円の侵略史
「円の侵略史」 島崎久彌著 日本経済評論社=1980年刊
ーー円為替本位制度の形成過程ーー
🦊キツネは経済音痴であるから、(偉そうに言わなくても)この手の
専門書には歯が立たない。大体「侵略史」かと思うと、どうやら、「我が国
植民地銀行群の形成過程」が本旨であるらしい。単行本430ページに及ぶが、
読みにくいということは全く無い。ただ、こちらに経済の知識がゼロという
ことで、別に初心者向きの解説本をつまみ食いしつつ、著者には申し訳ないが、
「侵略史」部分だけをまとめてみたが、他にそのような研究は少ないらしい。
島崎久彌・・1953年東大法学部卒。東京銀行勤務を経て、関東学院大学
経済学部教授
「はしがき」より
「本書は、1878年の第一銀行の韓国への進出に端を発し、太平洋戦争下に
おける『大東亜金融圏』の形成に至る我が国の植民地、金融、通貨政策の軌跡を
鳥瞰するとともに、それの矛盾が深化していく過程を実証的に分析しようとした
ものである。」
「序」より
「家永三郎教授が指摘されたように、太平洋戦争は、満州事変以来の一連不可分
の連続行為であり、通貨、金融面においても、満洲中央銀行の創設を契機として
達成されるに至った満洲の幣制統一は、その後の対華北金融工作から大東亜金融圏
の形成に至る一連の円系通貨圏形成過程の橋頭堡をなすものであった。しかしながら
満洲中央銀行の創設は、それに先立つ『鮮満金融一体化』構想の副産物であり、
それの原点は、さらに1878年における第一銀行の韓国進出に遡ることができる
のである。しかもそのような一連の対外金融侵略のプロセスは、純然たる政治的な
事由に基づくものとは考えることができないのであり、経済的な動因は、政治的な
モチベーションと交錯し、渾然として政治と一体をなしていたのである.
そのような観点から本書では、満州事変の勃発する以前の時代に遡りながら、
大東亜金融圏の形成に至るまでの我が国対外金融、通貨侵略の過程を考察してみる
ことにした。」
p5 我が国植民地銀行群の形成
(台湾銀行は、1899年8月に創設された)「台湾銀行の創設目的は、1897年の
台湾銀行法に掲げる如く、『台湾の金融機関として商工業竝びに公共事業に資金を
融通し、台湾の富源を開発し経済上の発展を図り、なお進みて営業の範囲を南清地方
及び南洋諸島に拡張し、これらの諸国の商業貿易の機関となり以って目的となす。
(中略)又台湾は我が本土と遠く隔離せるが故に経済上同島の独立を計るは最必要
にして、一朝事あるに当たりても能く経済上の独立を維持し得べき方策を施策するを
要す。又台湾に於いては、内外の貨幣雑然流通し、幣制殆ど紊乱の極に達せるを
以って、台湾銀行をして弊制整理の任にあてしめんとす』るにあった。
元々台湾銀行は2つの顔を持っており、一つが台湾島内の金融機関としての役割で
あったとするならば、今一つは外国為替銀行としての機能であった。
台銀は、単なる台湾の中央銀行として兌換券の発行や幣制の整理、あるいは国庫
事業を取り扱うだけではなくて、産業資金の供給と政府事業の経営を支援すると
ともに、手形割引、勧業担保貸付、不動産抵当貸付等の多様な業務を営むことが
可能であり、いうなれば『日本銀行、勧業銀行、工業銀行の職務を一身に兼併』
していたとも言えるのである。」
🦊この記事によれば、「なお進みて南清、南洋諸島』に拡張し、とあるから、
いわゆる「南進」は、軍部の暴走なんかではなくて、最初から大東亜共栄圏構想
に組み込まれていたのがわかる。その構想を牛耳っていたのがどのような資本家、
政治家たちなのか、この本にはあまり出てこない。
p21 台湾の幣制整理
「一人台湾だけではなくて、我が国が帝国主義的な海外進出を試みるに当たって、
直面した金融面における最大の問題は、現地における幣制の統一であり、
華興商業銀行券の発行や、太平洋戦争下における現地通貨表示軍票の導入を除き、
ほぼ一貫して踏襲された政策は、日本と同一の貨幣制度を現地に移植することに
よって、単一の円系通貨圏を形成し、それを拡大しようとしたことであった。」
「ちなみに1895年以前の台湾における幣制は、その当時の清国と同じく紊乱
を極めており、元を計算単位としていても、現実に流通する貨幣は、百数十種類
にも達していた。それらは馬蹄銀(官鋳と私鋳があり、巨額の金銭取引に使われて
いた)、銀貨(清国各省の官鋳の制銭及び北京官鋳の葉銭ならびに民間で私鋳
された私銭の3種類があった)に大別された。紙幣は殆ど発行されていなかった。
それら各種の貨幣の中で最も流通性に優れていたのは、メキシコ銀貨などの外国
銀貨と、香港、広東などから流入した銀貨であった。日本の一円銀貨も対岸の
中国本土から流入していたが、日本政府が軍事費の支払いにあてるため、多額の
日本銀行兌換券(金又は銀と交換できる日銀発行の紙幣)、一円銀貨及び補助貨幣
を持ち込んだため、 通貨の混乱は、さらに一段と増幅された。・・
台湾銀行券は、当初から日本銀行券を発行準備としなかったのが特色であり、発行に
あたっては、同額の金銀貨及び地金銀を必要とするなど、厳格な規定を設けると
ともに、総督府も銀行券の使用を住民に諭告した。しかしながら台湾では、銀行券の
使用に馴染みが薄く、加えて北清事変などの政治的な不安が頻発したために、銀行券
の流通は順調ではなかった。さらには1902年から1904年にかけて金銀比価の
変動が激化するに伴って投機が発生し、内地との交易や台湾の財政などにも多大の
支障をきたすに至った。ついには島内の銀行までが投機的な操作を実施し、台銀も
巨額の損失を被ったため、台銀は「金銀較差勘定」を設けて損失が発生した場合の
補填を図るほか、貸出や預金の制限を断行した。その様な非常手段をこうじたにも
かかわらず、台銀は損失を防止することができなかったため、金銀の法定比価の廃止
を求めようとしたが、台北商工相談会などは、これに対して猛烈な反対を行っ
た。・・
台湾が台湾銀行法の改正によって金本位制に移行したのは、1906年2月のことで
あり、銀貨の引換期限は1909年の4月、銀券の引換期限はその年の3月末日と
定められた。台湾における金本位制度の導入は、三井物産、鈴木商店、湯浅商店など
内地資本の台湾進出を促すことになり、それに対応して台銀券の保証発行限度も、
500万円から1000万円に引き上げられた。のちに台銀の内地向貸出と預金の残高は、
第一次世界大戦中に、島内のそれを凌駕したが、台銀は鈴木商店の機関銀行と化し、
(大震災後貸出の過半を占める鈴木商店の事業、投機資金需要に応ずるため、
コール・マネーに依存し、震災手形により延命を図った)鈴木商店の破綻と共に、
一時休業を余儀なくされるに至った。
次に台銀の今一つの側面である為替銀行としての側面を一瞥してみることにするが、
台銀は創設の当初から「帝国南進策」の起点であり、「南門の關鍵」と目されていた
のである。一例として、「為替及荷為替業務」は、台銀法第5条第二に掲げるところで
あったが、時の民生長官後藤新平は、台湾の通商貿易関係を、①内地との関係、
②南洋諸島との関係、③対岸との関係に分け、「これらの内最も重要にして急務なるは
対岸との通商」であると考えていた。その当時の児玉総督の台湾統治とは、要するに
対岸経営にほかならなかったのであり、児玉がそれの第一弾として提唱したのは、
台湾銀行の廈門支店設置であった。その後台銀は、香港、福州、汕頭、広東、上海に
支店を設けたほか、さらには進んで長江沿岸の華中の要地に漸次営業所を開設した。
これら台銀の華南、南方への進出は、第二代頭取柳生一義の英断によるものであり、
当時上海は、正金の領分とされていたために、総理や大蔵大臣にまで工作を行った
が、時の総理大臣桂太郎からは「度々上海までだぞよ」と念を押されとのことで
ある。又1905年には廈門において銀票、その翌年には福州において支払手形
を発行したほか、取引の不便を除くため、円銀の流通に努力した。日本が廃貨した
一円銀貨を華南やシンガポールにおいて、引き続き使用させるため、台銀にその
任務を遂行させようとしたのである。・・
ちなみに大正期における台銀の対中国投資残高は、1916年(大正7年)に、
5千800億円を記録したが、それの原資としては、預金部資金に依存しただけでなく、
華南の支店において、退職官吏等の資産家を対象とする利付定期預金を発行した。
さらには1916年から1918年にかけて信託預金を開発し、第一次世界大戦中に
蓄積された内地資本を吸引して、華南と南方に対するの投資活動を積極的に展開し
た。それと並行して台銀は、1899年の神戸支店開設を皮切りとして、大阪、東京、
横浜、門司に営業所を開設すると共に、大阪支店を中心として輸出組合を結成して、
中小商工業者の貿易を振興した。台銀が外国為替業務に進出したのも、同じく
柳生頭取の時代であり、柳生はとりわけ中小商工業者のために、南方の市場を
開拓することをもって使命とした。・・
台銀は、輸出金融の供与にとどまらず、自ら倉庫を建設し、華南と南洋におけ
る各種の調査や輸出先商社の紹介、あるいは注文の斡旋等を行った。その様な
台銀の地道な為替業務の開拓は、大正期におけるメイン取引先、鈴木商店
(台湾の樟脳、砂糖販売により、個人商店から脱皮し、一時は三井、三菱をも
凌ぐ勢いさえも示した)の躍進とも相まって、台銀の為替取引シェアーを急激に
拡大させることになったのである。
(中略)
その様な状況の中で台銀は1912年に開設されたシンガポール支店を皮切りとして、
バンコック、ラングーン及びジャワの各地に次々と支店を開設し、金融面からの南方
関与を深めていくことになったのである。故矢内原教授の言葉を借りるならば、
「台湾銀行は台湾の植民地銀行である。けれどもそれに止まらない。台湾を基礎と
せる我が国資本の帝国主義的発展の機関である。朝鮮銀行が我が北方帝国主義銀行
であるごとく、台湾銀行は南方におけるそれである」・・
しかしながら台銀は、西原借款(1917年、寺内内閣の時に、首相私設秘書の
西原亀蔵のお膳立てで、段祺瑞政権に与えた1億四千五百万円の借款。台銀は、朝銀、
日本興業銀行と共にこれに関わっていた)の回収不能に加うるに、鈴木商店の倒産に
より、昭和の初期には深刻な経営の危機に直面したが、その様な状況の中で植民地
銀行のあり方が論議され、台銀券、朝銀券と日銀券との統一論が再燃した。それの
急先鋒となったのは、時の大蔵大臣高橋是清であり、高橋は議会において、これらの
植民地銀行が「今まで種々国家に迷惑をかけた主なる原因は発行権があるため、金が
自由になりすぎる点にある」とのべ、さらに「我が国全体としても通貨発行権を
中央銀行に統一しておかなければ金融や資本の統制が出来ない」と主張した。
とりわけ高橋は朝銀券に対して、厳しい態度を示したがその背景には単なる金融
コントロールの必要性だけではなくて、後述の様に軍部と結託した朝銀の侵略主義に
対する反発が多分に秘められていたものと見られる。日銀も統一は時間の問題である
との談話を発表したが、高橋蔵相が二・二・六事件の凶弾に倒れたために、この
問題は未解決のまま棚上げされることになったのある。
p37 朝鮮銀行の形成
1910年の8月韓国の併合により、朝鮮銀行(以下朝銀と略称)は、名実共に
朝鮮半島における中央銀行としての地歩を確立したが、朝銀は一人韓国のみならず、
軍部の満洲、華北侵略を金融面から幇助するための最も積極的なプロンプターと
なったのである。しかしながら朝銀は、韓国の植民地化を契機として創設されたもの
ではなくて、それの前身は、1909年に設立された韓国中央銀行であり、それは
さらに1878年(明治11年)に進出した第一銀行の韓国支店に遡ることが
できる。その様な意味で朝銀の歴史は、文字通り我が国の大陸侵略政策の金融史
にほかならなかったのである。
第一銀行が1873年に創業を開始してからまもなく、1878年にその支店を
韓国に設置した理由は、1876年2月に成立した韓国との修好条約に基づいて、
日本の政府が、韓国との間における通商の開始、我が国通貨の韓国における流通、
韓国産金の買い入れを企図するに至ったためである。当初第一銀行はいち早く
韓国に進出しようとした大倉組と提携して両替、荷為替、貸付を実施しようと
した。大倉組が釜山に支店を開設したのは、1876年のことであり、それの
契機となったのは日韓貿易の促進を意図する大久保内務卿の要請によるもので
あった。しかしながら「日韓修好条約付録」の第七款は、朝鮮における日本通貨
の自由流通と日本人による韓銭取引を認めているが、日本通貨と韓銭の交換を
媒介する金融機関が存在しないため、輸出業務では韓銭の処分に困り、輸入業務
では韓銭不足に悩まされるという問題が生じ、大倉は渋沢と相談し、両者が
それぞれ2万5000円ずつ出資し、計5万円の資本金で為替交換所を設立しようと
したのである。ところが西南戦争後審議が持続される過程で、大蔵省が銀行
以外の一般企業との共同事業を許可しなかったため、第一銀行は単独で
釜山に両替所(のちに第一国立銀行釜山支店と改められる)を設立したほか、
1880年には、砂金の買い入れを兼ねて、元山にも出張所を設立した。(中略)
前述の様に第一銀行の韓国支店は、海関銀行として一覧払い手形の発行を認められた
上、やがては、韓国の幣制改革を推進することによって、韓国における中央銀行として
の地位を確保することになったのであり、次にその過程を簡単にレビューしてみる
ことにしよう。
第一銀行の頭取渋沢栄一は、1894年12月、時の大蔵大臣渡辺国武の諮問した事項
の内、韓国の貨幣制度および銀行制度については、開港場における本邦の銀行、商店
に委託して、開港場に流通する銀行券を発行させることが望ましいと答弁し、
第一銀行が韓国において中央銀行的な機能を営む用意があることを明らかにしていた
のである。
ここでその当時における韓国の貨幣制度を一覧してみると、李朝の末期までは米や布
などの商品貨幣が主体であったが、李朝の末期には葉銭と称する数種類の銅銭と
真鍮銭が流通していた。1883年には、当5銭を新鋳し、葉銭の一枚程度にしか
相当しないものを、葉銭五枚に相当するものとした。それだけでなく、その後も
改鋳に改鋳を繰り返したため、(はじめは銅の地金に亜鉛を加え、のちには銑鉄を
下地に用いた)幣制は混乱し、物価の騰貴と貿易の混乱が招来された。(中略)
1904年、日露戦争の開始にあたって日韓両国は、攻守同盟を締結し、韓国政府は
新貨の鋳造を大阪の造幣局に委託すると共に、幣制の統一と中央銀行の創設などの
改革に着手した。まず韓国は、日本の幣制をモデルとして。金貨、銀貨、白銅貨、
青銅貨を発行し、1905年の1月、第一銀行に幣制整理の事務を委託した。
幣制条例の施行に伴い、貨幣制度が紊乱する基因となった白銅貨と葉銭の回収を行う
ため、日本政府は300万円の借款を供与したが、葉銭は津々浦々まで流通してい
たために、回収が困難であり、補助貨幣として一部それの通用力を認めざるを
得なかった。同時に第一銀行は、国庫金の取り扱いを認められると共に、第一銀行
券は法貨として無制限に流通することになった。
(第一銀行は、いち早く一覧払手形の発行に踏み切っていたが)1902年には
