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軍国主義は死なない

揚州剪紙

 

  軍国主義は死なない

 

2020  10  18

 

 「戦争は嫌いだ。誰にとっても良いことは無い」という人も(もちろんキツネも)、

 

 結局戦争を止めることはできない。自衛戦争は必要だ。例えば中国人による歴史書

 

「九・一八事変史」ー中国側から見た満州事変ーー易顕 他・1986  新時代社刊 によれば、

 

 「日本軍国主義の発達史は、ほかでもなく、対外軍事戦略の遂行と、惨酷な略奪の

 

歴史 でもあった。日本の歩む道は、「軍事大国」ーー「政治大国」ーー「経済大国」

 

の三部曲であった。日本帝国主義によって引き起こされた九・一八事変

 

1931918日、 柳条湖事件)の勃発は、ただ其の侵略過程における段取りの

 

一つに過ぎなかったのである。

 

日本軍国主義は・・極めて早くから、欧米に対しては屈従し、中国、朝鮮に対しては

 

侵略拡張するという一筋の軍国主義路線を確定していた。其の日本も、もともと立ち

 

遅れた 封建国家の一つであって、かつては迫られて、やむなく西欧列強と、多くの

 

不平等条約に 調印していた。そして明治維新後は、これらの条約は、日本資本主義の

 

発展を非常に阻害するところのものとなった。しかし西欧列強の力量が強大なため、

 

日本は相当長期間、黙って耐え 忍び、あえて力で対抗しようとしなかった。これに

 

反し、中国に対しては一貫して一歩一歩緊迫した侵略拡張の政策を取り続けたので

 

あった。其の原因は、中国が軟弱で与しやすかったからである。九・一八事変前の

 

中国は、その国民経済全体の中で、立ち遅れた小農経済が90%を占め、工業経済は

 

10%にも至らなかった。こういう中国に比較して日本の経済的実力は、多くの点で

 

勝っていた。当時、日本の工業生産額は工農総生産額中63%を占め、うち、

 

重工業は全工業の382%を占め、1929年の鉄鋼生産量は110万トン、石炭生産量は

 

3440万トンであった。

 

このほかにも、当時の中国は、軍閥の連年の混戦で戦乱に明け暮れ、国民は安んじて

 

生活できず、国力は皆内戦で消耗し、国防は全く無に等しい状態に置かれていた。

 

帝国主義の侵略拡張は止まるところがなく、侵略を受けた国家と民族の唯一の出路は、

 

団結して抗戦すること、特に武装して抵抗すること以外にはなかった。・・中国が

 

日本の侵略に反抗するのは、正義の戦争であり、正義の戦争は、よく人民大衆の支持と

 

国際的援助を得ることができるのである。・・

 

しかし、九・一八事変前夜において、蒋介石によって固執された絶対的不抵抗主義は

 

実際には投降主義であって、其の影響するところは極めて悪く、其の弊害は極めて

 

大きかった。・・

 

日本侵略軍は我が東北を侵略すると得意満面、有頂天になり、戦って勝たざるはなく、

 

攻めて落ちざるはなく、天下無敵の精鋭であると自らを吹聴した。・・

 

日本の軍国主義分子は、なぜこうも高慢になったのか。それは、蒋介石の絶対的

 

不抵抗主義の 遵守によって、日本軍に「ほとんど骨を折らずに易々と東北4省を

 

手に入れさせてしまった」ことになり、これゆえに日本軍は尊大ぶることになった

 

のである。」・・

 

当時、もし米、英、仏などの諸国が、集団で侵略者の政策に身を挺して抵抗し、

 

堅く戦争抑止の決意をするならば、日本軍国主義の騒々しい気焔もこれを収斂させる

 

ことが可能であったのであり・・・

 

(しかし、米、英、仏がこのような消極的な態度をとった理由の一つは、諸国が

 

揃って、日本 帝国主義が北上して社会主義国家のソ連に侵攻することを希望したこと

 

にある。「狡猾な日本帝国主義もまた其の思惑に迎合し、やかましく反ソ反共を騒ぎ

 

立て、力を尽くして北上し、ソ連に侵攻する風を装った」)

 

 

p330  「九・一八事変勃発後、中国共産党は全国人民の正義の要求を代表して,

 

決然、日本帝国主義の侵略行動に反対するとともに、国民党政府の不抵抗政策と

 

国連依存政策の罪悪を暴露した。920日、中国共産党中央は日本共産党中央と

 

連合して、日本帝国主義の中国侵略に反対する宣言を発表した。そして其の同じ日に、

 

中華ソビエト共和国中央工農革命委員会も満州事変についての宣言を発表、次の

 

ように指摘した。『九・一八事変は、「日本帝国主義が早くから予定していた計画」

 

であって、「これは中国民族を屈服させ、其の強度の脅かしと抑圧と搾取の下に、

 

自己の利潤を増加し、自己の満蒙華北の統治を強化し、自己の国内における経済危機を

 

解決し、さらに一歩進めて、東北に覇を争う帝国主義大戦の準備を成すものである。』

 

宣言はさらに言及して、「日本帝国主義の満蒙が強奪反対」「満蒙占領の陸海空軍

 

即時撤退」

 

「一切の不平等条約の自発的解消」帝国主義国民党のソビエト地区と紅軍への攻撃

 

反対」などのスローガンを掲げ、全中国の被圧迫民族に、中国工農民主政府の指導下

 

で、徹底的に日本帝国主義に抗戦する道を明らかに示したのである。

 

 

※※※※※※※※※※※※*************************

 

 

キツネの聞いたところでは

 

そういうわけで、中国共産党と其の軍隊は、救国のカリスマであり、

 

それ無くしては、息もできないほどの「酵素」みたいなものである

 

らしい。ーー共産湯で産湯を使うわけだ。

 

学校では、日本鬼子(リーベン・クイツ)が中国で何をやったか、

 

詳しく教え、反帝国主義、反軍国主義、反差別主義を学習させる。

 

だけど、今の共産主義中国がいくら民主、民主と詐称しても、どう

 

見ても民主主義じゃない。帝国主義、(一党)独裁主義だがなあー。

 

軍事予算膨大、少数民族差別、一国二制度のウソ、そこはどう子ども

 

たちに教えるのかねー。

 

 

アメリカはどうか?長いこと民主主義のご本家みたいに尊敬されて

 

きたが、ここへきて、なんだか大統領と其の取り巻き、其の支持者

 

たちの「総取り支配」、国民との対話なし、国家機密でがんじがらめの

 

軍国主義国家となったらしい。そして銃社会だ。国会は確かにある、が、

 

力が弱い。それも民主主義の特徴だから仕方がないって?大半の国民が

 

何かにひどく怯えているらしい。彼らは絨毯爆撃の恐怖も体験していない、

 

遠くの戦争で多くの若者たちが死んだ。

 

けれどもなお、侵入者や人種テロや、遠くの軍国主義国家をとても恐ろし

 

がっている。だから「昔の栄光をアメリカに取り戻す!」なんてスローガン

 

には弱い。「原爆は平和への導火線?」だと思ってる。変なの。

 

 軍事予算は膨大、軍産複合体は栄えてる。軍国主義は間違いない。

 

コロナは中国製の細菌兵器だから中国が悪い!と政治家がいう。で、

 

街頭で日本人ミュージシャンが殺された。「チャイニーズ」と間違え

 

られたらしい。人種差別は大昔からあったが、今になって大手を振って

 

表面に出てきたようだ。民主主義は民主主義だが「総取り民主主義」で

 

対話拒否だから、其の先は下手をするとファッショ政治だ。明治、

 

昭和期の日本みたいな。

 

 

さて、日本だが、これは全てアメリカ次第。それに加えて、国会は形

 

ばかりで機能しない明治期の政治、政策、それと連動した経済マフィア

 

(資本家と 政治家を取りまく学者連とマスコミ)の繁栄を願う数多く

 

の国民。今も昔もナチス政治学の真似っこをしてる、(つまり法を都合の

 

いいように「総合的俯瞰的に」ねじ曲げ解釈、作り替える)情けない政党.

 

何より、これから先の近未来の姿も描けない政治家達.日本はアメリカの

 

植民地だっけ?やだねー・・・・

 

 

 

🦊ポストコロナーー国家主義と個人主義(または民主主義)の

 

殴り合い(漱石曰く)は続く?

 

核廃絶は待ったなしの賭け事で、どっち側に賽の目が出るか、

 

吉か凶か、生か死か、といった瀬戸際にある。生と死の間を取り持つ

 

なんてことはできないのだ。ことの起こりは。核が途方もない金儲け、

 

国威発揚、未来への幻想、不満の吐口、として大活躍し始めたからだ。

 

原水協の言い分

 

「アメリカは戦争に備えて核実験を行い、ソ連は平和を保障するために

 

核実験しているのだ」(ヒロシマより)

 

 

日本政府の言い分

 

「アメリカは平和を保障するために核兵器を開発し、中国は核戦争を

 

準備して世界制覇を目論んでいるのだ」ーーこの手の妄言が幅を利かせ

 

ている。

 

 

 

朝日新聞===2020年11月1日===「日曜に想う」より

 

曾我豪編集員

 

 

<明治40年、(1907)だから日露戦争の翌々年、時の西園寺公望

 

首相は、文人を招き「雨声会」を催した。・・・

 

招待された二十人の文人のうち、二葉亭四迷、坪内逍遙、夏目漱石

 

は断った。漱石は断りの葉書に一句添えた。

 

「ほととぎす=厠半ばに出かねたり」

 

多忙が本当の理由だったのか。漱石はその後も西園寺の招きに応じず、

 

それは20回に及んだのである。(中略)

 

菅義偉首相は就任早々、日本学術会議が推薦した6人を任命しなかった。

 

討論は両極端に割れる。・・・

 

漱石は、「権力を使用」するには「付属している義務」を心得るべき

 

だとし、「危機に臨んで国家の安否を考えないものは一人もいないと

 

断じる。国家主義と個人主義の2つは『いつでも撲殺し合う』などと

 

いう厄介なものでは万々ないと私は信じている」と語るのだ。

 

だが本意は其の先の警鐘だろう。

 

「日本が今滅亡の憂き目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家

 

国家と騒ぎまわる必要はない」「国家の平穏な時には、徳義心の高い

 

個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然と思われます」

 

政治を前に進めるのは、分断ではなく包摂である。PKO(国連平和

 

