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侵略?建国?植民地化?

 

 

揚州剪紙

満州国への疑問点

 

おしえてGOO  2014:2:17  より

 

質問:なぜ日本は満洲国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や

 

   国内事情を踏まえながら、建国の目的を教えてください。

 

●   べストアンサー 回答者:Yeim

 

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を

 

有していました。これは阿片戦争以来、1世紀近くに渡って

 

 列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行なった

 

結果でした。

 

そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満洲

 

周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。

 

(キツネ注:日露戦争の勝利により、当時日本はロシアから

 

満州鉄道と、旅順、大連の租借権を獲得していた)

 

このため当時の日本では「満州の特殊権益」は「明治以来、

 

 先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また

 

 「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。

 

しばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよく

 

 ありました。

 

その結果。日本人の多くは中国で獲得した利権が危機に晒されており、

 

それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点

 

 からすれば)かなり大袈裟な意識がもたれてしまいました。

 

(中略)

 

 

ただし満州事変当時の日本はまだ国際協調路線をとって、交渉で穏便な

 

 事態解決を望んでいました。

 

 ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」

 

のために、政府は軍の統制を取ることができず、満州事変により日本軍は

 

 政府の不拡大方針を無視して、満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」

 

 の解決を図ったのでした。

 

この行為は現在では「軍の暴走」とされていますが、当時の日本ではマスコミ

 

は拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の軟弱外交」を非難

 

 しています。

 

 そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満洲国について、欧米との

 

 対決を望まなかった当時の犬飼毅首相は承認を渋りますが、五一五事件で暗殺され、

 

 (統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人の一人であるので、

 

 自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる

 

 形で満洲国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かって

 

 しまいます。

 

  この様に満洲国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、

 

 当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、

 

 そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認

 

するという 非常に危ういものでした。

 

しかしそれが当時は大成功を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、

 

 その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を

 

 滅ぼしてしまうのです。

 

 なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては、

 

「日米もし戦わずばーー戦争戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

 

 

 

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キツネの感想文:とても良くできた回答で,「教えてGOO! 」を見直しましたよ.

 

あと,今日に繋がる疑問といえば,広大な中国を代表するのはどの民族,どの国,

 

どの人々だろうか?もともとは異民族のひしめきあっていたその1角が日本鬼子に

 

のっとられた!それとばかりに団結して追い払ったのはいいけれど,その後の

 

主導権争いは,中国が豊かになるにつれて1強に絞られ,その1強がモンスター化

 

して,弱小民族をいじめている.ま,それは中国の内政問題としておく.

 

それにしても,日本軍が中国大陸でやらかしたことは,中国人にとっては恐ろしく,

 

辛い災難以外の何物でもない.何が「王道楽土」か.

 

次に,「中国人の目から見た満州事変,というテーマで何か読んでみたいと思う.

 

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「田母神論文に見る岸信介の亡霊」哲野イサクの地方見聞録より

 

 

平成20年12月

 

 

 

「問題とされるべきはその歴史認識」

 

アパグループが2008年5月20日から募集していた「真の近現代史観」

 

 と題する懸賞論文に、現職の防衛省航空幕僚長・空将・田母神俊雄の

 

 「日本は侵略国家であったのか」と題する論文が最優秀賞に選ばれた。

 

 審査員長は渡部昇一(上智大学名誉教授・英語学)だったという。

 

 田母神論文は「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に

 

 駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で

 

 合意された条約に基づいているからである。」という書き出しで始まる。

 

 (この認識は中学生なら合格であるが)防衛省の航空幕僚長の認識としては

 

 落第である。日米安全保障条約のどこを読んでも、アメリカ合衆国軍隊は

 

 日本国内に軍隊を駐留できるとは書いてない。

 

 

第六条、「日本国の安全に寄与し、ならびに極東における国際の平和及び

 

安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍および

 

 海軍が日本国において施設および区域を使用することを許される。

 

 前記の施設及び日本国におけ合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に

 

 東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に

 

 基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極

 

 により規律される。」 とある。この第六条に基づき、別途行政協定

 

(日米地位協定)が締結され、 この行政協定に基づいて、「合衆国軍隊」が

 

日本に「軍事駐留」を行う権利を得ているのである。

 

合衆国軍隊を日本に駐留させる根拠が、日米安全保障条約にはなく、日米地位

 

協定にあるという点は、アメリカが国外に基地を展開させる常套手段である。

 

いわば軍事機密を最大限に保ったまま、外国に基地を置くのにこれほど都合の

 

いい手段はない。

 

日米安全保障条約は、日本の国会・アメリカの議会の批准を要するが、「日米

 

地位協定」は行政協定だから、日本の首相とアメリカの大統領が承認すれば

 

それで成立する。日本における米軍基地とその展開は、日本の首相がOK

 

言えば全く自由にできる。

 

アメリカの軍部が一番恐ろしいのは、日本の国会でもなければ日本の世論でも

 

ない。アメリカの議会とアメリカの世論だ。外國における基地の実情を、

 

アメリカの議会の前にさらけ出し、その批准を受けるために審議されることは

 

避けねばならない。そのためには行政協定とすることがミソである。この点は

 

日本に限らず、外国に基地を置く際、例外はない。

 

・・・田母神論文で、米軍基地の法的根拠を日米安保条約にあるとした点が、

 

誤りであることの意味は以上である。

 

 

 

 

「行政協定を許さなかったフィリピンの民衆革命」

 

1991年フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地の閉鎖、

 

フィリピンからの米軍基地撤退。1986年、半ばアメリカの傀儡マルコス

 

政権を打倒したフィリピンの市民(フィリピン民衆革命)は、すぐに新憲法

 

の作成に着手、1987年 2月コラソン・アキノ政権のもと、圧倒的多数で

 

新憲法を採択し、発効した。「戦争放棄」「フィリピンの非核兵器化」を

 

含んだこの世界史的憲法はまた、「外国軍基地の廃棄条項」を含んでいた。

 

すなわち第25条第8項である。

 

 この条項では、「条約として締結されるのではない限り、フィリピンには

 

外国の軍事基地は置かれない。」と明記されていた。すなわち米比地位協定

 

の期限がくる1991年以降もしアメリカ軍が引き続きフィリピンの基地を

 

継続したければフィリピン議会と米議会の批准を必要とする、いわば

 

「行政協定ではなく、条約化することを要求したのである。

 

このためアメリカ軍は、フィリピンからの撤退を余儀なくされたのである。

 

この時アメリカは「ピナツボ火山噴火による基地のダメージは回復不可能」

 

という捨て台詞を残して撤退したが、本当の理由は「民衆革命」のダメージ

 

だったのである。

 

したがってもし日本から米軍基地撤退を狙うのであれば、フィリピンに倣って、

 

2010年 日米安保条約の期限がくるの時を念頭において、「条約によるので

 

なければ、日本には いかなる国の基地も置かれない。」とする法律を作れば

 

良いということになる。

 

 

「侵略の概念」

 

  侵略の定義としては次のようなものが妥当 ではないのか?

 

その戦争が侵略戦争であったかどうかで一番大事なことは、それが自国の

 

領土拡張や他国の支配を目指した戦争だったかどうかです」

 

(不破哲三<日本の戦争・領土拡張主義の歴史>日本共産党出版局・

 

2006年10月)

 

 この不破の定義に従えば、これまで歴史上のほとんどの戦争は侵略戦争

 

だったという ことになる。(戦争によらない「侵略」もまたありうると

 

いうことになる)・・・

 

問題は、それが領土拡張や他国の支配を目指しているかどうかの評価だ。

 

  

「戦争に見るイギリス帝国主義の手口」

 

軍事侵攻を行なって、軍隊の圧力の下、自分に一方的に有利な条約なり

 

協定を結ばせる。それを法的根拠にしてさらに侵略を進める・・・しかし、

 

これは何も天皇制ファシズム特有の手口ではない。それどころか19世紀

 

帝國主義の常套手段だった。天皇制ファシズムはそれを忠実に模倣して、

 

極めて乱暴な形で20世紀になっても行なった。(20世紀に入ると、欧米の

 

帝国主義はもっとスマートに侵略し、その経済目的を達成しようとした)

 

 話を中国大陸に限ってみよう。

 

19世紀初頭、インドを植民地としたイギリス帝国主義は、中国大陸への

 

侵略を次の目標とした。中国の天然資源、歴史的文化資源、労働市場、

 

商品市場が魅力的だった。

 

しかし、イギリスが輸出しようとした綿製品や毛織物はさっぱり売れず、

 

逆に中国の紅茶や生糸の輸入が多くなり、イギリス側の大幅な輸入超過と

 

なった。イギリスはこの決済をアメリカで手に入れた銀を持ってしなければ

 

ならなかった。これが 19世紀初頭の状況である。

 

イギリスは既に18世紀末にインド(ベンガル)のアヘン専売権を手に

 

入れており、これを中国に輸出することでこの入超を解消しようとした。

 

しかし封建主義帝國である清といえども、アヘンは禁制であり、これの中国

 

への輸出は密輸である。有名なジャーデン・マセソンはこの時、対中国アヘン

 

貿易で大きくなった会社である。・・・

 

 

(岩波新書「中国近現代史」小島晋治・丸山松幸著・によれば)

 

 アヘン輸入の激増によって、1827年を境に中国側の銀の入超が逆転し,

 

以降中国側の輸出超過となった。銀本位制をとっていた中国は当然銀が高騰し、

 

物価が高騰し、経済に破壊的影響が現れてきた。それよりも壊滅的影響は

 

アヘンによる人間への破壊効果である。

 

1939年(天保10年)道光帝は、林則徐を欽差大臣(特命全権大使)

 

に任じ、広州に派遣した。林はアヘンを扱う外国商人に対して断固たる措置を

 

とり外国商人にアヘンの提出と今後一切アヘンを中国に持ち込まぬという

 

誓約書をとって没収したアヘンを海に廃棄した。・・・

 

 (林のような人物を「愛国者」と呼ぶのであり、のちに見るように、財閥の

 

経済的利益のためにその手先になって、多くの同胞を危険な戦争に導き、

 

自国を破滅に陥れた旧日本軍人たちを「愛国者」と呼ぶのでは、断じてない。

 

 

(中略)

 

 「軍事侵攻の後に成立した南京条約」

 

(イギリスはこの事件をきっかけに1939年、対中国開戦を決定し、

 

議会は20隻の軍艦、4000名の中国遠征軍派遣を承認した。イギリスの

 

名誉のために付け加えておくと、この議会では「汚れた戦争」だとして、

 

反対派のコブデン、グラッドストーンは反対したし、宗教的理由から多くの

 

英国国教会、クエーカー教徒は反対した。イギリス軍の最新軍備に驚愕した

 

清国政府は林則徐を罷免し、賠償金の支払い、清軍の広州城からの撤退、

 

イギリス軍の広州駐留承認を約束する条約を締結した。(イギリス軍は

 

その後戦線を拡大し、アモイ、寧波、上海、鎮江を占領、南京に迫った)

 

こうしてイギリスの要求をほぼ呑む形で南京条約が1942年8月締結

 

された。2500万ドルの賠償金、5港の開港、公行制度(独占貿易商制度)

 

の廃止、香港等の割譲などを約束させられた。さらに43年の追加条約で、

 

関税自主権を失い、領事裁判権を与え、開港場を与え、一方的最恵国待遇を

 

認めた。清の無力を見たアメリカとフランスは44年、南京条約とほぼ同様の

 

内容を 持つ条約、それぞれ厦門条約、黄堀条約を結ぶ。こうして列強の中国

 

侵略はとどまる気配はなかった。

 

一方、満洲では東清鉄道の建設及び日露戦争後「満鉄」による鉄道建設に

 

多数の労働力を必要とし、また鉄道の整備に伴い工場、運輸、土建業などが

 

発展し、労働力の需要が増した。同時に華北の各鉄道は大幅に運賃を値下げし、

 

労工の入満をさらに加速 させた。

 

 以上をまとめると、かつての禁制の土地だった満洲は、華北を中心とした、

 

貧しい 中国人にとって残されたフロンティアだった。そして農業を中心に

 

開拓されていった。

 

やがてロシアが満洲を侵略し、その過程で鉄道が敷かれ、鉱山、工業、港湾、

 

運輸設備などが整備されていき、それまでの農業中心の形態から、都市

 

プロレタリアートなども生まれて行った、ということになろうか.

