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地獄のアルバイトから生きて帰った人たち

 

地獄のアルバイトから生きて帰った人たちーごく普通のドイツ人とホロコースト

 

 

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キツネの読書感想文   2019   7.

 

この本の表題は、「普通の人々」とあり、著者は歴史学者として

 

20年以上の年月をかけて、いわゆるナチ党員以外のふつうのドイツ人

 

が「ホロコースト」にどうかかわったか、どのように感じたか、を

 

社会心理学的な方法を用いて検証すべく努めてきた、その成果を世に問うた

 

ものである。その後25年を経た今回の増補版は500ページに及ぶ元警察隊員

 

の証言と学術的な分析を織り交ぜたものだが、キツネとしては隊員の証言部分を

 

「地獄図絵」とすれば、その中に描き込まれた警察隊員(普通の人々)が

 

次第に地獄を地獄とも感じなくなっていく、その複雑な人間性の真実が

 

昨今の日本人の頭からアズカリシラヌ事柄として抜け落ちてしまっているように

 

思える。日本人が主役の別の「地獄絵」もたしかに存在するのだが、昭和という

 

芝居の緞帳と一緒にくるみ込まれて捨てられ、「無かったこと」にされてしま

 

ったようだ。戦争を検証する(単に断罪するに留まらず)欧米の知識人の胆力(!)

 

に感心する。

 

というわけで、キツネの一存で、まず地獄絵の部分の一部を書き出し、もう一つの

 

謎解き部分と分けて見た。本書の中には55葉の写真が収められているので、若い方々

 

にはぜひ見ていただきたいと思う。

 

 

 

 

普通のの人びとーーホロコーストと第101警察予備隊  (増補版)

 

 

 

クリストファー・R・ブラウニング著

 

谷 喬夫 訳  ちくま文芸文庫 刊

 

        (アマゾン ¥1728)

 

 

 

者はアメリカの歴史学者。1944年生まれ。

 

 

 

. 「普通の人びと」出版に到る研究。

 

p14 <<私はシュトゥットガルト近郊にあるルートヴィヒスブルグの街を

 

訪れた。そこには州司法本部、さらにナチ犯罪の追求を統合する連邦共和国の

 

本部が置かれていた。わたしは、ポーランドのユダヤ人に対して犯されたナチ犯罪

 

の、ほとんど全てのドイツ国内裁判の起訴状や判決の膨大な収集を余すところなく

 

読破していったが、そこで初めて、ドイツ通常警察の一部隊である第101警察

 

予備大隊に関する起訴状に出会ったのである。

 

わたしはホロコーストに関する公文書や裁判記録をほぼ20年にわたって研究

 

してきたが、この第101警察大隊に関する起訴状ほど圧倒的な、心をかき乱さ

 

れる衝撃を受けたものはなかった。(中略)

 

この起訴状は、隊員に対する公判前尋問からの膨大な逐語的引用を含んでおり、

 

読み進めると、裁判がきわめて豊富な証言に基づいていたことが、ただちに判明

 

した。その上、多くの証言は誠実で率直であるとの「感触」を与えてくれた。

 

そうした裁判記録でしばしば出会う、弁明的でアリバイを求めて苦しむ、虚偽の

 

証言は目立って少なかったのである。第101警察予備大隊に対する取り調べと

 

法的訴追は、ハンブルクの連邦検察庁によって指揮され、10年に及ぶ(1962〜

 

1972)長い訴追であった。(中略)

 

第101警察予備大隊の名簿は研究者に利用可能であった。隊員のほとんどは

 

ハンブルク出身であり、その多くは調査時点でまだ生存していたから、わたしは、

 

1942年6月にポーランドに送られた500人弱の部隊員のうち210人の

 

尋問調書について研究することができた。

 

 

 

正規軍に吸収された「警察予備軍」は未来の将校を訓練する場として、

 

小さいとは言えない役割を果たしたのである。(1936年にドイツ警察長官に

 

任命された)ハインリヒ・ヒムラーは、多種多様な警察組織を2つの部門に分け、

 

それぞれの本部をベルリンに置いた。ラインハルト・ハイドリヒの指揮する

 

保安警察は、体制の政治的敵対者と戦う秘密国家警察(ゲシュタポ)と

 

非政治的犯罪と戦うことを基本とする刑事警察(Kripo)とからなる。第二の

 

警察部門が、クルト・ダリューゲの指揮する通常警察である。ダリューゲは、都市や

 

街の防衛警察Schupo)や、警備隊Gendarmarie)に相当する地方警官、さらに小さな

 

町や村の自治体警官の管理も委ねられていた。1938年までに、ダリューゲは

 

6万2千人以上の警官を管轄下に置いた。(そのうちおよそ9000人が

 

「警察訓練部隊」に集められた)

 

1938, 39年には、戦争の脅威が増大したことによって、以後の人員補充に

 

拍車がかかった。通常警察は急速に膨張した。通常警察に採用されれば、新規採用の

 

若い警察官は国防軍に徴集されることを免除されたのである。それだけでなく、

 

警察大隊はーーアメリカ合衆国の州兵のようにーー地域ごとに組織されていたから、

 

隊員になることは、正規の軍務に代わる努めを、より安全にしかも生家のそばで

 

終えるように保証されていると思われていたのである。(中略)

 

1942年から1943年までの第101警察予備大隊が駐屯していたルブリン

 

管区において、親衛隊、警察指揮官に任命されたのはヒムラーの旧友オデロ・

 

グロボクニクであった。彼は残忍なやくざ者で、かつてオーストリアで汚職によって

 

党幹部の地位を追われた男だった。かくして、ルブリン管区の警察部隊が命令を

 

受け取る場合、ダリューゲやベルリンの本部からクラクフの通常警察司令官、

 

そして管区の通常警察指揮官、(もうひとつは)ヒムラーから親衛隊、=警察高級

 

指揮官、すなわちグロボクニクを通してであった。通常警察が最終的解決

 

(ホロコースト)に参加する上で、決定的に重要だったのは、後者の命令系統で

 

あった。

 

 

.  第101警察予備大隊のポーランド派遣

 

p77  <<1940年5月、訓練期間終了後、第101警察予備大隊は

 

ハンブルグからヴァルテガウへ、すなわち編入地域として第三帝国に併合された

 

4つの西部ポーランド地区の一つへと派遣された。6月下旬まではポズナニに、

 

その後はウッチに駐屯して、大隊は5ヶ月の間「移住作戦」を展開した。新たに

 

併合された地域を「ゲルマン化」しようという、すなわち「人種的に純血の」

 

ドイツ人を植民させようという、ヒトラーやヒムラーの人口統計学的な計画の

 

一環として、すべての好ましからぬ連中ーーユダヤ人やロマ人(以前の言い方に

 

よればジプシー)ーーは、併合地域からポーランド中央へと排除されなければ

 

ならなかった。その代わり、ドイツとソビエト連邦の間の合意に従って、ソビエト

 

領内に住んでいるドイツ系の人びとはドイツ側に送還され、追放されたポーランド人

 

のアパートや、無人化した農場に移住することになっていた。

 

ヒトラーとヒムラーは合併地域の「人種的浄化」を熱望したが、それは決して達成

 

されたわけではない。しかし、数十万の人びとが、人種的に再編成されたヨーロッパ

 

というヒトラーとヒムラーの幻想の追求のため、チェスの駒のように動かされたの

 

である。(中略)

 

p79 招集された警察予備官ブルーノ・プロプストの証言

 

『土着の民を移住させる作戦に従事して、主に小さな村々で、私は初めて殺戮を

 

体験しました。それはいつも次のようでした。我々が村に到着すると、すでに

 

そこには移住委員会が出来ていました。・・・いわゆる移住委員会は、黒い制服の

 

親衛隊と保安部(SD)員、さらに民間人から成り立っていました。委員会から我々は

 

数字の記されたカードを受け取りました。村内の家々には、カードと同じ数字が

 

貼られていました。受け取ったカードは、我々が立ち退かせなければならない

 

家の番号だったのです。初期には、それが老人であれ、病人であれ、小さな子供

 

であろうと、我々はすべての人を家から連れだそうとしました。移住委員会はすぐに、

 

我々のやり方が誤っていることに気付きました。彼らは、我々が老人や病人という

 

厄介な荷物に係わりあうことに反対しました。正確にいえば、移住委員会は最初から

 

我々に、老人や病人をその場で射殺してしまえと命令を下したわけではありません。

 

彼らはむしろ、そうした連中は不要であることを我々に分からせることで満足した

 

のです。私の記憶している2つのケースでは、老人や病人は集合場所で射殺され

 

ました。第一のケースでは老人が、第二のケースでは老女が・・・どちらの場合も

 

兵士によってではなく、下士官によって射殺されました。』

 

 

p82 <<1941年10月中旬から1942年2月下旬までに、59回に及ぶ

 

移送によって、5万3000人以上のユダヤ人、5000人のロマ人が第三帝国から

 

「東部へ」と、この場合はウッチ、リガ、コヴノ、ミンスクへと運ばれていった。

 

コヴノへの5回の移送、またリガへの最初の移送においては、到着と同時に虐殺が

 

なされた。それ以外の移送の場合、ただちに「抹殺」とはならなかった。追放された

 

者たちは初めはウッチ(そこには5000人のオーストリアのロマ人が送られた)、

 

ミンスク、リガのゲットーに監禁されたのであった。

 

到着してただちに虐殺されなかった移送のうち、4回はハンブルクから出発した。

 

最初の移送は1034人のユダヤ人で、1941年10月25日にウッチに向かって

 

出発した。(中略)

 

(第101警察予備大隊のある隊員は、ユダヤ人が列車に乗せられる駅を警護した。

 

また他の隊員はハンブルグからの移送の内少なくとも3回は列車護送の役も

 

果たした。

 

 

 p84  11月8日のミンスクへの移送に同行したブルーノ・プロプストの証言

 

ハンブルクでは当時、ユダヤ人に対して、東部の全く新しい入植地域に配属される

 

のだと説明されていました。ユダヤ人たちは通常の客車に乗せられました。・・・

 

諸々の道具,シャベル,斧,等々,それに沢山の台所用品を積んだ2両の貨車

 

が連結されました。護送部隊用に二等客車も連結されました。ユダヤ人を乗せた

 

車両自体には警護兵は配属されませんでした。列車の両側は、停車駅でのみ

 

警護されたのです。約4日間の旅をして、我々はミンスクへ着きました。我々は

 

まさにこの旅の途中で、つまり列車がワルシャワを通過してから、初めて行く先を

 

聞かされたのでした。ミンスクでは、親衛隊特殊部隊が我々の移送列車を待ち受けて

 

いました。再び警護兵なしで,ユダヤ人たちは待機していたトラックに乗せられ

 

ました。ユダヤ人がハンブルグから持ち出すのを唯一許されていたバッグだけは、

 

列車の後部に残されねばなりませんでした。ユダヤ人たちには、荷物は後から来る

 

と説明されました。その後、我々の部隊は、現役(すなわち予備でない)ドイツ

 

警察大隊の泊まっていたロシア人の兵舎に車で連れてゆかれました。その近くには

 

ユダヤ人収容所がありました。・・・ここに泊まっていた警察大隊員との話で、

 

我々は、数週間前にこの大隊がすでにミンスクのユダヤ人を射殺したことを知り

 

ました。この事実から、我々は、ハンブルクからのユダヤ人も同様に射殺される

 

ことになっているのだという結論を下しました。』

 

 

 

<<ユダヤ人虐殺に巻き込まれたくなかったので、護送部隊指揮官ハルトヴィッヒ・

 

グナーデ少尉は宿舎に留まらなかった。彼と彼の部下は駅にとって返し、ミンスク発

 

の夜行列車を掴まえたのである。

 

ハンブルクからリガへの護送任務については、資料となる記述がない。しかし、

 

デュッセルドルフからリガへの、12月11日のユダヤ人移送を通常警察が護送した

 

経緯については、ザリッター報告があり、それはデュッセルドルフの警官も、

 

ハンブルグの警官がミンスクで知ったのと同じことをリガで知ったということの

 

証拠となっている。

 

p85 ザリッターの報告

 

『リガの住民はおよそ36万人で、そのうちの3万5000人がユダヤ人です。

 

ビジネスの世界ではユダヤ人はどこでも勢力を持っていました。しかしドイツ軍が

 

侵入した後で、ユダヤ人の企業はただちに閉鎖され、没収されました。ユダヤ人

 

たちは有刺鉄線で封鎖されたゲットーに閉じ込められました。その当時、労働に

 

従事していた2500人の男性ユダヤ人だけがゲットーにいると言われていました。

 

他のユダヤ人はどこかの同じような職場に送られたか、ラトヴィア人によって射殺

 

されてしまったのです。・・ラトヴィア人はとりわけユダヤ人を憎んでいます。

 

戦争によって開放されてから現在まで、ラトヴィア人はこうした寄生虫の除去に

 

充分な役割を果たしてきました。しかしながら、私が特にラトヴィアの鉄道員から

 

聞くことができたように、なぜドイツ人がドイツ国内のユダヤ人を、ドイツで抹殺

 

してしまわないでラトヴィアに連れてくるのか、ラトヴィア人には理解できない

 

のであります。』

 

 

 

p86  1942年6月、第101予備大隊は、ポーランドで別の護送任務を

 

割り当てられた。

 

(大隊は三中隊に別れ、それぞれの隊は、定員を満たした場合、およそ140人で

 

あった)

 

<<大隊はヴィルヘルム・トラップ少佐の指揮下にあった。少佐は53歳で、第一次

 

世界大戦で戦った経歴があり、その功績によって一等鉄十字章を授けられていた。

 

大戦後、彼は職業警察官となり、次第に階級を登っていった。

 

トラップは1932年12月にナチ党に加入しており、「党の古参闘士と見なされて

 

いたが、決して親衛隊に受け入れられてこなかったし、官職に見合う親衛隊の階級

 

さえ与えられてこなかった。ヒムラーとハイドリヒは彼らが創出した親衛隊並びに

 

警察の帝国において、国家と党の構成要素を意図的に統合し、絡みあわせようと

 

してきたという事実があるにもかかわらず、トラップは明らかに親衛隊的な人物

 

とは見なされていなかった彼はすぐに、若き親衛隊隊員であった2人の大尉と

 