維持活動)協力法と周辺事態法、有事法制の、平成の3つの法整備は皆、

 

野党の訴えをいれて、国会承認など修正がなり、今日の世論の支持と

 

定着につながったのではないか。・・・

 

国会も政権に対する肯定と否定の両極端に分かれ、冷静に善後策を探る

 

中庸の論は霞む。相手に混乱の責任を負わせて譲らぬ分断状況こそが、

 

安倍晋三前政権時代から続く「負の遺産」に違いない。(中略)

 

 

恐るべきは、両極端化によって、言論が政治にもたらす善の力を失う

 

ことだと思う。熟考を基に、時代の最適解と守るべき価値の優先順位を

 

探り当てる穏当な文化の力である。それ無くしてポストコロナの時代が

 

開けようか。漱石の訴えは今日も有用であろう。>

 

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🦊漱石の言や良し。「国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義に

 

重きを置く方が、私にはどうしても当然と思われます」

 

当節は「反戦」映画はあまり流行らないらしい。評判の「鬼滅の刃」

 

にはそれがあるのだろうか?キツネは見てないのでわからない。

 

 

 

「西武線異常なし」1930年    アメリカ映画

 

監督 ルイス・マイルストン

 

 

タイトルより

 

これは誰かを非難するためにでなく、ましてや冒険物語などでは

 

ない。戦場で死と向きあう人間にとって、人生は冒険物語などでは

 

ありえない。国のために従軍し、例え砲弾からは逃れられても、

 

戦争のために身も心も破壊されてしまう若者たちの悲惨な運命を

 

描いた物語である。」

 

 

 

🦊タイトルにある通り、これは紛れもなく「反戦映画」である。さる

 

NET記事の中に、第一次世界大戦当時の戦場や兵器や戦闘の描写の

 

正確さや登場人物の「物語り」性の細部にわたる吟味に偏るあまり、

 

「これは反戦映画とも言えるであろう」と言っているのがあったが、

 

この映画をみた多くの人は、映画の終幕場面から受けた強い印象が

 

心に残り、何よりもこの映画が「反戦」を訴えているのだと、いうに

 

違いない。キツネもそう思ったし、それがレマルクの原作の真意でも

 

あると思う。で、この白黒映画から、いくつかのシーンを取り上げて、

 

要約してみた。

 

 

 

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シーン1第一次世界大戦中のドイツのとある街。西部戦線に向けて

 

出征してゆく兵士の列と見送る群集の熱気と騒音。通りに面して開け

 

放した窓の中は高等学校の教室である。

 

中年の教師が口角泡を飛ばして演説中。生徒は全員18歳から19歳の若者だ。

 

教師ーー「我々はこの戦争になんとしても勝たねばならない。其のために

 

君たちの若い力が必要だ。今、君たち若い人が国の命運を握っている。

 

其のために勇んで犠牲になることは、とても美しいことだ。(窓の外の)

 

あの勇ましい闘士を見たまえ。軍服を着るのは名誉だ。戦いは決して

 

軽蔑されるべきものではないのだ。ラテンの格言、「祖国に捧げる死は

 

甘美である」という言葉を思い出したまえ。

 

諸君にもさまざまな夢があるだろう.だがその実現は,戦争が終わった

 

後のことだ。今は祖国が諸君を呼んでいる。名誉の死が諸君を待っている。

 

みんなで立ち向かえば必ず勝てる。君たちは祖国の命であることを

 

わかってほしい。君たちが立ち上がって祖国に殉ずるのは君たちの責務だ.

 

どうだね、君たちに其の意思があるかね?クラス全員で出征してくれたら、

 

尚良い。皆で戦えば必ず勝てる。どうだね、アルバート?

 

君はどうかね、ミューラー?ポール、君は?一瞬ののち、「僕は行きます!」

 

「僕も行くぞ!」そして「みんなで行こう!」の声が上がる.

 

教師ーーよしわかった!志願者は集まれ!

 

たちまち軍歌の大合唱とともに街へ繰り出してゆく生徒たち。

 

・・・フェードアウト・・・・

 

 

 

シーン2初めての塹壕戦

 

前線での初仕事は深夜の鉄条網張りだった。時折飛んでくる砲弾を

 

避けつつ、音の漏れないように杭を打ち、有刺鉄線を張って行く。

 

彼らの寝床はうねうねと続く塹壕のひと隅を屋根がわりに板で覆った

 

一画で、食料は届かず、自前で何処かから調達してくるしかない。

 

皆腹ペコだ。古参兵のカチンスキーはこの少年たちの頼もしい先輩で

 

教育係、食料の調達係であり、其の夜は貨物列車から子豚一頭をうまい

 

こと盗んできて、皆に振る舞った。

 

初年兵ーー俺たちはここで何をやってるんだ?個人が個人を憎む?

 

おれがイギリス人を憎むって?今日初めて会ったばかりの奴だぜ。

 

国民が国民を憎むなんてことがあるかい.

 

初年兵2ーー国が国を侮辱する。山が山を侮辱するってか?`誰もが

 

嫌がる戦争を、起こした奴は誰だ!

 

初年兵3ーーそれが誰かにとって利益なのさ。皇帝はみんな、自分の

 

名誉を歴史に残したいのさ。

 

カチンスキーーこれはおれの提案だが、野原を囲って、世界中の王様、

 

貴族、政治家を集めて、パンツ一丁で、棍棒で殴り合いをさせて決着を

 

つけるのさ。

 

・・・フェードアウト・・・・

 

 

 

シーン3塹壕の中。ポールは移動の途中、穴の底で砲撃を避けている。

 

頭上を敵兵が飛び越えていく。其の一人のフランス兵を穴に引っ張り

 

込んで、ナイフで刺す。死んでゆく敵の兵士を見て、パニックに陥るポール。

 

「なんでそんなにうめくんだ!早く死んで楽になればいいんだ」と叫んで

 

みたり、一方で手で水を汲んできて飲ませようとしたり、フランス人の持って

 

いた家族の写真を見れば、「許してくれ、家族にはきっと手紙を書くよ。

 

そして必ず面倒を見る。だから死なないでくれ!」・・・しかし、兵士は

 

死んでしまう。

 

仲間のもとへ帰って、涙にくれるポールに、カチンスキーが慰めて言う。

 

「誰でも最初は同じさ。これが俺たちの役目なんだ。戦争なんだから、

 

仕方ないのさ。あそこで撃ちまくってるあいつを見てみな。今日は三人も

 

立て続けに殺した」

 

 

・・・・フェードアウト・・・

 

 

シーン4戦争は4年も続いた。何人もの仲間が死んだ。

 

ある日、ポールは仲間と、ピアニスト志望のフランツを見舞いに

 

野戦病院へ行った。彼は片足を切断する重症で、息も絶え絶えにいう

 

「痛い、痛い、右足の先が痛むんだ。医者を呼んでくれないか!」一同

 

顔を見合わせている間に、無神経なミューラーが、ベッドの下のフランツの

 

長靴(上等な革製で、自慢にしていたもの)を見つけていう「ねえフランツ、

 

これ、僕にくれないか?だってもうお前には用がないだろ?」

 

ポールは居残ってフランツを色々慰めていたが、とうとう彼は「靴は

 

ミュラーにやってくれ」と言い残して、目の前で死んでしまう。形見の

 

長靴を手に夜道を駆け通して兵営に帰ったポールは、カチンスキーに

 

告白する。「走りながら、不意にこの体が生きている事が強く感じられて、

 

喜びが全身に溢れた。生きることの素晴らしさを、僕はすっかり忘れて

 

いたんだ」と。人が死ぬのを当たり前のこととして、戦争なんだから

 

仕方がないんだと、自分に納得させていたのかもしれない。

 

そして、後悔の念とともに上等な靴を受け取り、行軍するミュラーも、

 

まもなく弾に当たって塹壕の中で息絶える。・・・・フェードアウト・・・・

 

 

シーン5弾を腹に受けて野戦病院に収容されたポールは、なんとか

 

生き延びて、初めての休暇をもらって故郷に帰る。ところが、病気の

 

母の愛情のこもった心配そうな言葉と反対に、親父や他の男たちは、

 

ドイツ軍の劣勢も知らず、相変わらず「早いとこパリを乗っとれ!」とか

 

「其のための経路はこうだ」「いや、それは違う」と言ったノーテンキな

 

論争に明け暮れている。(まさに、この頃の司令部報告書に

 

「西武戦線異常なし。報告すべき件なし」と記されていたように)

 

そして、かつての学校を訪れたポールは、相変わらず生徒を、それも

 

156の子供たちを焚きつけて戦争に行かせようと骨折っている教師の

 

姿を見る。

 

教師ーー諸君ここに英雄がいる。さあ、ポール、君の素晴らしい体験を

 

皆に話して聞かせてくれ。

 

ポールーー何も・・話すことはありません。・・戦争は悲惨なものです・・

 

すると、生徒等は一斉に「臆病者!」との言葉を浴びせる。

 

 

・・・フェードアウト・・・

 

 

シーン6休暇を切り上げて原隊に戻ったが、ガラリと様子が変わっている。

 

新入りの若い少年たちが飢えを我慢できずにへたりこんでいる。

 

ポールは食料調達に行ったカチンスキーを探しに出掛けた。頭上に敵機が

 

飛び回って、爆弾を投下してくる。カチンスキーに出会えた途端、すぐに

 

地面に伏せて弾を避けねばならなかった。足を撃たれたカチンスキーを

 

背負って救護所まで運ぶ。

 

ポールーー「なあカットよ、これで家へ帰れるぞ。きっとまた会おうな」・・

 

しかし、カチンスキーは其の背中で、首筋を撃たれて死んでいたのだ。

 

・・・フェードアウト・・・

 

 

 

シーン7塹壕の中。たまった雨水をかい出す兵士たち。

 

ポールは銃座の後ろにいて、ぼんやり外を眺めている。と、すぐそこの

 

地面の上に、美しい蝶が止まっているのが目に入った。彼は塹壕の外に

 

身を乗り出し、手を伸ばした。

 

途端に、銃声が響き、彼の手はピタリと動きを止める・・・フェードアウト・・・

 

 

 

(完)

 

 

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🦊この物語からおよそ20年後に、ナチの軍隊がポーランドへ侵入し、

 