 

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🦊キツネの寄り道と言い訳

 

 中国人にとっての満洲国というテーマは、日本人右翼史観と中国の国家的

 

宣伝史観の間にあって、検証が難しい。ここでは前出の田母神論文批判から、

 

「その9・中国人労働者にとっては地獄の満洲国」の中の王紅艶の論文に

 

沿って見てみたい。

 

王紅艶の博士号論文「満洲国の労工(労働者)に関する史的研究:華北から

 

の入満労工を中心に」は、彼が一橋大学大学院時代に書いた論文で、・・

 

当時日本側の資料ばかりでなく最近になってようやく利用可能になった

 

 中国側一次資料も使い、また当時の労工から聞き取り調査も実施した網羅的、

 

本格的研究との評価を得ている。

 

 

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 「王紅艶の研究とその認識」

 

私(イサク哲野)も本体自体まだ読んでみる機会がない。従ってここで引用

 

するのは、その論文の要旨である。

 

 「華北労工の入満は長い歴史があり、清朝末期から既に多くの人々が満洲に

 

入り、農業を行なった。東清鉄道の敷設後、さらに入満ブームとなった。

 

 19世紀における華北からの入満者はのちの華北からの入満の道を開いた。

 

即ち多くの入満者が満洲に定住し、一定の生活基礎を築いたため、家郷の

 

家族、親戚、友人、隣人などの縁故者が華北の貧しい生活を捨て、先の

 

入満者を訪ね、満洲に向かったのである。」

 

 これがほぼ19世紀末までの満洲の現状であった。つまりもともと清王朝の

 

私有地で満人以外入ることを許されなかった満洲に、禁制が緩むとともに

 

漢人が入植し始め、ロシアの鉄道建設と共に、労働力が必要になって、

 

故郷での貧しい暮らしを捨て、爆発的に満洲に人口が増えたのである。

 

 王紅艶をつづけよう。

 

20世紀に入ってから、列強各国の侵略、軍閥の混戦、匪賊の横行など

 

多数の 人的災害に加え、水害、旱魃などの自然災害が相まって人口の

 

80%を占める農民の生活は極度の貧困、苦痛の状態に陥った。

 

満洲に近い山東省、河北省を中心とする華北地区は、人口密度が高く、

 

1920年代における直皖、直奉、北伐などの多くの戦争のため、また

 

従来水害、旱魃、蝗の被害など自然災害が多いため、多数の農民が

 

出稼ぎ、移民を選択せざるを得 なかった。

 

一方、満洲では東清鉄道の建設及び日露戦争後「満鉄」による鉄道

 

建設に多数の労働力を必要とし、また鉄道の整備に伴い工場、運輸、

 

土建業などが発展し、労働力の需要が増した。同時に華北の各鉄道は

 

大幅に運賃を値下げし、労工の入満をさらに加速させた。」

 

以上をまとめると、かつての禁制の土地だった満洲は、華北を中心

 

とした、貧しい中国人にとって残されたフロンティアだった。

 

そして農業を中心に開拓されていった。

 

やがてロシアが満洲を侵略し、その過程で 鉄道が敷かれ、鉱山、工業、

 

港湾、運輸設備などが整備されていき、それまでの農業中心の形態から、

 

都市プロレタリアートなども生まれて行った、ということに なろうか。

 

 一方、漢人(中国人)は、満州事変前には、日本人人口に比べれば、

 

相当な人たちが流入し、また相当な人たちが流出していった。王紅艶は、

 

「1923年から1931年までの間に年間平均64万人が入満し、離満者は

 

平均35万人であった」と推測している。1年間で平均30万人の増加であり、

 

この間270万人の純増である。

 

それでは、全時代を通じて、日本人はどれぐらい満洲に居たのであろうか

 

 インターネット・レベルで最も信頼できる数字は、日本財団の

 

「ディスカバー・ニッケイ」ではあるまいか?・・同サイトの

 

「日本人移民者統計」をみると、1942年当時の満洲の日本人人口は

 

874348人だったとしている。この統計はパスポートに基づいている

 

という。(これ以外に密入国日本人がどれだけいたかはわからないが)

 

軍人を除けば、およそ100万人を超えない数だっただろう。

 

朝鮮人は31年から45年までの15年間の増加が約130万人、38年から

 

強制移住が始まっているから、40年から45年までの5年間の増加を全体

 

の近くと見て約60万人。(結局、満洲に流入した華北を中心とした

 

中国人の実増数は)王紅艶がまとめた資料によれば1940年から1943

 

までで約270万人であることがわかる。そうすると1945年満洲国崩壊

 

時点での住民人口は、大雑把に言って3500万人足らずだったのではないか。

 

田母神はその論文の中でこの数字を、「満洲帝國の人口は1932年には

 

3000万人、45年には5000万人」と断定しているのである。

 

「満洲の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満洲が豊かで治安が

 

良かったからである。侵略と言われるような行為が行われるところに

 

人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満洲の

 

荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ

 

変わった。」と「満洲国があたかも日本の帝国主義が、満洲を近代的な

 

国家に変えたかのような印象を与える文章の根拠として使っているが、

 

これは臆面もない大ウソである。

 

1936年時の広田弘毅内閣は「満洲開拓移民推進計画」を閣議決定し、

 

1936年から1956年の20年間に500万人の移住を計画、推進した。

 

実際送り込むことが出来たのは30万人足らずであった。

 

(田母神を操る学者グループは、この計画の数字を、あたかも

 

歴史的事実であったかのように見せかけようとした)

 

彼ら(田母神の背後にいる被害妄想史観の学者グループ)は

 

日本人の頭に刷り込もうとしている。「あの戦争は正しかった」

 

「正統だった」と。

 

 しかし問題はそれでは終わらない。本当の問題は、日中戦争

 

勃発後、華北から流入した中国人労働者の数字にあるのではない。

 

その流入の中身こそ、帝国主義日本の満洲支配の実態を暴き

 

立てるものなのである。

 

 

その9中国人労働者にとっては「地獄の満洲国」より

 

満洲国における労働力は、35年くらいから不足気味になっていたが、

 

満洲へ流入してくる華北労働者が減少に転じ始めると、35年には

 

ついに入満者より離満者が上回るという逆転現象が出始めていた。

 

こうして従来の入満制限政策(日本人入植者保護のための)を180

 

転換し、積極的に中国人労働者の入満を促進することになったのである。

 

日中戦争勃発の6ヶ月後の37年(昭和12年)12月には、労働者統制

 

のための機関、満洲労工協会が設立され、さらに38年2月には、戦時に

 

おける労働者の統制動員を法的に保証するために、国家総動員法が施行

 

された。(この国家総動員法は、東條英機・岸信介のコンビでまず満洲

 

で実現されたということに注目しておかなければならない)さらに、

 

満洲労工協会の仕事は、要するに満洲国内労働者の統制と華北労働者の

 

入満促進だった。

 

 

 

満洲と華北で労働者の争奪

 

37年入満した華北労働者は約324000人と増勢に転じたが、離満する

 

ものも多く、 実質増は6万5000人足らずであった。翌38年には、これが

 

入満約50万人で、実質増、約24万人となった。(ところが、もともと

 

満洲への労働者の供給源だった華北地方でも労働者不足が深刻化する)

 

「満洲国」の実質的な支配者は関東軍であり、華北地方の実質的な支配者

 

は北支方面軍だった。そこで1939年(昭和14年)2月、北京で

 

「満支労務関係者会議」が開かれ、「中国人労働者の満支配分調整に

 

関する要綱」が「満洲国」、「関東軍」、「北支方面軍」三者の間で

 

取り決められた。しかし、華北労働者の募集難、労働者の逃亡、「不当移動」、

 

事業者間の争奪合戦はさらに激しくなっていった。(不当移動というのは、

 

統制側が決めた労働者の就業先とは異なる就業先で働くことである)

 

この統制のため、満洲で働く労働者はすべて「指紋」を取られていたほど

 

である。華北からの中国人労働者は,残してきた家族、時には愛する妻や

 

子のために働くのである。働いて稼いで故郷に送金するためと言っても

 

過言ではない。ここを制限してしまっては、彼らが満洲で働く動機そのもの

 

を奪ってしまうに等しい。

 

この調査報告が行われる翌年42年には国勢調査も行われる予定だったの

 

だろう。この国勢調査で「満洲国民」とされてしまっては、今度は故郷に

 

帰ることもできなくなる。このことも満洲に行くことをためらわせる要素

 

になった。どころか満洲から逃げ出す要素にもなりうる。だから、

 

満州から華北行きの列車を止めてしまうのである。列車を止められては、

 

後は徒歩で帰るしかない・・・。にもかかわらず、この年、満州から

 

逃げ出した中国人労働者は約70万人にも上るのである。

 

 

 37年顔ぶれ揃う<ニキ三スケ>」

 

 岸信介は、1936年、満州国実業部次長(事実上の満州国産業大臣)として渡満。

 

この同じ36年10月には、関東軍参謀部第三課が「満州第二期経済建設要項案」

 

を作成し、満鉄経済調査会が「満洲国資金計画案」をまとめ、これらを合わせて

 

「第一次産業開発5ケ年計画を立案する。

 

岸信介は、これが実施された37年に総務庁次長に就任。この時満洲国建国以来

 

一貫して基礎固めを行なってきた大蔵省出身の星野直樹が総長に就任している。

 

満洲国の事実上ナンバーワンだ。従って岸は事実上「満洲国」のナンバーツー

 

として、満洲国の経済政策のトップに座ることになる。・・・(中略)

 

満州時代を振り返って岸は次のように述べている。・・・

 

「例えば、右すれば法律に違反し、左すれば法律にかなうが結果がうまく

 

いかんという場合、満州ではこういう場合には結果の良い方を選んでいた

 

からね。良い結果を得るためには法律を改正しようではないか。つまりこれは

 

勝手にできたわけだ。

 

事実上国会なんていうのはないからね。しかし法律改正をするまでは、悪い

 

結果の道を取るかといえばそれは取らない。法律が悪ければ法律を変えよう

 

ではないか。・・こういうやり方を満州ではとってきたんです」

 

つまり、満州にやってきた中国人にとっては、岸が「結果がいいと思われる

 

法律を出せば出すほど、働く環境が悪化し、追い詰められていくことになった

 

わけだ。

 

 

「満洲国」の「労働者流入促進」の手口

 

 ここでは、王紅艶の『「満洲国」における特殊工人に関する一考察」』に

 

沿って学んでおこう。

 

 

「騙し募集の実態」

 

華北労働者趙金銘の証言

 

 「私は40歳のとき(1943)、生活のため天津に仕事を探しに行ったが、

 

なかなか探せなかった。このときちょうど華工募集の人が来て、関外で仕事を

 

すれば20元の家族手当を先払いするし、職場に着いたら食事、衣服、住居を

 

全部支給し、仕事を終わればすぐ賃金を支払うと言われたが、牡丹江密山県に

 

送られ、日本人の軍事工事に従事させられ、住む小屋はアンペラ小屋

 

(こうりゃんの茎で編んだ小屋)で、雨の日になると、天井から雨が漏って、

 

地面にも水がたまった。・・・食べ物はコウリャンと黴がついたトウモロコシで、

 

味は薬より苦い。野菜はまったくなかった。衣服は「過街爛」(破れてボロボロ)

 

といわれるもので、すぐに破れてしまう」

 

 

 「行政供出」の実態

 

次が「行政供出」である。1942816日付け「華北交通株式会社愛護村

 

供出工人に関する件」という報告書が残っている。それによると、1942

 

8月から10月の間、華北にある愛護村から合計5000名の労働者を供出し、

 

満州重工業傘下の各社(満州炭鉱、昭和製鉄所など)と満鉄傘下の撫順炭鉱に、

 

行政供出により労働者を送り込むことが決められた。・・

 

前回の割当募集の時には、募集費が労働者一人につき30元だった。しかし

 

今度の行政供出では一人35元に上がっている。それだけ募集が厳しくなって

 

いるということだ。・・・

 

 1944年に行政供出を経験した河南省の楊梅泉の証言:

 

1944年、日本人が多数の労工を供出するよう要求した。労工の条件は

 

齢が18歳以上で体が丈夫で重労働に耐えられることであった。金持ちが

 

わりあてられたら、金を出して他人を身代わりに労工にするのが、貧乏人は

 

自分が行くしかなかった。当時私は24歳で同村の趙蓮塘薬屋に雇われて働いて

 

いたが、わりあてられた趙のために労工にさせられた。」

 

 

労働力としての「特殊工人」

 

特殊工人とは結局、大きく戦闘捕虜と一般市民に分けられる。一般市民とは

 

要するに犯罪者かあるいは犯罪者とみなされるか、あるいは帝国主義日本に

 

反抗的な者である。

 

王紅艶の「満洲国における特殊工人に関する一考察」によれば、1942年ごろ

 

までは、特殊工人は一般工人と同じ宿舎だったが、それ以降は、鉄条網に

 

監視付きの宿舎に変わって行ったという.特殊工人の就労先については、

 

軍事部門では現在の黒龍江省などソ連との国境地帯に送られていたことが

 

わかる。一方産業部門は、東辺道開発、満州炭坑など鮎川義介の満州重工業の

 

子会社、満鉄の子会社が圧倒的に多い。注目すべきなのは、424月当時、

 

この資料(満州国警務総局の作成資料)によれば満洲国で働かされていた

 

特殊工人は、軍事部門・産業部門を合わせて33342名だった。それが

 

12ヶ月後の436月には、58708名だった。

 

 また「特殊工人」は軍事目的に使役しなかったといわれることもあるが、

 

実際にはそうではなかった。王は次のように書いている。

 

「黒竜江省南部に位置する五頂山の秘密軍事工程には、華北、遼寧、吉林

 

などから捕まえられた抗日武装人員および一般市民が夜間極秘裏に運ばれ、

 

労役に従事させられたが、工程完成後全員が秘密裏に殺害され・・・」

 

(日軍暴行録・1995年)

 

 この五頂山の秘密軍事工程ではどれくらいの中国人労働者が工程完成後、

 

秘密保持のために殺されたかというと、1942年から1945年までの間に、

 

2万人余りだったという。」

 

「ソ連と戦争するために構築されたこのような秘密軍事工程の数は、

 

(五頂山以外にも)少なくない。そして、そこで殺された特殊工人および

 

一般労工が多数あることも疑う余地がない。」

 

 

「愛護村」から3000名の供出

 

王紅艶は,1941年10月11日付け河北交通株式会社総裁宇佐美寛爾から満鉄

 

撫順炭坑長の大垣研宛の報告書「満州向工人の募集斡旋に関する件」を

 

引用し,次のような計画があったことを記している.

