の名文句ではじまる
9月2日の戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏調印式のマッカーサー演説の
草稿もホイットニー准将の作文だ。その中核になる部分に日本国憲法前文に
似た文言がでてくる。
「この厳粛なる機会に、過去に流血と敗戦の中から、信仰と理解に基礎づけ
られた世界、人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、
自由と寛容と正義のために生まれ出んことは、予の熱望する所であり、
また全人類の願いである」
(中略)
民政局は、軍服こそ着ていたが、弁護士や学者、政治家、ジャーナリストといった
知識人の集団だった。ホイットニー民政局長は、コロンビア・ナショナル・
ロースクール出身の弁護士で、法学博士だった。のちに民政局次長になるチャールズ・
L・ケーデイス大佐も、ハーバードのロースクール出身の弁護士。ラウエル中佐、
ハッシー海軍中佐も弁護士で法学博士の学位を持っている。フランク・ヘイズ中佐も
弁護士、スウオーブ中佐は、プエルトリコ総督で元下院議員。サイラス・ピーク博士
がコロンビア大学教授、テイルトン少佐は、ハワイ、コネチカット大学教授と、
そうそうたる顔触れだ。・・
民政局のメンバーの多くが、かつてルーズベルト大統領が行ったかのニューデイール
政策の信奉者で、ニューデイーラーを自認していた。彼らはアメリカで果たせなかっ
た改革の夢を、焼け野原の日本で実現させたいという情熱を持っていた。
p155 日本国憲法に「男女平等」を書く
🛑(1946年2月4日早朝)ホイットニー准将は、おもむろに口を開いた。
「今日は憲法会議のために集まってもらった。これからの一週間、民政局は憲法草案
を書くという作業をすることになる。マッカーサー元帥は、日本国民のための新しい
憲法を起草する歴史的にも意義深い仕事を、民政局の我々に命じられた。
この草案は、2月12日までに完成してマッカーサー元帥の承認を受けることを希望する。
(その日、日本の外務大臣との、憲法の日本側草案について、極秘の会議が持たれる)
その時、日本側から出される草案は、非常に右翼的な傾向の強いものが予想される。
しかし、私としては、その外務大臣らのグループが望む、天皇を護持し、権力として
残されているものを彼らが維持するための、唯一残された道は、進歩的な道をとる憲法、
すなわちこれからの我々の仕事の成果だが、それを受け入れ、認めることだということ
を納得させるつもりだ」
このあと、後に問題となる発言が出る。
「私は説得できると信じているが、それが不可能な時は、力を用いると言って脅すだけ
ではなくて、力を用いても良いという権限をマッカーサー元帥から得ている」
簡単に言えば、出来の悪い生徒の答案を先生が書いて、それを口を拭って生徒が書いた
として提出して及第点を貰おうというようなものだ。でも、そんなことは充分にあり得る
状況に、当時の日本は置かれていた。日本人の歴史には、誰か権力者がいて、その人の
ために命を投げ出すのが美徳だとする考えが根を張っているから、「その権力はあなたの
ものですよ!」と、民主主義の原則を突然持って来られても、戸惑うばかりなのだ。・・
(ケーデイス大佐と、法規課長として既に憲法の調査を進めていたマイロ・ラウエル陸軍
中佐、それにアルフレッド・ハッシー陸軍中佐、と、メモ係のルース・エラマン女史の
3人で運営委員会を構成し、その下に立法、司法、行政、人権、地方行政、財政、天皇・
条約・授権規定の7つの実行委員会が置かれた。
人権に関する委員会は、ロウスト中佐、ワイルズ博士、それに私の3人が任命された。
大部屋に帰ると、ロウスト中佐が「あなたは女性だから、女性の権利を書いたらどう
ですか?」と言ってくれた。飛び上がるほど嬉しかった。「教育の自由についても
書きたいのです」「いいですよ」ロウスト中佐はにこやかにうなずいた。
私は方針を立てた。まず日本の女性にとってどんな条項が必要なのか?そのためには
手本になる憲法を見つける必要があると思った。(アメリカでの勤務先)タイム誌で覚えた
