2月3日
畑の端のコンポストの
前で気持ちよさそうに
咲いている和水仙。とても
清々しく美しいけど、
いじわるキツネ的には
「除草剤免除特別野草?」
だ。彼岸花や小菊なんかも
これに入る。肥沃な畑地で
日当たり良好、言うことなし.
コンポストの隣だってかまう
もんか。
今回ご紹介する本「若い世代に伝えたい私の戦争」鈴木健二著。(グラフ社
平成17年刊)は、「祖父から孫へ」との副題がついている。
著者は1929年生まれの90才で、戦争の悲惨を自分の目で見た世代だ。
だから我々「戦後まもなく世代」は戦争アレルギーなどと世間で言われる
ように、「平和」の2文字をしっかり心に焼き付けて、憲法を擁護してきた
のは当然のことだ。ところが、「平和なんぞと白々しい」と宣う人物が
国民を騙して、カイケンカイケンと叫んでいる昨今、機動戦士ガンダムを
卒業して、神風特攻隊にあこがれる若者が大勢いるらしい。どうしたものか?
ところでこの本に書いてあることに、キツネは100%賛同するし、
多くの資料を読み込んで、歴史書としても正しい判断を示していると思う。
これはむしろ我々70~90代のジジババが是非読むべき本だ。
その中に、戦争から被った個人の悲惨な運命(日本人、アジア人を
問わず)に触れた部分が多くあるが、我々はそれを忘れることはない。
その1節を以下にに写しておこう。
<<長崎に原子爆弾が落とされたのと同じ昭和20年8月9日に、
ソビエトが突如として日本に宣戦を布告し、翌10日には今の中国
東北部、その頃は満州と呼ばれていた地域に侵攻し、日本軍と戦闘
を開始した。広大な土地満州の開拓を夢見て、政府の宣伝通りに
”王道楽土”が造れると信じて満州に渡った日本人は、ソビエト兵の
銃口から逃れ、貨物列車や徒歩で日本を目指した。これが”引き上げ”
と呼ばれた悲惨な光景である。
半分飢えと疲労と死以外は何もない行進であったという。軍隊は
先にも書いた殺人集団の性格がある反面、国民の生命と財産の安全を
守るというもう半分の役割があるはずなのだが、満州はもちろん、
アジアのどこの土地でも日本および日本人の安全を守るといって出兵
はするが、実際に日本軍が地域にいた日本人の生命と財産を守って
くれた例は、調査しても、私は今日まで見聞していない。
いくら世界最強の日本陸軍を誇示しても、いざ命の瀬戸際となれば、
たとえ軍隊という強固な集団の中にあっても、人間は他人のことなど
かまっていられないのだ。私はかつてあることを動機に、この事実を
記事にした。すると生き残った軍人で組織している幾つかの会から、
冊子が送られてきた。そこには8月10日正午、つまり天皇の敗戦宣言
の勅語放送のあった直後に軍は解散したので、住民を守る責務は
なかったと書かれてあった。そこで私は、では解散したあと、
兵士は一人ひとり別れて、個人の資格で住民と同じような苦難をなめて
日本へ帰還したのですかと反論の手紙をすべての会に出したが、
返事は一つもこなかった。私への投書の中に、自分は軍の兵舎のすぐ
そばに住んでいましたが、敗戦の2,3日後、朝起きたら兵舎には
誰もいず、もぬけの殻でした。夜中のうちに住民を残して、こっそりと
集団で逃げ帰ってしまったのですという住民からの手紙もあった。
前述のある動機というのは、一人の残留孤児の方のお世話をする機会
があったことだった。”死の行進”の途中で体力のない子供は次々に
死んでいく。そこで親は、親としての最大の悲しみを越えて、無事に
子供が生き残り、成長してくれるようにと祈って、幼子を道に捨てたり、
中国人に平身低頭して預かってもらった。行進にはいつも母親の号泣が
絶えなかったという。
預けられた中国人は必ずしも裕福な人ではなかったし、また日本人の子
だという負い目もあって、この子達の成長は楽ではなく、幼い体に
労働に次ぐ労働が重ねられ、毎日一人で泣かない日はなかったという
暮らしの人が多かったようだ。
黒竜江省の開拓団へ行き、引き上げの途中で両親と死別した女性と
私が会ったとき、彼女の体格から、一目でこれまでの苦難の生活が
読み取れたほどだった。背は低く、足は極端なO脚で、皮膚は黒ずんで
いた。亡くなった両親の血筋の人が対面して残留孤児に間違いない
ことがわかったので、私はその女性と全員を都内の一流ホテルの
中華料理店の一室に招いて、対面成功の祝宴を開いてあげた。