 

その計画によると、194110月上旬から12月末までの3ヶ月間に、華北交通の

 

沿線各地に設置した「愛護村」から3000名の労働者を供出させ、

 

満州各地の事業所に送り込もうというもので・・・このリストによれば、

 

労働者の送り込み先は、いずれも満州重工業課、満鉄の事業者である。・・

 

 このときはまだ形の上では「募集」という体裁を取っていたが、すぐに「

 

募集」という体裁をかなぐり捨てて、「行政命令」による供出という形を

 

取るようになった。

 

 

 強制的集団移住

 

次の労働者収奪の方法は「集団移住」

 

今残っている文書で王紅艶が引用している文書は、例えば1941910日付け

 

新民会徐水県総会事務局から新民会保定道弁事処長宛の「大王店地区特別工作

 

実施状況の件」と題する報告書である・・外界と隔てる壕の西側に大王店地区

 

がある。ここは共産党支持地区(排区)なので、150戸ほど焼き払った。しかし

 

予め住民は壕の内側に退避させておいた。だからその一部を満州労働者として

 

撫順炭鉱に「集団移住」させたというのである。

 

それではどれくらいの人数を送ったかというと、この大王店地区にある二つの

 

村から160名を送ったというのである。男性が93名、女性が29名、小児が

 

38名がその内訳だ。これが家族ごとの移住」の実態である。

 

 

 

以上紹介した「騙し募集」、「割当募集」、「集団移住」は,主として

 

農村部で行われた「労働者狩りで」ある。(しかし、都市部でも同様のことが

 

起こっていた)・・

 

華北政務委員会(日本軍の傀儡行政委員会)宛の「華北民衆からの意見書」

 

についての王紅艶の論文を引用すれば、「天津は繁華な都市であり、万民が

 

集う地域である。・・・近日人が捕まえられることがよく発生し、万民が

 

恐怖に駆られる。・・・

 

真面目な商売人も政府の職員も捕まえられた。証明書をを出しても無駄で

 

あった。民衆は捕まることを恐れて街に出なくなったので、市内はひっそりと

 

している。」

 

 最初は戦闘捕虜を労働者不足の穴埋めにした日本軍は、一般労働者が入手し

 

にくくなるにつれ、労働力の確保のために「特殊工人」を捕獲するようになる・・。

 

 

王紅艶はこう書いている。

 

 1942年春から夏にかけて日本軍が華北で「三光政策」を実行しそれによって

 

捕まった多数の捕虜と一般人市民が満州、河北の炭坑、日本に送られた。

 

1942年「入満労工証発給数速報の件」の4月および6月によると、同年1月から

 

3月中旬まで219,225名が発給され、5月中旬まですでに524,341名が数えられ、

 

305,086名の増加が見られたのである。』

 

(王道楽土どころか)実際は、中国人労働者にとって「満州は地獄」であり、

 

また少なからぬ中国人にとっては文字通りの「墓場」だった。

 

 

「花岡鉱泥の底から(中国人強制連行を考える会 第3集 1993)には、

 

「私は強制連行の実行者でした」と題する小島隆男の文章が収められている

 

という。小島は、その中で次のように証言しているという。

 

1942年、済南の第12軍が日本に労働力として中国人を送るために、どう

 

やったら中国の人たちをたくさん、多く捕らえることができるかという

 

ことで、まず2ヶ月 くらい方法を研究し、訓練いたしました。その時に私たちは、

 

その訓練に参加しております。一番最初、決まったのは、半径16キロ、直径

 

32キロの円を描いて、日本軍が大きな包囲網を作り、それをだんだん縮めて

 

行き、その中に中国の人を追い込み、機関銃を打ち、大砲を打って中心へ

 

追い込んで、それで、畑や部落におる人たちを捕まえて、その中から労働

 

に耐え得る元気な人たちだけを選んで、日本へ連れて行こうと、こういう

 

方法を決めたのです。・・・

 

 この作戦で、約8000名の中国の方を捕まえた。」

 

 

*************************************

キツネの感謝状

 

「田母神論文に見る岸信介の亡霊」ーー中国人にとって地獄,墓場と化した

満州国ーーは,キツネにとって初めて知る事実でした.イサク哲野氏の言う

岸信介の亡霊とは,「法律を自分の都合のいいように勝手に付け替えて,

やりたいようにやる」式の,今もはやりの政治手法であり,それと並んで,

学者,歴史家,マスコミ,(ブロガーも)の「歴史認識」の欠如,あまりの

トッチラカリぶりに対する嘆きの声が全編に響いている.(ちょっとどぎつい

言葉づかいは,キツネも負けないつもりだ)

 

終戦直前の昭和19年に,キツネ一家は満州から帰国した.最後の民間人帰国船

だった.キツネは幼児だったので,日本人居留区のレンガ塀と,水運びの中国人

やオンドル程度の記憶しかない.

 

ここに出てくる「愛護村」(日本の鉄道沿線に設けられた,鉄道防護のための

部落,共産ゲリラの拠点となっていた)から,一般の農民が家を焼き払われ,

財産を奪われ,陵辱され,働ける男は軍用の建設工事や兵力補充のため強制的に

「移住」させられたことは「キツネ国戦記」に書いた.

しかし,満州への入植者が日本人以外の人達を含み,それが強制的に徴用され,

鉄条網の中に囲い込まれ,軍事工事にこき使われ,あげくに軍事機密にふれる

工事とあれば,完了後に中国人労働者を容赦なく殺したという・・・・

何と言うことか.

 

われわれは,終戦時におきざりにされた日本人とその遺児は「かわいそう」,

そして「軍部の無責任」への怒りの感情はあるが,「日本帝国の軍産複合体」

が中国でどんな卑劣で無慈悲なことを,しかも「法律を整えて」やったか,

については未だに全く知らない,あるいは知らないふりをしている.このこと

に関わりのある軍上層部や資本家などは,後に功成り名遂げて立派な墓の下に

眠り,残りの人々は明治ボケしてるのもいるし,中には令和ボケしてるのもいる.

コワイカニ.

 

近視メガネで現在を見る,遠視メガネで明治を見る,そして視点を昭和に

合わせて見たら?・・・「アッタッライイナ,ソーンナ眼鏡!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

2020    10    6

 

 

聞き書き「花岡事件」増補版    野添憲治著

 

御茶の水書房    1992年  

 

 

 

p80       過程と背景

 

太平洋戦争中に、日本の国内へ中国の民間人とか兵士を連行して来て、

 

重労働をさせるようになった直接のきっかけは、東條内閣が財界からの

 

強い要請を受け入れて、昭和1711月に、「華人労働者内地移入に関する

 

件」を閣議決定した時からだった。だが、この閣議決定の背景には、日本の

 

戦争経済の影響が深く張り巡らされていた。

 

 

大正から続いた不況は、昭和に入ると世界的な規模で広がった恐慌に突入して

 

行った。不景気はどん底となり、この恐慌に対応していくために、浜口内閣は

 

産業合理化運動を進めた。その結果、企業の合併や、生産制限を実施したため,

 

失業者が続出していく中で日本から,兵士や民間人が中国へ渡った。

 

だが、働きたくても働く場がなかった日本の労働力が、逆に不足になってきた

 

のは、中国東北部(旧満州)への侵略と、日中戦争の拡大と長期化の中で

 

起こった、戦争経済のためであった。また、中国東北部への侵略と同時に

 

始められた満蒙開拓移民も、昭和に入ると順調にすすめられていった。

 

 

しかし、昭和12年の中国に対する全面的な軍事侵略後は、多くの兵士や民間人

 

が大陸に渡り、日本国内で労働力が次第に不足となってきた。・・・

 

 さらに、昭和15年以降の中国に対する日本兵の大量投下後は、国内の労働者

 

不足は一層深刻になり、(国内での調達が不可能になってきた。その代償として)

 

朝鮮人にも徴用制が実施されたが、徴用と言っても実際には、強制連行と同じ

 

方法がとられた。「郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早堯、突然男手の

 

ある家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを廻して

 

何気なくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成」(蒲田沢一郎『朝鮮新語』)

 

すると、日本に連れてきたのである。

 

太平洋戦争の間に、秋田県北の小坂鉱山、尾去沢鉱山、花岡鉱山の三つのヤマ

 

に、約3000人の朝鮮人が連行されてきたと言われている。・・・

 

このように多くの朝鮮人を国内に動員しても、労働力の不足はますます深刻に

 

なって行った。そのため、政府と財界は、中国人の国内連行を真剣に考える

 

ようになった。だが、その以前から日本軍は満州や樺太などの鉄道工事や鉱山

 

などで、大量の中国人を使役していた。この時に使役した中国人、労工狩りと

 

いう方法で集めたのだが、この労工狩りは日中戦争の頃から、大陸にいる

 

日本軍の手で大々的にやられていた。

 

 

p10        連行そして寮へ

 

 

第一次の295人の中国人が花岡鉱山に連れて来られた昭和1988日は、

 

朝から蒸し暑い日だった。大館駅前には、昼過ぎから日本刀やピストルを

 

腰に下げたり、木刀を手にした多数の警官たちが、緊張した顔をしながら

 

集まっていた。やがて貨物列車が大館駅に着くと、列車に乗ってきた銃に

 

帯剣したままの兵隊が十数人、ホームに降りた。警官が有蓋貨車を取り囲むと、

 

戸の錠が外され、中から中国人がこぼれるようにホームへ降りたが、まともに

 

歩ける人はほとんどいなかった。

 

この時に連行されてきた李振平さんは、その時のことをこう語っている。

 

「花岡に着いたの、汽車に乗って、4日目の昼のことね。汽車のドアを開け

 

られても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車

 

から線路に転がり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、

 

息止まったような気持ちして、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の

 

憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことのできない

 

の」・・・・

 

中国人も、また日本人も語っているように、汽車で大館駅に着いた一行は、

 

満足に歩けないほど、疲れ切っていた。それは、大陸で日本軍に捕らえられると

 

俘虜収容所にいれられ,さらに貨物船で日本に着くまでにも,ひどい生活を

 

させられたためだが,このことについては後ほど詳しく触れたい。・・

 

李さんの話を聞こう。

 

「日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、

 

水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり2つくれたの。何日も食べてない

 

から、みんなそのおにぎり、のみこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、

 

4日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。

 

木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ちね。あの時の295人の人たち、

 

50歳以上の人たち20人くらい。16歳より少ない少年が6人ぐらいでしょ.

 

あとの人はみんな、20代から30代の青壮年たちでしょ。一番腹の減る年頃に、

 

4日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、お腹空いて気違いのよう

 

になるの。当たり前のことね」(野添健治「花岡事件の人たちー中国人

 

強制連行の記録ー」評論社)

 

 

また、有蓋車に乗せられるというより、押し込まれて錠をかけられるので、

 

車内に空気が入ってこなかった。そのため汽車が動き始めると、板張りの壁

 

の板と板の小さな隙間に口や鼻をつけると、代わりがわりに空気を吸った。

 

しかし、汽車が停車すると、空気が流れてこないので、人いきれで車内は

 

地獄のようになった。しかも、有蓋車にはもちろん便所がなかった。大便や

 

小便は車内のひと隅を決めて、そこでやったものの、匂いは車内に充満した。

 

しかも真夏の暑い盛りに、空気もほとんど入ってこないだけに、弱った体は

 

その匂いだけで参ってしまった。

 

また、食事は4日間に駅弁を一つだけ渡されたものの、水は1滴も渡してくれ

 

なかった。喉はヒリヒリと乾き、気が狂いそうになったという。中には

 

とうとう我慢ができなくて、自分の小便を呑む人もいた。だが、小便を呑んだ

 

後がまた苦しかった。乾いた喉に塩分がしみるので、あまりの痛さに板へ頭を

 

叩きつけて悲鳴をあげたという。そのため下関から297人が乗ったのに、大館に

 

着くまでに2人が車内で死んだのだった。

 

真夏のことなのですぐに死体が腐り、その匂いがまた中国人たちを苦しめる

 

というように、文字どおりの死の旅であった。

 

 

(終点の花岡駅で、鹿島組花岡出張所長で、中国人たちが入る中山寮の寮長

 

の訓話があった)要約すると、『東亜各国が共存共栄のため、日本は大東亜

 

戦争という聖戦を続けているが、日本は神国であり、不敗の皇軍と偉大な

 

大和魂があるから、必ず勝つ。そのために日本へきたお前らは、十分に働け。

 

もし怠ると、徹底的に罰を加える』

 

 

(終点の花岡駅で下車すると)やがて中国人の一行は、警官や鹿島組花岡

 

出張所の補導員(現場監督)たちに囲まれて歩き出した。四日間に駅弁一つ

 

より食べていない中国人たちの歩き方は遅かったし、よろめく人もいた.

