草地と日本人 (増補版) 須賀丈 岡本透 丑丸敦史 著
築地書店 2012年刊 (アマゾン ¥2592)
以下本文より抜粋
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p88 <半自然草原の歴史と草原生チョウ類の分布>
草原における人間活動の歴史は、現在の草原生生物の分布にも痕跡を
留めているのであるが、このことを信州の草原生チョウ類の分布で
確かめてみよう。
草原生のチョウといっても、広域に分布する普通種と、古い半自然草原
や高山など限られた場所にしかいない希少種とがあり、区別して考える
必要がある。イチモンジセセリは前者の例である。長距離を移動し、
イネの害虫にもなる。夏には高山にもいる。このような広域分布型の
チョウとしては、ほかにも例えばモンシロチョウやキアゲハなどがいる。
これらはいろいろな植物を餌として食べる。イチモンジセセリの幼虫は
イネ科やカヤツリグサ科を食べる。モンシロチョウの幼虫はアブラナ科
を食べ、キャベツやダイコンの害虫にもなる。キアゲハの幼虫はセリ科
を餌とし、畑のパセリやニンジンも食べる。このようなチョウは古く
からの半自然草原に限らず、いろいろな環境に進出していた。
これに対しオオルリシジミは後者の例である。阿蘇と信州のごく限られた
半自然草原にしかいない。九州と本州で別の亜種になっている。幼虫は
マメ科のクララしか食べない。ミヤマシロチョウもこのタイプである。
(中略)
・・ミヤマシロチョウはどちらかと云えば森林性のチョウとされる。
中部地方の亜高山帯に生息する。その幼虫はメギ科のヘビノボラズを
食べる。・・その分布の仕方はオオルリシジミと似て、歴史的に人間
活動の影響を受けてきた可能性がある。オオルリシジミは半自然草原、
ミヤマシロチョウはそれに近い疎林状の場所に住む。
どちらも絶滅危惧種である。
p170 <畦の上の草原>ーー子供の遊び場だったころーー
昭和の中頃まで、野球ができる公園やグランドなどは田舎ではまだ
少なかった。そのため生き物であふれていた田んぼや畦は子どもに
とって貴重な遊び場であり、いつも子どもたちのにぎやかな声が
聞こえる場所であった。群馬県の田舎で育ったわたしは、春から夏
は田んぼへ出かけては、畦の草地でカエルやバッタを獲り、田んぼで
タニシを獲り、畦の間を流れる水路(わたしの郷里では”みぞ”と呼んで
いた)ではドジョウやエビを獲ったりした。また、動物の姿が見えなく
なる秋から冬にかけては、イネの刈り取られた田んぼで野球をしたり、
畦の土を段ボールですべってみたりと、年がら年中田んぼの周辺で
遊んでいた。・・・
生活の中でも、畦の草地を利用することが多かった。わたしの実家では
長年ウサギを飼っていた。わたしはウサギの世話役だったので、鎌を
片手に家の前の田んぼの畦で草を刈ってはウサギに与えていた。時には
ウサギを連れて田んぼへいき、畦で放し、好きなように草を食べさせ
たりもした。当時は、草の種類はほとんどわからなかったが、ウサギは
スイバを好んで食べたのを覚えている。また、春にセリを摘んだり、
ヨモギやノビルをとったり野草を採集するのも子どもの仕事だった。
ネギの仲間のノビルは葉の部分をインスタントラーメンの具にして、
ぽこっと膨らんだむかごの部分はゆでて味噌をつけてたべるとけっこう
うまかった。このような経験はわたしだけがしたものではないだろう。
かつて畦は子どもの日常とさまざまな関係をもった景観であった。
しかし、近頃では、調査で田んぼへ出かけていっても、畦で虫やカエルを
獲ったりして遊ぶ子ども姿を見ることはほとんどなく、少し残念な思い
がしている。なぜ子供たちが畦から離れてしまったのだろうか。公園が
整備されたことやテレビゲーム、携帯型ゲームが視聴したことが理由かも
しれないが、わたしは田んぼや畦の生き物が近年減ってしまったことも
畦から子どもを遠ざけた理由の一つではないかと考えている。
P198 <圃場整備による 里草地の危機>
日本国内では、昭和30年代以降の高度経済成長期農村から都市部への
人の流れが始まり、人手の足りなくなった農村では、機械化による営農
への転換を迫られていた。しかし、日本の伝統的水田は、細かく区分され、
一つひとつが小さいものが多く、また水が溜まりやすい場所に作られる
ことが多く、水はけが悪くぬかるため、大型の農業機器を導入することが
難しいものが多かった。また山崎不二夫によると、中世以降江戸時代までに
作られた水田の特徴として、農道と水路が極端に少なく、そのため畦畔の