衝突することになった。彼らは20年位上経ってから行われた証言においても、

 

大隊指揮官への侮蔑をまったく隠そうとしなかった。彼らによれば、少佐は性格が

 

軟弱で、軍人らしくなく、部下の将校の任務にあまりに干渉しすぎるのであった。

 

中略) 

(この二人の警察大尉、ホフマンとヴォーラウフは)年長のトラップとは対照的に

 

よく訓練された職業警察将校であり、若い頃からのナチズムの熱狂的支持者、

 

ヒムラーとハイドリヒが親衛隊ならびに警察官の理想としたような青年親衛隊員

 

であって、まさしくこうした特徴を一身に代表していたのである。(中略)

 

大隊には7名の予備役将校がいた。彼らはホフマンやヴォーラウフのような

 

職業警官ではなく、通常警察に招集されてから、将校訓練を受けるように選ばれた

 

のである。彼らの年齢は33歳から48歳までである。

 

5人がナチ党員であるが、誰も親衛隊には属していない。

 

兵士についていえば、大多数はハンブルグ地域の出身である。約63%は労働者

 

階級に属しているが、(多くはハンブルグの労働者階級すなわちドック労働者、

 

トラック運転手、倉庫や建設関係労働者、機械助手、船員、給仕などであり)熟練

 

労働者はほとんど居なかった。平均年齢は39歳であり、この年齢の集団は軍務に

 

つくには年をとりすぎていると考えられたが、1939年9月以後、警察予備隊

 

勤務のためにもっとも多く徴兵されたのであった。

 

勿論彼らの年齢からして、全員がナチ体制以前の時代に青少年期を過ごしていた。

 

隊員たちはナチ時代のものとは違う政治的基準や道徳的規範を知っていた人びと

 

であった。大多数の者がハンブルク出身であり、ハンブルクは世評によれば、

 

ドイツで最もナチ化の度合いの少ない都市の一つであった。しかもその多くは

 

(以前には社会党や共産党を支持していた)反ナチであった社会階級の出なので

 

ある。これらのひとびとが、ユダヤ人のいない世界というナチの人種的ユートピアの

 

ために、大量殺戮者を募るのに好都合なグループであったとは到底思えないのである。

 

 

 

p103  ユゼフフの大虐殺ーーユダヤ人絶滅計画(ラインハルト作戦)への道

 

(1942年7月、親衛隊=警察指揮官オディロン・グロボクニクは、トラップ少佐

 

と連絡をとり)ビウゴライの東南東30キロメートルにあるユゼフフの村の

 

1800人のユダヤ人を狩り集めるように伝えた。しかしながら今回は、ほとんどの

 

ユダヤ人は再定住の予定ではなかった。労働可能な年齢のユダヤ人男性だけが、

 

ルブリンにあるグロボクニク支配下の収容所に送られることにになっていた。

 

女性や子供、老人はその場でかまわず射殺されることになっていた。

 

大虐殺が明日にも実施されることを耳にして、ブッフマン(第一中隊所属第一小隊

 

指揮官)は、ハーゲン中尉に、ハンブルクのビジネスマンでありかつ予備役少尉

 

として、自分は「そうした行動に、すなわち無防備な女子供を射殺するような行動に

 

決して参加したくない」と訴えた。そして別の仕事を命じてくれるように頼んだ

 

のである。ハーゲン中尉はブッフマンを、選別された男性「労働ユダヤ人」

 

ルブリンに連れてゆく護送責任者に配置した。第一中隊長ヴォーラウフは、

 

ブッフマンが別の任務につくことを知らされたが、その理由は知らされなかった。

 

兵士たちは、大隊全体が参加する主要行動のために、朝早く起こされるということ

 

以外には公式には知らされていなかった。しかし少なくとも幾人かは、明日起こる

 

ことについてヒントを得ていた。ヴォーラウフ大尉は部下たちに明日「飛び抜けて

 

興味深い任務」がお前たちを待っていると話したのである。留守中の兵舎警護の

 

ために残ることになった兵士が不満を口にしたとき、彼の所属する中隊の指揮官は

 

こう述べた。「一緒に来なくてよくて幸せだぜ。さもなきゃ何が起こるか見なけりゃ

 

ならん」ハインリヒ・シュタインメッツ軍曹は第二中隊所属第三小隊の部下に

 

向かって、「俺は臆病者なんか見たくないからな」と警告していた。

 

ビウゴライを午前2時頃に出発して、トラック部隊はちょうど空が白み始めた頃

 

ユゼフフに到着した。トラップは部下を半円形に集合させ、話を始めた。大隊に

 

与えられた殺戮の仕事を説明した後で、彼は部下を驚かせるような提案をした。

 

この任務を遂行する力が無いと感じる年長者はだれでも、任務から外れることが

 

できるというのである。トラップが話を中断し、数秒してから、第三中隊の

 

オットー・ユリウス・シムケが前に進み出た。ホフマン大尉は自分の中隊の一人が

 

逃げ腰となって列を乱したことに激怒した。(彼はビウゴライでの将校会議に出席

 

していなかった)ホフマンはシムケを叱責し始めたが、トラップが割って入って

 

それをやめさせた。トラップがシムケをかばったのを見て取ると、10人から

 

12人の者が同時に進み出た。彼らはライフル銃を返却し、少佐から次の仕事を

 

待つように言い渡された。

 

それからトラップは中隊指揮官を招集し、それぞれに果たすべき任務を割り当てた。

 

・・その命令によれば、第三中隊の2つの小隊はユゼフフの村を取り囲むことに

 

なっていた。隊員は、逃げようとする者は誰でも射殺するようにとはっきり命令

 

された。他の大隊兵士たちはユダヤ人を狩り集め、市場に連れてくる事になった。

 

市場まで歩けないほどの病人や、虚弱者、幼児、また抵抗しようとしたり隠れようと

 

した者はその場で射殺されねばならなかった。その後、第一中隊の少数のものは

 

市場で選別された「労働ユダヤ人(後に絶滅収容所送りになる)」を護送する任務に

 

つくが、残りの第一中隊兵士は、銃殺部隊を編成するために森へ向かうことになって

 

いた。第二中隊と第三中隊所属第三小隊の任務はユダヤ人を大隊のトラックに乗せる

 

ことであり、それは市場と森の間を往復することになっていた。

 

仕事の割り当てが終わると、トラップはその日一日を村の中心部で過ごした。・・

 

しかし彼は森自体には行かなかったし、処刑に立ち会おうともしなかった。

 

トラップが森の処刑場に行かないことは、大隊員の注目を集めた。『トラップ少佐は

 

森に現れませんでした。その代わり彼はユゼフフ村に留まったのです。伝えられる

 

ところでは、彼はその光景を正視することが出来なかったからです。少佐が姿を

 

見せないことを知って、我々兵士は狼狽しました。俺達だってこれには耐えられ

 

ないんだぜ、と皆が言ったものです』・・

 

ある警官は市場で、トラップが胸に手を当てながらこう言うのを聞いていた

 

『おお神よ、なぜ私にこうした命令が下されたのでしょう』他の警官は

 

『トラップ少佐が、部屋の中を手を後ろに組んで行ったり来たり歩きまわり、

 

私に話かける姿を思い浮かべることが出来ます。「ああ君。・・・こんな仕事は

 

俺には向いていない。でも、命令は命令なんだ。」』また別の警官は、最後に

 

部屋のなかで一人ぼっちで、トラップが椅子に座って激しく泣いていた姿を

 

はっきりと回想している。(中略)

 

 

 

p110  第一中隊が講習を受け、森に出発してから、トラップの副官ハーゲンは、

 

「労働用ユダヤ人」の選抜を指揮した。近所の製材工場の社長は、彼のところで

 

働いているユダヤ人25人のリストを持ってすでにトラップと交渉し、トラップは

 

25人を釈放することを認めていた。ハーゲンは屈強な男性労働者を求めていると

 

呼びかけた。約300人の労働者が家族から分けられたとき、集められたユダヤ人

 

たちの間に不安が広まった。労働ユダヤ人がユゼフフを出てゆく前に、森からの

 

最初の銃声が聞こえてきた。『最初の一斉射撃が聞こえた後で、行進中だった職人

 

たちの間で深刻な動揺が生まれた。そして幾人かは大地に身を投げ出して泣き始め

 

ました。・・彼らはこの時点で、背後に残してきた家族が射殺されるのだと

 

いうことをはっきり知ったに違いありません』。

 

ブッフマン少尉と第一中隊のルクセンブルク出身の隊員は、ユダヤ人労働者を

 

数キロメートル離れた鉄道駅へ行進させていった。ユダヤ人労働者と警備隊は

 

列車でルブリンに運ばれ、そこでブッフマンは彼らを収容所に引き渡した。・・

 

さてユゼフフに話を戻すと、カマー上級曹長は第一中隊の最初の射撃分隊を

 

ユゼフフから数キロメートル離れた森に連れていった。分隊を乗せたトラックは

 

森の堺にそって続いている泥道で停車した。そこから森の奥への小道が通じて

 

いた。警備隊員はそこで待機した。35人から40人のユダヤ人を乗せた最初の

 

トラックが到着すると、ユダヤ人と同数の警官が前に進み出た。そして正面から

 

向い合って犠牲者と組を作った。

 

カマーの先導で、警官とユダヤ人は森への小道を行進しながら下っていった。

 

彼らはヴォーラウフ大尉の指示する地点で道を外れ、森の中に入っていった。

 

ヴォーラウフ大尉は一日中、処刑の場所を選ぶ仕事で忙しかったのである。

 

それからカマーはユダヤ人たちに、一列になってその場に伏せるように

 

命じた。警官たちは背後から彼らに近づき、先ほど教えられたとおりに

 

肩甲骨の上の背骨にライフルの銃剣をあてた。そしてカマーの命令と共に

 

一斉に引き金を絞った。

 

 

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キツネの読書感想文   2

 

地獄の描写はこの後も延々と続く。そこで考えたんだが、この話をまったく

 

興味本位で読む、あるいは興奮しつつ読む、そして参考にする(イヤナ話だが、

 

近頃刃物使いのマネッコ殺人やら、ニュースを聞く限り、わけも無く実践して

 

しまう)人が多いのかもしれない。だからこれがベストセラーになったのかな、

 

と・・で、地獄編はここまでにして、著者が「ふつうのドイツ人」がなぜ?という

 

疑問にどう答えているか、考えてみたい。地獄のつづきを見たい人は本を買えば

 

いいんだし。

 

 

  

 ヒトラー信奉者、対独協力者(傭兵)、古参の警察官僚。

 

(キツネ注:)

 

つまり、若いナチ親衛隊員、新しい占領地(ポーランド、ロシア、ラトビア等)

 

からの非ドイツ人傭兵、中年の警察幹部が、ヒトラーとヒムラーからの直接の

 

指令に従って、このユダヤ人殺戮計画を実行に移した指揮官と実行部隊だが、

 

従来は、ヒトラーおよびこれらの人々の異常な残虐性、極端な反ユダヤ主義が

 

主として問題視され、一方で「罪もない普通のドイツ人」は免罪され、研究対象

 

にもならなかった。最近になって、戦争と社会構造、戦争と教育、戦争が人間の

 

心理に及ぼす影響などについて論じられるようになったが、日本では、昔と

 

変わらず「くさいものにふた」的な歴史教育が行われている。

 

 

 

p142  ウオマジーの大虐殺とグナーデ少尉のサディズム

 

ユダヤ人の隊列が行進して森に到達すると、彼らは性別に分けられ、3つの集合地

 

のいずれかに送られた。・・警官たちはそれぞれの集合地で、脱がされた衣服や

 

貴重品を集めるように言われた。貴重品を大きなコンテナに入れたり、広げた毛布

 

の上に投げ込んだりした後で、ユダヤ人はうつ伏せになり、もう一度何時間も

 

待つように命じられた。その間、彼らのむき出しにされた肌は、8月の熱い太陽に

 

焼かれ続けた。

 

証言の圧倒的多数は、グナーデ少尉が「ナチ確信犯」で反ユダヤ主義であった

 

としている。また彼は予測しがたい人物であったようだ。ーー他人に対して、

 

時として愛想よく近づきやすいが、また残忍非道でもあった。彼の気質の

 

最も悪い面は、アルコールを飲むと著しく増幅された。そして誰に聞いても、

 

ウォマジーでその日の午後、グナーデは飲み過ぎて正体を失っていた。

 

ポーランドに来てから、事実彼は「酔っぱらい」に堕してしまっていた。

 

大隊においては、グナーデのようにアルコール依存症になることは稀なことでは

 

なかった。アルコールを飲まない一人の警官は次のように述べている。

 

『他の戦友のほとんどは、大勢のユダヤ人を射殺したからがぶ飲みしたのです。

 

というのは、こうした生活は、素面では全く耐えられないものだったからです』

 

以前グナーデは、彼がハンブルクから運んだユダヤ人の処刑にかかわることを

 

避けるために、部下をミンスクからの夜行列車に乗せたのであった。(p84)

 

ユゼフフでは、彼は何か特別なサディズムの行動によって、仲間の将校と

 

際立った違いを示したことはなかった。ウォマジー郊外の森でユダヤ人が墓穴を

 

堀リ終わるのを待つ間に、グナーデが虐待を楽しもうとし始めたとき、その

 

全てが変わった。

 

『グナーデ少尉は20人から25人ぐらいの年長のユダヤ人を自分で選び出し

 

ました。彼らは豊かなあごひげが特徴でした。グナーデは老人たちを、

 

墓穴の前の地面に這わせました。腹ばいになるよう命じられる前に、彼らは

 

裸にならなばなりませんでした。全裸のユダヤ人が腹ばいになると、グナーデ

 

は周りの警官たちに向かって叫びました。「おれの部下の下士官たちはどこへ

 

行ったんだ。もう警棒を持っていないのか!」下士官たちは森のはずれまで戻り、

 

警棒を取ってくると、それでユダヤ人たちを激しく打ちました』

 

墓穴それ自体は三方を土塁で囲まれ、入り口はユダヤ人を追い込むために

 

底へ向かってスロープがつけられていた。酔って興奮していたので、対独

 

協力者たちは、ユダヤ人を入り口付近で射殺しはじめた。(以下略)

 