第二次世界大戦が始まった。一説によれば、ヒトラーは、一次大戦の敗北が

 

余程悔しかったと見えて、「今度こそ、目にもの見せてやるのだ」とばかりに

 

ナチ党を旗揚げし、ドイツ国民を支配して、再び戦争に巻き込んだのだという。

 

 

 

 

 

 

🦊2020  28

 

コロナはまだ終息していないので、穴籠もり生活は続く。

 

流石のトロいキツネも、頭が重く、息苦しさを感じるようになった。

 

昨夜はなんと、放火犯の集団に混じって、方方を回り、ついに

 

 一軒の家に放火した・・ところで目が覚めた。

 

体が軽く、あたまはスッキリ快調。

 

なんのことはない。人間は日頃押さえている「悪の衝動」を解放する

 

ことで、気持ち良くなれるものらしい。たとえ、夢の中でもね。

 

 

コロナ対策をめぐって、世界的な協力・・どころか、イガミアイが

 

始まった。英国のワクチンメーカー・アストラゼネカに対して、

 

予定納入量の半分しか寄越さないのはけしからん。どこか他の国に

 

 回したに違いない!と、EUから抗議の声明が出されたそうな。

 

ことの真相はともかく、こんな具合で、核軍縮も地球温暖化対策も

 

 一向に進まず、・・で、行きつくところは地球破壊、地球廃棄、

 

人間はほんの一握りがどこかで生き残り、繁殖を繰り返して、

 

多分また悪夢で不祥事を解決する、の愚をやめないだろう。

 

 

 

 

アオツヅラフジ

 

有毒植物

 

 

どの程度の毒なのかは知らないが、

 

見るからに美しい青い実だ。

 

葉っぱも美しい。

 

 

これとシロバトなんかを組み合わせて、

 

綺麗な籏ができそうだ。

 

 

白い鳩は平和を運ぶ使者とされている

 

が、この青い実に毒があるとは

 

知らずに、食べてしまう。

 

そして、毒の効果で、不死身の体と、

 

メタリックに輝く白い羽毛を得た。

 

 

 

  兵士の身体改造、強力な補助具の開発 が

 

現実に進められているそうだ。

 

 

まるでアニメそのままに  カッコイイ!

 

敵を皆殺しにして、 平和をもたらす。

 

しかも、うけた傷をじぶんで治療する

 

機能までそなわっているそうな。

 

 

白い鳩のレジェンドは、永遠の寿命をつなぐ。

                                                                             

                                                                                                       

 

 

 

`実録第二次世界大戦   <運命の瞬間>

 

秦郁彦  著  昭和45年3月 発行  桃源選書

 

 (秦郁彦氏は軍事評論家で、この本の出版当時は防衛庁防衛局

 勤務)

 

「まえがき」より

 

戦争は、自ら体験することによって学んでいくには、あまりにも

 

高価な教材であるから、我々は、過去の戦史の研究を通じて

 

必要な教訓を、その人なりに汲み取って行くほかはない。

 

戦後20年を経て、太平洋戦争の苦い記憶は、次第に薄れつつ

 

あるが、先人の残してくれた貴重な経験が、戦後日本の防衛

 

政策にどれだけ生かされているか、ひそかに憂いを持つのは

 

著者ばかりではなかろうと思う。

 

太平洋戦争についての新鮮な再検討が待たれるところであるが、

 

日本には直接かかわることが少なかった二次大戦のもう一つの

 

局面であるヨーロッパ戦場の実相を知ることも、大いに意義の

 

あることだろう。

 

 

1部  「六つの決定的戦闘」より

 

2章 モスコー

 

 「ロシアは侵入するのが容易な国である。しかし、そこから

 

脱出するのは困難であるーージョミニー

 

p24  バルバロッサ作戦

 

ソビエト・ロシアの広大な領土と豊富な資源は、長い間ヒトラー

 

の貪欲な征服計画の中で、最大の獲物として夢想され続けてきた。

 

既に15年も前に、彼は「我が闘争」で「我々国家社会主義者は、

 

600年前に中断したところのものを再び取り上げる・・かの東方

 

における巨大な帝国は、まさに崩壊に瀕している。そして、ロシア

 

におけるユダヤ人支配が終わることは、同時にまた、国家として

 

のロシアの終末となろう」と書いていた。

 

よく知られているように、ナチスのこの聖典は、アーリア民族

 

以外の種族に対する激しい偏見と侮蔑に満ちているが、特に

 

彼はポーランド以東のスラブ系諸民族を見下していたようで

 

ある。加えてユダヤ人の「汚血」と、共産主義の悪魔が食い

 

入っている!とヒトラーは毒づいた。それに反し、彼は純粋の

 

アーリア民族であるアングロ・サクソンの「高貴性」と高い

 

文化的伝統には一応の敬意を払っていた。

 

 ところで、西部攻略の勝利、引き続く、「英本土の戦い」の間、

 

ヒトラーはドイツの宿命ともいうべき二正面作戦の危険を避ける

 

ために、心ならずもポーランド戦の直前に独ソ不可侵条約を

 

結んで、東方の安全を確保したが、ソビエト征服の夢はひととき

 

も彼の頭を去らなかった。

 

スターリンが、西部攻勢の隙に乗じて、バルト三国とベッサラビア

 

を素早く奪い取り、さらに英帝国の遺産分割を協議した秋の

 

ヒトラー・モロトフ会談で、「過大な」要求を持ち出したことは、

 

この尊大な独裁者を我慢のできない苛立ちに追いやった。

 

(ヒトラーがいつ具体的な対ソ攻撃を決意したかという問題は、

 

ワインベルグの研究では、1940年7月〜8月にかけてで

 

あった)

 

しかし、英本土進攻を眼前にしたヒトラーがなぜこの時期に

 

ニ正面作戦の危険を冒す対ソ攻撃を決意したのか、まして

 

秋に入りイギリスを早期に屈服させる見通しが薄らいで行った

 

にもかかわらず、なぜ彼がますます東正面の投機的戦争に

 

取り憑かれていったのか、説明する資料はまだ見出されていない。

 

 

 

いずれにせよ、この大作戦は夏から秋にかけ、のちにスターリン

 

グラードの悲劇の主になったパウルス将軍(参謀次長)を中心

 

として、極秘のうちに検討され、クリスマスの一週間前になって

 

完成し、最終的な決定に達した。「バルバロッサ」と名付け

 

られた雄大なプランは、翌年5月15日に発動され、秋までに

 

ボルガ河ーモスコーーアルヘンゲリスクを結ぶヨーロッパ・

 

ロシアの心臓部を征服しようというのであった。

 

 

 

戦後になって、ハルダー其の他の将軍たちは、ヒトラーの

 

この冒険に反対したと称していたが、それを証する記録はなく、

 

むしろ積極的に相当の計画を支持した形跡さえ見られるので

 

ある。例えば総統大本営(OKW)のヨードル作戦部長は、

 

バルバロッサの兵棋演習の後で、「我々が攻撃をかけて3週間

 

したら、この馬鈴薯山は潰れ去るであろう」と揚言していたが、

 

このような満々たる自信は、彼らがソ連の装備、兵員の素質

 

特に指揮官の能力、民衆の愛国心をいかに過少評価していたか

 

を証明している。

 

 

p27 指令第25

 

こうしてバルバロッサ計画に基づき、1940年の秋から西部戦線

 

のドイツ軍は、徐々にポーランドへの移駐を開始した。また

 

新編成の軍が創設され、ルーマニアやハンガリーにも兵力の

 

供出が強要された。

 

このような東部正面の戦争準備は、極秘のうちに進められた

 

のであるが、百数十個師団の大兵力で出撃する動きを完全に

 

隠すのは困難であり、実際に機密は漏れていた。

 

アメリカは、早くも1941年の1月に信頼すべきルートから情報を

 

得て、3月にこれをソ連政府へ知らせてやり、6月の第一週にも

 

重ねて警告を発した。驚くべきことは、4月末にモスコー駐在の

 

独海軍武官が本国に「モスコーではクリップス英大使が6月

 

22日を対ソ攻撃の日と予言している」と報告した事実である。

 

またベルリン、ポーランド、バルカンに潜入していた諜者たちも、

 

同じような警告をクレムリンに送っていた。

 

 

 

ソ連軍首脳部の間では、6月6日の季節外れな降雪が、不吉な

 

前兆として囁かれ、スターリンが占星術師から独軍の侵入は

 

19日であると予告されたという噂も流れていた。

 

最近、ソ連でもスターリンのこの重大な誤算について、

 

さまざまな説が現れている。・・しかし独軍の開戦準備を

 

バルカン作戦に絡んで威嚇あるいは独ソ離間を狙った

 

イギリスの情報工作と思って油断し、最後の瞬間まで

 

ドイツとの間に妥協が成立するのを期待していたと

 

いうのが実相であろう。

 

(🦊開戦直前になって、ドイツが対ソ作戦のためにバルカン

 

諸国に要求していた兵力と軍隊の通過権に反対するクーデター

 

が起こり、これに激怒したヒトラーは、ユーゴー、ギリシャ、

 

クレタ島に軍を出動させた)

 

この延期が、ヒトラーの「一生を通じて最も破局的な決定」

 

(シャイラー)であったかどうかは判断の難しいところで

 

あるが、いずれにせよ、6月下旬という時点が、対ソ作戦を

 

始めるのに、やや遅すぎる季節であったことは確かである。

 

(中略)

 

 

p29 デスナ河の足踏み

 

ナポレオンがモスコーの西関門であるスモレンスクの街に

 

入った7月16日に、同じ地点に達していた。前例に従えば、

 

8月中旬には、クレムリンの城壁にハーケンクロイツの旗が

 

翻らねばならぬ筈であった。ところが、この重要な時期に、

 

攻勢の方向をどこに取るかで、ドイツ大本営の意見が分裂した。

 

陸軍総司令部は、ボックの意見を支持して、直ちにモスコーに

 

進撃すべきであると主張したが、それは単に敵の首都を占領

 

するという心理的価値ばかりでなく、モスコーが軍需生産

 

および交通の中心であり、また諜報により、ソビエト野戦軍

 

の主力がその前面に集中していると推定されたからであった。

 

(この意見に対し)総統は、漠然とではあるが、ウクライナ

 

の穀倉と工業地帯の確保が先決であるという考えに傾いていた。

 

その上、彼は半ば包囲されながらも、ドネツ工業地帯疎開の

 