幅が比較的広く、水は田から田へ掛け流しで、これらの理由で圃場整備
では頻繁かつ強度の草刈りがなされ、草丈が常に低く維持されている可能性
が高いと考えられる。この草丈と植物の種数の関係を調べたところ、西谷
地区の圃場整備地では、草丈が低いほど多年草の種類が少なかった。
なぜ草丈の低いところで多年草草本が減るのか。わたしたちは、草刈の
頻度や強度が強いと多年生草本が繁殖できない(花、果実をつけられない)
という仮設をたて、神戸市北区、三木市で調査した。その結果、圃場整備地
では繁殖(花、果実)の見られた多年生草本の種数が、伝統的棚田にくらべて
少なかった。面白いことに、一年生草本の繁殖種数は圃場整備地と伝統的棚田
の間で差が見られなかった。一般に、一年生草本は植物高が低いときから繁殖
を開始するものが多く、多年生草本は植物体が大きくなってから花をつける
ものが多い。その結果、一年生草本は刈り込みによって草丈が低く抑えられても
繁殖できるものが多いが、多年生草本は、過剰な草刈りによって繁殖の機会が
制限されてしまうのであろう。
上述したとおり、適度な草刈りであれば、植物間の光をめぐる競争を緩和して
多様性の維持に貢献するが、圃場整備地における過剰な草刈りは植物の繁殖を
制限することで、多年生草本の種数の減少をもたらしうるのである。・・・
(湿潤な畦畔は植物にとっては都合の良い環境ではあるが)農業の機械化に
とっては不都合な条件となってしまう。また、伝統的な水田は水はけの悪さ
から台風などの大雨後に畦自体が壊れてしまう危険性が高かった。・・・
これら従来の水田の難点を解決し、単位面積・労働あたりのコメの収量を
高めることを目的に1963(昭和38)年以降、国や自治体によって推進
されてきたのが圃場整備事業である。・・・
少し前の2006年のデータであるが、全国で水田の圃場整備率は60.5%、
北海道や福井県では約90%にもなっており、今後もこの数値は上昇すると
考えられる。ここでいう水田の改変とは、主には水田の大型化(従来10a程度
だった個々の水田面積を30〜40aに)や暗渠排水による乾田化、用排水路
のライン化(三面水路などコンクリート水路へ)、農道の整備、拡幅などを
含んでおり、これらを達成するために表土の取り去りと、大規模な畦畔の
改修をふくむ土地改造が行われる。(圃場整備事業では年間1300億円の
国費が投じられた)・・・
圃場整備事業は一般的には土地改良事業と呼ばれてきたが、ここでわたしは
あえて土地改変事業と表現したい。これは”よし”とされることはコメの
生産効率に関してであり、環境面への配慮を考えると、ただ良いことばかり
ではないと考えるからである。
(わたしたちはこの生物にとっての生育環境の変化について、2009年に
西谷地区で、2010年に神戸市北区、三木市において調査をおこない)
圃場整備地と伝統的棚田の水分含量や栄養塩(土壌PHや植物体の窒素
含量)、草丈を測定し、里草地の植生を比較した。・・・その結果、
圃場整備畦畔の土壌水分含量は伝統的棚田と変わらない、もしくは
より多い傾向が見られた。(乾田化が多年生草本の減少をもたらす
要因ではないことがわかる)
一方で、伝統的棚田の畦畔ではPHが6未満程度とやや酸性であったが、
圃場整備地では約6.2〜7.4PHと、ほぼ中性になっていた。圃場整備地
における高いPHや富栄養化は外来種の増加や多年生の希少種の減少など
の植生変化をもたらす要因である可能性が示された。また今回の調査から、
圃場整備地の畦畔では伝統的なものと比べて草丈が低くなる傾向が見られた。
松村はこの結果について、凹凸の少ない圃場整備地では、地際の草刈り
がよりやりやすいためだろうと推測している。また圃場整備は(公費以外
にも)所有者の金銭的な負担を伴うため、一般的に整備されていない棚田に
比べて所有者の管理意識が強い。
つづく
P80 <野火、黒色土、微粒炭>
阿蘇地域では、過去1万年以上にわたって草原が続いてきた。
最近の研究でそのことがわかってきた。この地域はヒゴタイなどの
「温帯湿潤要素」の植物が多く生育する貴重な場所として知られる。
オオルリシジミ、ゴマシジミなどの草原性のチョウの希少種も生き残って
いる。一帯は黒色土が厚く分布する。最近この地域で過去の植生の変化
がくわしく調べられている。先に述べたように、総合地球環境学研究所の
5年間のプロジェクトの一部として、それらの成果がまとめられた。
このなかから植物と人間活動の大きな変化をたどってひろいあげてみよう。
そこから見えてくるのは、人間活動が草原の維持に深くかかわってきた