リサーチャー経験がひらめいた。
ロウスト中佐とワイルズさんに外出許可を貰って、ジープで都内の図書館や大学を巡った。
アメリカ憲法、アメリカ独立宣言、マグナカルタに始まるイギリスの一連の憲法、
ワイマール憲法、フランス憲法、スカンジナビア諸国の憲法、それにソビエトの憲法、・・
徹底的に空襲を受けた東京に、まだこの種の憲法の本が残っていたことが奇跡のように
思えた。しかも英語で書かれたものとなると、(期待できない)と密かに思っていた。
2時間くらいで、原書を含めて10数冊を借り出し、両手に抱えて帰ると、みんなが砂糖に
たかるアリのように寄ってきた。「いい本を持っているな。ちょっと見せて」
「これ、しばらく貸してくれない?」私は午前中は憲法の本を読んで抜粋を続けた。
ワイマール憲法とソビエト憲法は私を夢中にさせた。社会主義が目指すあらゆる理想が
組み込まれていた。
ソビエト憲法第122条
1。ソ連邦における婦人は、経済的、国家的、文化的および社会的に生活のあらゆる
分野において、男子と平等の権利を与えられる。
2。婦人のこれらの権利を実現する可能性は、婦人に対して、男子と平等の労働、賃金、
休息、社会保険及び教育を受ける権利が与えられること、母と子の利益が国家によって
保護されること、子供の多い母及び家族のない母が国家によって扶助されること、広く
行き渡って産院、託児所および幼稚園が設けられていることによって保障される。
一方ドイツは、ソビエト憲法の影響を受けて1919年にワイマール憲法を成立させる。
理想の国家を描いて作った憲法だったが、皮肉なことにヒトラーに逆手に取られて
利用されてしまったのだった。しかし、理念としてのワイマール憲法は、実に
素晴らしいものだった。
ワイマール憲法第109条(法律の前の平等)
1。全てのドイツ人は、法律の前に平等である。
2。男女は、原則として同一の公民的権利および義務を有する。
第119条
1。婚姻は、家族生活および民族の維持、増殖の基礎として、憲法の特別の保護を
受ける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。
2。家族の清潔を保持し、これを健全にし、これを社会的に助成することは、国家
および市町村の任務である。子供の多い家庭は、それにふさわしい扶助を求める
権利を有する。
3。母性は国家の保護と配慮とを求める権利を有する。
これに対し、アメリカが世界に謳いあげている信教、言論の自由、人民の権利、
法の平等保護も、いわゆる修正条項で書き加えられたものだ。女性の権利に
ついても、素っ気ない字句が並んでいた。・・・
私は、各国の憲法を読みながら、日本の女性がしあわせになるには、何が一番
大事かを考えた。赤ん坊を背負った女性、男性の後ろをうつむき加減に歩く女性。
親の決めた相手としぶしぶお見合いをさせられる娘さんの姿が次々と浮かんで
消えた。子供が生まれないというだけで離婚される日本女性。家庭の中では夫の
財布を握っているけれど、法律的には財産権もない日本女性。「女子供」と
まとめて呼ばれ、子どもと成人男子との中間の存在でしかない日本女性。これを
何とかしなければいけない。私は抜き書きしたものを整理し、女性の権利に
関するものを事柄別に分けた。
既にマッカーサー元帥は、1945年の10月に司令した5大改革の中に、婦人解放と
参政権付与を決定していたが、これがいかに日本女性史上画期的な改革であるかは
日本の歴史と法律を比べてみればよくわかる。西欧のように、個という概念が無く、
男尊女卑の日本では、このチャンスに独立した条文としてしっかり憲法に謳って
おかなければ、全く見落とされてしまうだろうと考えた。
1つの条文を完成させるのに、何度タイプしたかわからなかった。仕上がった条文の
単語をさらにふさわしいものに変えたり、短い文章を鉛筆で記入したりしては、
清書のつもりでタイプする。もう一度読み直すと別の考えが浮かぶ。編集アイコンで、
クリップを固定、追加、削除します。クリップを長押しするとクリップが固定され
