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おらが家が村で一番

揚州剪紙

 

おら家が村で一番=民族差別思想について

 

 

「容赦無き戦争」   ジョン・ダワー著    斉藤元一訳

 

平凡社   2001年刊

 

 

p79  日本人がナチスより凶暴とされたのはなぜか

 

 第二次世界大戦終了直後、ピューリッツア賞を2度受賞したアメリカの歴史家

 

アラン・ネビンズが、「我々は戦争をどう感じたか」という題のエッセーを

 

発表した。その中で彼は、「我々の歴史上、おそらく日本人ほど嫌悪された

 

敵はいなかったろう」 と述べている。ネビンズはその理由として、日本軍の

 

残虐行為に関する報道及び太平洋におけることのほか激しい戦いと共に、

 

かの悪名高き真珠湾攻撃をあげている。「かつて最も野蛮と考えられた

 

インディアンとの戦い以来忘れられていた感情が、日本軍の凶悪性 によって

 

呼び覚まされた」と続けている。この2つの戦いを類例として取り上げた

 

ことは、 もしかするとネビンズが意図した以上に多くのことを、今日の

 

われわれに語りかけているのかもしれない。

 

連合国側では、日本人はドイツ人よりも蔑むべき存在であるということが

 

公然と主張され、 また普通それには十分明快な理由があるとされた。

 

すなわち、日本人は常軌を逸した背信行為を行い、野蛮であるとみなされ

 

たのである。・・・

 

(対日戦に関して言えばもう2つの疑問点がある。)第一に、日本人が

 

ドイツ人よりも背信的で残虐とみなされたのはなぜか。ドイツ人は警告も

 

前触れもなしに隣国を攻撃し、何百万 というユダヤ人やその他の

 

「好ましからぬ」民族を大量虐殺し、さらに何百万という捕虜を 殺害し、

 

多くの国々から「反社会的」人間は死ぬまで働かせるという公然たる政策の

 

もとに奴隷的労働力を動員し、ドイツ人将校の死に対する報復として何万

 

という民間人、軍人双方を含む「人質」を処刑し、こうした報復処置に

 

おいては村全体の全滅さえ辞さなかった(1942年チェコスロバキアの

 

リディツェとレザキの例がよく知られている)ドイツと比べても、さらに

 

粗暴で残虐であったとされるのは、いったいなぜか。

 

第二には、裏を返して、いったい日本側の敵についての見方はどうであった

 

かという点である。例えば日本軍のプロパガンダでは、連合国側こそが近代

 

における真の野蛮人として描かれており、日本人の死体を切り刻んで「土産」

 

として持ち帰ったとか、戦場で捕虜を殺害したとか、焼夷弾を使って

 

人口密集地帯を攻撃するという人道に反する犯罪を犯したとか、事実上無防備

 

の二つの都市を原爆という新兵器であえて破壊したとかいう例をあげていた。

 

(中略)

 

(第一の問いに対して)ヨーロッパにおける戦いと、アジア・太平洋における

 

戦いの区別は あまりに単純化されたもので、次の事実をぼやかしている。

 

すなわちドイツ軍は、東部戦線、西部戦線、対ユダヤ人と、複数の別々の

 

戦いに従事していたということ、そして、その最大にして最後の組織的

 

な暴挙の対象は、欧米人からも見下され、あるいは無視されがちであった

 

民族であったという事実である。代表的な例としては東欧人、スラブ人、

 

ユダヤ人であり、彼らは皆、アジア人と共に、アメリカの1920年代に遡る

 

厳しい移民制限が、その対象とした人々であった。・・・・

 

 ユダヤ人大量虐殺の研究者たちは一方、ナチのユダヤ人絶滅計画は明らかに

 

1,942年11月までには文書となっていたにもかかわらず、これが欧米の指導者

 

たちによって一般的に過少評価され、また、ドイツが崩壊し、特派員が

 

実際に死の収容所に足を運び入れるまで、英語圏のマスコミには全く

 

取り上げられなかったことをあきらかにしている.日本人の残虐行為につい

 

ては大きく報道していた新聞、雑誌が、ユダヤ人大量虐殺についてはほとんど

 

触れなかったのである。・・

 

こうした雰囲気の中で、日本人がドイツ人よりも憎まれ、悪虐非道、狂信的

 

と受け取られたのも意外ではない。・・・

 

(第二の問いに対する例として)真珠湾攻撃は、日本人が自らの偏った人種観

 

ゆえに予期し えなかったアメリカ人の復讐心を掻き立てることにもなった。

 

真珠湾攻撃の計画を説明するにあたって、海軍武官としてワシントンに駐在

 

した経験からアメリカ人気質を十分理解していた はずの山本五十六海軍大将

 

ですら、太平洋艦隊に対する壊滅的な先制攻撃により、アメリカ海軍と

 

アメリカ国民に対して、「物心共に起ち難きまでの痛撃を加ふ」ることが

 

できるだろうという期待を述べていた。見事なシンガポール攻撃を計画した

 

辻政信陸軍大佐も、のちにこう述べている。「当時の我々の考えでは、

 

アメリカ人はその勘定高さゆえに、不利な戦争を長く続けようとはしまい。

 

一方、こちら側は、相手が英米両国だけならば(ソ連が加わらなければ)

 

長期戦に耐えうるだろう、というものだった」。

 

 こうした希望的観測は、西洋文化を退廃的に描き、英米人は一般的に

 

自己中心的であり、はるか彼方の長期にわたる戦いを支えうるものではない

 

という、国家主義的プロパガンダの普及によってさらに高まった。

 

そして実際、真珠湾攻撃に続く数ヶ月は、こうした偏見が確認されたかに

 

見えた。・・・・1940年半ばにミッドウェーとガナルカナルで阻止されて

 

からも、依然として日本人のなかには、英米の敵は心理的に立ち直ることは

 

不可能であると信じていた者が多かったことも不思議ではない。しかし

 

現実には、その観測とは全く逆のことが起こった。奇襲攻撃が、

 

アメリカ人の中に大量虐殺に対する憤怒に近い感情を呼び起こして

 

しまったのである。のちに太平洋方面軍司令官となったウイリアム・

 

ハルゼー海軍大将は、真珠湾攻撃後,終戦までに日本語は地獄だけで

 

使われるようになるだろうと宣言し「ジャップを殺せ、殺せ、もっと殺せ」

 

と叫んで軍の士気を高めた。 あるいはハルゼーのモットーを海兵隊では

 

こう言い換えて、もっと有名にした。

 

「真珠湾を忘れるなーーやつらの息の根を止めろ」と。この絶滅のレトリック

 

が、単に奇襲 攻撃に対する怒りを反映しただけでなく、赤裸々なアメリカ人

 

の人種主義的な本質を反映した ものであったことは、明らかである。

 

 ・・・上品な雑誌と見られる「ニューヨーカー」でさえハワイ攻撃に関する

 

短い記事の中で、日本人を「黄色い猿」と呼ぶ、酒場での人々の会話を紹介

 

している。しかし、この一般的に見られた人種主義的反応には、興味深い

 

歪みがある。それは、日本人は想像力と独創性に 欠けるため、あんな意表を

 

つく軍事行動(米軍をフィリピンから駆逐し、英軍をシンガポールで破った)

 

を計画し、実行できるわけはないという長年にわたる日本人観を反映するもので

 

 あった。日本に知恵をつけたのはドイツに違いないと誤って信じられた。

 

論理的に考えれば、背後のドイツ人こそ、倍も油断がならないと言われて然る

 

べきである。しかし事実は違った。 日本の攻撃は、人を後ろから襲う卑怯な

 

やり方の代表的シンボルとして残り、日本軍はドイツ軍よりもさらに野蛮で

 

極悪非道であるとみなされるようになったのである。

 

 

p100  強制労働への動員

 

プロパガンダ放送用の原稿を書きながら戦争の一時期を送ったジョージ・

 

オーウェルは、1942年に起こった一連の事柄に関して次のような見解を

 

示している。すなわち、アジアにおける欧米からの抑圧を打ち砕くという

 

日本のレトリックは、確かに「巧妙」で 「人を惹きつける」ものではあった

 

が、そうしたアピールの言葉は、日本が既に過去において 行った朝鮮、

 

台湾、満州および中国における力による支配という行為を見れば、一目で

 

 矛盾を露呈するものであった。「日本の大義はヨーロッパ人種に対する

 

アジアの大義であると 唱える者たちには、こう聞き返すだけで十分である。

 

ではなぜ日本人は、自分たちと同じ 他のアジア人に対しても戦争の牙を向け

 

続けるのですか」と彼は言っている。さらにオーウェルは、「日本人は

 

何世紀にもわたって自らは神聖な国民であり、他のすべての国民は本質的に

 

 劣等であるという考えを持つ、ドイツ人よりもはるかに極端な人種論を信奉

 

してきた」とさえ言う。時が経つにつれ、アジア各地の日本の占領下に

 

置かれたアジア人たちの中にもこうした見方は広まっていった。彼らは

 

毎日のように日本兵に殴られ、天皇がいる東方に むかって敬礼を強いられ、

 

日本語を学ばされ、悪名高き憲兵隊の手の込んだ拷問の対象と

 

され、そして何万という人命を奪った強制労働に動員された。・・・

 

他のアジア人を殴打するという点に関しては、日本の特に下士官兵は、上官が

 

自らを扱うように他者を扱った。つまりここでは、個人への抑圧が人種的

 

傲慢さという形に転嫁されていったのである。しかし殴打という行為は、

 

日本人に対する憎悪を増大させたものの、残虐行為と言うより粗野と言うべき

 

ものだった。ところが、拷問となるとこれは全く事情が違ってくる。

 

 この点に関していえば、日本の憲兵たちが共栄圏内で用いた方法というのは、

 

あらゆる 常套手段(水責め、殴打、飢え、火攻め、電気ショック、股裂き、

 

宙づりなど)に、 一捻り人種的要素を加えたものであった。すなわち海外に

 

おいては、しばしば憲兵の権力が 朝鮮人、それよりは回数は少ないものの、

 

台湾人の手に委譲された(朝鮮人、台湾人に、仲間を殴らせる)のである。

 

しかしながら、大多数のアジアの非戦闘員にとって、日本の 最も残忍な

 

戦時政策は、処罰でも拷問でもなく、日本人監督下における労働であった。

 

戦時中に日本がアジアの労働力を犯罪的に酷使した例は、少なくとも4

 

挙げられる。 すなわち、日本国内における朝鮮人および中国人の強制労働、

 

現地内外におけるインドネシア 人、かの悪名高きビルマータイ間の泰緬鉄道

 

(死の鉄道)の建設に従事させられた東南アジア 労働者たちである。

 

1939年から45年での間に、67万に近い朝鮮人が主に鉱山や重工業に従事

 

する目的で、日本に連れてこられ、そのうち6万人かそれ以上が劣悪な労働条件

 

のために死亡したと見られている。このほか1万人を超える人々が広島と

 

長崎の原爆の犠牲となったと 思われる。日本で強制労働させられた中国人に

 

ついては、もっと詳しい数字がある。434月から455月の間に

 

421127日の閣議決定に基づいて)中国から強制労働のために動員 された4

 

4万1862人のうち、2800人以上が中国を出発する前に亡くなり、600人近く

 

は日本に 向かう船上で、そして200人以上が日本全土の工場に到着する前

 

に、息絶えていった。その 後、記録によれば6872人が労働現場で死亡し、

 

結局、終戦後帰国できたのは31000人に 満たなかったと言う。

 

 東南アジアの強制労働者については確かな数がわかっていない。ただし、

 

特にインドネシア人が日本の占領下において大きな損失を被ったことは

 

よく知られている。インドネシアにおいては、日本軍による「労働者」狩りが

 

あまりにも徹底的に行われたために、村によっては体が動く者はほとんど

 

全員連れ出され、深刻な社会経済的な歪みを生じるに至った。労働者の

 

死亡者数は何十万にも及んだと言う。4210月から4211月の間に、

 

泰緬鉄道建設に動員されていたジャワ人、タミル人、マレー人、ビルマ人、

 

中国人労働者の数は、30万にも及んだかもしれない。このうち6万人が疾病の

 

巣であるジャングルで息絶えたと見られている.

 

こうしたアジア人男性に対する組織的強制労働に加えて、戦場や占領地に

 

おいては、数えきれないアジア人(と貧しい日本人)女性が、日本兵の

「慰安婦」として売春を強要されたのであった。

 

p141==リンドバーグが見たもの

 

捕虜をとらない(多くの場合、捕虜となった日本兵は、その場か収容所へ

 

向かう途中殺された)と言う話は、アメリカの太平洋戦争の復員兵からよく

 

話題とされるものだったが、しかしながら、この容赦なき戦いにおける

 

戦争憎悪と戦争犯罪を、チャールズ・リンドバーグの日記ほど正面から

 

取り上げ、表現しているものは他にはないだろう。1944年なかばの4ヶ月

 

余りにわたって、リンドバーグはニューギニアの米軍基地で過ごし、民間

 

オブザーバー として飛行した。はじめの数週間が経つうちに彼は、深い

 

苦悩に苛まれるようになる。 それは戦争の本質的部分として既に予感して

 

いた、兵士が嬉々として敵を殺すのを目撃した ための苦悩ではなくて、

 

米兵が敵の日本兵に対して抱く、あからさまな軽蔑の念を目の当たりにしての

 

苦悩であった。その有名な「孤独なワシ」(ローン・イーグル)は、孤立主義的

 

な 考え方のためにローズベルトの政策に対する保守的な反対派の一人と見られ

 

たが、実際は戦争の必要性は認めながらも、一方で敵を尊重し、軍服の違い

 

に関わらず、勇気は勇気、使命は 使命として認めることも忘れてはいけない

 

と説く、グレーに言わせれば、騎士道的伝統派で あったのである。

 

リンドバーグは太平洋地域の連合軍の中に、そうした感情のかけらもない

 

ことを発見した。そこでは士官も兵隊も、敵を単なる動物または「黄色い

 

畜生」としか見ていなかったのである。彼の詳細な日記は、太平洋戦争の

 

「別」の側面について手に入る 最も率直な実体験に基づく資料であろう。

 

1944518日、リンドバーグが海兵隊に合流してから二週間後、基地は

 

日本軍による拷問および捕らえられた米軍航空兵の首切り事件の話で持ちきり

 

だったと、彼は記している。1ヶ月後の621日には、日本人捕虜にたばこを

 

やり、気が緩んだところを後ろから押さえ、喉を「真一文字にかき切った」

 

と言うのを、日本兵殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約

 

している。リンドバーグの異議は、嘲笑と憐憫を持って軽くあしらわれた。

 

626日の日記は、日本人捕虜の虐殺および降下中の日本航空兵の射殺に

 

ついて述べている。 ある場所で捕らえられた何千人と言う日本人捕虜のうち、

 

「引き渡されたのはわずか100人か200人にすぎなかった。残りの者たちは

 

事故にあったと報告された。仲間が降伏したにも 関わらず、機関銃で撃たれた

 

などと言う話が広がれば、投降しようという者などますます いなくなる

 

だろう」とリンドバーグは聞かされた。 日本兵がそうした処遇を受けるのも

 

当然なのだと、リンドバーグは説明された。つまり彼ら自身捕虜の体を切り

 

刻み、パラシュートで降下中の航空兵めがけて発砲したのだから、と。

 

728日の日記は、処刑の前後に日本兵にひどい仕打ちをすることについて

 

言及している。

 

713日にリンドバーグはこう記している。「味方の兵士の中にも、ジャップと

 

同じくらい 残酷で野蛮な者がいたと言うことは、広く認められていた。

 

我々の兵士たちは、日本人捕虜や 降伏しようとする兵士を射殺することを

 

なんとも思わない。彼らはジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。

 

こうした行為が大目に見られているのだ」

 

721日のページを見ると、また日本人根絶への冷酷な願望についても言及

 

されている。「米兵の首を斬り落とす日本兵は、東洋の野蛮人で、ネズミ

 

にも劣るやつだ」と言う一方で、「日本兵の喉をかき切る米兵は、日本兵が

 

同じことを仲間にしたことを知って いたから、やったまでだ」と書いている。

 

リンドバーグは依然として、「東洋人の虐殺行為の方が我々のよりもたちが

 

悪い」と信じていたが、その区別が、だんだん曖昧になっていった。

 

翌日にはさる陸軍大佐が、「うちの兵士たちは、どうも捕虜を獲ろうと

 

しない」と自分に言ったと述べている。724日に、彼はある戦場を訪れ、

 

そこで日本兵の 死体から金歯が抜き取られ、残った死体はゴミ穴に投げ捨て

 

られ、そして洞窟には降伏をしようとしたにも関わらず、「もどって最後まで

 

戦え」と突き返された日本兵の死体が山と積まれていることを目撃しいている.