ところがその女性は料理に箸ををつけず、皆の間を常に廻って、酒を
注いだり小皿を配ったりしていた。正客にならないのだ。つまり
4歳で引き取られてから今日まで、食事の時にはこういう役回りを
させられ続け、最後に余った物だけを食べていたのだ。私は彼女の姿を
見て涙が溢れた。
戦争は勝っても負けても、一人ひとりの心を深く傷つけ、絶えきれない
不幸をものすごい重量でぶつけてくる。この人は毎日毎日打ちひしがれ
ながら、両親と別れた日 から今日までの数十年間を、孤独に生きて
きたのだ。
善太君も優花ちゃんも、こうした一人ひとりの想いと苦しみに満ちた
生き方を、深く気持ちの奥に刻み込んでほしいのだ。
こういう人を何人も、何十人も、何百人も、何千人も、何万、何十万、
何百万、何千万人も作り出してしまうのが戦争なのだ。
でも、いつも思い出し、想像してもらいたいのは、一人ひとりの切り
裂かれた肉体の痛みと生きる苦しみ、そして無残な死だ。この人たちも
この世に幸せを求めて生まれてきた人間なのだ。しかも、善太君、
優花ちゃん、あなたたちも同じ人間なのだ。日本人なのだ。
(中略)
戦争はまだ終わっていないのだ。優しく親切な中国人に育てられた孤児
たちが夢見た祖国へ帰ってきても、言葉や習慣はわからず、生活保護制度
を頼って貧窮のどん底で暮らさざるをえなかった。政府の救済の遅さを
指摘し、生活の苦しみを何とかしていただきたいと、永住帰国された方
の8割に当る2064名の方たちが、15カ所で訴えを起こした。
ところが、大阪地方裁判所で下された最初の判決は、国が帰国の努力を
怠ったとは言えず、訴えた人々の苦しみは、戦争によって国民が等しく
受忍しなくてはならない損害の中に入るとして訴えを退けてしまったのだ。
ひどいことを言うなと、私は怒り心頭に発した。この裁判官はきっと
戦後生まれの戦争を知らない世代で、両親も戦争や敗戦の影響をまったく
受けず、子供に何も語ってやったことがない人に違いないと想像した。
(中略)
戦争とか残留孤児とか、ひとくくりにした呼び方ではなく、一人一人の
苦しみや痛みを分かち合わなくては、戦争は理解できないのだ。>>
<<幸いにも私は弘前の高校の受験に合格した。遠い青森県へ行き、
もしかしたらこれが今生の別れになってしまうかもしれないのに、
父や母、つまり善太君や優花ちゃんのひいおじいちゃんとひいおばあちゃん
は、私が遠く弘前の高校へ行くことに一言も反対しなかった。
ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが子供の頃は、ほとんどの子は
小学校だけで終わる明治の時代だった。
自分たちは学問をすることができなかったが、我が子はこれから学問を
しに遠くの学校へ行くのであって、それは自分たちが入り込む領域では
ないと、はっきり割り切っていたのだ。ここが明治生まれの人の偉い
ところだ。現代は親が子供の頭の中にずかずかと土足で踏み込んでいる。
(東京で)私は昭和20年3月に中学校を卒業し、そのあと2週間か
10日もしたら、みずから求めた津軽へ旅立つことになっていた。
いつ空襲になるかわからないので、家の中に居るときも防空頭巾という
綿を入れた大きめのフードを肩にかけていた。光が漏れて空襲の目標に
ならないように、電灯の笠を黒い布で覆って長く下げ、畳に描かれた
丸い光の中に本を置いて読んでいた。(中略)
人間には予感というものがあるようだ。
昭和20年3月9日の夜、空襲を知らせる警報のサイレンがポーポーと
鳴った途端に、私は靴を履き防空頭巾を被って外へ飛び出した。それまで
に何度か警報が鳴ったことはあったが、どうせ敵機が空の上の方を飛んで
行くだけだとたかをくくって、外へ飛び出したことはなかった。しかし、
なぜかその夜は違っていた。真夜中なのにあたりはほの明るかった。
三月のはじめにしては妙に生暖かく、強めの風が吹いていた。我が家から
南へ少し行ったところに・・人が何人か集まっているのがかすかに見えた
ので、そこへ走っていって東の方角を見て驚いた.空が赤く染まり、
火事らしい炎がちらちらと見えた。
それはまだ遠くにあるという感じだったが、ついいましがた空襲警報が
鳴ったばかりなのに、そのあたりはもう大火事になっているようだ。
これはただごとではないと思い、家へ走って帰った。急に風が強くなって
