マンリョウ 大爆発ーー
みたいな写真しかとれないのが
万両の実.鳥も食べないので,
雪の下から覗いているのも
わびしい感じだ.
玉砕はしない、と言えた人たち
2020年12月8日朝日新聞「沖縄戦」より
太平洋戦争の開戦から8日で79年を迎えた。生きて虜囚の辱めを
受けずーー戦陣訓が徹底され、降伏が許されなかった時代、
「集団自決」や玉砕がおびただしい犠牲をもたらした。ただ、ごく
僅かながら、軍や上官の命令に背いて死を拒んだ人たちもいた。
「死にたくない」。そう声を上げたのは、どんな人たちだったのか。
(清水大輔記者)
「沖縄戦」
1945年4月、沖縄県の八重岳。県立第三高等女学校(名護市)の
4年だった上原米子さんは、迫りくる米軍から逃れていた。右足に
迫撃砲の破片が刺さった。「もう助からない。死のう」。近くに
いた衛生班長が手榴弾を取り出して言った。上原さんは何も言え
なかった。
その時、同級生の一人が班長から手榴弾を取り上げて叫んだ。
「そんなに死にたかったら一人で死んで下さい。私は死にたくない」。
彼女は「富子さん」という名だった。
上原さんが女学校に入学したのは太平洋戦争が始まる41年の春。
制服はセーラー服から国民服に変わり、教育勅語も暗記させられる
ようになった。上原さんは野戦病院への派遣に志願。軍国教育を
たたき込まれ、「軍の役に立ちたい」と思うのは自然なことだった。
だからこそ、上官の命令には絶対服従だった。あの時、富子さんは
なぜ抵抗できたのだろう。今でもそう考えることがある。一緒に
沖縄戦を生き伸びたが、富子さんの詳しい消息はわからない。
覚えているのは、富子さんが「あっちの言葉もできる」ということだ。
富子さんはアルゼンチンで生まれ育った移民2世だった。沖縄には
開戦前に、日本の教育を受けるためにやってきたとみられる。
沖縄国際大の月野楓子講師(沖縄移民研究)によると、日本人同士が
固まって暮らしていたブラジルなどとは異なり、当時アルゼンチンへの
移民は都市部に散らばり、現地に溶け込むように生活していた.
「西洋の豊かさと個人主義を重んじる」雰囲気の中、「忠君愛国」の
精神を植え付けられることなく育ったと考えられるという。
「富子さんという方は、二つの異なる教育と文化を理解していたと
考えられる」月野さんは話す。
県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄戦。数千人から証言を
聞き取ってきた沖縄国際大の石原昌家名誉教授(平和学)によると、
生き延びることができたのは、逃げ場を失い、殺されることを覚悟して、
やむを得ず捕まったケースがほとんどだった。
中にはガマ(自然洞窟)などから投降して助かったこともあったが、
日本軍や役人らが一緒にいない場合が大半だった。日本兵のいなかった
「シムクガマ」では、移住先のハワイから帰っていた住民が降服を
呼びかけ、悲劇を免れた。
「比較する視点」
石原さんも、ハワイから帰国した沖縄戦当時30歳ぐらいの男性から、
投降を促したという体験を聞いたことがある。「米兵は国際法を知って
いるから、住民を殺すことはないと思っていた」と証言したという。
富子さんの行動について石原さんは、「ある程度、行動を共にしていた
上官だったからこそ言えた側面がある。それでも、逆に殺されても
おかしくない状況で起こした極めてまれな行動だった」と話す。
「移民先から帰った人たちは軍国主義の空気に染まらずに済んだ。外国の
暮らしや文化と日本のそれとを比較する視点があったからではないか」
「ルソン島」
開戦の年の1月、当時の東條英機陸相が戦陣訓を示逹した。捕虜になる
くらいなら死ねーーこの考えが各地で起きた玉砕に影響したとみられている。
だが、これ(玉砕)を真っ向から否定した人もいた。小島清文さん(享年82)。
戦後、「不戦兵士の会」結成に携わり、戦争体験を語りながら不戦を訴え
続けた人だ。
小島さんは戦艦大和の暗号士としてレイテ沖海戦に参加。その後に赴いた
フィリピンのルソン島で、45年4月に数人の部下と白旗を掲げて米軍に
投降した。その事実を79年、文字通り「投降」というタイトルで実名で
つづった.