 

8月6日の日記には,パイロットたちの待機用テントに在る黒板のことが記され

 

ている。そこには胴は裸の女性、首から上は日本兵の頭蓋骨という絵が

 

チョークで描かれていた。その数日後、日本兵を捕らえるようにと言う命令が

 

下り、それには報酬がついたために多くの捕虜が連れてこられたが、普通

 

こうした報酬がつくことはない、と彼は言う。彼はまた、日本軍の病院の

 

入院患者が皆殺しにされたことを記し、さらにオーストラリア兵は捕らえた

 

日本兵たちを収容所に運ぶ途中、たびたび飛行機の窓から放り投げること、

 

それを裏切り自殺と報告したことなどにも言い及んでいる。しかし同時に、捕虜

 

を去勢したり、人食いをすることさえあると言う日本軍に関する報道は、

 

リンドバーグをして「我々の兵士にもときには野蛮な振る舞いがあるかも

 

しれないが、東洋人の方がもっと始末が悪い」と思い込ませた。

 

8月初旬の日記には、死んだ日本兵の大腿骨で鉛筆立てやペーパーナイフなど

 

を作るのを趣味としたあるパトロール隊のことが触れられている。日記には、

 

尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは皆殺させた海軍士官のことが

 

出てくる。9月の初めには、いくつかの島で死体を堀り起こして金歯を漁る

 

海兵隊員のことが記されている。その他の場所では、耳や歯や頭蓋骨

 

のみならず鼻も取集された。リンドバーグがついに太平洋諸島を離れ、

 

ハワイで税関検査を受けた時には、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。

 

それは、決まり切った質問だと言われたと言う。

 

 

p438==大東亜共栄圏プログラム

 

1981年に東京の古本屋で一部が見つかった膨大な報告書は、処分されずに

 

生き残った他の いかなる文書より日本人の民族的な態度について多くの光を

 

投げかける者である。 約4000ページ、8巻からなる同文書は、太平洋戦争の

 

厚生省研究部の人口民族部の約四十人の研究者によって執筆された。

 

はじめの2巻は、1942121日付けで「戦争の人口に及ぼす影響と題し、

 

19世紀末の日清戦争以後の過去の戦争の歴史的背景と対照して、 アジアの

 

戦争が人口統計に及ぼす影響を分析していた。

 

3127ページに及ぶ残りの6巻は、より興味深い。4371日に完結し、

 

一括して「大和民族を中核とする世界政策の検討」と題された。この報告書は

 

一般向けではなく、政策立案者と行政担当者のための実際的な指針であり、

 

機密扱いにされた100部が政府部内に配布された。これが当時、極めて大きな

 

影響を及ぼしたと信ずる理由はない。と言うのは、 厚生省は官僚政治の有力な

 

部門ではなかったし、総力戦の最中、トップの政策立案者に4000ページの

 

文書を読む暇などなかったからである。しかし、占領地域を実際に統治する

 

と言う当面の関心から比較的距離を置いていたことが、まさに歴史的文書として

 

 特別の価値を与えている。ここで印象深く詳細に述べられているのは、多くは

 

密かに他の 場所で言われていたありふれた考え方で、他の人種や民族に対して

 

実際に採用された政策を支持する理論的根拠も含まれていた。同時に研究者

 

たちは、日本が計画した世界「新秩序」の長期ビジョンーー催促されながらも

 

役人たちが表明する時間を与えられなかった一つの壮大なる見解ーーを

 

提示すると言う稀にみる機会を持ったのである。

 

 

大東亜共栄圏プログラムとはーー

 

この種の詳細な長期計画は、大東亜共栄圏で実際起こったことを補足するのに

 

不可欠である ーーと言うのは、共栄圏が、1940年に宣言され45年夏までに

 

消滅という、5年余の短い期間しか存続しなったからである。この間、

 

日本は軍事支配を強化し、南方地域の諸資源を当面の 戦争努力に活用した、

 

差し迫った連合軍の勝利という危機に対応することに狂奔していた。

 

のちに日本人を弁護する人々は、戦争のためのいろいろな要求が日本の真の

 

目的を歪め、寛大な「共存共栄」と言う理想を実行に移すことを妨げたと

 

論じている。この立場をとる人々は、4243年の秘密報告書の中に、彼らの

 

主張を支持するように見える理想的な声明を見出すことができる。とはいえ

 

全体として同調査は、全く異なった結論を支持している。すなわち共栄圏の

 

中のアジア人の隷属は、戦時の切迫した事情による不幸な結果ではなく、

 

公式政策の核心そのものであったのである。アジアの他の人種と民族に対する

 

恒久的な支配を確立することが、日本の究極の目的であった。ーー彼らの

 

必要に応じて、また優秀な民族にふさわしい運命としてーー

 

どの民族も特に自分自身の集団に対して、世界の中の人種的見方をとりやすく、

 

現代ではナショナリズムと人種意識が結びつきやすい、と同書は述べていた。

 

しかし、異なる種族や 人種の一員を獣、鬼、または敵とみなす傾向は、歴史の

 

最初の段階からアジア人、非アジア 人を問わず見られる。・・・

 

 ついで報告書は、今日の課題は、こうした人種主義を超越することにあると

 

のべ、超越的な 価値を見出せるかもしれない次の3点を挙げていた。日本に

 

特有の思想要素、アジア民族に特有の思想要素、それに全人類に特有の思想

 

要素である。

 

 (これらは理想主義的なトーンで語られているが、実は国家や人種間の不平等

 

という現実を 曖昧にしている)この報告書の主要テーマは世界の民族とか

 

人種は、生来の特質と能力に基づいた自然の階層制を形作っていると言うこと

 

であったからである。・・

 

 真の道徳と正義は、それぞれ異なる特質に応じてその国民を扱うことを意味

 

した。報告書は 次の通り記していた。「実質上不平等なるものを平等視する

 

こと自体が不平等を意味するのである。不平等なものを平等として取り扱う

 

ことは平等を実現する所以である」。

 

 

 

 p440  「其の所」

 

こうした見方から各民族または国民グループは、地域的ないし世界的な計画に

 

おいて、「其の所」を持つということになった。報告書は、この重要な概念を

 

数通りの異なった方法で表現したが、日本人の其の所については明快そのもの

 

だった。日本人は、アジアとそして暗に 全世界の「指導民族」だったのである。

 

おまけに「恒久的に」そうあり続けることを運命づけられていたーー

 

少なくとも海外での理性的な拡張政策を続行するという条件で。経済的、

 

戦略的には無論のこと、心理的な理由からも日本人の血をアジアの土地へ

 

植え付けるため,十分に検討された政策を採用する一方、異人種との結婚を

 

避け、大和民族の純潔を保つことが肝要であると強調された。このように

 

報告書の大半は、大東亜共栄圏に関して現存する政策を要約するとともに、

 

自給自足ブロック内のアジアの劣った民族を強化するための青写真を描く

 

ことに当てられており、日本は政治的、経済的、文化的な支配者として

 

其の所を占めていた。

 

 (中略)

 

(人種主義と戦争の比較研究分析にとって、この経験的な人種主義報告書の

 

重要な点は)まず 第一に、教養ある日本人の専門家の手になる経験的な

 

人種主義についての非常に詳しい実例で ある。次に、日本の領土拡張政策と

 

其の人種的、文化的な優越性という想定との関係についての率直極まりない

 

声明であるーー換言すれば、「汎アジア主義」とか「共栄」といった

 

スローガンにより、日本人が真に意味するものの核心をなす、諸民族、

 

諸国家間の恒久的な階層性と不平等という想定についての声明である。

 

最後に報告書は、日本人の人種主義と自民族中心主義が、時折言われるように

 

ユニークで独特な現象では断じてないことを示している。(このことは)

 

報告書の中の2つの人気ある慣用句「血と土」と「其の所」によって

 

説明することができる。

 

 前者は紛れもなく外国の表現、後者は見かけだけはほぼ「東洋風」である。

 

血と土のスローガンは、ナチスのスローガンに負っていた。(実際に、

 

その言葉には必ずと言っていいほど引用符がついていた)。またナチスの思想

 

と一般的に密接な関係があるという印象は、例えば「生活空間」の要求、

 

ブルジョアの法律を超越する「家族」中心の道徳の主張、それに人種的に

 

結ばれたコミュニティ、つまり国民という形の「有機的」関係の強調といった

 

報告書の他の側面に強められている。だが、政府研究者たちがナチスの教義に

 

明らかに通じており、そのいくつかに共感を覚えていたという事実は、彼らが

 

決定的な影響を受けたということを必ずしも意味するものではない。例えば

 

彼らは人種的偏見を、ナチスがしたような公式の集団虐殺政策にまで推し進め

 

なかった。さらに家族制度とか有機的コミュニティといった概念について、

 

彼らはナチスに借りは全くなかった。ここでは概念の諸影響というより、

 

類似性という方がより正確である。

 

「其の所」は逆の方向から生じたもので、アジア思想史の中で中国の初期の

 

儒教まで遡る 古い由来がある。其の概念は、儒教の純粋な所産として何世紀

 

にもわたり人気を博し、 のちには日本の家族制度のイデオロギーという傾向

 

を帯びるようになりはしたが、アジア独特のものと見なすのは誤解を生じ

 

させる。実際には「其の所」というのは、西洋思想の 中の「生き物の大いなる

 

連鎖」に機能的に匹敵するもので、その影響力ある概念と同様 に、現世の

 

国民、民族、国家の本質的に異なる状態と勢力関係を、もっともらしく説明

 

 し補強するのに役立ったのである。西洋で支配者民族が「生き物の大いなる

 

連鎖」の土壌から 芽を出すことができたように、日本人が自らを指導民族と

 

認識することは「其の所」 という伝統的な哲学上の概念とぴったり一致していた。

 

あまり理論的でないレベルでも、( 例えば親子の隠喩や他民族を幼稚で未熟と

 

見なすことに)やはり日本人は利己的な推論という馴染みの類似の方式に

 

従っていることがわかるであろう。この様に最も重要な意義のある 比較レベル

 

は「ナチズム」と「日本主義」ではなく、欧米人と日本人の世界観を支配した

 

階層的な思考パターンであった。日本の研究者たちが繰り返し述べている

 

ところによれば、 現代社会では人種主義、ナショナリズム、それに資本主義の

 

拡大が複雑に絡み合っていた。

 

 大東亜共栄圏は、互恵主義と調和の取れた相互依存によって統治される

 

自給自足のコミュニティを確立することにより、このパターンを破るであろう

 

と彼らは抽象的に述べていた。しかし、この新しい自給自足ブロックの具体的

 

な方針を提案する段になると、「其の所」の真に意味するところが歴然と

 

なった。それは分業を意味したのである。ーー

 

国家間、異人種間の任務、雑務、責任の分担で、東京で決定される国民の

「質」と「能力」の判定に基づいていた。優秀なものと劣等なものとの関係

 

がいつまでも続くことを保証するよう、経済的、政治的に極めて組織化されていた。

 

 

 

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キツネのメガネ:「日本人は世界で一番」と言ってるひと,おおぜいいます.

 

「朝鮮人は日本から出ていけ」と叫んでる人,これも大勢でてきましたねー.

 

だけど,日本の政治家が,「私が先頭に立つて,世界平和をリードしていく!」

 

なんて言ったところで,アジアのひとたちは「また,あーんなデタラメを

 

言ってらー.諸民族の王道楽土はどこへ行ったんだい!  弱いものいじめの

 

威張り屋め!うちのおじいさんを返せ!おばあさんを返せ!わたしの赤ん坊を

 

かえせ! わたしが失った全財産を返せよ!」と言うでしょう.これから,

 

かりにアメリカの没落とともに日本もスベるときがくるかもしれず.

 

そのときはアジア中から石礫が飛んでくるのは確実.かくごせよ.

 

 

 

 

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漱石とその時代   第二部

 

江藤淳著   1970年  新潮選書   より 

 

🦊:本書は漱石の伝記だが、その中の、英国留学中の経験として日英同盟に

 

ついて語られる部分があるので、そこだけ拾って見た。当時の国民に与えた

 

「安堵感」について、である。 

 

p181 日英同盟

 

日英同盟がロンドンで調印されたのは、明治35年(1902年)1月30日の

 

ことである。2月12日に交付されると、日本では一種異様な興奮状態が

 

起こり、朝野をあげて連日のように祝賀会が催された。14日には慶應義塾の

 

学生が、親愛の意を表するために英国公使館にたいまつ行列を行い、祝いを

 

こめて次のような新作唱歌をうたった。

 

 「朝日輝く日の本と入日を知らぬ英国と

 

西と東に分れ立ち同盟契約成るの日を

 

世界平和の旗挙げて寿ぐ今日の嬉しさや」

 

 15日には国民同盟の祝賀会が開かれ、17日の華族会館での祝賀会には、

 

内閣総理大臣桂太郎ほか各閣僚、貴衆両院議員45名が集まり、中日英国公使

 

サー・クロード・マクスウェル・マクドナルドを主賓として盛大な宴が開かれた。

 

乾杯の音頭をとったのは公爵近衛篤麿であった。

 

ロンドンでは在留日本人会が林公使の労をねぎらうために記念品を送ることを

 

申し合わせ、(夏目)金之介も5円寄付させられた。

 

「切り詰めたる留学費中、ままかくの如き臨時費の支出を命ぜられ甚だ

 

困却致し候」と彼は岳父の中根重一にあてて書いている。

 

・・(また日英同盟についての日本の興奮ぶりは、ヨーロッパの

 

新聞に冷笑を持って報じられた)

 

漱石もまた中根重一あての手紙に書いた。

 

「新聞電報欄にて承知致し候が、この同盟事件ののち本国では

 

非常に騒ぎ居候よし、かくの如きことに騒ぎ候は、あたかも貧人

 

が富家と縁組を取結びたる嬉しさのあまり、鐘太鼓を叩きて村中

 

駆け回るようなものにも候はん。もとより今日国際上のことは、道義に

 

つながるよりも利益を主に致し候らえば、(単純に個人の例を日英同盟

 

の例えにするのは妥当でないかもしれないが)これ位のことに満足致し

 

候さまにては甚だ心もとなく存じ候」

 

金之助の反応は、いつも祖国が強大で、より多くの尊敬を勝ち得ている

 

ことを願う留学生の心理特有のものであるが、だからといって日英同盟が

 

日本の国民心理にあたえた安堵感の大きさを割引して考えることは

 

できない。三国干渉以来、日本政府は必死に「対一国策」、つまり

 

同時に二国以上の西欧列強を敵に回さないようにする外交政策を

 

模索し続けてきたからである。「おりしも英国より我と同盟の議論を

 

起こし來りしは、願ふてもまたとなき事」と首相桂太郎が狂喜し、

 

「我はこれより単一なる露国に対する作戦目的を持って、全ての点に

 

つき計画を立つるを得たり」と自祝したのは当然であった。

 

日本の実力を、ある意味で幻想に惑わされずに直視することができた

 

のは政治家や軍人であって、金之助などの知識人ではなかった。

 

しかしまた、彼らに「気炎」を吐きたがらせるような憤懣が、維新以来、

 

あるいはペリー来航以来いつも国民心理のどこかに底流し、きっかけが

 

あれば奔出しようとしていたという事実も否定し難い。

 

それは傷つけられた誇りの問題であり、強力な外圧のもとで近代化に

 

踏み切った国民の、心理的混乱の反映である。その点で、その興奮ぶりを

 

痛憤した夏目金之助らとの間に、それほどの隔たりがあったわけではなかった」・・・

 

 

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🦊:これって、日英同盟の松明行列に何だか似てないかい?

 

 

オリンピック招致成功!我が党のイメージアップ間違いなし、安倍

 

 

政権万歳みたいな雰囲気がなかったか?それが2年後にはコロナ災害で、

 

「土台オリンピックなんて無理だったんだ。やめろ、やめろ」の声が

 

国民の50%に迫る勢いだというんだから。

 

 

後進国の焦りというか、サイフは全部政府におあずけ、で、日本人の

 

イメージアップ、てな根拠のない夢についつい浮かされる,

 

 

「傷つけられた誇りの問題であり、強力な外圧のもとで近代化に

 

踏み切った国民の心理的混乱の反映」であるのかもしれない。

 

 

 

 

     

「石原莞爾独走す」ー昭和維新とは何だったのかー

 

花輪莞爾  著  2000年  新潮社刊

 

序にかえてーー10数年前、司馬遼太郎氏がNHK教育テレビで、悲惨な

 

15年戦争へ陥った日本のことを、5回シリーズで語っていた。

 

「明治維新ののち半世紀、日清、日露戦争を起こし、後者の「先進国」に

 

勝ってから、日本は有頂天になった。対馬海峡でバルチック艦隊を

 

破ったのち、大陸侵略が始まった。

 

負けたロシアは緻密冷静な戦史を書き上げたのに対し、日本では各将軍の

 

自慢話ばかり寄せられ、ぜひ載せよと圧力がかかり、“日露戦争史”は

 

空中分解した。以後、張鼓峰、ノモンハン、で日露は再び対戦するが、

 

日本は日露戦争時と同じ横隊戦術、同じ装置を用いての惨敗だった。

 

日本は台湾、朝鮮、満州、中国、東南アジアへ進攻しても、列強で

 

モータリゼーションが進んでいるのに、依然、人海戦術か馬の力を借りて

 

いた。日中戦争で華北のハゲ山を、馬が大砲を引く場面がよくある」。

 

司馬氏は、噛んで含めるような、語り口で続けた。最終回、愚劣極まる

 

昭和史を自分は書くまい、あまりに辛く、嫌悪に満ちているからだ、と

 

言われた。 司馬氏は学徒出陣の世代である。・・私も疎開で親子は

 

分断され、田舎の学校ではいじめられ、登校拒否した世代である。

 

戦争だからとすべてガマンした。所が、「聖戦」とか「天下無敵の皇軍」

 

とかが、お粗末であるばかりか、至る所で残酷な犯罪をばら撒いていた。

 

私達が信じ切っていた昭和の政府、兵士たちの裏の姿だった。

 

対局をなすのが、「明治という国家」の、外から学ぶ謙虚さと無私無欲、

 

サムライの自立心だったと、司馬氏はその著書で書いている。

 

(🦊:狐はこの点には同意しかねる。それほど「明治の御世」に惚れ

 

込んではいない。これはまだ、歴史的検証の進んでいない部分だろう:)

 

 

p22 庄内とその気風

 

石原の生地、最上川の河口を囲む庄内地方は、酒田と鶴岡、ことに前者抜き

 

では考えられない。酒田は今でこそ地方都市だが、近代前は北前船の物流を

 

つなぐ、日本海ベルトの中心地である。・・

 

1341年に津軽の13湖を襲った地震と津波は、湖を囲む十三湊

 

(トサミナト)という大都会を一瞬にして消し去り、独立国に近い地方権力は、

 

中央権力の介入で、跡を留めぬほど衰微してしまった。「庄内藩気質」とい

 

ものがあるものらしい。秦郁彦氏によれば「鋭い預言者的な直感力、はぎ

 

れのよい、しかも寸鉄人を刺すに足る皮肉と逆説を含んだ言行、他の意表に

 

出る大胆果敢な決断力、妥協を知らぬ自我主張という振幅の大きい性格」

 

 

東北と中央

 

地域差こそあれ、この気風は古くから東北全体に垂れ込めていた。

 

古代から「まつろわぬ民」(中央の神も信じぬ民)として耳ざわりだった。

 

北上川地域には、奈良朝から開拓という名の征討が進み、軍の屯所は

 

「柵」「城」と名付けられた。蝦夷と呼ばれる人々の本拠は、胆沢

 

(岩手県水沢あたり)の穀倉地帯にあり、その生産力が中央政権に狙われた。

 

 

 p26 秘史と過激思想

 

東北地方の下意識に接して驚いたのは、“まつろわぬ民”の確信が、あの

 

「東日流外三郡誌」という秘本に、はっきりと表明されていることだ。

 

佐治芳彦氏は、「東日流外三郡誌の原風景」を書いているが、それによると、

 

「東日流(つがる)」の異様な名称の由来は、同書の「東日流抄」にあるという。

 

「そもそも東日流(つがる)と申せるおこりは晉の君公子一族国難ありて渤海

 

より新国を求めて東に海跋を越え着土せるところは東日流なり。東日流と

 

称せる以前は邪馬奥(やまおく)と称し、鹿熊馬の放遊せる他人跡なき処なり。

 

晋の公子一族着土以来この国を賛じて曰く、東の方に日の流るる国なる故に

 

東日流と称したるは東日流と称されし初めなり。」

 

また「外三郡」のことは、中世、鎌倉幕府が津軽地方を構成していた6

 

(鼻輪・田舎・平賀馬・恵留間・奥法の諸郡)を内・外に2分し、御家人の

 

蘇我氏に支配させ倉役とし、後半の3郡(外三郡)を安東氏に与え、京役と

 

したことから生じた名称である。・・

 

この書368巻の真偽の程は定かでないが、全面否定もできない。長らく門外

 

不出で、「藩許得がたく他見に及ぼしては死罪を招く」と保管者の記入が

 

ある。・・」

 

 

🦊:明治14年7月4日の日付の後に、その秘密が記されているが、

 

「読んで驚く」内容である。狐流にかいつまんで書くと・・

 

1。日本天皇系なる偽審(万世一系の日本天皇の系図は偽である ことを

 

証明する)

 

1。歴史に神代はあらず(古事記や日本書紀に記された神代は 嘘だ)

 

1。世に通称されし日本史の偽審(日本史の通史の誤りを糺す)

 

1。日本国に神武亭より仁徳亭までの天皇即位は非らず。日本国 に 蝦夷は

 

  人種の      異なるなく一祖にして同族なり。

 

1。日本国神は史家によりて創造されたるものなり。

 

1。日本史を創作せる古人の全ては、己が権威を得るための偽証 なり。

 

1。東日流安東一族の秘所

 