(グナーデ少尉は土塁の上から撃っていたが、飲み過ぎて、土塁の上に立って

 

いられず、終始墓穴の中に落ちそうにしていた)

 

 

 

ウォマジーの大虐殺ーー第101警察予備大隊の隊員による二度目の

 

4桁にのぼるユダヤ人の射殺ーーは、ユゼフフの大虐殺とはいくつかの

 

重要な点で異なっていた。犠牲者の側でいうと、ウォマジーではより

 

多くの逃亡が試みられたようである。想像するに、若く丈夫な労働用の

 

ユダヤ人が除外されなかったからであり、犠牲者は最初から、差し迫った

 

彼らの運命に気がついていたからであろう・・効率性の点でいうと、

 

殺人工程は、ユゼフフでの即席でアマチュア的な方法と比べてかなり進歩

 

した。大雑把にいって、ユゼフフと比べると、3分の1の隊員でより多くの

 

(1700人)ユダヤ人を、およそ半分の時間で殺害したのである。さらに、

 

貴重品や衣類が回収され、死体は巨大な墓穴に埋めて処理されたのである。

 

心理的にみると、大隊における殺戮者の負担はかなり軽減された。対独協力者

 

が、最初から大酒をくらって、大部分の射殺を担当してくれたからである。

 

直接の関与をまぬかれた隊員は、自分が殺戮に関与したという意識を

 

ほとんど、あるいはごくわずかしか持たなかったように見える。

 

ユゼフフの後では、誰かが殺してくれるユダヤ人を狩り集めたり警護する

 

ことは、比較的無害なことだと思われたようだ。

 

p148  その日の午後遅く、対独協力者に代わってユダヤ人を数時間

 

射殺した警官たちでさえ、そのときの経験を,ユゼフフの事件の供述に

 

漂っていたような恐怖とともに思い出すことはなかった。犠牲者と1対1

 

で顔を合わせる必要はなかった。犠牲者と殺人者の人格的な結びつきは

 

切断された。・・殺戮過程の非人格化に加えて、迅速なローテーションに

 

よって、隊員たちは、間断なく、終わりなき殺戮という耐え難い感覚を

 

持たないですんだのである。その感覚はユゼフフのばあい、実に際立った

 

ものであった。(ウォマジーの場合)隊員の殺戮過程への関与はより

 

非人格的なものであったのみならず、時限的な(こまぎれの)ものであった。

 

殺人への慣れも少なからず役立った。すでに一度殺しているので、隊員は

 

今回は、それほどトラウマとなるような経験をしなかったのである。他の

 

多くのことと同様、殺人も人が慣れることが出来るものであった。

 

 ウオマジーとユゼフフを鋭く区別するもう一つの要因があるが、それは

 

隊員にとって別の種類の「救済」であったと言ってもよいかもしれない。

 

すなわちそれは、今回、隊員たちは、かつてトラップが最初の大虐殺に

 

あたって彼らに厳しく問いかけたような「選択の重み」を担わなくても

 

よかったことである。(今回)射殺するだけの気力がないと感じた者に、

 

列を外れる機会は与えられなかった。・・銃殺部隊に割り当てられた

 

者は誰でも、命じられて射撃を交替した。それゆえ、銃殺者は、自分の

 

したことが避けられたものであったかもしれない、という明晰な自覚を

 

持って生きてゆく必要はなかったのである。

 

そうはいっても、ウォマジーでは、隊員たちが事実として選択できな

 

かったということではない。ユゼフフのように公の場で、明白に隊員

 

たちに選択する機会があたえられなかったということなのである。

 

(事実、隊員たちは殺戮を忌避しようと努力したが、こっそり隠れたり、

 

任務をさぼったりした者ははごく少数であり、ほとんどの警官は射撃を

 

回避しようと努力しなかったように思われる)

 

ユゼフフでは、警官たちは銃殺への参加に関して個人的決断を認められ

 

たが、銃殺に参加しないことへの「代償」は、戦友からの孤立であり、

 

「弱虫」であることを曝け出すことであった。だが警官たちは、決断を

 

せまられたユゼフフの状況よりも、戦友の行動に順応する方がはるかに

 

耐えやすかったのである。

 

 

 

トラップは隊員に選択権を与えたばかりでなく、作戦行動の基本的態度

 

を定めた。「我々はユダヤ人を射殺する任務を負っている。しかしそれは、

 

彼らを鞭打ったり苦しめたりする任務ではない。」彼は部下にそう表明

 

している。トラップの個人的な苦悩はユゼフフでは誰の目にも明らかで

 

あった。しかしそれ以後、ほとんどの「対ユダヤ人作戦」は中隊か小隊の

 

規模で実施され、大隊全体によっては実施されなかった。そのことに

 

よって、部下にいかなる行動を期待し奨励するかは大隊指揮官トラップの

 

権限ではなくなり、ーーウォマジーでのグナーデのようにーー中隊指導者

 

の手にゆだねられたのである。・・

 

グナーデが墓穴の縁で示した理由なきサディズムの例はすぐに増えていった。

 

ウォマジーにおけるこうしたグナーデのリーダーシップとトラヴニキ(絶滅

 

収容所を監督する親衛隊員、看守、その下で働く兵士)たちの助力によって、

 

第二中隊の隊員たちは殺人常習者への重要な一歩を踏み出したのである。

 

 

p166  9月下旬の射殺・・第101警察予備隊は、ユゼフフ、ウォマジーでの

 

射殺の後、更にいくつかの大量虐殺に加わることになった。

 

<<1942年9月、ヴォーラウフ大尉の指揮の下、警察予備官たちはセロコムラ

 

へ向かった。村につく直前に、ヴォーラウフはトラック部隊を停止させて

 

命令を与えた。村のすぐ外にある2つの丘の上に機関銃が設置された。そこは

 

全体が見渡せる絶好の位置であった。ブラントの小隊の幾人かが、非常線を

 

張ってユダヤ人地区(ゲットー)を遮断し、第一中隊の残りの隊員は、ユダヤ人

 

住民を集める行動に出た。

 

ヴォーラウフは部下に、通常通り行動するようにという他は、銃殺について

 

何も言わなかった。

 

セロコムラのユダヤ人の集結ーー約200人から300人ーーは午前11時までに

 

は完了した。その日は温かい晴れた日になりそうだった。それから突然、

 

ヴォーラウフはユダヤ人全員の射殺を宣言した。(銃殺部隊が砂利採集場に

 

集められた)。正午になると、第一中隊の残りの隊員は、ユダヤ人を20人から

 

30人のグループにして村の外に行進させ始めた。・・

 

ウォマジーでは経験を積んだ対独協力者(占領地の異民族からなる傭兵)の

 

助力があったが、そうした助力がなかったので、ヴォーラウフはユゼフフの

 

銃殺の線にそって処刑を実施しようとした。村から砂利採集場へつぎつぎと

 

行進させられてきた20人から30人のグループは、ペータース少尉と

 

ユーリッヒ軍曹の部隊の(犠牲者と同数の)隊員に引き渡された。・・年齢や

 

性別にかかわりなく、すべてのユダヤ人が射殺されることになっていたのである。

 

銃殺部隊の警官はユダヤ人を、砂利採取場にある小山の上に行進させていった。

 

犠牲者たちは小山の崖の上から、6フィートの落差に面して一列に並ばされた。

 

背後の至近距離から、警官たちは命令に従って一斉にユダヤ人の首の付け根を

 

撃った。ユダヤ人の身体は崖を転がり落ちた。つぎつぎと、ユダヤ人のグループが

 

同じところに連れてこられたので、彼らは撃たれる前に、自分たちの家族や友人の

 

死体の山が大きくなってゆくのを見下さなければならなかった。銃殺がかなりの

 

回数くりかえされてから、射手たちは場所を変えた。

 

(ユーリッヒが銃殺部隊のケラー軍曹と話をしているとき)ユーリッヒは

 

ヴォーラウフに対する不満を口にした。隊長はこの「クソ仕事」を命じた後で、

 

「こっそり」セロコムラの村に帰ってしまい、ポーランド人の警察署で休んで

 

いるというのである。ヴォーラウフは今回は新妻と一緒では無かったので(以前

 

自分の権勢を見せびらかすために戦場につれてきたことがある)殺戮現場に

 

立ち会う熱意を明らかに失ってしまったのである。。。おそらく彼の頭の中は

 

新妻をドイツに連れ帰る旅のことでいっぱいだったのであろう。

 

銃殺は午後3時まで続いた。ただもう残虐の限りが尽くされ、ユダヤ人たちの

 

死体は砂利採取場に放置された。・・警官たちが夕刻それぞれの宿舎に帰還すると、

 

アルコールの特別配給があった。

 

 (セロコムラの虐殺の3日後、ヨプスト軍曹が、セロコムラとタルシンの間に隠れて

 

いるポーランド人抵抗組織の一員を逮捕して戻る途中、待ちぶせに遭い殺害された。

 

トラップ少佐は、ルブリン管区司令部から報復に200人を射殺するように命令を

 

受けた. 4日前にセロコムラに派遣されたのと同じ部隊が集められ、(ヴォーラウフは

 

すでにドイツへ出発していたので)今回はトラップが自ら指揮をとった。

 

タルシンに着くと、第一中隊の全員が、村はずれの通りに放置されていたヨプスト

 

軍曹の死体を見せられた。(ポーランド人は家々から連れだされ、学校に集め

 

られた。男たちの多くは村から逃げ出しており、残された男性は体育館に連行

 

された)。

 

ポーランド人と事を構えたくなかったトラップはポーランド人村長と相談の上、

 

選別を進めた。彼らは村の外に連れ出され射殺された。あるドイツ人警官の回想に

 

よれば、それは「貧しい階層のうちでも最も貧しい者達」であるという。

 

コックに立ち寄り昼食をとった隊員たちは、この日の殺人がまだ終わっていない

 

ことを告げられた。報復として割り当てられた200人という人数にはるかに

 

届かなかったので、トラップは住民との関係をこれ以上悪化させずに、しかも数を

 

合わせる巧い方法を思いついたようであった。つまりタルシンでこれ以上の

 

ポーランド人を射殺する代わりに、部下たちはコック・ゲットーのユダヤ人を撃つ

 

ことになったのである。

 

(ドイツ警察の捜索隊がゲットーに入り、年齢性別にかかわらず見つけたものを

 

捕らえ、ゲットーの外にある民家の中庭で、壁の前に横になるように命じた。

 

ユダヤ人たちは軽機関銃を持った下士官たちによって射殺された。死体はゲットーの

 

労働ユダヤ人によって巨大な穴に埋められた)

 

トラップのルブリンへの報告書によれば、三人の「無法者」、78人のポーランド人

 

「共犯者」、さらに180人のユダヤ人がタルシンでのヨプスト軍曹殺害への報復

 

として処刑された。

 

ユゼフフでの虐殺では泣き続け、ポーランド人の無差別殺戮にはいまだ尻込みした

 

この男は、明らかに、割り当てられた以上のユダヤ人を殺すことにもはや何の

 

タブーも感じなかったのである。

 

 

 

p174  強制移送の再開ーーウークフとミンジチェンツの中継ゲットーは、

 

トレブリンカ絶滅収容所への移送前のユダヤ人の最後の「集積場」だった。

 

 

1942年9月までに、第101予備大隊は約4600人のユダヤ人と78人の

 

ポーランド人の射殺に関与し、約1万5000人のユダヤ人のトレブリンカ絶滅

 

収容所への移送を手助けした。こうした血なまぐさい作戦活動は3ヶ月に亘って

 

行われた8つのそれぞれ別個の行動から成り立っていた。3つのケースではーー

 

バルチェフからの最初の強制移送、ウォマジーでの射殺、ミンジチェンツから

 

の強制移送ーー、警官たちはトラヴニキ(収容所)から来た対独協力者の部隊と共に

 

作業にあたった。他の5つのケースでは、ーーユゼフフ、バルチェフの

 

二度目の強制移送、セロコムラ、タルシン、コックーー、警官たちは単独で

 

作業を終えた。(中略)

 

トレブリンカへの強制移送は10月1日に再開され、同日中に2000人の

 

ユダヤ人がラジニのゲットーから輸送された。10月5日には5000人、

 

10月8日にはウークフからトレブリンカへ送られた。これと並行して、

 

6日と9日には、数千人のユダヤ人がミンジチェンツからトレブリンカへ

 

送られた。

 

これらの強制移送の合間に、しばしばユダヤ人の射殺が行われた。射殺

 

されたのは、ゲットー浄化作戦の際身を隠したユダヤ人か、列車にはもはや

 

空きスペースがなかったか、あるいは後片付けのためににか、意図的に残されて

 

いたユダヤ人であった。6週間にもわたるユダヤ人への「猛攻撃」が終了した後で、

 

第101警察予備大隊の兵士は、さらに8回の作戦行動で2万7000人のユダヤ人を

 

トレブリンカへ送り出す手助けをし、またゲットーからの狩り集めの際、少なく

 

とも4回の「掃討」作戦によって、おそらく1000人以上のユダヤ人を射殺した

 

のである。

 

 

p186  (ウークフでの2回の最終的なユダヤ人射殺には、これまで大量殺戮に

 

関与せずに済んでいた事務官、通信員、運転手らも含むすべての隊員が、恐ろしい

 

任務を強要された)

 

警官の一人は、射殺執行が切迫しているという噂がすでに前の晩に広がっていた、

 

と回想している。『その晚、ベルリン警察の娯楽部隊ーーいわゆる前線慰問団

 

ーーが我々の客でした。この娯楽部隊は楽士と役者で構成されていました。

 

彼らはユダヤ人の処刑に参加することを認めて貰いたいと要求したのです。

 

いや実際のところ熱心に懇願したと言ってよいでしょう。この要求は大隊に

 

よって認められました』

 

翌朝、隊長のブッフマンは部下をゲットーの入り口に配備した。

 

ゲットーの扉が開けられ、数百人のユダヤ人が追い立てられて出たきた。

 

警官たちはかれらを街の外に行進させていった。・・・

 

最初の隊列は本道をそれ、黄土色の土壌の広い草地に通じた小道をたどって

 

いった。一人の親衛隊将校が隊列の停止を命じ、ブッフマンの副官である

 

ハンス・プリュッツマンに、ユダヤ人の射撃を始めるように告げた。

 