時を稼ぐためにキエフ周辺で必死の抵抗を行なっている

 

プジョンヌイ軍を殲滅したいという欲望にかられた。

 

結局ウクライナとレニングラードを占領してから、モスコー

 

の攻撃を再開しても遅くはないという結論が総統から示された。

 

こうしてウクライナ作戦のために、ボック軍集団からは、

 

グーデリアンの戦車と新来の第2軍(ワイクス上級大将)

 

14個師団が引き抜かれ、9月21日からキエフを目標と

 

する大包囲作戦が展開され、26日までに35個師団の

 

ソビエト軍は文字通り全滅し、プジョンヌイはかろうじて

 

飛行機で逃げ出した。

 

ヒトラーはキエフの戦闘を「世界の歴史で最大の戦闘」と

 

誇称し、捕虜66万余、捕獲した砲3700余、戦車886

 

発表した。機甲部隊を奪われたボック軍は、デスナ河の

 

線で2ヶ月も足踏みさせられた上、キエフの勝利に陶酔した

 

ヒトラーに遅すぎたモスコー攻略を決心させたからである。

 

しかも、ソ軍戦力の8割以上は壊滅したと信じたヒトラーは、

 

モスコーだけでなく、同時に北部ではレニングラードの

 

占領を、南部ではドン河の線まで迫撃することを命じ、

 

3兎を追ってついに1兎をも得ずに終わるのである。

 

 

p31 泥の季節

 

9月はじめ、ヒトラーは将軍たちの要請を入れて、モスコー

 

進撃を再開する命令を発した。しかし、キエフ戦線に出動して

 

いるグーデリアンの機甲部隊を呼び戻し、北部からラインハルト

 

の戦車隊を回して、準備をととのえるには、約1ヶ月の日数が

 

必要であった。「台風(タイフーン)」と名付けられたこの攻勢

 

は、50個師と3000門の火砲、1000台の戦車をもって10月2日に

 

モスコー・スモレンスク街道を中心として開始され、各軍は

 

ウヤジマ付近に布陣していたソビエト軍を包囲、撃滅してモスコー

 

に突進した。

 

ブルーメントリットによって「教科書の戦闘」と呼ばれたこの

 

包囲戦で、ソ軍はまたも捕虜65万、砲5000門、戦車1200を失う

 

大損害を受けた。ソ軍は、秋も深くなったこの時期に、ドイツ軍

 

が大攻勢を展開しようとは思っていなかったのである。

 

ヒトラーは完勝を確信し、ボック軍の中では楽観的な空気が

 

みなぎった。既にモスコー入場に備え、ヒトラーはクレムリン

 

宮殿を爆破する工兵隊を特に編成して、待機させていた。

 

10月20日、ドイツ軍の戦車隊はモスコーから40マイル足らず

 

の距離まで接近し、ソビエト政府の各省や外国公館はボルガ河畔

 

のクイビシェフに後退した。

 

ところが、独軍の前進はこの時点でピタリと停止してしまった。

 

冬の前触れである秋の長雨が始まりラスプティツアと呼ばれる

 

ぬかるみの季節が訪れたのである。独軍は、それを知らない訳

 

はなかったが、実情は想像をはるかに上回った。車両は泥の中

 

にはまり込んで動かなくなり、重砲を運搬するために戦車を呼び

 

返して牽引をさせねばならなかった。時には戦車ですら、動かなく

 

なることもあった。それでなくても伸びすぎていた補給線が、

 

泥の中に埋もれた時の事態は容易に想像できよう。それに応じて、

 

ソ軍の抵抗は日増しに強くなり、独軍の損害は急カーブを

 

描いて上昇した。さらに独軍にとって不愉快なウヤジマ戦線で

 

初めてのソ軍の新型T34戦車が現れ独軍戦車を上回る威力を

 

示した事実であった。75ミリの装甲を持ったこの戦車に対しては、

 

独軍手持ちの37ミリと50ミリの対戦車砲は役に立たず、逆に

 

ソ軍の75ミリ対戦車砲が独軍のマルク4号戦車を制圧し、今まで

 

機甲部隊には絶対の自信を持つストルモビク対戦車攻撃機も

 

姿を見せて、空から独軍戦車を脅かした。

 

憂鬱な泥の季節は、10月中旬から11月の中旬にわたって続いた。

 

そして長雨の後には、恐ろしい冬の到来が待ち構えていた。

 

グーデリアンは、10月6日に初雪が降ったと記録している。

 

11月3日には、寒暖計は結氷点以下に下がり13日には零下22

 

に急下降して、あちこちで重症の凍傷患者が現れ始めた。10

 

中旬までにモスコー占領を予定していたドイツ軍は、冬の装備

 

を用意していなかったので、兵隊は薄い夏の軽装で戦わねばなら

 

なかったからである。慌てた大本営は、ドイツ全国の家庭から

 

毛皮や毛布を供出させ、急いで前線に送ったが、それが届いた

 

のは、モスコーの勝敗が決した後だった。

 

何よりも、低温は、機甲部隊の活動を不随にした。零下340

 

になると、マシン油が凍って作動しなくなり、戦車の砲塔は回転

 

しなくなる。エンジンを始動させるために、車台の下で10時間も

 

火を燃やさなくてはならない。独軍将兵の間には、重苦しい不安

 

と、絶望感が忍び寄ってきた。

 

 

p33 冬将軍の到来

 

11月上旬、ハルダー参謀総長は、オルシアで作戦会議を開き、

 

その結果、大地が固まる11月中旬以降に最後のモスコー攻勢を

 

かけることに決定した)

 

こうして、51個師団(ち戦車13)、火砲3000、飛行機1500

 

を投入した第2次モスコー攻撃は、11月15日から幅350キロ

 

縦深300キロの正面で開始された。機甲部隊の進撃は、最初順調

 

に進むかに見えた。折しも20日ごろ天候は急激に崩れ、ほとんど

 

一夜のうちにロシアの恐るべき冬が猛吹雪を伴って襲来し、数日

 

のうちに見渡す限りの広野は白雪に覆われた。戦車隊は、吹き

 

募る吹雪と、零下30度を前後する酷寒の中で、最後の力を振り

 

絞って進撃したが、やがて繰り出してきたソ軍新鋭部隊の反撃に

 

あって立ち往生した。

 

危機はまず南側から大きく迂回しつつ前進していたグーデリアン

 

軍の上に見舞い、補給を断たれた戦車の縦列は雪の中に停止

 

した。精悍を以て知られた彼も「氷のような寒気、掩蔽物の

 

欠如、兵員と装備の重大な損失、燃料補給の惨憺たる状況」

 

に絶望して、21日ボックに「命令の変更」を要求した。結局、

 

この戦車戦闘の勇将は翌月末無断退却を理由に、ヒトラーから

 

罷免されるのである。

 

(一方北側の第3、第4機甲集団もモスコー・ボルガ運河の線で

 

停止し、第4軍は予備兵力の全部を投じて街道沿いに進撃を

 

はじめたが、もはやモスコー占領の任務に耐えられないことが

 

わかった。第258軍団の偵察隊が暗黒の森林を突破して、首都

 

から20キロの地点に到達し、はるかにクレムリンの尖塔を見た

 

が、翌朝までに、ソ軍の戦車数台と地元労働者の一隊によって

 

撃退された)

 

それはドイツ軍がクレムリンを見た最初であり最後になった。

 

 

p35 ジューコフの反撃

 

12月5日の夕方ボック元帥が、ハルダーに「力は尽きた」と

 

電話した時、ドイツ軍はモスコーを囲んで半円形を描いた

 

300キロの全戦線にわたって停止していた。暗澹たる気分が

 

ドイツ大本営とボック軍全将兵の間に漂った。

 

翌6日、六週間前にチモシェンコに代わって西部方面軍

 

司令官に就任したばかりのジューコフ大将は、カリーニン

 

方面軍(コーネフ大将)、西南方面軍(チモシェンコ)と連携

 

して、モスコー前面で7個軍100個師団の大兵力を以て、反撃

 

に転じた。

 

それは、優良な装備と十分の冬季訓練を経たシベリア軍18

 

師団を含む精衛によって編成され、モスコー付近に待機して

 

いた大戦略予備軍であった。

 

スターリンは、冷静にドイツ軍の作戦計画を検討し、

 

彼らがの切れたタイミングを見計らって一挙に反撃を

 

加えたのである。疲れ切ったドイツ軍は、たちまち各所で分

 

断され、雪と氷の中で武器を捨てて第一次攻勢の出発点

 

まで退却した。(クツーゾフの騎兵に追われて敗走した

 

ナポレオンの悪夢が、司令官たちの頭の中を去来したに

 

違いない)

 

12月10日、モスコーの包囲体系は解かれ、殊勲の

 

ジューコフは、チモシェンコと連名で全軍に勝利の布告を

 

発し、同時に元帥へ昇進させられた。レニングラードを

 

包囲していたレープ軍は、依然として市の郊外で釘付けにな

 

っていたし、南部では1121日ロストフに突入したクライスト

 

の戦車隊が、数日後ソ軍の反撃を受けて退却に移り、その責任

 

を負ったルントシュテット元帥は、免職されていた。

 

しかし、予想されたドイツ軍の前面崩壊は、不思議にも食い止め

 

られた。今日ではその功は、皮肉にもブラウチッヒを罷免して

 

自ら陸軍総司令官に就任したヒトラーがあくまで退却を禁じた

 

鉄の意思によるものとされている。一度退却を許せば、全軍は

 

バラバラに分解して、文字通り、ナポレオンの敗残軍を再現する

 

と信じたのである。・・

 

 

p37 独裁者の気まぐれ

 

(ロシアの厳しい冬は確かに兵士を苦しめたが、それ自体が

 

致命的であったわけではない。なぜなら、早めの寒気と少ない

 

降雪のため、11月以降大地は硬く凍りつき、かえって、戦車の

 

前進を容易にした側面もあったからだ)

 

機械化された300万の近代軍を養うには、驚くほど多量の補給

 

物資を必要とするが、電撃作戦の勝利を予想していたドイツ軍は、

 

西欧諸国に比べてはるかに貧弱なロシアの輸送網が、それに耐え

 

られるかどうかを十分に検討しなかった。

 

実際に作戦が始まると、まずレールのゲージが違うために、彼ら

 