姿である。 (中略)
外輪山の南西山麓では、約3万年前からササ属の多い植生が広がっていた。
これが約7300年前にネザサをふくむメダケ属の多い植生に変化した。
ネザサは半自然草原に多い植物のひとつである。そしてこの頃、微粒炭が
大きく増加する。つまり植生に火が入る頻度が高くなった。
一方、外輪山の東側では開けた場所で育つススキが1万年以上に
わたって存在した・・・ここでは約1万3000年前から炭が出始め、
約6000年前から非常に多くなる。弥生時代には阿蘇・くじゅう黒色土
地帯に特有のタイプの鉄器を多量にもつ大規模遺跡が多く出現する。(中略)
中世の阿蘇地域は、阿蘇神社の荘園としてその支配下におかれた。当時
「下野狩」(しものかり)という狩猟神事が毎年おこなわれていた。
阿蘇神社によるその神事では、早春の草原に火を放ち、騎手たちが
シカやイノシシなどの獣を追って弓矢で狩った。この神事のあと、
ウマが草原に放牧された。この神事は16世紀までつづいた。
近世の阿蘇では、草原が地域の入会地(共有地)としてつかわれた。
牛馬の放牧がおこなわれ、採草地で刈った草が肥料や馬の餌として用い
られた。草の利用権をめぐって村同士の争いが起こることもあった。
20世紀の中葉以降、全国的な傾向と同じように、阿蘇地域でも半自然
草原が減少した。しかし阿蘇地域では今でも採草などによる草の利用が
続いている。火入れ、放牧、刈り取りによる半自然草原の維持が、
観光資源や希少生物の保全を目的として行われている。その結果、
最大規模の半自然草原がここには残されている。 (以下略)
P172 <畦上の半自然草地ーー里草地>
畦の上の草地を、レッドデータブック近畿2001にあることばを
借りて里草地(さとくさち)と呼ぶことにしたい。里草地という言葉
には、田畑の畦畔(けいはん)だけでなく、溜池や小川の堰堤(えんてい)
や里山林の林縁に成立する草地などが含まれる。
これらの草地は畦畔に隣接もしくは接続する一続きの草地になっていて、
畦で見られる植物も多く生育している。ーー里草地という言葉は
「人里のごく周辺に存在し、人為的な草刈りや火入れによる除草管理が
なされてきた半自然草地の総称」として畦草地を包含する最も適切な
言葉である。 (中略)
元来は、畦は個々の水田に水をためるためだったり、他人の水田との境界
とするため土が盛られ、壊れたら修理され維持され続けてきた。畦は土
だけだと壊れやすいが、植物が繁茂し、畦の中に根を張ることでその
強度が増加する。そのために植被があることは歓迎されるが、植物が繁茂
しすぎると、イネの害虫や病気の発生源になったりネズミなどの住処に
なってしまうことがある。水田が耕作されているときは、これらの
マイナス効果を防ぐために、草刈りなどによって植生の管理が行われる。
戦前までは、刈り取られた植物は農家によっては貴重な資源として利用
されていた。たとえば、農家が個人的に所有する牛馬の飼葉としたり、
緑肥として水田の肥料(刈敷とよばれた)として利用していた。さらに
里草地に生育する植物にはキキョウやリンドウ、ゲンノショウコ、ノアザミ
など薬草として用いられてきたものも少なくない。
しかし、農業の機械科がすすみ、科学肥料や市販の薬が流通する近年では
このような里草地の草本の利用はほとんど見られなくなった。
徐錫元と城戸淳が1996年におこなった関西圏(滋賀、京都、兵庫)
の農家へのアンケート調査の結果によると、畦を管理する理由として
「農作業の妨げになるため」「病虫害の発生源になるため」をあげた人
が多く、「まわりに迷惑だから」「みっともない」「雑草の種の水田へ
の侵入を防ぐため」という理由もあげられていた。 (中略)
以上述べてきたように、今からほんの100年ほど前には、現在からは
想像ができないほどの広さの草原的な景観が日本各地に広がっていた
のである。そして、第二次世界大戦後の高度経済成長が進みつつあった
昭和30年代頃まではそうした景観、またそれを維持するような人々の
営みが日常として行われていた地域があったことが・・・日本各地で
行われている里地、里山に関する数多くの研究から読み取ることができる。
「使いながら守る」というような考えが必要なのかもしれない。
現在の、これからの取り組みについては、1995年から行われている
全国草原サミットのシンポジウムなどで、情報の発信、共有が図られている。
こうした取り組みを継続することによって、これからの草原との付き合い方、
そこに住む生物の保全の仕方を明確にしていくことができるのではないか。