プリュッツマンは、15人から25人の銃殺部隊を編成したが、それは主に

 

大隊の銃で武装した娯楽部隊からの志願兵であった。ユダヤ人たちは服を

 

脱がされ、男は全裸に、女は下着だけにさせられた。彼らは脱いだ靴と

 

衣服を重ねて置き、グループごとに約50メートル離れた処刑場に連れて

 

ゆかれた。ここでも彼らはいつものようにうつ伏せに寝かされ、照準として

 

銃剣をつけた銃で警官によって後ろから撃たれたのである。ブッフマンは

 

数人の親衛隊将校とともに近くに立っていた。

 

 

 

p187  制服担当の一人の事務官は、任務から外してくれるように頼んだ。

 

『なぜなら、我々が連れてきたユダヤ人には子供たちが含まれており、当時

 

私自身3人の子供のいる家族の父親だったからです。私は(ブッフマン)少尉

 

に、自分が撃つことができないという旨のことを述べ、何か他の任務を与えて

 

くれることができないものかと尋ねました』他の幾人かの者も、ただちに

 

同じ要望を出した。

 

こうしてブッフマンは、自分の位置が、かつてユゼフフでトラップが立た

 

されたときと同じであることに気付き、基本的に同じように行動した。

 

上官にあたる保安警察の親衛隊将校から、通常警察を動かす自分の指揮に

 

よって、ユダヤ人の大量虐殺を実行するように命じられて、ブッフマンは

 

それに従わざるをえなかった。さらに、ちょうどユゼフフでチャップマンが

 

他の任務を希望したように、同じことを要望する部下に直面して、彼は

 

それを承認し、4人を任務からはずした。射殺が続いている間、ブッフマンは

 

その場を離れ、立ち会わなかった。ハンブルグに戻りたいというブッフマンの

 

度重なる要求は、その後ついに叶えられた。(ハンブルクで、彼は防空将校、

 

さらにハンブルク警察署長の副官として勤務した。除隊後は自分の材木会社に

 

戻ることを許された。・・通常警察を除隊になる直前、かれは予備役中将に昇進

 

していた。トラップが彼の個人ファイルに経歴が傷つかないような肯定的

 

評価を記入していたことは明らかであった)

 

 

p190  ホフマン大尉の奇妙な健康状態

 

 1942年秋まで、第101警察予備大隊第3中隊は、警察大尉かつ

 

親衛隊大尉のヴォルフガング・ホフマンの指揮の下で、魔法で保護

 

されたような生活を送っていた。すなわち第3中隊は、大隊の他の

 

部隊ですでに主要な活動となっていたユダヤ人殺戮への参加をほぼ

 

免れていたのである。ユゼフフでは、第3中隊の2つの小隊は最初から

 

外側の非常線警備を割り当てられ、その隊員はだれも森の中の銃殺

 

部隊へ派遣されなかった。大隊がルブリン管区北部保安区域に移動

 

したとき、第3中隊の第2,第3小隊はプワーヴィ郡に駐留した。

 

第3小隊はホフマンの直接の指揮の下で、プワーヴィの町に、

 

ホップナー少尉の指揮する第2小隊はその近くに、すなわち最初は

 

クロフに、ついでヴァンドリンに駐留した。プワーヴィ郡では、

 

ユダヤ人住民の大部分は、1942年すでにソビボルに移送されて

 

しまっていた。ーーこの地域でまだ残っていたユダヤ人は、プワーヴィの町から

 

約6キロ離れたコニスコヴォーラにある「集合ゲットー」に集められていた。

 

(中略)

 

しかしながら、10月初旬、第3中隊の幸運は尽きてしまった。

 

約1500人から2000人のコニスコヴォーラの「集合ゲットー」は、

 

隣のラジニ郡の諸々のゲットーと同様、一掃される予定となった。

 

ルブリン北部はユダヤ人のいない世界(judenfrei)にならねば

 

ならなかったのである。この任務のためにかなりの兵力が集められた。

 

第3中隊はスワーヴィに集合し、そこでホフマン大尉は1枚の紙に

 

書かれた指令を読み上げた。ゲットーは虱潰しに捜索され、

 

ユダヤ人は市場に集められねばならない、動けない者ーー老人、虚弱者、

 

病人、ーーはその場で射殺されねばならない、というのである。

 

彼はこれに付け加えて、そうした行動がこれまでかなりの間標準的な手順と

 

なってきたのだ、と述べた。

 

警官たちは車でコニスコヴォーラへ向かった。ホフマンは、専任の

 

警察将校の居る前で、ヤマーとメスマンとの打ち合わせを行い、兵士の

 

配置を決めた。通常の作戦のときとは対照的に、対独協力者部隊は、警官の

 

一部と協力して非常線を張る任務についた。最初にゲットーの中に入る

 

捜索部隊は、第3中隊とメスマンの自動車中隊の両方の隊員で構成された。

 

それぞれの捜索部隊は、特定のブロックの家々を割り当てられた。

 

ゲットーは赤痢の流行に苦しんでいた。ユダヤ人は市場まで

 

歩いていけなかったし、ベッドから起き上がることさえ出来なかった。・・

 

多くの大隊員は、ゲットーで病院として使われていた建物のことを

 

特に覚えている。ーー病院といっても、それは三〜四段ベッドが

 

あるだけで、悪臭が発している大きな部屋というだけであったが、

 

5.6人の警官のグループが部屋の中に入って、赤痢にかかって

 

いる40人から50人の患者を片付けるように命じられた。

 

『いずれにせよ、ほとんどの患者はひどくやせ衰え、餓死寸前

 

でした。彼らは骨と皮だけだったといえます』病室にたちこめる

 

臭いからできるだけ早く逃げ出すために、警官たちは部屋に

 

踏み込むなりあたりかまわず射撃を開始した。『こうした

 

やり方は胸をむかつかせるものでしたから、私は良心の呵責を感じ、

 

ただちに回れ右をして部屋を離れました』警官の一人は

 

こう報告している。

 

また他の警官はこう回想している。『病人たちを見て、

 

私はユダヤ人を一人も撃つことは出来ないと思いました。

 

そこで私は意図的に狙いをはずして撃ったのです』

 

射殺に加わっていた彼の上官の軍曹は、この警官の

 

撃ち方がおかしいと気がついた。なぜなら、『病院での

 

射殺行動が終わると、軍曹は私を脇に連れて行って、

 

「裏切り者」とか「意気地なし」とかいって私を罵った

 

のです。そしてこの件をホフマン大尉に報告するといって

 

脅かしました。しかし、結局彼は報告しませんでした。』

 

市場でユダヤ人たちは二つに分けられた。・・選別された

 

ユダヤ人(男性)は、ルブリンの労働収容所に送られる

 

ために、ゲットーを出て、プワーヴィの町の外にある

 

鉄道駅まで行進させられた。・・残ったユダヤ人800人

 

から1000人の女性、子供、そして多くの老人はーー町外れ

 

の処刑場へ連れてゆかれた。労働ユダヤ人を駅に連行した

 

警官たちがコニスコヴォーラの市場へ帰ってきたとき、

 

市場には誰もいなかったが、森のほうから銃声が聞こえた。

 

中略)

 

25年後、ヴォルフガング・ホフマンはコニスコヴォーラでの

 

作戦行動についてはまったく何も覚えていないと主張した。

 

この作戦行動で、1100人から1600人のユダヤ人がたった1日

 

で、彼の指揮する警官たちによって殺されてしまったのであるが。

 

ホフマンの記憶喪失は司法的見地からのご都合主義であった

 

かもしれないが、また同時に彼がプワーヴィでの任務の間に

 

経験した健康問題に基づいたものであったかもしれない。

 

当時ホフマンは自分の病気を、8月下旬に接種された赤痢

 

ワクチンのせいにしていた。1960年代になって、彼は

 

自分の病気をユゼフフでの大量虐殺からくるストレスに

 

遡らせたほうが都合がよいことに気づいた。

 

原因がどうであれ、ホフマンは1942年9月と10月に下痢と

 

激しい腹痛に悩まされはじめた。ホフマンの言うことに

 

よれば、かれの健康状態ーー大腸炎と診断されていたーーは、

 

自転車や自動車に乗ったりすると振動でおそろしく悪化した。

 

かくして彼の言い分によれば、当時彼自身は自分の中隊の

 

行動を指揮できなかったということになるのである。

 

ホフマンの部下たちは、一斉に異なった見方をした。

 

彼らの観察したところによれば、ホフマンは「いわゆる」

 

腹痛の発作を起こすと、ベッドで安静にしていなければならなかった

 

が、それはいつも決まって、中隊が不快な、あるいは危険な行動に

 

参加するかもしれないとき、起こるのであった。隊員たちは晩に

 

明日の行動を聞くと、中隊長はきっと朝までにはベッドから起きられない

 

状態になるだろうと予測したが、それはいつものことだった。

 

ホフマンの態度には部下たちを苦しめる二つの要素が備わっていた

 

第一に、ホフマンはいつでも厳格で近寄りがたく、ーー白襟と白手袋を

 

好む典型的な「利己的将校」で、制服に親衛隊の記章をつけ、大いに

 

部下からの服従を要求した。彼の表情に浮かぶ紛れもない小心さは、

 

今や偽善の極みと映り、部下は彼をナチ少年団員といってあざ笑った。

 

それは10歳から14歳の団員からなるヒトラー・ユーゲントであり、

 

事実上ヒトラーの「カブスカウト」のことである。

 

第二に、ホフマンは自分が動けない分、それだけ過度に部下を監督する

 

ことでその埋め合わせをした。彼はベッドの上から全てのことに

 

命令を下そうと固執した。それも中隊指揮官としてのみならず、

 

小隊指揮官としてもあらゆる点でそうしたのである。あらゆる

 

パトロールや行動の前に、下士官たちはホフマンの寝室へ詳細な

 

指図を求めて出頭し、後になって再び個別的に報告したのである。・・

 

ホフマンは112日から25日まで入院し、その後新年を過ぎるまで

 

療養休暇でドイツに戻った。彼はまた1ヶ月だけ中隊を指揮した

 

が、新しい治療を受けるためにドイツへ戻ってしまった。

 

ドイツでの2度めの休暇中、ホフマンはトラップが彼を中隊指揮官から

 

解任したことを知った。

 

ホフマンとトラップの関係はすでに1月以来悪化していた。

 

すなわち、トラップが大隊指揮官として、部下の将校、下士官、

 

兵士全てに、盗んだり、略奪したり、金を払わないで物をとってこない

 

ことを誓う特別の布告に署名するように命じた時以来である。

 

ホフマンはトラップに辛辣な返事を書き送り、その中で、

 

この命令は自分の「名誉の感覚」を深く傷つけたので、命令には

 

従えないとはっきり拒絶したのである。トラップもまた、彼の

 

一時的な代理人であったメスマン中尉から、プワーヴィでのホフマンが

 

何もしなかったという芳しくない評価を聞いていた。

 

1943222日、トラップはホフマンを中隊長の地位から解任したいと

 

する要望を提出した。その要望書によれば、ホフマンは重要な行動の

 

前にいつも病気であると報告してきたが、こうした「軍務意識の欠如」

 

は隊員の士気に悪い影響を与えるとされている。

 

ホフマンは実際他の警察大隊に転任になったが、その大隊は

 

1943年秋、ソ連の前線での戦闘を経験した。そこでホフマンは二等

 

鉄十字勲章を得たのである。彼は後に、ミンスクの近くで白ロシア人

 

の外人大隊の指揮を委ねられ、ついでコーカサス「志願兵」大隊の

 

指揮をまかされた。戦争が終わったとき、ポズナニの警察長官の

 

主席参謀将校であった。

 

以上をまとめてみると、ホフマンのその後の経過からみて、1942

 

秋の彼の態度が、彼の部下やトラップが疑った臆病にあたるのか

 

どうかを決めることは困難であると言わざるをえない。確かに彼は

 

病気であった。彼の病気が第101警察予備大隊の血なまぐさい活動

 

に起因するものであるかどうか、それは確定できない。しかし彼は

 

心因性の「大腸過敏症」ないし「大腸炎」の症状を持っていた。

 

そして明らかにホフマンの任務は彼の症状を悪化させたのである。

 

更に明瞭なことは、ホフマンはポーランド・ユダヤ人の殺戮に

 

係るあらゆる任務から逃れるために病気を利用したというよりも、

 

病気を上官の目から隠すために、病院に入れられることから逃れる

 

ためにあらゆる努力を払っていたということである。もし、大量殺戮が

 

ホフマンに腹痛を与えていたとすれば、それは実は、彼が心の奥では

 

良心の呵責を感じ、彼の能力の最上のものに打ち克とうとしていたことを

 

示している。

 

*************************************

 

キツネの読書感想文  3

 

 <<これまでのナチについての共同研究者たちは権威主義的

 

パーソナリティ、つまり「心の底に強力な攻撃衝動を

 

抱いている」個人についての心理的なアプローチを通して、

 

(ある研究者の言うように)「ナチズムが冷酷だったのは、

 

ナチ党員が冷酷だったからである。そして、ナチ党員が冷酷だった

 

のは、冷酷な人々がナチ党員になったからである」として、その

 

社会的、文化的、制度的側面を無視しがちだった。

 

そして、普通の人々はファシストの権威にコミットしなかったのだ

 

ということを暗に思わせた。>>(本書より)

 

それに対し、本書では親衛隊員でもなく、ナチ党員でもない、

 

職人や工場労働者や港湾労働者あがりの新米警官が鉄砲を持たされ、

 

無差別殺戮の実行部隊として使われ、その後大部分が生き残って実体験を

 

語っている。彼らはナチズムとは何の関係もない「ふつうのドイツ人」

 

だが、はたしてかれらは「ファシストの権威にコミットしなかった」

 

のだろうか。

 

著者の分析を以下にまとめてみた。

 

 

 

1.  p346 わたしの見解。・動機の多様性

 

<<わたしは自分の著書「普通の人びと」の中で、大隊の肖像を

 

重層的に描いた。大隊内部では、異なったグループが異なった

 

振る舞いをしていたのである。「熱狂的な殺戮者」ーーその数は

 

時間を追って増加していったーーは、殺害チャンス探し、

 