 

その度に警官は木刀や竹の棒で打ったり突いたりしたが、呻くだけで声を

 

上げる人もいなかった。

 

中山寮に全員が着いた時は、夏の燃えるような太陽が、山頂に沈みかけている

 

時であった。粗末な中山寮が建っているところは、あまり日の当たらない湿地

 

だった。そこから民家は一軒も見えなかった。

 

中山寮は補導員の宿舎、宿直室、炊事場、倉庫などのある一棟に向かい合う

 

ように、長方形の3棟があった。これが中国人の宿舎で、汽車のように真ん中が

 

通路で、両側は板を敷いた居間と寝室の兼用で、上下の2段になっていた。背の

 

高い人だと頭がつかえるほど低かった.

 

4棟から少し離れたところに、病人を収容する部屋の他に、遺骨安置室と看護人

 

が入る看護室があった。この看護棟よりも山の方に、死体焼き場があって、

 

近くを小川が流れていた。これが中山寮の全景であった。

 

295人の大隊長は、大陸を出発する時から耿諄に決まっていた。元国民党軍の

 

将校で、なかなか信望のある人だった。その耿諄が幹部を決め、花岡鉱山に

 

着いてから全員を振り分けたのである。大隊長の下に副隊長、書記、軍需長、

 

看護兵を一人ずつおき、大隊を三つの中隊に分けてその下に小隊を置いて、

 

それぞれに中隊長と小隊長をおいた。

 

花岡鉱山にはかなり早くから大手の土建会社が入り込んでいた。選鉱工事は

 

清水組、ダム工事・河川工事は鹿島組の請負で、その下請けには秋田県下の

 

土建業者が動員された。当時(昭和198月ごろ)鹿島組花岡出張所と中山寮に

 

勤めていたのは寮長代理の伊勢知得で、伊勢の下には庶務(食糧係)の

 

小畑惣之助がおり、傷痍軍人で中国の戦場から帰還した人であった。この他に

 

有明千代吉という元軍人もいた。もう一人の庶務(事務係)は越後谷義勇(19歳).

 

軍務の経験がなく、中国人をかばいすぎるとして、同僚から快く思われなかった。

 

 

実際に監督に当たった補導員は、福田金五郎、長崎辰蔵、猪俣清、桧森昌治、

 

吉谷四郎の5人で、小畑と同じように傷痍軍人で、中国戦線からの帰還者だった。

 

清水正夫は日中混血で中国語が上手であった。石川忠助(40歳)も軍隊の経験

 

がなく、越後谷と同じに、中国人に信頼された.医務担当の高橋豊吉は元衛生兵

 

で,もちろん医師の資格はない.高橋は1日に1度くらい中山寮に顔を出すだけで、

 

治療には当たらなかった。また、華北労工恊会から通訳として派遣されていた

 

于傑臣は、中山寮や作業場に行ったりしたが、同じく華北労工協会から来ていた

 

木村初一は、鹿島組花岡出張所にいて、あまり中国人とは接しなかったという。

 

 

こうした人たちが、花岡鉱山に連れてこられた中国人たちの相手をしたのだが、

 

補導員の中に5人、庶務に1人の計6人の中国戦線帰りの傷痍軍人と、1人の

 

日中混血がいたことに注目すべきである。大陸生活の体験があり、片言に

 

しても中国語がわかるというのが採用の条件だったのかもしれないが、結果的

 

にはこの人たちが、大陸でおこなった同じ行為を、花岡の地でも繰り返し

 

たのだった。

 

 

では、強制連行されてきた中国人たちには、補導員を含めた関係者のことが、

 

どのように見えたことだろうか。花岡事件の生き証人として、今も札幌に住んで

 

いる劉智渠さんは、こう回想している。これは、花岡鉱山に着いた翌朝に、

 

伊勢寮長代理が訓話をした時のものだが、中国人ははじめて中山寮と自分たちを

 

管理する日本人を、まざまざと見たのだった。

 

「伊勢の左に立っている補導員は、丈の余り高くない、頭と目の大きい男で、

 

大きな眼鏡をかけ、口の引き締まった顔で、異常な尊大感を与える人間だ。

 

胸の白布には『福田』という姓が書いてある。さらにその左隣には『清水』

 

というのが立っているが、これは小太りした男で、背丈はさらに低く、汚い

 

あまりスマートでない男だ。さらにその左隣りのは『石川』といい、中年の男で、

 

八字髭を蓄え、人相の悪い凶悪な顔つきである。一番左のが『越山』 という

 

痩せた丈の高い男で、着物の上にたくさん繕った針のあとがある。伊勢の右隣には、

 

「小畑』というのが立っていて、中肉中背・・顔のへっこんだ唇の大きい男で、

 

目が大きく、生きた閻魔王のように凶悪に見える。その右隣には『猪谷』という

 

男が立っているが、これも伊勢と同じように少しも笑顔の見られない豚のような

 

男である。一番右翼に『長崎』というのが度の強い眼鏡をかけている。よく見ると

 

片目しかなく、もう一つの目は潰れている。片目しかないけれども、人を射る

 

ような光を放ち普通の人の両眼よりも更に怖い感じがする。

 

日本は確かに神国である。伊勢以下のこの7名の勇猛な『虎将』は、誰一人と

 

して凶神や厄神に似ないものはない。ただ惜しいことにちんばの『李鉄拐』

 

一人を欠いているが、あとでこれが加わって、『八仙』になった。」

 

補導員については、他の2人の中国人はこう証言している。

 

「私たち、日本人の言葉よくわからないね。補導員に『オーイッ』呼ばれると、

 

もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ、この叫ぶの聞くと、もうからだ

 

固くなったさ。今でも補導員たちの叫ぶ声、よくわかるね』(林樹森)

 

『補導員」たち、中国の言葉わかるの人多いね。ほとんどの人たち、私たちの

 

言うのわかる。だから私たち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。

 

そのこと聞こえると、また棍棒飛んでくるからね』(李振平)

 

3人の中国人たちは、花岡鉱山で奴隷のような生活をさせられただけに、直接に

 

手を下した補導員をこう見るのは、当然のことであろう。それにしても、

 

こうした人たちだけが補導員として集められたところに、花岡事件に発展する

 

深い根があったのだった。それに、戦争という状況が加えられながらーーーー

 

 

p22 中山寮生活

 

花岡鉱山での中国人たちの生活は、午前5時に鳴る軍用ラッパの音で始まった。

 

ラッパの音に続いて起き上がると、板の間に座った。着たままなので着替える

 

ことも、毛布をたたんだりする必要もなかった。また、歯を磨いたり、顔を

 

洗ったりするにも、場所も道具もなかった。座ったまま大きなあくびを23

 

やり、手で目を23回擦ってから、掌で顔を何回か撫でると、もう朝の準備は

 

終わった。

 

食事が配られる頃、ようやく東の空が白くなり始めた。朝食は小さな饅頭一つと、

 

皮がついたままのフキが一本だけだった。食べたという気がしないうちに、

 

もうなくなっていた。弱い朝の日が差してきた頃、中国人全員が外に呼び

 

出されると、中山寮の前に整列した。

 

やがて、伊勢寮長代理や補導員も集まると、南に向かって〝皇居遥拝をした。

 

それが終わると、伊勢寮長代理の訓話が始まった。それを于通訳が中国語に

 

訳して全員に伝えた。「みんな初めて花岡に来たのだから、特別待遇として

 

最初の一週間だけ休暇を与えるが、その後は本格的に仕事に入ってもらう。

 

だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、山を開墾して畑を作る

 

ことにする。この仕事も大東亜建設に尽くす義務の一つだから、怠けたりしないで、

 

精一杯働け!」

 

訓話が終わると班ごと(1班が10人)に分かれて仕事が始まった。幹部たちは

 

花岡川を改修する工事現場を見に行ったし、看護班の人たちは便所を作ったり、

 

寮の前に井戸を掘ったり、寮の中や周りの整理をやったが、他の人たちは荒地

 

を開墾して畑にする仕事をやった。

 

「中山寮の設備、ぜんぜんダメだからね。私たち、花岡鉱山に来たの、8月の

 

半ばに近い頃でしょ。昼は暑いけど夜はもう寒いからね。私たち、日本の気候

 

に慣れてないから、特に寒いの。寝るところ、上下一段のベッドで、板は

 

敷いとるけど、布団も毛布も一枚もないの。着替えるものも持ってないから、

 

そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから寝るけど、

 

夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に

 

寝られないから、体もっと疲れるわけね」(李振平)

 

「せめてアンペラぐらいあるといいけど、中山寮のあるところ、かなり高い

 

山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹き下ろしてくるから、寒いの。羽

 

目板の隙間から、その寒い風入ってくると、体がガタガタ震えてくるの。

 

足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね」

 

(林樹森)

 

「中山寮の中に風呂もないでしょ。体は垢だらけでしょ。カミソリもないから、

 

頭の髪や髭、伸び放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。私たちの姿、

 

地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。(劉智渠)

 

 

昭和198月頃といえば、日本人も貧しかった。だが、異郷に強制連行されてき

 

た中国人たちの場合は、あまりにも酷かった。しかも、こうした悪い待遇は、

 

秋に向かうにつれてエスカレートしていくのだった。特別待遇の一週間は

 

瞬く間に過ぎて、本格的な仕事を始める日がやってきた。

 

鹿島組では、藤田組から、花岡川を信正寺付近から切り替えて、前田北部を

 

東に神山台地に横断して大森川へ落とす工事を請け負っていたが、日本人の

 

労働者を雇うのは難しいために、国の方針で強制連行してきた中国人を連れて

 

きたのだった。

 

最初の日は、肌寒い風が吹く早朝に、寮の広場に整列した中国人に対して、

 

伊勢寮長代理の行う講話から始まった。

 

「特別待遇の一週間は昨日で終わった。今日から本当の仕事に入るが、

 

鉱山は大東亜建設の原動力の一つである。作業には、少しの怠慢もあっては

 

ならない」于傑臣通訳が途切れ途切れに訳して伝えたが、中国人たちは寒さと

 

疲れが重なり、聞いている人はほとんどいなかった。訓話が終わると、数列に

 

並んで現場に向けて出発した。列の所々に補助員が付き添って、監視の目を

 

光らせた。

 

中国人たちが蛯沢の中山寮から現場へ行く道順は、できるだけ人目につかない

 

ように、上手に工夫されていた。それだけ距離は遠くなったが、同じ花岡鉱山

 

に連れてこられているアメリカ人俘虜とか朝鮮人俘虜、それに日本人に見せない

 

ようにしたのだった。・・・

 

蛯沢の中山寮から作業現場までいくまでの苦しさを、中国人たちもこう

 

言っている。「労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。それに、

 

中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。私たち看護班も、はじめは病人

 

いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か現場で死ぬ人あると、蛯沢に運んで

 

きて、焼いたけどね。補導員に殴られて、歩けない人も、中山寮に運んできたが、

 

あれ、遠かったね」(林樹森)

 

「遠いさ。あれ、4キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。

 

朝下っていく時はいいけど、晩に帰る時は大変さ。途中で息が切れて、何度も

 

休むね。休むの見つかると、補導員の棍棒飛んでくるから、息切れそうに

 

なっても、なかなか休めないの」(李振平)

 

時には殴り殺された中国人が運ばれることもあった。

 

中山寮と作業現場との往復も大変だったが、仕事はそれ以上に辛く、苦しい

 

ものだった。川に掘り下げる所は、雑木の茂った平地だった。青写真を手に

 

した日本人の技師たちが、ハガネの巻尺を広げている助手を相手にした、

 

赤白のポールを立てて測量しながら、トランジットやレベルを据えていた。

 

測量の終わった現場では、中国人たちが「ノコやクワで雑木や、雑草の

 

根株に挑み、ある現場では表土を掘り終えて、やがて幅3メートルほどの川の

 

格好を作り始め、ある現場では、崩し始めた山から沢へかけて、残土を運ぶ

 

トロッコの仮レールを敷いていた」(地底の人々)というように、

 

作業が始まった。だが、全く初めての日本式の土木作業をする苦労は

 

大変であった。

 

「仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川作ることでしょ。

 

仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それから私たち

 

小隊長、それから班長に伝わってくるの。仕事の終わる時間、大体午後の6時

 

となっているけど、6時に帰れる人、何人もいないさ。一人が一日働く分と

 