「投降」にはその理由についてほとんど記載がないが、10年以上過ぎて
から本人がまとめた小冊子には、欧米や中国を行き来するジャーナリストの
父を持ち、米国に憧れを抱いていたことが記されている。養女の山口富子
(ひさこ)さん(73)によると、小島さんは大学で米国の自動車産業に
ついても学んでいた。小冊子には「鬼畜米英と言われてもあまりピンと
きませんでした」と綴られている。
戦争末期に近づくにつれ、怪我や病気でやむなく捕虜になる兵士は少な
からずいた。ただ、自らの意思で投降する兵士はまれで、それを「告白」
した小島さんのような例はさらに珍しい。小島さんは半生を振り返り、
こんな言葉も残している。「教育というものが、いかにその人の一生を支える
ものか、いや、生死さえも決定づけるか(中略)ご記憶願えれば幸いです」
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🦊「玉砕せよ」と部下に言い残して、早々とピストル自殺をした将校の話
などを聞くたびに、自己の無責任と臆病を自ら言い訳し、美化さえする、
何が大和魂か、と無性に腹が立つ。
次の体験記「これが私の戦争だった」は、違う行動をとった兵士と上官の
物語である。
「これが私の戦争だった」ーー1兵士の太平洋戦争ーー井手静著
高校生文化研究会=1982年刊==(凸版印刷)
p100 転属命令
(井手伍長はシンガポール守備隊の野戦自動車廠に勤務中に、突然
転属命令を下された)7月31日のことである。
午後4時、部隊本部の「命令会報」を告げるラッパが鳴り響いた。我が
勤務中隊の命令受領者である長身の村上曹長が、急いで飛び出していく。
戻ってくるなり、私に言った。「井手伍長、後で中隊事務室まで来てくれ」
今年の3月、私は兵長から伍長に進級していたのである。勤務中隊事務室に
入り、机の上の文書をちらりと見た瞬間、私は頭部にガンと一撃を喰らった
ような衝撃を受けた。それは、「転属命令」だったのである。
転属命令というのは、軍人にとってこれほど重大なものは無いとさえ言える。
死地に赴くのも、この転属命令によってであるのだ。(中略)
転属命令書には次のように書かれていた。
作戦命令第○号発 部隊長片岡大佐
昭和20年8月1日付け
勤務中隊 陸軍伍長 井手静
同 陸軍上等兵 村上三義
同 陸軍一等兵 堀田弥四郎
右者軍令陸甲第〇〇号及岡総発第〇〇号により岡第〇〇部隊に転属を命ず
・・その夜、日ごろ尊敬する秋田県出身の佐藤忠勝曹長を訪ね、転属の件を
相談した。佐藤曹長はトツトツとした東北弁で、「まあ、井手、一杯やれえ」
と茶碗を差し出してくれた後、命令書の写しを取り上げて眺めていたが、突然
驚きの声をあげた。「ちょっと待てえ、井手、お前の転属する岡〇〇部隊と
いうのは、今般マル秘で新設された対戦車特別攻撃の教育隊だぞや」
・・私に発令されたのは、"特攻隊"への転属命令だったのだ。居住まいを正した
佐藤曹長が、静に口を開いた。「井手よ、戦局はまさに重大だ。お前をはじめ
村上上等兵、堀田一等兵は、我が勤務中隊の模範的下士官兵だ。まず、この
転属命令では死を覚悟せよ。しかし、お前たちだけでは死なせん。我々も必ず
後から行くからな。井手よ、きっと・・」佐藤曹長と別れの杯を交わした後、
私は村上、堀田の二名と、明朝の部隊長への申告の段取りを打ち合わせ、二人に
身辺の整理を命じて自室へ戻った。・・一応身辺整理が済んだところで、鳥取県
出身の村上曹長が訪ねてきた。「身辺整理が済んだら、井手よ、恩賜の煙草だ。
吸わんか」菊の紋章入りのタバコを差し出された時、思わず私の目から涙が
はらはらと落ちた。とうとう遺書は書かずに就寝した。
2階級特進!
明ければ8月1日である。午前9時、背中に背嚢、鉄帽を背負い、腰に120発の
実包をつけ、手には歩兵銃を持った軍装で、村上、堀田の二名を引率して、
部隊本部の部隊長室へ出向した。・・日頃は行ったことのない部隊長室なので、
私たちはコチコチになって入っていった。
「申告に参りました」「よしっ」
「陸軍伍長、井手静以下三名の者は、昭和20年8月1日をもって、岡第〇〇
部隊に転属を命ぜられました。ここに謹んで申告いたします。敬礼!」捧げ銃
をすると、部隊長の鷹揚な返事が返ってきた。「よし、ご苦労」
部隊長室を出ると、戦友の辻内富士雄伍長に呼び止められた。私たちを隣の
部屋に導いた辻内伍長は、厳粛な口調で言った。「お前たち三名は、2階級
特進であるぞ」思わず私たち三人は顔を見合わせた。・・2階級特進となると、
私は軍曹を飛び越して一挙に曹長となる。しかしその時は、もう私たちは
この地上に生きてはいないだろう。・・私たちは心中密かに「いよいよ来たる
べきものが来たのだ」と覚悟を決めたのであった。
特攻訓練
翌8月2日朝、術科訓練に先立って行われた教育隊長の訓示は、ひときわ強烈を
極めたものであった。「悠久の大義に生きよ」と戦陣訓を引用してのその訓示は、
お前たちは死ぬためにこの特攻教育課に来たのだという観念を、私たちの頭の
中に叩き込むものであった。
演習開始のラッパが鳴り響き、演習が始まった。3中隊2班・井手班の三名は、
一番・井手、二番・村上、三番・堀田と一連番号が付され、それぞれの任務を
与えられていた。まず三人1組で、背に負ったエンビ(シャベル)と十字鍬とで
三人がすっぽり入れるくらいのタコツボを掘る。深さはおよそ1m50センチ、
その中へ長さ2・5mの刺突爆雷を持って三人が潜むのである。
次に、このタコツボから地上がよく見える潜望鏡を出し、そのレンズに一番の
私がかじりついて前方を注視する。潜望鏡にはメーターがついており、300m
を起点として、前方から戦車が近づいてくるにつれ、そのメモリが50m単位で、
250m、200m、150m、100mと表示がでた瞬間、三人が爆雷を抱えて地上に
飛び出し、戦車目掛けて突進するのである。
爆雷の持ち方はあたかも「肉弾3勇士」の如く、まず私が先頭に立って指揮を
とりつつ爆雷の信管を抜く。二番目の村上は私の後ろ、中央にあって、爆雷が