1。津軽藩の大なる偽伝と古代史所異物の消滅と破壊(を目指せ)

 

1。津軽藩にして公史たる古代および安東一族の潰消と実相

 

 これが本物か偽物かはどうでもよくて、狐はズバリほんとのことを

 

言ってくれてるなーと思うだけだ。

 

 

 

「東日流外三郡伝」・・(ウイキペディアによる)

 

青森県五所川原市飯詰所在の和田喜八郎が、自宅を改築中に、

 

「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。

 

・・数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方

 

(東日流=ツガル)に、大和政権から弾圧された民族の文明が栄えていたと

 

主張する。

 

 

 

🦊この資料については、現在はニセ書であると、ほぼ確定しているらしいが、

 

各界の有名人を巻き込んで、ニセ派、ホンモノ派に分かれての論争が盛り

 

上がった。和田家の屋根は藁葺きで、天井裏がない、紙を古紙に見せかける

 

工作がしてあったこと、近代になってからの用語が混じったり、他人の論文

 

からの盗用があるなど・・が判明している。

 

出版された原書は東北新書版第1巻〜第6巻、など。またニセ書、幻想の書と

 

決めつける「オモシロ日本史」も多数でている。

 

 

 

ニセ文書といえば、「誰も知らないほんとの日本史」とか「日本軍は侵略など

 

しなかった」という類の、“日本幻史”(キツネの造語)がこのところ巷に

 

溢れている。それに比べたら、和田氏の頭の中がどうなっているにせよ、

 

素直なこと幼児並のキツネは、その幻想の根っこにあるものを素直に受け

 

入れるものである。

 

 

小さい頃、「国生み神話」というのを聞かされて、神の一族が天から雲に

 

乗って降りてきて、海の真ん中に、適当に刀を突き刺して、なんだか泥を

 

盛り上げて4つの島を作ったなんて、おとなは変なことを言うなと呆れた。

 

天照大御神だって?僕らは馬鹿にしてテンテルダイジンと呼んでいたっけ。

 

この文献がどうして石原莞爾に結びつくかといえば、石原という人物は

 

良くも悪くもこの「東北魂」の体現者だったとの評価が出てきて、従来の

 

「柳条湖事件の首謀者、関東軍参謀石原莞爾」、東條に噛み付いて「戦陣訓」

 

に猛反対し、左遷されたが、その談論風発ぶりは魅力であり、その頭の中の

 

大東亜共栄圏構想はいかにも東国人らしい、農民のためのユートピアだった

 

もしれない、と評価が少し上がってきているらしい。しかしこの夢は

 

民族差別を伴ってアジアの悪夢と化した。

 

 

p430より

 

山形有朋と軍部は満蒙に注目していた・・これが戦略論を越え、民衆レベルの

 

植民地主義へ進むのに、独特のイデオローグが介在し、石原も民間人のような

 

顔をしてそこに入っている。・・たとえば陸羯南(クガカツナン)は日本主義

 

から藩閥体制を批判した。

 

「東洋の西南はすでに西欧人に侵略されるままとなった。・・東洋という

 

まな板の上には、三国(日本帝国、清国、韓国)が皆並べられ、それを料理

 

しようとするのは欧米諸国である」との認識を示している。

 

こうしたアジア被害者論から、協力して欧米に当たると言いつつ、日本が

 

主導権を取る論、さらに欧米に代わり日本が支配する論に変わってゆくのに、

 

さほど時間を要さなかった。唯一例外なのは、熊本の宮崎4兄弟の末っ子・

 

滔天だろう。“幕末の志士”はいるが、明治には“壮士”に変わると書いたが、

 

滔天はただ一人“志士”だった。兄の弥蔵の方が思想が深く、若死が惜しまれる。

 

滔天は兄の「日本には自由民権の余地はない。広大な中国に期待する」という、

 

ニヒリズムを追求していった。・・宮崎滔天の構想したアジア連合体の最大

 

特徴は、中国を中心とする中、日、韓の連盟で、この連盟の中で各国は平等に

 

共存する一方、「人道を無視」し、「弱肉強食」を進める帝国主義は終始否定

 

する立場に置かれていたと断定してよかろう。

 

 

p431 心情的中国論から現実主義へ

 

頭山満は興亜運動ーー大アジア主義の別称ーーを主張した。終生、著書も官職も

 

ないくせに、隠然たる力を持った「国士」だった。玄洋社を創る綱領に、

 

「皇室を敬戴し、人民の権力を固守する」との「ねじれ」があるのは、元は

 

自由民権から出発したためだ。

 

2回総選挙で民党優位がわかると、軍国主義へ急旋回する。

 

「この国家が危急存亡の時、そんな地租減軽などという議論はいけない。・・

 

何を措いても、軍艦を作って、支那を屈服させなくてはならぬ。外敵はすでに

 

境界まできて、示威運動を試みているではないか。今日の急務はまず対外策だ」

 

こうした急転向は、「国士」などと称する人々に共通している。

 

奇妙にウェットな情緒性もまた共通項だ。

 

「日本と支那とは数千年来、同文同種、地理的にも、民族的にも、人情的にも、

 

提携融合しなければならぬ立場にある・・日本を別にして支那がどの国と真の

 

提携ができるか。日本と支那とは天の与えた夫婦も同様だ。夫婦は諸外国が羨む

 

くらい仲がよからねばならぬはずだ。(吉岡鞆明「巨人頭山満翁は語る」)

 

ここから突然、日本の中国指導という飛躍が飛び出し、これが高まると「世界を

 

統一する」という「思想」になる。

 

「世界一家の御天業は、神様が定めて置かれたのじゃ。さうなるに決まっとる。

 

ただ、時の人がだらしなければ、ひまがいるだけのことじゃ。日本即世界じゃ」

 

この神様を「仏」にかえると、石原とさほど変わらない。石原は世界大戦争を

 

予告するが、その後には「天皇中心の四海波しずかな世界に」行き着くと

 

仏教とは無関係な結論を出している。石原もこうした頭も尻尾もないのに、

 

日本人を黙らせてしまう論理の、「無意識の信者」になっている。

 

     お

 

p517  石原の大構想

 

(石原の構想は遠大で、そのためには満州すべてを知る必要があった。

 

 

1929年7月初めに行われた北満偵察旅行は、今ではすっかり有名に

 

なっているが、これがそのプログラムの始まりであった。

 

この旅行は、満州の地勢について直接的知識を持つことによって、

 

戦略的価値を学ぶ演習であったばかりでなく、板垣、石原コンビ

 

の始まりと、石原構想の関東軍参謀部への最初の衝撃とを記す

 

ものであった。(中略)

 

来る日も来る日も汽車が広大な満州平野を走り続けると、車上の

 

日本人の参謀たちにも、満州の戦略には必ず関わってくる時間と

 

距離の問題の大事さが分かり始めてきた。

 

石原は、車両の窓から広漠たる空間を太洋に例えて、これを

 

越えて侵入してくる軍隊は、海軍戦術を使わなければならない

 

と語ったと言われている。

 

1929年の偵察旅行段階で、石原の述べた「関東軍満蒙領有

 

計画」は、すでに軍人根性丸出しである。

 

第一、「平定」 軍閥、官僚の掃討と官私財産の没収、

 

   関東軍による 現地支配層の完全覆滅。

 

第二、「統治」 軍政下で、日、鮮、支三民族による自由競争。

  

   ただし日本人は大企業と 知的分野、朝鮮人は水田開拓、

 

   支那人は小商業労働。つまり「士農工商」の押し付け。

 

第三、「国防」 4師団を用いて露国の侵入に備える。

 

この石原案に沿って、1、行政は佐久間大尉、2、財政は伊藤

 

主計正、3、対米戦争と満蒙経済への影響と対策は同伊藤、

 

4、総督府(軍令部)の編成は同伊藤にと、

 

引き続き研究させていた。・・

 

構想実現には内地の世論を高める必要があり、5月、当時の

 

関東軍司令官・畑栄太郎中尉の弟、畑俊六少将が来満した時、

 

再度、参謀演習旅行がなされ・・・

 

ここで石原は、まず日米持久戦争が支那問題を原因として起こる。

 

石原は「平和なき支那を救うは日本の使命にして同時に日本自ら

 

を救う唯一の道なり。これがためには米国の妨害を排除するの

 

必要に迫らるべし」とし、最後に「まず近く行わるべき日米

 

持久戦争により国内を統一して国運の基礎を固め、ついで行われ

 

る決勝戦争(数十年後なるべし)により世界統一の大業を完成す」

 

と結論した。

 

まさに日蓮の言う「一天四海皆帰妙法」なのである。・・

 

こう見ると石原はすでに、満州での日本の権益云々よりも、

 

遥かに先を行っており、「関東軍の刀は竹光か」と言われる下で、

 

武力制圧、占領、その後の編制まで、「帝国百年の計」として

 

検討していたと分かる。

 

 

436(しかし、石原の「大アジア主義」とは無関係に)

 

日本軍部はすでに方向を決めていた。第一次大戦は、

 

未来戦争が、全国力をかけた総力戦になると教えてくれた。

 

山室信一氏によると、1917年、千賀鶴太郎は、

 

「日本の欧州戦乱に対する地位」と言う論考で、次の

 

ように述べている。

 

「今次の大戦争において絶好の教訓を得たのは、人口や金の

 

豊富なばかりでは、戦争に終局の勝ちを得ることはおぼつか

 

ない。必ず軍需品が自国で自給せらるるまでに機械だけで

 

なく物資までも皆独立して内国で得らるる事にならねば駄目

 

である。今日のままでは未来の戦争に日本は全く無能力たるを

 

免れない。まず日本には鉄が無い石炭も少ない。

 

鉄がなくては未来の戦争はできない。そこで日本の急務は、

 

鉄と石炭を十分ならしめ、軍需品を独立せしむる制度と

 

経済組織とを完成せしむる事にある」

 

以上の認識から千賀は、その具体的対応策として日本と中国が

 

「国際法上の団体となる、すなわち連邦の体」になることを

 

提言した。そうして「戦争の時には支那の土地をも鉄道をも

 

物資をも日本の内地同様に使用できるようにする」ことが

 

日本の生存の不可欠の要件になると説いたのである。」

 

 

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🦊:つまり、石原の説いた「王道楽土」はシャボン玉のように

 

光って、消えた。

 

それよりも軍人(=政治家)、経済人による実行計画は着々と

 

進むかに見えたが、結局、アジア人を手足の如く意のままに

 

動かして、利益を残らず日本に吸い取ろうとしたところに

 

誤算があった。賢い植民地経営というのは、そんなものでは

 

ないだろう。

 

 そこに、「神の国日本」、「アジアの大将になって当然」、

 

「アジア人は粟やコウリャンを食え」、の田舎の親分的な

 

迷夢が入り込み、それは宗教の形を借りて、学校で幼い子供

 

たちに刷り込まれた。それは長い年月をかけて成果をもたらし、

 

ロボット兵と、それを操る「戦陣訓」のようなシステム・

 

エンジンが開発された。

 

そう考えると、昭和の悲劇の淵源は、どう考えても明治政府に

 

ある。それと、「皇統」そのものと、ある種の宗教団体にあると、

 

狐は思うのであります。

 

2021年  5  19

 

 

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オオバギボウシ

 

種美人の第2位くらいに美しい。


6月の開花からおよそ5ヶ月

 

今は11月。やっとたねが実った。

 

美人の第1位はアキノノゲシだ。

 

第3位はというと、

 

アカバナユウゲショウかな。

 

なぜ夕化粧かと言えば、ピンクの小さな4弁の花を、夕方から夜にかけて開き、

 

よく朝には萎れてしまう。ところが、その花が突然茶色に変化する(ように

 

見える)。それが、種を飛ばした後の鞘で、まるで茶色の花のよう。

 

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🦊 the breadwinnerというアニメを見たDVD

 

アカデミー賞ノミネート作品)

 

主人公のアフガニスタンの少女は、髪を切って少年になり、

 

タリバンに囚われたお父さんを救い出しに出かける。

 

 市場や商店では男たちが働いているが、女は外出禁止で、見つかれば

 

「女は家から出るな!」と怒鳴られ、追い払われる。タリバンの

 

やり口はナチに似ている。

 

「政府は国民に十分な就職口を与えていない。タリバンはその点で

 

違う。男の雇用率は今や100%。兵士の給与水準は高い。その証拠に、

 

若者は競って軍隊に入りたがっている」という。そりゃそうだ。

 

女を働かせないから、そのぶん、男にチャンスが回ってくると

 

いうわけだ。

 

しかし、長引く紛争で、兵士の志願者が減ってきている。それで、

 

ごく幼い少年を攫ってきて、反米、反政府思想をみっちり教え込み、

 

戦闘訓練も行って、タリバン兵を育てている。軍資金の稼ぎ頭、

 

ケシの栽培に駆り出された農家は、稼ぎの大部分をタリバンに

 

貢がされる。少女のお父さんは教師だったが、空爆にあって片足を

 

失った。なぜ牢獄に入れられたのかもわからない。

 

・・結末は、苦難の末にお父さんを救い出し、めでたし、となる

 

のだが、これを見た大人は重苦しい悲しみに襲われて、子供のように

 

喜ぶことができない。なぜだろうか。・・

 

 

2921==8

 

🦊

 

アメリカ政府は9月中のアフガンからの米軍完全撤退を宣言した。

 

コーランに依拠する厳格な宗教国家を目指し(その始まりは、

 

聖職者の教育のための大学の学生運動によるという)、20年に及ぶ

 

米国軍のアフガニスタン駐留下を生き延び、職を失った若者を中心に

 

兵を募り、政府軍横流しの最新兵器を蓄えたり、精力を伸ばして

 

来たタリバンは、「いよいよその時が来た」とばかり首都カブールへ

 

攻め込み、ガニ大統領は815日、国外に脱出した。

 

米国政府の発言「アフガニスタンはアフガニスタン政府軍自身の手に

 

よって護られるべきものだ」・・

 

 

例の同時多発テロへの恐怖から出たにせよ、米国の20年分の膨大な

 

軍事予算と人命の損失は、一体どう償われるのだろうか。まさか

 

タリバン政府に賠償請求するんじゃあるまいなー。

 

 

とにかく戦争は終わった。各国はタリバンに、国民の飢えと傷を

 

癒すため全力を上げることを勧め、今度はそのための援助を申し出て、

 

あのアフガンの少女が生き延びて、幸せを手にすることができるよう、

 

取り計らうべきだろう。

 

 

ところで

 

花輪氏の言う「頭も尻尾もないのに、なぜか日本人を黙らせてしまう

 

論理の無意識の信者になる」のはなぜなのか・これまでキツネは、

 

漠然と明治期の新体制が、宗教としての「国家神道」を国政の柱と定め、

 

国民の意識統一を推し進めてきた、と言うような雑駁な論を鵜呑みに

 

してきたが、どうやらそう言うものではないらしい。

 

それは教義なき神道、国策としての神道であって、宗教とはいえない。

 

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「近代天皇像の形成」  安丸良夫著

 

  2007年刊  岩波現代文庫

 

 

「近代天皇制に関わる基本観念を、いま仮に、

 

1. 万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統性秩序 の

 

  絶対性・不変性、

 

2. 祭政一致という神政的理念、

 

3 . 天皇と日本国による世界支配の使命、

 

4 . 文明開化を先頭に立って推進するカリスマ的政治指導者とし

 

  ての天皇、

 

と要約してみよう。そうすると、右の4点には古い由来を持つ

 

ところもあるけれども、しかしより仔細に点検すると、こうした

 

諸観念が明確に形作られて、あるまとまりをもったのは、近世

 

後期以降の日本社会全体の転換過程においてであったことが明らかに

 

なるのである。・・例えば最も中核的な①にしても、いわゆる

 

「天壌無窮の神勅」を根拠に、天照大神以来の一系性をそれだけで

 

絶対価値として強調したのは、16世紀の本居宣長以来のことである。

 

天皇の地位の由来を天照大神から引き続く血統によって根拠づける

 

ことは、それ以前にも広く行われてはきたが、しかしたとえば儒学の場合、

 

天皇の地位は君徳との関係で捉えられていて、君徳を失った天皇は

 

権力を失うものと考えられ、万世一系の血統はそれだけでは天皇の地位と

 

権威を根拠づけることができなかったのである。また、②は、中世と近世の

 

現実の朝廷・天皇とは関わりがなく、18世紀以降に水戸学や国学が作り

 

出して政治政権にょって採用されたイデオロギー、

 

3は、やはり18世紀末以降の対外的危機意識の高まりの中で醸成された対抗

 

ナショナリズム的な強がりと独善、4は、4つの観念の中では最も遅れて、

 

幕末の具体的に分析できるものだと考える。」

 

 

 p199 「宗教の自由と国家」

 

「71年9月、教部省設置請願書において、(浄土真宗本願寺派の僧)

 

島地黙雷は、優位を承認しながらも、キリスト教の浸透に対抗するためには、

 

「愚民を導く」上で長い伝統を持った仏教の役割が重要で、神仏儒が一体となって

 

事にあたる必要があると主張した。・・

 

外遊した島地がよい印象を受けた点の一つは、西欧では宗教が国家権力から

 

独立していることで、これに比較すれば、教部省、大教院体制の中に

 

組み込まれた仏教側の態度はあまりにも卑屈だ。

 

「政教元より別なれば、官の機嫌を伺うは極めて拙見なり・・目を宇宙に

 

馳せて見れば恥ずかしきことなり。左様のことにて布教ができるものか」・・

 

島地はまた、民衆は愚かなもので、宗教によって教化しなければならず、

 

そうしなければ、西欧文明の導入とともに必ずキリスト教が浸透して、大

 

きな社会的混乱が起こると考えていた。

 

(外遊中の経験から)西欧では、具眼の者は、自分は無宗教でも宗教を

 

尊重していると言う。外遊中の木戸は、15回も島地に会って、故国の

 

宗教問題について論じ合ったが、「本邦の徒無法に開化開化と騒ぎ、教法をも

 

勝手に悪口す。開化とは丸裸になりて宗旨も教もなくて済ますと思うは

 

あさましきことなり。・・愚民の心は何にて治めるぞ」と述べたという。

 

これはまた島地の立場に他ならず、島地の論理は、木戸ら長州閥を

 

介して政府中枢部へ説得力を発揮しつつあったのである。・・真宗こそが

 

民衆を啓蒙して、近代国民国家形成の社会的基盤を創成しうるのであって、

 

この課題を果たすためには、大教院という「猿頭蛇尾の怪鳥教院」を

 

廃止して、「信教の自由」を実現しなければならない。

 

滞欧中に、神道を未開野蛮の多神教として攻撃した島地は、帰国後は、

 

神道非宗教説を積極的に展開することで、神道国教主義に歩み寄った。・・

 

p201

 

王政復古直後から72年ごろまでの宗教状況は、一見したところでは

 

神道が優勢で、廃仏的な動向が顕著だったように見えるけれども、

 

神道に時勢便乗の勢いがあったとすれば、仏教には伝統に基づく底力が

 

あった。王政復古直後には、廃仏的な機運に対抗するために、仏教側

 

でも諸宗派の協力関係と改革や啓蒙の努力などが行われて、新時代への

 

対応が進められていた。さらに、王政復古直後の新政府は、財政的に

 

両本願寺に依存するところが大きく、内戦を乗り切るために両本願寺に

 

門末教諭を命じたりもした。廃仏毀釈に際しても、真宗地帯では

 