して、川を掘る面積、1平方メートルずつ割り当てられるの。6時までにその

 

分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても

 

帰れないさ。晩の8時頃まで働く人もいたさ。」(李振平)

 

1次の295人を世代別に見ると、10代=24人、20代=90年、30代=49人、

 

40代=24人、50代=30人、あとは不明となっている。10代の子供たちにも、

 

50代の年配の人たちにも、同じ量の仕事を割り当てた。働き盛りの20代から

 

40代まではいいとしても、年少者や年配者にとっては、大変な仕事量であった

 

午後6時の時間通りにできないのも、当然だった。しかも、中国人たちの労働

 

が厳しい上に、補導員たちの暴力がいつも彼らの体を襲った。

 

「現場で働く人、何班にも分けられてたでしょ。1班は10人だから、10m2

 

割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が

 

多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力がない

 

から、上に運び上げるの仕事、大変さ。何十キロもある大きな石、3人か4

 

かかっても上に上げることできないの。途中まで上げて、力がなくなって、

 

また川に掘った底に落としてしまうことあるの。そのこと補導員に見つかる

 

でしょ。牛の皮のほしたムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと

 

叩くの。倒れるとカネのついた軍靴で倒れている人の体、どんどん踏んで叱る

 

の」・・・・

 

 重労働をするようになっても、中国人たちの三度の食事は、小さな饅頭一つと、

 

皮のついたままのフキが一本とか半分であった。重労働は辛いものだったが、

 

食事の量が少なく、質も悪いことが、中国人たちを一層くるしめる結果となった。

 

(中略)

 

中国人はやはり特殊に扱われて、日本人並みの配給量が来なかったのだろうか

 

と思って、秋田県庁に残っている資料を調べにいった。もう十数年も前のこ

 

だが,あの時の驚きを今ではっきりと憶えている.わたしの目の前に広げ

 

られている資料には、日本人と同じ量の食糧が配給になっていた。しかも、

 

中国人という特別な食生活を考えてのことらしく、主食品は日清製粉製の

 

4等品」の粉だった。それなのに、中国人の口には入らずに、どこに消えたの

 

だろうか。「当時、食糧営団花岡精米所に勤めていたK子さんは、『組(鹿島組)

 

には毎日、たくさんの米や食糧が入ったはずですよ。私が記録していたから

 

間違いないです』と証言する。(花岡事件ノート)私が、県庁で見た資料を

 

裏付けている。また、敗戦後に民間人の手で作成された中国殉難者名簿

 

同作成委員会編『中国人強制連行事件に関する報告書』には、次の2つの話が

 

収録されている。

 

あの当時、花岡町の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だと

 

言って役場には知らされず、食糧の配給のことも県から直接にやられていた。

 

何人きたか、どうして死んだのか何で死んだのかも役所にはわからなかった。

 

食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗2本皮も剥かないものと、饅頭

 

1つ渡されているのを見ました。汪精衛の方からよこされて鉱山に直接使われ

 

ていた人たちは、同じ配給であったが、割合しっかりしていたから、鹿島組は

 

本当にひどいことをしたものだ」

 

また、中国人が蜂起した時に殺された補導員のうち、2人は大館に住んでいたが、

 

近くの人たちは「彼らの家にはいつも食料が豊富にあった。我々のところには

 

ご承知のようにますますひどい状況になったのに、彼らの食生活はますます

 

豊かになった。みんなで、彼らがひどく中国人のピンハネをやっているんだと

 

噂していた。中国人に殺されたと聞いて近所では、当然だと話し合った」と

 

証言している

 

食糧についてもう少し証言を聞いてみたい。この問題は、中国人がどのように

 

扱われたかと同時に、中国人を蜂起させる原因にもつながっているからである。

 

わたしの知人に、嶋田展代さんがいる。・・戦時中大館市大町に住んでいた。

 

彼女は当時の記憶をこう語っている。

 

「私たち一家がいた大町の菅原さん宅の奥の一番いい部屋に、花岡鉱山の

 

鹿島組出張所長をしている河野正敏さん一家が借りられていました。そこ

 

には、立派な防空壕があって、私たちも何度か入りましたよ。母から聞いた

 

話によると,朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそう

 

です。私たちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない

 

角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつも綺麗にして

 

いらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」少女の目に

 

映った,当時の現実である.また,中山寮で中国人に温かく接した越後谷義勇

 

さんは、昭和1910月から寮の事務員となった。時々食べ物などを、こっそり

 

中国人に与えたりしていたが鬼みたいな日本人に囲まれている中で、彼だけは

 

"小兵大人"と呼ばれていた。今でも、劉さんや李さんと交際を続けていると

 

いうが、その越後谷さんはこう語る。

 

「中山寮にきた食糧なども、補導員の人たちが山分けしたとも言われている

 

が、わたしはそんなことはしたこともないし、そんな現場を見たこともない。

 

わたしも食料を運んだりする仕事はしたが、食料倉庫の鍵は、寮長と小畑が

 

持っていたため、勝手に倉庫の中に入ることはできなかったので、倉庫の中

 

にどれくらい食糧があったのか、全然わからなかった。ただ、寮長と小畑の

 

2人が、麦粉を四斗俵で1俵売ると、何百円になるという話をしていたのは

 

聞いたことがある。・・

 

しかし食料を四斗俵で持ち出したのを、中国人たちに見られたことがあった

 

らしい。四斗俵を持ち出しても、そんなに遠くへ運ぶことは出来ないから、

 

おそらく中山寮より下の方にあった朝鮮人の寮にでも売ったのだろうと思う

 

が、そうしたことは実際にあったらしい。中国人が骨と皮ばかりに痩せて

 

いるのに、倉庫の食糧を横流ししていたのであれば、やはり責任は大きい

 

だろう」・・

 

 

こうした数々の証言、資料などをみてもわかるように、鹿島組花岡出張所に

 

強制連行された中国人たちには、日本人と同じ量の食糧が配給されていた。

 

が、その食糧は鹿島組の人たちが家に運んだり、また売ってカネに換えたリ、

 

警官の土産や伴食などで。かなりの量が消えたというのが真相のようである。

 

しかも、その被害をまともに受けたのが中国人であった。長時間にわたる

 

重労働が続く中少ない食べ物に苦しみ、疲れてよろめくと、補導員に殴る、

 

蹴るの暴行を受けてけがをしたり、あるいは死んでいった。また、栄養失調が

 

原因で病気になる人も多く、看護棟に入る人も出てきた。また、空腹を満たす

 

ために食べた毒草で、中毒する人も出てきた。

 

 

耿諄大隊長と羅士英副大隊長は、俘虜を代表して、伊勢と食料を管理して

 

いる小畑のところへ行って、食糧の増加を要求したが、・・・「伊勢は責任を

 

鹿島組に着せて、上の方からこれだけしか食糧を支給してきていないのだ

 

から、増加の方法がないと言った」というのだ。あまりにも少ない食糧の

 

支給に対して、食糧の増加を要求したのを蹴っただけではなく、

 

鹿島組花岡出張所は、その翌日から、報復としてさらにきつい労働の強化を

 

押し付けてきた。この建設週間に入ると、補導員たちの監督は一層厳しくなり、

 

多くの中国人は食事もとらず、真夜中まで働かされたのだった。

 

 

(中国で看護班にいた)林樹森の証言「病気になる人多いのに、医者もダメ

 

でしょ。わたしの他は、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因

 

分かっても、薬ないから何にもしてやれないの。死ぬのを待っているだけよリ

 

方法ないさ。花岡鉱山に来て初めての時は、何十日かに一人くらい看護棟に

 

来たけど、建設期間が終わると、病気になる人、だんだんと多くなってきたさ。

 

結局、倒れたらダメよ。わたし看護班にいたから、中国人の体のことよく

 

わかるの。少し風邪引いて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれ

 

てくるでしょ。それから3日か4日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。

 

絶対に死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、(病人は働かないからその分、

 

食べ物は与えなくてもいいという理由で)饅頭の大きさ、また小さくなるの。

 

幾らも食べることできないから、体もっと弱って、病気に勝てないわけね。

 

このころのことを、劉智渠さんはこう口述している.

 

「ある日の午後、わたしは死亡報告書を書いてみた。日本文で印刷されては

 

いたが、漢字が基本になっているので、その意味をくみ取ることができる

 

ので、私は慎重に一々各項目を書き入れてから事務室に持っていった。

 

事務所の前の方は、事務用の机と椅子や電話がおかれ、後ろの方は宿直する

 

補導員と于傑臣の寝室になっていた。伊勢はちょうど畳の上で目を閉じて

 

瞑想に耽っていたが、私はおずおず彼に報告書を渡した。彼は眉をひそめ

 

ながら不機嫌そうにそれを受け取った。

 

報告書の幾通かに目を通してから、彼は突然怒り出し、立ち上がって私の

 

横っ面をぶん殴った。理由がわからないので私は呆然と立ちすくんでしまった。

 

彼は于傑臣を呼びつけてから、報告書を指しながら二言三言何か言った。

 

于傑臣は私に、報告書にある死亡原因の『栄養失調』や、『脳部打撲傷』

 

などというのを『コレラ』や『日本脳炎』などに書き換えるようにという

 

のだった。「しかし、いまは夏でもないし、また死んだ者は子供でもない

 

でしょう!」「劉君!何もそう彼を刺激することはないじゃないか。ばかな

 

目を見るだけだよ」(花岡事件)

 

結局、疫痢とか急性肺炎に描き直して、この場はようやくおさまったのだが、

 

死因もこうして書き直されたのだった。

 

こうした苦しい労働と生活が続く中で、花岡鉱山も夏から秋に、そして初冬へ

 

と季節が移っていった。やがて雪に埋まるようになると、中国人は寒さと飢え

 

という、新しい苦しさを受けなければならなかった。その事情を中国人から

 

聞こう。「夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も

 

枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。

 

しかも、秋だんだん深くなるから、骨と皮ばかりのやせた体、寒さ一番こたえる

 

さ。私たちの着てるもの、下関についた時にもらった夏用の単衣物が、二枚

 

よりないよ。履き物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂

 

とか、冷たい水とかに、いつも足浸っているからね。足は凍傷にかかって、

 

感覚なくなっているよ。手袋なんか、ひとつもないよ。素手で、凍った土や

 

石、雪掴んで働いたさ。(李振平)

 

「靴下もぜんぜんないからね,雪降ってきたら,ワラ少しずつ集めて,ためて

 

おくの。そのワラたまってから、履くもの作ってはいたさ。このワラの靴

 

はいても、足だけ隠せることできるけど、あとは隠せないから、濡れる

 

だけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その

 

雪の中で、半分も破れた履き物の上に、ワラで編んだ靴のようなもの履くだけで

 

仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、今も寒くなると

 

痛むね。この傷あと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、

 

わたしの体忘れさせてくれないわけね」(林樹森)

 

「着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのような

 

もの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風刺さってくる

 

のね。雪ふってる日だと、体みんな濡れてるから、特に寒いさ」(李振平)

 

 

 

p100ーー内地移入計画

 

日本政府とその関係者が作り上げた、中国人の内地移入の計画や、また実施が

 

どんなにいい加減なものだったかを、鹿島組花岡出張所へ強制連行されて

 

きた、3人の証言から聞きたい。まず李振平さんである.