彼らの殺戮行為を祝った。大隊内の最小グループは撃たなかった

 

者たちで構成されていた。

 

ブッフマン少尉を例外として、彼らはナチ体制やその血まみれの

 

政策に対して原則的な異議を唱えたりしなかった。

 

また彼らは戦友を非難したりもしなかった。彼らは、自分が

 

臆病である、あるいは自分には子供がいると述べることに

 

よって、大隊ではそれに耐えられない者を射殺行動から

 

免除するというトラップの方針を利用したのであった。

 

大隊内で最大のグループは、何であれ要求されたことを実行した

 

人々である。彼らは権威筋と対立する重荷を負いたくなかったし、

 

臆病と見られたくもなかった。しかし彼らは殺戮に自発的に

 

志願したわけでもなければ、殺戮を祝ったわけでもなかった。

 

感情が麻痺し凶暴化してくるにつれて、彼らは人間性を奪われた

 

犠牲者を憐れむよりも、彼らに負わされた「不快」な任務ゆえに

 

自分自身を憐れむようになったのである。

 

彼らはたいてい、自分が悪いことないし非道なことをしているとは

 

考えていなかった。なぜなら殺戮は正当な権威によって認可されて

 

いたからである。たいてい彼らは考えようとさえしなかった。

 

それがすべてである。警官の一人はこう述べた。『正直に言えば、

 

我々はそのことについて何の反省もしていませんでした。何年も

 

たってから、我々のうちの何人かは当時なにが起こったかを

 

本当に自覚したのです』>>

 

 

 

2. p350  ドイツ政治文化と社会心理学(不完全な民主主義

 

が権威主義、独裁主義の温床となる)

 

 <<(ひとつには)命令には従うというドイツ人の傾向、

 

2つめは、権威への盲従、役割への順応、同輩からの圧力への

 

順応といった一般的な人間行動が、ドイツ政治文化の顕著な要

 

素であったとする見解は、従来からあった。・・

 

より重要なのは、ヴァイマールにおいて不服従が生じた前後関係で

 

ある。というのも、政府を軽蔑し攻撃した者の立場から政府を否認

 

出来たのは、まさしくヴアイマール共和国の民主的な性格があった

 

からなのである。ヴアイマールでの反抗はまさしく民主主義の破壊

 

であり、権威的体制の復活であった。ナチは個人の権利より

 

共同社会の義務を強調し、それがかなりのドイツ国民の間にナチの

 

正当性と人気を生み出したのである。実際多くの歴史家たちが

 

論じたように、ドイツでは1848年と1918年の民主主義革命が

 

不完全で熱意を欠いたものであったため、権威主義的反革命と復古主義に

 

容易に門戸を開く結果になってしまった。

 

民主化の挫折によってーー「反ユダヤ主義」によってではなくーー

 

ドイツの政治文化はフランスやイギリス、そし合衆国の文化と

 

区別されるものとなったのである。

 

教育、公的会話、法、そして制度的強制ーーは、ナチがそれらを

 

使って反ユダヤ主義を絶え間なく普及させるはるか以前から、

 

ドイツに権威主義的諸価値を植え付ける役割を果たしていた

 

のである。>>

 

 

 

3.普通のドイツ人は、我々(この場合、アメリカ、イギリス、

 

フランス国民など)とは異なった国民なのか?

 

 

p359 <<根本的な問題は、普通のドイツ人を我々とは全く

 

異なった国民であるとし、そして根本的な問題は、なぜ普通の

 

ドイツ人がーー彼らは確かに特殊性を持ってはいるが、

 

にもかかわらず、ヨーロッパ、キリスト教、そして啓蒙主義の

 

伝統の主流に属する文化によって育まれたーー

 

特殊な環境の下に置かれたときに、人類史上最も過激な

 

ジェノサイドを自発的に執行したのかを説明することである。

 

(従来の研究者が述べた結論によれば、ナチ以前のドイツ社会が

 

反ユダヤ主義に支配され、ドイツ社会全体がユダヤ人について、

 

「ヒトラーと心を一つにしていた」というが、私はこのような説を

 

受け入れることは出来ない)

 

もしこの説が正しいとすれば、われわれは気持ちを楽にすることが

 

できるだろう。なぜなら、そうであれば、ほとんどの社会は

 

(ドイツと異なり)ジェノサイドを犯すような長期的、文化的な

 

もろもろの前提条件を持たないことになるし、政権は国民が、優先度、

 

正義、必要性について圧倒的に心を一つにしている時にしか、

 

ジェノサイドに手を染めることができなくなるはずだから。

 

もしそれが正しければ、われわれはより安全な社会に住んで

 

いることになろう。

 

しかしわたしはそれほど楽観的になれない。わたしは

 

われわれが住んでいるこの世界に不安を抱いている。

 

現代社会では、戦争と人種差別主義がどこにでも

 

跋扈しており、人々を動員し、自らを正当化する政府の

 

権力はますます強力かつ増大している。また専門化と

 

官僚制化によって、個人の責任感はますます希薄化して

 

おり、仲間集団は人々の行動に途方もない圧力を及ぼし、

 

かつ道徳規範さえ設定しているのである。このような

 

世界では、大量殺戮を犯そうとする現代の政府は、

 

わずかの努力で「普通の人びと」をその「自発的」

 

執行者に仕向けることができるであろう。わたしは

 

それを危惧している。>>

 

 

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 2020    10    1

 

大量殺戮を犯そうとする現代の政府は,わずかの努力で「普通のひとびと」を

 

その「自発的」執行者に仕向けることができるであろう.

 

と,「普通人々」は恐ろしい真実を暴露しているが,

 

では旧日本軍では何が行われていたのか,キツネの得た最新の小さな資料を

 

擧げておく.

 

 

叩かれ殺された中年の召集兵」朝日新聞2020418

 

「声」ー語り継ぐ戦争ー より 馬場忠雄

 

 

 

投稿の主は現在93歳,海軍飛行予科練習生(予科練)に所属し,

 

昭和20年春,沖縄戦に出撃した部隊の後方基地に作業員として

 

配属される.基地での作業は,前線に送る爆撃機を敵の目から

 

隠すため松の枝をかぶせるというものだったが,ある日兵舎で

 

仲間がヒソヒソ話をしている.すぐ隣の兵舎で40すぎの召集兵が

 

制裁を受け死亡したらしいという.

 

 

 

同手記によれば,「若い下士官が,『にぶい.気合を入れてやる』

 

と軍人精神注入棒という棍棒を持ち出した.恐怖のあまり逃げた

 

ため,下士官たちが寄ってたかって捕まえ,ハンモックのつり具に

 

両手を縛って吊るし殴ったそうだ」

 

「軍人精神注入棒による制裁は何度も見たし,私もやられた.

 

5発,10発と続けるうちに叩く方も顔面蒼白,鬼の形相になる.

 

吊るしての殴打は特に危険と言われていた」

 

「私の父親のような年の人だ.故郷の妻子に,この死はどう

 

伝えられるのか.戦死でも戦病死でもない,しつこく言う私に

 

同僚が言った『他言するな,危険だ』.隣の兵舎を覗くと

 

大勢の兵がいるのにいつものざわめきはなく,森閑としていた」

 

 

ここに登場するのは,ナチと同様,「軍人精神注入棒」を振り回す

 

下士官だが,これはもう普通の人を辞めて一種ロボット化した人形

 

であり,道徳的規範そのものが,政府の意図する大量殺戮の目的に

 

そって注入されている完全機械人間だ.キツネの場合,海軍には叔父が

 

居て,沖縄戦で戦死したと聞いていることもあり,「開明的な海軍」

 

ではそのような棍棒は使われていなかっただろうと勝手に思い込んで

 

いたのだが,さにあらず.戦後75年たって,はじめて表に出る真実も

 

まだまだ沢山ある.

 

 

 

 

 

 

 

2020   4  21

 

ハルジオン

 

 

 

コロナ自粛騒ぎの思わぬ拾い物.

 

「運命の力」を深夜テレビで.

 

僧院の場のレオノーラ(=アンナ・

 

ネトレプコ)のアリアもすばらしかったが,

 

一方でそれ以外の場面では,兵営に

 

つきものの酒場で,兵士,娼婦,戦災

 

孤児までもが,唄い踊り,場を盛り上げて

 

いる.

 

「俺らは百姓,それなのに無理やり兵隊にされて・・」とか「さあさ,私らが慰めて

 

あげるから,元気を出しな!」「おまけに親なしの戦争孤児が増えるし・・」などと,

 

およそこの大悲劇の筋立てとは無関係に,喚いて踊る.

 

最後に全ての主役たちが死に,レオノーラの恋人だけが独り

 

修道院に入って終わる.ことの発端は,彼が純粋スペイン人では

 

なく,インカの血を引いているため,レオノーラの父は結婚を

 

許さない.初対面での思わぬ暴発事故で,父親は死に,レオノーラの

 

兄は父の敵(顔も知らぬ)を探しまわり,復讐を誓う.兵士として戦場

 

で命を助けられた男と深い友情で結ばれるが,実はその男が・・・

 

 

 

という悲しい物語はさておいて.征服者スペイン人の,インカ民族

 

への激しい蔑視,インカ帝国と文化を破壊しつくし,その富()

 

奪い去ったこと,そのことを恥じた恋人の父親が,インカの婦人と

 

結婚してインカ帝国を立て直そうと志したが,ことはそう簡単には

 

運ばなかった,という筋立てが裏にあるという.

 

 

 

現代では,「戦争は単なる舞台装置さ.そこでの主役は俺達だ」

 

と公言する政治家はあまりいなくなった(たまにバカな御仁も

 

居るが).その舞台装置自体も,劇を盛り上げるために損な役回りを

 

させられているのを,いつまでも黙ってはいない.

 

 

 

 

 

2020   4   27

 

「戦争は女の顔をしていない」  スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ

  三浦みどり 2008年 岩波現代文庫 刊  ¥1400

 

キツネの読書感想文

著者は7年もの月日をかけて,スターリン時代の「女兵士」から,当時の

体験を聴きとり,出版したが,即発禁処分にあった.その後ゴルバチョフの

ペレストロイカ時代となって初めて世に出され,絶賛され,後にノーベル文学賞

を受けた.

彼女はこの本の冒頭に,こう書いている.

 

「戦争はもう何千とあった.小さなもの,大きなもの,有名と無名のもの,それに

 

ついて書いたものは更に多い.しかし,書いていたのは男たちだ.私たちが戦争に

 

ついて知っていることは全て『男の言葉』で語られていた.私たちは『男の戦争観,

 

男の感覚』にとらわれている」

 

p4.

(わたしを除いてだれもおばあちゃんやお母さんたちにあれこれ問いただしたものは

 

いなかった)

 

「わたしは子供の頃のようにショックを受けた.女たちが語ってくれたことには

 

秘密が牙をむいていた.わたしたちが本で読んだり話で聞いて慣れていること,

 

英雄的に他の者たちを殺して勝利した,あるいは負けたということはほとんどない.

 

女たちが話すことは別のことだった.『女たちの』戦争にはそれなりの色,臭いが

 

あり,光があり,気持ちが入っていた.そこには英雄もなく,信じがたいような

 

手柄もない・・・・そこでは人間たちだけが苦しんでいるのではなく,土も,小鳥

 

たちも,木々も苦しんでいる.だからなお恐ろしい・・・・」

 

「驚いたことに,話を聞いた女性たちの軍務は,衛生指導員,狙撃兵,機関銃射手,

 

高射砲隊長,工兵など.その人達が今は,会計係,研究員,ガイド,教師をやって

 

いる.まるで自分のことではなく,だれか他の娘たちのことであるかのように語り

かつての自分に驚いている.」

 

「回顧とは,起きたことを,そして跡形もなく消えた現実を冷静に語り治すという

 

ことではなく,時間を戻して,過去を新たに生き直すこと.語る人たちは,同時に

 

創造し,自分の人生を『書いて』いる.『書き加え』たり,『書き直し』たりも

 

する.そこを注意しなければならない.

 

わたしが気づいた限りでは,より正直なのは一般庶民だ.看護婦,料理係,洗濯係

 

だった女たち,そういうひとたちは新聞や本で読んだ言葉ではなく,自分の中から

 

言葉を取り出す.自身で体験した苦しみから出てくる言葉だ.

 

不思議なことに,教養のある人ほど,その感情や言葉遣いは時代の影響を受けている.

 

退却した,進撃した,どこの戦線だったという『男の戦争』ではなく,『女たち』の

 

戦争の話を聞くためには,・・・・粘り強い肖像画家のように一度ではなく,何度

 

も訪れていかねばならなかった.

 

p13

「男たちは,自分たちが独占してきた世界,そのテリトリーにしぶしぶ女を入れる.

 

・・・ある家庭に行ったときのこと,夫も妻も戦地にいたことがある.2人は戦線で

 

知り合って結婚した.『結婚式は塹壕の中で,戦闘に出る前だった.ウエディング・

 

ドレスはドイツ軍のパラシュートの生地を自分で縫ったわ』

 

夫は機関銃兵,妻は通信兵だった.

 

夫は奥さんをまず厨房に追いやった.『まず,何か食べ物を用意してくれ』

 

やかんが湯気をたて,オープンサンドが用意されて,彼女はわたしたちと一緒に

 

座ろうとすると,夫はただちに次の注文を出して奥さんを立ち上がらせる.

 

『イチゴはどうした?週末に摘んできたあれは?』

 

わたしがしつこく奥さんに話を聴きたがるので,夫は『教えたとおり,きれいで

 

いたかったからおさげを切ってしまったときは(入隊時に)泣いたわ,なんていう

 

お涙ちょうだいや女々しい説明は抜きで話してあげなさい』と言って,いやいや

 

ながら奥さんに席を譲った.奥さんはこっそり告白した.

 

『一晩中私と一緒に『大祖国戦争の歴史』を丹念に読んだんです.わたしのことが

 

心配で,心配で.,見当外れなことを思い出すんじゃないかって,気をもんでるの』

 

こんなことは一度ならずあった」.

 

 

キツネの感想文 2

 

第二次世界大戦中,ソ連では100万人を超える女性が従軍した.

彼女らは19歳から30歳で,他国軍のように看護婦や軍医だけでなく,実戦で

機関銃を撃ち,敵を殺す兵士として,男並みの活躍と苦しみを経験した.