いた。「危ない。今のうちに逃げたほうがいい」と、私は父と母に言った。
必要なものを鞄や風呂敷に入れて逃げ仕度をした。母は,夜だったことも
あってか,敷き布団と薄い掛け布団の包みを背負った。家を出て右斜め
前方へ行くと、震災記念堂がある。木もあり広場もあるが、・・
(関東大震災の折りにそこで亡くなった10万人を越える死者が
まつられている)そこへ行くのは父が反対した。
(反対の方角にも火の手があがっていたので)残されたのは、家を出て、
先ほどの大通りを右へ行き、電車道を渡って青果市場に入り、操車場
(現在の国技館が建つ地)を抜けて、隅田川の川岸へ出る道だけだった。
風は一歩一歩をしっかり踏みしめないと前へ進めないほど強くなり、時には
後ろから吹き倒されそうになった。母が一度倒れた。助け起こし、抱える
ようにして歩いたが、隅田川まではとても無理だと考え、市場を斜めに
横切り,結局両国駅のホームに停まっていた客車に逃げ込んだ。乾ききった
風を吸うと、のどがひりひりし、息苦しくなった。(中略)
両親を座席に座らせると、なぜか私は無意識のうちに我が家の方へ走った。・・・
我が家はまだ焼けずに残っていた。二階の私の部屋に上がった。
急に本棚の本に愛着を感じて、二、三冊をカバンに詰めた。一瞬駅の列車に
戻って朝まで読もうという吞気な考えがひらめいた。・・・
ばりばりと大きな音がしたので、小さな庭越しに外を見ると、狭い路地の
向こうにあった二階建ての四軒長屋から火の手があがっている。危ないと
思って大急ぎで外へ飛び出したが、そこで私は棒立ちになった。通りの
向かいにあった二階建ての家々から火の手があがっていた。咄嗟に駅の方
へ歩いた.強風で走れなかった。
(中略)
大通りまでの両側の家も燃え盛っていた。私は万事休した。死が頭を
占領した。ここで死ぬのだと思った。客車の中にいる両親の姿がふっと
浮かんだ。その時、「助けて」と叫んで私にぶつかった人がいた。
どこから飛び出してたのか知らないが、私と同じ年頃の女性だった。
その人にかまっている余裕はなかったが、その人を振り向いた瞬間に、
ごおーっともの凄い唸りをたてた風が吹いてきた。そして、駅へ通じる
西向きの道路を塞ぐように燃え上がっていた火の壁が、一瞬左右に吹き
別れた。「走れっ」私は叫んで夢中で走った。その人も走った。
電車道へ出た。そこにはまだ火は来ていなかった。わずか十秒間ほど
の出来事だった。この奇跡的幸運の時間を神から与られなかったら、
いま善太君や優花ちゃんに会うことはなかったし、それよりも二人とも
この世に生まれてはいなかったのだ。・・・
そう考えると、二人のどこかに戦争が陰を引きずっているとさえ思える。
善太君も優花ちゃんも戦争を知らない世代なのではなく、自分の内側の
どこかにある戦争を聞かせられていない世代なのだ。私が日露戦争を
知らないと同じように。>>
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キツネの読書感想文
生々しい事実、うらに隠された人間悪の実態、大本営発表の罠、素朴
すぎる国民性。これらを伝える報道写真、映画、文学、ドキュメンタリー
映像はいまやアーカイブ倉庫に入り、忘れ去られている。というより、
「そんなもん見たくもねーや」とか、「ジジイが頭の中の妄想を言うな。
やりたきゃよそでやれ」だからなー。
「地獄絵図」というものがあるが、文字の読めない民衆の済度(魂を
全うな道に引き戻す)のために考え出されたものだそうだ。いまでも、
「津波がここまで到達しました」の古い石柱の警告が、まったく生かされ
なかったという話もよく聞く。敵の人工衛星を打ち落とす兵器の開発が
進んでいる?ステルス爆撃機が✖百機あれば日本の防衛は万全?勝てば
オカネがざくざく入るから、そのための投資は欠かせないって?とんでもない、
来るべき宇宙戦争時代の地獄絵図が是非必要だ。
誰がそれを描くのか。我々老人はそれに失敗した。他人の事に無関心な
夜郎自大的な若者(現在60才以下の)を大勢育ててしまったのだから。
ジジイは孫にどう説教したらいいのか?戦争の悲惨を、どう伝えたら
いいのか?「戦争の反省と検証を無しですませ,孫子の時代に先送りすれば,
その子供たちの世代に大きな災が及ぶ」との,新聞のコラム記事を読んだが,
そのとおりだと思う.