10、5、1円の銀行券を発行し、同行の在韓国店、出張所において同額の日本通貨と
引き換えることにした。一時は韓国政府の内部における親露派の官僚による妨害も
見られたが、1904年の2月、韓国の幣制紊乱とそれに伴う交易上の障害を考慮し、
政府は第一銀行に対して無記名式一覧払銀行券の発行を許可した。(🦊一覧払い=
手形の支払い期日を定めず、支払人はそれを提示された日に支払いを済ませなければ
ならない=参着払い)それと共に他方では、それの乱発を防止するため、銀行券の
発行高に限度を設定するとともに、発行規則を改正して、金・銀貨と日本銀行兌換券
を正貨準備とし、公債、商業手形などを保証準備とすることにした。(この
改革案は、韓国の幣制を日本と同一のものにしようとしたのが特色である。
そのためには韓国に対する日本政府の貸付によって、日本と全く同じ韓国紙幣を
発行させるのみならず、日本の貨幣を流通させようとしたものである)。なお、
鮮銀の正貨準備は、日銀券が圧倒的に大いなる部分を占めており、日銀券の
ほかに、金貨・地金が現実に正貨準備に繰り入れられたのは、1904年以降
のことであった。その原因は、金本位準備金をロンドンに設置させ、金のロンドン
集中を企図したインドの金為替本位制度と同じように、伝統的に韓国の金が
内地に回収されたためであった。(中略)
1909年、時の台湾統監伊藤博文が、一民間銀行に銀行券の発行をはじめとして、
中央銀行の業務を委ねることは好ましくないと主張したため、韓国銀行(資本金は
1000万円、韓国政府より一定期間、年6分の利子補給を受けた。銀行券の保証準備
発行制限額は2000万円とし、同額の金銀貨・地金の他に日銀券を準備として保有
しなければならなかった)が設立された。・・
(なお朝鮮銀行法案の審議を経て、その結果として)朝銀は韓国における中央銀行
としての役割を果たすだけではなくて、普通銀行業務を兼営し、やがては「鮮満一体
化政策」の尖兵として、満洲や華北に業務を拡大していくことになったのである。
p47 日清銀行構想の台頭
我が国の中国大陸に対する金融侵略の構想が、明確な形で塑造されるに至ったのは、
日清銀行の設立構想によってである。初次的な段階におけるその構想は、清国に
おける輸出市場の確保を目的とする貿易銀行の設立構想に過ぎなかったが、時が
経過するにつれて、当初の貿易銀行的な色彩は次第に褪色し、居留民に対して起業
資金を供給するための不動産銀行、あるいは鉄道の敷設や鉱山の開発などを目的と
する投資銀行や、利権獲得銀行などの典型的な植民地銀行の創設を求める構想へと、
変貌することになったのである。(中略)
しかしながら日清戦争後は、我が国における商工業の発展と国民の海外雄飛の機運
あるいは条約の改正に伴う外国資本の流入に対する懸念などをバックとして、貿易
の振興が叫ばれるに至った。その当時は、正金(横浜正金銀行=貿易金融、
外国為替決済に特化した銀行)の為替銀行としての機能が十分でなかったことが一因
となって、貿易金融機関の増設を望む声が彭湃として台頭した。
1895年には、官民をあげて直輸入の促進を求める動きが活発となり、農商務省
は、東京および大阪の商業会議所に対して、海外直輸入業に関する調査を依頼した。
それに対して東京商業会議所は、1896年に行った答申の中で、正金とは別個の
貿易銀行を創設すべきであると提言した。・・その年の10月には、農商務省に
おいて、第一回農商工等会議が開催されて、海外金融機関の拡張問題が審議された。
席上山本亀太郎神戸商業会議所会頭は、正金神戸支店の応対こそ改善されたものの、
米国における正金の出張店などの役員が尊大であると非難した。結論としては、
①正金を拡張して、香上銀行を凌駕するように育成することとし、台湾にも正金の
支店を設置すること、②正金の他に有力な貿易銀行があれば、それに越したことは
ないが、国家的な保護を与えることは避けること、などが決定された。
その後、1931年には、またしても日清銀行の設立を求める機運が再燃したが、
その原因は、1931年の恐慌によるものであり、中でも日清戦争の終了後、その
基盤を確立するに至った紡績資本にとっては、対清貿易の拡大が急務とされた
ためである。ちなみに「開港以後ほぼ1890年に至るまで完成品たる綿製品の輸入国
たる地位から半製品たる綿糸輸入国へと変貌してきた我が国が、以後急速に輸入
紡績機による工場制紡績業の支配的地位は確立し」たのである。その結果清国に
対する綿糸の輸出も急増し、1898年度における清国(香港を含む)との貿易額は、
1億円を超えると共に、6000万円以上の出超を記録したが、そのうちの3分の1は
綿糸の輸出によるものであった。・・(中略)
p59 正金の満洲中央銀行化
正金の大陸における業務の拡大は、日清戦争後の紡績資本による輸出市場確保の
要請に対応するものであったが、その段階における正金の活動は、為替銀行として
の機能を大きく逸脱するものではなかった。しかしながら日露戦争後の状況は、
正金の大陸における活動を量的に肥大させたのみでなく、過渡期とはいえ、満洲に
おける中央銀行および不動産銀行としての役割までも、正金に負担させることに
なったのである。(中略)
また1905年の1月には、満州における軍票の価値を維持し、その流通を促進する
ために、牛荘支店が預金のほか、政府勘定による上海、芝罘向為替の対価として
軍票を受け入れた。1904年には、軍票の流通高が5000万円に近づくと共に、
それらの軍票が牛荘に充満したため、軍および外務省の出先は、円銀との交換または
上海等に対する為替の対価として軍票を受け入れることによって、それの価値を維持
すべきであると政府に上申した。それを受けて政府は円銀を正金牛荘支店に交付して、
軍票との交換を実施させた他、前述のような一連の軍票価値維持政策を打ち出すこ
とになったのである。なお日清戦争の場合に軍票は、遼東半島で極めて少量用い
られた他は、事実上使用されなかったが、日露戦争にあたっては、我が国が
金本位に移行していたため、早くからそれの準備を行なっていた。すなわち
1904年の閣議において、日露間の平和が破綻した場合には、「軍用切符を
発行し、円銀をもってこれを引換することとせん」との決定を行い、その翌日
には、「軍用切符取扱順序」を制定すると共に同年3月円銀の製造に取り掛かった。
日露戦争の軍票には、「軍用手票」の文字が印刷され、清韓両国語によって
兌換文言が併記されていた。その額は、当初に予定されていた1億円を上回り、
1億4800万円の軍票が発行された。(軍票は何回も回転するので、その残高は、
同行の計算によって回収されることになったのである)それによって我が国は、
日銀券の増発や財政上の負担を免れ、大量の銀貨を携行する場合に比べると
迅速な作戦行動をとることができた他、銀価格の高騰を避けると共に、満州に
おける通貨の整理をも促進することができたのである。
p63 満州経営のトリオ
1905年の「軍用手票整理」によって「正金の一覧払手形の発行は、これをもって
軍票を回収整理し、軍票の後継者として満州地方の公貨たらしむることを期するもの
である」ことが明らかにされた。・・
(一方1906年に、桂太郎政府から訓令が発せられ、そこで①満鉄②正金③興銀の
トリオが日露戦争後の満州経済経営を担うことになった)興銀の満州における貸付
は、ほとんどが満鉄に限られていた。正金も奉天総督に対する貸付や、直隷省、
郵電部公債の引受け、湖北省、西江総督、湖南省に対する貸し付けなどを実施し
た。・・
そのような政治的な借款が、大々的に行われる反面、その当時の世論を沸騰させた
のは零細な本邦移住者の満州における起業資金の供給をめぐる問題であった。
(中略)
満州における幣制統一作業の展開は、とりも直さず満州が、我が国によって植民地化
されていく過程に他ならなかった。その当時において、中国の幣制統一は、日本のみ
ならず欧米列強にとっても共通の関心事であったが・・中国の幣制整理が一応の
成果を収めるためには、1933年の廃両改元(国民党政権による)を待たなければ
ならなかった。
そのような状況の中で、満州における幣制も同じく混乱を極めていたが、それは単に
貨幣の本位と種類が多様であっただけでなく、並行本位であったために、各通貨
の交換比率が、それぞれの実質価値のみならず、受給関係によって変動し、止まる
ところを知らなかったためである。・・
p91 朝鮮銀行の満州進出
正金を実施機関として円銀による幣制の統一が挫折に追い込まれた原因として、
第一に満州と韓国の間に安奉線(鴨緑江を渡って奉天と安東を結ぶ)が開通し、
鴨緑江鉄橋の完成、国境での関税の減税などにより、朝銀券が満州に流入したこと、
また朝銀の積極的な満州進出工作があった。・・
その当時の韓国は、対日入超を続けており、そのような片為替を満州における
輸出為替の買取りによって是正することは、朝銀の経営にとって、緊急の要務とも
言うべきものであった。朝銀の第2代総裁勝田主計は、朝銀が既に満州に数カ所の
支店や出張所を設け、とりわけ北満に強い特色を力説すると共に、北満を離れては
南満における我が国の利権を確保し、増進することが不可能であることを強調した。
・・朝銀の推進した「鮮満金融一体化」工作は、軍部と綿業資本のバックアップ
のもとに、傍若無人の展開を示すことになったのである。
🦊ここまでは、初めて手に入れた植民地の経営に四苦八苦する日本政府と、
その手足となって働く為替銀行の活躍ぶりだが、一方、軍部は派遣軍の軍費を
現地で支払うにあたって、軍票(円銀と交換可能な、一種の手形)を発行し、
それによって、重い銀貨を持ち運ぶ不便から逃れることができた。その軍票の
取り扱いについては後に出てくる・・
p262==軍政方針の確立
太平洋戦争の開始にあたっては、作戦計画の策定と並行して、占領下の行政、
つまり軍政のあり方が当然に問題として論議されるに至ったのである。ちなみに
太平洋戦争の勃発する直前の1941年の11月には、大本営政府連絡会議において、
「南方占領地行政実施要項」が決定され、仏印とタイを除く南方の占領地に
対しては、差し当たり軍政を施行して、治安の回復と重要資源の獲得、および
作戦軍の自治を確保することになった。・・
参謀本部では、1941年の2月初め以降、第一部内に研究班を設けて、「南方作戦に
おける占領地統治要綱案」および「南洋作戦の場合における財政、金融、通貨工作の
根本理念について」などの要綱案を立案した。その場合にも、戦争遂行に必要と
される資源と財力を欠いた我が国は、略奪を軍政の基本方針とせざるを得なかったの
である。その結果として立案に当たっては、戦争の遂行に必要とされる物資の獲得を
第一義とし、戦費の支出を「占領地の犠牲に於いて極力節減するのみならずさらに
為しうれば占領地より戦費を回収して国力を培養」しようとしたために、「占領地
住民の福祉増進は終局における戦勝獲得後に於いて企画す」ることになったので
ある。本要綱案の作成者自身も「露骨に言えば、国際法の許す範囲において
技術的に占領地を最大に搾取し、我が戦費を節約し戦力を維持培養とせんとする
方針に基づき立案せられたるもの」であることを自認せざるを得なかったので
ある。いなむしろ「戦勝を獲得するにあらざれば八紘一宇の大理想も実現し難きを
もって、占領地の住民もまた終局における東亜共栄圏の恩沢に浴せんがためには、
戦争間の苦渋は当然帝国民と等しく之を甘受すべきなり」と断定して、侵略戦争
の正当化を試みるに至ったのである。・・
軍政の実施は、陸海軍が協力して行うことになったが、奇妙なことには陸海軍の
縄張りが設定されたことであり、1941年に決定された「占領地軍政実施に
関する陸海軍中央協定には、陸海軍それぞれの主担任区域を次のように決定した。
①陸軍の主担任区域・・香港、フィリピン、英領マレー、スマトラ、ジャワ、
英領ボルネオ、ビルマ。
②海軍の主担任区域・・オランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、
小スンダ列島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアム島。
さらに1943年の5月には「大東亜政略指導大綱が御前会議において決定され、
①日満華相互の結合の強化、②既定方針に基づくタイとの相互関係の強化、
既定方針に基づく仏印との関係の強化、4ビルマ独立指導要項に基づく施策の
実施、⑤フィリピンの可及的すみやかな独立のほか、マレー、スマトラ、
ボルネオ、セレベスは、日本の領土とすることなどを決定するとともに、
フィリピンの独立を待って、大東亜各国の指導者による大東亜会議を東京で開催し、
戦争を完遂する決意と大東亜共栄圏の確立を、内外に宣明することになった。
1943年11月の5、6日には、大東亜会議が開催され、日本および満州、中国、
タイ、ビルマ、フィリピンの各国傀儡政権の代表によって、「大東亜共同宣言が
採択された。
p297 軍政下の通貨・軍票工作
「昭和財政史」第4巻によると、政府は開戦(太平洋戦争)前から、既に南方の作戦
地域に対する軍票の準備を行い、1941年の1月には早くも陸軍の要求によって、仏領
インド支那向けの印刷を開始した。(中略)「宣戦布告1ヶ月前において軍票の製造に
着手したのは、日華事変の初期華中進出に際して軍票の用意がなかったため、
やむなく日銀券を使用したり、日露戦争当時の旧型式の軍票に手を加えて使用
したりした苦い経験に鑑みてのことであった」と岩武輝彦氏は述べておられる」
南方むけ軍票の種類は次のようであった。
グルデン軍票、ドル軍票、ペソ軍票、ルピー軍票、ポンド軍票
これらの軍票は(ポンド表示の軍票を除くと)円と等価とされたが、その理由は南方
諸地域の通貨制度が複雑であり、それぞれの地域に適合した為替相場制度を、直ちに
設定することが困難なためであった。加えてそれらの地域には、厳格な為替制度が
施行され、日本と軍票経済圏との間には、資金的な交流が遮断されていた。
したがって、為替相場は事実上問題とならなかったのであり、むしろ軍の経理
処理上の便宜第一義として、円と軍票の等価交換が導入されたのである。
(主な南方軍政地における軍票工作の展開の一部を見てみよう)
①フィリピン
大戦の勃発する1941年11月末現在におけるフィリピンの通貨流通高は、硬貨を
含めて総計200万ペソに達していた。開戦に先立って米軍は、コレヒドール要塞に、
通貨6000万ペソ、金塊160万ペソ、銀貨1700万ペソ、合計1億2000万ペソを移送し、
撤退時には、之を焼却あるいは海中に投棄したため、コレヒドール島以外には、
1億9000万ペソが残留しているに過ぎなかった。したがって、米軍の撤退後に残された
のは、1億2000万ペソであり、そのうちマニラには、1億ペソが残されていたと
言われるが、その大部分は、華僑の所持するところであった。(戦時中に発表
された日本側の文献によると、そのような通貨流通量の実質的な欠乏は、軍票の
流通を促進する格好の土壌を形成し、とりわけ退蔵や反日に伴う小銀貨幣の払底は、
少額軍票に対する需要を喚起するに至った)(中略)