寺僧侶と門徒農民のねばり強い抵抗があり、明治政府は一方的な

 

廃寺廃仏を禁止すると布告していた。

 

島地らは真宗を新時代に相応しいように改変するとともに、一神教的な

 

宗教観念と民衆教化という伝統と実績を踏まえて、近代国民国家の

 

形成に積極的な役割を果たそうとしたのであった。

 

島地ら仏教側と西周ら明六社系の人々が、英米などをモデルに

 

政教分離を主張したのに対し、神道側は、ロシアをモデルに政教一致を

 

唱え、神祇官再興と国教樹立を主張していた。

 

大日本帝国憲法第28条は、「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、

 

および臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」という曖昧な

 

制限付きながらも、「信教の自由」を規定した。

 

この規定は、その前後の自由や権利についての規定とともに、

 

日本が曲がりなりにも、国政上、近代国家の形態をとったという

 

ことを表現しており、その背景には、明治初年以来の宗教的な

 

葛藤や闘争の歴史があった。・・

 

(この信教の自由と国家神道の樹立を通して国民国家的統合を

 

実現する過程で)その中心には、常に超越的権威としての天皇があり、

 

天皇の権威はまた、常に国体論や神国論へと引証されていった。

 

そして、人々はそれぞれの「自由」をこの権威ある中心に結び

 

つけることによって、自分の欲求や願望に正当性を与えて自らを

 

励ますが、権威ある中心はまた様々な社会的諸勢力からの「自由」を

 

介した献身を受け止めることで、より有効な統合を実現してゆく。

 

 

 278 天皇崇拝の浸透度より

 

それでは、明治初年と民権運動の激動をくぐり抜けた後、天皇の

 

権威はどの程度まで、またどんな意味で、民衆の精神の中に内面化

 

されていったのであろうか。この問題を、生活者としての民衆に即して

 

適切に論ずることは大変難しいが、私なりに大雑把な見通しをつけてみよう。

 

 1890年の大我居士「貧天地餓寒窟探検記」には、東京上野万年町の

 

ドヤ街に住む「飴売り」の政談として、次の記述がある。

 

「我々は禁廷の安穏なるがために生息しうるものなり。父母は我々の上

 

にて、禁廷はまた父母の上なり。禁廷は善もなさず、さりとて又悪をも

 

なさず、恐れあることながら申さば赤子も同様なり。今日政治向きの

 

色々に変わるは全くお側近き政事役人の所為なり云々」

 

こうした皮肉な天皇観は、おそらく庶民のリアリズムに属するもので、

 

王政復古直後に出された錦絵の「幼遊び子をとろ子とろ」と題する錦絵

 

では、天皇は年長の姉さん風の女性に背負われた幼児として描かれ、

 

その周りでわんぱく小僧風の薩長・幕府などが争奪戦をするという見立て

 

になっている。

 

「官金取立て寄合」と題する錦絵では、天皇は少年法師として描かれて、

 

「わしには一向わからんさかい、貴様たち、良いようにしてたも」と

 

述べているが、その前には因業そうな金貸風情の親爺たちが借金取立て

 

の相談をしているという構図である。・・

 

こうした戯文・戯評には長い伝統があった。又、明治政権を支配する

 

人々を簒奪者としてみて快く思わぬ人々が、江戸や東日本などに広汎に

 

存在していたのは当然のことで、例えば生方敏郎も、その生地群馬県沼田

 

では、明治中期まで地方民は明治政府を信頼しておらず、「老人連は

 

御一新をただ薩長武士の企てた革命とのみ考えていた」と述べている。

 

こうした事例は、何らかの政治好き、社会的関心を持った人々の

 

ケースで、一般民衆の意識というのは、やや憚られると思う。

 

民衆意識と国家との関係を考える上で、祝祭日をめぐる問題は一つの

 

焦点である。

 

(明治中期以降の学校行事についての資料として)山本信良・今野敏彦

 

「近代教育の天皇制イデオロギー」によると、1891年に小学校についての

 

「祝祭日儀式規定」が制定され、「御真影の拝賀」「勅語奉読」「勅語に

 

関する誨告と演説」「唱歌」からなる儀式内容が定められ、儀式直後に

 

行われる遊戯体操、学事関係役人と父母の参加奨励、茶菓や国体観を

 

表現する絵画の配布などと相まって、学校行事を通した天皇制イデオロギー

 

の浸透が積極的に図られたのだという。(こうした儀式に対して、親は

 

好意を示したという報告もあれば、反対に、「氏神様の祭日や縁日とは

 

大違い」だとか)学校制度を通じた強制と民衆意識とのズレの大きさを

 

窺わせている。

 

徳富蘇峰は、熱海小学校尋常三年の終身科の授業を参観したが、その

 

授業風景は、天皇崇拝を押し付けようとして教師と子供が共に苦心惨憺

 

する珍妙なもので、蘇峰は、「大人の観念をば、強いて小児に押し付け、

 

思いもせぬ了解もせぬ言葉をおうむ返しに言わしめ、これで徳育の効を

 

挙げたると思ふが如きは、馬鹿の最上」と罵倒している。

 

だがそれでも、学校教育や青年団・在郷軍人会などを通じて、

 

天皇崇拝や国体観念は次第に深く国民意識を捉えるようになり、

 

近代化過程の成果は天皇の権威に結びつけられるようになっていった

 

ことであろう。そうした事情を物語る事例として、「世間師」として

 

諸国を放浪した河内国南河内郡滝畑の左近熊太の証言を取り上げよう。

 

左近は宮本常一に語った「旧事談」で、故郷の生活を振り返り、

 

「幕末から明治10年ごろまでは盗人とバクチが多く、村で夜番を

 

したこと、昔は堕胎とナシイョ子が多く、駐在所ができると、

 

もっぱら堕胎とバクチを取り締まったこと、餓死者も少なくなかったこと、

 

救荒植物のカラウを食べたり藤で作った着物を着ていたような生活から、

 

少しは米が食べられて木綿が着られるようになった生活への変化を

 

あげて、誠にもったいないことで、私はどんなことをしても、すぐ

 

寝ることはない。天皇様から神々様を拝んで、それから寝ることに

 

している。こういう御代になったのも、みんな天皇様のおかげである」

 

と述べている。

 

 

p294 国民国家の編成原理についてより

 

とりわけ産業革命を経過した後、およそ最近の2世紀足らずの

 

期間に地球上のあらゆる地域は国家という奇怪な存在によって

 

覆い尽くされてしまった。国家は、国境を越えて出入りする

 

商品・資本・労働力を管理する権限を持っていること、自国内で

 

制度的に生産関係を規制しうること、徴税権や金融制度を介して

 

資本の蓄積や冨の配分に関与しうること、文明や伝統の名において、

 

労働力の訓練や支配の正当化を行いうることなどのために、

 

近代社会の中で特別の位置と意味を持っている。・・

 

近代日本も欧米列強の圧力のもとで、急速な後追い型の発展を展開した。・・

 

 (近代天皇制は、まだ幼稚な形成過程にある国民国家であり)

 

その原理の中核にあるのは、天皇という絶大な権威を振りかざすことで

 

内と外から迫り来る危機に立ち向かい、権威的秩序を維持しながら、

 

近代化、文明化という課題を実現してゆくことである。・・

 

(儒教、仏教、キリスト教と西洋近代文明は、それぞれに普遍原理

 

を主張することにより)やがては日本社会をカオスに追いやる可能性を

 

孕んだものとして疑惑と危惧の思いで捉えられ、これに対して万世一系の

 

天皇制は、この世の秩序の普遍性、絶対性を表象する神権的権威とされた。

 

(この課題の達成に関しては)明治政府の指導者はもとより、

 

神道家や国学者から民間のジャーナリズムや民権派、地域社会の様々な

 

レベルの指導者などを含めて広い社会的合意があり、その対局には啓蒙の

 

対象としての一般民衆があった。

 

身も蓋も省いて外枠だけを荒っぽく言えば、これが本書の主張であるが、

 

その際、

 

1。開明派の人々は、その主張の中に近代的な自由や権利も部分的に

 

  取り入れていたこと。

 

2.それらの主張の反論不可能な普遍性から、反対に一般民衆を遅れた、

 

  愚昧な者と決めつける傾向が生まれた。

 

3。天皇こそ近代化・文明化を先頭に立って推進するカリスマ的指導者

 

  とされた。

 

  (この項🦊の要約)

 

国民国家は、極めて古いとされる伝統に国民的アイデンティティの

 

よりどころを求めて、伝統の名によって当該社会を統合して民族的

 

活力を引き出そうとする。その場合、伝統なるものは、歴史を国民国家の

 

課題に合わせて引き寄せて作られた一つの構造物なのであるが、しかし

 

その作為性はほとんど無意識のうちに隠蔽されて、歴史は現在を照らし出す

 

ための鏡となる。近代世界システムへの参加が国民国家を単位として為される

 

ということが、それに適合的な民族的“伝統”なるのもを作り出すのであって、

 

E・ボブスボーンらのいう「発明された伝統」にあたる。

 

“発明された伝統”は、19世紀中庸以降の西欧でも国民国家の形成に重要な役割を

 

果たしたことが指摘されており、西欧諸国でもこの時代になって初めて民族にまで

 

食い込んで国民国家の統合が実現されてゆくとされる。」

 

 

 

************************

 

🦊:ここまで読むと、キツネの勘違い=神国日本の教義をきっちり固めた神道の

 

ある宗派が、長州閥の政治家どもを籠絡して、日本帝国憲法から民主的な自由と

 

権利を追い出したのだという・・

 

それは見事にひっくり返る。なんと、日本全国民の合作だったというではないか。

 

そしてその先にはさらに恐ろしいことが書いてある。

 

「しかし、日本社会の中にあるほとんどすべての集団において、基本原理は全く

 

同一である。天皇制とは何の関わりもない資質、能力、業績などに基づいて形作

 

られているそれぞれの小世界は、他方でまたナショナルな普遍性の次元でより

 

一般的に権威づけられることを求めており、こうした権威づけと価値付けの頂点で

 

天皇制に行きついてしまう。

 

そして、このような権威づけや価値づけを、自分がその小世界で果たす業務や

 

業績とは何の関わりもない次元のことだと拒否するような人は、どこか気心の

 

計りにくい異分子である。実際問題として、昭和天皇の死に際して、弔旗の

 

掲揚や黙祷を拒否したり、大喪の礼の夜に新宿歌舞伎町で騒ぐことは難しかった。

 

天皇制は、秩序と簡易に従う「良民」か否かを試す踏絵として、今も十分に機能

 

していると言える。・・

 

現代の日本では、企業や各種の団体や個人は、一見自由に行動しているのだが、

 

しかし実は、その自由は国家に帰属してその秩序の中に住むことを交換条件とした

 

自由であり、国家の側はまたこの自由を介して国民意識の深部にイカリをおろし、

 

そこから活力を調達して統合を実現しているのである。・・天皇制は、この基本的

 

な枠組み全体の中で最も権威的、タブー的な次元を集約し、代表するものとして、

 

今も秩序の要として機能している。だからそれは、個々の現象面への批判によって

 

は乗り超えがたい存在であり、いつの間にか心身に絡みつくようにして私たちを

 

縛っている。それは、私たち個々人が自由な人間であるという外観と幻想の基底で、

 

どんなに深く民族国家日本に帰属しているかを照らし出す鏡であり、自由な人間で

 

あろうと希求する私たちの生につきつけられた、屈辱の記念碑である。」

 

 

*****************************

 

 

 

🦊申す:さーてね。我々は資本主義社会の外では1日も暮らせない。絶海の孤島で

 

「鉄腕ダッシュ」みたいな面白い暮らしができれば別だが。だけどキツネにとって

 

は、現在頭の上でドンパチやっていなければ、幸い。息苦しい格差社会も我慢しよう。

 

だけどアフガニスタンでは、子供や老人が地雷を踏んで足を失っている。爆弾を投下

 

されて、花嫁も親類たちも死んだ。あの少女がいつの日にか、タリバンの支配する国

 

(ガチガチの宗教国家)を倒すことができるだろうか。これは日本の生ぬるい権利

 

意識を10000個集めて支援しても、到底無理だろう。戦争や、民族差別や、女性の

 

奴隷化、「それ、やめようよ」、と大勢でいうだけでもいい。「とても言える

 

雰囲気じゃあない」だって?長州閥が怖いから?それともやっぱり社会の秩序を

 

乱したくないから?

 

だが、手元に「日本国憲法」がある。これを手放すな!

 

それと、「頭も尻尾もないのに何故か日本人を黙らせてせてしまう」ようなデマを

 

信じるな。彼らがくれるパンフレットには、「美しい日本」と書いてある。桜観光と

 

一緒くたにするなかれ。

 

 

 

 

 2021  5  30

 

 

 

オオバギボウシとホタルブクロ

 

 

 

🦊:近頃の「渋澤栄一ブーム」の怪

 

 

2021年10月15日__読売新聞社オンライン

 

岸田首相は、「新しい資本主義」の具体策を話し合う

 

「実現会議」のメンバーを発表した。・・投資運用会社会長の

 

渋澤健氏もそのメンバーに含まれる。来春を目処に、意見を

 

取りまとめる。____

 

ははん、岸信介の孫さんではどうやら実現不可能と踏んで、

 

今度は人気の渋澤栄一玄孫を担ぎ出したか。

 

栄一翁についての真面目な研究を、グーグルで探すこと、

 

百番目以上でヒットしたのが、以下の坂本慎一氏の論文だ。

 

 

「晩年渋沢栄一の商業擁護に関する根本的問題」

 

坂本慎一(昭和46年生__経済学博士)

 

(大阪大学経済学雑誌__第101巻第1号より抜粋)

 

ー序よりー

 

 渋沢栄一は、明治時代を広範囲に渡って活躍した実業家

 

として知られている。しかし彼は「論語算盤一致説」を

 

説いたり、最晩年に、「論語講義」を記すなど、思想家

 

としての側面もあったことは否定できない。・・

 

筆者のこれまでの分析によると、渋沢の儒学は徂徠学、

 

水戸学の学統にあり、政治、社会論重視のいわゆる

 

「荀学」の学派に属している。彼は若き頃水戸学を修め、

 

晩年に記した「論語講義」もその内容は水戸学の強い

 

影響下にあった。(彼の儒学は通俗的な語り口にも関わらず)

 

論語学的に重要な点は決して焦点を外しておらず、正統な

 

荀学に則っている。

 

渋沢の矛盾

 

しかしながら、渋沢が生涯に渡って強く主張していたこと

 

の一つに、積極的な商業の正当化があるが、このような態度は

 

儒者としても特殊である。

 

本稿で問題とするのは、このようにある種過剰とも言える渋沢

 

の商業擁護論である。この主張がどのような論理で行われ、

 

またそれはどんな問題を含んでいるのかといったことである。

 

孟子、朱子学では本来修身論を重視し、天下国家の問題は

 

個々人の修身に還元される。社会問題も諸個人の修身に還元

 

して考える。

 

これに対して荀子は「身を修むるを聞く、未だかつて国を

 

治むるを聞かざるなり」と述べ、修身論を否定するわけでは

 

ないが、経世論の重視すべきことを説いている。

 

荻生徂徠は「聖人の道は、要は民を安んずるに帰するのみ」

 

と述べる。渋沢の儒学も、徂徠•水戸学の学統にあり、経世論

 

重視の儒学であった。

 

では、この荀学において、商業はどのように考えられているか。

 

①抑商思想②為政者による経済活動の義務③民間商業の

 

社会的役割の是認、の三つがあると言える。

 

渋沢は当然のことながら、①は否定ないし無視している。

 

渋沢は民間の商業者に官僚と同等の権限、義務を与えること

 

によって商業を正当化したが、これは②と③を融合させて

 

商業の必要性を説いたと解釈できる。つまり商業者に為政者と

 

同じ国家•国民を安んずる義務を与え、(②)、同時に民間の

 

商業者をより強く社会的に是認させる(③)発想である。

 

1荀学としての矛盾

 

修身重視の孟子に比べて荀子は政治、社会論重視であったが、

 

具体的にはそれは道徳ではなく、「法」によって民を制する

 

ことを重視するものである。荀子は次のようにいう。

 

<士より以上は、即ち必ず礼楽を持ってこれを制し、

 

衆庶百姓は、即ち必ず法政をもってこれを制す。>

 

このような「上下」を意識した政策論は、道徳を説くだけでは

 

世の中を治めることはできないと考える現実主義的な発想で

 

あり、荀学の真面目とも言える。

 

通常の儒学では、商人は一般的に「民」に入るはずであり、

 

法で制せられる対象である。これに対し渋沢は、工場法や

 

産業振興策、法による商業への介入を認めるものの、財閥など

 

巨大化した産業の抑制そのものは説かない。彼の晩年には

 

いわゆる「財閥悪玉論」が浮上し、財閥の巨大化そのものが

 

問題になっていた。しかし渋沢のこれに対する反応は、

 

もっぱら商業者に道徳を説くのみである。渋沢は例えば

 

大正時代後期に記した「論語講義」において、次のように

 

述べる。

 

<この生産貨殖は第一に得失を先とするからややもすると

 

道理を滅すると云ふことが多い。これは何か一つの厳守する

 

ものを定めてその趣旨は必ず動かさぬという心をもって

 

実業界に立ったならば、得失によって道義を滅するやうなる

 

過ちはなからう。即ち道徳によって実業を進めてゆきたい。

 

・・つまり孔子の教旨とする論語によって実業界に立ち、

 

銀行を経営してみたいといういふのが私の理想で、爾来この

 

覚悟を以って進んだのであります。悲しいかな私の力の乏しい

 

ためこの主義に応じてくれる実業家が比較的少ない。反対に、

 

・・政治界の通弊に倣うて政治は力なりと同じやうに、商業は

 

金力なりという風に傾くので、私は心苦しく感じておるので

 

あります。>

 

渋沢の主張を荀学的に解析すると、彼の商業正当化論は、

 

商業を「上」ないし「士」と対等にすることによって、

 

商業者に為政者と同じ国家意識の義務を与え、同時に

 

為政者と同じだけの裁量権を与える論理構造を有している。

 

しかしそれではまず第一に、彼の主張が孟学と同等になって

 

しまい、全ての人に道徳を説くという修身重視の主張になる。

 

渋沢によれば、朱子学は修身重視であるがそれは間違いであり、

 

儒学は本来は経世論だったはずである。また「孔子の説は・・

 

今日のいわゆる法治主義なり」とも述べている。

 

行きすぎた財閥の問題を法で制すべきとは考えなかった彼の

 

主張は、明らかに彼の中でも矛盾している。

 

また第二に渋沢のこの発想は、「民」そのものを廃止しかね

 

ない発想でもある。渋沢は「農工商」を「士」と対等にすべき

 

と考えていた。しかしそれは国民全員を「国臣」にしかねない

 

発想であり、論理的には「民」を廃止してしまう。これは

 

「民を安んずる」ことを最終目的とする、荀学儒学そのもの

 

を崩壊させかねない。

 

 2渋沢の転回(🦊意見を変える)との矛盾

 

渋沢は、明治時代初期と資本主義が成熟し始めた明治時代後期

 

以降で、具体的な政策に対して意見を変えている例がままある。

 

例えば明治時代初期には実業それ自体を社会に是認させるべく、

 

彼は比較的単純な自由主義を述べていた。彼の市場不介入論の

 