戦後,男たちは勲章を胸に,「祖国に戦勝をもたらした」という誇りと共に,

国家の支援を受けることが出来たが,従軍女性は反対に軍歴をひた隠しにして,

「それがバレたら,誰もお嫁にもらってくれない」,そうしたらどうやって

生きてゆくのか?との恐怖から,長いことその経験を語ることが出来なかった.

男の兵士たちは戦場での同志である女性兵士を,戦後に見捨てたし,また

従軍経験のない母親や祖母からはいわれのない疑いの目で見られた.

「男に混じっていったい何をしていたやら」などと.

 

 

P203

 

オリガ・ヤーコヴレヴナ・オメリチェンコ  歩兵中隊 (衛生指導員)

 

 

 

キツネ注:「衛生指導員」とは,弾の飛び交う戦場で,負傷兵と銃器を引きずって

 

塹壕などに移し,傷の手当をしつつ,身方の回収車を待つというものらしい.

 

この後に出て来る戦車部隊の場合は,戦車について歩き(狭い戦車の中に乗れるのは

 

男の兵士だけ),銃撃を受けて炎上する戦車から負傷兵を銃器もろとも引っ張り上げて

 

救出するという,なんとも激しい任務であるらしい.

 

 

 

 

 

「私のお守り・・・母は私が一緒に疎開するように願っていた.私が前線に行き

 

たがっていたので,母は私を移動の荷車にひもでくくりつけていたんです.

 

でも私はこっそりそれを解いて逃げてしまったんです.その紐は,私の手の中に

 

残った・・・

 

みな移動していた.逃げていた.どこへ行ったらいいのかもわからない.途中で

 

女の子の一団と会って,そのうちの一人が「このすぐ近くにおかあさんがいるの.

 

家においでよ」と言ってくれました.夜中に家に着いて扉をたたいた.その子の

 

お母さんが扉を開けてくれた.ぼろぼろの服で薄汚くなっている私たちをひと目

 

見て,「そこで待ってなさい」と命じました.私たちは戸口で待っていた.

 

お母さんは大きな鉄鍋をもってきて.私達の着ているものを全部はぎとりました.

 

私たちは灰で頭を洗いました.(石鹸はなかったから)それからペチカの上によじ

 

登っててぐっすり寝入りました.朝になって,その女の子の母親は野菜スープを煮て

 

くれました.ジャガイモの皮の入ったフスマのパンも焼いてくれました.そのお母

 

さんにに栄養をつけてもらいました.少しずつ食べさせてくれる.だっていきなり

 

満腹にしたら,死んでしまうかもしれませんからね.5日目になってそのお母さんが

 

言いました.「出発しなさい」

 

その前に近所の女の人が来て,ペチカの上に座っていた私たちに「黙って」と指で

 

合図したんです.近所の人たちにさえ,娘が家に帰っているところを知られたく

 

なかった・・・

 

娘が戦線から戻ってきても,かくまうどころか,娘が戦っていないということが

 

許せなかった.

 

母親は夜中に私たちを起こして,食べ物の包を渡した.一人ずつ抱きしめて,一人

 

 

ずつに「行きなさい」と言ったんです.自分の娘にキスをして,「父さんが戦って

 

いるんだ.あんたも行って戦うんだよ」と.

 

その女の子は,自分が看護婦で,敵に包囲されてしまったときのことを道中話して

 

くれました.

 

長いこと私はあちこち汽車にゆられて,とうとうタンポフ市に着きました.そこで

 

軍病院に落ち着いたんです.長い飢餓状態の後で,病院は良かった.私はすっかり

 

太ってしまったほど.そして私が16歳になった時,他の看護婦や医者たちと同じよ

 

うに献血しても良いと言われました.病院ではいつも何百リットルも血液が必要

 

だったから.私はいつも500ミリずつ取られました.500ずつ,月に2回.献血者は

 

手当に食料がもらえました.砂糖1キロ,挽き割り麦が1キロ,サラミソーセージが

 

1キロ,エネルギーを取り戻すために.

 

私はニューラおばさんと仲良しでした.おばさんは子供が7人いたんです.ご主人は

 

戦争の初めに亡くなっていた.11歳の長男が食料をもらいに行き,配給券を無くして

 

しまったときは,私は献血者手当の食料をあげました.

 

あるとき医者が「君の住所を書いておこう.ひょっとして君の血を輸血された人が

 

現れるかもしれないからな」と言って.私たちは住所を書いたメモを瓶につけて

 

おきました.

 

それからしばらくして,2ヶ月くらいだったか,当直を終えて横になっていたら,

 

叩き起こされたんです.

 

「起きろ,起きろ,兄弟が面会に来てるよ」「兄弟なんて私にはいないわ」

 

私たちの寮は最上階にあって,下に降りていくと,ハンサムな若い中尉が待って

 

いました.「オメリチェンコに御用の方は?」「私だ」そう言って,私が瓶につけて

 

おいたメモを見せてくれたんです.「私はあんたの血をもらった兄弟だ」そう言って,

 

私にリンゴ2つとチョコレート菓子が入った袋を持ってきてくれました.

 

その頃チョコレート菓子なんてないでしょ?本当においしかった.院長のところに

 

行って,「兄が来たんです」と外出許可をもらいました.その人が「劇場に行こうか」

 

と誘ってくれたの.私はそれまで一度も劇場なんか行ったことがなかったんです.

 

それが突然劇場に,しかもハンサムな若者と.

 

何日かたって,その人は出発していったわ.ヴォロネジ戦線に送られました.

 

お別れに来てくれたとき,私は窓を開けて手を振ったわ.外出許可はもらえ

 

なかった.ちょうど負傷者が沢山担ぎ込まれた時だったから・・・・

 

誰一人手紙なんかくれません.手紙をもらうことなんか想像できませんでした.

 

それが思いがけなく,三角形にたたんだ手紙を渡された.開いてみると,

 

「あなたの友,機関銃中隊長は勇敢な死を遂げました」それがあの「兄」の

 

ことだったの.彼は孤児院育ちで,持っていた唯一の住所が私の住所だったの.

 

別れて行く時,私に必ずここに残っているようにと,熱心に頼んで行きました.

 

戦争が終わってから見つけ出しやすいからって.「戦争ではすぐ行方不明に

 

なっちゃうだろ?」と心配してました.それから1ヶ月で彼が戦死したという

 

手紙をもらうなんて.私はとても恐ろしくなってしまいました.針で心臓を

 

刺されたみたいでした・・・・私は,どうしても前線に出て,自分の血を分けた

 

人の復讐をしたかった.でも前線に出ていくのはそれほど簡単ではありません

 

でした.病院長に3通の報告書を書いて,4回目に直訴しました.「私を行かせて

 

くださらないなら,ここから逃げ出します」「よかろう,指示書を書こう.

 

そんなにガンコでは」

 

 

 

一番怖かったのは,最初の戦闘でした.だって,まだ何も知らなかったんですもの

 

・・・・いたるところグーン・グーンとうなる音がしています.空も大地も.

 

心臓が張り裂けそう,皮膚が今にも破裂しそうだった.地面が割れてしまうなんて

 

考えもしなかった.それが割れるんです,轟をあげて.大地全体がゆらゆら揺れて,

 

どうにもなりません.こんなことをどうやって耐えるのか・・・・私にはガマン

 

出来ないと思いました.私はあまりにも恐ろしくて,決心したんです.臆病風を

 

吹かせないように,コムソモール員証を取り出して,負傷者の血に浸し,それを

 

ポケットに入れました.心臓のそばに.そしてボタンをかけると,これに誓いを

 

たてました.「耐え抜こう,大事なのは怖気づかないこと」と.

 

 

 

というのも,最初の戦闘で怖気づいてしまったら,その先一歩も進めなくなって

 

しまいます.最前線からはずされて,医療大隊に送られるだろうから.私は

 

最前線しか望みませんでした.せめて一人でもファシストの顔を直に見て

 

みたかった.そして私たちは進撃していきました.草の中を進みます.

 

草は腰まで伸びていました.もう何年も耕していない畑でした.行軍はとても大変

 

だった.あの激戦地クールスク近郊のこと・・・・戦闘が終わって,本部長に呼ばれ

 

ました.壊されかけた小さな小屋で,中には何もありません.椅子が一つあり,

 

本部長が立っています.私をその椅子に座らせると,訊くんです.

 

「お前を見ていると考えてしまう.こんな地獄にお前を来させた動機は何なんだ?

 

ハエのように叩きつぶされてしまうのに.これは戦場だ.挽肉機だ.せめて衛生班に

 

配転しよう.いや,殺されてしまうのはしかたがないが,眼や手がなくなって生き

 

残ったらどうするんだ?そういうことを考えてみたのか?」「はい,大佐殿,考えて

 

みました.ひとつだけお願いします.私を中隊に置いといてください」

 

「しかたない,行け!」あまりの怒鳴り声.に,私はびっくりしたほどです.大佐は

 

窓の方に顔を向けてしまいました・・・・

 

 

 

戦闘は激しいものでした.白兵戦です・・・・これは本当に恐ろしい・・・・

 

人間のやることじゃありません.殴りつけ,銃剣を腹や眼に突き刺し,のど元を

 

つかみ合って首を締める.骨を折ったり,うめき声,悲鳴が渦巻いています.

 

頭蓋骨にヒビが入るのが聞こえる.割れるのが・・・・戦争のなかでも悪夢の

 

最たるもの,人間らしいことなんか何もない.戦争が恐ろしくないなんて言う

 

人がいたら,絶対信じないわ.

 

ドイツ人が立ち上がって進んでくる.必ずヒジまで腕まくりしている.それから5分,

 

10分待って突撃.震えが止まらない.それは最初の弾を撃つまで.それから

 

は・・・・

 

号令を聞いたらもうほかのことなんか何も憶えていない.みんなと一緒に立ち上がって

 

走り出す.そうでなかったらもう恐怖は頭にない.

 

 

でも2日目になったら,もう眠れない.恐ろしい.何もかも思い出されて,細かいこと

 

まで全部.やっとはっきり意識されたんです.自分たちは殺されたかもしれなかった

 

んだって気がが狂いそうに怖くなりました.突撃の後は顔を見ないほうがいいんです.

 

だって,それはまったく別の顔ですもの.普通,人間が持っている顔じゃないんです.

 

お互いに眼を上げられない.木々を見ることもできません.誰かに近づこうものなら,

 

「どきやがれ!」と怒鳴られる.私には表現できません.それがどんなものか.少し

 

異常で獣に似ているんです.見ないほうがいいわ.

 

今でも生き残れたことが信じられません.行きて残れたことが.

 

負傷もしたし,ケガもしたけど,でも五体満足なんですもの,信じられない.

 

目をつぶると,また何もかも目の前に見ているようになるの.

 

砲弾が火薬庫に命中,火がぱっと燃え上がったんです.兵士がすぐそばに立っていた.

 

火薬庫の警備をしていたんです.その兵士が燃え上がった.それはもう黒い肉切れ.

 

それがその場で跳ねているんです.みな塹壕から見ていて,誰もその場から動かなか

 

った.みな呆然としている.私はシーツをひっつかんで駆けつけると,その兵士の

 

上に覆い被さって伏せた.地面に押し付けたの.土は冷たかったから,そんなふうに

 

その兵士はピクピクしていましたが,心臓が破裂して静かになりました・・・・

 

私は血まみれだった.そこに古参兵が近寄ってきて,私を抱きしめました.

 

「戦争が終わって生き残れたとしても,この子はもう人間に戻れないよ,これで

 

終わりだ」とつぶやいているのが聞こえます.「こんな恐ろしい目にあって,

 

こんなことに耐えて,しかもこんなに若いときに」というのです.

 

私はまだひきつけを起こしたように全身震えていて,手をとってもらって土塁の中に

 

降ろされました.足が言うことをきかなかった・・・・感電したみたいに,ぶるぶる

 

震えてた・・・・説明しようのない感覚・・・・また戦闘が再開されました.

 

 

 

セフスクの村の近郊で,一日に7〜8回攻撃されました.その日は負傷者とその

 

兵器を一緒に運んでいました.最後に残った負傷兵に近づくと,その人の手は撃ち

 

抜かれていて,ぶらぶら下がっているだけ・・・・全身血まみれ,すぐにも手を

 

切断して包帯を巻いておかなければならない.それ以外にどうしようもない.でも,

 

ナイフも鋏も持っていなかった.私の袋は腰でバタバタ揺れているうち,落ちて

 

しまったんです.どうしたらいい?私は自分の歯でその人の肉を噛み切りました.

 

噛み切ってそれから包帯を巻いていると,その人が言うんです,「看護婦さん,

 

早くしてくれ.まだ戦わなけりゃ」うわ言です・・・・

 

23日して,戦車がこっちに向かってきた時,2人が怖気づいて逃げ出した・・・・

 

それで人の鎖が崩れた・・・・沢山の戦友が亡くなりました.私が穴に引っ張り

 

込んだ負傷者たち,その人たちを迎えに車が来るはずでした.でもこの怖気づいた

 

二人でパニックが起きたとき,負傷者も置き去りにしたんです.そのあと,

 

負傷者が横たわっていたところに戻ると,ある者は目をくり抜かれ,ある者は腹を

 

切り裂かれていました.・・・・

 

それを見て,私は一夜のうちにげっそりやつれてしまいました.その人たちを

 

一箇所に集めたのは私だったんですから.

 

翌朝,大隊全員が整列させられました.あの臆病者たちがみんなの前に引き出され

 

ます.二人は銃殺だと宣告されました.この判決を執行する人を7人選ばなければ

 

なりませんでした.3人が名乗り出て,あとはみなその場に立ち尽くしていました.

 

わたしは自動小銃を持って進み出ました・・・・女の子が・・・・みな私に続き

 

ました.

 

あの二人を許すことは出来ませんでした.あの二人のせいで勇敢な若者たちが

 

殺されてしまった!私たちは判決を執行しました・・・・銃口を下ろしたとき,

 

ふっと恐ろしくなりました.その人たちに近寄ってみる・・・・横たわって・・・

 

一人の顔には生きているような微笑みが浮かんでいる・・・・今ならその人たちを

 

許せるだろうか?言わないことにするわ・・嘘になるといけないから.