ふらつかぬようにしっかりと支え持ち、三番の堀田は最後尾、爆雷を押すよう
にして走る。
そしてこの決死隊三人もろとも敵戦車に体当たりして、これを爆破するという、
誠に日本陸軍ならではの"神風的"戦闘法であった。
<イラスト冨永つとむ 本文より無断拝借。>
壕の周囲や私たちの鉄帽、被服は、敵戦車に見つからぬように、付近の
草むらや土の色に似せた同色迷彩でカモフラージュしてある。こうして三人、
身を固めて壕の中に潜み、潜望鏡をのぞくと、"仮設敵"の戦車の砲塔から、
鉄帽に白帯を巻いた少年戦車兵がときどきこちらを見ていた。
M1とかM4といった三十トン級の超重戦車に対しては、私たちの刺突爆雷
でその砲塔を攻撃するなどというのは及びもつかないことである。そこで
薄い部分をねらって刺突爆雷をぶち込むという戦法をとっていた。
ーーとこう書けば、簡単なようであるが、しかし実際の訓練は大変であった。
演習であるから、"仮想敵"が撃ってくるのは、もちろん弾薬の入っていない
空砲であるが、戦車の機関砲や重機関銃でバリバリ撃ってくるタマは、空砲と
言えども非常な威力があった。
一般演習中に、38式歩兵銃で撃ち合うときも、30m以内に接近した場合は、
空砲とは言え危険であるから、空に向けて撃つのが基本であり、常識とされ
た。南方では演習中によく蛇を見かけたが、歩兵銃に空砲を装填して、
ぶっ放すと、蛇はバランバランになって飛び散ってしまうほどであった。
その空砲が、戦車の砲塔から火を吹いて飛び出してくるのだから、演習中に
負傷者が出ないのが不思議なくらいであった。口の重い村上上等兵が言った。
「これでは、まず生還は期し難いですね。敵前50mで飛び出した時は敵は
バリバリ撃ってきているんだし、 その一発が刺突爆雷にでも命中したら、
我々の体はたちまちコッパミジンでしょう。うまく突っ込んだ時は
もちろんだけど・・」
「それが肉弾3勇士の運命だよ」私が答えると、堀田一等兵がボソッと
言った。「そうすると、2階級特進なんて安いもんですね」
それにしても毎日、猛訓練が終わり、宿舎の内務班に帰ってくると、夕食に
出てくる加給品の豊富さに驚いた。酒こそないが、饅頭、大福などの甘味品、
マンゴー、マンゴスチン、パイナップル、ドリアンなどの果物、高級タバコ
のスリーキャッスル、 パイレーツの缶入りなどが、山の如く出てくるので
あった。どうせ先の決まった特攻隊員の命だ、生きているうちにたっぷり
食わせてやれとの、教育班長の思いやりだったのだろう。訓練は対戦車攻撃
だけではなかった。手旗信号なども含み、各班同士の連絡方法の訓練も
あった。こうして、熱帯の炎熱のもと、猛訓練、猛演習のうちに8月の日々が
過ぎていった。
p111 敗戦・混乱・放浪
8月15日、内地では、正午、天皇陛下自らのラジオ放送によって、「終戦」が
知らされたが、シンガポールの私たちには何事も知らされぬままに過ぎた。
翌16日も過ぎ、17日を迎えて、午後4時、突如として非常招集のラッパが
鳴り響いた。攻撃隊員全員が集合すると、教育隊長が壇上に上がった。
顔色が青ざめ、緊張の様子がありありと見える。腰の軍刀をすらりと引き
抜き、型の如く敬礼が終わった後、隊長の口をついて出たのは、思いがけぬ
言葉であった。
「天皇陛下の命により、当教育隊を、ただいまをもって解散する。よって各
下士官兵は、速やかに原隊に復帰せよ」
一体どうしたのだ?教育隊長の突然の解散宣言だけではよく事情が飲み
込めず、私たちは混乱した。私たちは今日だって猛訓練をやった、それなの
に、この特攻隊を解散するのはなぜなんだ?しかもそれが、天皇陛下の命令だ
というのは、どういうことなんだ・・?
やがて各原隊から迎えの自動車がやってきた。車に駆け寄った私たちは、
運転席の兵に尋ねた。「一体どうなったんだ?何があったんだ?」運転席の
兵の返答はあっけなかった。「終戦になったんだってさあ」
p114 竹林地少佐の自決
原隊に帰り、勤務中隊事務室に行くと、長身の今村曹長がいた。今村曹長
は、私を見るなり言った。「井手、死ぬなよ。死んではいかんぞ」
今村総長がなぜこの一言を発したのか、そのわけはすぐ分かった。天皇陛下
の終戦の 詔勅が伝えられるとともに、シンガポールはじめ南方駐在の各部隊
には大混乱が生じ、収拾すべからざる状態となって、自決(自ら命を断つこと)
する将校下士官兵が続出し、そのため各部隊では幹部が必死になって自決寸前
の者たちの説得にあたっていたのである。まして私は、つい先刻まで、決死の
特攻隊員として覚悟をきめ、猛訓練に励んでいたのである。終戦によって、
不意にその精神の支柱を外され、絶望のあまり自暴自棄となって自決する
かも知れぬ、と今村曹長が危惧したのは当然であった。
・・翌18日早朝、午前4時ぴったりに、またしても非常呼集のラッパの音が
ブキテマの山に鳴り響いた。第二大隊全員、軍装して集結せよ、の命令だった。
地上に立ち込めた朝もやの中に整列した我が第二大隊の前に、竹林地達登
(ちくりんじたつと)大隊長が仁王立ちに立った。私が密かに尊敬する白皙
長身の陸軍少佐である。彼は腰の軍刀をギラリと抜き放つと、朗々とした声で、
こう訓示した。
「日本軍破れたと言え、我が第二大隊全員は未だ無傷である。生きて虜囚の
辱めを受けず。かくなる上は、イポー北方4キロの地点において、英軍
マウントバッテン軍の来襲を阻止する。日本男児の意気地を見せるのは、
まさにこの時である。我が第二大隊の奮起を望む!」
まだ混乱の中にあって、敗戦を実感できず、自分自身の気持ちを整理できずに
いた私たちの胸中を、竹林地大隊長のこの断固たる訓示は一直線に貫いた。
ためらう暇もなく、大隊長の訓示に応じて第二大隊は、直ちに出撃の準備に
とりかかった。兵器、弾薬、食料など、トラック50台に積み終わった時である。
営庭を横切って駆け寄ってきたのは、片岡幸作部隊長であった。部隊長は
まっすぐに竹林地少佐に近寄るなり、いきなり少佐を突き飛ばした。
「貴様は8月15日、恐れ多くも陛下より賜りたる詔勅のご趣旨がわからんのか!