うちで、彼は「ただ自然に任せて僅かにその妨害を除くと

 

いうことを務めたいと考える」と述べている。

 

しかし渋沢は明治34年には次のように述べた。

 

<私は元来国家からある事物を保護して行くということは甚だ

 

面白からぬことである、なるべく好まぬことであるという論者

 

であるが、併し一国の富を進めてゆくといふ側から考えると

 

いふと、ある重要なる事については余程その点に注意して、

 

助くべきは助け、進むべきものは進めると云ふことは、

 

甚だ必要であると思ふ>

 

渋沢自身はその転回の理由について説明していないので、

 

明白な理由は不明であるが、少なくとも明治時代後期には

 

ただ手当たり次第に実業を推進するのではなく、国家による

 

インフラの整備など、その計画性を問う時代になったはずで

 

ある。またここで重要なことは、渋沢のこの転回が経世論的

 

観点から発生したという点である。彼はここで明白に国家を

 

経営する視点、「国の富を進めて行く」視点から状況を判断

 

して、自らの新しい説を述べている。

 

<もし今の実業界における人々が、真正なる孔孟の道を以って

 

王道を行うという観念で世の中の事業に処して行きました

 

ならば貧富ともに其宜しきを得て、決して社会政策学会の

 

ご厄介を蒙らずに、平和に沿っていくと私は思ふのであります。

 

併し多数の人が左様に一人一個のやうになり得られぬから、

 

即ち政治も要らう、学理も要らう。>

 

真正なる孔孟の道が、修身として諸個人全員に行われれば、

 

そのような法律は不要であるが、現実にはそのように

 

ならないから、この種の法律は是認さるべきであると述べる。

 

 

3矛盾の発生源

 

①渋沢の認識の問題

 

儒教による国家経営では、十分に豊かになったら次は教育に

 

力を入れるべきと考えられ、永遠の富国増大という発想はない。

 

しかし渋沢は「論語と算盤」において次のように述べる。

 

 

<明治が大正に移ったところで、往々世間では、もはや創業

 

の時代は過ぎた。これからは主成の時代という人があるけれど

 

も、お互いに国民は、左様に小成に甘んじてはならぬ。版図は

 

小さく人口が多く、なお大いに人口が増殖して行くのだから、

 

そんな引っ込み思案ではおらぬ。内を整うると同時に、外に

 

展びるということを工夫しなければなるまい>

 

欧米列強の脅威のもとに晒された明治初期には、確かに日本は

 

物質面で成長しなければならず、「富国強兵」を遂行する必要

 

があった。渋沢が実業を正当化しようと躍起になった所以で

 

ある。しかし明治末期には、日本は日露戦争にも勝利して

 

一等国になり、第一次大戦の特需によって「既に富めり」とい

 

うべき状態になったとも解釈できる。ところがこの時期の

 

渋沢の主張は、依然としてさらなる経済成長である。

 

渋沢は近代資本主義を輸入、創始することはできたが、

 

その後の産業の制御を形成的に考えたであろうか。彼は

 

明治時代末期にはほとんどの重役を退き、大正時代初期には

 

完全に実業界を引退した。その後、彼は実業界の状況に非常に

 

疎くなった様である。

 

彼自身は大正15年に第一国立銀行の経営状態について‘意見を

 

求められ、次のように答えている。

 

<私は丁度取締役を辞しまして以来、十一年目になるかと記憶

 

します。大正5年に辞しましたやうに思いますが、十年も

 

殆ど経済界の事に関係致しませぬと、朝に晩に新聞などを見

 

てはおりますけれども、どうも実際の事に甚だ疎くなりまし

 

て、・・さういふ点に対して意見を申し上げて、諸君を役する

 

ことのできぬのを深く恐縮に存じます。

 

さらに昭和2年には当時の金融恐慌とそれに対する政財界の

 

対応の成果について意見を求められたが、「私はもう十年以上

 

も銀行の方を退いておりますから、現況を申し上げる限りでは

 

ありません」と述べている。

 

この時の演説もほとんど内容がなく、誰が何をして金融恐慌

 

に対処したのかどうやら本当に知らなかったことを思わせる

 

ものである。

 

 ②儒学理論上の不備

 

🦊:この項目は、儒教の本筋の理想の政治は、荻生徂徠に

 

よれば君主の「民を安んずる心=仁」であり、民を廃止し、

 

全員を官僚と同等に扱えば、(つまり国民全員を「臣」と

 

みなせば)儒学の論理の完全な崩壊をもたらす、という論点

 

に基づく。

 

 

・彼は実力者抜擢を目的とする「官尊民卑」の打破を時に

 

「民の廃止」という形に完全に履き違えてしまっている。

 

渋沢自身は国臣の商人(明治33年に男爵になる)たりえた

 

が、「小人」でしかあり得ない商人に対しては、彼は啓蒙

 

するばかりで、現実的に商業の抑制について考えなかった

 

と言える。

 

つまり(儒教にも存在する)抑商思想は、社会に害となる

 

悪質な商業を抑制するものであって、政策上の技術的な主張

 

であることそれゆえ民の生活を圧迫するよりそれを守ること

 

が目的であることを、渋沢は理解しなかった。

 

「官尊民卑」の打破は、儒学において重要なものであるが、

 

これは実力者を選抜するための議論であり、政策の技術を

 

語る抑商思想とは別な種類の議論である。

 

荀学においては、全員が国家の官僚たりうるほど優秀者

 

になれるとは考えない。法で制せられる「被治者」の存在は

 

無視されないのである。被治者である「民」について、徂徠は

 

次のように説明する。

 

<民の務むる所は、生を営むにあり。故にその志す所は一己

 

を成すにありて、民を安んずるの心なし>

 

民は積極的な国家意識を持たず、あくまで受け身である。

 

ましてや国家意識故に、進んで自ら国のために命を投げ出す

 

ようなことはしない。、国民をしかし渋沢は次のように言う。

 

<万一日本が危ふいようになった時は、外国にあるものはみな

 

帰り来て、父母の危邦に入り、祖国のために防護の任務に就か

 

ざるべからず。またすでに祖国にあるものは、あくまで踏み

 

留まって、国に一命を捧げざるべからず。決して外国に

 

逃げ出すとか言いふことを許さぬ。万一乱邦となるやうなこと

 

があれば、進んで国家の改造善導に勤めねばならぬ。余は

 

更に一歩を進めて、日本臣民は誰でも皆積極的に常に国家の

 

ために勉め、危邦もしくは乱邦たることから避けしめねば

 

ならぬとするものである。>

 

しかし論語にも「民はこれによらしむべし。これを知らしむ

 

べからず」とあるように、儒教では政策の全てを国民に理解

 

させることは不可能であると考えられている。実力者はその

 

出身の身分を問わないが、現に誰もが実力者たりうるとは

 

決して考えないのである。

 

強引に全ての国民を優秀者として「国臣」とすることは、

 

まず荀学として論理的に矛盾である。またそれのみならず、

 

「民」を廃止して全員を「臣」とすれば、政治は一体何のため

 

に成されることとなるのか。

 

 

明治後期以降の時代精神

 

渋沢が青年時代に学んだ後期水戸学では、欧米列強の世界進出

 

に対して日本は富国強兵に勤めるべきことが説かれていた。

 

会沢正志斎は「およそ国を守り、兵備を修るには」と述べて、

 

そのために「邦国を冨ます」必要があると主張している。

 

水戸学は国防の必要ゆえに、食料備蓄制度の改良や人材抜擢

 

などの政治改革を説いていた。所がこれが明治後期になると、

 

国防のみでなく更なる発展が説かれるようになる。例えば

 

井上哲次郎は、教育勅語の註釈本である「勅語衍義」を記し

 

たが、その中で次のように記している。

 

<今日東洋にありて屹然独立し、権利を列国の間に争ふもの、

 

唯々日本と支那とあるのみ。然れども支那は古典に拘泥し、

 

進歩の気性に乏し。独り日本は、進歩の念、日月に興り、方法

 

如何によりては驚くべき文華を将来に期するを得べきなり。>

 

本来幕末において、富国強兵が説かれたのは、日本の独立を保つ

 

ためであったが、「勅語衍義」は、それを相続しつつも、更なる

 

「進歩」をも主張するようになっている。

 

また教育勅語では、「一旦緩急あれば義勇公に封じ、もって

 

天壤無窮の皇運を扶賛すべし」とあるが、これも従来の儒学

 

では、「臣」のみに要求され、「民」には要求されない。

 

井上はこれを釈して「自利心を捨てて国家のために努むるは、

 

即ち愛国の心にして、人々に当に養成すべき所なり」と述べる。

 

明治後期には当時の儒教そのものが変形し始めていたとも解釈

 

可能である。従来の儒学とは異なり、「民」を廃止して国民全員

 

を「臣」にし、対外情勢とは関係なく日本を進歩させて行く

 

ことが儒教の論理を借りて語られるようになった。これがもし

 

時代精神であったのなら、渋沢もこれを共有していたはずで

 

あった。

 

渋沢が常に儒教を根拠に持つ主張をしながら、一部従来の

 

儒教と異なる論理を説いたのは、必ずしも渋沢一人が責め

 

られるべきものではないかもしれない。

 

 

ーまとめー

 

(儒教の形を借りて語られた渋沢の思想は)3つの大きな

 

問題を儒教に対し突きつけていいる。

 

1,市場が拡大した近代社会においても、市場は野放しに

 

されるべきではない。もちろん前近代社会と全く同じように、

 

抑商思想が説かれるべきではないが、その本質的な重要性は、

 

近代社会においても再認識されるべきである。

 

2。国民全員に国家意識を持たせて国臣にすることは、教育

 

制度の普及した近代社会においてすら不可能であることは

 

明白である。またそれゆえに、国家意識の強い職務を持つ

 

国臣の役割の重要性が儒教の教理の中でも改めて認識される

 

べきである。

 

 3。(渋沢や井上は、外来の進歩史観を儒教と習合させようと

 

した)もともと古代に理想を見出そうとする儒教の退歩史観と、

 

この進歩史観はいかなる形で折り合いがつくべきであるのか。

 

重要な問題であると言って良い。

 

 

 

*************************

 

 

🦊本書の中にこのような文がある。

 

<しかし彼は資本主義を輸入、開始した世代である。彼の晩年

 

には時代が急変したが、彼は資本主義を成熟させるまでは手が

 

回らなかった。・・・第一に彼はその晩年には、実業界の現状

 

認識そのものが甘かった疑いがある。また第二に、彼の思想は、

 

荀学の学統にあったのだから、抑商思想を正しく理解して、

 

財閥問題に対する「明治版・抑商思想」を説くべきであった。

 

彼は大正時代に論語の猛勉強をするが、それ以外の漢籍にまで

 

は手が回らず、「論語」にしか頼れなかったことも、(その

 

思想的不備の)原因であったかも知れない。

 

彼は晩年に実業界を引退して、慈善事業や民間外交に尽力した

 

が、これは大正・昭和における実業界の現状認識と儒学思想の

 

正確かつ柔軟な理解の両面においては、むしろマイナスに作用

 

したと言える。>

 

 また文中にある「国家意識の強い国臣=政治家」の役割の重要性

 

 という言葉に改めて頷く。現在の国民をシモジモと呼んで憚ら

 

ない「国家意識の強い国臣」=政治商人、金満投資家、

 

軍国主義教育省、富国強兵を宣伝するマスコミ人種、などなど、

 

民の暮らしや地球の行く末など「どうでもいい」軍団が政権を

 

争っている現状。

 

 

 

2021  10  27

 

 

 

 ***************************************

 

 

 

 

これまでも言ってきたように、キツネは天皇制廃止論者ではない。

 

 なぜならば、国家の品位を保つ必要というものがある。例えば

 

米国の前大統領は、米国憲法を捻じ曲げた『とんでも大統領令』

 

を頻発して、米国から民主主義の旗頭という美名を剥ぎ取って

 

しまった。中国では、あの素晴らしい民衆革命と、帝国主義日本に

 

勝利したという高揚感から、党と軍を祭り上げた結果、やっぱり

 

昔のような『皇帝』を担ぎ出してしまった。

 

(もっと身近な例では、2021年の広島平和祈念式典でのこと、

 

外国の賓客が寄せ書きと署名をするノートが備えられているのだが、

 

そこに墨くろぐろと「内閣総理大臣 菅義偉」と、それだけ・・

 

と、テレビ報道されていたが、まるで田舎の葬式だ)

 

『経済さえよけりゃ、『品位』なんぞなくてよろしい、という

 

御仁が特に政界に多い日本の現状では、『国そのものを売っても、

 

経済に方が大事』 という成金国家になってしまう。

 

 しかし、それならば『天皇親政の日本国』などとはとんでもない。

 

なぜとんでもないかといえば、次に挙げる安丸良夫氏の本を読めば

 

わかる。このシリーズでも紹介した、渋沢栄一の、民間出身だが

 

明治政府の役人としての活躍を見れば、そこまでは良い。しかし、

 

彼は政権の中心グループにはいなかった。他の民権運動家も文人も

 

やがて手懐けられてしまい、政権の中心に残ったのはだれか?

 

 

 

近代天皇像の形成」

 

安丸良夫著ーー1992年岩波新書刊

 

🦊安丸氏はこの本の2007年版の後書きにこう述べている。

 

「各種の意識調査によれば、現在、日本人の約80%は象徴天皇制を支持

 

しており、やや異なったニュアンスの人たちも含めて、圧倒的に多数の

 

日本人が天皇制を支持しているという現実を見据えながらも、私たちは

 

そこに内包されている矛盾から目を逸らすべきではない。天皇家と皇族の

 

人たちは、普通の生活者たる私達とは別世界の住人ではあるが、しかし

 

あの人たちも私達の大部分と同じように現代社会に生きる他ない人たち

 

であり、彼らは現代日本においても社会秩序と社会規範の源泉となる

 

ように求められていて、そのことが強い抑圧性となっていることは

 

明らかである。あの人たちが今よりも自由になれば、私達もまた何ほどか

 

自由の幅を広げることができるのではないかと思う。」

 

 

 p127ーー危機意識の構造ー水戸学ーより

 

 藤田幽谷(17741826)にはじまる後期水戸学は、近世後期の危機意識を

 

踏まえて構築された代表的な政治思想であり、「尊皇攘夷」、「大義名分」、

 

「国体」のような最もありふれた語彙も、儒教の古典によるものではなく、

 

水戸学に由来する日本に独自の用語法だとされる(尾藤、1973p559−60)。

 

徳川斉昭が藩主となり、水戸学の中心メンバーが藩政に登用された天保初年から、

 

水戸学は広く知られるようになり、吉田松陰や真木和泉のような尊王攘夷運動を

 

代表する思想家に大きな影響を与えたばかりでなく、菅野八郎や伊古田純道

 

(秩父出身の蘭方医。我が国最初の帝王切開手術を行った。また1866年の

 

武州一揆の記録を残した)のようなより民衆的な思想家も水戸学に魅かれて

 

いた。政治勢力としての水戸藩は、安政の大獄を境に、凄まじい「党争」や

 

御三家としての立場などのために、全国的な政治状況の中では発言力を失った

 

が、国体思想としての水戸学は、幕末の政治運動や明治維新後の天皇制的諸観念

 

に大きな影響力を与え続けた。水戸学と平田篤胤以降の国学における危機意識の

 

あり方を探ることで、私たちは近代天皇制形成過程の思想的コンテクストの最も

 

重要な部分を理解することができる。

 

『正名論(セイメイロン)』は、18歳の幽谷の著作で、短文ではあるが、「天地

 

ありて、然る後に君臣あり」と、君臣上下の絶対性を述べたものである。儒家の

 

正名思想は、名を正す、すなわち、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、その

 

道徳的責務を追及するという意味だが、『正名論』では、名分、すなわち、君主の

 

名と上下の分という差別的原理を強調することに焦点が置き換えられている、と

 

されている。この上下の秩序の絶対性は、日本では万世一系の天皇の地位を何者

 

も侵さないという事実の中に表現されており、「上、天子を戴き、下、諸侯を

 

撫する」「覇王の業」として実現されている。『正名論』が尊皇思想の書である

 

のは、こうした上下の秩序の絶対性の表象としての尊皇という意味においてであり、

 

「幕府、皇室を尊べば、すなわち卿・太夫、諸侯を敬す」と、身分制規範を

 

それぞれの身分に相応しく遵守するところに、尊王の意味が込められている。

 

尊王と現存秩序への恭順を結びつけるこのテーゼは、幕末政治史の激動を眼前に

 

する頃の水戸学では、『正名論』にもまして強調された。(中略)

 

だが、幽谷の思想の他の一面は、学問と政治を統一させ、直言して憚らない

 

剛直な実践性にあった。(中略)

 

幽谷はもとより儒学者ではあったが、その儒学には「変通神化の道」も

 

含まれており、諸子百家にならって「陰謀秘計」を用いて良いのだという。

 

自己一身だけを清廉にするような道徳主義よりは「酒を混えて豪放し、

 

狂生と称する」方がずっとよく、・・・

 

自分は「狂書生」で「規に従い矩を踏むの醇儒にあらず」と、据傲な矜持の

 

姿勢をとった。

 

狂や愚は、幕末期の志士たちが好んで用いた自己規定で、成否を顧みず逸脱者

 

たることを恐れずに奮闘することを意味していた。

 

藤田東湖が、論語に言う「狂狷」をたたえて「狂狷は国の元気」という意味も、

 

(うわべだけの道徳家でなく)大志を抱いてひたむきに生きる人間」のことで

 

ある。(中略)

 

文化文政期の水戸は、武士も遊芸を楽しむのんびりした社会で、緊縛した

 

議論をしているのは、藤田派などの志士的な人々に限られていた。ところが

 

(名君のようでもあり、半気狂いのようでもあると言われた型破りの)

 

徳川斉昭が藩主について天保改革を始めると、藩士の気風がすっかり変わり、

 

人材登用は加禄減録と結びついて利害が絡み、激しい「党争」が始まった。・・・

 

1855年に東湖が死ぬと、憎悪と血讐の凄まじい悪循環となって、水戸藩は多くの

 

人材を失い勢力を失墜させた。

 

(会沢正志斎によって1825年に記された『新論』は水戸学を代表する著作で

 

あるが)幕末の対外的危機は、18世紀末に帝政ロシアによる北方問題として

 

始まったが、この頃にイギリス・アメリカなどを含むより一般的なものとなり、

 

アヘン戦争を機に一層切迫化した。こうした状況に対処しようとする危機意識

 

の特質を表現した代表作として、『新論』に言及してみよう。

 

『新論』は、「謹んで案ずるに、神州は太陽の出るところ、元気の始まるところ

 

にして、天日之嗣(天皇)、世宸極を御し(いつでも皇居に居て)終古かわらず、

 

もとより大地の元首にして、万国の綱紀なり」という荘重な宣言で始まる。

 

すぐ続いて、身体のアレゴリーを用いて、日本は天に近くてこの地球上では「首」

 

(頭)にあるから、幅員は小さいが、万世一系の天皇の存在において世界に

 

秩序を与え、「万方に君臨する所以(ユエン)」を表しており、西洋諸国は

 

「股脛に当たるから、移動に巧みで、船舶を走らせて世界各地に赴き、

 

アメリカ州は背中に当たるから、なすところがなく民は愚かだ、などという。

 