ます。固定を解除したクリップは1時間後に削除されます。クリップをタップ
すると、テキストボックスに貼り付けられます。繰り返しであっという間に1日が
暮れた。・・・
🦊 マッカーサーノートには、条文をなるべく日本人の書く形式や言葉に倣って
書くように、つまり日本人の作文を英訳したものと、読む人に思わせるよう、
戦勝国アメリカの押し付け憲法ではないという印象を与えるように、という
条件があったが、人権に関しては触れていない。それは、アメリカ人が持っている
人権の歴史の重みと自覚に較べ、それを持たない日本の旧憲法には、人権に関する
記述がそもそもないからだ。
p202 「2月8日 金曜日」
🛑私たちの人権委員会は、7日の夜になっても全部タイプできていなかった。しかし
明日には、何が何でも運営委員会に提出しなければならない。リーダーである
ロウスト中佐の顔に、焦りによる疲労感が滲み出ていた。
2月8日、民政局の大部屋のとびらは閉まっていた。横から入ると、ロウスト中佐と
ワイルズ博士が原稿の添削をしていた。エドナさんがもうタイプを打っていた。
運営委員会側はケーデイス、ラウエル、ハッシー、スウオーブ、人権委員会の
メンバーは、ロウスト中佐とワイルズ博士と私。
議論は1条ごとにおこなわれた。
(例えば第4条原案)ーーこの憲法と後日の改正と将来できる法律、法令は 、ずべて
人に保障された平等と正義、権利を廃止したり、限界を設けることはできない。
公共の福祉と民主主義、自由、正義はいかなることがあろうとも、将来の法令
によって侵されない。今ある法令は、この基本のないものがあれば、すべて無効と
なる。ーー
ケーデイス大佐は、原案を注意深く読み上げながら発言した。
「つまりは、これは暗黙のうちに、この憲法の無謬性を前提としている。一つの
世代が、つまり我々のことだが、他の世代から自分達の手で問題を解決する手段を
奪うことになる。原案のままだと、権利章典の変更は、革命を起こすしか方法が
なくなる。とても賛成できないね」
シャープな頭脳の持ち主であるケーデイス大佐の指摘は鋭い。これに対して
「しかし大佐!現代はある発展段階に達しており、現在人間性に固有のものとして
認められている諸権利、つまり(基本的人権)は、将来の世代が廃止するということは、
許されるべきでないと考えます。大佐がお考えのように、今回の憲法改正は、
日本に民主主義政治を樹立するだけでは、不十分です。今日までに、人類が達成した
社会および道徳の進歩を、永遠に保障すべきだという、理想を掲げなくてはなりません」
というロウスト大佐は人権に支えられた自由と民主主義を理想とするアメリカ人の
考えを代表していた。
確かに、将来にふとどきな支配者が現れて、基本的人権まで奪う法律を制定したら、
弱者である普通の農民や市民は、酷いことになる。実際にワイマール憲法のドイツ
が、簡単にヒトラーの手で変えられてしまったし、大正時代デモクラシーを謳歌した
日本が、治安維持法という悪法で、軍国主義一色に染められたという歴史がある。
日本の事情に詳しいワイルズ博士がフォローする。「この第4条を削除すれば、日本が
ファシズムへの扉を開くことは、避けられないと思います」
運営委員会のハッシー中佐は、「第4条は、政治についての意見と理論を憲法という
高い次元の存在にしようとするだけでなく、実際的でないという指摘をしておきます。
もう一つ意見を付け加えさせていただくならば、この条項の趣旨は、憲法に規定を
置くことではなく、最高裁判所の解釈を待つものだとおもいますが・・・」
とにかく、戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よく作るのだ
などという傲慢な雰囲気は無かった。自分達の理想国家を作る、といった夢に夢中に
なっていた舞台だったような気がしている。
議論は続いたが、妥協点が見出せず、ついにホイットニー准将の判断をあおぐことに
なった。・・・
第13条の信教の自由についても、問題があった。この条約には、信教の自由を保障