 

「わたしね、1921715日に河北省河間県に生まれたが、小さい時の

 

こと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、

 

中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても

 

学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、 ほとんどの子供達、その

 

ために学校に行くのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の

 

仕事手伝っていたが、1ヶ月のうちの半分は逃げていたね。日本兵が襲ってきて、

 

逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも3年くらいは農業の

 

手伝いしていたが、日本兵のくるのだんだん多くなって、全く仕事にならなく

 

なってしまった。

 

友達殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとる

 

でしょ。 若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うことに

 

決めた。一番最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。

 

それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたし

 

の部隊の中で、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。

 

村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行って

 

も、村の人みんな逃げていない。家に残したもの、日本兵来てみんな徴発

 

して、何にもない。腹へってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で

 

踏みつけて歩く時もあるさ。1941年の春、私たちのゲリラ部隊、日本軍に

 

包囲された。包囲されたきり、だんだん狭くなってくる。その時、私たちの

 

部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんな使って

 

しまった。あの時、だいぶ捕まったさ。捕まった人どれくらいだったかは、

 

あっちこっち連れて行かれて一緒ではなかったので、よくわからない。

 

一箇所にまとめられて、収容所まで歩く時、何十人か、何百人かが一組に

 

なって連れて行かれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あの時捕らえ

 

られた人の中で、中国の東北の炭鉱に連れて行かれた人もだいぶいた。

 

わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、

 

日本に連れてこられたのは、わたし一人だけね。・・・収容所の食べ物、

 

コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。日本に連れてこられる

 

時に、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんな体弱っていた。体悪い状態

 

のまま、日本に連れてこられた。自分で立って歩けないような体の弱っている

 

人ばかり、日本に来たさ」

 

 

林樹森さんは1917年に河北省寧晋県に生まれ、小学校を卒業して会社に勤め

 

ながら、医者になる勉強を続けていた。やがて、人民解放義勇軍に身を投じて

 

医療の仕事に従事しながら日本兵が襲ってもうまく逃げのびていた.。

 

「だが、3度目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時はもう村が

 

囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕らえられたのが、

 

ゲリラに入って5ヶ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家

 

には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵が来た時、『わたし兵士

 

じゃない、民間人だ』と叫んだ人も、みんな捕らえられた。日本兵から

 

見ると、農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、

 

日本兵は働ける人捕まえにくるのがだから、8歳ごろの子供でも、60歳を

 

超した年寄りでも、片っ端から引っ張って行くのだからね。日本兵に捕まった

 

人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着の身着のままでなんにも持って

 

ないね。みんな土手の上に座らされたさ。日本兵の偉い人が、何か盛んに

 

言ってるけど、何を言ってるのか全然わからないの。わたしそれを見ながら、

 

あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際

 

そうなったが、

 

わたしはその時、妻と2歳の子供がいたの。もうどうなっても仕方がないさ、

 

と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらく

 

たってから、向こうの農家の庭に土の塊があるでしょ。日本兵がその土塊

 

拾って、座っている人の上に投げるでしょ.その土塊が頭に当たった人を

 

ナワで縛り、トラックのそばに連れて行ってのせるの。最初はなにやっている

 

のかわからず、おかしかったけど、この土塊が頭に当たったら大変ね。

 

抵抗なんかできないまま、トラックに乗せて、連れて行かれるのさ。わたしの

 

頭に土塊が当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい

 

乗ると、土くれ投げるのやめて、トラック走ったさ。

 

それから石家荘の収容所に連れて行かれて、トラックからゾロゾロ落とされた。

 

わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所

 

には捕まった人大勢いて、建物へ入りきれないのでテント張ったらしいが、

 

テントは雨露防ぐだけで、周りにはなんにもないの。私たちはここに連れて

 

行かれると、着ているもの全部脱がされてしまったさ。

 

逃走するの人防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも

 

敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散ら

 

ばっているので、横になることもできないさ.食べるものも、1日に2回だけね。

 

コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんで

 

いるスープだけ。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。

 

便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 

だんだん体悪くなって、歩くこともできなくなってきた。このまま死ぬん

 

じゃないかと何回も思ったね。北京の収容所に行く汽車に乗る時、わたしは

 

這って行ったさ」・・・(林樹森)

 

 もう一人の劉智渠さんは、1920年に河北省薊県に生まれ、農業をやった後、

 

20歳の時に八路軍に入って訓練を受け、抗日思想を教えられた。

 

「訓練終わってからゲリラになって、日本兵と戦ったさ。昭和194月の

 

ことね。まだ朝の暗いうちに、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢を探りに

 

行ったわけね。鉄道の周り調べていると、突然、銃声がしたの。私たち、

 

すぐ逃げようとしたけど、156人が射撃しながら進んできた。私たちも

 

応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕らえられたの。この部隊、偽政府

 

(汪精衛政府)の中国人たちね。2人の日本兵いて、指導していた。

 

今度両手を縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜

 

収容所ね。日本の将校と通訳に尋問されて、何回もビンタやゲンコツもらった

 

けど、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。・・(中略)

 

 

ここでもたくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少ないから、

 

体弱ってるの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。

 

隔離室に入ったら、もうおわりね。元気になって戻ってきた人、わたし見た

 

ことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶置いて

 

あるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその

 

棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれ担がせるの。遠くに運んで

 

行くと,深い穴掘ってあるの。その上に土被せて、次に運んだ時に、その上に

 

くるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。

 

すると、また新しい人たち、どっとやってきた。

 

そうだ、西苑にいた時のことで、今でも忘れることできないのあるの。

 

ある日、私たち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に

 

出ると、広場の真ん中に国旗の立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、

 

縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕ら

 

えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊くると、

 

銃の先に銃剣つけていた。今度、2人の兵隊、隊長の命令で、銃剣突き出して、

 

縛られた人に突撃して行ったでしょ。体に2本の剣突き刺さった時の叫び声、

 

今でも聞こえてくるよ。それ終わると、死んだ人の体に、2人の兵隊が組に

 

なって、次々と突撃して行くの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人の

 

体、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのことを思うと、今でも

 

胸痛いよ。このこと、何回も、何回もあったね。生きている気持ち、

 

しなかったね」

 

 

三人の証言を聞いても分かるように、兎狩り作戦で捕らえられてから、北京に

 

送られるまでの間に多くの人が死んだ。また、北京の更生隊の建物の中でも、

 

日本に送られるまでの約23ヶ月の間に、多くの中国人が死んでいるという

 

よりも、殺されたと言った方が正しいだろう。

 

日本に強制連行された中国人は、38935人であった。この中国人たちは、

 

日本国内の35事業場で強制労働をさせられた。

 

「『外務省報告書』は、死亡状況を次のように報告している。

 

連行船中死亡・・・・・567

 

事業場到着前死亡・・・448

 

事業場到着後死亡・・・5999

 

うち3ヶ月以内死亡・・2,282

 

==3ヶ月後死亡・・・3717

 

生存者集団送還時以後死亡・19

 

計・・・・・・・・・6830名

 

 乗船者総数38935名に対する死亡者の比率は、175%にあたる。

 

この数字には、人員確保のための作戦、一般住民を拉致する際の大量の殺害は

 

無論表に現れていない。また、捕獲、拉致後、中国人を収容した中国各地の

 

収容所1万人坑などおそるべき死の家の中で膨大な死者があったことも

 

併せて想起する必要がある」(花岡暴動)ことは3人の証言からも十分に

 

知らされる.こうして北京に集められた「労工」と呼ばれる中国人たちは、

 

労働者を必要とする企業が日本政府機関に申し出て審査を受けた。そして、

 

移入の許可が与えられた企業は、出張員を北京に派遣して、華北労工協会

 

との間で、「労務者供出」の契約をすることになっていた。

 

こうして、鹿島組では正式に、中国人労働者を内地の事業所に連行してくる

 

ことが決まったのだった。そしてまた、「昭和19年度国民動員計画策定に

 

関する件」も閣議決定され、昭和19年の企画院の「昭和19年度国民動員

 

計画需要数」の中に、中国人労働者も計上されて行くのだが、花岡鉱山の

 

鹿島組花岡出張所に、多数の中国人たちが連行されてきた裏には、こうした

 

政界と財界の流れがあったのである。

 

 

p123  残虐行為の生み出したもの

 

 

中国人が花岡鉱山に来てから、約半年ばかり過ぎると、まともに仕事が

 

出来る人は、半分 くらいになっていた。ようやく雪が消えて、これから

 

本格的に作業をやろうという時期になったのに、この人数ではどうしようも

 

なかった。しかも、花岡工業所からは、工事はまだ完成しないのかと、

 

矢の督促であった。そこで鹿島組では、再び社員を北京に派遣させると,

 

中国人労働者を連れてくる契約を、華北労工協会との間で結んだ。そして、

 

昭和2055日に第二次連行者582人、同年64日に第三次連行者98人が

 

それぞれ花岡鉱山に連れてこられると、鹿島組花岡出張所の傘下に入った。

 

そのときのことを第一次連行者は次のように語っている。

 

「新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で2時間ほど

 

長くなったでしょ。それに、食べるもの悪いでしょ。私たちもう花岡に来て

 

9ヶ月ばかりになるから食事の悪いのこと、かなり慣れてきているさ。でも、

 

新しく来た人たちは大変さ。初めてのことだから、腹減ってくるの、当然さ。

 

腹減って、芽が出たばかりの青草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、

 

かたわになるほど叩いて怪我させるのだからひどいよ。もっとひどいこと、

 

同じ中国人に棍棒でたたかせることね。道端に捨ててあるもの拾って食べた

 

とか、歩きながら、道端の草引っ張って食べたとか、理由にならない

 

ようなことで、縛って寮につれてくると、私たちを集めるの。一人ひとりに

 

棍棒持たせて、縛ってある人をたたかせるわけね。初めのうちはいくら言われ

 

ても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると補導員たち、命令きかないと

 

言って、たたかない人のこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、

 

殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうと

 

するから、力入らないでしょ。そのこと悪いと言って、また叩くの」(李振平)

 

 「見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、補導員

 

たち喜ぶわけね。 こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ」

 

(林樹森)

 

 しかも、6月に入ると、最も恐れていたことが現実のものとなった。それは、

 

死人の肉を食べる人が出てきたことだった。精薄児だった李担子は、日本に

 

ついた時はまだあまり精神病も進んでいなかった。彼はまだ20歳になった

 

ばかりの青年であった。(彼は現場仕事は無理なので、死体を焼いたり

 

埋めたりする仕事に回されていた)

 

(中略)

 

 しかし、死人の肉を食べるようになったのは、精薄児の李担子だけでは

 

なかった。普通の人たちも、食べるようになってきたのである。

 

当時第四中隊長をしていた宮耀栄氏は、日本に残留しているもう一人の

 

生存者であるが、朝倉喬二のとったコメントで、次のように述べている。

 

1日のノルマが果たせなかったと言っては殴られ、歩き方が悪いと言っては

 

殴られ,食事も1日にパン2つ、骨と皮ばかりになって仲間は次々と死んで

 

いきました。多い時は1日で56人、1945年の6月ごろがそのピークでした。

 

同胞の遺体は、我々が山へ運んで焼いたのですが、6月に入って不思議なこと

 

が起こりました。耿詢大隊長が『今日は誰々が運べ』と命令すると、みんな

 

『私が行く』『私に行かせてくれ』と、先を争うようにするんです。変に

 

思った大隊長が、ある日、こっそり後をつけて見に行ったんです。と、

 

運んで行った連中は、缶詰のフタで死体の足をこそいで食べていたというん

 

です。『これはいかん、これはもうーー』帰ってきた大隊長は、私にこう

 

言って考えこんでしまった。同胞の肉を食べるようになってはおしまいだ」

 

(中国人強制連行の記録)

 

死体の肉を食べるまでになった背景には、これまで書いてきたように、極端な

 

食糧不足があった。昭和20年になると、中山寮の食糧事情は」ますます悪く

 

なっていった。「最初はパンが1個でした。それが半分の大きさになり、

 

4分の1になり、次はメリケン粉とヌカの混ぜたのになりました。ヌカの

 

ダンゴです。やがてそれもメリケン粉抜きのヌカダンゴになりました。

 

この頃は、ほとんどが脚気になってしまい、死亡者も多くなりました。次には、

 

リンゴのカスを食べさせられました。二次連行者、三次連行者は特に下痢など

 

を起こして倒れて行きました」

 

こう、劉智渠さんも言っているように、生と死の間をさまようような食糧事情

 

だった。行きて行くためには、人間の肉であろうと、口に入れなければ

 

ならなかった。しかし、これが戦地でのことではなく、秋田の花岡鉱山の

 

中で、このような状況が作り出されていたのである。

 

それも、少数の人たちを除いては、同じ花岡町に住む人たちも、ほとんど

 

知らなかったのである。だが、知らなかったといって、責任がないと言える

 

だろうか。(あまりにも残虐な暴行の例として、劉沢玉の場合を見てみよう)

 

「劉沢玉も、夜中に食べるもの探しに出たの、見つかったの。寮の前とか

 

後ろに、チョロチョロの水流れる小さい川あるの。その川の中に、小さな

 

カニとか魚たくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ

 

とって食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べた

 

けど、運悪く劉さん見つかったわけね。一晩、縛られたまま、寮のそとに投

 

げられていた。次の朝、私たちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。

 

だけど、私たち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。

 

その時、どんなことあっても、私たち殴り殺されても、同胞をなぐることは

 

しまいと、相談して決めていたの。今度、私たちに叩くように脅迫したり、

 

殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、

 

劉さんのこと裸にして、6人も7人もかかって、補導員たちが好き勝手に棍棒で

 

叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。栄養のある補導員たち、

 

力一杯、思い切り殴るからね。劉さん痛いから、大声上げて、泣きながら

 

机の下に逃げて行くでしょ。机の下から引っ張ってきて、またどんどん

 

殴るの。気絶するでしょ。バケツに水かけるでしょ。気がつくとまたかける

 

でしょ。また「このヤロウ!」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便で

 

たのとか、 晩に食べたカニの吐いたのとか、一杯散らばったね。それでも

 

まだ叩くから、今度、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたの

 

とかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。横になったまま、息も

 

つけずに、はあはあしているさ.今度清水がね、鉱山で使うレールある

 

でしょ。そのレールを、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの

 

。あの時のこと、今でもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、

 

倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレールを差し込んだのね。劉さん、

 

悲鳴あげて、その赤く焼けたレール手でつかんで、避けようとするでしょう。

 

手が黒い煙出して、焼けて行くの。ジリジリって、焼けるおとするさ。今度、

 

補導員が何人もよって、劉さんの手とか足とか抑えると、清水が睾丸にその

 

レールあてて、引っ掻き回したの。部屋の中、人の焼けた煙でいっぱいに

 

なったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた

 

さ。でも、劉さんのこと、助けようとすれば、自分も殺されるかわからない

 

から、誰も黙っていたけど、そのやりかた、あまりにもひどいよ」(李振平)

 

 

こうしたあまりにも残虐な行為を目の前にした中国人は、「このままで

 

いると、全員が殺されてしまうのではなかろうか」と思うようになった.