(米軍が公官吏の俸給に対する支払いなどの目的で発行した緊急通貨を、占領後の
日本軍は無効とする宣言を、軍政部の名において発布した。しかしながら現地人は
軍票を「モンキー紙幣」と呼んで、その価値を信用しなかった。また偽造が行われた
ため、軍は厳罰をもって望んだが、軍票の拠布は、物資の不足とも相待って、
インフレを加速させた。
🦊アレアレ、日本軍は、本国から金も物品も送ってもらえず、占領はしたが、「戦勝後
払いの約束手形」でなんとか軍費を稼ぎ、兵隊のなけなしの給料からほんの一部を
本国の家族宛に送金(強制的に)するなど、四苦八苦。それに比べて、米軍の金持ち
ぶりはどうだろう。「金塊160万ペソ分を海中投棄」だって!それよりも悪いのは、
すごいインフレで、島民が被った苦難だろう。「モンキー紙幣」に違いない。
p178 2。華北のインフレと預け合い契約
(二・二・六事件により高橋是清蔵相が倒れて以来、朝銀は、陸軍と結託して、
積極的な華北進出計画を展開した)日中戦争の勃発時には5店に過ぎなかった朝銀
営業所は、たちまち12支店27営業所に急増した。・・朝銀券の信任を保つためには、
正貨準備を補強し、物資を供給することが必要とされたが、日本における正貨や
物資の保有は十分ではなく、為替管理で武装された円とは違って、朝銀券は
「なんらの武器なく全く裸のままで海外へ出かけ」るようなものであった。・・
第3次の華北通貨工作案として登場したのは、中国聯合準備銀行(略称聯銀)の
創設案であり、同年12月には、王克敏臨時政府(日本の傀儡政権)首班が、河北省、
冀東両銀行および中国、交通等の中国系銀行の代表者を北京に招いて参加を求め、
1938年の2月には、「中国聯合準備銀行設立要項」が公布されるに至った。・・
聯銀の資本金は5000万円とし、半額払い込みであった。資本金の半額は、臨時政府の
出資であり、残りの半額は、民間の8行が現銀で払い込んだ。臨時政府払い込みの
日本通貨1250万円については、興銀を代表とし、正金および朝銀によって代表される
銀行団との間において、借款契約が締結された。聨銀はそれによって、正金と朝銀
および満銀から、中国洋銀を買い入れた上、それを朝銀に預託した。しかしながら
そのうちの350万円は、朝銀に対する指定預金として、日本の内地に留保された。
さらに残りの900万円のうち180万円は、在外正貨として同じく日本内地におかれ、
残余の720万円で購入された銀も、朝銀に納入された。そのようにして、三銀行の
借款は、見せかけであっただけではなくて、実質的には、朝銀が漁夫の利を得たこと
を示すものであった。そこでやむなく聯銀は朝銀に預託されていた720万円の銀塊を
ロンドンに現送して、ポンドに換え、ようやくにして聯銀券の正貨準備を確保する
ことができたのである。・・
一方、民間銀行の払い込みは、現銀によって行われ、中国、交通および、河北省の
各銀行が保有する現銀のうち、1250万円相当については、京津両市現銀保管委員会
から、銀国有令に基づいて、供出の命令が出された。しかしながらその保管に
ついては、従来どおり、それら銀行の金庫を利用することになったので、所有が
委員会に移転されたとしても、それは名目的なものにしか過ぎなかった。事実中国、
交通両行の支店長は、本店との打ち合わせと称して、香港に逃亡し、資本金の
払い込みに応じないどころか、現銀を海外に売却しようと試みた。しかも
それらの中国銀行は、営業の本拠を、英仏租界においていたので、聯銀は
なんらの強制的な措置をも講ずることができなかった。1939年の7月に
東洋で開催された日英会議においても、我が国はイギリスの租界内において
保管されている現銀の引き渡しを要求したが、イギリスは本国が臨時政府を
承認していないこと、1935年以来中国は銀の国有化を実施しているので、
それは蒋介石政権の所有に属することなどをを理由として、之を拒絶した。・・
1940年の7月には、英租界内の現銀1400万元を支出して、難民を救済するため、
国際管理の下でカナダの小麦を購入するとともに、残りは暫時日英の共同管理とする
ことで、一時的な妥協が成立した。
華北におけるインフレを加速化した要因として忘却することができないのは、聯銀と
朝銀および正金との間で締結された「預け合い」契約(正式には中国聯合準備銀行と
朝鮮銀行および横浜正金銀行との預合契約)によって、軍費の支弁等日本側の必要に
応じて、聯銀券が自由に創出されるメカニズムが、ビルト・インされるに至ったこと
である。当初この契約は、1939年の6月に朝銀と聯銀との間において、非公式に
締結され、朝銀の華北における支店が、聯銀券資金を必要とする場合には、朝銀の
北京支店が聯銀の名義で保有する日本円預金勘定に貸記すると同時に、聯銀はその
金額に相当する金額を、朝銀名義の聯銀券建預金勘定に貸記することになったので
ある.この預け合い契約によって朝銀は、満州からの撤退に伴って喪失した巨額の
預金を、カバーすることができただけではなく、1944年には、朝銀の総預金に
占める華北支店の預金が、8割近くに達した。その結果として朝銀は、聯銀から事実上
無担保で、営業上必要とされる資金を無制限に入手することができるようになった
のである。・・
しかしながら1943年10月から12月までの預け合いのうち、3億2200万円は
日本政府の国庫金支払い資金以外であり、坂谷顧問は、朝銀の田中総裁に、
「貴行の本預け合い使用ぶりは右の用途(国庫金支出、経済開発資金、日支間
国幣資金)に関係なく全ての資金を一応は預け合いにより調達せられ」と抗議した。
(預け合い勘定の乱用には一応の歯止めがかかるようになったが)預けあい契約に
基づいて、50万人にものぼる軍隊の軍事費や、経済開発資金、および対日国際
収支尻を、無制限かつ一方的に、ファイナンスするための自動的なメカニズムが
導入されたことは、華北における物価騰貴の一因をなすに至ったのである。
ちなみに1934年の4月から臨時軍事費の支払いについては、現地のインフレに伴う
臨時軍事費特別会計予算等の膨張により、軍事費の現地調達が行われることになり、
それまでの日本における財政収入の国庫送金による代わりに、政府貸しあげ制度
(政府が民間銀行から資金を借りる)が導入された。蒙疆と華北の軍事費については、
朝銀、華中と華南の軍事費は、正金から借り入れることとなり、朝銀は貸し上げに
必要な聯銀資金を、預け合いによって調達したが、その返済は、自国通貨でしかも
戦後に行われることとなっていたのである。その結果として聯銀の預け金は、聯銀券の
発行準備の10割を占め、それを除くならば聯銀の発行準備は、皆無と言えるような
状態を呈するに至ったのである。
🦊面白がってここまで引用してきたが、子犬が3匹でグルグル追っかけあい、
みたいで、何が何だか、実はわかっていない。要するに発行準備金は日本に引
き上げてしまって、その分を銀行間で貸し借りする。おまけに軍事費や公用資金
以外の訳のわからない出費も、こっそり潜り込ませて使い放題、まさに錬金術。
という話かな?これでは現地の人たちに受け入れられるわけがない。
相手には2000年もの商売の歴史がある。
🦊「円為替本位制度」の定義や、果たして「形成されたのか」、それとも雲散霧消
して終わったのか、キツネには理解不能である。だから本書の「むすび」から、
以下の文章を引いて、終わりにしたい。
「もともと我が国の北進政策は、ロシア、後のソ連に対する潜在的な恐怖感に裏打ち
されたものであり、それに輸出市場の確保や利権獲得などの経済的な要請が複合
されて、軍事と経済が糾える縄のような関係を保ちながら、対外的な侵略が押し
進められることになったのである。・・
そのような我が国の対外侵略政策の展開には、当然のことながら、金融、通貨政策
面における対応が必要とされたのであり、太平洋戦争への道程は、同時に円の
対外侵略の歴史に他ならなかった。それは、輸出市場の確保から、利権の獲得へと
力点を変え、ついには戦費調達の手段と化することになったが、円の対外侵略は、
過剰資本の輸出を目的とするものではなくて、むしろ資源とともに資本の現地調達
を企図するものであったのである。一例として傀儡政権下の地域的な発券銀行に
対する我が国の借款の多くが、単なる見せ金に過ぎなかったことは、我が国の
資金不足を物語る格好の悲喜劇ともいえるが、逆に現地に天文学的なインフレを
巻き起こした預け合い契約は、現地資本収奪の恐るべき見本を示すものであった。
そのような我が国の植民地・占領地金融、通貨政策を、ほぼ一貫して貫流してきた
指導原理は、我が国の通貨制度を現地に移植しようとする自国本位の「同化主義」
に他ならなかった。為替リスクを現地に転嫁するとともに、為替の換算に伴う労力
を節約しようとするものであり・・為替相場の変動に対する理解と適応を欠いた
我が国の国際性の欠如を示す好例であり、為替相場に対する無理解を、為替換算
率という造語によって隠蔽しようと試みた小児病的な愚昧さに至っては、噴飯の
他はないのである。・・
植民地ごとに多様な通貨政策を採用したイギリスの「適応主義」と格好の対照を
なすものであった。)・・
確かに同化主義の一つの典型としては、第二次世界大戦前におけるフランスの
植民地通貨政策をあげることが可能であり、それは第二次世界大戦後も、
「フラン圏」の形成によって、基本的に継承されることになったのである。
そこにおいては(仏領インドシナを例外として)本国とフランスの海外領域の
通貨が相互に等価交換性を保証され、文字通りの最適通貨圏を形成していた。
しかしながらそこでは、海外領域の準備が、パリに集中されていただけでは
なくて、本国と植民地との間における財、サービス・資本の移動も、自由であり、
さらには物価水準の平準化を達成するために、財政、金融、経済政策の調整が
実施されていたのである。・・
初期の「鮮満一体化構想」が日満華円ブロック政策に拡大され、それがやがて
大東亜金融圏構想へと肥大化するにつれ、円を圏内の基軸通貨とする構想が
登場した。とりわけ米英蘭の対日資産凍結を契機として、ドルまたはポンドとの
結びつきを失った円は、金為替本位制度の原理に立脚して、衛星国の準備資産
として機能するだけでなく、圏内通貨の価値基準となるとともに、決済手段と
しても使用されることになったのである。・・大東亜金融圏の構成図は、
相互に経済的な補完制を欠如するとともに、我が国の金準備と物資供給力の
不足に基づく、円の振替性事実上の喪失などに伴って、東京中心の総合精算制度も、
所詮は画餅に帰するの他はなかったのである。
大東亜金融圏の総合生産制度は制度的に極めて不完全であり、盟主国をもって
任ずる日本もそれを維持し、発展させるだけの経済力を具備していなかった
のである。いなむしろ我が国は、大東亜金融圏の共存と共栄を謳いながらも、
その実は飢餓的な戦争を遂行する間に、現地のインフレと荒廃を代償として、
資源と資本の略奪を、豺狼の如くに、飽くことなく追求し続けたのである。
一例として、次のようなあるビルマのt知識人の証言は、大東亜金融圏の実相が、
いかに腐敗と汚辱に満ちたものであったかを、赤裸々に物語るものと言えよう。
「日本の船は、武器と軍需品と酒と慰安婦の他には何一つとして、この国に
持ち込むことがなかった。軍の用を達したのは、寄生虫のようなブローカーと
日本の軍部と商社に寄生していたもの達であった。。物資の供給は急激に減少し、
そのために夢のような値段が支払われた。際限のない軍票の散布によって、彼ら
(ニュー・オーダー・ブローカーと呼ばれていた)は、一包みのタバコに
数百ルピーを支払い、その食事に数千ルピーを使った。・・・それに愛人を
囲っていた・・・彼らの奉仕する山師と戦時利得者は、巨額の資金を物と金に
投資し、買い占めを行うとともに、土地の上にあぐらをかいて太っていった。