2020 3
ひな祭りの頃
春は八百屋から来た
ウグイスカグラと菜の花
3 9
ヒュウガミズキと
チンゲン菜
他にもホンツァイタイ
(紅菜苔)とかからし菜の花
とか.白菜の花とか.
蕾付きの茎を水に入れて
おくと,花首が延びて新鮮な
花が見られる.
更に市販の切り花活性剤とか
を少量混ぜておけば,長期間
楽しめる.
チンゲン菜の残りをどうしたかって?
鶏のレバーと一緒にオイスターソース炒めにするとウマイ.
2,020 3
シュンラン
花首だけちぎって飾る
のはキツネ流じゃないが,
テーブルむけにはやむを
得ず.
本来はよく茂った葉陰の
あちこちから覗く蕾と,
うつむき加減の欄のような
白い花の姿が格別.
寒さに強いし,ほとんど
世話がいらない.
75歳以上はボケなのか? 2020年 1月
この間、光ファイバー敷設の勧誘にきた若者がいうには「残念ですが、75歳
以上の方とは 契約できません。
どなたかご家族の方は・・」 と。しかも特定の業者のネットに乗りかえなければ
いけないらしいのに、何やら「どこでも可」みたいに取れる書き方。 「もっと
安くなるから」の一点張り。しかし、どの業者も乗り換え防止対策は万全、
値引きする代わりに違反すれば高額の違約金を取られるようになっているので、
差し引きで年間300円程度安くなるだけということがわかった。 わたしは77歳
なので、契約成立せず。ああよかった!
「年寄り油断せず」の心構えが必要。あれ、また話がわきへ逸れちゃった。
実は75歳以上はボケってのが世間の相場らしく、なにを言っても無駄なので、
有名知識人の言葉をお借りすることにした次第。
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「グアム島の証人 」 大岡昇平 <証言その時々 >筑摩書房 から抜粋
<< 28年という気の遠くなるように長い年月の間、ジャングルの中で
たった独りで暮らして来られた横井さんにはただお気の毒というほか、
いうことばはない。 熱帯の島にはバナナやパパイヤがいくらでもなっている
だろう、というのは観光客の空想なので、実際はそんな生易しいものではない.
私もフィリピンで40日ばかり山ごもりした経験があるから知っているが、
バナナもパパイヤも山の住民が栽培しなければ、食えるものは採れやしない。
木の実を採り、川魚を採っていた横井さんは、慢性の栄養失調の中で28年
生きてきたのである。 病気にかかったらおしまいである。これらの過酷な
条件に耐えて、自分の選んだ生き方を続けてきた横井さんの気力に,
尊敬の念を禁じ得ない。
横井さんの心境については、ジャングルを出るのが「こわかった」とか
負けてはずかしい」というようなことが、断片的に伝わってくる。これらは
終戦とともに、なくなっていなければならない感情である。長年外界と
接触を失っていれば、いわゆる常識が失われ、ジャングルへはいったとき
の恐怖がそのまま温存され、一層つきつめた形で横井さんの行動を左右
したと思われる。
これらは結局、「生きて虜囚のはずかしめを受けず」という戦陣訓から
出ているのである。 外国では戦争はゲームと考えられ、捕虜になるのは
むしろ名誉だ、というのは作り話である。 捕虜になるのはどこの国でも
はずかしいことである。ただ近代の戦争は大量の国民を動員しなければ
遂行できない。 戦時ともなれば、どこの国でも徴兵制か、実質的には
それと違わない強制志願制がとられる。 その代り、戦闘の勝敗が明らか
だったとき、国家は司令官にも兵隊にも降伏を許すのである。
国家が国民に貴重な生命を捧げさせる代りに、死ぬ意味がなくなった
ときは、生命を保全する行為を選ぶことを許す。 したがって近代国家は
国際協定を結んで、たがいに捕虜に補給部隊なみの給与を与え、戦争が
すんでから決算することにしている。戦争中でも赤十字を通じて捕虜を
交換するのは、これらの協定に基づいた処置である。