<<米作の効率化を錦の御旗に拡大し続ける圃場整理事業においては、
耕作効率だけでなく、生物多様性保全にも配慮した取り組みが
必要となる。圃場整備地では、水田環境が整備後も長く維持され
つづけることが期待されるため、一度生物が破壊されてしまった
圃場整備地に希少種をふくめた生物多様性が戻れる環境を作り出す
努力が必要である。農林水産省では「環境との調和に配慮した
事業実施のための調査計画・実施のための手引き」を作成し、
圃場整備地において生物多様性の復活を促進していく姿勢を見せて
いる。そのなかでは、環境配慮型の圃場整備を行うために、生物相
などの調査→調査結果を踏まえた環境保全目標の設定→保全対象
生物の設定→整備エリアの設定→その地域の特性を考慮した具体的
な配慮対策の検討→環境配慮にかかわる維持管理計画の策定を事前に
おこない、所有者や自治体および設計施工担当者のあいだで十分に
検討することを求めている。また、設計・施工にあたっては、
新しい技術も用いながら目標を実現するために柔軟に対応すること、
さらに施工後には環境モニタリングを続け、その結果に基づく順応的
管理をおこなっていくことを推奨している。・・
この手引では、動物と湿地性の植物が保全の対象として書かれて
いるが、里草地の草原生植物の保全も積極的に意識さるべきである。
(中略)
特に大規模(大面積)に行われる圃場整備事業は対象地域生物を
根こそぎ取り去ってしまうために、圃場整備が完了したあとも
生物が水田に戻ってくることが出来なくなってしまい、繁殖力の
強い外来生物などが優先する生態系を創りだしてしまう可能性が
高い。
(圃場整備にあたっては)植物の地下茎や休眠種子などが残る表土
を別の場所に保存しておき、畦が整形されたあとに、その上に
戻すことができれば、植物相の復活は早まるであろう。
わたしたちがこれまで調査してきた西谷地区の圃場整備地の中には
ごくわずかではあるが、畦畔にキキョウやミズギボウシ・
キクバヤマボクチ・ワレモコウなどの希少な植物が復活している
場所があった。・・・
溜池の堰堤や林縁の里草地は圃場整備によって改変されておらず、
そこに生育する植物が種を飛ばすことで、林縁や溜池から近い畦
でのみ希少種が復活しているようである。圃場整備の際に溜池や
林縁の堰堤は最低限手をつけずに残し、そこを整備後の希少生物の
種子源として機能させるようにする必要があると考えられる。
(中略)
20世紀半ばに生物多様性の中で育った子どもたちの多くは鉄腕
アトムに描かれた21世紀を理想としてきた。しかし、20世紀に
失ったものの大きさに気付かされた今、わたしたちはかつてと違う
21世紀像を持たなくてはならいのではないだろうか。
水田は日本人の主食となってきたコメを生産する場であったが、
同時に多くの生物を育む日本の生物多様性の中心地でもあった。
その生物多様性は日本人の原風景の一部となっている。
ヘイケボタルやアキアカネが飛び交い、多様なカエルやバッタ類
が鳴き交わし、ドジョウやフナ類が泳ぎ回る、畦にはオミナエシや
キキョウが咲き誇る水田に郷愁を感じる人は少なくないであろう。
・・・水田環境や里草地における生物多様性の減少スピードは
非常に速いため、その保全には、できることからどんどん始めて
いかなければならない。子どものあそぶ姿が見られる水田・里草地
を22世紀にも残すために、そんなに時間の猶予はないように思われる。>>
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キツネの読書感想文
この本のテーマと「キツネと遠近両用めがね」はぴったり重なる。
日本全国、整った道路に商用・農作業用のバンがびゅんびゅんと
行き来し、人影はあまり無い。村人にとって良い畑や田圃とは、
「道路に面しており車が入れる場所」であり、山際の田圃や尾根の上の
畑なんかは、「できれば手放したい」ところだろう。「老人人口増加」
もあるし。でも、これも私有財産だし、「先祖伝来の土地」という。
(嘘でしょう。土地は村の共有財産であるはずだ。土地の完全私有化が
成立したのはごく最近のこと)
里草地に野草が帰ってきたならば、それだけで「むらおこし」につながる
というもんだ。変なキャラクター着ぐるみなんかに頼らなくてもさ・
とキツネは思う。
この辺も1年2度刈作戦が行き渡り、秋草はほとんど見られなくなった。
それで写真のネタも尽きたことだし、これでおしまい。
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