するだけでなく、(聖職者はいかなる種類の政治活動にも従事してはならない)ことを
定めていた。
ケーデイス大佐の指摘はこうだった。
「この部分は、理論的にも実際的にも矛盾している。聖職者の政治活動を
禁止することは、言葉、言論、出版の自由を否定すること意味するからだ。
憲法というのは、制限の章典ではなく、権利の章典であるべきだ。
この特段の禁止規定は、憲法の中に置かれるべきではないと思う」
執筆者ロウスト中佐の考え方は、全く違ったところに発想の起点があった。
「この条項は、霊的な権威が政治目的のために濫用されるのを防止する
ことを目的として書きました。日本は、数世代にわたって、聖職者ーー
つまり天皇ーーによって左右される国家でした。精神的な罰則を課すという
脅かしによって政治的な暴政が強化されていました。日本人に対して
どのような宗教組織にも政治的な権威が付与されることはないことを、
明らかにしておく必要があると思うのですが。・・・」
これに対し、ハッシー中佐の考えは「確かに人々が神社や寺、教会の権威
によって政治行動に走ることについては、同じ意見だが、これは良心の問題で、
憲法や法に期待する事柄なのだろうか?(宗教の名の下に、他の団体に敵意を
あおり、敵意を持った行動を行い、または公の秩序および道徳を強める代わり
に、弱めるような宗教団体は、宗教団体とは認められない)としているが、
これは新しい宗派の抑圧になる。執筆者は、一方で宗教の政治介入を禁じながら、
他方では国が宗教に干渉することを是認しているのは、大きな矛盾だと思う」
人権論議というものは、殆どが自分に関係してくるような話なので、論旨が
細部にわたり、迷路に入り込んでしまう。
私の書いた第18条からの諸条項に番が回ってきた時はすでに夕方であった。
条文は、日本の社会制度、公衆衛生、無償の教育制度、医療制度、さらに
養子法および若年労働と搾取の禁止など、どれも不幸な立場の日本の
女性と、かわいそうな子供たちを救いたい気持ちで書いたところだ。
ケーデイス大佐が、文章から目を上げると私の顔を見て言った。
「このような具体的な指示は、有益かもしれないが、憲法に入れるには
細かすぎる。原則を書いておくだけに止め、詳細は制定法によるべきだと
思うがね。憲法に記載すべきレベルのことではないのではなかろうか?」
早い話が、運営委員会として全面カットを主張したのだ。
運営委員会のラウエル中佐が言った。「社会保障について、完全な制度を
設けるところまでは、民政局の責務ではないよ。もしこの規定を入れる
ことを強く主張したら、多分強い反発が起こるかも知れない。日本政府は、
我々の憲法草案を全面的に拒否する恐れもあると思うが。・・」
興奮し紅潮した顔で、ワイルズ博士が、なおも抗議した。
「私たちは、日本社会に革命をもたらす義務があり、その近道は憲法に
よって社会の形を一変させることにあります」
「法によって、他の国に新しい社会思想を押し付けることは不可能だよ」
運営委員会の3人と、私たち3人は、まるで検察官と弁護人の関係に似ていた。
しかしこの日の戦いでは、最初から運営委員会が力を持っていた。
その点では軍の組織だった。激論の中で、私の書いた”女の権利“は無惨に、
一つずつカットされていった。一つの条項が削られるたびに、不幸な
日本女性がそれだけ増えるように感じた。痛みに伴った悔しさが私の全身を
しめつけ、それがいつしか涙に変わっていた。
ホイットニー准将が出した結論は、「社会立法に関する細々とした規定は
削除して、社会保障制度を設けるという一般的な規定のみを置く」というもの
だった。この裁きの結果、私の書いた条項は、「家庭は人類の基礎であり・・」
という第18条はほぼ残ったが、あとはカットされた・・・
実際、この憲法作成作業に加わったGHQのアメリカ人すら、女性への理解者
では無かった。その分を私が頑張らねばならなかったが、力不足がツケとして
今日まで残っている。
p230 草案完成へ
2月10日、どの委員会も、昨日に続いて、全員が最後の手直しに熱中して
いた。運営委員会では、この草案の各章について、どういう考えで書いたかを