 

 ときどき泣きたくなる・・・・でも泣かない・・・・戦争で全て忘れてしまい

 

ました.かつての自分らしい生活を,何もかも・・・・(中略)

 

 

 

戦争から戻ってきて,私は重い病気になりました.あちこちの病院をまわり,

 

ついに年老いた教授の元にたどりつきました.その人が主治医になりました.

 

薬剤よりも言葉で治してくれた.私の病気を説明してくれたんです.

 

「もしあなたが18歳や19歳で前線に出たのなら,身体が出来ていただろう.でも

 

あなたは16の時だったから,まだまだ若くて,身体がひどくトラウマを受けて

 

しまった」と.

 

「薬で治せるが,私の唯一の助言は,結婚して,できるだけ沢山の子供を持つことだ.

 

それしか救いようはないな.子供を一人産むたびに身体は回復してくる」・・・・

 

ーーーーーいくつだったんですか?

 

戦争が終わったとき,数えの20歳でした.もちろん結婚することなんか考えて

 

いませんでした.

 

ーーーーーどうして?

 

私は疲れ果てていたんです.同い年の人たちよりも,なんだか年上だという感じが

 

していました.

 

・・・・人生をもう年老いた老人の目で見てしまったから,それは外からは見えま

 

せんでした.

 

・・・・私の心の中で何が起きてしまっているか・・・・

 

野戦病院ではどうだったか?手術室の衝立のかげに大きな桶が置いてあって,

 

そこに切断した手や足を置いていたんです.・・・・前線から大尉が,仲間の負傷者

 

を連れてきた時のことです.どうしてそういうことになってしまったのかわりません

 

が,大尉が衝立の裏に行って,その桶を見てしまったんです・・・・大尉は気を失って

 

しまいました・・・・

 

 

 

次から次へと思い出せます.止めどなく・・・・

 

何が一番重要なことか,ですか?私が憶えているのは戦争の音です.そこら中で

 

渦巻く轟音,ガシャガシャいう金属音,炎の中で壊れていく音・・・・

 

戦争でも人間は心が老いていきます.戦後,私はもう決して若い娘に戻れません

 

でした.これが一番大きなことね.私の考えでは・・・・

 

 

 

結婚はしました.そして5人の息子を産んで育て上げた.わたしが一番驚いたのは,

 

あんなにすさまじい経験をした後で,可愛らしい子供たちを産むことができたこと,

 

良いお母さんに,そして良いおばあさんになれたことです.

 

 

 

今すべてを思い返して,あれは自分じゃなかった.だれか他の女の子だったんだと

 

いう気がします.

 

 

 

P138

 

ニーナ・ヤーコヴレヴナ・ヴィシネフスカヤ

 

曹長 (戦車大隊 衛生指導員)

 

 

 

「そう,じゃ,何がどうだったかってことを,ありのままに話すわ.

 

・・・・女友達に話すつもりでね.

 

まず,戦車は女の子を採るのがいやだったの.全然採ろうとしなかったと

 

言ってもいいくらい.それなのにどうして私が潜り込めたか?私たちは

 

カリーニン州のコナヴァ市に住んでいた.8年生の終了試験に合格して

 

9年生に進級できたばかり.その頃私たちは誰も戦争ってどういうことか

 

わかっていなかった.本に書いてあるような.ロマンチックな革命,

 

理想で育てられていたでしょ.本に書いてあることを信じていた.

 

戦争はまもなく我が軍の勝利でおわるんだ,もうじきだって. (中略)

 

 

 

(出征する兵士を見送りに行って)軍服のピカピカのボタンが好きだったの.

 

すでに衛生協力隊の講習会に通っていたのに,まだどこかゲームのようだった.

 

それから学校が閉校になって,私たちは国防施設の建設に徴用され・・・・

 

朝8時から夜8時まで対戦車壕を掘った.15歳から16歳の少年少女たち.

 

 

 

まもなく,ドイツ軍が街に,10キロぐらいのところまで迫ってきて,銃の

 

連射音が聞こえてきた.私たち女の子はみな徴兵司令部に駆け込んだ.

 

「私たちも国を守らなければならないわ.もちろん皆一緒に」

 

全員は受け入れてもらえず,体力があって18歳になっている子がまず

 

採られた.優秀なコムソモール(共産党青年団)員が.

 

大尉が来て,戦車部隊に女の子を選んでたけど,私の言うことなんかまるで

 

聴く耳を持たなかったわ.だって,まだ17歳だったし,160センチしか

 

なかったから.「歩兵が負傷したら」と私に説明するのよ.「地面に倒れるが,

 

そこに這って行って,手当をしたり,避難所に引きずっていけるが,

 

戦車兵はそうはいかない.戦車の中の兵はハッチから引き上げなけりゃ

 

救えない.図体のでかい若者を引っ張り出すことができるか?戦車兵はみな

 

ガッチリした体つきなんだ.みんな,戦車の上によじ登れば,戦車をねらって

 

撃ってくる.弾丸や破片が飛び交う.戦車が燃えるってどういうことか

 

知ってるか?」

 

「私のどこが他のコムソモールの女の子とちがうんですか?」

 

「もちろん君もコムソモールだが,ちっちゃすぎる」

 

 

 

衛生班で訓練を受けていた他の子たちは私よりもっと背が高く強くて,採用と

 

なったの.その子たちが出ていくのに,私が残るなんて悔しかったわ.

 

もちろん両親にはなにも言わなかった.

 

見送りに行くと,女の子たちは私を哀れんで,荷台の防水布の下に隠して

 

くれた.   (中略)

 

 

 

本部に着くと大尉は全員整列と命じたの.みんなトラックから降りて私は最後

 

だった・・・・

 

「中佐殿,12人の娘達が勤務に就くため参りました」ところが中佐は私たちを

 

見て,「12名じゃない,13名もいるじゃないか」・・・・

 

「お前はどうしてここに居るんだ?」ーー「戦うために参りました,大尉どの!」

 

ーー「こっちに来い!」

 

「友達についてきたんです」と言うと,少佐は私の差し出した衛生隊の身分証明書

 

を見ていたけど,中佐が「街に行く車が来たらすぐ家に送り返せ」と命じた.

 

 

 

車が見つかるまで臨時に衛生部に置かれて,ガーゼでタンポンを作ったりしていた.

 

車が本部に近づいてくるのを見ると,すぐに森に隠れる.そういうことが3日

 

あってから,私たちの大隊が戦闘に出た・・・・みな戦闘に出ていって,私は

 

負傷者の手当のために土壕の準備をしていたの.30分もたたないうちに負傷者が,

 

運ばれてきた.死者も.女の子も一人死んで,私のことは忘れてしまった.私が

 

いることに慣れてしまったのね.上官たちはもう思い出そうともしなかった.

 

・・・・制服が支給された.戦車兵の服は防水布で膝当てがついているのに,

 

私たちのは薄いラシャのつなぎ.でも地面は土と金属が半々だし,石はむき出しに

 

なっていて,ズボンはたちまちボロボロになってしまった.だって私たちは車の

 

中にじっと座っているわけじゃなく,地面を這い回るのだから.

 

 

 

戦車が燃えることはよくあって,乗っていた人はもし生き残っても,全身やけど

 

だった.私たちもやけどを負った.なにしろ燃えている人を引張り出すんだから.

 

火の中に入っていくんだもの.これは怖かった.

 

戦車のハッチから引きずり出すのはとても大変.ことに砲台から引きずり出すのは.

 

死人は生きている人よりずっと重い.そういうことが間もなく分かったの・・・・

 

戦車兵は燃えている戦車から転げ出る.身につけているもの全部が燃えている

 

だけでなく,手脚を撃たれて重症.ーーー倒れたままで頼むのよ「僕が死んだら,

 

おふくろに,妻にそう書いてくれ」それが私には出来なかった.誰かに死のことを

 

伝えるなんて,どうしたらいいか分からなかった・・・・

 

 

 

脚をやられた私を戦車兵たちが村に担ぎ込んでくれたとき,キロヴォグラドニチの

 

ジョールタエ村だったんだけど,衛生部隊が泊まっていた家のおかみさんは,

 

「まあ,こんな年端も行かない坊やが・・・」と嘆いたわ.戦車兵は笑ってた.

 

「いや,坊やじゃないんだ.女の子だ」女の人は私のそばにしゃがみこんで,

 

「女の子なの?女の子?男じゃないの?」「男で足りなくて,こんなお嬢さん

 

まで!」としきりに同情してくれる.その言葉,その涙のせいで・・・どんな

 

蛮勇も消えてしまった.自分が,母がかわいそうになった.男ばかりの中に

 

入っていったい何をしているんだろう?私は小娘だもの.両足を失くして戻って

 

きたら?あれこれ考えてしまった.そう,・・・認めるわ・・・

 

 

 

18歳になって,クールスクの激戦で「戦功」に対するメダルと「赤星勲章2級」

 

19歳で「祖国戦争勲章2級」をもらった・・・・(中略)

 

 

 

戦車部隊の衛生指導員は次々死んでいった.戦車の中に衛生指導員の居場所は

 

無く,装甲板の上からしがみついていて,キャタピラに脚を巻き込まれないように

 

ということだけ考える.他の戦車に火が入れば,すぐに匍匐で救出に駆けつける.

 

・・・・

 

前線に行っていたのは,リューバ・ヤシンスカヤ,シューラ・キセリョーワ,

 

トーニャ・ボブコーワ,ジーナ・ラティシュ.同じ学校出身の仲良し5人衆.

 

みんな戦死してしまった.

 

 

 

リューバ・ヤシンスカヤが戦死した闘いの前夜,肩を抱いて話をしていたの.

 

1943年のことだった.わたしたちの師団はドニエプル河に迫っていた.

 

ふと,リューバが言うのよ「ねえ,あたし,こんどの闘いで死ぬわ.そんな気が

 

する.曹長のところまで行って「新しい下着をください」って頼んだんだけど,

 

「ついこの間出したばかりだ」ってくれなかったの.明日の朝二人で頼んで

 

みようよ」

 

私はリューバをなだめて言ったの.「もう2年間も一緒に戦っているのよ.

 

弾丸の方が怖がってくれるわよ」

 

その翌朝,リューバと一緒に曹長に頼んで新しい下着を出してもらった.

 

真っ白なシャツに結びヒモ.

 

 新しい下着が血に染まった.下着の白と血の深紅のコントラストが今でも

 

私の記憶に残っている.リューバはそれをはっきりと思い描いていたのね.

 

 

 

キツネの休憩時間

 

これまでの所,乙女たちの労働はひどくきついものではあったtが,

 

仲間の兵士や上官から,一人前の兵力として認められ,ある部分では

 

保護されてもいたらしい.その点では,読む者をほっとさせる.

 

だが,闘いの後半になり,スターリンによる軍隊の指揮系統の破壊,

 

「祖国を救う」闘いの理想よりも,ただ国境を超えて版図を広げる

 

「侵略戦争」へと様相を変えると,「従順な百姓がむりやり兵隊に」

 

されたという現実の,暗黒の面が明らかになる.

 

特に,戦勝国軍としてドイツになだれ込んだロシア兵の「敵国の女」

 

に対する仕打ちは,言語に絶するものであったらしい.このインタビュー

 

の中にも目撃報告があるが,このNET上に載せることはしない.

 

しかし,事後に「軍規に基づいてレイプ犯を処罰」するという名目で,

 

その女性を一連隊の兵士の中に立たせ,「犯人を指し示せ」という命令が

 

下ったという.何たる偽善!その時何十人もの飢えた兵士が列を作って順番を

 

待っていたというのに.これらを目撃したのはロシアの女兵士であって,

 

それも戦後何十年もたって,やっと重い口を開いたという.

 

終戦後,満州にとりのこされた日本人移住者にとって,ロシア軍兵士の

 

「襲来」はひそかな恐ろしい語りぐさになっている.

 

しかし日本軍も米軍も,「土人の女」「敵国の女」に対する差別意識は同様な

 

レベルにあった.一方的に非難できる立場ではなかろう.

 

 

 

 

 

P470

 

タマーラ・ステパイヴナ・ウムニャギナ

 

赤軍伍長 (衛生指導員)

 

 

 

「戦争が始まって7日目だった.退却が始まった・・・・たちまち

 

血の海にはまった.負傷者がたくさん出た.でもみんなおとなしくて,

 

じっと我慢していた.生きることをとても望んでいた.勝利の日まで

 

生き延びたいと願っていた.もうすぐ,もうすぐだって.

 

私の衣服はすっかり血まみれだった.何を見たか?

 

モギリョフの近くで駅が爆撃されていた.そこに子どもたちを満載した

 

列車が止まっていて,子供たちを窓をから放り出しはじめた.3歳から

 

4歳の小さな子どもたち.そう遠くないところに森があって.そこに

 

みんな走っていく.すぐあとにドイツの戦車が続く.戦車の列が

 

子供たちを押しつぶしていく.子供たちは跡形もなくつぶされた.

 

・・・・その光景を思い出すと今でも気が狂いそうになるよ.でも

 

人々は戦争を耐え抜いていた.戦争の後でも気は狂わなかったんだよ.

 

戦争の後で病気になった.戦争中には胃潰瘍だってふさがっていたんだよ.

 

雪の中に寝て,軍外套はぺらぺらなのに,朝になってもくしゃみ一つ

 

しやしない.      (中略)

 

 

 

 「一番恐ろしかったのはスターリングラードだよ.戦場ったって,

 

あそこは通りのひとつひとつ,家の一軒一軒,地下室という地下室から

 

負傷者をひきずり出すんだよ.体中あざだらけだった.ズボンも血だらけ.

 

曹長に叱られたよ.「これ以上ズボンは無いんだ.あとからねだらんでくれ」

 

私たちのズボンは乾くとそのまま立てておけたほど.ふつうの糊付けだって

 

こんなふうになってはいないよ.血のせいだよ.角にあたれば痛いくらい.

 

綺麗なところなんかまったくなし.

 

 

 

何もかも燃えてしまった.ヴォルガで,水さえ燃えていた.冬だというのに

 

河も凍らなかった.燃えていた.スターリングラードには人間の血が

 

染み込んでいない地面は1グラムだってなかった.ロシア人とドイツ人の

 

血だよ.それにガソリンとか・・・潤滑油とか・・・

 

そこではこれより一歩も引けない.国全体が,ロシア国民が滅びるか勝利

 

するかしかないとみんな分かってたのよ.誰にとってもはっきりした.