世界は、身体の寓喩で表現される一つの秩序なのだが、それが秩序たり得ている

 

のは天に基づくコスモスだからで、「万物は天に基づき、本は祖に基づきて、

 

体を父祖に承け、気を天地にうけて」いる。この「気」は「天地の心」でも

 

あるが故に、人間に内在してその「心」でもある。だから、人は「天地の心」

 

であり、「心」を純一で活動的にすることで、大きなエネルギーが生まれる。

 

「太陽の出ずる所、元気の始まる所」である日本こそ、こうした活力に満ちた国で

 

ある。・・・(この説は)むしろこの天の神道神霊説の一種といって良いほどに

 

宗教化しているのがこの場合の特徴で、会沢正志斎も「天の神道」と称している。・・・

 

 祭祀儀礼の間に神と人が「相感応」して、人は天の精気を受けるのだという。

 

(『新論』の国体論では)祭祀の頂点には大嘗祭が置かれている。

 

そして、天皇は大嘗祭を経ることで、「天祖の遺体を以って、天祖のことに

 

あたる」ようになると言うのだから、天皇は天照大神と一体の現人神となる

 

わけである。・・・

 

 

🦊‘ここまで読んで狐はゲッと驚いた。単なる稲の豊作感謝祭だと思っていたら、

 

違うんだ。右翼諸氏が「大嘗祭は欠かせない」と言うわけがわかった。

 

現人神ね〜え。

 

日本憲法には天皇は人間であると書いてあるんだけど。ま、先を読んでみよう。

 

 

「ところで、(この天の神道が説く祭祀を通じて実現される)神儒一致的秩序が、

 

時世の変化とともに邪説の害によって乱れてきたと言うのがその危機意識で

 

あって、まず仏教、とりわけ一向宗に向けて批判がなされ、ついで対外的な

 

危機意識をキリスト教による民心煽動の危機として捉えることで、一挙に

 

窮迫的な内実で表象された。(すなわち、欧米列強の侵略において、民衆は

 

死を恐れずに勇猛に戦い、死を名誉とし、また資産家は資産をキリストに

 

捧げ、以って兵を賄う。・・)民衆は愚かではあるが、一旦民心を捉えた

 

宗教が、権力の立場からしてどんなに厄介なものかと言うことは、

 

一向一揆の歴史にも表現されているし、不受布施派、蓮華往生、富士講

 

などの眼前の事例にも明らかな事実なのである。(中略)

 

 『新論』のこうした危機意識は、一面では、島原の乱や一向一揆などの歴史的

 

経験に基づいているとはいえ、他面ではむしろ、神威とそれに呪縛

 

された民心がやがてこの世界の秩序を転倒させるという形で、体制的

 

危機意識とでもいうべきものが構成された・・

 

 1862年、菅野八郎は(安政の大獄による)流罪先の八丈島から家族に

 

当てて「子孫心得のこと」を書き送っているが、これは「キリシタンに

 

陥るな」というものだった。例えば人をたぶらかして金銀を貪ることや、

 

スリ・盗人は、キリシタンの「魔法の第一」であった。(そして、

 

キリシタン的なものと言ってもそれは各自のうちにある反秩序的なもの

 

全般のことであり、それは例えば怠けて朝寝をする、甘味を食し、

 

美麗を好み、働かず、無闇に金を欲しがるなど、皆これ魔法キリシタン

 

の類である)

 

(このような形でその時代の人々の心に繰り返し訴えかけ、内心に

 

芽生え始めた不安や恐怖を鎮めるのに最もふさわしいのは、目に

 

見えない神威の世界であった)。

 

『新論』の最終章「長計」も、死後に祀られない「遊魂」が

 

「変をなす」のだとして・・この世界に秩序と安定を与えようとする

 

論理だったと言える。・・・

 

『新論』は最後に、天地も人も「活物」であって、変通きわまり

 

ない、瞬息のうちに変通に対応することで、広範な人々の活気を

 

動かすことができるとして、状況の可変性と流動性を強調し、

 

「その時に望んで難を解き変に処する所以」は「その人」(天皇)

 

による、と述べている。

 

水戸学は、身分制秩序を絶対化して「かい乱の罪」(秩序を乱す罪、か🦊)

 

を犯すべからずとしたけれども、「活気」を動かすことで時代を動

 

かすことができると信ずる「かい乱」の「英雄」を歴史の舞台へ

 

呼び出してしまったと言えよう」。

 

🦊:この英雄が誰であるか、それは次の章を読めばわかる。

 

 

 

p141ーー第5章ー政治カリスマとしての天皇

 

絶大な権威と威力をそなえた天皇像とその元で実現せらるべき新政に

 

ついて、最初にまとまったイメージを提示したのは、真木和泉である。

 

久留米水天宮の祠官の家に生まれた真木は、江戸と水戸に遊学して、

 

相沢正志斎の影響を受け、藩政改革に失敗して幽閉されたが、のちに

 

脱藩し上京して尊皇攘夷運動の指導者となった。「経緯愚説」(1861年)

 

は、真木の構想をまとめて述べた綱領的文献である。同書はまず、

 

「宇内一帝を期すること」と、天皇の世界支配の使命をのべ、「威権常に上

 

に在って」、「大事はことごとく御自ら英断まします」、能動的政治主体

 

としての天皇の登場を求めた。・・

 

攘夷についても、天皇が先頭にたって、錦の御旗を翻し、「おのれ憎き禽獣め、

 

一人にても逃さじ、と進みたまわせなば」、兵粮、軍用金、武器などが

 

足りなくとも士気が揚がり、このように人気が一度奮い起こされ、

 

死に物狂いになるうちには、知恵才覚ある人も出て、種々の謀計を運らし、

 

防御の策も意外にできる」ものなのである。・・(中略)

 

真木によれば、天地は生々を以って徳としているのに、仏教徒キリスト教は

 

「寂滅」を以って教えをたてている。これに対して、「宇宙間尽く生々の道に

 

立ちかえる」ようにするするのが天皇の使命であり、天皇がその役割を果たさ

 

なければ「天地もそれまで」となる。

 

この世界には「勢」と言うものがあるが、それは「不意に天運に生ずるもの」

 

であり、その「勢」を天皇が捉えて、「今一層吹き立て

 

煽り立ててゆけば、「勢」は「益々盛ん」となる。・・

 

真木は、こうした政治構想に安易な見通しをたてていたのではない。・・

 

真木は、戦闘の経験が豊富なことなど、列強の方が我が国に優る点を10箇条に

 

わたって列挙しながら、しかし我が国にはただ一つだけ優れたところがある、

 

それは「志尊(天皇)の聡明叡智英烈勇武」たることで、それによって列強の

 

10箇条の優位性に対抗できるのだ、と述べた。

 

 一見狂信的非合理的にしか見えないこの確信は、よく考えてみると、状況を

 

流動化させ、また潜在的な社会的政治的活力を調達する上での転回軸となった

 

ものである。こうした幻想的形成力がよく現実というものに拮抗しうるところに、

 

変革期というものの特徴があるのだと言えよう。・・ここで真木が述べている

 

ことの実際的な意味は、天皇の率先した行動や攘夷の決行によって、天下の士気

 

が奮い立ち、億兆の民も、「欣喜雀躍」して国難にあたるようになるという

 

ような精神的状況が成立して、それが支配的になってゆけば、政治的には極めて

 

弱小な基盤しか持たない真木たちの立場を埋め合わせて、状況突破の手がかりを

 

作り出せるはずだということであり、イデオロギーというものが果たす現実的

 

役割の重要性である。一見、狂信・独断と見える真木の思想には、徒手空拳、

 

よく歴史に挑んだ人の冴えがある、と私は思う。」

 

 文久期の攘夷運動は、「天誅」の威嚇によって既成の諸勢力に迫り、激派志士

 

と一部少壮公家が朝議を左右するようになった。幕府の京都への支配力が失われ、

 

薩、長、土など諸藩の勢力が伸長して、文久期の京都は、江戸に対抗して政治の

 

中心地の様相を呈していた。1863年3月には、将軍家茂が239年ぶりに上洛

 

(京都入り)して、幕府は5月10日を以って攘夷期限とすることを布告した。

 

(朝廷、幕府、諸藩の権威と権力の)名目や建前と実際上の力関係とが複雑に

 

交錯して、権謀術数が渦巻く状況が作り出されていたわけである。(詔勅の真偽

 

をめぐって争い)天皇の意思と称するものを自派の都合に合わせて勝手に操作

 

することは、志士たちにはおそらく自明の戦略だった。・・守旧的な政治意識の

 

持ち主であった孝明天皇が1866年12月に死んで、まだ何の政治的識見も

 

持ち合わせていない若い天皇が即位したことは、尊攘・討幕派によって天皇の

 

意思と称するものが自由に操作しうるようになったことを意味しており、そのこと

 

自体が明治維新という政治改革の一つの前提であった。孝明天皇は毒殺されたと

 

いう風聞が絶えなかったのも、当然のことだったと言えよう。

 

p176ーー維新変革の正統性原理

 

明治維新が、天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」、「玉を奪ふ」などの露骨な

 

隠語で、天皇を権謀術策の手段としたことはよく知られている。・・誰も表向き

 

には反対できない超越的権威としての天皇が前面へ押し出され、権威に満ちた

 

中心が作り出されなければならなかったのである。その間の事情をうかがう

 

ために、ここでは周知のエピソードを取り上げてみよう。

 

(王政復古の大号令が発せられた1867年12月9日深夜、天皇の面前で小御所

 

会議が開かれた。既に大政奉還した徳川慶喜の参加をめぐって2派に分かれた

 

対決の結果、岩倉具視や薩摩藩が維新変革の主導権を握ることになり、慶喜に

 

辞官衲地を求め、また天皇は不世出の英財であるとし、王政復古の大業は全て

 

天皇の意思によるものと決定した)。

 

しかしここで奇妙なのは、岩倉によって不世出の英王であり、王政復古の大業

 

は全てその判断によっているとされた天皇は、実際には白く化粧し描き眉をした

 

15歳の少年であり、まだなんの政治的識見や判断力ももっていなかったという

 

ことである。(天皇は翌年に元服し、成人の印にオハグロをつけた)現実の

 

天皇がそのような存在であること、天皇の意思とされていることは政治的実権

 

を掌握しようとしている人々の意思に他ならないということは、誰でも知っていた。

 

(だから、越前藩の松平慶永や土佐藩山内豊信は慶喜の会議参加と、将来の

 

西欧諸国の立憲制度を真似た政治体制の構築を望んだが)しかし、岩倉の

 

居丈高の罵言が山内を圧倒してしまい、歴史は新しい門出をしたのである。

 

 だが、天皇の至高の権威性を正面に掲げるといっても、それが白粉に眉ずみの

 

15歳の生身の少年にふさわしくないことはいうまでもない。天皇の権威は、

 

個人カリスマとしては不在だから、伝統カリスマとして根拠づけられる必要が

 

あり、そのためには天照大神以来の聖性の継承や祭政一致を通して、天皇の

 

神権的権威性が強調されなければならなかった。幕末の神祇官最興論は、

 

必ずしも政治的な変革プランと結びついていなかったが、66年には、天皇の

 

神権的絶対性に正当性の根拠をおく岩倉たちの構想の中に組み込まれ、その後の

 

歴史に大きな影響を与えた。幕末の政治過程では傍流に過ぎなかった国学者や

 

神道家が急遽登用されて、明治初年の宗教政策を推進することになったのは、

 

彼らの神道説と国体論に、維新政権の指導者たちの必要とする天皇の絶対的

 

権威性の弁証が求められたからだった。

 

 こうして、国学者や神道家に想いもかけないほどに大きな活躍の舞台が与え

 

られることになったのだが、この時期の平田派などの神道説が、神霊の実在観

 

と結びついた宗教性の濃厚なものだったことは、留意すべき点である。(中略)

 

683月の祭政一致・神祇官再興の布告は、全国の神社と神官が再興された

 

神祇官に付属すると定めた。これは王政復古の沙汰書を神道中心主義的な方向へ

 

発展させたもので、この布告の翌日に、開明的性格の強い5箇条の誓文が発布

 

されたことは、一見、平仄が合わない矛盾のように見えるかもしれない。

 

しかし、この疑問は、5箇条の誓文の発布の儀式に注目することで解消される。

 

福岡孝弟の原案では、「上の事務所」において将来の政治方針たる国是5箇条を

 

天皇と総裁・議定・諸侯とが「誓約」するというものであったが、それでは

 

神武天皇の昔に帰り天皇が万機を親裁するという理念に反するとされ、紫宸殿に

 

神座を設け、天皇が「公卿・諸侯以下百官を率いて親ら天神地祇を祀」って、

 

その前に国是を誓い、速やかに天下の衆庶に示すという形式が採用された。

 

誓文の内容が、公議政体論を拠り所にした列侯会議的なものから、より近代的

 

な国民国家的なものへと改められると共に、発布の形式は祭政一致の理念に

 

相応しく、神道式に作り直されたのである。この日、副総裁三条実美が神座に

 

祭文を奏した後、天皇が神前に進んで神拝して幣帛の玉串を供え、ついで

 

三条が誓文を読み上げ、その後、三条以下が神座と玉座を拝して、聖旨奉戴の

 

奉答誓約書に署名した。三条以下の拝礼と署名は、公卿・百官・諸侯の天皇に

 

対する服属儀礼を意味しており、天皇は、天神地祇に基づいた神権的統治者と

 

されているのである。

 

また、同時に出された宸翰は、天皇の使命について、「今般朝政一新の時に

 

あたり、天下億兆一人もそのところを得ざる時は(身分に従って安らかに暮らせ

 

ない時は)皆朕が罪なれば、今日の事、朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の

 

先にたつ」と、能動的な君主像を強く訴えている。その際、「天下億兆一人も

 

そのところを得ざる時は皆朕が罪」と、天皇の責任を強調しているのは注意したい

 

点で、これはおそらく岩倉の発想であろう。・・・

 

 だが、リアルに見れば、どう見ても、薩長と一部公卿が、幼い天皇の名に隠れて

 

政権を横奪したのである。外国との「和親開市」をもって幕府を攻撃した者が、

 

政権を握るや否や外国におもねってその使節を宮中に招き入れたり、「口論」を

 

持って「罪案」を決し、然るのちに兵を動かすべきところ、旧幕府を恐れて

 

私怨を晴らすために東征の兵を進めるなど、「黄巾赤眉」にすぎるほどの混乱

 

ぶりだなどと、奥羽越列藩同盟の「討薩檄文」が憎悪感を剥き出しにしている

 

のも、もっともなことである。

 

新政府は内外の諸勢力に侮マンされて、「天下人心、政府を信ぜず、怨嗟の声

 

路傍に喧しく、直ちに武家の旧政を慕うに至る」というのが、8970年ごろの

 

情勢であった。

 

 p 186ーー神道国教主義の展開

 

明治初年の祭政一致の神政国家的観念や神道国教主義は、今日から見れば

 

時代錯誤の独善にしか見えないかもしれないが、それはむしろ、内と外から

 

迫り来る危機についてデマゴギー的に訴えながら、天皇の神権的権威性を

 

中心に据えて新しい国家統合を実現しようとする大胆な実験だったと考えたい。

 

こうした実験が、現実の歴史過程においては、政治上の様々の要請・便宜や

 

力関係、また宗教社会史的な現実状況に規定されて、ジグザグの運命をたどり、

 

必ずしも政策立案者のイデオローグの意図に沿ったものにならなかったのは、

 

当然のことである。むしろ、明治初年の神政国家的観念や神道国教主義は、

 

仏教勢力の抵抗や文明開化の時代思潮の中で大きく後退して、近代日本に特有

 

の「信教の自由」に道を譲ったと言えるのだが、しかしそれでも、天皇の

 

天照大神以来の神聖な一系性によって根拠づけ、この権威ある中心を

 

アルキメデスの支点にして国民国家としての統合を実現してゆくという

 

大枠は完徹された。」

 

 

 

*************************

 

 

🦊:キツネが思うに、江戸時代300年の「太平の眠り」の間に、

 

「そのところ」、つまり身分制差別構造はしっかり日本人の心に

 

 染み付いた。もう一つ、「その人」は、現実としては武家身分中の

 

実力者徳川であり、そこに神も天も顔を出さなかった。なのに、

 

突然「天照大御神以来の一系性」などと、(イスラムで言えば、ムハンマド

 

の直系子孫の証として黒の帽子を被れる指導者)訳のわからんことを

 

言われても、「だから何だよ」と、最初、庶民は思ったに違いない。

 

大規模な内戦もなく、穏やかに「国民国家」に変身することができた国日本、

 

というプラスの評価がこのところ出てきているらしいが、国民国家は名ばかりで、

 

相変わらず士農工商の身分制度はしっかり生きている。経済相のいう

 

「トリクルダウン」とやらは、上(金持ち企業兼大規模投資家)が儲けたら、

 

少しばかり「下々」にも分けてやる方式だそうだが、今回のコロナ災害で、

 

やっぱり一杯飲み屋が一番下で干上がっているらしい。気の毒だ。

 

なのに、売り上げ倍増の企業もあるし。

 

 そして、この「国民国家としての統合」の害悪は、何といっても

 

「日本は世界一エライ民族」という「大海を知らないカエル」が見た夢

 

のような内容だ。水戸学とは何か、キツネは初めて知ったが、弓矢や刃物

 

での斬り合いをやめた武士どもが、何とかこの国の身分制社会を「安心、

 

安全に」、しかも自分が責任を取らずに、見た目は近代的なそれらしい政治体制

 

を取り入れつつ、維持してゆくには、どうしたらよかろうか、と考え出したん

 

だろう。東條英機大将は言ったそうだ。「日本は神の国だ。負けるわけがない」と。

 

また今になって、「日本は侵略なんかしてない。アジアを救うツモリだったんだ」

 

とか言いふらすニセ学者も結構多い。要するに水戸学は「無責任の学」だと

 

キツネは思う。あのヒトラーでさえ、最後はピストルで自殺した。

 

(間違えないで欲しい。天皇には責任はない。全責任を押し付けられている

 

だけだ。責任を取るべきは、侵略戦を始めた政治家と軍と財閥だろう)

 

もう一つ、「万世一系」がなんでそんなにありがたいか?