マッカーサー元帥に説明するための書類を作るという、余分な仕事もあった。
マッカーサー元帥は、日曜も返上して草案ができるのを待っていた。
マッカーサー元帥がそんなに焦ったのはなぜなのか?その理由の一つに、
2月26日に、占領軍に対する諮問委員会である極東委員会が、ワシントンで
発足することになっていたことがある。連合国11カ国で構成されたこの
極東委員会ができれば、マッカーサー元帥は、この委員会にいちいちお伺いを
立てて占領政策を進めなければならなくなる。小姑のような組織だ。
この11カ国の中には、すでに冷戦関係に入っていたソビエトや、日本の天皇制
には反対のオーストラリアやニュージーランドが入っていた。
また4月10日には戦後最初の選挙がある。ここで、新しい憲法に関する判断を
国民自身がすれば、「日本国民の、自由に表明せる意志に従い」というポツダム
宣言の目的にも適う。さらにその後、極東国際軍事裁判が始まる。「天皇を
戦犯に」という声の大きいなかで、憲法を武器に中央突破をしようという作戦
だったようだ。
いずれにしろ、私たち人権委員会は、12日までに完全な草案を仕上げなくては
ならない。41か条が最終的にマッカーサー草案では31か条になったが、
その減った分の多くは私の書いた「女性と子供の権利」に関するところだった。
しかし、草案のうち、人権条項はその3分の1を占めることになる。明治憲法には
1文字も入っていなかった「女性」や「児童」の文字を、とにかく新しい
憲法に入れることは出来たのだ。
完全な92条の草案が完成したのは、12日火曜日の夜になった。
この日の会議で、国家にとっての憲法とは何かという本質論で論争があった。
非常に大切なことなので、ご披露しておきたい。
ハッシー中佐が、前文に次の趣旨の文案を加えたいと提案した。
「我らは、
いずれの国民も自己に対してのみ責任を負うものではなく、政治道徳
の法則は普遍的なものであり、我々はこの法則によって主権を有しているもので
ある¥ことを確認する」
これに対してケーデイス大佐は直ちに反対した。「国民や国家というものは、
節度を持って行動し、他の国や国家が持っている権利を侵害しない限り、自分の
行動は自分で決めるという侵されざる権利がある。もし世界国家というものが
あったとしても、国家の権利を侵すような口出しはできない。各国家は、自分の
運命の最終判定者であって、政治道徳と主権とは関係がない」
ケーデイス大佐はニューデイーラーを自認していたけれども、国家の主権は
人権と同じという考えで、戦争放棄の条項も心の底では賛成していないところが
あった。
ハッシー中佐は、ニュルンベルグ裁判は、人類普遍の道徳の上に立っているから
ドイツの国内問題を他国が裁くのであるし、国連の時代に、国家主権のエゴを
認める考えは古すぎると反論した。議論は延々と燃え盛ったが、最後にホイットニー
准将が前文の最後の3行を自ら書くということで決着した。
当時の民政局は、私ばかりでなくみんな理想国家を夢見ていた。戦勝国の軍人として、
家族や恋人を失った人は多かった。私もその一人だし、みんな戦争には懲りていた。
p242 日米翻訳戦争
この憲法草案が、日本側の吉田茂外務大臣と松本烝治国務大臣の手に渡されたのは、
2月13日、麻布の外務大臣官邸であった。
「先日あなた方から提出された憲法改正案(松本試案)は、自由と民主主義の文書として、
最高司令官が受け入れることの全くできないものです。しかし、日本国民が、過去に
あったような不正と専断的支配から護ってくれる、自由で開明的な憲法を強く
必要としていることを、充分に理解している最高司令官は、ここに持参した文書を、
日本の情勢が要求しているものとして了承し、あなた方に手交するよう命じました。
私たちはしばらく退席し、あなた方がこの文書を自由に討議できるようにしたいと
おもいます」
ホイットニー准将の発言に、日本側は大きな衝撃を受けた。日本側としては、先に
渡してある松本案について意見を聞くつもりで会談に臨んでいたので、大きな
ショックだった。
ホイットニー准将は、日本側の質問に答え、決定的な発言をする。