 

そういう時が来たわけ.口に出しては言わないけど,みんな分かっていた.

 

将軍から兵士まで・・・・

 

補充兵がやってくる.若い元気のいい人たちが,1日2日でみんな死んで

 

しまって,誰も残らない.私はもう新しい人たちが来るのが怖かったよ.

 

その顔を憶えたり,話していたことを憶えたくなかった.だって,来たと

 

思ったらもういないんだから.1942年のことだった.一番つらい困難な

 

時だった.300人いたうち,その日の終わりには10人しか生き残って

 

いないこともあった・・・・   (中略)

 

 

 

スターリングラードの戦いが終わって,もっとも重傷の者は汽船で運び出せ

 

という命令が下った.カザン市,ゴーリキィ市などへははしけで疎開させる.

 

春のこと.3月,4月,負傷者はいたるところに転がっていた.地下室にね.

 

・・・塹壕,地下壕,地下室に.あまりにたくさんいて,言葉では表しよう

 

がない.すさまじいことだった!・・・・

 

何百人移送の汽船の中には手,脚を失った人たち.何百人もの結核患者が

 

集められていた.治療をしてあげなければならなかった.静かに言葉を

 

かけながら.笑顔で慰めながら・・・・実際これはスターリングラードの

 

地獄よりももっと怖かった.スターリングラードでは戦場から負傷者を

 

引きずり出して,応急手当をして,後方への移送車に引き渡せば,ああ.

 

これで大丈夫と思って次の人を連れにまた這っていく.ところが,

 

移送の船では負傷者たちがいつも目の前にいる・・・・

 

戦場では「生き延びたい」と願って必死で生きようとする.「看護婦さん,

 

早く,早く」と.ところが移送船では,食べたくない,死にたいって・・・

 

その人たちは汽船から水に飛び込んだ.そういうことがないように,

 

見張って守ったけどね.

 

ある大尉のそばで夜ごと番をしていたんだよ.その人は両手がなかった.

 

自殺したがっていた.ある時,他の看護婦さんに声をかけるのを忘れて

 

そばを離れたら,そのすきに大尉は水に飛び込んでしまった・・・

 

 

 

1945年の5月の日々,私たちはたくさん写真を撮ったよ.とても

 

幸せだった.5月9日にはみんなが叫んでいた.「勝利,勝利だ!」と.

 

兵士たちは草の上を転げ回った・・・「勝ったあ!」脚を踏みならしたり

 

して踊り興じた.空に向かって発砲する.それぞれが持っているもので・・

 

 

 

6月7日は幸せな日だった.私の結婚式.部隊では盛大に祝ってくれた.

 

夫とはずっと前からの知り合いだった.大尉で隊長だった.戦場で生き

 

残れたら,戦争が終わってから結婚しようと誓い合っていたんだよ.1ヶ月

 

の休暇をもらった・・・あたしたちはイワノヴォ州のキニェシマに行った.

 

彼の両親のところに.あたしはいつも英雄だったから,あんなふうに戦地に

 

いた娘たちが迎えられるって思っても見なかったんだよ.

 

あんなに沢山の戦場で,どれだけ沢山の母親たちの息子を,妻たちにはその

 

夫を救ってやったかしれないのに.それが突然,侮辱の言葉を言われたんだよ.

 

戦地では「看護婦さん」「大事な看護婦さん」という言葉しか聞いたことが

 

なかったのに.あたしはめだたない娘ではなくべっぴんさんだったんだよ.

 

あたしは新しい制服を着ていったの.

 

 

 

夕方になって,みんなでお茶を飲もうとテーブルについた時,彼のお母さんが

 

台所へ息子を呼び出して泣いているの.「なんだって戦争花嫁なんかを?

 

おまえは妹が2人いるのに,もう貰い手はないよ」

 

今でもこのときのことを思い出すと泣きたくなる.想像できるかい?私は

 

大好きなレコードを持って行った.大好きだったさ.「本当はこじゃれた

 

ハイヒールを履く資格だってあるのよ」とレコードは歌っていた.

 

戦地にいた娘達のことさ.私がこれをかけたら,彼の姉が私の見ている前で

 

「あんたには何の資格もないわ」と割ってしまったんだよ.私の戦場の思い出

 

の写真は全部捨てられてしまった.ねえ,あんた,これを説明する言葉が

 

ないよ・・・言葉がない・・・・(中略)

 

 

 

戦地にいたことのある娘たちは大変だったよ.戦地とはまたべつの戦いが

 

あった.それも恐ろしい戦いだった.男たちは私たちを置き去りにした.

 

かばってくれなかった.戦地では違っていた.這って行く時,弾丸や破片が

 

飛んでくれば男たちが叫んでいた「ふせろ!」でなければ覆いかぶさって

 

くれた.身をもって弾丸を受けてくれた.死んでしまったり,負傷したり,

 

私は3回もそうやって救われたんだよ.

 

キニェシマからまた部隊に戻った.戻ってみると,私たちの部隊は解散

 

しない様子.畑の地雷を撤去するということだった.コルホーズに土地を

 

引き渡さなければならない.みんなの戦争が終わっても,工兵の戦争は

 

まだ続いていた.母親たちはもう,勝利だって知っていたのに・・・.

 

草はとても丈が延びていたけど,すっかり枯れたようになっていて,とても

 

かき分けて歩けない.至るところ地雷や不発弾.でも人々は土地が必要

 

だから,あたしたちは急いだよ.そして,毎日のように仲間が吹き飛ばされた.

 

戦争が終わったのに.毎日埋葬しなければならない・・・ずいぶん沢山の

 

仲間をあそこに.

 

コルホーズに土地を引き渡すからって,トラクターが行くと,隠れていた

 

対戦車地雷を踏んで吹き飛ばされる.トラクターを運転していた人も

 

吹っ飛んでしまう.トラクターだってそんなに沢山はなかった.男たちも

 

そんなに沢山残っていなかった.戦争が終わった後のあちこちの村でこういう

 

涙が流されるのを見るんだよ・・・・  (中略)

 

 

 

戦争中どんなことに憧れていたか分かるかい?あたしたちは夢見ていた.

 

「戦争が終わるまで生き延びられたら,戦争のあとの人々はどんなに

 

幸せな人たちだろう!どんなに素晴らしい生活が始まるんだろう.こんなに

 

つらい思いをした人たちはお互いをいたわりあう.それはもう違う人たち

 

になるんだね」ってね.そのことを疑わなかった,これっぽっちもね.

 

ところが,どうよ・・・え?またまた,殺し合っている.一番理解できない

 

ことよ・・・いったいこれはどういうことなんだろう?え?私たちってのは・・・・

 

スターリングラードの近くでのこと・・・負傷兵を引きずっていく・・・

 

まず1人を引きずっていき,また戻って2人目をというふうに,交互に引き

 

ずっていく.ひどい重症を負っていて,置いておけない.2人共,脚の付け根

 

ちかくを撃たれて出血していた.そういう時は1分1秒が大事なんだ.戦闘の

 

只中から抜け出したところで硝煙が少なくなってからよく見ると,一人は戦車兵

 

なんだけど,もう一人はドイツ兵なのさ.あたしは仰天した.すぐそこで我が軍の

 

人たちが殺されているってのに,私はドイツ兵を救出しているんだよ.

 

パニックになったよ・・・二人とも黒くこげてた.おなじように衣服は

 

ぼろぼろに焼けて,見ると外国製のロザリオ,外国製の時計,あの呪わしい制服.

 

どうしよう?身方の負傷兵を引きずりながら考えた.ドイツ人のところに

 

戻るべきか.分かってたんだよ.このまま置き去りにしたら出血多量でその

 

ドイツ人は死んでしまう.あたしはその人の所に這って行った.負傷兵を2人共

 

交互に引きずって行ったよ・・・・スターリングラードでのこと・・・・

 

一番恐ろしい戦いだった.

 

 

 

ねえ,あんた,一つは憎しみのための心,もう一つは愛情のための心って

 

ことはありえないんだよ.人間には心が一つしかない.自分の心をどうやって

 

救うかって,いつもそのことを考えてきたよ.

 

戦後何年もたって空を見るのが怖かった.耕した土を見るのもだめ.

 

でもその上をミヤマガラスたちは平気で歩いていたっけ.小鳥たちはさっさと

 

戦争を忘れたんだね.

 

 

 

 

 

 

 

2020  5  31

 

 

 

キツネ思うに:兵隊だってアルバイト(雇われ仕事)だ.

 

戦争にロマンなんてありはしない.これらの実録を

 

読むと分かるとおり,戦後の破れた国家を背負って

 

いく政治家や経済人が,この悲惨な仕事の記憶を

 

長く憶えているとは限らない.それどころか,

 

当時このアルバイトを指導した責任ある人物が

 

戦後,政府の要職につき,戦勝国の手先となって

 

またもや同じようなアルバイトを企画しようとした.

 

流石に当時の国民はこれに怒って,大規模なデモ

 

を行い,この男を政権の座から引きずりおろした.

 

が,昨今,その孫さんが「日本も水爆を持とう.

 

そうしなければ核兵器は無くせない」などど言って

 

政権の座に居座っており,またその取り巻きが,

 

「日本は天皇を中心とした神の国でしょ」などと

 

これまた「ロマン」をあおる.

 

NHKの日曜ドラマと言えば,相変わらず戦国「国盗り

 

物語」と決まっているし,人気アニメの主人公は「超人」

 

または「ロボット兵士」だ.

 

最小限の軍備は必要だ.例えば海から潜水服を着た

 

どこかの兵士が夜中にやってきて,人をさらっていく.

 

または護衛艦に守られた小型漁船の群れが,日本の

 

漁場を荒らしまくる,その場合,沿岸警備のための

 

武装船,哨戒機,(近年では監視衛星も)が必要に

 

なるだろう.だが,今の政府の募集しようとして

 

いるのはそのような実益を超えた「地獄のアルバイト」

 

であり,地球規模の「国盗り物語」であり,大衆受けの

 

するロマン,言い換えれば「ある神の仕組んだ天国の

 

実現」実は「人間社会の滅亡」であるかもしれない.

 

宇宙からの脅威だって?もっともらしい言い方だが,

 

「地球にとっての脅威」は,今や人間そのものではないのか?

 

折からのウイルス禍で自粛生活,我が子の退屈しのぎ

 

に頭を悩ませている親御さん方,「子供には退屈させよ」

 

とキツネは言いたい.何の苦労も無く体だけ大きく

 

なった人ほど始末に負えない者はない.

 

さて.誰のことやら・・

 

 

 

2020  6  4

 

例えば,己の身方,支持者,手下をカネの力で買い集める.

 

能力,才能の優れた者かどうかはこの際どうでもよくて,

 

ボクのことを褒めて,持ち上げてくれる,大人しい人がよい.

 

ゲジゲジ議員が質問「この人選は適任ではない.更迭する

 

気はないんですか?」

 

「ありません.適材適所です」

 

ゲジゲジ「あなたの任命責任はどう取るんですか?」

 

「私は法務省の推薦に従って,その案を呑んだだけです」

 

ゲジゲジ「これほどの不祥事の責任を誰も取らないという

 

のはいかがものか?」

 

「法務省内で適切な検証と改革を行い,二度とこのような

 

不祥事が起こらぬよう,公務の適正化に務めるものと

 

承知しております.それが責任のとり方です」

 

ゲジゲジ「法務大臣を辞めさせるべきです!」

 

「いやいや,適材適所です!」

 

 

チャドクガ「今回の強行採決案に対し,SNSなどで国民の

 

反対の意志が湧き上がってきている.これをどう思いますか?」

 

「国民の意向については私が気にする必要はないし,実際

 

気にもしていません」

 

 

 

アメリカシロヒトリ「国民にあんまり知られたくないような

 

ことは,記録を作らないというのが,この政権の習性なのか」

 

「そういうことは一切ありません.

 

 

 

重要な案件と政府自らが認めたにもかかわらず,議事録を

 

採らず,概要だけで答弁を切り抜け,「ていねいに説明した」

 

と言いくるめようとする政権に対し,NPO法人「情報公開

 

クリアリングハウス」理事長の発言「行政文書の根拠が

 

無いまま国会答弁をしたことになる」と.

 

 

 

このように「証拠を残さない」作戦(たとえ公のサイフ=税金に

 

手をつっこんで勝手にバラまいても,また公約を全然果たさ

 

なくても)をうまくやれば,国民に知られる心配はない.

 

喰い付いてくるケムシ共を煙にまく手段には事欠かない.

 

政権の上の方の「声の大きい人」の言うことには絶対服従の

 

暗黙の誓いをたて,たっぷりと養分を吸ってガサガサと茂った

 

老葉と若葉が大樹を支えて居る限りは.

 

 

 

この大樹は「ハジシラズの樹」とも「経済貴族の樹」とも

 

言われている.テレビドラマのお題じゃないが,「ウソは

 

恥だが,役に立つ」かなー.これって,一種の甘やかされた

 

 

若君の集まりみたいだね.誰が甘やかしたかって?

 

それは我々老人を含む国民自身じゃないか!

 

長期政権は腐るもの,というのは決まりきったこと.

 

コロナウイルスの力を借りてでも,ここらで根こそぎ

 

倒さねば.

 

 

 

2020  8  7

 

 

戦争というものは,本質は「大量虐殺命令」であり,その他の

 

お飾りーー大義とやら,国益とやら,復讐とやらーーは料理の

 

薬味に過ぎない.結局は人命軽視,それも敵国人のみならず

 

自国民の命さえも(玉砕を強いた旧日本軍のように)切り刻んで

 

食ってしまおうというんだから.

 

 

 

人殺しは犯罪だ,だが国家のお墨付き大量殺人は犯罪じゃない.

 

と,戦争を「正当化」する.そして,勝っても負けても責任はうやむや.

 

戦勝記念の〇〇将軍の銅像が,いまは犯罪者として河に捨てられ,

 

歴史は書き換えられる.それならばまだ人間の正気を信じられる.

 

そういう国ならば,まだ望みはあるといえるだろう.

 

だけど,だれかが言ったように,「反省無き国民」に未来はない.