は鉄道の敷設をやり直しつつ進まねばならなかった。さらに泥の

 

季節に入ると、舗装されてない道路は泥沼に急変し、冬になると

 

機関車は霜で亀裂が入って動かなくなり、ソ軍のパルチザンが至る

 

ところで輸送部隊を襲撃するという悪条件が重なった。

 

次に、ヒトラーが犯したいくつかの重要な戦略上の失敗を挙げて

 

おかねばならない。ギョームが指摘するように、軍事指導者と

 

してのヒトラーの性格には二兎を追う癖があった。いわば独裁者

 

の気まぐれなのであろうが、目標を立てて進む途中で、関心が

 

分裂して、脇道へ逸れていく現象である。

 

対英戦から対ソへの転換、対ソ開戦の四週間延期、デスナ河の

 

足踏み、モスコー攻撃を再開してからの戦略、いずれもその好例

 

である。しかしヒトラーがこれらのあやまちを全て犯さなかった

 

と仮定しても、予定通り冬が来る前にモスコーを占領したとして

 

も、ブルーメントリットが確言するように、最終的勝利に達する

 

のは不可能であったろう。

 

 

 

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

 

🦊秦氏は、この項を次のような言葉で締め括っている。

 

より一層われわれの胸を打つのは、、日本が真珠湾奇襲を

 

以て太平洋戦争に突入したのが、わずかその2日後であった

 

という事実であろう」と。

 

 

日本軍部はナチスの真似をした、とか、いや、学んだわけでは

 

なく、体質的とでもいうか、「似通った精神構造」のなせる技

 

であるとか、色々言われているうちに、ヒトラーや東條の個人的な

 

資質に全てをおっかぶせて、われわれ国民は悪くない、むしろ

 

被害者だ、という、誠にご都合主義の論と論者がのびのびと

 

育ってきているらしい。

 

そして、万民は平等であるべきだが「地政学的」には実現不可能。

 

なぜなら、科学や経済は上を目指して常に「人の上に人を作って

 

いくもの」だから。それを目的にして軍国主義は常に復活する

 

ものだから。ナポレオン、ヒトラー、東條、習近平、誰でも

 

ござれ。われわれ日本人もいつまた、こういう人物を神輿に

 

乗せぬとも限らない。

 

歴史から学べ、は掛け声にすぎず、新しい歴史は自分らが作る、

 

汚れた過去は捨てよ、みたいなことをいう人々が一向に減らないねー。

 

はてどうしたもんだか。

 

 

 

2021年4月30日

 

 

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🦊:「江戸」と「明治」対決、みたいな出版物競争が、しばらく前から盛りである。

 

1。古くて遅れた江戸の社会構造、それに対して、素晴らしき欧米式文明開化、議会制

 

などを積極的に取り入れた明治政府は素晴らしいと、「明治政権運営会社社史」風の、

 

よくある論調。

 

 2。徹底して国内動乱を防ぎ、舟運を軸とした通商の発展、都市における治水、交通、

 

治安などの、世界的に見ても一歩先をゆく行政能力を示した江戸幕府、それに対し、

 

江戸時代の藩閥による、藩閥のための法権、行政権、警察権など全てを引き継いだ

 

だけで、国民は「愚民」に過ぎず、民権など一切受け付けない明治官僚政治。

 

・・と言う具合に分かれるが、しかし、人々の「個」は、どこかの偉い「その人」に

 

おあずけしてある。しかも、その「ところ」に応じてさ。それは江戸、鎌倉時代を

 

通り越して、天皇親政の古代にまで、またそれを利用した公家社会にまで遡る。

 

例外的に一向一揆の農民たちや、それを指導した蓮如ら日蓮宗の僧侶が、

 

「南無妙法蓮華経」を唱える農民の信仰心(小難しい学問とは無縁の)を集団の

 

力に変えて、領主層に反抗したが、すぐに潰されてしまった。しかしこのことは

 

長く為政者の心に恐怖として残った。愚民には「知らしむべからず寄らしむべし」

 

であると。

 

で、1 も 2 もそのルーツは同じ、だから「国民経済隆盛、軍事力強化」の

 

ための提言またはアジテーション・・に利用されやすい。

 

江戸は素晴らしかった。世界に冠たる経済力を誇り、(海を渡って異国との通商が

 

盛であり)もし「鎖国」政策なかりせば、その勢いは欧米各国に勝るとも劣らな

 

かったであろう、などといい、江戸長期政権の隆盛と、世界に冠たる経済大国(?)

 

の過去をもう一度思い出して元気を出せ、と言う。「神国日本」を捨てたのは

 

よろしいが、代わりに「地政学」などという古くさい学問を有難がっているのは

 

いかがなものか。それで地球が救われようか。

 

 徳川を倒して新たな「征夷大将軍」に成り上がった長州閥の人々。彼らの出自

 

は下級武士か農民だが、元老と崇められ、「明治の生みの親」と持ち上げられて、

 

好き勝手に政治を動かし、現代においても、なお彼らは活躍中だ。

 

普通の有権者を指して「こんな人たちに政治を任せるわけにはいかない!」と叫

 

ぶ前首相。また、外国人記者の質問「あなたは国民の声を真剣に受け止めてますか?」

 

に対し「私が直接国民の声を聞く必要はない 。すべて部下の官僚にまかせてあるから」

 

と。だから前政権(=現政権)は長州閥と言われるんだ。単に選挙区が山口であると

 

いうだけじゃない。

 

 で、現在の長州閥的官僚政治(上意下達、国民は愚民、説明無用)のルーツを

 

知ることもできるかと、山縣有朋の伝記を読んでみた。

 

 

 

山縣有朋」半藤一利著

 

2009年 ちくま文庫 刊

 

🦊<この本のカバーのキャッチフレーズにこうある・・

 

長州の奇兵隊を出発点に伊藤博文とともに、「偉大なる明治」の基礎を確立

 

した山縣有朋。彼は、統帥権の独立、帷幄上奏の習慣、軍部大臣現役武官制

 

などで軍の政治的地位を高め、その武力を背景に短期間で大日本帝国を築き

 

上げた。しかし、その仕組み故に軍の独走を許し、大日本帝国は滅んだ・・。

 

「幕末史」と「昭和史」をつなぐ怪物の人生を、見事に描き切る。>

 

 

 p19より

 

(山縣有朋は、1839年、萩の川島庄に生まれた)「父は有稔(ありとし)

 

と言って、毛利藩の蔵元附中元組(藩倉庫の下男)、つまり足軽以下の最下層

 

卒族、今でいう奴さんである。町なかで士分の人に会うと土下座して挨拶せねば

 

ならなかった。

 

先祖は清和源氏に発し、戦国時代には毛利氏の武将として活躍したというが、

 

のちの明治の元勲に光彩を添えるための密やかな工作があるのかもしれない。

 

建坪わずかに4坪あまり、貧寒を極めた家であった。(中略)

 

少年のころの山縣は、(幼少の時から聡明なところを見せていたが)学問や

 

歌道で身を立てようとは思っていない。むしろ槍術を持って藩の役に立とう

 

と志した。・・・

 

このように彼が暁の薄明の中で一心不乱に槍を突きまくっていた間に、

 

時代は大きく転換した。平時なら封建制下の階級は上下の区別が厳格で、

 

彼の身分ではチャンスはほとんどない。しかし、日本国の体制そのものが

 

変わろうとしていた。長州藩が先頭に立って、各班が嵐のような藩政改革の

 

真っ只中にあり、歴史を動かしつつあった。

 

天保9年のこと、長州藩では村田清風が抜擢されて藩政改革に乗り出している。

 

山縣は幸運な時にこの世に生を受けたと言える。

 

「家柄や資格を度外視して人材を登用すべし」という清風の改革案がなければ、

 

彼は最下級の奴さんとしての一生をひっそりと終えるはずであった。しかも、

 

まず武芸の道を選んだことが、改革運動の第二陣的な立場となり、身に幸した。

 

(中略)

 

 山縣は長い生涯を通して、絶えず「生涯一武人」あるいは「一介の武弁」と

 

言い続けた。しかし健謀術数、狡智にたけ、徹頭徹尾、権力操作と陰謀の権化

 

でしかなかったその政治的生涯を見ると、気風壮大なおおらかな武人とは言い

 

かねる。最下層卒族の出身、不幸な幼少時代、そして劣等感が、絶えず暗い影を

 

後ろに引く人間性を作り出したのか、率直さがなく、ひねくれている。その狷介さ

 

が、いい方向へいい方向へと働き、かえって青年山縣をやがて世に出すことになる

 

のである。運命の不思議としか言いようがない。

 

(山縣19歳、開国か攘夷か、の論争が沸騰する中、長州藩はすでに「尊王攘夷」を

 

根本方針と定め、六人の若者を選んで京都方面へ諜報活動に送り出した)山縣は

 

その一人として参加、久坂玄瑞らに接して、その唱える「尊王」を徹底的に叩き

 

込まれる。思想的開眼である。

 

そして天皇親政こそ国家の根基たるべし、とする思想が、まだまっさらな、

 

純一無垢に近い胸奥に染み通った。

 

(中略)

 

p28ー「常に奇道を持って価値を制す」より

 

こうして吉田松陰に認められた山縣、杉山、時山らの軽輩の門下生らが、

 

藩の方針転換とともに登用され、士分に取り立てられたのは1863年のこと。

 

武士になりたかった山縣のどんなに喜んだことか。山縣は26歳である。・・

 

 同年6月、下関防御に失敗し、意気消沈した長州藩であったが、高杉晋作は

 

(敗戦を調査して)戦闘における武士の無力さというものを見抜いた。

 

アジアの各地で豊富な戦争体験をつんだ外国軍と、250年にわたって太平の

 

夢を貪り続けてきた日本のサムライとでは、最初から勝負にならないのである。

 

しかも藩の正規軍のだらしなさに比べて、京都から駆けつけた久坂玄瑞や

 

入江九一らの光明寺党が、最後まで根強い抵抗を見せ・・そしてこの戦いを

 

通して、百姓や町人が献身的な協力をしたことにも注目した。

 

「国家危急の時である故、武士、町人・農民を問わず、戦闘に長じ、死を

 

恐れないものを集めて一隊を組織しよう」

 

維新史を飾った奇兵隊は、この発想をもとに組織された。

 

(亡命中の九州から戻った高杉晋作の懸命の説得により、奇兵隊は尊王攘夷

 