「あなた方はご存知かどうかわかりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として
取り調べるべきだという、他国から強まりつつある圧力から、天皇を護ろうと
いう決意を固く持っています。それは、彼が、そうすることが正義に合致すると
考えていたからで、今後も力の及ぶかぎりそうするでしょう。しかし皆さん、
最高司令官といえども万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい
憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題として、天皇は安泰になると
考えています」
ホイットニーの発言は、日本側にとっては脅迫に近いものだった。
しかし、准将の発言は、当時の時代背景を代弁するものだったし、極東軍事
裁判所のウイリアム・ウエッブ裁判長などは、部下ばかり戦犯に問われて
いるが親分はどうしたなどと言っていたからである。
(日本側は松本案の再説明を書いてGHQに提出し、再考を促そうと試みるが、
門前払いとなる)しかし、元々極めて保守的な松本国務大臣の考え方が基調
になっているので、相談に乗れるはずもない。
(日本側は、閣議にはかる為のGHQ案の翻訳に手間取っていたし、
それなしでは閣僚は理解できなかった。アメリカ側も焦っていた。極東委員会
は予定通りワシントンで発足している)
3月2日、一緒になって逐語訳を進めようという提案で、日本政府と民政局とで
会議を持つことになった。その日の朝、ケーデイス大佐から声がかかった。
「日本語の通訳は、何人いても困らないからね。シロタさんも出席してください」
役目は通訳だったが、はからずも自分の書いた人権条項の行方を見届けることに
なる。
p246 32時間マラソン通訳
会議は第一生命ビル6階の民政局602号室で行われた。日本側は松本烝治国務大臣、
佐藤達夫法政局第一課長、白洲次郎終戦連絡事務次長、外務省の小畑重良、
長谷川元吉氏が出席、民政局側からは、ホイットニー民政局庁と運営委員会の
メンバーであるケーデイス大佐、ラウエル中佐、ハッシー中佐がメインテーブルを
囲み、後ろの椅子にヘイズ中佐、ロウスト中佐、プール少尉らの執筆者陣が控えた。
GHQ側の翻訳陣は、現在の私の夫で、ATS(連合軍翻訳通訳部)のジョセフ・ゴードン
中尉をリーダーに、臨時の私を含めて5人。この会議は両者の思い違いからはじまった。
松本国務大臣は、この案はまだ閣議決定を経ていない試案に過ぎないと述べ、日本側は
これをたたき台にして折衝をつづけ、時間をかけて草案作りを進めていく考えを
示したが、ケーデイス大佐は、その案の英訳が出来上がるとすぐ検討に入り、
そして第一条の、国民主権がカットされているのを知って、このような案では審議
できないといきなり怒り出してしまった。もともと、松本甲案の第一条は、明治憲法
と変わりがなく、乙案にしても、「日本国ハ万世一系ノ天皇統治ス」とか「日本国ハ
君主国トシ、「万世一系ノ天皇ヲ以テ君主トス」とかいうもので、日本人にとって
天皇が存在していて主権在民というのは矛盾でしかないのだ。日本人の心に占める
天皇の絶対的地位を:アメリカ人に説明することは至難の技に近い。やっとの思いで
第一条をまとめ、第三条に移ると、(内閣の助言と同意を必要とし)が、(輔弼)だけに
なっていると、民政局側がまた怒ったのだ。
「内閣のコンセントを必要とする、となっている私たちの案を改め、これを単にアドバイス
を意味する輔弼だけとしたのはなぜですか?」
国務大臣の顔は不快げに曇る。「輔弼をアルバイトと訳すのは適当ではないが、輔弼なく
しては、天皇は何らの行為も有効に行うことはできない。輔弼が憲法上の要件である以上、
これを掲げて十分ではありませんか?」松本国務大臣は、専門は違っても、およそ法に
かけては日本中の尊敬を集めている専門家及び権威で、弁護士ではあっても経験不足の
ケーデイス大佐を説得しようと試みる。コンセントを(同意)(賛成)(承認)という単語