 

終戦直後に、秋田県から花岡鉱山に派遣されて、中国人を診断した高橋実医師

 

のいうように、「もはや彼らは、死か抵抗か,いずれかを選ぶより他に道は

 

なくなった」(一つの真実)と書いているように、切羽詰まった状況の中に

 

置かれるようになった。高橋実医師は次のように報告している。

 

「栄養失調が高度であると、すなわち全熱量が少なく、ことにタンパク質も

 

脂肪も少なく、全熱量の大部分が澱粉のような糖質からなっている時、

 

さら肉体的過労や冬期間の寒冷というような要素が加わると、恐るべき

 

いわゆる『戦争浮腫』が発生するのである。」これでもわかるように、

 

中国人全員に「戦争浮腫」が発生していたのである。

 

 

もう一つは、もと秋田県憲兵分隊の憲兵伍長Hさんから貴重な証言である。

 

「私は(秋田憲兵分隊に採用されて)特高に回されて、外人係というのを

 

やらされたス。

 

その時には尾去沢鉱山、小坂鉱山、花岡鉱山などに、朝鮮人、中国人、

 

アメリカ人の捕虜などがそれぞれいたのだもの。戦争中はダスな。それぞ

 

れ連絡係は置いていたが、月に1度、回って行ったスな。・・花岡鉱山には

 

朝鮮人がたくさんいたが、朝鮮人の憲兵補というのがいるわけだス。その

 

憲兵補をスパイとして、労働者の中に入れた訳だス。朝鮮の人たちはどんな

 

言動をしているかとか、不穏な動きがないかといったことを、調べさせるわけ

 

だス。何かがあれば、すぐ私のところに知らせるようにしたが、朝鮮人の中に

 

スパイを入れていることは、私以外には知らねがったスベネ。花岡鉱山の

 

人も、知らないスな。あの当時はだスな、中国人の場合消耗品扱いだった

 

で、中山寮と東亜寮に2組入っていたが、別に憲兵は干渉しながったス。

 

事件起きて、初めてビックリしたわけだス。調べてみたら、あまりにもひどい

 

わけだスな。

 

花岡事件が起きたのは、定説通りだスよ。事件が起きてから、鹿島組の人たち

 

のことも調べたども、食料はアメリカ人も朝鮮人もみんな同じに渡してある

 

のに、鹿島組の中国人には普通通りに食べさせていなかったのだスな。

 

鉱山には重点的に食料や物資を特配したものだから、なんでもあったもの

 

だス。本当にビックリするほど、地下足袋でも牛肉でも米でも、山ほどあった

 

のだス。それを鹿島組の人たちは、中国人に食べさせなかったものだから、

 

大きな声では言えないども、大した贅沢をしたわけだスよ。暴動の原因は、

 

食糧不足だス。これではいけないというので、今度は大館に憲兵分派隊を

 

置いて、厳重に監視したものだス。だから暴動の後は、普通の外人並みに

 

鹿島組の中国人の食べ物もよくなったども、まず調べたら、ひどいもので

 

あったスよ。」

 

目に余る補導員たちの暴行の連続、そして極度な栄養失調と過労や冬の寒さ

 

などによる「戦争浮腫」の発生、日本政府からすれば一番下のランクに位置

 

づけられ、地元の警察に任されていたため、鹿島組の不正を上層部では

 

分かっていなかったなどが重なり、中国人たちは「死かそれとも抵抗か」の

 

立場に追いやられ、ひとり一人の胸の中に、反乱の心が次第に芽生えて行った

 

のだった。

 

中国人たちが虐待に抗して蜂起したのは、昭和20630日の深夜のこと

 

だが、それまでに死亡した中国人は、次の通りであった。

 

第一次連行者295人のうち113人。

 

第二次連行者587人のうち23人。

 

第三次連行者98人のうち4人。

 

前後3回に連行されてきた980人のうちで、140人も死んでいるのだ。この

 

ほかに、病気とか怪我などで、看護棟に入ったまま身動きのできない人が

 

50人もいた他に、補導員たちの暴行によって一生不治の怪我をした人が、

 

働いている人の中に4分の1ほどいたと言われている。

 

この数字は、中国人の置かれている立場を、何よりもはっきり物語って

 

いると言っても、いいのではなかろうか。

 

 

p246  42年目の花岡事件

 

(中国人蜂起の顛末については、1987630日の大館市役所での慰霊祭

 

における、耿詢氏の発言から全文を引用させていただく。🦊

 

1985630日、大館市主催の中国人強制連行殉難者慰霊式が行われた。

 

耿諄(コウジュン)氏は、大隊長として強制連行されてきた中国人を指導し、

 

蜂起を計画した人物だが、長らくその消息は知れなかった。事件後40年を

 

経て、その所在が分かり、式典に招待するこことなった。73歳の氏は

 

疲れも見せず、マスコミの取材に応じ,公式行事をこなした。次の

 

「感謝の言葉」は、慰霊祭で読まれたものである。)

 

 

感謝の言葉

 

大館市長、大館市議会議長、大館市民の皆様、日中友好団体各位、ご在席の

 

友人の皆様、こんにちは!私は耿諄と申します。今年73歳になります。

 

このたび、日本の皆様より暖かいお招きを賜り、客として中国河南省から

 

日本に参りまして、大館市の慰霊祭に参加できましたことは、本当に得がたい

 

機会であります。ここにまず、皆様に心から御礼を申し上げたいと思います。

 

皆様もご承知のとおり、1937年の盧溝橋事件以後、日本の軍国主義者たちは、

 

大規模な中国侵略戦争を引き起こしました。戦争期間中、日本の軍隊は

 

何度も中国人を日本国内に拉致して苦役に従事させました。この花岡中山寮の

 

地だけでも、実に1000名の中国人が鹿島組の監視のもと、苦役に従事させ

 

られたのであります。

 

風雪にもお構いなく、毎日12時間の辛い厳しい作業をしなければなりません

 

でした。冬がやって来て、大地が雪や氷に閉ざされても、なお身には単衣を

 

纏い、はだしにわらじ履きで、泥水の中で働きました。加うるに、甚だしい

 

飢えと疲れ、さらにはまた凶暴で過酷な鹿島組の監督たちの殴打。このような

 

牛馬にも劣る苦役のもと、毎日死者が出ました。初めは1日に12人だった

 

のが、19453月以降は1日の死者が456人の多きに達しました。

 

この時、鹿島組は全く関心を見せなかったばかりか、監督はますます激しく、

 

圧制はいよいよ甚だしくなり、何かにつけて殴打に及ぶ有様でした。殴り傷や

 

火傷のために、死んで行った者もありました。残酷な虐待は一人ひとりの

 

生命を脅かし、皆生命の危険を感じていました。朝は生きていても夜まで保つ

 

かと危ぶまないものはおりませんでした。ある日、われわれの仲間の一人である

 

薛同道という者が、あまりの飢えに耐えかねて道端に捨てられていたりんごの

 

芯を拾って飢えを充そうとしたところ、監督に見つかってひどく殴られ、

 

その場で生命を落としました。

 

中山寮のすべての中国人はこの光景を目の当たりにし、胸が張り裂けんばかり

 

になりました。悲憤が胸を満たし、ついに決死の覚悟で、血を以て暴虐に反

 

抗しようと立ち上がりました。こうして私を先頭とする1945630日夜の

 

蜂起ーー、"花岡暴動事件"となったのであります。

 

 暴動の日は、もとは627日と定められていましたが、監督の中に心根が

 

優しく、中国人に対していつも同情を示してくれていた人が二人いました

 

ので、われわれはこの二人に危害を 加えるに忍びなく、二人を危険から

 

遠ざけるため、暴動の日を三日遅らせました。また、暴動にあたっては住民を

 

巻き添えにしてはならぬと厳命しました。

 

 

鎮圧されてから百数十名が厳しい拷問にかかって死に、日本の敗戦までに

 

中山寮で亡くなった中国人は、合わせて418人にのぼります。

 

戦時中、多くの中国人民が一家離散、流亡のひどい目に遭いましたが、同時に

 

また日本人民にも大きな災難がもたらされました。今でもこれを思うと、

 

なお心に痛みが走ります。42年が過ぎ去り、今日に至って、世界はすでに

 

文明の時代に向かって進んでおります。互いの友好、平和共存は全世界人類の

 

共通の願いであります。中国人民と日本人民は、共に平和を心から愛する

 

気持ちを抱いております。中日両国は海を隔てて向かい合う隣同士であり、

 

はるか以前から長く続いて来たお隣のよしみと友情を持っています。近年来、

 

両国の相互往来、友好は日増しに深まっております。今日私は、日本の

 

平和を愛する方々が、中山寮で死んで行った中国人のために行う慰霊祭に

 

招かれて参加することができ、胸に迫るものを感じております。

 

謹んで亡くなった人たちの遺族に代わって、皆様に心からの感謝の意を表し

 

たいと思います。

 

 

中国友好万歳!全世界の平和万歳!

 

 

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🦊キツネの心配ごと

 

 このごろ、学者でない素人ブログ(キツネのような)に、野添憲治攻撃、

 

朝日新聞攻撃、が目立つようになって来た。ま、具体的な資料なし、根拠

 

示せず、同じルートからの箇条書き宣言を引用する。例えば

 

1。野添憲治の本はウソッパチ。野添は日本人名を名乗るが、実は中国人。

 

2。日本軍は労働者を強制的に拉致なんかしてない。お招きしたのだ。

 

云々・・・・と10カ条ばかりあげているが、ここでいうほどの値打ちも

 

ない。だが、こうしたご意見がネット上にばら撒かれると、こまったことが

 

起きる。現在60歳前後のおじさんのうちで、例えば、今は富山にいるけど、

 

元々は秋田の出身で、なんだか花岡の中国人労働者のことは知ってたけど,

 

母も父もそのことを語りたがらなかった。でも、当時日本人だって、ひどく

 

貧乏な暮らしをしていたんだ。何も恥じることはない。改めてお母さんに

 

聞いてみたところ、野添さんの本は、なんか違うと感じた。第一、地元民は

 

中国人を歓迎していなかっただけでなく、早々に中国へお引き取り願いたかった

 

のだ。そこで政府に、彼らを一刻も早く中国へ送還せよと、陳情したくらいだ.

 

ところが中国人は、ろくに働かないどころか、送還されるのを嫌がって、

 

暴動を起こし、日本人監督を殺した。けしからん、・・・・てな筋書きで、

 

秋田県人の無辜を主張する。そこからエスカレートして、今日本全国に

 

中国マフィアの組織が蔓延って、日本への復讐を計画している、いずれは

 

日本国を侵略し、乗っ取るつもりだ・・・などと言い、中国人排斥を煽る。

 

全ては「ある筋の」、おそらくは現行お粗末民主主義の抜け穴を狙って、

 

「先の戦争は日本人が被害者なのであって、決して侵略などではない」と、

 

また日本人はアジアに冠たる民族なりと、花岡の施設長代理の伊勢サン

 

みたいな口を利く輩からの入れ知恵だろう。

 

彼らは一票しか持たない貧乏日本人と違って、一人で何万票という票を

 

握っているので、簡単に大政翼賛会を組織できる。

 

在日朝鮮人や中国マフィアの全国制覇はフェイクだが、自民党の大政翼賛会

 

復活計画は、現実のものとなりつつある。現に菅新首相は、国の方針に

 

もの申す学者6人を、理由も明かさず、学術会議から締め出した。これは、

 

岸信介流法律活用術をおじいちゃんから受け継いだ、阿部前首相からの申し

 

送りによるものらしい。目的に合わせて、法律を自在にねじ曲げる、

 

打ち出の小槌の『閣議決定」。政権のお目付役としての学術会議。

 

その法的理念というか国民の付託を換骨脱退、政権の都合に合わせて

 

塗り替えてしまう。アナオソロシ.