の旗のもとに結束した。奇兵隊は萩へ進撃し、幕府への恭順を主張する

 

保守派の長州藩閥の家柄の人々を打ち破った)

 

奇兵隊の進撃を前に、豪農、商人から庶民に至るまでが、俗論派(佐幕派)

 

に背を向けた。・・・幕府は四境戦争(長州戦争)に敗れることによって

 

衰亡への急坂を転がることになった。倒幕の密勅、鳥羽伏見の戦い、徳川慶喜は

 

江戸へ逃げ帰り、そして大政奉還と明治維新への道はもう一直線である。

 

山縣はこの間、奇兵隊を率いて九州方面の領民鎮撫、あるいは幕府軍掃討戦

 

に力を尽くしている。

 

度重なる戦塵にまみれながら、彼は大切なことを学んだ。それは軍という

 

存在が単に銃や剣の世界ではなく、いかに政治的影響力を持ちうるかという

 

軍政一如の機微を、再確認したことであった。我らが山縣狂介(のちの有朋)

 

はひと回りも二回りも大きくなっている。

 

 

 p44  このころの藩への意見書に、「陸軍はもちろん、海軍を拡張すべし、

 

そのために急とすることは、人材を選んで、外国に派遣し、世界情勢を

 

熟知させ、戦艦、砲兵、制度、政治などの実行を勉強させることである」

 

と論じたのである。このようにして初めて、「真正の叡慮を海外に光輝

 

せしめ、政体を拡張し、天下を泰山のやすきに措くべし」そして、やがては

 

万里の海を越えて、兵威を外国に示すことができるようになろう・・・。

 

慶応34月、事あるごとに山縣をよろしく指導してきた天才高杉晋作が病没。

 

・・高杉の後を受け、政治を切り盛りする立場になった桂小五郎が、その

 

山形に目をつけ、重大任務を負わせた。攻守同盟を結んだものの、金門の

 

変に際しての薩摩の裏切りは、長州人には忘れようにも忘れられない事

 

なのである・・。まして桂は、疑い深く慎重の上に慎重な男であった。

 

使者を薩摩に送り込んで、その真の肚を探らねばならない。桂はそう思い、

 

伊藤俊輔らとともに山縣を選び出したのである。・・

 

5月、長州人の入るを許されていない京都へ、山縣は決死の思いで入った。

 

薩摩藩は双手を挙げて彼らを歓迎し、大殿さまの島津久光にさえ直接に

 

会うことができた。感激その極に達した山縣は、以来終生、島津久光と

 

西郷隆盛を尊敬し続けることになる。

 

そして帰郷した山縣は、翌6月、下関の富豪石川良平の娘友子(ゆうこ)

 

と結婚した。

 

 

p65   戊辰戦争を通して、山縣はよき軍人であろうとした。よく戦おうと

 

した。政治的な策術や工作などを微塵もしなかった。

 

だから、明治維新政府が成立したとき、山縣は直ちに顕著な地位に

 

ついてはいない。しかし大村益次郎のように、山縣の奮戦と殊勲を

 

しっかり評価してくれた人物もおり、山縣の未来はまもなく開けてくる。・・

 

 

p71陸軍の建設者」より

 

(東京遷都が行われたのは、明治2328日である。萩にいた山縣は、

 

薩摩の西郷従道(つぐみち)とともに海外視察を命じられる)まだ

 

戦火の完全に収まっていないときに、彼らを海外に出張させると

 

いうのは、明治政府の並々ならぬ自信の現れでもあったろう。

 

新政府の軍政を掌握し指導する大村益次郎が、特に山形と西郷を

 

選びだした裏に、彼の人物を見抜く炯眼のあったことは間違いない。

 

・・まさに絶好の時が訪れたことになる。山縣が特に注意して

 

観察したのは、各国軍隊の組織であった。もちろん各国が徴兵制度

 

をとっていることは漠然とながら知っていた。長州藩が民衆から

 

兵士を募集して奇兵隊を組織したのは、そこにヒントを得ている。

 

「百姓からも町人からも、強い兵士を採る。同じ武器を持たせ、

 

同じ号令をかけて調練すれば、きっと強い兵隊ができると思う。

 

西欧諸国だって日本だっては変わりない。なあに、古代は日本国民

 

は誰でも御親兵として、天子様の兵隊だったのだ。こんな立派な

 

伝統がヨーロッパにありますか。徴兵制度はヨーロッパの真似でも

 

なんでもない。武士が栄えぬ前の日本に還れば良いのですよ」

 

「日本で何か新しい改革をしようとするときは、いつでもその

 

精神を古代に求めれば良いというのは、本当であるようでごわすな」

 

(と西郷従道も応じたという)

 

ただ熱狂的な尊王攘夷の志士として、彼は戦火の中をくぐり抜けて

 

きた。そして得たものは、国の独立を守るのは強力無比な軍隊

 

以外にないという信念であった。今外国へきて、強大にして

 

斬新な西洋文明の導入が新日本国存立のための必要要件と、

 

目を覚まさせられたのである。・・

 

彼はフランス革命の事を聞かされた。今、パリの労働者たちは

 

労働者による政権を望んでいる。マルクスの「資本論」第一巻が

 

しきりに読まれている。山縣は農民や労働者の力を脅威に感じた。

 

日本はようやく王政復古したというのに、外国では王政そのもの

 

が危ういというのか。山縣は、これからの国政を思っては混乱し、

 

憂憤すること度々となった。

 

 

 p75 「御親兵はいずれの藩臣にあらず」より

 

明治383日、ますます天皇中心主義者となって山縣は帰国した。

 

19歳の明治天皇に初めて接して順遊の報告をした33歳の山縣が

 

兵部少将という重責を背負ったのは同月28日である。

 

この時の兵部省(防衛省)は、混沌たる状態にあった。いや、

 

兵部省どころか、政府そのものに威信なく、薩長出身の政権

 

には統一の機運すら薄らいでいた。

 

それというのも、兵部省を作り維新の軍政改革を一手で推進

 

していた大村益次郎が、前年11月、京都木屋町の旅館で刺客に

 

襲われ46歳の生涯を終えていたからであった。刺客の一人の

 

供述には「大村兵部大輔は年来西洋学に沈み、ついに皇国の

 

皇国たる所以を知らず、万事外国に模倣し、彼の風を慕うのあまり、

 

・・皇国の第一たる刀剣を廃するの説を唱うるなど、枚挙に絶えず。」

 

戊辰戦争が終わると、大村は直ちに廃藩置県の議を唱えた。新国家は

 

各藩を潰して統一されたものでなければならない。武士は不要なので

 

ある。よろしく武士の佩刀を禁じ、国民の中から優良なるものを徴兵

 

せよと論じた。この大村の開明的な考えが、彼の命を奪ったのである。

 

西軍の藩兵は、誰もが徳川を潰したのは我ら武士の力だと信じ切って

 

いた。そんな彼らに統一国家など毛ほども描けなかった。

 

大村の後継者を密かに自認する山縣が、青写真なき新政府の一員で

 

ある兵部少将に任じられたのは、大村の改革が否定され旧套に

 

戻されようとしている時、ということにもなろうか・・

 

(この時山縣は一旦辞任を申し出ているが、それは許可されなかった)

 

そこで彼は「ならば・・」と2つの条件を提示した。国の独立を維持

 

するためには兵力が必要であるが、そのために

 

1。国策としてあくまで兵制の統一を計ること。

 

2。西郷隆盛を東京に呼び寄せ、軍政改革の主班たらしめること。

 

先達である大村の失敗は、一部の武士の間に反発を挑発したことにある。

 

それを見てとった山縣は、武士に圧倒的な人気のある西郷を正面に

 

立てて、その威望の下にとなって兵制統一⇒国軍廃藩置県の

 

大業を計ろうとしたのである。

 

1219日、山縣は勅使として岩倉具視、大久保利通とともに鹿児島

 

に向かい、久しぶりに西郷に会った。西郷は状況を承認した上で、

 

率直に答えた。「自分は長州の木戸と相談した上で土佐藩の重臣とも

 

相談して、薩長土三藩の兵をもって御親兵を組織して、朝廷に献ずる

 

つもりでごわす」山縣はこの言葉にすぐに飛びついた。

 

「よくぞ言われました。それこそが国軍の基礎となりましょう。

 

ただし、・・もはや御親兵はいずれの藩臣にあらず、(一朝ことある

 

時は、薩摩藩の兵は薩摩藩主に弓を引く覚悟も必要となる)それも

 

御承知でございましょうか」西郷は言下に言い切った「よかでごわす」

 

この西郷の一言によって、山縣の遠大な構想はスタートした。御親兵

 

とは近衛兵のことである。日本最初の天皇の統帥下にある軍隊であり、

 

(合計1万、人数は必ずしも多くはないが)中央政府直属の兵力である。

 

471日、西郷が新政府の参議に就任して6日目の朝、山縣は西郷を

 

訪ねてとうとうと廃藩置県の緊要をぶった。御親兵はできたが、

 

兵制改革の実を上げるためには大小諸藩が独立状態で中央を狙い、

 

来るべき変を待つ現状をまず改革しなければならない、とした上で、

 

山縣は言った。「されば封建を打破し、郡県の治を敷かなければ

 

いけないと考えます。このまま諸藩を存しておいては中央政治の

 

実は上がらないのではないでしょうか」

 

西郷は(黙って考えた末に)「木戸さんが承知なら、おいどんに

 

異議はない」と答えた。

 

「念の為に申しますが、この問題から氏族の不平の噴き出すは

 

必然のことで、血を見ることになるやもしれません。それだけの

 

覚悟はしなければならないのですが・・」しかし、西郷の返事は

 

あっさりしたものであった。「吾輩の方はよかでごわす」

 

さらに「貴公らに廃藩実施の手続きさえついておるというので

 

あれば、その上のことは拙者が全部引き受けもうす。暴動が

 

各地に起ころうとも御懸念には及ばぬ。必ず征伐してお目に

 

かけましょう」と言ったという。

 

714、疾風の如く廃藩令が下った。この日、兵部少輔山縣有朋は

 

兵部大輔に昇格、従四位に叙せられた。今でいう防衛省大臣兼統合

 

幕僚長。足軽以下出身の軽輩が名実ともに国軍の実権を握ることに

 