 

 「長期政権」がなんでそんなにめでたいか?どちらにも新鮮な血が必要だろう。

 

 

話は変わるが、今朝新聞を取りに出たら、おじいさんが威勢よく

 

「マーモルもセメルもクーロガーネーのおー」と歌いながらゆく。

 

後から老犬が(もう目も見えないらしい)とぼとぼと続く。

 

この曲はウオーキングに適している。むかし、ぼくらは前奏として

 

「ジャンジャンじゃがいも、さつまいも!!」とはやしたもんだが。

 

 2021  6  21

 

 

 

 

 

三流の維新    一流の江戸  原田伊織著

 

2016年 ダイヤモンド社 刊

 

 

p133ー腐敗しきった三流の明治近代政権

 

明治維新絶対主義者とも称すべき司馬遼太郎氏は、「明治という国家」に

 

おいて、次のように語っている。ーー「明治はリアリズムの時代でした。

 

それも、透き通った、格調の高い精神で支えられたリアリズムでした」

 

 

また「明治は清廉で透き通った“公“感覚と道徳的緊張=モラルを持って

 

いた」とも言い切る。

 

私は、これには異論がある。公感覚とかモラルということについて

 

言えば、新政府のリーダーに成り上がった開化主義者や新しく

 

生まれたエリート層が、江戸期武家社会の倫理観や武家らしい佇まい

 

というものからはほど遠かったということをはっきりと申し上げて

 

おきたい。

 

 

そもそも明治政府とは、「王政復古」をスローガンとしているが、

 

(その目的は倒幕であって、)「復古」は目的を達成するための

 

思想的手段であったはずなのだ。ところが、あまりにも激しくこれを

 

囃し立てているうちに気分が高揚し、手段の域を越えてしまい、

 

目的をすらぐらつかせた局面が出てくるほどに、彼ら自身が錯乱

 

してしまうのである。

 

復古、復古というが、では一体どこへ復古するのかと問えば、それは、

 

律令の時代、すなわち奈良朝あたりであるとしか考えられない。いや、

 

彼らは実のところは古代、もっと言えば神代の時代に復古したかった

 

のである。この時期喚かれた復古という主張の愚かしさを示す

 

「天誅組の変」という、実に無意味な騒乱があった。(🦊注:1863年、

 

真木和泉という狂気の王政復古主義者の発議により、長州激派が、

 

三条実美などの長州派公家を操って発した偽勅で、孝明天皇が大和へ

 

行幸、神武天皇陵を参拝し、「攘夷断行」「天皇親政」を宣言する

 

という筋立て。

 

それに呼応して、志士気取りの“跳ね上がり集団“約40名が大和で挙兵し、

 

天皇の一行を迎えるという)天誅組は、南大和7万石を管轄する代官所

 

(五条陣屋)を襲撃。代官の鈴木源内以下を惨殺した.

 

要するに、旗揚げの血祭りとして、「幕府代官の首」が必要だったわけ

 

だ。

 

代官の鈴木源内という人は、領民からの信頼も厚かった人物である。・・

 

襲われた五条陣屋は、小者を含めて20名前後の兵力しかなかった。

 

しかし、この規模は、何も五条陣屋に限ったことではなくて、

 

天領を管轄する代官所というものは、だいたいこのような規模で

 

あった。この規模で、行政全般、司法のみならず、もっとも重要な

 

防衛を全て担当するのである。・・

 

天領には「サムライ」の数が極端に少なかったがそれで済むほど平和で、

 

平穏な土地であったということだ。・・・

 

「天誅組の変」とは、ひたすら御料地(天領)の平穏のみを願っていた

 

善政家鈴木源内以下の五條陣屋を一瞬にして地獄に落としただけの、

 

無意味なテロであったにすぎない。五條市は今なおテロリスト

 

(乾十郎、井沢宜庵、森田節斎)を顕彰しているということである。

 

こういう事実も、現在が依然として薩長政権の時代であることを如実に

 

示している。五條という地域社会への貢献を顧慮して顕彰するならば、

 

まずは代官の鈴木源内ではないだろうか。この際、五條市は五條市で、

 

“あてがわれた歴史“を廃し、自ら能動的に五條の歴史を検証すべきでは

 

ないだろうか。(中略)

 

 

p119 明治復古政権は、確かに腐敗していた。

 

成立時から前期は、特に汚濁に塗れていたと言っても過言ではない。

 

関ヶ原の怨念に突き動かされて、なんの国家ビジョンも描かず、いや、

 

描けず、ただ朝廷=天皇を道具として利用して、倒幕のみに突っ走って

 

きたわけであるから、仕方がないと言えば甘すぎるかもしれない。

 

しかし、実態はそれ以上のものは何もなかったのである。

 

いくつかの新政府の腐敗の実態を挙げておこう。これらは、今日の

 

政治家や企業人の腐敗、倫理観の欠如のルーツであるという点で、

 

特に重要な史実である。

 

 

山城屋和助事件という典型的な汚職事件があった。単なる汚職事件

 

というより、陸軍省疑獄とでも呼ぶべき醜悪な事件であった。

 

山城屋和助、元の名を野村三千三(みちぞう)といい、長州奇兵隊の

 

幹部であった。つまり、山縣有朋の部下であった男である。

 

御一新後、野村は山城屋和助と名乗り商業を生業とし、山縣の引きで

 

兵部省御用商人となる。山縣が、山城屋からの軍需品納入に便宜を図り、

 

たちまち財を成し、豪商と言われるまでにのし上がった。

 

これによって、山縣自身も財を成したことは言うまでもない。典型的な

 

癒着である。山縣だけでなく、長州閥の軍人や官吏の遊興費は山城屋

 

持ちであったという。そのうちに山城屋は、生糸相場にも手を出し、

 

その資金を兵部省が改組された陸軍省からなんの担保も出さずに

 

引き出したのである。その額なんと15万ドル。全く、稚拙な漫画のような

 

話である。卑しくも国庫であり公金であろう。国家というものを私有物の

 

ように扱っていた長州人の感覚とは、それほど未熟であり、それこそ

 

未開であったのだ。

 

ところが、ヨーロッパの生糸相場が暴落、山城屋は投機に失敗した。

 

これを取り戻そうとして、山城屋は再び陸軍省公金を借り出したのだが、

 

総額は日本円にして649000円余とも80万円とも言われている。

 

これは、当時の国家歳入の1%強、陸軍省予算の1割弱に当たる、途方も

 

ない金額である。山城屋は大金を持って渡仏したのだが、損失の挽回を

 

図ったかといえば、全くそういう行動は取らなかった。では、どうしたのか。

 

連日連夜、パリの歓楽街で豪遊したのである。時は明治5年である。

 

この時代、パリではまだ珍しい日本人が連夜に亘って豪遊すれば、当然

 

目立つ。たちまち、フランス駐在弁務使鮫島尚信がこれをキャッチした。

 

そればかりではない。イギリス駐在大弁務使寺島宗則も、ドーバー海峡

 

の向こうの大陸で噂になっているこの日本人の情報を掴んだ。二人から

 

本国の副島外務卿にこれが報告されたのである。国内でも山城屋と

 

陸軍省の汚い関係が放置されたわけではない。陸軍省会計監督

 

種田政明(薩摩出身)が密かに調査、その結果を同じ薩摩出身の

 

陸軍少将桐野利秋に報告、ここでこの癒着関係は一気に表面化した。

 

近衛兵を中心に山縣有朋陸軍大輔の責任を追求する声が沸騰、

 

追い詰められた山形は、辞表を出さざるを得なくなったのである。・・

 

西郷は、山形を陸軍大輔に専念させることとし、自らが陸軍元帥・

 

近衛都督に就任することによって、山形の政治生命を救ったのである。

 

山城屋和助は急遽パリから呼び戻されたが、既に返済能力もなく、

 

証拠書類を全て焼き払った上で、明治51229日、陸軍省の一室で

 

割腹自殺を遂げた。

 

 

p122 「尾去沢銅山事件」も、これまた長州閥による絵に描いたような

 

権力犯罪であった。大倉大輔井上馨(聞多)が官権を悪用し、民間人から

 

銅山を強奪するという、露骨と言えば露骨すぎる犯罪であった。伊藤博文

 

とともに新政府きっての女癖の悪い井上と言う男は、金銭欲も激し

 

かった。

 

高杉晋作の子分として走り回っていたが、まるで女と金を求めて動乱の

 

時代を疾躯していたかのような印象がある.

 

そもそも井上を大蔵大輔に任命するなどという人事は、まるで盗人に

 

財布を預けるようなものであって、新政府、特に長州閥の性格を

 

よく表している。

 

・・大蔵大輔時代は「今清盛」と言われていたほど、権力によって

 

財をなすことに執着が強かったようだ。この事件が表沙汰になった

 

時の大蔵卿は大久保利通であったが、彼は岩倉使節団として外遊中で

 

あり、留守政府の大蔵省は井上が私物化していたと言っても過言では

 

ない。

 

南部藩は、御用商人村井茂兵衛から少なくとも55千円という多額の

 

借金をしていたが、当時の習慣によって証文には「奉内借」(内借し

 

奉る=藩への貸付金が一部でも返却された場合に提出する武家と

 

町民の間の儀礼的文言)とあった。いくら井上といえども、

 

その程度のことはわかっていたはずである。ところが井上は、

 

これを「村井が藩から借財している」として即時新政府への返却を

 

命じたのである。いきなり新政府へということ自体非論理の極み

 

であるが、このとき、井上に指揮された大蔵省は、村井の釈明を一切

 

聞かず、強引に村井の債務だとして返済を迫ったのである。実に稚拙な、

 

かつ官権を悪用した露骨なやり口である。

 

藩への貸付を逆に藩から借金したことにされてしまった村井は、

 

年賦返還を願い出るが井上はそれも拒否、尾去沢銅山を没収してしまう。

 

日本近代史の研究家毛利敏彦氏は「明治6年政変」において、以下の

 

ように述べている。

 

ーーやむをえず村井が年賦返済を嘆願すると、それを拒絶して理不尽にも

 

村井が経営している尾去沢銅山を一方的に没収した。旧幕時代にも例を

 

見ないほどの圧政と言えよう。村井は、銅山経営権を入手するために

 

124800円を費やしていた。ここに、村井は破産同然となった。

 

大蔵省の強引なやり方を見ると、藩債返却云々は口実で、当時から

 

尾去沢銅山の没収を狙っていた疑いが濃いーー

 

尾去沢銅山を没収した井上は、工部省小輔山尾庸三に命じて、これを

 

井上家出入りの御一新後の成り上がり政商岡田平蔵に払い下げさせたの

 

である。その条件は、払い下げ金36800円、しかも15年賦、無利子と

 

いう無茶苦茶な好条件であった。

 

井上は、大蔵大輔辞職後の明治68月、尾去沢銅山を視察、この時の

 

視察費用も岡田が負担したことは言うまでもない。そして、現地に

 

「従四位井上馨所有地」という立て看板を掲げるという、厚顔無恥な

 

振る舞いを行っている。・・尾去沢銅山を所有したとするなら、井上は

 

それを入手するについて、一銭でも身銭を切ったか。否であろう。・・・

 

言うまでもないことかもしれないが、井上も岡田も、そして、協力した

 

工部省の山尾も長州人である。

 

まるで観光旅行のような「岩倉使節団」として外遊していた木戸孝允は、

 

勝手に遅れて帰国した早々、井上の救済と事件揉み消しに奔走することに

 

なる。帰国3日後には長州閥の子分井上の自宅を訪問、渋沢栄一を交えて

 

事件揉み消し工作を談合している。

 

動乱の時代に「逃げの小五郎」と言われた桂小五郎は、御一新後、

 

木戸孝允と名乗る、西郷、大久保と並ぶ“大物“となったが、彼が

 

「岩倉使節団」参加を強く希望したのも、内政からの「逃げ」であった。

 

生まれたばかりの新政府は、さまざまな難関を抱えており、内政に関わる

 

のが嫌になったのである。御一新後、彼がやったことといえば、最も

 

精力的に動いたのが長州閥子分たちの不始末を揉み消すことであった。

 

山縣・伊藤・井上たちは、皆、木戸の子分であって、親分木戸は、

 

子分の犯罪について全くその理非を問わず、ただ子分であるという

 

だけですぐ事件揉み消しに走っているのである。・・これではまるで

 

ヤクザの世界同様であり、明治長州閥というものが如何に醜悪な集団で

 

あったかを想うべきであろう。

 

 

小野組転籍事件」と言う、これも木戸が子分救済に夢中になった

 

事件がある。舞台は京都。主役は、京都府参事槇村政直、のちに男爵、

 

元老院議官にまで上った長州閥の大物である。被害者は、三井などと

 

肩を並べる江戸期以来の豪商小野組。その他、井上、木戸も絡んでいる。

 

小野組の本拠地は、京都であったが、御一新後、東京が首都になり、

 

小野組の商売も東京が中心とならざるを得なかった。そこで、

 

明治6年に小野家は東京へ転籍を願い出たのだが、京都府はこの願書

 

受理を拒否した。理由は明白である。

 

 当時の新政府地方官は、一言でいえば、天下が薩長のものになって

 

己が旧大名に代わって新しい大名になった程度の認識しか持って

 

いなかったのである。そこで、公的な税金(公租)以外に臨時の

 

金を豪商に出させることが当たり前のように行われていたのである。

 

この金は、参事やのちの県令を中心とした地方官の懐に入るのだ.

 

問題は、槇村が木戸の懐刀であったことだ。木戸の政治資金は、

 

ほとんど京都府から出ていたと言われる。・・木戸が京都の屋敷を

 

入手するとき、それを担当したのは小野組である。さらに、

 

小野組は三井の商売敵、三井といえば井上であり、井上も木戸の

 

子分である。西郷が、井上に面と向かって「三井の番頭さん」

 

といったことは、あまりにも有名な話だ。槇村、井上としては、

 

京都府の金ズルである小野組の転籍を認めるわけにはいかず、

 

小野家当主を白洲に引っ張り出して、転籍の断念を迫るなど、京都府

 

自らさまざまな迫害を加えたと言われる。

 

 

(たまりかねた小野家は、当時注目されていた「司法省通達第46号」

 

を頼って、京都府を訴えた。司法卿江藤新平は、明治期には稀有の

 

法治主義の鬼であり、司法省官吏は江藤から「司法権の独立」と言

 

う概念について徹底した教育を受けている。この事件は行政訴訟から

 

刑事事件へと発展し、ついに、京都裁判所は、司法省に対し、

 

槇村政直の拘禁を命じた。)

 

これについて毛利氏は面白い表現をしている。

 

ーー京都府にとっては、習慣通りに人民を抑圧したにすぎない軽い事件の

 

つもりであったが、人権を標榜する裁判所の意外に強硬な態度に

 

ことの重大性を悟ったーー

 

木戸は、こういう子分の不始末に振り回されることになる。

 

新政府で唯一の理論家であり、近代人であった江藤の作った裁判所は、

 

一般市民にとっては人権の最後の砦であったが、新政府官員にとっては

 

邪魔者であったのだ。

 

これらの醜悪な犯罪が問題となった時期は、先に述べた「違式註違条例」

 

(🦊:例えばちょんまげ禁止令、反対に女性の断髪禁止令=丸髷の奨励、

 

また地方では「他人の持ち場に入り筍あるいはキノコ類を断りなく

 

取り去る者」のような、細部にわたる庶民生活の規制、「外国人の

 

目線を意識した」禁止令など)が施行され、「文明開化」の大号令の

 

中、庶民がこれまでの風俗まで「野蛮だ」「非文明だ」と決めつけ

 

られて西欧化を強要されていた時期と重なる。

 

実態は、(江戸文化と幕府を時代遅れと批判し、破壊しようと目論んだ)

 

長州人を中心とした新政府首脳は、残念ながら三流の政権と位置付け

 

ざるを得ないであろう。単に西洋にかぶれることを近代であると

 

錯覚するようなレベルの明治近代政府に比べれば、どこまでも

 

オリジナルな価値観を貫き、徹底していくさと言うものを許さない

 

社会を構築した江戸政権とは、世界史的に見ても一流であったと

 

評価せざるを得ないのだ。

 

 

p146 元和偃武(えんぶ=武器を収める)

 

 

(薩長政権がクーデターによって幕府を倒してからの時代を「近代」

 

などと呼んでいるが)近代と呼ばれる時代は、たかだか150年程度の

 

時の流れしか経験していないが、近世は、江戸時代だけでもそれより

 

100年以上長かった。そして、元和年間以降は対外戦争はもちろん、

 

国内においても一切いくさと言うものを許していないのである。

 

具体的には、「大坂夏の陣」で豊臣宗家を倒すと、江戸幕府は元号を

 

「元和(げんな)」と改めた。元和という言葉そのものが、

 

「平和」を意味する。これは、ようやく長い戦乱に終止符が打たれ、

 

ここから天下は平和に向かうという、幕府が天下に発した「平和宣言」

 

であった。歴史的にはこれを元和偃武と呼んでいる。

 

つまり、戦国期の150年と戦乱の150年に挟まれた時代が、江戸という

 

稀有な「平和が持続した時代」ということになるのだが(それ以前の)

 

戦乱の時代があまりにも過酷であったが故に、人々の平和を希求する

 

気持ちが強烈に膨れあがり、何が何でも平和を、という気分が社会の

 

隅々まで染み渡ったと見ることができるのである。この、もう戦争は

 

嫌だ、もういい加減にしてほしいという、戦国末期の時代の気分と

 

いうものを、私たちは可能な限り洞察しておく必要がある。

 

そのために、戦国社会の実相の一端に触れておきたい。

 

 

 

(🦊:戦国期の合戦に参加していたものは、1割程度の武士以外は

 

侍も下人もほとんどが百姓の出であり、実際の戦闘に参加するのは

 

武士と侍までで、下人の仕事は、馬の口をとって主人の戦闘を助け、

 

また物資の運搬に当たった。=本書より)

 

さらに、戦国期の合戦には意外に傭兵が多いのだ。気候が寒冷化し

 

たこともあって、世は凶作、飢饉の連続であった。合戦で「刈田狼藉」

 

にあって、耕作ができなくなったというケースも多い。あとは、

 

戦場へ行くしか食う道がなかったのである。「悪党」と呼ばれ

 

たゴロツキや山賊・海賊の類も戦場に集まった。侍、下人にとっても、

 

百姓の次男坊、三男坊にとっても、戦場は稼ぎ場であった。

 

特に、端境期の戦場は、これ以上ないというせっぱ詰まった稼ぎ場で

 

あった・・・

 

合戦とは、突き詰めれば「乱暴狼藉」、すなわち「略奪」「放火」

 

「強姦」の場であった。それを実行していたのが、侍以下の百姓

 

たちであったのだ。

 

(中略)

 

 戦場へ押し寄せた侍以下の雑兵たちは、放っておけばまず村に、

 

百姓の家に押し入って食料、家財、そして人と、なんでも略奪する。

 

時に強姦なども普通に行われる。この乱獲リは、放火と物取り、

 

強姦がセットになっているのが普通である。

 

武田信玄が信州へ攻め入った時のこと、大門峠を越えた辺りと

 

いうから、今の茅野市、立科町あたりであろうか、ここで全軍に

 

7日間の休養が通達された。

 

「下々いさむこと限りなし」とあるから、造雑兵たちは悦びに

 

歓声を挙げたことであろう。早速、一帯の村々を襲って

 

「小屋落とし」「乱獲り」、「刈田」をくりひろげたのである。

 

近在の村々を3日間で荒らし尽くしまくって、もう荒らす村も

 

無くなってしまったので、4日目からは遠出しての乱獲となり、

 

朝早く陣を出て、夕方帰ってくる有様であったという。

 

武田軍が休暇を取った地域こそ、いい迷惑であった。・・

 

武田領内の侍・下人・百姓といった雑兵たちは、戰を重ねるごとに

 

「身なり、羽振り」が良くなっていったという。武士の戦闘を

 

妨げない限り、乱取りは勝手、というのが、武田軍の基本方針

 

であった。百姓たちには「御恩」と「奉公」という思想は

 

根付いていない。まして武士の道など、精神の埒外であったろう。

 

仮に命懸けで戦ったとしても、恩賞を与えられるわけでもない。

 

そういう百姓たちを下人、人夫としてあるいは侍、足軽として

 

動員するには、時に乱獲り休暇を与え、落城させた後の

 

火事場泥棒のようなご褒美乱取りを許しておかざるを得なかった

 

のである。

 

(平和宣言とも言える「元和」改元が行われたのは、「大坂の陣」

 

で豊臣家を滅ぼした慶長20年(1615)である。この改元は明らかに

 

徳川政権の意向によって行われたもので、・・この4日後には、

 

「禁中公家諸法度」を施行した。)

 

このように、元和改元には徳川政権の、すなわち、家康、秀忠の

 

強い意志が働いている。この時、「関ヶ原の合戦」から既に15年も

 

経っている。家康には年齢からくる焦りもあったことであろう。

 

しかし、そこは家康らしく、太平構築の阻害要因を一つひとつ

 

取り除いた上での、もう戦いは許さぬ、、世は平和であらねば

 

ならぬという満を侍した平和宣言ではなかったろうか。後世、

 

「元和偃武」という言葉でこのことが表現されたことが、政権の

 

強い意志が込められていたことをよく表している。

 

そして、何がなんでも平和であらねばならぬという強い思いが

 

さまざまな独自の仕組みを生み、結果として250年もの長期にわたる

 

平和な時代を現出させたのである。それは、たまたま250年にも

 

なったというものではなく、明確な「時代のコンセプト」が存在

 

したからこそ実現したものであることを認識しておかなければならない。

 

 

 

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🦊:この本の表紙には「官賊薩長も知らなかった驚きの江戸システム」

 

とある。多分、これが本書の中身であり、その部分を、狐はまだ

 

詳しく読んでいないので、なんとも言えないが、ただ、「三流の維新、

 

一流の江戸」はよろしくないタイトルだと思う。なぜかというと、

 

司馬遼太郎氏の語る「維新賛歌」に異を唱えるあまり、俗受けのする、

 

一流か三流か、の言葉を使ったことだ。

 

現在、江戸礼讃と地政学の2つを組み合わせ、さらに「日本人よ自信を

 

取り戻せ」的なコメントをつけた本がたくさん出回っている。だから、

 

原田氏らの真面目な労作も、十分に役目を果たしつつあると思う.