 

しかも、親分の(アメリカの)鞄持ち政権だから、要するに憲法を[無かった

 

こと」にしたいらしい。これが「おぼっちゃま」の見せかけをかなぐり捨てた

 

自民党の素顔と、キツネは見た。ナゲカワシイ。

 

それはそうと、ネット上のある書き込みに、「中国人たちの中には60歳以上の

 

ヨボヨボな年寄りも含まれている。労働力が必要ならば、どうしてこういう

 

人を契約して連れてくる?」というのがあったが、連行船が日本に着くまで

 

に大量の死人が出ている。かつてのアメリカがやったアフリカ人誘拐、

 

拉致の手口とどこが違うのか?ニューヨークに着く頃には大量の死者が出て、

 

船中はその匂いが充満していたそうだ。活力を保ったままの元気な若者を

 

日本に連れてくるなら、それなりの待遇があって然るべきだが、食べ物を

 

与えない、殴るける、では、貨物、家畜以下の扱いではないか。

 

暴動ののち囚われて、取り調べ中に亡くなった人も100人を超すという。

 

裸にされ、ロープで逆さ吊りにされて棍棒で叩かれている(警官に)のを

 

見た人もいる。

 

軍部、政治、経済界に蔓延した人種差別の病でなくて何だろうか。この

 

ウイルスはしぶとく生き残って、あちこちの6070歳の、脳の酸欠児のなかで

 

活性化しつつある。そして若者にも感染は広がりつつある。

 

人種差別ウイルスだ。

 

 

キツネのつまみ食い

 

ビズキャリonline から

 

鹿島建設は,GHQによるBC級戦犯の裁判で,有罪判決.のちに中国人からの

 

提訴に対し東京高裁で和解勧告.  2000年に和解成立. しかし,

 

花岡事件の和解金は,・・

 

「・・受け取った人数も被害者の半数の500人程度でした.和解金を

 

受け取った中国紅十字会の基金は,残高や用途が明確にされておらず,

 

中国国内では,中国紅十字会が手数料として差し引いたのではないかとも

 

言われています」

 

 

 

2020  10   9

 

ヒヨドリバナの咲く頃になった.

 

コロナはまだ収まっていない.

 

左はオオヒヨドリバナらしい.丈は

 

1.5mにもなって,よく茂る.

 

 

上の写真のは.茎が赤くて,ミズヒキやアカマンマなんかと合わせると良い.

 

殆ど広がらないで,茎がしっかりして,花持ちがいいので,(花瓶の中で

 

1週間ボケない)切り花向きだ.ヒヨドリバナもいろいろあるらしい.

 

どれも,風か小鳥がこの庭に運んできたもの.

 

 

ところで,昨夜妙な夢を見た.自分のも含めて5〜6体の棺桶を運んでいくのに

 

ついていった.(なかに入ってはいなかった)

 

交差点のところで棺桶を下ろして,作業をはじめた.なんで?埋まっている

 

ガス管や水道管を壊すんじゃないか?それに・・日本では火葬することに

 

なってるんじゃないの?..とかひとごとのように見ている自分がいる.

 

でもそこで目が醒めたところをみると,私は単なるマダラボケ老人に

 

すぎないということがよくわかった.要するにヒマなんだな.それだけだ.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「満蒙開拓の真実」

 

 

朝日新聞   2021 8. 31

 

 

オピニオン&フォーラムから

 

 

インタビュー(聞き手・田中聡子)

 

 

満蒙開拓平和記念館館長   寺沢秀文氏

 

 

ーー記念館は公的施設ではなく、民間の施設なんですね。

 

1932年に中国東北部に建設されたのが『満洲国』で、

 

日本政府が食料増産や農村の立て直しのほか、満州防衛の

 

一端を担わせようと展開したのが満州開拓団でした。記念館

 

には、映像や証言など様々な展示があります。この中に、外地

 

を管轄した大東亜省が終戦間際に出した『居留民は出来うる

 

限り定着の方針をとる』という文書と、終戦後に大本営参謀

 

名で出した『満鮮に土着するものは日本国籍を離るるも支障

 

なきものとす』という文書があります。残された開拓民ら在外

 

邦人を『棄民』としたことを物語るものとされる文書です。

 

ある公設資料館の関係者がこれを見た時、『うちではとても

 

展示させてもらえない』と話していました』

 

 

ーーそれはどうしてですか。

 

「行政はこの問題に、総じて後ろ向きだからです。戦前、国は

 

100万戸を移住させる計画を立てて約27万人を送り込みました。

 

敗戦間際、開拓団は置き去りにされ、老人や女性、子供の

 

逃避行は悲惨を極めました。約8万人が亡くなったとされ、

 

置き去りにされた子供らの中国残留邦人の問題も生まれました。」

 

 

ーーなぜ行政はそんなに後ろ向きなのでしょうか。

 

「誰にとっても振り返りたくない過去だったのだと思います。

 

満蒙開拓には満州国の支配やソ連国境の防衛といった軍事的な

 

目的もありました。現地の中国人から見れば、開拓団は家や

 

土地を奪った侵略者に他ならない。被害と加害、両方の側面が

 

あるのが満蒙開拓団の真実なのです」

 

 

(資料館は長野県阿智村にあり、戦前に満州に移住した

 

人たちの2世に当たる寺沢氏らが、手弁当で運営する)

 

 

ーー開館に当たって開拓団員の反応はどうだったのでしょうか。

 

「開館を応援してくれた人がたくさんいた一方で、『過去に

 

ついては話したくない』という人も少なくなかった。それは

 

なぜか。国に誘われていいことだと思って移住したのに、戦争が

 

終わったら、自分たちは侵略の加害者だった、となんとなく

 

気づいてくるわけです。逃避行中には集団自決で仲間に手をかけ

 

ざるを得なかったり、子供や老人を現地に置いてきたりした人も

 

います。引き上げ船の中で、『満州で起こったことを決して話し

 

てはいけない』と口止めしたリーダーもいました」

 

「大人から聞き取りをするうちに、被害の側面ばかり語られる

 

ことに気づきました。私は、このままでは良くないと感じました。

 

歴史は自分たちに都合のいいことだけではない。負の側面も

 

含めて向き合うからこそ、歴史から学ぶことができます」(中略)

 

 

ーー加害を意識したきっかけは、お父さんの言葉だそうですね。

 

「農家の三男坊だった父は、『満州に行けば家も畑もある』と

 

聞かされて開拓団に応募しました。日本軍や先にいった開拓団が

 

切り拓いたものだと思っていたら、現地の人から強引に買い上げた

 

ものとわかり、『これはまずいな』と思ったそうです。シべリア

 

抑留を経て帰国した後は、日本で母と共に今度こそ本当の開拓の

 

苦労をしました。その時、家や畑を奪われた中国人の悲しみが改めて

 

わかったそうです。『本当に申し訳ないことをした』と、子供の頃

 

から何度も聞かされました。(中略)

 

 

ーー過去を乗り越えるには、何が必要だと思いますか。

 

『アジアで日本がどんなことをしてきたのかという視点で

 

近代現代史を子供たちに教える必要があるでしょう。日本が

 

大変な迷惑をかけたことも教えなければいけません、なのに、

 

今は逆行しているように感じます。学校の先生も戦争を

 

知らなくなり、過去に向き合わない政治家もいます。そうした

 

ことがつもり積もって、侵略の歴史を美化する風潮すら生まれて

 

いることが残念です」

 

 

ーー負の歴史の伝承を「自虐史観」と呼ぶ人たちもいます。

 

「かつて、アジアの青年から『私は日本人を信用できない。

 

それはかつて侵略されたからではなく、今の日本人が歴史の

 

事実を知ろうとしないからだ』と言われたことがあります。

 

私はこの言葉が忘れられません。加害と向き合うことは国を

 

貶めることではないはずです』

 

 

ーーこの国がきちんと過去を受け止めることはできますか。

 

「学校などでの講演後には、若い人から『中国の人が怒る気持ち

 

がわかった』『もっと歴史を知りたい』という感想をもらう

 

ことがあります。そういう人を一人でも増やすため、できる

 

ことをやるしかありません。立場が変われば、加害と被害は

 

入れ替わる。『自分が叩かれた側だったら』と相手の立場で

 

歴史を捉える想像力が必要なのです』

 

 

 

 

2021   9   1

 

 

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🦊:97日。「秋元議員に実刑判決ーIRめぐり収賄」朝日新聞。

 

 

 

カジノを含む統合型リゾート(IR)をめぐり、収賄と証人買収容疑

 

で捕まった衆院議員の秋元司にたいし、東京地裁は、懲役4年の

 

実刑判決を下した。

 

秋元はあくまで「無罪潔白」を広言し、次の衆院選にも必ず出ると

 

宣言していたが・・

 

この判決に対し、政府要人は「由々しきことと認識」したんだそう

 

だが、なに、「法律音痴」は普通のこと、「盗人猛々しい」のは

 

標準装備、おどろきゃしない。

 

 

最近、韓国政府から出された「韓国統治時代の暴虐な悪政につき、

 

日本政府として謝罪し、被害者個人に対し賠償せよ」の要求に対し、

 

日本政府は「日韓協定があるじゃないか。全て解決済みだ。

 

韓国は国際法を守れ」の一点張り。

 

 

また、例年広島で開かれる平和祈念式典に花輪を手向けるアメリカ

 

代表も、アメリカ政府としての謝罪はガンとして拒む。

 

ま、一心同体の両国、「自分の体臭が臭いことを知らない」

 

あるいは「なにかの香料で無理やり消している」体質は同じらしい。

 

 

 

2021  9  8

 

 

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🦊:99日。テレビ報道によれば、文部省は、教科書から

 

「従軍慰安婦」の文字を消すよう指示したんだそうだ。

 

つまり、韓国国民からの謝罪と賠償請求はネもハもないという

 

ところへ子供の頭を誘導したい。相変わらずご苦労なことで。

 

 

 

ラ・クカラチャというメキシコ民謡がある。クカラチャと

 

いうのはゴキブリのことだそうで、つまり、隊列を組んで

 

ガチャガチャと移動する兵士たち、その最後尾にはおなじみの

 

女性たちが、世帯道具や鍋釜を引っ張って、続く。その有様は

 

まさにゴキブリの行進・・という愉快な、少々やけっぱちの、

 

兵士の唄。

 

 

このブログのどこかに引用したと思うが、武田信玄の軍隊が

 

(ほんの少数の武士身分の他は百姓たち)合戦の合間に数日の

 

休養期間を当えられて、自由行動をして良いとの許可が出る。

 

兵士は勇み立って、近隣の民家や畑を荒らしまわり、略奪、乱暴、

 

果ては女狩りと、大活躍。彼らにすれば、これが彼らに約束

 

された報酬なのだ。それを許可しなければ、兵士は働かない。

 

武田軍がたまたま駐屯した地域こそ、いい迷惑であったと・・

 

 

男を集めて長期間拘束して戦わせたら、いずれはこういう「性の

 

吐け口」が問題化してくる。これは、特に命令系統が崩壊し、

 

軍規はないも同然、分隊の指揮官の嗜虐的な性格に支配されがち

 

な日本軍の場合は、ひどいものだった。仮に憲兵に知られたら

 

まずいと思ったとしても、だから証拠となる相手を殺して

 

しまえばいいという、さらに罪深い共通意識が芽生え、なんとも

 

思わなくなる。それどころか、それが唯一の楽しみになると

 

いう・・

 

 

強姦発生事例のあまりのひどさに、日本軍司令部は、ゴキブリの

 

軍についてくる「娯楽部隊」として、韓国人や日本人「従軍慰安婦

 

を「創設」し、解決を図ったという、お粗末。

 

 

 今、ネットの中にも、中国の脅威を言い、軍備強化を叫び、

 

「若者に戦う勇気を持たせよ」、そのためには戦争の恥の部分を

 

教えて臆病者を作ってはならぬ、というような、戦争請負人の

 

パシリを買って出る意見が現れた。請負人の一角が文部省である。

 

『軍部としても、窮余の策だった。何が悪い』とさえ言う人もいる。

 

 

戦争の恥といえば、『軍費の現地調達』があるが、これについて、

 

『現地通貨(軍票などの)を日本円にリンクさせずに切り離した

 

ことにより、日本国内での深刻なインフレを防ぐことができたのだ。

 

さすが経済政策の先輩方はアッパレじゃ』という。

 

戦勝ののちには11で日本円と交換すると定められていたが、

 

敗戦時に円の価値は500分の1(数字は正確ではない)に下落

 

しているので、中国政府は、本来1円500元(法幣)のところ、

 

1元しか受け取れない。これを日本政府は、以前の日露戦争の賠償金と

 

して外国に預けていた金の延棒で支払い、(総額幾らかは知らない

 

が)完済したことになっている。「どこの世界に、賠償金を

 

金(きん)で支払い、余りがでたという国があろうか」と自慢

 

する。恥を恥とも思わないこの連中は経済人だ.

 

 

現在も生きている「上意下達の」長州閥的官僚制度の中で、

 

「学校の練兵場化」と「経済は政治を先導する」、「国民は愚民」

 

政策は立派に栄えている。富国強兵へと憲法を改悪し、アメリカ

 

の尻について行こうとしている。

 

 そのアメリカは、9.11以来続いた20年戦争を終わらせ、「戦争は

 

終わった。これからは外交と対話の時代だ』とイケシャアシャア

 

と宣言し、アフガニスタンの民主化問題を、諸外国に丸投げした 。

 

ちょうど、日本でも政権交代を前に、「阿部路線継承」派と

 

「日本政治を根本的に変える(自称)」派が総裁選を戦うらしい。

 

「外交と対話」を成功させるためには、まず日本国の「現代化」

 

(国際化)と「恥を知る」(つまり常識)精神の復活が必要

 

じゃないのか?

 

 

2021   9    10