それに対して多くのビルマ人は、うなぎ上りに値上がりする劣悪な食料事情下で、
栄養失調に陥っていった。」
***********************l.
「どうやって払うの?歴史の精算は高く付く。英奴隷貿易35兆円、米奴隷制は
1285兆円なり」 YAHOO!ニュース==2020.6.29
木村正人(在英国際ジャーナリスト)
「奴隷貿易は受け入れがたいイギリスの歴史」【ロンドン発]
米白人警官による黒人暴行死事件に端を発した黒人差別撤廃運動Black Lives Matter
(黒人の命は大切だ)が欧州に飛び火し、原因を作った奴隷貿易(大西洋三角貿易)
やそれに続く植民地支配の精算を迫っています.
奴隷貿易の責任を負うとしたら、その額は一体どれくらいになるのでしょう。
「レイシスト(差別主義者)という非難や破壊行為から逃れるためか、BLMに対して
伝統的な金融機関や法律事務所が謝罪や遺憾の意を表明する例が相次ぎました。
過去の総裁や理事計27人が奴隷貿易に加わった英中央銀行、イングランド銀行は
肖像画の展示を見直すとして、次のような声明を出しました.
「18、19世紀の奴隷貿易が受け入れがたいイギリスの歴史であることは明らかだ.
イングランド銀行が直接、奴隷貿易に関与することはなかったものの、過去の総裁
や理事が言い訳できない繋がりを持っていたことを認識しており、それらを謝罪する」
世界的な保険市場ロイズも、「18、19世紀の奴隷労働でロイズが果たした役割は
残念。イギリスと弊社の歴史のゾッとするような恥ずべき期間だ。私どもはこの
期間に起きた弁解しようがない不正行為を非難する」とマイノリティーの包摂的
プログラムに取り組む考えを表明しました.
エリザベス女王の代理人も務める伝統的事務所ファラーも、「19世紀の前半に
補償申請の助言を行なった.現在の事務所の価値や文化とは正反対に位置する私たち
の祖先の行いを悔いる」と遺憾の意を表明しました.
さらに英4大銀行のロイヤル・バンクオブ・スコットランド(RBS)、ロイズ・
バンキング・グループ、バークレイズ、HSBCは差別撤廃と、マイノリティー従業員
や地域への貢献を増やすことを公に誓いました。しかし、「謝罪」は「補償」を
伴うのが国際社会の常識です。
「1807年に奴隷貿易廃止法を制定したイギリス」奴隷貿易(大西洋三角貿易)
は、17〜19世紀、雑貨や銃などの工業製品がアフリカに輸出され、黒人奴隷
(黒い荷物)が大西洋を越えて西インド諸島や北米大陸に運ばれました.黒人奴隷が
生産した綿花や砂糖(白い荷物)は欧州に送られました。
スエーデン・ヨーテボリ大学のクラス・ロンバック教授の論文によると、三角貿易と
植民地のプランテーション、関連事業を合わせた国内総生産(GDP)への貢献度は、
1701年の3.1%から1800年は10.8%に達しています.
1200万人の黒人の奴隷が輸送され、300万人が死亡したとされています.1776年、
アメリカの独立宣言でこの一角が崩れ、自由貿易や人道主義の高まりとともにイギリス
は、1807年、世界に先駆けて奴隷貿易廃止法を制定します.
1833年には奴隷制も廃止され、イギリス政府は奴隷約80万人の損失(奴隷所有者
の損失)を補償するため、永久債を発行して財源を捻出します.英政府が償還し終えた
のは2015年のことだそうです。ロンドン大学コンバーシティ・カレッジ・ロンドン
の奴隷所有者データベースによると、補償金は当時の金額で総額2000万ポンド,
現在の価値に換算すると170億ポンド(約2兆2500億円)が4万7000人の奴隷所有者に
配分されました.
英紙フィナンシャルタイムズの特集記事「検証:奴隷貿易『ギリスは返済する負債が
ある』」によると、この2000万ポンドの半分でも不動産に投資されていたら1500億
ポンド(約19兆8800億円)の価値になっている可能性があるそうです.
また奴隷約80万人の市場価値は2000万ポンドではなく、実は5000万ポンドで、当時の
イギリスのGDPの12%。現在、GDPの12%は2640万ポンド(約35兆円)に当たります.
ちなみに奴隷貿易はスティーブン・スピルバーグ監督の名作である米映画
「アミスタッド」(1997年公開)で描かれました.
1862年の奴隷解放宣言で、アメリカは400万人が解放されました.それに対して
補償するとなると、10兆から12兆ドル(約1070兆〜1285兆円)に登るという
米シンクタンク、ルーズベルト研究所の試算もあります.
『謝罪だけでは十分ではない」
トリニダード・トバゴの西インド諸島に拠点を置くカリブ研究協会は「制度化
された人種差別、白人至上主義、警察の残虐行為とジョージ・フロイドさんら
米国および世界中の黒人犠牲者を生んだ体系的な社会不正を糾弾する」と表明
しています.
カリブ諸国12カ国は「謝罪だけでは十分ではない」と何らかの補償を求めています.
西インド諸島大学の副学長でカリブ共同体補償委員会委員長のヒラリー・ベックルズ
教授は.2014年に英下院でこう証言しています.「イギリスの奴隷船は180年
にわたって550万人の黒人奴隷をアフリカからカリブ海に運んできた.奴隷制度が
廃止されたとき、残っていたのは、わずか80万人だった.」「奴隷制と虐殺の邪悪な
システムが確立されたのは、この英下院だ。この下院は法律を可決し、財政改革を
取りまとめ、現在、修正を要する有害な遺産と永続的な苦しみを生み出すという罪を
犯した.」「下院はまた奴隷制からの解放と植民地主義からの独立を実現した.
私たちが今期待しているのは、補償のための法律が制定されることだ.過去の
ひどい過ちが是正され、これらの歴史的な犯罪の恥と罪悪感から人類が最終的に
そして真に解放されると信じている」
ベックルズ教授によると、奴隷約80万人の価値は約4700万ポンドで、支払われた
補償金約2000万ポンドとの差額である約2700万ポンドは、解放された元奴隷に
よる「実習」、要はタダ働きで(元所有者に)支払われたそうです.
ベックルズ教授は、例えば次のような形の保証を求めています.
(1)大英帝国最大の奴隷植民地だったジャマイカは1962年の独立時には80%が
非識字者。イギリスはジャマイカの教育と人材育成に投資を。
(2)大英帝国最初の奴隷社会であるバルバドスでは、砂糖と塩の摂取率が高く、
糖尿病と高血圧が蔓延している。イギリスはバルバドスの教育と健康に責任を
負っている。
これらはもちろんイギリスの植民地だった他のカリブ海諸国にも当てはまります。
ベックルズ教授は今回ロイター通信に、「謝罪だけでは十分ではない。
私たちは街角の物乞いのように何かを求めているのではない。金銭は二の次だが、
道徳的な義務から解放されるためにはカリブ諸国の発展のために市場経済で貢献する
ことが求められる」と訴えています。
奴隷制だけでなく、過去の植民地支配も裁かれ、補償が求められるとなると、
韓国との間で急日本軍従軍慰安婦問題、元徴用工問題を抱える日本にとっても、
対岸の火事では済まされなくなってしまいます。
(以下略)
*********************************
🦊鈴木商店について
「幻の総合商社鈴木商店」桂芳男著 1989年現代教養文庫 刊
によれば、(三井、三菱と並んで天下を3分する勢いを見せた鈴木商店も、第一次
世界大戦の終了により、船舶部門は不振に陥り、大正12年には関東大震災で鈴木
商店は約500万円の損失を受けた)
「関東大震災による経済界の動揺を防ぐために、政府は9月7日に1か月間の
モラトリアム(支払い猶予令)を施行し、27日には「震災手形割引損失補償令」
を公布した。後者は、震災がなければ当然支払われるべきものと認められる銀行割引
手形を、日銀の再割引を通じて資金化することを保証するものであった。(この
未決済額の58%(1億2180万円)は特銀(台湾銀行と朝鮮銀行)関係、そのうちの圧倒的
部分は鈴木関係であった)鈴木はこの震災手形で苦境を脱した。」(中略)
「しかし、震災恐慌に続く世界的な不景気に直面して、ついには台銀依存基調の
金融体制の分野で、それこそ劇的な挫折を被り、金融恐慌(昭和2年)の激浪を
巻き起こしてその巨姿を没し去るに至るのである。
大正15年9月、蔵相片岡直温は、金解禁(旧平価解禁)の断行を決意し、金解禁
準備工作(正貨現送、低金利、財界整理)を図ったが、その核心は、震災手形の
処理法案と普通銀行法の改正を骨子とする銀行の整理促進案であった。(中略)
すでに昭和元年末、台銀の貸し出し高は5億4000万円に達し、そのうち3億5700万円
が鈴木関係であった。しかし、預金残高は9300万円に激減して預貸率は極度に悪化。
貸借対象表上の総負債の過半は「借り入れの性質を有するもの」で占められ,
4億7000万円に達し、それは預金高の約5倍、資本金の約10倍であった。(昭和財政
史・第十巻)。台銀は、対鈴木関係を主軸とする固定貸による、このような窮状を
コール(短資)の吸収で糊塗し、コール取引高は2億4000万円に達してその命綱と
なっていた。ところが、震災手形問題の紛糾以来、台銀と鈴木の信用に対する警戒が
一層激しくなり、そのため鈴木の単名手形(自己宛融通手形)や書合手形(企業間
融通手形)は割引不能となり、鈴木金融難の尻が台銀の対鈴木貸し出しに集中した
ばかりでなく、三井銀行を先頭とする市銀の巨額のコール引き揚げに直面して、
台銀はついに資金難に陥り、その融資余力を失うに至った。・・ここにおいて台銀は、
鈴木との絶縁の決定を下したのである。(昭和2年3月)。借入金総額約5億円の
うち3億7900万円を台銀に負っていた鈴木は、4月2日に倒産した。鈴木の整理難は
台銀の整理難に跳ね返ってくる。いきなり鈴木を絶縁したことは、他の債権を持つ
銀行に対する背信行為となり、台銀への恨みは市銀の台銀に対するコール引き上げを
再燃させた。台銀は早くも13日に日銀の融資拒絶で行き詰まり、期待をかけた2億円の
政府補償の台銀救済緊急勅令案も枢密院で憲法違反として否決され、若槻内閣が倒壊した。
かくして台銀休業を口火とする全国的恐慌が勃発したのである。この恐慌は、
全国銀行の自発的一斉休業で、政友会田中新内閣による三週間のモラトリアム実施
など、一連の措置によって収拾されたのである。」
🦊このような鈴木商店の「栄光と挫折」といった本やテレビドラマは、大番頭金子
直吉の業績,総合商社としての経営体質、倒産の原因などについて、例えば金子の
ワンマン経営=儲けは全て設備投資にあて、ひたすら事業拡大に努める。順調な時は
良いが、不況となったら、過剰な工場や船舶が経営を圧迫する。また会社の株式化
には頑として反対する。倒産整理も長引き、実はいまだに整理が終わっていない、
それも政治家への献金を一切しなかったガンコさがよろしくなかったのでは、とか、
三井、三菱など他の財閥のように鉱山を所有していなかったのが敗因だとか、いわゆる
「社史」風の評伝になっているが、(キツネもその全部を読んでるわけではないが)
政府の「台銀を基軸とする植民地通貨政策」とその結果としての超インフレーション
と台湾民衆の苦難、台湾独立と民生の安定とは逆の「鈴木商店のための資金、資源
簒奪」、「軍部の南進を助けた軍費捻出マジック」等々には一切触れていない。
それは銀行業務や商社経営には一切関係ないとのスタンスだ。
日銀内のある報告文書に「当地の土人の生活はもともと貧しく、インフレの影響も
それほど感じないと思われる」と記されているという。植民地の人を「土人」と呼ぶ
感覚の異常さ、膨れ上がった日本人優越感は、未熟どころか犯罪である。そして
それは明らかに政府の背伸びした「植民地経営」の見当違い政策と一体のものだと
言える。「政府が悪い」「軍部がわるい」で済まされるものか。
アキノノゲシ
種をむすんでから,無風の室内で風を待つこと2週間.シャッキリとしていたが,
誰かがつまずいたら,待ってましたとばかり,飛び散った.