なった。 兵部省4等出仕の西周(にしあまね)に命じて陸海軍刑律を

 

定め、軍紀・軍律の根本を決めた。

 

7章からなる「国軍の読法」を将兵に示した。教条的な心得によって

 

部下を規制することは、のちのちまで山縣の得意とするところであった。

 

さらに弁官制度を廃して事務の簡素化を進め、兵学寮、軍医寮を設置する。

 

軍備と並んで教育や法律を持ってくるあたり、のちの軍人政治家の

 

面目は既に躍如としている。組織を作る事務能力もまた抜群であった

 

のである。・・(自分の軍事的生命を維持するためには、己の権力を

 

脅かす近衛兵団の弱体化、むしろ解体が、絶対条件であること、

 

そのためには、四民平等の徴兵制しかないと、山縣は見てとり、

 

命懸けで奔走した)その努力は実を結んだ。明治51118日、若き

 

明治天皇は全国徴兵の詔を発布。同日、太政官は徴兵告諭を発する。

 

告諭は意気壮大な事をうたう。古来日本において国民がいかに国威を

 

あげたか、と褒め上げ、「後世の双刀を帯び坑顔座食し、甚しきに

 

至っては人を殺し、官その罪を問わざる者の如きにあらず」

 

と、山縣の気持ちをそこに込めたかのように、武士階級に対し、

 

真っ向からの一撃を加えた。そして四民平等を高唱し、「是れ

 

上下を平均し、人権を斉一にする道にして、すなわち兵農を合一

 

にする基なり」と、維新の理想を表明する。

 

そして明治61月、国民皆兵の徴兵令が下された。平時3万千680名、

 

戦時46350名の兵数が動員できる手筈が整った。・・

 

明治6年、山縣は西郷隆盛らに推されて初代陸軍総監(陸軍大臣)

 

になる。(中略)

 

 

p97 日本帝国が真っ先に修交の手を差し伸べたのは、隣国の朝鮮

 

である。しかし大院君の朝鮮は、鎖国的外交政策を取り、新日本を

 

頭からなめ切っている。ろくな返事も寄越さず、新政権を認めぬ

 

態度をとっていた。日本国内には無礼を憤る声が満ちていった。そ

 

こから明治6年の夏から冬にかけて、明治新政府内部でいわゆる

 

「征韓論」をめぐっての論戦が起こったのである。山縣は「今外征

 

をやることは、せっかく基礎ができたばかりの軍制に、大混乱を

 

たす」と、(内心思ったのは当然であるが)しかし基本的には

 

征韓論には中立の立場をとった。

 

(ところが、秋9月、岩倉らが外遊から帰国し、政治の実権を

 

取り戻すと)岩倉は参内して、征韓反対の意見を上奏し、天皇は

 

それを容れた。天皇の権威を前面に押し立てて、あっという間に

 

勝ちを制する。宮廷生活に慣れた岩倉にして取れる最後にして

 

最良の手段なのである。・・

 

征韓派は敗れ、西郷、副島、板垣、江藤、それに後藤象二郎が

 

参議を辞任、内閣はその半数をいっぺんに失った。残った岩倉、

 

大久保、城戸、大隈、大木喬任らの天下となった。・・

 

11月、参議兼内務卿となった大久保は、日本国の実権を握った。

 

山縣はよく大久保に協力して度重なる士族の反乱を鎮定し、

 

国家の安危を支えた。そして明治78月には、大久保の強い

 

推薦で陸軍卿兼参議となり、初めて政治への発言権も得ている。

 

 

 

p99 この間の山縣をめぐるエピソードで特筆しておかねば

 

ならないのは、台湾出兵をめぐっての(山縣の)猛反対で

 

あろうか。この時傑出した政略家の大久保は、軍人山縣の

 

意見書を無視した。山縣の「外征すれば必ず反乱が起きる。

 

国内統御に必ずしも自信がない」との訴えにも、「氏族たちの

 

統御は難しくない。国家が危機に至れば、天皇陛下の宸断を

 

仰ぐのみである」山縣はこの一言で沈黙した。自分が仰ぎ見る

 

天皇という権威の偉大さを改めて学び直したこと(と同時に)、

 

この陸軍無視の政府決定を忘れまい、と思った。

 

この政治優先の決定に対する憤慨、それが後日の統帥権独立

 

への道を開いたのである。

 

 

 

🦊この先は、政治家としての山縣有朋の大暴れ行状記になる。

 

著者には失礼ながら、つまみ食い的に紹介させていただく。

 

 

 

p175 大日本帝国憲法の制定。

 

1889年(明治22211日)大日本帝国憲法発布

 

特色:1。広範な立法権、宣戦・講和・条約の締結など、

 

天皇親裁 の大権を中心とした 。すなわち天皇大権を主とし

 

議会を従とした。

 

2。 皇室に関する事項を憲法外に置いた。

 

3。国務大臣が、各々その職務に関して、個別的に天皇に

 

対して責任を負うことになった。

 

天皇は「君臨すれども統治せず」で、無答責(政治上、法律上

 

の責任を負わない)とした。(帝国憲法に関する限り、山縣の

 

主張した条は完全に取り入れられている)

 

第11条:「天皇は陸海軍を統帥す」と第12条:「天皇は陸海軍の

 

編成及び常備兵額を定む」の軍事的な二条項である。しかも、注意

 

すべきことは、天皇の統帥大権について天皇を輔弼するものがだれで

 

あるのかは、憲法に明文の定めがないのである。・・

 

憲法の定めるところ軍隊に対する統帥事項は帝国議会の議決を要する

 

天皇の親裁を仰ぐにはどうするか、についても、山縣は十分な手を

 

打ってあった。

 

第6条:各省大臣の主任の事務につき、報告義務を明記した条項である。

 

時々状況を内閣総理大臣に報告すべし。ただし事の軍機に関わり

 

参謀本部長より直に上奏する(天皇に報告する)ものといえども、

 

陸軍大臣はその事件を内閣総理大臣に報告すべし」とあるのが、

 

それである。

 

これは各大臣の首相への報告義務を明記した条項である。

 

しかし、よく読めば、軍機に関わることについては例外としている。

 

つまり、「参謀本部長より直に上奏する」軍令事項に関しては、

 

首相の管轄外にあると規定してある。ただ、事後でいいから、

 

参謀本部より知らされたことを、陸軍大臣は首相に報告しなければ

 

ならないとされている。しかも首相は、参謀本部長の上奏を止めたり、

 

上奏された軍令事項の説明を求めたりすることは不可能なのである。・・

 

同時に最も大事な点は、天皇の親裁を仰ぐための、軍による

 

「単独上奏権」が認められた、という事である。

 

「内閣職制」そして「第日本帝国憲法」と・・ここにおいて、

 

統帥権の独立が、法制的に承認されることとなったのである。

 

そのことと、単独上奏権(帷幄上奏権という)がその後の歴史に

 

与えた影響はあまりにも大きかったのである。

 

 

p179 明治2371日に行われた日本初の総選挙は、立憲民主党、

 

立憲改進党など反政府派の大勝に帰した。明治の国民が待ちに

 

待った議会は、1125日開会された。反政府派にとって議会とは、

 

公認された政府攻撃の表舞台に他ならない。民力休養と経費削減を

 

スローガンにした議会は、予算案をガリガリと削った。軍事予算に

 

至ってはその1割、八百円近い大削減が加えられた。

 

山縣は怒り心頭に発し、「このような過度な削減に、政府は

 

断じて同意を表すことはできません」と、議場で大声を上げた。

 

(ちょうど衆議院の政府委員会室から出火、議会は一週間の

 

休会となり)政府は、この休会期を利用し、自由党と仲の良い

 

閣僚の後藤象二郎(通信相)と睦奥宗光(農商相)によって

 

密かに竹内綱らの土佐派の切り崩しを策した。

 

これが成功、29名が寝返った。そして修正案(650円削減)を

 

作り、わずか二票の差でこれを通し、議会を乗り切ることが

 

できたのである。(山縣は、予算原案が削られたことに不満

 

であったし、協力を期待した伊藤博文が、「山縣の議会政策は、

 

強圧的にすぎ、立憲政治としては問題がある」などと非難すら

 

していたことも気に入らなかった。山縣は首相辞任を決めた。

 

山縣と伊藤の間にはその頃から対立が顕著になった)政治的に、

 

常に3歳年下のこの友人のあとを追う形になることに、山縣は

 

そろそろ我慢ができなくなってきている。それに天皇が羨ましい

 

ほどに厚い信頼を伊藤に寄せているのが、山縣には腹立たしく

 

なってきた。「真に天皇のために尽くしているのはオレの

 

方だ」と思うようになった。

 

 

 

p184 教育に関する勅語

 

 一言で言えば国民思想の統一を図ったのが、「教育に関する

 

勅語」であった。明治231030日に発せられたこの勅語は、

 

山縣内閣の成し遂げた最大の仕事であった。

 

232月の地方長官会議で、「青年が政治運動に走るのは

 

教育の主眼が知識や技術の習得に置かれており、徳育が疎か

 

になっているためである」との意見が一致して出されてきた。

 

これを契機に、日本固有の道徳に基づく徳育の基本方針を

 

作り上げるべきとの建議書が、文部大臣榎本武揚宛に提出

 

されたのである。首相山縣は、この建議書に飛びついた。

 

国民強化の問題を、広く政府の政治の問題として閣議で取り

 

上げることとしたのである。

 

天皇はこれを聞くと喜び、榎本に、徳育の基礎となるような

 

教育的格言を編集するように命じた。

 

(山縣は、子分の井上毅を再び登用し)草案作成にいちいち

 

目を通し、注文をつけた。「国家の独立維持には陸海軍の

 

軍備が重要である。その趣旨をなんとか織り込めないか」

 

これに対し井上はきっぱりと答えた。「そんな ことを

 

入れたのでは、勅語の体裁がこわれます」

 

山縣は、国家独立という大目的に奉仕すべきものとして国民の

 

教育を考えるのである。・・天皇と国民一人一人が道徳的絆で

 

結ばれることによって、麗しき民族精神は確立するであろう。

 

しかも、その天皇に帰一する国家観は、取りもなおさず、日本

 

古代からの伝統を踏まえている、と強調したのである。

 

井上毅らは、それがすぐれた創作であることを知っていた。

 

古代はともかく、歴史上ほとんど存在したこともなかった

 