旧日本軍といえども、捕虜をみんな殺したわけではなく、内地にも
外地にも捕虜収容所はあって、不十分ながら給与を与えていた。ところが
日本の兵隊には「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と教えて、戦える
者には玉砕を、傷病者には自決を強いた。 装備と軍事技術で劣っている
ところを、兵隊の精神力で補う必要から出た処置であるが、これほど
無益な犠牲を生んだ条項はない。
捕虜になっても殺されるんだ、ルーズベルトは日本兵の頭蓋骨を盃にして
酒を飲んでいる、などと宣伝したから、国民は本気でそう思い込んでいた。
そのため必要以上に教えを大事にして、自殺的な突撃を行わないまでも、
ジャングルに隠れて餓死したりしたのである。いたましいのは、民間人も
同じ考えにまきこまれたことで、サイパン島や沖縄の集団自決を生んだ。
これらはいまとなっては遠い昔の、過ぎ去ったことだと信じられている。
しかし横井さんが、グアム島の戦闘が終わってからも、ジャングルの中に
かくれたまま、生涯の半分を棒に振って、孤独な生活を続けたのは、この
旧陸軍の犯罪的な戦争指導の結果なのである。戦争がすんだとわかって
いても、出てくる気にならないほど、戦陣訓にそむいて処刑されるのを
おそれる気持ちが強くなっていたのである。>>
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キツネより
以下、続きは「証言その時々」をお読みください。(手にはいれば、
ですが)そして、考えていただきたいと思います。
もちろん、「いにしえの武士道精神に敬意をはらえ」とか「戦陣訓と
いうのも、古来日本人の生死観を体したものにすぎない。それをのみ
取り上げて昭和陸軍を断罪するのか」とかいろんな意見がNETに出て
ますが、まあ多分昔の武士身分の末裔なんでしょうな。40~50代の方々
とお見受けします。
うちのキツネ父さんは結核を患っていたもので、戦争には行きません
でした。長野県の百姓で、教育熱心な長野県人の例で(そのわりには
大人物は出ないようですが)東京へ遊学させてもらったようです。で、
彼は純粋に百姓だった訳ですが、晩年ボケてからは「仙台のお殿様に
会いにゆく」と夜中にしたくを始めるので,「夜中で電車は走って
いないよ。明日にしたら?」という有様。武家になりたい、あるいは
すでにさむらいのつもりだったでしょうか。だから、たとえ百姓の出
でも、「精神的お武家様」願望は昔の人の心にあったものでしょう。
いえ、現在も一部の若者の憧れであるのかもしれません。
「徹底抗戦」「決してあとへは引かぬ」は武士の心得。だけど徒歩で
駆けずり回って戦うのは昨日まで野良で草取りしていたおっさん達だ。
「お殿様のために死んでも戦うぞ!」とは考えなかったろう。「早く
終わって田んぼ仕事にもどらにゃ」と、適当に勇ましく適当に逃げ腰で、
いざ敗戦となればさっさと逃げだし、うまくいけば戦利品としてだれか
偉い人の首を拾っていくとか、抜け目なく・・武士道精神の風上にも
おけぬ・・といったって、彼らを死なせてしまったら、殿様自身が困る。
誰が米をつくるか。
古来日本人の生死観?そんなもの、数ある和歌に読まれているだけでも、
まことに人間らしい、悲しい、ほほえましい、つらい感情の表現はあれ、
「カカッテコイ!しんでもまけないぞ」なんてのは見たことがない。つらい
運命に遭ったとしても、受容するしかない。それだけのことだ。
もう一つ皇室は百姓にとって何の意味もない、見たこともない。神さまは
山や野や海にいて、ときにひとの運命を支配する。 時には願いを聞き届け
てくれる身近な存在だ。いつから皇室が百姓の神となったか?
わたしゃ知らないね。
この間,さる有名女性がいうには「教育勅語にもいいところがある.
大いに広めたらよいのに.いよいよそういう時代がやってきたんじゃ
ないかしら」.