あわててひろいあつめて,鉢に埋めておきました.種のなかでも特に美しい!!
幕臣達の文明開化
2018年6月逓信博物館によるシンポジウム特集「幕臣達の文明開化」より
`www.postalmuseum.jp/publication==`研究紀要=第10
巻頭挨拶==石井寛治ーー東京大学名誉教授
(2010年3月以来刊行を続けてきた我々の通信史研究が、歴史上の画期について、
どのような新知見を提供しうるかに関する感想を述べさせて頂きたい。それは、
本号に掲載された特集「幕臣達の文明開化」の諸報告が述べる明治維新論が示して
いる新知見である。2018年6月16日に開催されたこのシンポジウムは、「明治
150年」を記念するイベントを開催するようにとの政府の要請に答えて、郵政博物館
の井上卓朗館長が、独自の視点から企画したものであった。
それは、「郵便の父」と言われる前島密が、旧幕臣でありながら明治政府に仕えて
郵便事業などの「文明開化」の政策担当者になったことからヒントを得て、明治政府
の「文明開化」の担当者の多くが、福沢諭吉や渋沢栄一に代表されるような旧幕臣
であったことを問題とし、そのことを通じて、従来流布されてきた薩長中心史観の
一面的な偏りを是正しようとしたのである。もっとも、そのことは、欧米先進国の
実情について諸藩士よりも詳しい幕臣達が、薩長中心の明治政府関係者の知識の
足りないところを補ったという単純なことではない。
福沢諭吉ら明六社の旧幕臣が唱えた「文明開化」の精神である「天賦人権論」は、
明治政府の作った大日本帝国憲法では否定され、福沢と政府との間には独特な
緊張関係が持続することになったのである。さらに、前島の企画した郵便制度は
官営論に立っていたが、明治政府はそのための財政資金をほとんど持たない貧乏
政府であり、官営郵便を実際に担当したのは、明治政府の末端の役人となることに
魅せられて郵便局の土地と建物を提供した全国の豪農達であったことも注意し
なければならない。つまり、薩長中心史観の批判の先には、明治維新を遂行した
のは下級武士だったという士族中心史観への批判も登場するのである。
こうして、薩長士族主導・旧幕臣支持のもとで平民たる豪商農のエネルギーが
引き出される形で初めて明治維新変革は実現されたという新しい立体的な維新像が
浮かび上がるのである。(中略)
・・最近は、自分の名前を隠したまま、インターネットで特定の人の考えや行動を
批判したり、非難したりするケースがやたら増えているような気がする。昔の日本人
の方が、手紙や葉書を頻繁に書くことにより、今の日本人より濃密な
コミニュケーションを行っていたと言えるかもしれない。本誌に掲載された軍事
郵便に関する研究などもそうした通信の重要な役割を示しているのではなかろうか。
通信の効率化だけでなく、人間関係に及ぼす通信の役割の研究からも多くを学ぶ
必要があると言えよう。
その際、伝えられる意見や情報が、事実に基づかない場合には、通信手段が発達すれば
するほど、かえって悪影響が深まることも事実である。例えば、満州事変の発端と
なった関東軍による満鉄爆破事件が中国軍によるものとされ、大新聞がそうした関東軍
の偽情報を拡大宣伝したことから、日本国民はその後15年に亘る戦争に突入したことが
明らかにされている。
国民生活に甚大な影響をもたらす内閣、官庁、陸海軍の活動実態が、正確にに記録され、
広く公開されることが、民主的な政治の大前提であることの実証もまた通信史研究の
大きな課題であると言えよう。
幕臣達の文明開化 石井寛治
①「攘夷のための開国」路線 ペリー来航への対応
郵政博物館では、日本の通信の近代化を推し進めた前島密の活動を中心に、改めて150年
前の明治維新の歴史的特徴を考えるシンポジウムを開くことにし、「幕臣達の文明開化」
という一風変わったテーマを掲げた。前島は、もともと越後国(=新潟県)の農家出身で
あったが、幕臣に取り立てられたのち、明治政府の官僚として大いに活躍し、郵便事業の
生みの親となった。明治前期には、前島と同じような旧幕臣で、渋沢栄一のように一時的
に明治政府に勤めた人や、福沢諭吉のように一貫して民間人として「文明開化」のために
尽くした人が意外と多い。ここでは、経済面に焦点を絞って彼らの活躍を振り返ることに
しよう。実はすぐ後で述べるように、「文明開花」というテーマは経済などの「外形」面
だけでなく、「精神」面を含んでいるが・・この報告では「精神面」についても必要最低限
の指摘は行うが、話の重点が「外形」に偏る事は時間の制約もあり、致し方ないことを
お断りしておく。
かつての日本歴史の見方では、明治維新は、薩摩や長州などの西南雄藩が江戸幕府を倒し、
明治政府の権力を彼らがしっかりと押さえて、新しい国作りを行ってきたとされてきた。
いわゆる薩長中心史観である。それは必ずしも間違いではないが、古い体制を打ち倒す
破壊の仕事と新しい体制を作り出す建設の仕事は、質的に大きく違っており、同一人物が
両方を行う事は簡単ではない。特に明治維新は、国内で近代的なブルジョアジーの勢力が
伸びてきて、古い封建的な支配体制を崩したのではなく、アメリカのペリー艦隊の「外圧」
にどう対処すべきかを巡って国内外が激しく対立し,朝廷を担いだ西南雄藩が江戸幕府を
倒したため、討幕が実現した瞬間の西南雄藩には新しい国作りの構想もなく、一体どの
ような国を作れば独立国として先進国に伍していけるかを手探りする状態であった。
そこに、世界の中での日本の状況を雄藩よりも前に、ある程度情報として持っていた旧幕臣
達が活躍する余地があったのである。・・
武士達の多くは攘夷派であった。しかし攘夷派にも、どのようにして外国の軍事力に対抗
して攘夷を行うかを示せる者はいなかった。幕府も本音は攘夷だったが外交交渉の責任者
としては開国するしかないと分かっており、結局朝廷の勅許抜きで通商条約を結び、朝廷と
結ぶ攘夷派による格好の攻撃目標とされた。
攘夷派の行動は外国人への個人テロや外国船への無謀な砲撃が目立ったため、単なる
破壊行動でしかないとして歴史家の評価は低いが、私は、彼らの様々な形での行動の底に
共通して潜んでいる独立の精神には注目する必要があると思う。他方、開国派は近代国際
社会の中で生きてゆくには、開国して日本の政治経済を近代化するしかないと主張して
おり、それも真っ当な主張であるが、彼らには欧米からの圧力の危険性への感度が鈍い
点が問題であった。(中略)
🦊(文久3年5月に長州藩が下関海峡を通る外国艦船を砲撃したが、この事件につき、
開国派の福沢諭吉と攘夷派の村田蔵六(のちの大村益次郎)との対話が載っている。
福沢「下関では大変なことをやったじゃないか。何をするのか気違いどもが。呆れ返った
話じゃないか」村田「気違いとは何だ、けしからんことを言うな。長州ではチャント
国是が決まってある。あんなやっぱらにわがままされてたまるものか。ことにオランダ
のやつがなんだ。小さいくせに横風な面している。これを打ち払うのは当然だ。もう防長
の土民はことごとく死に尽くしてでも許しはせぬ。どこまでもやるのだ」と言う剣幕)
大村の頭の中には、外国人に支配されるのは嫌だと言う攘夷論と、外国の優れた武器を
手に入れようとする開国論が共存していた。慶應2年の第二次長州戦争では、大村が
長州の軍事指導者として幕府軍を散々に打ち破るのに対し、幕臣の福沢は、フランスの
軍事力を借りて長州を叩き潰せと建白していた。当時の福沢は、フランスに従属する
危険性についての自覚を全く持ち合わせていなかったのである。
そうした中で、幕臣の勝海舟が唱えたのが、独立を守るには西洋式の蒸気軍艦を備える
必要があるが、そのための費用は貿易による利益を充てるしかなかろうと言う考えで、
いわば「攘夷のための開国」論であった。そして海舟は、長崎の幕府海軍伝習所で
オランダ人教官から訓練を受けて海軍を作り始め、その後、練習生を諸藩から受け入れ、
坂本龍馬なども海舟の「客分」のような資格で活動した。以後、維新変革は、大きく
海舟の唱える「攘夷のための開国」路線に沿って動いていくことになったのである。
🦊(攘夷派の長州藩と薩摩藩も、攘夷のためには相手の正体を知らねばならず、
長州藩では、文久3年に伊藤博文ら5人の藩士をイギリスに密航させた。薩摩藩でも
慶應元年に松木弘安・五代友厚に率いられた16名の留学生をイギリスに送った)
しかし、相手を知ると言う面では、幕府の方が西南雄藩に比べて一歩も二歩も
先んじていた。それは何よりも、開国を巡る外交交渉を幕府が専ら担当したためで
あり、特に交渉に関連して欧米へ使節が出かけてゆき、それに若い福沢諭吉なども
同行して、英語の辞書や文献を買い込んで帰り、「西洋事情」などの本を書いたことが
注目されよう。慶應2年には海外渡航も解禁され、幕府や諸藩から欧米へ留学生が
出かけたが、幕末の留学生の半分以上は幕府からの派遣であった。さらに幕府では、
安政4年に蕃書調所を作り、外交交渉に必要な翻訳作業を行わせたが、そのために「諸藩
から蘭学者を大量に徴用し、当時の著名な洋学者をほぼ網羅した」と指摘されている。
同所は文久3年に開成所と改称し、これが東京大学の源流となるのであり、明治になって
明六社に結集する知識人の多くも開成所で育ったのである。
②文明開化の「精神」 天賦人権論
(福沢諭吉は明治8年に著した「文明論の概略」のなかで、「或る人はただ文明の外形のみ
を論じて、文明の精神を捨てて問わざるものの如し」とのべ、文明国となるためには、まず
人民の気風を改革する必要ありと主張した)福沢の唱える「文明の精神」とはなんだった
のか。私は、福沢が「学問のすすめ」でアメリカ独立宣言の中のAll men are created
equalを意訳した「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり」と言う文章が
示すように、すべての人間が生まれながらに自由であることを認め、習慣や規範に縛られず
にそれぞれが自由に考えて行動する精神だったと思う。同じことを明六社(明治6年に
旧薩摩藩士森有礼によって発案された学術団体)に集まった人々は異口同音に唱えた。
(中略)
ここでは福沢より先に「真政大意」で人間の自由と平等を説いた加藤弘之の言葉を引用
しておこう。明治6年の「国体新論」では、加藤は、人権について、天賦人権論の
立場を次のように明確に述べている。
「純乎たる私事に至りては固より各民の自由に任すべき事当然なり。もし君主政府是等の
私事をも制するを得るときは各民自由の権を失うが故に決して安寧幸福を求むる能わざる
こと必然なり。蓋し自由権は天賦にして安寧幸福を求むるの最要具なればなり。況や
人民の霊魂心思上に至りては君主政府固より敢えてその権を施す能わざる者とす。」
こうした明六社の人々の書物がベストセラーになることによって、全国に広がった。政府
の役人の中にも明六社の人々の啓蒙思想に共鳴して、国のかたちを構想する者が現れた。
明治6年に地租改正の法令が公布されたとき、大蔵省では納税者の協力を得るため、次の
ような人民告諭書を作成したのである。