天皇統治の国体、天皇と国民の統一体としての国体、それを世界に

 

冠たる伝統だと創作することによって、新しい国家を創出しようとし

 

たのである。しかし、ひとり山縣はそれがフィクションである、

 

などとは考えもしなかった。天皇を基軸とした道義的にして強い国家

 

こそが、古代からずっと日本人の胸奥に流れている根本思想と信じて

 

いるのであった。

 

 

 

p258 帝国国防方針

 

明治391月、戦後処理に伴う日清、日英の新条約の締結と、財政方針

 

決定を完了させると桂内閣が総辞職、第一次西園寺内閣が成立した。

 

以来、そのご大正2年までの7年にわたる西園寺ー桂ー西園寺ー桂の、

 

妙に滑らかな政権たらい回しの裏には、山縣の策謀が常に見え隠れ

 

している。真相は、昭和26年に「原敬日記」が公開されることによって、

 

明らかになった。政友会勢力の拡大は、山縣の理念とする天皇主義国家

 

の基盤を崩すことになる。それを恐れた山縣は天皇に、社会主義に対する

 

西園寺の取り締まりの不完全を上奏、その脅威を幻影的に描き出して

 

見せることによって、自由主義的西園寺内閣への不信を天皇にたっぷりと

 

吹き込んだのである。・・そうした事実は全て隠蔽された。

 

しかし、日露戦争後の、山縣らが主張する対外危機が理由の軍備拡張は、

 

危機感が薄れるにつれ国民の財政負担を一方的に圧迫した。(抵抗運動

 

がやがて水面上に現れ、ついには天皇に対する呪詛として顕在化した。

 

山縣は驚き、この故に西園寺内閣倒閣の陰謀をめぐらした。

 

西園寺に代わった第二次桂内閣は、社会主義思想抹殺を国内政治の

 

最重要課題とした)・・また桂内閣は「対外政策方針」を閣議決定した。

 

その方針とは、「帝国はいかなる場合においても清国に対する優勢なる

 

地位を占むるの覚悟なかるべからず」、また「満州における特殊の

 

地位に関しては、列国をしてこれを承認せしむるの手段を取るべし」と、

 

満州はもちろん中国そのものに対しても、「威圧」を持って接して

 

いこうと国家意思を明らかにした。陸軍の大陸政策はここに発する。

 

その前に韓国問題があった。大雑把に言って、国防上の関係から併合

 

しようというものと、保護する関係にしておけば良い、というものである。

 

山縣、桂は併合を主張する武断派であり.朝鮮統監の伊藤は消極的な文治派

 

の代表であった。(明治42年の伊藤暗殺事件の後は)桂内閣は、堂々と

 

韓国併合に向かって歩を進めることができた。明治438月、日本は

 

韓国を併合する。

 

 

   治安維持法

 

(明治16年、岩倉具視が59歳で病死した)晩年の彼は、天皇の大権を

 

保持した憲法を作ること、議会開設前に皇室制度の基礎を固めること、

 

この2に全力を尽くした。山縣は、岩倉のこの狂熱的な天皇信仰

 

大いに影響された。昔なら顔を拝むこともなかったであろう雲上人に、

 

直接教え諭され、今や同じような考えを持った山縣は、その死によって

 

さらに信念を強くしていった。・・

 

(明治23年の国会開設に向かって)リーダーの伊藤は憲法や議会組織を

 

決定する準備として、華族制度の創出と、内閣制度の樹立という2つ、

 

特に古臭い宮廷政治をやめて、行政府の長としての内閣総理大臣に内政、

 

外交の全責任を負わせ、これを天皇に直結しようという統治の一本化

 

を狙った。(支配機構にとってのである自由党や立憲改進党に対し)

 

山縣は謀略をもって分裂を策した。両党ともこの作戦にうまうまと乗った。

 

改進党は、自由党は政府に買収されたと非難し、自由党は偽党撲滅、

 

海坊主退治(大隈退治)をスローガンに改進党を叩いた。こうして

 

自由民権派は共通の敵を前に団結するどころか、それぞれの党内は分裂し

 

・・残された末端はきっと破裂し、暴動が起きることだろう。その時には、

 

数百の属吏、数千の警部・警部補らを指揮し、呵責ない急襲をかける・・

 

彼にあっては、政治問題も全て軍事に還元されてしまう。

 

(国会開設に備えて)伊藤は「華族令」を作り、これら新華族で宮中を

 

固め、国会二院のうちの貴族院の構成をきめ、衆議院の防波堤とする。

 

山縣はこの時、伊藤、黒田清隆、西郷従道、松方正義、大山巌とともに、

 

伯爵を授けられた。足軽がとうとう華族様になったのである。

 

それにしても、この華族制は、明治維新の精神が「一君万民』「四民平等」

 

であったとすれば、その精神から、また、近代国家への歩みから大きく

 

遠ざかったことではないか。

 

18年、国家機構改革の第二歩である内閣制度が採用される。伊藤自らが

 

初代総理大臣となり、内務卿の山縣そのまま内務大臣に横滑りした。

 

彼は妙案を考え出せと、部下に命じていた。

 

清浦が提出した草案は山縣を満足させた。核心となる第4条は、皇居から

 

3里以内に居るもので「内乱を陰謀し、または教唆し、または治安を妨害

 

する恐れありと認むるときは」退出を命じ、3年間3里以内の地に出入り

 

したり、住んだりしてはならぬ、と驚天動地のことが書かれていたのである。

 

(江戸時代の所払いそのものである)この保安条例を、いつ、どんな

 

状況下で出せるか、が問題であるが、その機会は思いがけず早く来た。

 

高輪の後藤象二郎邸に潜ませていた密偵が、1224日夜の秘密会合の模様を

 

報告してきたのである。

 

酒を飲みながらであるが、その席にあった尾崎行雄がこういった。

 

「風の吹く日に、東京の3~40カ所の各所に火をつけて、東京中焼いて

 

しまおう。その時に大臣が参内するから、殺したいものがあったら殺すが

 

よろしい。金が欲しいものは大蔵省の金庫を襲ってとったらよかろう」と、

 

座にいたものは「そいつは面白い」と賛同し、大いに気焔をあげた」

 

(山縣は猛然と立ち上がり、26日早朝を期して、保安条例の即時実行を

 

命じた)「万一壮士にして腕力を持って命に抗するものがあったならば、

 

これを殺傷するもやむを得ぬ」とまで山縣は命じた。

 

目指すは、かねてよりリストアップしてある高知県人230人をはじめ、

 

他府県出身の壮士約600名の東京追放である。

 

(夜9時、山縣は徒歩で、芝愛宕町の金虎館に向かった。そこは多くの

 

壮士が宿泊し、秘密会合を開く土佐藩の本拠。付近には巡査の提灯が

 

星の如く連なる)山縣得意の奇襲作戦は開始された。

 

金虎館にいた片岡健吉ら高知県総代十五人は、退去命令を拒み、その

 

理由を迫ったが、警察はそれに答える代わりに全員を監獄にぶち込んだ。

 

(軽禁固3年の刑)中江兆民、尾崎行雄、林有造らは追放され、星亨は

 

秘密出版の科で投獄された。追放された尾崎は、前夜の酒の上の放言が

 

この奇想天外な保安条例を実行させた、と知らされて仰天した。

 

その驚愕を記念して、学堂という号を以後は愕堂と改めた。

 

弾圧は徹底して行われた。特に高知県出身が目の敵にされ、本籍がそこで

 

あったばかりに、退去を命じられたカツオブシ商人もあった。

 

45日前に高知から上京してきたばかりの少年までが、追放を命じられる

 

ほどの猛烈さ、実に570名の反政府派の人々が東京から追放されたのである。

 

(伊藤は、さらに前後策として、得意の弁舌をふるって大隈重信を外相に

 

迎え)今度は後藤象二郎に入閣を交渉、後藤はもろくも伊藤の手に乗せら

 

れて、山縣らをびっくりさせることになる。

 

 

p270「宮中某重大事件」

 

(明治45年、明治天皇崩御)権威の中心としての天皇は神秘のベールに

 

包まれていなければならない。その一方で、国民から忘れられた存在で

 

あってはならず、親しみやすさもなければならなかった。それだけに

 

天皇には卓越した資質が要求されるのである。明治天皇はそれ以上に

 

卓越した人格を持つ天皇であった。そこにその死の持つ深く重い意味

 

がある。最高権威の死は、それを取り巻く諸々の権威の死につながって

 

いく。山縣という明治天皇の寵愛を頼んでとなり、政界、官界、

 

軍部に絶大な権力を示してきた男が、明治の終焉とともに次第に輝きを

 

失っていくのは、極めて自然なことであった。しかし「権力者は権力を

 

手放したら終わりである」とする山縣は、たとえ新天皇が現人神的

 

イメージの保持に幾らかの無理があるとしても、新天皇の権威を利用

 

しようと苦心した。

 

 

 

🦊:大正11年、山縣は84歳で病没した。

 

いくら年老いて、政界への影響力も衰えたと言っても、天皇家の婚礼

 

にまで嘴を入れて(宮中某重大事件)、それでどうしようというのか?

 

と狐は呆れる。まさか皇室を手玉に取る気でもあるまいに。それで

 

思い出したのは、あの東條英機が、天皇崇拝のあまり、皇居の隣に

 

住みたいと願ったとかいうことだ。

 

 

 

p282 「終章」より

 

「大日本帝国の創始者は伊藤博文と山縣有朋であった。その伊藤も

 

後世に与えた感化力から言えば、山縣にはるかに及ばない。

 

御手洗辰雄氏もいうように、大正から昭和へ、伊藤の指導を受けた

 

人々は凋落して見る影もなく、その影響下にあった政党はただの

 

形骸と化し去っていった。反して、山縣の作ったものは永く存在し、

 

国家を動かし、猛威を振るった。民・軍にわたる官僚制度であり、

 

統帥権の独立であり、帷幄上奏権であり、治安維持法である。

 

なかんずく「現人神思想」である。昭和の日本を敗戦に導いた

 

指導者の多くは、山縣の衣鉢を継いだ者たちであった。

 

昭和208月は、山縣の死後23年ののちのこと、まだ山縣は

 

生きていたとも言える。

 

その意味で「大日本帝国は山縣が滅ぼした」と言っても過言ではない。

 

 

 

2021  9

 

アキノノゲシ