みだりに兵を動かしおって、とんでもない奴め!早く兵を解散させよ!」
顔面蒼白になった片岡大佐は、竹林地少佐をこぶしで殴り付けた.竹林地少佐
は無念そうにがっくりと首うな垂れていたが、部隊長の鉄拳制裁がやむと、
整列して光景を見守っていた私たちに「解散」と宣し,将校宿舎のほうへ
歩み去っていった.
・・・・・・
将校宿舎の方角で、「ドン!」という銃声らしい音がした。不意に、ある
予感が私を打った。私は将校宿舎へ走った。・・
竹林地少佐は、左手に軍刀をもって腹一文字にかき切り、右手の拳銃で頭部を
撃ち抜いていたのだ。誠に武人としての潔い最後であった。・・・
(残された遺書には、抗命の罪は武人としてこの上なく重く、一死を持って
大罪を謝し奉る、とあったが)ところが、後日広島出身の下士官から聞いた
話では,少佐のような高級将校は、常に南方総軍の司令部に出入りしており、
戦局についても、日本国内の状況にいついても明るかった。したがって8月6日、
広島に原爆が投下され、一瞬にして広島市が壊滅させられてしまったことも
承知していた。ところで、少佐の実家は広島市の寺であり、その寺は市内の
中心地にあった。そのため,父母兄弟姉妹、家族全員が原爆によって全滅の
悲運に見舞われたことは確実であった。
その悲報に接して以来、少佐の顔に懊悩の影が深まり、今で言えばノイローゼ
気味になっていたということであった。・・
思えば自決した竹林地少佐は、私の真に畏敬する大隊長であった。剛毅である
反面、私たち兵隊の身の上にもよく心を配り、大声を上げて怒鳴り散らすだけ
が得意のあちこちの中隊長とは異なり、まさしく武人の亀鑑(かがみ)で
あった。尊敬する大隊長の自決に遭遇して、私もようやく敗戦を実感し始めて
いた。(中略)
p121 集団自決の心理
(歩兵連隊旗と昭南神社神殿に、日本軍自らの手で火が放たれた)
神社がすっかり焼け落ちて、白煙がたなびいているのを、はるか山上から見て
いた私は、大日本帝国の崩壊をはっきりと感じ取った。私だけでなく、忠霊塔
衛兵の一同は、誰もがそう感じたようであった。
「ああ、俺はもう死にたくなった」「大隊長も切腹したしなあ」「よぉし、
俺は死ぬぞっ」
誰かが言い始めると、もうそれを遮る者はなかった。歩哨掛の上等兵が大声で
叫んだ。「もう戦争は終わったんだぞ、歩哨なんかやめて、早く衛兵所へ
引き上げろ!」
衛兵司令の私以下九名全員が、ブキテマ山上の忠霊塔衛兵所に集合した。
窓からもう一度昭南神社のほうを眺めると、焼け跡からはまだ白煙が立ち
上っているのが見える。「みんなよく見ろ。この状況は、明治維新の会津
鶴ケ城と同じだ.戦争に負けた日本へオメオメ帰って、一体何ができる?
我々は、ジョホール、ブキテマで名誉の戦死を遂げた幾千の英霊を守る
名誉ある衛兵だ。この幾千の英霊の碑の下で死のう!大隊長も待っていて
くださる。ここで死ぬのは日本陸軍兵士として本懐だ。違うかっ!」
そう大声で叫んだのは、衛兵掛上等兵である。衛兵司令の私を無視しての発言
だったが、私にはもう気にならなかった。
忠霊塔衛兵は、前にも書いたように全部で九名である。自決するには、銃を
構え、二人ずつ相対して、私一人がハンパになる勘定だ。私は、一人だけ、
自分の銃で自決することに決めた。
私の命令で、全員黙々として38式歩兵銃に五発装填の実弾を込めた。安全装置
をかけた上、私を除いて全員が2列に相対して並び、互いの心臓部に銃口を
ピタリと突きつける。そして、「用意!」「撃て!」の号令で一斉に引き金を
引くのだ。
私自身はどうしたか。私に拳銃があれば、竹林地大隊長と同じように、
こめかみに銃口を当てて一発で十分である。しかし、長身の38歩兵銃では
それはできない.そこで巻き脚絆(ゲートル)を解き、編上靴も脱いだ上、
靴下もとって裸足になった。そして、銃の引き金に木の枝を差し込み、その
両端を左右両足の親指と第二指とで支え、銃口を心臓部に当てた。
こうして、自分自身の号令と同時に、両足に力を込め、グッと押さえれば、
弾丸は間違いなく私の心臓を撃ち抜いてくれるのだ。
こうして準備をしながらも、私の脳裏に浮かんだのは、やはり内地に残した
母と妻のつる、それに今は6歳になっているはずの娘の稀子(ひろこ)のこと
であった。どんなに可愛くなっているだろうと思うと、望郷の思いが胸を突き
上げてくる。しかし、その想念を、私は必死で振り払った。また思ったのは、
この場の八名の中には死にたくない者もいよう、ということであった。一時の