「そういう時代」とは、国が借金だらけで閉塞感が広まっている、ひとつ
戦争で儲けて穴埋めをしてやろうか」という時代じゃないかな。
武士道精神礼賛はテレビドラマやアニメだけにしてほしいもんだ。
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もう一人、戦後知識人の言葉を紹介しておきます。
戦時期日本の精神史 ー1931~1945年ー 鶴見俊輔 (1982年 岩波書店)
<第4回 国体について>より抜粋
1871年に新政府はこの機構の指導者階層を二つに分けて、その
どちらかといえば若いその故に学習能力をもつ部分をヨーロッパと米国と
に送って西洋の制度を勉強させました。106人の高級官僚をいちどきに
海外に送り出すというのは、貧しい後進国にとってとてもお金のかかる
冒険であったにちがいありません。その当時の日本は深刻な経済上の
困難に悩んでいたのです。
派遣団はそのころ41歳で新政府の最高の権力者であった岩倉具視に
率いられ、その仲間は当時38歳だった大久保利通を含んでいました。
(中略)
派遣団はまだそのころ30歳だった伊藤博文をも含んでおり、この人は
やがてヨーロッパ風の内閣制度が政府によって採用されたあとで日本
最初の総理大臣となり、立憲君主国としての日本の主任設計士となります。
高級官僚の派遣団は西洋諸国の技術の発達とその能率から深い感銘
を受けます.彼らはまたその能率のある統治組織を推し進める宗教および
倫理の信条をうらやましいものと感じました。
この故に彼らは能率の高い技術文明を支える力として、日本の神道の
伝統を模様替えして取り入れる流儀を採用しようと考えました。
こうして天皇崇拝は、日本においてそして日本だけに栄えるものになる
技術文明の殿堂の思想的土台として据えられることになりました。
このように構想された政府製造のイデオロギー思想形態のなかで、
皇室にまつわる伝説は作り変えられていきます。 日本最古の本である
「古事記」を読むと、私たちはここに天皇とその先祖である神々が
何度も間違いを犯し、世俗の動機からお互いを牽制しあったり、
お互いに対して戦ったり敗れたりするのに出会います。これらの
愚行は別に恥ずかしいとも思われることなくそのまま語り伝えられて
います。 私たちはここに書き残されている伝説のなかに神々の不謬性
の思想を見出すことはありません。ここには疑いもなくある種の多神教
としての神道が繰り広げられています。
ところがいまや新生日本文明の設計図の中に模様替えして書き込まれた
国家宗教においては、神道は西洋諸国におけるキリスト教にきわめて
近い役割を与えられており、その結果色濃く一神教としての性格を
もたされています。こうしてここに、過ちを犯すことのない天皇という
絵姿が現れました。(中略)
それは、日本の国家が国家宗教の密教の部分(ヨーロッパ文明に影響
された部分=キツネ註) に習熟した元老、重臣層と高級官僚によって
動かされていた時代のことです。(中略)
明治政府によって採用されたこの政治思想は、国民の心の中に順序
よく植え付けられていきました。善悪の判断の基準は、天皇によって
発表される勅語に基づくことになりました。
これらの勅語の要所を占める言葉は、それによって日本人が自らの
道徳上ならびに政治上の地位を守るために用いる言葉です.これらの
カギ言葉を繰り出すことに習熟すると、天皇に対して忠誠な臣民である
ことの定期券を見せる役割をはたすことになります。 これらの言葉の
使い方は小学校6年間の義務教育の中で教え込まれ、また男子について
言えばその後2年間あるはずの義務兵役期間に軍隊で教え込まれます。
(中略)
たくさんの子供とたくさんの新兵が滑らかに勅語を暗誦できなかったり、
スラスラと勅語に出てくる漢字が書けなかったからといって、殴られた
ものです。その種の儀式は、日本の国民全体に、同一の条件反射を
植え付けました。勅語の朗読と暗誦とともに、もう一つ小学校の敷地内
に特別の貯蔵庫におかれている天皇の写真に対して敬意を表するという
儀式がありました・・・・天皇は、15年戦争の終わりまで、宗教上、
道徳上、政治上の権威の源でした。(中略)
明治以後の政府には民主政治としての性格があるとともに、このような
神政政治としての性格があり、いかに両者が組み合わさっていたか、
織り交ぜられていたかということに目を向ける必要があります。・・・
1931年の日本の中国侵略によって始まった時代・・・そのころになり
ますと日本国民は、政府の与えた6年間の小学校教育と、さらに男に
対してだけですが、徴兵制というものを通して、ほとんど80年に
わたって同一の条件反射によって慣らされてきたために、男全体
が一つの有機体として動きうる状態に達していました。われわれ
日本人の中にあったこうした条件反射の蓄積は、日本降伏後、
どこに行ったのでしょうか。それは、今ここに触れるべき問題
ではありません。
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さあ、今こそ「触れるべき時」がやってきました。
地殻変動70年周期説というのが、(多分)あるとおもいますが、「戦後70年に
して神聖政治が復活」なんてことになりませんように。 野山におわす八百
よろずの神々にお願い申す。 ーーキツネ拝
以上
;
2020年 1月
みんなの好きなゴキブリ.