「人民一方に聚りて群をなし、言語風俗を同じうするもの、これを名付けて国という。
国には必ず政府有、政府は人民一統の好む所に従いて、規則を立て、法令を布き、その
好む所の目的を達せしむるために設けたる役所にして、その政府の官員は人民一統の総代
に立て、事を行う者なり。(中略)是等の役所を設けるためには若干の費用を要する也。
この費用は国内の人民一統のために消費するものなれば、国内の人民一統に割合で出さ
ねばならぬ当然の務めにて、一村の入用は村中に割合、一郡の入用は郡中に割合で出金
すると同じことなり。この割合金を名付けて租税という。故にこの租税の割合方は、
一方に重くかけ、一方に軽く割り当る等のことあることなく、公平至当に割り当て出さ
しむるを以て本旨とす」
政府の役人は「人民一統の総代」に過ぎず、政府は「人民」のためにこそあるのだという
この国家論は、明六社の知識人の説く近代国家論と同じであった。問題は、冒頭にこの
ような部分があったために、この告諭書はついに公表されなかったことである。それは、
実際の地租改正が、ここに述べられた理想と違い、上からの計画に合わせて強制的に
行われ、公平性を欠いたためであった。明六社の人々の啓蒙思想と、明治政府の実際の
政策との間には大きなギャップがあったといえよう。
しかし、政府と違い、民間には、明六社の知識人達の天賦人権論を基礎とする近代国家
論をまともに受け止め、その実現を政府に迫る人々が続々と現れた。自由民権運動の
担い手達である。彼らは租税を納める以上、その租税の取立てと用途を議論し決定する
場所を作り、自分たちの代表を送り込むことを要求し、そうした民選議会を基礎にした
近代国家体制を定めた憲法を作ろうとした。植木枝盛が書いた日本国国家憲法はその代表
である。植木は、明治8年、まだ18才の時に東京で明六社や三田演説会に熱心に出席
しながら近代思想を勉強したというから、明六社のメンバーは植木の先生格だったことに
なる。
明治政府は、支族の手で始まった自由民権運動が、豪農民権家を巻き込んで高揚する気配を
見せるや、明治8年6月には讒謗律・新聞紙条例を発布して政府批判の言論を取り締まった。
こうなると明六社の知識人達は途端に腰砕けになり、活動をほとんど停止する。それだけ
ではない。自分たちの唱えていた啓蒙思想を否定するものも現れた。福沢はその中では
一貫して民間の教育者として比較的自分のリベラルな主張を貫こうとし、多くの革新的な
経済人を育てながらも、政治的には民権重視から次第に国権重視に変わってゆき、植木たち
から批判されるようになる。
私が特に指摘したいのは、加藤浩之が、自説を全面的に否定して天賦人権論はとんでもない
間違いであったという主張を繰り返すようになったことである。明治15年に著した
「人権新論」において、加藤は、次のように「天賦」の「人権」など歴史のどこを探しても
存在しなかったと主張した。
「天賦人権なるものは本来決して実存するの証あるに非ずして、全く学者の妄想より生じ」
「余は物理の学科に係れるかの進化論を以て天賦人権主義を駆撃せんと欲するなり」
「体質心性の遺伝及び変化において優劣の異動を生ずるは特に動植物に限るにあらず動物の
上位にいる所の吾人類にありても亦同じ」
「優勝劣敗の結果はこれを古今の事績社会の事実に就いて証明する事誠に容易なりと言えども
自由平等均一なる天賦人権の実存に至りてはこれを証明するの術絶えてあらざるに非ずや」
この議論は最新学説のダーウインの進化論を人間の社会に応用する社会ダーウイニズムに
基づいているのであるが、人権という概念が着物でも着て歴史のどこかに転がっていた
とういう風に天賦人権論を曲解した上で否定した議論に過ぎない。しかし、この議論は
科学的な装いをもって、弱肉強食の生存競争こそが世界の進歩をもたらすと説いているため
19世記末に帝国主義支配を正当化する上でイデオロギーとして世界中に広がった。加藤の
著書「強者の権利の競争」において、彼は次のように述べている。
「余を以て之を視ればキリストの正教を奉ぜる文明開化の欧人は極めて暴猛獰悪なる野獣と
称せらるを得ざる也。虎獅の如き猛獣すらなお決して開明欧人のごとき暴悪をなすこと
能わざればなり。・・・(しかし、それは)決して同義に反し法理に欠けることには非ず
して却って当然のこととせざるを得ざる也。・・・(なぜならば、その結果)物質的心神
的の開化の大進歩を致す事となりたるなり。・・・今日の開明進歩は決してキリストの
博愛及び人類平等の主義等の結果に非ざるのみならず、全くこの主義と氷炭相反せる
生存競争自然淘汰の結果に他ならざることは甚だ見易き道理ならずや」
すなわち加藤はキリスト教国の残忍な支配を批判しながら、その結果「開化の大進歩」
がなされた以上、かかる現実は「当然のこと」だとして肯定すべきだと論ずるのである。
加藤は、帝国大学学長や帝国学士院院長を長くつとめ、その主張は、総合雑誌「太陽」
に毎号加藤が寄稿したたために、日本社会の上層部に広く受け入れられていった。
明治の啓蒙主義者の末路を象徴する人物は、福沢よりも加藤だったように思われる.
🦊(福沢は「痩せ我慢の説」において勝海舟の無血開城が日本国民に固有の武士道精神
に反するとして攻撃し、これに対して海舟は「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒」
として、福沢の従属的武士倫理を激しく批判した)
「問題の真のポイントは、・・海舟の自立した精神とナショナルな視野にあると言えよう。
幕臣でありながら幕府の存在を相対化できた海舟のナショナルな見方こそが日本社会の近世
から近代への道を、戊辰戦争程度の内戦による犠牲によって切り開くことを可能にした
のである。同様な視野を明治政府に仕えた幕臣の多くも持つようになった点で、彼らは福沢
の精神の奥底に潜んでいる近世的武士の従属的倫理観を乗り越えたと言えるのではあるまいか。」
3.「有形」の文明を創造した旧幕臣たち
🦊ここからは、本論文の本旨である、旧幕臣・・勝海舟、前島密、渋沢栄一らの活躍
が語られる。特に前島の、金欠の政府に代わり、地方豪農や豪商の資金と名誉欲を利用して、
彼らの自宅を提供させて、全国に郵便局網を敷くという、趙実用的な提案や、また渋沢の
江戸期以来蓄積された商人、両替商の資金を利用して、民間経済を活性化させる株式会社
と銀行制度のアイデアなど、面白い話になるが、割愛。冒頭に記したurlから直接読まれたし。
4.まとめ
以上述べたように、文明開化の「精神」を論じたのは、明六社に集まる旧幕臣の知識人で
あったが、彼らは自説を貫くことができず、その教えのストレートな実現は自由民権運動に
結集した若い人々に受け継がれた。しかし、民権運動もまた明治政府の対応によって行手を
阻まれ、天賦人権論(基本的人権論)は戦前日本内部ではほとんど定着できなかったと
いえよう。そうした流れの中で、旧幕臣の福沢諭吉は、教育者として多くの経済人を育て
あげることができたのである。
その点で問題となるのが、アジアで最初に制定された近代的憲法としての大日本帝国憲法
の位置付けである。本稿では、文明開化の政治面を正面から扱わないため、同憲法の評価を
如何になすべきかを論ずることはできなかったが、基本的人権論の立場から見るときには、
同憲法がそれを認めていないことは明らかである。最近の研究動向としては、同憲法の
歴史的限界よりもアジアにおける先進的位置を高く評価することが多いが、そうした方向
での積極的評価を行う限り、大日本帝国憲法制定後の日本が急速に早熟的、軍事的な
帝国主義国に転化した理由を説明することが困難になるであろう。
「精神」面でのかかる問題性にもかかわらず、文明開化の「外形」の方は、とりわけ
産業革命という形で具体化されていくことになった。それは、薩長藩閥によって牛耳
られた政治家、・上級官僚だけの功績と見るべきではなく、前島密に代表される旧幕臣
の実務官僚の尽力の結果であり、彼らの仕事の全国展開を支えたのは民間の豪農商で
あった。「攘夷のための開国」路線を追求した明治維新変革は、もともと「攘夷」論者で
あった西南雄藩が勝利したため、彼らによる政治経済の近代化は大きな限界を持っており、
旧幕臣が実務官僚として働くことによって初めて実現したが、彼らが先導した政策が実現
できたのは、江戸時代末期までに蓄積されてきた民間の豪商農のエネルギーを引き出す
ことに成功したためであった。銀行家としての渋沢栄一の活動も、そうした民間の動きを
大きく促進するものであった。その意味では、明治時代の文明開化は、江戸時代を通ずる
民間の人々による近代化への着実な動きを歴史的前提と見なすことによって初めて
理解できるといえよう。
*************************************************:
🦊思うに、現在この国の総務省あたりに巣食っているキツネどもには、
同年齢の者として恥ずかしく腹立たしい。彼らは第1に下卑ている。
例えば女性には「あれ等は男に引っ叩かれながら成長してゆくしか道は
ないのだ」とか、自分の爺さんの膝の上で習ったようなことを心から信じて
ますな。で、つい喋っちゃう。
第2に宴会ずき。公金あるいは企業払いの宴会は「絶対断りません」そうな。
第3に「国民をコケにしている。かねで買えると思っている。「国民の
みなさま!」とか煽てておいて、「すべて良き塩梅に運びます故、安心して
お任せを」と嘘をつく。後日、無策無為がバレても、「あれ、そんなこと
いったかなー?」ととぼける。「国民の動向など、私が気にする事はない」と
外国人記者に堂々と答えた総理もいる。
第4に(今回のシンポジウムの、隠れた主題)将来の展望を欠く、大船に乗って
居れば安心、のガンコで呑気なリーダー。やっぱり長州系だなー。
第5に、明治憲法は優れていて、昭和は美しかった、先の大戦は、日本こそ
貧乏に耐えかねて矢も盾もたまらず隣家へ盗みに入ったまでだ、何が悪い。
と言う、ヌスットタケダケシさ。
第6に人材不足。おけに入ったドジョウかナマズか、適材はどこに?不祥事
あれば内部調査でせいぜい左遷、自主改革などとんでもない。ヤレヤレ。
ところで,キツネにいわせれば,この病は所謂長州の虫という回虫の一種
が原因ではあるまいか?
「いずれ自民党には天罰が下る」、とキツネは言い続けてきた。ところでその天罰が
まさにウイルスの手を借りて下ったというのに、政治家どもは天罰とはチットモ
思っていないらしい。彼らは自分たちが「天」じゃと、勘違いしておるからなー。
やっぱり長州だ。つまり世界の中の日本、現代では地球の上の日本、というあたまが
欠けておる。日本はアメリカの「重要なパートナー」で、その潜在能力はますます評価
されていくであろう・・などどいう「地政学」とやらなんとやらのノーテンキな未来予測
に浮かれているんだから。
2021 3 14
出ました.アキノノゲシの芽が.2階の物干し場で大事そうにそだてているが,もとは側溝の
泥の中から拾い上げたものだ.このへんでは絶滅危惧種で,というよりただの雑草.
だれも,居なくなったのに気づかない.