 

なんの役目かというと、醜悪な明治と薩長閥の歴史を暴き、その反対に

 

素晴らしい日本に光を当てた。

 

 

しかし、薩長閥といえども、江戸期に、どこか西の方の日本で青年期を

 

過ごした人たちだ。だから彼らも江戸期の産物である。彼らが醜い

 

からといって、江戸幕府の素晴らしい都市機構と流通産業から除外して

 

しまえば、(曰く、薩摩の芋侍、長州のOO、土佐のXXなどと)

 

それも開明派の旧幕臣の功績を明治維新から除外すると同等の間違いである

 

 

NHKの@NYCという番組を毎度見ているが、ニューヨーク市民の

 

互助精神やめげない工夫や頑張りや励まし合う明るさには感心する。

 

・・一方で、どこかの州では相変わらずの民族差別や勝手愛国主義や

 

ピストル愛・・そして武器製造業者の天国。

 

だから、一流も三流もない、ごちゃ混ぜの民主主義国家。

 

どこかの大臣は「日本人は民度が高い」と、自慢げに言ったらしいが、

 

動乱がなくて、一見平和で、都市機能が進んでいた江戸や大阪以外の

 

土地で、何があったか。土佐や長州では、藩主の下に厳格な、

 

細かい身分階級が定められ、(土佐の場合は17階層)それ以外の商人、

 

百姓は愚民の類であったらしい。度重なる飢饉や天下普請、

 

参勤交代などの幕府への負担金により藩財政は苦しく、独自の特産品

 

の開発や販路の開拓に力を注ぎ、商人との癒着によって旧武士身分を

 

養う他なかったのではないか。

 

この本では、薩長藩閥政治家と金の結び付きがこと細かに語られて

 

いるが、これが、江戸「長期政権」の腐敗の結果でないと、また、

 

江戸の「平安」ボケの産物でないと、誰が証明できようか?

 

 キツネにとっては、特に武士身分保全のための「国民ロボット化」と

 

「神の国日本・アジア蔑視」教育が、出来の悪い「鬼っ子」的な

 

明治政権の創作物なのか、それとも楽園の江戸から引き継いだものか、

 

が今のところ解けない疑問なのです。

 

 

2021  7  12

 

 

 

 

 

 

石原莞爾独走すーー花輪莞爾著

 

2000年ーー新潮社刊

 

 第7章より

 

 *「大逆事件」

 

これは明治末という時期からも、「『明治』という国家」が蓄えてきた

 

猛毒の証だった。自由民権運動のあおりを受け、政治は憲法制定と

 

帝国議会の選挙に向けて動いていた。しかし出来上がったものは、まさに

 

逆向き、中江兆民も予想したとはいえ、苦笑するばかりだった。しかも

 

憲法を相殺するため、1890年には教育勅語が出され、忠孝を重んじ、

 

天皇への忠誠の念を養うことが教育の目的として強調され、敗戦の1945

 

まで続く。やがて日清戦争、日本の産業革命はイギリスに約1世紀遅れ、

 

日清戦争前後に軽工業を中心とする第一次産業革命を成し遂げる。

 

この頃から社会運動・労働運動が活発となってくる。そこで山縣有朋内閣は、

 

1900(明治33)年これまでの悪法を集大成した治安警察法を制定、集会・

 

結社・言論の自由、争議まで徹底的に抑圧する。(中村文雄『大逆事件と知識人』)

 

陸軍の創始者で社会主義思想を忌み嫌った山縣こそ、冷酷な権力主義者、

 

金力や暴力まで使って政敵や議会、軍部からも良心を抜き取ってゆくが、

 

詳細は後述する.

 

1901年、幸徳秋水、阿部磯雄らは社会民主党を結成したが即日禁止、

 

2年後、週刊の「平民新聞」を作る。秋水は190417日号で、

 

「我々はあくまで戦争を非難す」を発表する。

 

 ーーこれ(戦争)を道徳に照らすと恐るべき罪悪であり、政治に

 

照らすと恐るべき害毒であり、経済で見れば、恐るべき損失である。

 

 これにより社会の正義は破壊され、万人の権利が踏みにじられる。

 

私秋水はあくまで戦争を非難し、その防止を絶叫せざるを得ない。ーー

 

秋水は高知県中村の人、フランス留学中、18世紀の思想家ルソーを学び、

 

その「社会契約論」を和訳し、共和主義を移植しようとしていた。・・

 

 

大逆事件は幸徳事件の他に3件ある。大逆罪とは、旧刑法73条の、

 

<皇族に危害を与えたものは死刑>の規定からきていて、幸徳事件は

 

その最初だった。

 

明治4356月、「犯人」が次々と逮捕、その年末には非公開法廷で

 

死刑(執行は翌年124日)となったのが秋水を入れて12名、判決後、

 

無期懲役に減刑されたもの12名、うち5名が獄死、仮出獄7名を除けば

 

坂本清馬のみが生きて出獄という凄惨なものだった。事件は戦後まで

 

伏せられ、1960年、坂本と森近運平(死刑)の妹らが、再審を

 

東京高裁に請求、デッチ上げが明らかになったが、再審の完全達成は、

 

最高裁の棄却でうち切られた。(中略)

 

「大逆事件」は、「『明治』という国家」の姿勢が、外から学ぶ謙虚

 

だけではないと示した。扉を開いてみせる外面と、天皇制強化の内面

 

(うちずら)の反対方向のベクトル、ここにねじれと歪みが蓄積され、

 

「大正デモクラシー」の美名の下の暗流となり、昭和の到来とともに

 

公然となった。

 

 藤田久一氏は「戦争犯罪とは何か」で、日本については「宗教的理由に

 

基づく迫害」への言及はなかったとしている。実際にはナチと同じく

 

軍国主義者が、天皇制という「宗教」に基づき、議会制度・言論の

 

自由の圧殺、政治家へのテロ、憲兵隊の暗躍などを、公然と進めて

 

きた事実があった。・・だが戦後の国際裁判では、この罪(宗教的理由に

 

基づく迫害)は漠然としすぎるとして、告訴対象にはならなかった。(中略)

 

 

 

🦊:この本は、石原莞爾をトリックスターとして登場させ、明治、大正、

 

昭和と続く官僚支配の歴史を(762ページに及び)小説家のように

 

面白く語ってますので、ぜひ読んでみてください。

 

 

あまりに大部なので、キツネの勝手で、明治から昭和まで「おらが家」

 

を支配した官僚と軍人の人物像に限って紹介します。

 

 

p219ー国家の硬直化より

 

*なぜ今山縣(有朋)なのかーー

 

明治維新は確かに有効なビッグバンだった。でも維新初期の指導者,

 

もと下級武士の「元老」の深層心理はどうだったか。

 

農民から年貢をもらいつつ百姓一揆を恐れ、他を踏み台にしてのし

 

あがったからには、己の正統性に100%の自信はない。

 

改革者の自負と成り上がり者の引け目、このアンビバレンスから

 

民政不信、政官主導が出てくるのは、開発途上国に共通するが、

 

まさにそれを骨肉化した怪物がいた。

 

(オランダの知日ジャーナリスト・ウオルフレンの「人間を幸福に

 

しない日本というシステム」によれば、)

 

「少数独裁者の中には、国にとって全く有害な人たちもいた。

 

政治の健全性を失わせた悪人を私が一人だけ挙げるとすれば、

 

山縣有朋を挙げたい。

 

彼は、全くよこしまな人物で、なんともいわれのない不安を

 

抱いていた、性格的に問題のある政治家だった。(中略)

 

山縣は、政治における代議制という考え方そのものを非常に嫌悪し、

 

選挙で選ばれた政治家が日本の官僚制を決して掌握できないように、

 

一連の複雑なルールを作った。近代日本にとって、山縣が

 

「近代官僚制の父」であり、「陸軍の父」であったことは、最大の

 

不運だった。彼が長生きしたのも不運だった。」

 

 

*山縣の実態は知られず研究も少ない。無視できないのは、彼が

 

近代日本の「処女作」に関わり、それには全てが含まれるからだ。・・

 

議会政治がウブ声の頃、議員、政党への不信が渦巻いていた。

 

政党ー徒党ー一揆の連想は、「官軍」時代から変わっていなかった。

 

明治2220日の(政府による)「奥羽人民諭告」には

 

こうある。天皇は天照皇大神宮(アマテラスコウタイジングウ)の

 

子であり、民の父母なので、会津如き賊すら助命した。だから、

 

「お前らはこの道理をわきまえ、けして騒ぎ立ててはならない。

 

日本の地に生まれた者は全て天皇によって赤ん坊と思われ、

 

一人も安心せぬものはなく、北海道松前の果てまで慰撫される

 

よう昼も夜も苦心され、やがて有難い計らいもあることなので、

 

全てお上のいうことに背かず、安らかに稼業に精を出すよう申し、

 

返す返すも騒ぎ立ててはならない。(大正15年青森県発行

 

『青森県史5』、尾崎竹四郎『東北の明治維新』より)

 

こうして維新と呼ぶ、藩士という官僚の、官僚による、

 

官僚のための国家がつくられた。・・

 

*山縣の本質ーー

 

大正の声とともに、政党政治は確かに見えてきた。しかし、

 

明治22年の衆議院選挙以来、有権者は厳しく制約され、

 

猪口氏のいう西欧世界での徴兵と引き換えに与えられた、

 

国政参加への道などまだ遠い彼方だった。

 

 これらをあやつったのが山縣である。「大逆事件」では、

 

「アカ嫌い」の山縣の実像を見せつけた。伊藤博文が初代

 

首相になったときは、(山縣のほうが3年先輩なので)

 

モヤモヤがあったろう。伊藤が1909年、暗殺されたのち、

 

そんな危険なしにキングメーカーを続けたのが、山縣の

 

真面目だ。・・

 

山縣は、「一介の武弁」に過ぎず、政治力なしと自称して

 

いた。他方で天皇を利用して天下を取った藩閥こそ「

 

皇国の柱」と信じ、旧武士を嫌い、民会などは「空理虚談」

 

で、「尚武重義に」反するとして、近隣国には武断をもって

 

当たるのを、終生変えなかった。

 

軍人勅諭、保安条例、地方自治に名を借りた中央集権化、

 

警察制度、教育勅語、元老制、政党政治への介入など、思い

 

つく限りのタカ派施策が山縣から出てくる。なにしろ徴兵令は

 

明治6年、軍人勅諭は同15年と、帝国憲法より前だった。

 

市民権不在の理由もひとめでわかる。・・石原の悲劇は

 

シロアリに足もとを食われた点にある。シロアリとは東

 

条のような「能吏」、つまり山縣の分身だった。石原の

 

代理はいないが、山縣は無数にいて、戦前も戦後も

 

同じ顔で生き続けているとウオルフレン氏は指摘する。

 

組閣1年後の明治231030日、山縣はいわゆる教育勅語

 

で、前年発布の帝国憲法が「君権の機転とし、ひとえに

 

これを毀損せざらん」よう補完した。

 

これに“御名御璽“とあるからには、発布者は天皇自身、

 

天皇が「立法者」となる基となった。・・

 

骨を抜かれた憲法であっても、藩閥権力者は安心できない。

 

2次伊藤内閣の文相だった井上毅(憲法作成に従事)すら、

 

憲法が広く知られるのを恐れ、高等教育を受けた者の他は、

 

神=天皇の徳治によるべき、と漏らしている。・・

 

明治3111月、山縣の第2次内閣成立前、桂太郎は彼に

 

政党の「跋扈跳梁」を、解散権で脅してほしいと頼んでいる。

 

奇妙にも山縣は議員制を抑えるため首相になったのだ。

 

明治33年以降、軍部大臣は現役軍人のみと決めた。これに

 

よって軍部への政党の影響力は封じられ、文民統制は弱まった。

 

ところで、山縣は憲政党との間に提携の約束を結んで以来、

 

同党を操縦するために少なからぬ金銭を費やした。・・

 

山縣が金銭を持って議会操縦を試みたことは、当時の世上

 

でも物議を招いたところであった。

 

 

山縣は、政党と官僚を分離させ、いわゆる官僚主義を推進し、

 

日清戦争で力を得たブルジョアジーを取り込み、力をつけ

 

始めた労働組合、社会主義、小作争議など鎮圧のため、

 

「治安警察法」、「保安条例」を用意した。・・

 

主戦論者で、朝鮮「利益線」論者の山縣に、対抗し得た

 

のは伊藤博文だけだった。伊藤は終始党人風を保ち、

 

朝鮮の植民地化にも異論を持っていた。

 

(安重根が)彼を暗殺したのは一種の見当違いである。・・

 

 

1894年、韓国で東学党の乱が広がりやがて日清戦争になる。

 

山縣は徴兵令、軍政などを試す好機と、第一軍司令官とし

 

て勇んで出征した。旅順陥落後、日本軍はどうすべきかを

 

巡って意見の対立が起こった。

 

山縣有朋は、大本営の「現在地で越冬せよ」との命令を

 

無視して出撃しようとし、ついに天皇から病気療養を

 

口実とする召喚命令が出された。・・

 

山縣は天皇に意見書を奉じ、この戦争で「韓国独立」を

 

助ける約束(表向きの口実だった)は果たしたが、韓国民は

 

まだ独立の域にない。日本人を移住させ住民を文明に

 

向かわせ、清国の影響を絶つ。鉄道を引いて東亜

 

大陸に通じる大道とし、将来「支那を横断して直ちに

 

インドに達するの道路」を作り、日本が「東洋の

 

盟主」にならなくてはならぬと言う。のちの大東亜

 

共栄圏や軍部の妄想の「原型」となるものだ。(中略)

 

 

p236 マッキンダーのハートランド論

 

*石原の“悲劇性“がよく言われるが、それには二面ある。

 

一つは血も涙もない官僚と格闘して敗れたことだ。石原は

 

2度と出ないが、山縣製の官僚主義は今もかくしゃくと

 

生き続けている。

 

もう一つは、山縣が唱え軍部の体質となった「ハート

 

ランド」の毒である。石原があれほど満州にこだわり、

 

植民地化という矛盾で悩みながら捨てきれなかった謎は

 

ここにある。・・

 

マハンの制海権論の対極の立場を取ったのが、20世紀初頭に

 

発表された英国の地理学者マッキンダーのハートランド論

 

である。マッキンダーは、鉄道の普及によって、陸上勢力の

 

重要性が改めて高まったと指摘し、ユーラシア大陸の中心部分、

 

ハートランドを制する大陸国家が世界を支配すると論じ、・・

 

一方ドイツのハウスホーファーはハートランド論を応用して、

 

「力と国土」のなかで国家は生物と同様に生存のためには広い

 

生存圏が必要であると主張した。その概念は自給自足の理念と

 

ともにヒトラーの国土拡張戦略の理論的支柱となり、ハート

 

ランドの外縁の日本でも大東亜共栄圏建設の正当化に用いられ

 

たのであった。(猪口・同前書)

 

 

(🦊注:今はやりの地政学だが、自分とこの裏庭から、敵国の

 

軍事基地を狙い撃ちできる昨今、領土の境界上に兵士を貼り

 

付ける必要もなし、EUもほぼ元通りに活動し、地政学に沿って

 

昔ながらの植民政策を遅まきながら始めているのは中国ぐらい

 

ではなかろうか。

 

「アメリカは地政学に沿って全てを決めている」などと言う人

 

がいますが、ホントでしょうか。「脅し合戦」を「地政学」で

 

やるって?人口に見合った経済圏を要求できると言うなら、

 

まず隣の人口を、ドローンか何かで半分位減らして、その分、

 

我が家の敷地を広げれば良い。現在「第三国」で起きている

 

ドンパチは宗派がらみか水争いで、いずれも資金不足のせいで

 

死の商人に張り付かれている。

 

アメリカやヨーロッパの金満国が死の商人でないことを誰か

 

証明してくださいな)

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*戦時の攻撃手段がない時代、天然の距離が防衛の基本だった。

 

東方進出を進める帝政ロシアは、日清戦争後、ドイツ・

 

フランスを誘っての三角干渉、で日本の遼東半島支配を阻む

 

一方、満州経営を推進して極東における兵力増強を図る。

 

そのような政策が大韓に権益を持つ日本を脅かして、軍拡、

 

開戦準備へと向かわせる契機を生み、このままではやがて

 

大国ロシアに踏み潰されるという危機感が日本に開戦の決意

 

させたが、その結果は、遠方の地での大砲の大量使用と

 

医療不備により日露合わせて25万人にも上る犠牲とロシアに

 

とっては自強の破綻としての敗北であった。(猪口同前書)

 

最前線に兵を置くのが無理なら、迅速に送る、これが山縣の

 

時代の難関、ハートランド論は急襲されぬための国土拡大

 

戦略の言い訳だった。・・

 

 

勝海舟を明治維新に舞い降りた妖精だと言ったのは司馬遼太郎

 

だが、山縣は全てを逆転させた魔女だった。富国強兵だけを

 

求めた山縣体制が硬直してガタついてくる。

 

「『明治』という国家」の積年の毒を抜くことは簡単ではない。

 

早急に練り上げられた組織のバネが弾けたのが、日本が犯した

 

痙攣に近い膨張と戦争だった。

 

 

 

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2021 7 17

 

 

 

 

 

 

 

きつねの狭い庭。秋草の難民収容所となっている。ギボウシ、きんみずひき、あかまんま、ヒメジオン、

リュウノウギク、のあざみ、ヒヨドリバナ、われもこう、などなど・・

 

8月20日撮影。