血気にはやって集団自決したとして、この責任は誰がとるのか?衛兵司令の私、
井手伍長はその責任を取り切れるのか?それで良いのか?しかしこの想念も、
私は無理やり追い払った。
銃の安全装置を外し、いよいよ「用意!」の号令をかけようとした時であった。
背後にカッカッと高い靴音がした。振り返ると、数メートル離れたところに
同じ部隊の田中久雄伍長が銃を肩にして立っていた。部隊衛兵司令とし上番中
らしく、その巡察にきたのであった。田中伍長は私と同年兵であるが、現役兵
で私よりずっと年も若く、勤務中隊では学科、術科、品行全てに抜きん出て
いる優秀な下士官であった。頭の回転の速さでも中隊随一の彼は、私たちの
姿を見るなり、直ちに状況を見てとったようであった。
彼の機転によって、私たち九名は辛くも死を免れるのである。
「待て、死ぬのは早い。話がある」
田中伍長は大声でいうと、まだ銃に手をかけたままの私たちのそばに足早に
近づいてきた。「なんだ、お前たち、死に急ぎおって!ただいま本部に入った
情報も知らんのだろう」
「そんなもんは知らん」自決の前に飛び込んできた田中伍長に、私はそっけなく
答えた。
「そうだろうと思った。知っておって死にいそぐ馬鹿はおらんからのう」
「じゃあ、一体どんな情報だ」
田中伍長はゆっくりと私たちを見渡しながら、もったいぶった口調で言った。
「実はのう、今入った情報によると、こうなんじゃ。我々の部隊は輜重兵に
属しておる。歩兵の第一線部隊とは異なるのだ。よって、わが部隊と同系統の
兵站部隊である野戦兵器廠、野戦貨物厰ともども、わが部隊は、第一番に内地
へ帰還できることになった。その情報がさっき入ったんじゃ」
「ウワーッ!」兵隊たちの間から歓声が上がった。同時に一同、ドカドカと
田中伍長を取り囲む。どの顔も輝いている。つい今まで死のうとしていた
ことなどすでに何処かへ消しとんでいた。誰かが咳き込んでたずねた。
「内地へ第一番に帰れるなんて本当ですか?」
「もちろんだ。俺が嘘を言うと思っているのか」
いくつかの質問におうように答えて、まもなく田中伍長は銃を肩に降りて
いった。みんなはニコニコ顔でその後ろ姿を見送った。さっき、あれほど死を
思い詰めていたのに、全く呆れるほどの変わり身の速さであった。しかし、
これが、外地においてふいに終戦を知らされ、混乱、動揺に陥った兵隊たちの
心理状態であったのだ。夕方になって,また巡察に現れた田中伍長に,私は
さっそく聞いた. 「その後、司令部の情報はどうなったか?」
「うん、大本営から近日中、北支・中支・南方各方面軍へ、天皇陛下のご名代
として、各宮殿下が差し使わされることになり。湘南島の岡総軍司令部には
閑院宮春仁殿下が来られることになったそうだ」さらに話を聞くと、あの
竹林地少佐がそうだったように、終戦に承服できない将校たちが独断で兵を
動かし、今後進駐してくる連合軍に対して戦闘を挑んだりすると、収拾の
つかない混乱状態となり、せっかくの天皇陛下の戦後の詔勅を無にしては
ならないというのであった。
のちに、私たちの部隊が真っ先に帰還できるという田中伍長の情報は、
私たちの自決を思い止まらせようとした田中伍長のウソであったことが
わかった.そのウソによって、私は死の淵から引き戻されたのであった。
*************************************
🦊
そのご、武装解除、密林での原始生活を経て、イギリス軍のチャンギー刑務所
(シンガポール)に収容され、取り調べ、飢餓地獄(朝にビスケット三枚、
午後にドロップ4粒が1日分の食事)、元住民の襲撃、技術部隊への志願
(主人公は左官業が本職)で"特別食"にありつく、・・・
突然の全員無罪放免の宣告、出所の順番を待つが、井手伍長は放免されず、
リババレー作業隊(実は捕虜強制収容所)に送り込まれ、(総人口約1万名)
種種雑多な部隊からきた兵士とともに重労働に明け暮れる。1日にレーション
1個で腹ペコだ。「私たち日本兵の捕虜を作業に使役できるのは、イギリス軍
にとって極めて有利であったろう」
空腹のあまりインド人やマレー人に物乞いして食べ残しのカレーを恵んで
もらったり、 (ただしこれは中国人には通用しなかった)また、倉庫での
荷運び作業で、衣料品を盗み出して中国商人に売ったり、「しかし、
わたしたちがこういうことをやるのは、食うためでもあったが、同時に、
意思表明でもあった」。
建築作業班でのはたらきが評価されて,食事等の待遇もよくなった.
作業所主任の若い英軍将校との友情談なども語られる.