に訳しては、天皇に対して恐れ多いという感覚が足りないと、日本側は反論した。
この恐れ多いという言葉を英語に訳すのが大変で、なかなかGHQ側には伝わらない。
私は、“申し訳なくて頭が上がらない“様子を、身振りをつけ、あらゆる言葉を動員
して説明した。ようやく“賛同”という日本語を発見して一件落着となった。
天皇条項では、一語一語が議論となり、日本語の制約と意味の多彩さに、改めて
日本文化の深さと、天皇に対する日本人の心のありようを知らされた。
松本国務大臣は、このままいけば、他日に妥協の余地が無くなってしまう危険を
察知して、何よりも内閣に、ことの重大さを報告するため、あとを佐藤達夫氏
に託して、帰ってしまった。
何時ころか、白洲氏がトイレに立ち上がった。その椅子の上に、何か日本語に
訳したものがあった。ふと手に取ってみると、GHQ案を日本語に訳したもの
だった。すぐに「これでやろう」ということになった。
これが見つかったあと、比較翻訳の作業はとてもやりやすくなった。
午後6時、日本側草案の英訳作業が一段落した後、「今晩中に、日本国憲法の
確定草案を完成することになった。日本側もこれに参加してもらいたい」と
ケーデイス大佐から申し入れがされた。日本側からは「ほーつ」という声が出たが、
抵抗する気配もなかった。
人権条項に入ったのは、午前2時ごろだった。
「次の人権に関する条項は、日本の国には向かない点が多々あります」日本側の
発言に、私の眠気はふっとんだ。そして、日本人には適さない点が
次々と指摘された。その中には聞き捨てならない発言もあった。
「女性の権利の問題だが、日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。
日本女性には適さない条文が目立つ」
「しかし、マッカーサー元帥は、占領政策の最初に婦人の選挙権の授与を進めた
ように、女性の解放を望んでおられる。しかも、この条項は、この日本で育って、
日本のことをよく知っているミス・シロタが、日本女性の立場や気持ちを考えながら、
一心不乱に書いたものです。悪いことが書かれているはずはありません。これをパス
させませんか?」
ケーデイス大佐の言葉に、日本側の佐藤達夫さんや白洲さんらが、一斉に私を見た。
「このシロタさんが?それじゃあ、ケーデイス大佐のおっしゃる通りにしましょう」
日本側は私の顔を見て承諾せざるを得なかった。ケーデイス大佐の演出的な発言は、
見事に的を射ていた。2月8日に、「このような女性の権利については、民法に入れる
べき」と言った人物と同一人とは思えない采配だった。
全てが終わった時、ホイットニー准将が入ってきて、全員にねぎらいの言葉をかけて
回ったという、それは不自然な程だったと日本側の記録は書いている。日本国憲法草案
は、6日夜、憲法改正要項として日本政府から発表された。もちろんこの草案は、
日本政府が作ったものとしてであった。
3月7日の新聞は、「戦争放棄の新憲法草案!」という大きな見出しで載せた。
1946年11月3日、日本国憲法は公布された。翌年5月3日に憲法が施行され、
その日は憲法記念日となった。それからしばらく経って、吉田首相から銀杯と、
女性には特別に白の羽二重が送られてきた。上等なシルクで、私は早速ブラウスに
仕立てた。銀杯は、今ニューヨークの我が家にある。夫のジョセフ・ゴードンのと
2つ。
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🦊 以上でこの本の前半が終わる。キツネの今回の関心事は、草案作成時の現場での
ベアテさんの役割がどんなものだったか、にあるので、アメリカへ帰国後ベアテさんの
平和を願う講演活動や、各国のアーテイストとの交流と支援、第二の祖国と言っても
良い日本への愛情などを割愛。翻訳者の平岡磨紀子さんによれば「憲法が今まで
改正されなかったのは、この憲法が良い憲法だからですよ。みなさん、日本国憲法を
大事にして下さい」というのがベアテさんのいつもの講演のラストの言葉だったという。
2023年 5月