4 .10
キツネの狭い庭は、野草の難民収容所みたいになっている。タンポポを踏んづけないように歩く。
4 . 10
アキノノゲシが大部育ってきた。この草は丈夫だけれど虫に弱い。尺取り虫や毛虫がうまそうに
ムシャムシャ食っている。
苗の根っこを見ると、丈夫そう
で、秋の開花が期待できるよう
に見える。だけどこの草は、
かんかん照りにも、尺取り虫達
の食欲にも、ベト病にも、
かんたんに負けて、9月には
枯れてしまったりする。
三橋貴明著==「99%の日本人が知らない明治維新の大嘘」経営科学出版
今回はソンケイすべき2チャンネル出身の人気作家で、およそ100冊の本を
出版し、ネットやラジオでも活躍中の三橋貴明さん。実は本体無料、送料のみ
500円で手に入れたもの。他にも「この1冊お買い上げに付き、他にも2冊を
どれでも無料でご提供」というのもあった。なんだか選挙前の候補者みたいだな、
と思ったら、実際に国政選挙に出馬なさったことがあるそうな。
キツネは大体ベストセラー本しか買わないという、あなた任せのボンクラ読者
であるが、昨今の人々はこのような露出度の高い人物の発言に引き寄せられる
ようなので、その手の出版物が派手に溢れており、格安でもあるので、つい
手を出した次第。
この本は薄いので1時間もあれば読める。おまけに脚注や引用の出どころを
記する手間を省いてあるので、老人にはありがたい。
さて、本文だが、「日本人は明治維新は素晴らしい改革で、それまでの迷妄
旧態依然の江戸期体制をひっくり返し、グローバリズムの波に乗り、
近代日本の基礎を築いた」などと思い込み、「維新前後の日本は貧乏小国だった。
それを短い期間で大国化したのはいいが、現在はまたデフレで小国化したのは
なぜだ?」とか、「日本はもともと貧乏国」「これ以上は無理」とかいう気分に
陥って居る。それではダメ。江戸期を通じて日本は大国であった。それを
知らずに緊縮財政の旗を振る学者たちに騙されてはいけない。
(もっと大国らしくふるまえということか)
江戸期日本が大国であった印として、地面に対する人口の多さをまずあげる。
また「江戸時代の資源生産性は、文句なしで世界最高だったという。(p132)
そして、こう続ける「日本が貧乏小国だったのなら、あの広大な領土と国民を
擁するロシアと戦って、日本がカッタのはおかしいではないか」と。
キツネの幼い頃、お手玉歌にこんなのがあった。
「一列ダンパン破裂してー、日露戦争はじまったー、
さっさと逃げるはロシアの兵、死んでも尽くすは日本の兵、
5万の兵を引き連れてー6人残して皆殺し、7月8日の戦いでー、
ハルピンまでも攻め寄せて、クロポトキンの首を取り、
東郷元帥バンバーンざい!!十でとうとう大勝利!!」
これじゃあ、三橋さんの認識と変わらんじゃないか。
幼い女の子が「ミナゴロシ」と歌う、それをつくって
流行らせたのは大人だ。野蛮なキズナでまとまった日本人。
これについては、「なぜロシアは日本に負けたか」という問いに答えた
出口治明氏の答えを載せておく。(文藝春秋デジタルー2020.5.21)
「ロシアのバルチック艦隊はその名の通り、バルト海に配備されていた艦隊
です。彼らが日本海軍と戦うため、極東へ出発したのは1904年の10月
でした。艦隊は北海のドッカーバンク付近へ来たところで、大英帝国の漁船団を
誤って砲撃し、漁船を沈めてしまいました。夜間だったため、漁船を日本の
水雷艇と勘違いしたのです。しかも、沈めた船が漁船だと気づいたのに、犠牲者
を救助しないまま、「えらいことをした」と思いそのまま逃げてしまったため、
死者が出ました。これをドッカーバンク事件と言います。
これには、大英帝国のエドワード7世も国民もカンカンになって怒りました。
ロシアは謝罪して漁民や遺族に補償金を払い、代わりの船も提供したものの,
反露感情は収まりません。一方、日本は犠牲者の葬儀に弔電を打ち、この事件に
関わっていないと表明したことで、逆に親日感情が高まりました。当時の日本は、
外交もなかなか巧みだったことがわかります。
バルチック艦隊は、アフリカを回って極東へ向かいますが、その間ずっと大英
帝国の植民地(南アフリカ、インド、シンガポールなどの要衝)は入港を拒否
しました。「お前らには燃料も食料も提供せんぞ」というわけです。補給地と
なった港は、陸上の兵站地と同じですから、バルチック艦隊にとっては、
たまったものではありません。
1905年5月に、対馬沖で、日本の連合艦隊と戦う頃には、燃料の無煙炭が
不足して艦隊はノロノロ運転をしていました。乗組員は腹一杯食べていません
し、十分な休憩も取れていないので、ヘロヘロです。そんな状態で、満を侍して
出陣してきた連合艦隊と戦うわけですから、気の毒なくらいです。戦いの
火蓋が切られる前に勝負はついた・・そう言ってもいいでしょう。」
(バルチック艦隊38隻中16隻撃沈、6隻自沈、戦艦8隻中6隻撃沈、残り2隻
を含む6隻が日本軍に捕獲)
*************************************
つまり、「日本は小国」意識と縮み思考を捨てて、とにかく「経済成長する
しかない」とも、
また世界に誇るべき長ーい「皇室の伝統を知るべし」とも。
この本のカバーに曰く「デフレ脱却のため、公共投資推進、反緊縮財政、
反グローバリズムの理論的支柱として注目されている」
*******************************************:
🦊狐の読書感想文:この本の中で狐が唯一賛同するのは、「坂の上の雲」が
史実だと思い込んでいる日本人が多いのも困ったものだ、というご意見.
実際史学科のテストに坂本龍馬論を繰り広げる学生がいる、なんて話を聞いた。
あれは小説です。
明治維新当時の日本がそれほどの「隠れた経済的実力を持っていた」かは、
狐には知りようもないが、ある西洋人の「日本旅行記」に、清潔な江戸の
ような都市を過ぎて地方の村を訪れる(というより通り過ぎると)畑に
出ている百姓は男女とも上半身は裸であり、少しの布切れで腰を覆っている
のみであった・・などという描写が出てくる。これが豊かな国なんですかねー
という気がする。タンパク質を摂るために牛豚を飼わずにすむ、海から無限に
食料調達できる、だから米さえ作っておけば万々歳、それで百姓は(戦いの
ない今は)牛豚より下の荷車同様の扱いだった。(壊れたらそれまで、それに
この荷車は税金さえ納める)・・それは今次大戦での兵の扱いにも通ずる、
長きにわたり皇統を利用した日本の誠に悪しき「民族内差別」の伝統だ。
・・と、貧乏百姓の出身である狐は思う。
「朝鮮銀行」 ある円通貨圏の興亡
多田井喜生著 2002年 ちくま学芸文庫 刊
🦊前掲書「円の侵略史」(1,980年、島崎久彌)から22年後に出版された多田井氏の本では、
朝鮮銀行の大陸進出と軍部との関係について、次のように書いている。
「朝鮮銀行の営業の実態は、軍部の大陸侵攻や植民地政策と深く関わっており、
特に日中戦争期以降は、軍事費送金及び連銀との預け合による軍費調達の役割を担ったため、
その「金融上のやり口」は極秘とされて外部に知らされることはなかった。
終戦直後の閉鎖によって国内の資料は四散し、韓国にあった資料は戦火に消え、その実態の
解明はいまだに不十分である。
連銀や儲備銀行との預けあいによる戦費調達の実態は、昭和30年に「昭和財政史 第四巻
臨時軍事費」が発刊され、続いて「朝鮮銀行略史」(昭和35年)「毎半季為替及金融報告」
(横浜正金銀行 昭和45年)、「占領地通貨工作」(続・現代史資料11、昭和58年)、
「朝鮮銀行史」(昭和62年)などが刊行されるのを待って、ようやく全容が明らかになって
きたものである」
p173 朝鮮銀行の発行権回収を唱える高橋是清
「国民政府が幣制改革による銀本位離脱の検討を始めた昭和10年(1935年)2月のこと
、第67議会の衆議院での質疑応答で、朝鮮銀行の存立を揺るがすような発言が、高
橋蔵相の口から飛び出した。(台湾銀行の、国家に損害を与える「不始末」について
どう考えるかという政友会議員の質問に答えて)
「根本的には台湾銀行、朝鮮銀行両行の兌換券発行権を日本銀行に統一したい。・・
今まで種々国家に迷惑をかけた主なる原因は発行権があるため金が自由になり過ぎる
点にある。我が国全体としても通貨発行権を中央銀行に統一しておかなければ
金融や資本の統制ができないのである」
この発行権統一問題は、翌年の二・二・六事件で高橋蔵相が殺されたこともあって
結局実現しなかったが、高橋蔵相はなぜ朝鮮銀行の発行権を回収したいと言ったのか。
まず直接の要因としては、満州国における金建て・銀建ての争いがあった。関東軍や
関東軍顧問の鈴木穆は、満州国幣を金建てにして日本側通貨と統一する工作を繰り返し
試みていたから、元正金銀行頭取で「銀派の中心人物」の高橋としては、これを排除
したいと考えたのだろう。
そしてもう一つの要因は、植民地通貨として陸軍の大陸侵攻と行動を共にしてきた
鮮銀券の性格である。日本は、昭和8年2月に国際連盟総会で、日本軍の満州撤退を
含む勧告案が採択されると、「受諾することは為し能わざるところ」と連盟を脱退した。
「連盟に入っていればこそ全ての点で拘束されて自由がきかない。
連盟さえ出れば、どんなことも思いのままやっていい。例えば平津(北京・天津)地方
だって必要に応じて占領することもできるし、どこにどう兵を出しても何らの拘
束も受けない」荒木貞夫陸軍大佐はこう放言した。
連盟脱退と時を同じくして関東軍は熱河省へ侵攻を開始し、続いて4月には長城線を
越えて関内へ攻め入って、5月31日に天津に近い塘沽(タンクー)で結んだ停戦条約
により、日本は河北省の一部、長城内に広大な非武装地帯を設けることに成功した。・・
蔵相高橋にとって、鮮銀券が、連盟脱退の際の熱河作戦の際にも、一種の軍票の用に
供せられて、軍費支弁に多大の便益を与えたことは、苦々しいことだった。また、
昭和6年のシベリア出兵や青島事件の際にも用いられており、直接金貨兌換義務のない
鮮銀券は、常に日本軍の大陸侵攻と共にあった。
陸軍の河北分治工作を何とか抑えたいとする天皇や元老周辺の意を受ける高橋蔵相
としては、軍部予算を抑えるとともに、朝鮮銀行の発行権を回収し金融面でも陸軍の
出先の策動を封じたいという思いが強かったのだろう。
しかしーー、もし高橋蔵相が朝鮮銀行から発行券を取り上げたとしても、それで陸軍の
河北侵攻は止められなかっただろう。
ーー昭和30年になって小西春雄福岡市長が、「満州まで日銀券一本で流通させていたら、
敗戦により日本経済は極度の混乱に陥っていたろう。昔のえらい連中はさすがに深い
考えを持っていた」としみじみ述懐したように、高橋蔵相が意図した発行権回収が実現
しなかったが故に、日本は敗戦による極度の経済混乱を回避できたということになる。
🦊狐のチョットマテ!!
「この錬金術を発明した人はエライ!」式の発言をちょいちょい見かける。「だから、
敗戦の時も日本国内経済には大した影響も及ばなくて済んだのだ」という。
そして、軍部は勝ち進んだ。日本の権益は増大した、だからいいではないかって?