昭和22年5月、南方からの第一次帰還船で帰国。
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エノコログサ(あかまんま)
野草の美しさは、その枝ぶりや、
葉っぱのいきいきとした(空を飛びそうな)
活力、いかにも虫たちを惹き付けそうな
花の色と形。たとえ人間にはチッポケな
やつと映ろうとも、ちいさな虫たちにはまるで
御殿みたいだろう。
「雑な草」なんてない。野草同士の
生き残り合戦は熾烈だが、
「雑な生き物」ニンゲンは、野草の
生きる大地まで根こそぎ奪ってしまった。。
“奪われたひとびと“ーー戦時下の朝鮮人ーー
塩田庄兵衛
朝日ジャーナル編 「昭和史の瞬間」 上 より 1974年 刊 朝日選書
🦊:ここで、宗教と(あるいは個人崇拝と)教育、それに絡んだ
「ノーと言えない人間」作りの手口について知りたいとキツネは思った。
p334
ーー大正天皇は、明治天皇のおぼしめしをおうけつぎになって、
一視同仁の御いつくしみをますますおひろめになり、京城に
朝鮮神宮をお建てになって、天照大神をおまつりしてまつりごと
のもとゐをお示しになり、明治天皇をおまつりしてまつりごとの
はじめを明らかにせられて、朝鮮のまもり神になさいました。
このやうにして、皇室の御めぐみは、あまねく朝鮮に及んで、
人々は安らかな生活を営み、内鮮一帯のまごころがしだいに深くなり、
平和のもといがかためられました。
朝鮮の政治は、代々の総督が、ひたすら一視同仁のおぼしめしを
ひろめることに力をつくしたので、わずか30年ほどの間に、
たいそう進みました。したがって、世の中は穏やかになって、
産業は開発され、中でも、農業や鉱業の進みが著しく、海陸の
交通機関はそなはり、商業がにぎはひ、貿易は年ごとに発展して
ゆきました。
また、教育がひろまり、文化が進むにつれて、風俗やならはしなども、
しだいに内地とかはりないやうになり、制度もつぎつぎに改められて、
内鮮一体のすがたがそなはってゆきます。地方の政治には自治が
ひろまり、教育も内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。
とりわけ、陸軍では、特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防の
つとめをになひ、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ、靖国神社に
まつられて、護国の神となったものもあり、氏(うじ)を称へることが
ゆるされて、内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。ーー
(初等国史、第6学年、朝鮮総督府、昭和16年3月31日)
“開発“の名のもとに
私たち日本人は、日の丸弁当の味を知っている。いかに梅干し一つの
おかずとはいえ、とにかくそれは白米であった。・・
しかし豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)日本でも、神武以来
白米を常食としてきたわけではない。日本人が(正確にいえばその大部分
が)三度三度米を食うようになったのは、米騒動(1918年)以降のことだが、
それは殖民地朝鮮における「産米増産計画」の実施と時を同じくしている。
この計画は、はじめ1920年からの15ヵ年計画として立案され、
なかなか順調に運ばなかったが、太平洋戦争開始のころまで強行された、
朝鮮統治の重点政策であった。それが残した成果は、数字に表れている。
つまり、1912年から33年までの約20年間に、朝鮮における米の生産高は
幾らか増加しているにかかわらず、朝鮮内での消費量は絶対的に減少して
おり、一方、日本への輸出は、50万石から870万石へとめざましく増加
しており、とくに1931年以降は、全生産高の約半分が日本にはこばれている。
その結果、朝鮮人の一人当たり消費量は、年間7斗8升(約140リットル)から
4斗1升(約72リットル)へと半減しており、日本人一人当たりの半分にも
足りない。これが数字の語るところである。
米騒動で表面化した日本国内における米の不足、米価の値上がりを解消
して「低米価・低賃金」政策を維持する上で、安い朝鮮米の輸入が大いに
役立ったことは確かだが、米作りに精を出した朝鮮人は、米が食べられなく
なった。彼らには、満州(中国東北)から輸入された雑穀があてがわれた。
朝鮮人は粟をくえ、である。「産米増殖計画」とは、実は「産米取り上げ」
政策であったのだ。日本人の指導による土地改良、農業技術の向上の成果を
評価するためには、それが朝鮮人自身に何をもたらしたか見る必要がある。
同じ性質の問題に、「満州事変」以後の工業化政策がある。1930年代に、
朝鮮の工業化が猛烈な勢いですすんだ。鉱山が開発され、水豊ダムのような
大発電所が建設され、日本窒素肥料株式会社の大化学工場が操業し、
鉄道網が広がった。
しかし民族資本が成長したのではなかった。そこで製造されたのは、
下請け的な部分品であり、金、鉄鉱石、石炭などの地下資源は、原料として
日本に運ばれた。活躍したのは、三井、三菱、住友、野口の四大財閥であった。
その目的はもっぱら軍事的であった。工業化政策とは、戦争の前線に近い
朝鮮に、大陸侵攻のための足場を築く兵站基地化政策であった。
その際、朝鮮人労働者の低賃金が利用された。王子製紙の社長・藤原銀次郎が、
体験を語っている。
「当時、朝鮮の工場は、労働者を日本からつれてゆき、社宅を与え、日給も
2円ほどであった。朝鮮人の日給は2〜30銭から4〜50銭止まりであった。」
・・・(南綿北羊という地域的分業が強制され、全て原料として日本に
「供出」させられるなど)「開発」とは「略奪」に他ならなかった。
皇国民化
日中戦争が始まると、国家総動員体制の一環として、朝鮮人の「皇民化」、
すなわち皇国臣民化の徹底が図られた。朝鮮総督宇垣一成陸軍大将のいう、
「いざ鎌倉の際にも、絶対に母国日本を裏切らない」朝鮮人を鍛え上げる
ことが課題である。言い換えれば、朝鮮人の非朝鮮人化を目標とする殖民地
支配の可能の極限の実験である。
1938年からは、これまで学校でわずかな時間ながら教えられていた朝鮮語
の授業がなくなった。先生は、その理由を、「天皇陛下は日本語でお話に
なる。我々は天皇陛下のお言葉がわからないと、大御心(天皇家に伝わる遺訓)
どおりの生活ができない。だから朝鮮人は、1日も早く日本語がわからなくては
ならない」からだと説明した。休み時間の鬼ごっこにも、うっかり朝鮮語を
使ってはならなかった。毎日授業の終わった後、先生は「今日は誰が朝鮮語を
使ったか」と調べる。名を挙げられた生徒たちは、一列に並ばされて殴られた。
学校では、朝礼に「皇国臣民の誓詞」を暗誦させられた。1937年に作られたもの
である。
1、私どもは大日本帝国の臣民であります
1、私どもは心を合はせて天皇陛下に忠義を尽くします
1、私どもは忍苦鍛錬して立派な強い国民となります
12歳以上の大人用は文語調である。
1、我国ハ皇国臣民ナリ忠誠以てテ君国にニ報ゼン
1、我等皇国臣民ハ互ニ信愛協力シテ団結ヲ固クセン
1、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養イ以テ皇道ヲ宣揚セン
朝鮮人の間には、「ひどい目にあった」というときに「ココグルモゴッタ」
(皇国をくらった)といい、馬に鞭をあてるときに「コーコクをくらわすぞ」
という言い方でこの誓詞儀式に対する呪いがいまだに残っている。
1939年には、「創氏改名」が行われた。つまり朝鮮人の姓名を日本風に
変えることが「許された」。無論、ぐずぐずしていると、忠誠心の不足を
責められた。紀元2600年の1940年9月には、全人口の8割がこれに従った。
こうして、たとえば金君は金田君に、張君は張本君といったように改名した。
そればかりではない。大日本帝国の軍人となる「光栄」までが与えられた。
1938年に陸軍特別志願兵令交付、43年に海軍特別志願兵令交付、さらに
44年には徴兵令施行となった。この結果、45年8月までの間に、陸軍
18万7000名、海軍2万2000名、合計21万名ほどが動員された。この朝鮮青年
の「皇軍」は、中国をはじめ南太平洋の各戦線に配置された。たとえば、
日本軍が最も惨憺たる敗北を味わったビルマ派遣軍の中に「狼」師団が
あって全滅したが、その5分の1、約2000名が朝鮮人部隊であったことを、
当時の参謀辻政信が記録している。
これに加えて「日本陸海軍要員」、すなわち「軍属」と呼ばれた軍関係の
労務者が徴用された。徴用はすでに1939年から始まっていたが、41〜45年の
太平洋戦争期間中に、15万名の朝鮮人が戦線に連行され、軍需物資、
軍隊の輸送や、道路、飛行場の建設などに使役された。男子ばかりではない。
「女子挺身隊」「戦線慰問隊」などの名目で動員された、おそらく数万の
女子が「慰安婦」として戦線に動員された。このことを体験によって知って
いる日本人は、少なくないはずである。・・(中略)
軍人、軍属の37万名を含めて、太平洋戦争遂行のために日本の国家権力が
動員した朝鮮人は600万人に上ると言われる。在日朝鮮人の歴史家・朴慶植氏
の調査によると、1939年から45年までに、朝鮮国内での徴用450万、日本内地
への強制連行100万と推定されている。いわゆる強制連行は1939年から始まるが、
その前史として、朝鮮人の日本への渡航の問題がある。
強制連行
何を恨もか 国さえ滅ぶ
家の滅ぶに 不思議ない
運ぶばかりで 帰しちゃくれぬ
連絡船は 地獄船
現在日本には約60万人の朝鮮人が住み着いている。むろん好き好んで日本に
渡ってきたわけではない。故国を追われた人々、強制連行された人々、
あるいはその子孫である。
1910(明治42)年の「日韓併合」と同時に、朝鮮統治の第一着手として
「土地調査事業」という名の「土地取り上げ」が10年にわたって強行された。
近代的な土地所有権を設定する、という触れ込みであったが、その結果、
100余万町歩の田畑と1120余万町歩の山林が日本の国有地に編入された。
たとえば、殖民地会社として設立された東洋拓殖株式会社(東拓)は、
1910年の所有地1万1000余町歩が、10年後の1920年には10万町歩に10倍化
した。土地測量隊が通り過ぎたあと、いつの間にか先祖伝来の土地が自分のもの
ではなくなっていた。
1920年代には、先に見た「産米増殖計画」の強制で、水利施設、土地改良の
費用負担にたえられない農民が、どんどん土地を手放す羽目になった。その上、
日本人農民が多数入り込んできて、朝鮮人は小作農もできなくなった。
土地を追い立てられた朝鮮人は、満州、シベリア、あるいは日本へと流亡した。
第一次世界大戦で高度成長を遂げた日本資本主義は、安価な労働力として朝鮮人
プロレタリアを歓迎した。日本人の労働ブローカーが盛んに活動して、内地に
どんなうまい話がころがっているかを宣伝した。朝鮮人労働者の大部分は、
道路、鉄道、河川工事などの日雇い人夫、すなわち不熟練の筋肉労働に従事した。
就労は不安定で、しかも賃金は日本人労働者の半分か、せいぜいそれを少し
上回る程度であった。それも前近代的な親方制度でピンハネされた。土建の
飯場やスラムのドヤ街や、バラックの朝鮮人部落の、不潔で陰惨な生活が、
彼らのネグラとなった。もともときれい好きの、礼節の正しい民族であるのに・・。
(中略)
虐待ーー逃亡ーー虐殺
彼らが受けた待遇の一端を、筑豊丹田で一緒に働いていた日本人のお婆さん
が覚えている。
「ぶっ叩きよったばい、人繰りが。日本人も叩く。けどそれより朝鮮をひどく
殴るばい。むげないごたった。ステッキで叩きよった。血が噴き出るばい。
水で冷やしよった。食うもんもろくになかとに、ヒョロヒョロ歩きよると、
こら!というて叩くとじゃけ。みんなが馬鹿にしてかわいそうじゃた。
朝鮮は戦争中は食べもんなしじゃ。生胡瓜をそんなり2本くらい食べよった。
それだけ、朝は粥でよろよろしとった。日本人が監督して、骨ばかりに
なっての、むげなかったばい」(森崎和江『まっくろ』)
当時可能な抵抗は、いくつかの「知られざる暴動」を除いては逃亡であった。
39年から45年までの連行朝鮮人のうち、およそ22万余名が逃亡したと、
日本の官庁統計は述べている。無論逃亡は命懸けであった。「途中で捕まった
者の一人をみんなの前で半殺しにしながら、『これを見ろ、逃げるやつは
此奴のようになる』と憲兵に脅されたときは、恐ろしくて恐ろしくて、声は
おろか身動きもしばらくできなかった」と、九州の飯塚炭鉱での経験を語って
いる証人がある。
それでも次々に逃亡者が出た。それを助けた日本人もあった。金仁植さんは、
日本鉱管川崎製鉄所から北海道函館まで、空襲罹災者になりすまして逃げたが、
寮長も寮のおばさんも、彼が逃げることをあらかじめ知っていて、銭別を
包んでくれた。そして会社には一切秘密にしてくれた.