また、「預け合い契約って、帳尻がちゃんと合ってるんだろ?それで問題ないじゃん」
などという、今時の政府答弁みたいなことをいう人もある。そういう人たちには
次の章をよく読んでいただきたい。特に「経済良ければ全て良し」の方々には。
p191 中国連合準備銀行の設立
(日本政府は昭和12年11月に華北連合銀行(仮称)設立要項を閣議決定し、翌年
3月に中国連合準備銀行を設立した)
「日本軍は、12年末までに、華北5省と上海、南京でほぼ軍事活動を終え、12月14日
には河北、山東、山西の3省及び察哈爾省の一部を包含して、北部に王克敏を行政委員長
とする中華民国臨時政府を発足させた。この新政府の中央銀行を、できれば華北に支店を
もつ中国、交通銀行などの中国側主要銀行にも出資させ、中国側銀行の上に立つ中央銀行
として連合の名称を付して設立したいと構想したのである。・・(中略)
「翌13年2月5日に、中国連合準備銀行条例が交付された。
ちょうどその夜の北京の日本大使館では、中国駐劄財務官として赴任した大野瀧太
(元大蔵省地区別銀行課長)の歓迎会が開かれ、その席で寺内寿一北支方面軍司令官は、
大野とこんな会話を交わした。「大野さん、日支事変は一体どっちが勝ったのですか」
「それはまたどういうわけですか。どんどん勝っているようではないですか。あなたの方は
判断できるわけですが」
「いや、そうでもない。日本円と支那の元を比較すると、日本の円は百二十円ぐらいで
ないと100元に交換してもらえない。大野さん、一つ100円が100元に変えられるように
してもらいたい。明日からでもそうして欲しい」
「それは無理な注文で、これには種々の理由があることです」
「それは立派な理由がありましょうが、とにかく明日からそうしてほしい」
戦争に勝っているので、どうして円が元よりも安いのか、というのである。
「そんな、明日からというようなことは、お引き受けできません」
大野はこう答えたが、軍は連銀の開業を、陸軍記念日の3月10日にしろと要請している。
そこで大野は、満鉄理事の阪谷希一や内地から呼び寄せた正金銀行の為替のエキスパートの
西山勉などと、寺内大将が提示した鮮銀券と法幣(国民党政府発行の紙幣)との関係を
どう処理するか、随分頭を悩ました結果、円元パー(日本円と中国元が等価)を強行
することに決めた。しかし、円元パーを採用するには、市場の実勢をそれに合うように
持っていかなくてはならない。このため、法幣の手持ちがあった鮮銀を使って円を買わせ、
徐々に円価を高めて、3月2日に91.35元の安値をつけていた鮮銀券を、3月9日には
パーに持っていった。
翌10日、連銀が北京に総行を、天津に分行を置いて開業した。総裁には中国銀行満州総経理
の汪時璟が就任し、日本側は満州国の幣制改革に功績のあった坂谷希一を顧問に送り込んだ。
翌11日、臨時政府は、円元パーを宣言した。
p194 進まぬ発行準備の集中
🦊(国民政府は中国全土の銀準備を上海の発行準備委員会に集中しようとした。しかし、
華北の日本軍は、長城線に勢力を集中し、また臨時政府首班で元中国銀行総裁でもあった
王克敏から新銀行への資本参加を要請された中国、交通両銀行の天津支店長は、本店との
打ち合わせと称して香港に逃げ、出資に応じなかった。臨時政府は天津分会を廃止し、
代わりに京津両市現銀保管委員会を設置して、現銀を管理することとした)
「連銀の資本金5000万のうち、当初払い込み分2500万円は中国側主要銀行と臨時政府が
折半して負担した。また臨時政府の出資分1250万円は、全額日本銀行からの借款で
賄うことにして、朝銀、日本興業銀行、正金銀行から各300万円、プラス日本政府が
銀300万円を朝銀に指定預金し、これを朝銀から臨時政府に貸付けた。連銀はこの350万円の
現金プラス正金、朝銀、満州中央の3銀行が引き渡し要求に応じず、天津や青島に保管していた
現銀720万円を入手した。この金は朝鮮銀行に預託された」
p196 朝鮮銀行と連銀の預け合い契約
(寺内司令官は)昭和13年9月13日に「軍は北支通貨統一政策を助長促進し、帝国金融政策の
実行を容易ならしむるため、努めて鮮銀券の使用を節し、軍費支払いをもっぱら中国連合準備
銀行により統一する方針なり」と軍通牒を発した。
「菊の御紋章の付いた札を流通させないとは何事だ」それでも、興亜院政務部長の鈴木禎一
陸軍少将などはこう言って、鮮銀券などの日系通貨を回収するのに反対したという。
しかし、軍通牒が出たことにより、日本軍の占拠地点を中心に華北全域に渡り13年6月末で
6500万円ほど流通している鮮銀券は、急速に回収されることになった。
(この回収資金と、今後の軍費支払いに当てる連銀券の調達をどうするか、日本政府は
「知恵を絞った」)
「昭和13年6月16日、朝鮮銀行北京支店は連銀と「預けあい契約」を締結した。
「預けあい」というのは、朝鮮銀行北京支店と連銀がそれぞれ相手の銀行に預金口座を作り、
日本側が軍事費などの支出に連銀券が必要になったら、朝鮮銀行北京支店にある連銀の
日本円勘定に貸記すれば、連銀もこれと同金額を自行にある朝鮮銀行の連銀券預金口座に
貸記することで、連銀券を随時簡単に引き出せる仕組みである。(図表2)
貨記する・・要するに、お互いの預金口座に同金額を記入するだけだ、実際に現金が動く
わけではないから、“架空預金“である。
そして、華北での軍事の支払いは日本側通貨の鮮銀券をやめて連銀券に統一したのち、
連銀にある預金口座からの引き出しは禁止された。日本軍の支出なのに、華北では日本円を
全く使用しないで済ますという巧みな方法であるが、このため連銀券は増発の一途を
たどり・・(中略)
昭和20年8月の終戦時には850億円になった。これと同じ預けあい契約を、日本は華中でも
昭和15年に南京に汪兆銘の国民政府が樹立されてその中央銀行として中央儲備銀行が発足
すると、正金銀行と儲備銀行の間で結び、終戦時の儲備券の発行高は2兆2700億元に達した。
(100元=18日本円)
同じ終戦時の朝鮮銀行と正金銀行の預け合い残高は、華北で441億円、華中で1兆5700億元
であり、華北では連銀券発行高の半分、華中では儲備券発行高の4分の3に達した。これで、
日本側は戦費や占領地の経営費用を賄ったのである」
p73 西南戦争の苦い経験を生かす
(明治44年3月の帝国議会に提出された「朝鮮銀行法案」を
めぐって、植民地金融体制の根幹に関わる次のような議論が交わされた)
質問・「同一帝国領土内に2個の中央銀行を設け、2様の銀行券を流通せしむるは種々
不便なる場合を生ずべし。日本銀行兌換券にて統一せしめては如何」
荒井賢太郎政治委員は答えた。
「いかに朝鮮の経済状態はある事情のために動揺されても、それは日本の銀行には
影響を及ぼさないという方針を執るが宜しいではないかという、こういう趣意から
特別な銀行を立て、特別な兌換券を発行するということになりましたのであります」
北辺で他国と接壤する朝鮮では、一朝有事の際にどんな異変が経済に起きるか計り難い。
そこで、鮮銀券を持って内地経済擁護のための一つの緩衝的機能を果たさせるという
“植民地銀行障壁論“であるそもそもこれは、明治30年に首相兼蔵相として金本位制を
実施した松方正義の主張であったようで、第一銀行から朝鮮銀行に転じて明治末年に
本店国庫局にいた小西春雄は、理事の三島太郎にこんな議論をふっかけたことがあった。
「日本銀行の札を台湾でも朝鮮でもまた世界中でも適用させれば良いじゃないか。
あんな特殊銀行を作って特殊の利権を与える必要はない」
三島理事は、「君の書生論はわかる。が、僕はこういうことを聞いている」として、
こう答えた。「松方正義大蔵大臣が言われるには、明治10年の西南戦争の際に紙幣が
暴落した苦い経験をなめたことがある。それで朝鮮と台湾というものは今日本で一応
政治を敷いているが、何日何時どういうことが起こらぬとも限らない。その万一の場合に
本国まで全経済が破綻して大変なことになる。それで国家100年の体系からまず障壁として
本国から切り離して別個にやってゆくのだ」
かつて、西南戦争の時に、政府は不換紙幣を増発して戦費を賄った。これによって、
「2700万円の新紙幣と第15国立銀行より政府へ借入られたる1500万円の銀行紙幣とは
全く不生産的の事業即ち戦争に使用せられ・・当然内地に溢れて物価を激昂し、
たちまち投機の弊風を醸し、商業の紛乱を生じ、我が官民をして殆どその底止する
所を知る能わざらしめたり・・」(明治貨政考要)という大混乱を招き、
明治14年には“円銀“1円に対し紙幣は1円69銭に下落した。
そこで大蔵卿の松方は、日本銀行を創立し、円銀との兌換券を発行して不換紙幣を
整理して、ようやくインフレを収束したのだが、この苦い経験があったから、内地
との間の障壁として朝鮮銀行を設立したというのだ。(中略)
日本は日中戦争が始まると、中国の占領地に設立した中国連合準備銀行などの
発券銀行の通貨で膨大な戦費を賄って、日銀券の負担を最小限に抑えた。
例えば、日中戦争が始まった時から昭和19年までの東京の卸売物価の上昇
は1.8倍だったのに、北京は47倍だった。占領地では猛烈なインフレによって
経済が破綻したのに、内地のインフレが小さかったのも、鮮銀券などが
「まさに内地経済圏擁護のために一つの緩衝的効果を果たした」ためだった。
本文より無断で盗み撮り・・図2
p 118 鮮銀券“シベリア出陣“
シベリア出兵によって、朝鮮銀行にはいわゆる「本店を奉天に移す」
(北方への進出)好機が訪れた。
1918年、シベリア出兵に先立って、7月19日、勝田蔵相は、
次のように閣議決定した。「シベリアおよび北満州における使用
軍資金の種類は朝鮮銀行券または金兌換軍用手票を使用することとし・・
2社の間に使用地域を定め難きもなるべく朝鮮銀行券の流通を図る方針を
とること。軍用手票の交換は主として朝鮮銀行券を持ってし金貨兌換は
必要やむを得ざる場合に限ること」
続いて8月2日、陸軍省は「軍票の交換を請求する者あるときは、
まず本邦通貨と交換し直接金貨と交換することを禁ず」と出征部隊
などに指示していた。日本は大正6年9月に金輸出禁止令を交付して金兌換
を事実禁止していたので、軍票と金貨との直接交換も禁じたのである。・・
朝鮮銀行はシベリア出兵の期間中に、7店舗をロシア領シベリアに展開した。
そして、鮮銀券は、ロシア人からは“ヤポンスキー“中国人からは“老爺
(ラオイエ)“、“老頭児票“などと呼ばれて北満、シベリア一帯に流通し、
信用を失墜したルーブル紙幣を駆逐して日本本土、朝鮮半島、満州、沿海州と
シベリア、樺太と日本海をわたる各地域の通貨は、すべて日本円で統一される
様相を呈した。
🦊:シベリア出兵で日本軍が支払った通貨は、軍票1002万6000円、
朝鮮銀行券1784万5000円、日本銀行券131万1000円、合計で2918万3000円
(昭和8年の大蔵省統計による)、このほかに
ロシア革命後の国内の混乱とルーブル紙幣の価値下落は、日本の軍票、
鮮銀券の流通を後押しした。
(朝鮮銀行のある報告書によれば)「露貨ルーブルの底なし転落趨勢は、
軍票に対する信用が高まり・・なんとかして軍票を手に入れんと交換を
懇請するものが続出・・ロシア国内に於いては各地各様の紙幣が発行され、
その価値も日々に変動し全く信を置き難き情勢下にあったのに反し、
金本位制に基づき価値安定しておった朝鮮銀行券が一般の信用を博するは
当然、各地住民間に愛用されるに至った」
「金本位制に基づき価値安定しておった朝鮮銀行券」というが、日本は
終戦時に一時的に金本位制を停止しており、鮮銀券もまた「結局不換紙幣と
択ぶところなし」ーー、それがシベリアで一番信用されたというのだから、
革命や列国の出兵によって混乱の極にあったシベリアの通貨事情を物語って
いる」
p 224 終戦時に預け合い債務を全額返済
「昭和20年7月30日、大東亜省支那事務局は、「戦局に即応する対支経済
施策」を策定し、「既存預け合い契約による我が方債務を時価を以て償還する
ものとし・・」と、金売却による預け合い債務の返済を明示した。
既に戦後処理を考える段階である。昭和20年7月までに内地から中国へ現送
された金は50トン、これから18年に上海で始めた通貨回収のための金売却、
および金による綿糸布の強制買い上げ、それに金証券見返分4トンを差し引い
ても、まだ15・4トンの金が正金銀行の上海支店と天津支店(五トン)に残って
いた。
8月9日午後11時50分、最高戦争指導会議が天皇臨席のもとで開かれ聖断に
よってポツダム宣言が受諾された。この直後から、金売却による預かり金返済
のための通貨当局の活躍が始まる。
10日、閣議で「預け合い契約による我が方債務の償還を行うなどのため・・
金条(金の延べ棒)を必要に応じ時価により支那側に引き渡すものとす」と決定。
それを受けて、実際の金条売却は華中ではーー9.7トン、売り上げ金額
2兆4015億元、他に金証券関係4トン、5012億元が実施され、これで連銀に
8月14日現在の預け合い預り残高1兆5712億元を完済し、残額はその後の
国庫支出に当てられた。
また、華北でも8月10日時点で金条9600本(3トン)を金条1本475万円で
連銀に売却し、10日現在の朝鮮銀行と正金銀行の預り金残高と利息を返済
した。売却価格は、当時の天津の3日間の平均相場によったといい、売却総額
456億円は、朝鮮銀行の預かり金435億円、正金銀行の預り金10億円の返済に
充てられ、残金は、5億円が登録公債を購入し、6億円がその後の国庫支出に
充てられた。
こうして、連銀開業直後の昭和13年6月から7年余りにわたって中国の占領地
において、“あるいは日本政府の軍費調達機関となり、あるいは軍経済に深入り
して“朝鮮銀行と正金銀行の累積した預け合い債務は弁済された。
「8月15日終戦の直前、我が国は中支における預け合を金塊を持って
全て完済した。「何時の世界にまさに敗れんとする国家が終戦の直前、
金を以てその軍費を弁済した例があろう」と正金銀行の報告は胸を張る。
しかし、預け合いによって儲備銀と連銀が正金銀行と朝鮮銀行に累積
した預金口座は、日本円勘定である。確かに、預け合による債務の返済に
ついては、外貨約款はもちろんのこと、金約款もついていない。だから、
現地で金塊を処分して、「借入通貨で返済」するとなれば、同じ量の
金塊で昭和19年1月に比べて20年8月10日には1000倍以上の儲備券を
獲得できた。敗戦を目前にして、占領地に設立されたこの日系銀行の通貨が
「紙屑」と化しつつある時に、100元=18円などの実態と全くかけ離れて
しまった交換レートで弁済して辻褄を合わせたということである」
****************************
🦊:「預け合契約」は軍を救い、日本経済を救った。そして、
このような美味い仕組みを考案した先輩経済人はエライ、さすがだ・・」
なんて、ある朝鮮銀行史は絶賛するが、既に欧米諸国はアジアでの軍事侵攻
を諦めて「紙による戦争=経済侵略」に切り替えている時期に、日本は
軍事侵略をこれから広げようと、国際連盟から脱退した。
朝鮮銀行はこの日本軍にピッタリと寄り添って、あるいは先導して行った。
それは当ブログの「狼が来た!」でも取り上げた死の商人に違いない。
経済優先の現在の日本では、一般の銀行史並みの評価が罷り通るかも
しれないが、それでは、日本軍の、なんとも醜い軍紀不在のやりたい放題、
本国の成人男子払底の補いに、満州に出稼ぎに来ていた中国東北の中国人を
「将来の大日本帝国民であるから、天皇のために奉仕するは当然」と
屁理屈をこねて強制徴用、(連行中の列車や船の中での死亡、また強制労働中
に栄養不足や虐待による死亡はものすごい数に上ること等々、日本政府の悪行、
また日本政府の通貨政策のために引き起こされた超インフレに苦しむ庶民を
「かれら土人は、元々貧しいので、インフレもそれほど影響を与えていないようだ」
と(日銀社員の報告)アジア人を「土人」呼ばわり、
それらも正しい賢い日本人の知恵だというのか?
どこの国でも、戦後の裁判では巨大資本家である死の商人はうまいこと無罪か
軽い処罰で済んでいる。それは政財界に取り除き得ない根を深く張り廻らせて
いるから。日本政府では果たしてどうなんだろうか?
2021 5 7
秋の入り口に咲くヒヨドリバナ 2種。 茎が赤いのと白いのとあって、草姿も多少違う。
白いほうが花つきが良い。 2021 9 24
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