たくさんの死者が出た。強制連行者100万人のうち、死亡者は6万4000人と
朴慶植氏は推定している。飢えと疲労や頻発する労働災害で倒れていった者
ばかりではない。リンチで虐殺された者も少なくなかった。長野県松代町には、
本土決戦に備えて地下に大本営が掘られたが、この建設工事に使役された
朝鮮人のうち数百名が行方不明であることについて、機密防衛のため消され
たのだと、関係者の間で噂されている。朝鮮人だけではない。中国人も4万名
余りが日本に強制連行されたが、うち7000名が死んでいる。秋田県花岡鉱山
で400余名を虐殺した事件は有名である。
・・敗戦とともに、日本政府が、これらの証拠書類を焼却したのである。
これまで私が書いてきた報告が、断片的で不正確な点があるとしても、必ずしも
筆者の責任ではない。
これが太平洋戦争終了までの日本と朝鮮との関係、すなわち日本帝国主義の
殖民地朝鮮人に対する取扱の一端である。1910年代の「土地取り上げ」の時代、
1920年代の「米取り上げ」の時代、1930年代の「人取り上げ」の時代から、
さらに1040年代の「命取り上げ」まで事態は進んだ。そして生き残った人々は、
それから20年後の今も独立した祖国に往来する自由を奪われたままである。
無論ここに紹介した事実は、氷山の一角にすぎない。しかし少なくとも
これらの事実は、「日本の朝鮮統治は朝鮮人に恩恵を与えた」
「朝鮮を併合してからの日本の非行に関しては、私は寡聞にして十分
存じておりません」等々の現在日本の指導者の発言とは両立しない。
そして日本は、過去に朝鮮に負わせた深い傷に対して何の償いもしない
ままで日韓条約の成立を急いだ。
この過去を忘れることができない朝鮮人民が、日韓条約を第二の「日韓併合」
として警戒していることに対し、日本人はどんな態度を取ろうとするのか。
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🦊:この問いかけから更に50年がすぎ、昨今のメディアには再び
「朝鮮人出て行け」の声が無遠慮に叫ばれるようになった。
これが「日本人の正体」なのではないか、とキツネは真っ暗な気持ちに
なる。そして、目に見えない「皇国日本教団」の復活を思わせるアジア人
バッシングと「核帝国米国」へのラブコール。何も戦前と変わらず、
何も知らない、そして相変わらず「アジアの警察官」気取りの思い上がり。
法治国とは字の間違いで、痴呆国ではないか!
それに一番気になるのが、文部省の頭に「私どもは皇国の臣民として、
忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」式のぶん殴り教育がいまだに
根付いていることだ。
これらにノーと言える日本人を育てるために、教育を家庭に取り戻そう。
親の平常心を強く保とう。少なくとも同じアジア人を撲殺することの
「異常さ」を感じられる、「普通の人間」として。
2021 5 14
2021. 12
「悠久の大義に生きよ」と、脳天からヤカンの笛みたいな
部隊長演説。
しかも大本営の預かり知らぬ ところで決定された作戦。
特攻昨戦の記録映像が、12月8日、大平洋戦争の開戦記念日に、
各テレビ局で放映された。
「悠久の大義」とは、「靖国神社に祀られた死後の兵士の勲章」
あるいはIS(イスラミックステーツ)の、爆弾を体に巻き付けて
自爆死する若者の「護教の戦士」へのアコガレ、
またはアメリカ青年の「弱虫と呼ばれたくない」という
抜き難い男魂の伝統。
なかでも、マルレと呼ばれるベニヤ板製のボートに爆弾を
積み込んで、アメリカ艦に体当たりして死んだ兵士たち哀れ。
しかも、作戦遂行の罪人たる上層部は、このことを徹底して
隠蔽し、生き残った兵士には箝口令が布かれた。
ことの起こりは「悠久の大義」なる言葉にあり、フィクション
と知りつつ、それを宣伝した輩がおり、またそれをフィクション
とは思わずに信じた中堅将校(陸軍)の高発熱状態のオツム、
またフィクションだろうとなかろうと、無意味な死以外の
選択肢を持たなかった特攻戦士たち。
しかも彼らの年齢は主に「16歳から18歳」であったと言う。
陸軍の大本営は、このことを一切知らなかった、知らされ
なかった、と言い、特攻を企画し実行した輩は「証拠はない。
証人をを出せ」と開き直る。焼けるものは全て焼却し、自分らの
罪を告発すべき生き残った証人の口を全てふさぎ、新聞雑誌を
検閲し、70年に亘って「国民を弱腰にしてはならん」などと
尤もらしい理屈をつけて学校教育を支配し、いまだに70歳代の
政治家たちに「お爺ちゃんたちの名誉回復」を目論ませている。
なんたるアナクロニズムか。
「俺たちのヒイジイチャンが、負けるとわかっている戦争を
始めた、それでその責任を全く認めなかったという話だろ?
それが俺と何の関係がある?そりゃ、あんたら世代が自分たち
で反省すればいいじゃんか」という若者。
関係が一つだけある。それは、「悠久の大義」は意味の分からん
アナクロだとしても、「同盟関係は永遠にして鉄壁」とか、
「核の傘の下は安全」とか、「国境を守れ。GDPを下げる
貧乏人を受け入れるな」から「軍備の機械化、兵士のロボット化、
それと並行して宇宙空間を支配せよ」まで、「今ここにある大義」
が、政治家、経済人によって諸君の耳に盛んに吹き込まれている。
「その現実からは逃れられない。ならば精一杯上手く立ち回る
までさ。それが正しい道だ」とか。
それがフィクションかどうか、は諸君自身の判断にまかされて
いる。どうする?
キツネの庭の初秋。金水引、アカマンマ、ヒヨドリバナ、ヌスビトハギ、ホトトギス
リュウノウギクなどが避難してきた。
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