ゴキさんに敬意を評してツヤを
出そうとしたが,うまくいかな
かった.
ゴキブリ!
夜中に単身で出歩いてるのに出くわす。もちろんスリッパの一撃でやっつけ
るが、このところ3回も続いたもので、侵入口はどこかと探っていると、
ある夜、手洗いのボウルの内側でオタオタしているのを見つけた。さては
あふれ止めの開口部からだな、とさっそく網状のもので塞いでやった。で、
それ以来見かけなくなった。
上はお父さん脱出の図.
むかし、キツネんちの古屋は漆喰壁に5mmのすきまが至るところにあり、
冬は室内で零下になるという、ゴキさんにとっては住みにくい環境にも
かかわらず、そこら中で見かけた。
ある時台所の床板を剥いで見ると、ゴキブリの大家族が、いきなりパッと
明るくなったもんだから、あわてて右往左往している。中でも目覚ましい
速さで逃げ出したのが、大きなパパごきぶり。
大勢の小さな子供たちをかばうようにウロウロしているのがママらしい。
フマキラーかなにかのシャワーでその場はけりがついたが、さて、逃げ
延びたお父さんはまた別の家族を養っていることだろう。
何が言いたいかって? そうやってゴキブリは大昔から生き延びてきたと
いうこと.スリッパなんか無かったころは人間の武器は何だったんだろう。
昔流行ったドストエフスキーの「罪と罰」。この主題は、自分は神に
選ばれた優秀な者であり、従って生きるに価しないつまらぬ人間を
消すことを許されている、と思い込んだ若い主人公が、罪もない金貸し
の老掃除婦を殺し・・・というもので、結末はキリスト教的な魂の救済
に至る?らしい。らしいというのは、わたしはその結末に納得しなかった
からだが、この頃、主人公ラスコーリニコフによく似た犯罪者が現れて、
十数人もの人を殺めたという。
人に迷惑をかける奴は速いとこあの世へ送り出す方が本人のためだと
言う・・・わたしに言わせれば神に選ばれたものの1番目はゴキブリ
ではないかと思う。
1番は人間さと思っている人達が結局地球を壊すに違いない。
黃エビネ 2019年3月
安かったので(5株で1000円) 盗掘品じゃないかと思う.えさをあまりやらないから,
派手な花穂はつかないが,このほうが良い.
「ピンピンコロリで医療費減」の幻想
2020年1月6日 朝日新聞 <カナリアの歌>より
この記事を書いた浜田陽太郎編集員によれば,もともとある
長野県職員が,高齢者が「ピンピン生きてコロリと死ぬ」
というフレーズを思いつき,「PPK運動」として普及させた
ものという.最初は「丈夫であること」を目指したPPKが,
その後家族に代わって高齢者のケアを社会化しようとした
政府によって,医療費抑制や介護保険制度の拡充のための
キャッチフレーズとして利用された.
<<ただ,社会保証にかかる費用は高齢化の進行と相まって
増えつづけている.団塊の世代が75歳以上の後期高齢者に
なる25年,高齢人口がピークに達する40年をどう乗り切る
のか.
いまは,財政が苦しい政府の役割は抑え込み,「市場の役割を
広げようとする力が優勢に見える.
「後期高齢者の病院での窓口負担を2割に」といった形で,
受診のハードルを上げ,公的な負担は削る.一方で,民間企業
が提供する予防サービスの市場拡大をはかる.ーー.
透けるのは,「予防の効果で健康寿命が延び,平均寿命との
差が縮めば,医療や介護費を減らせる」という発想だ.ーー
これはPPKの思想とも重なり合うが,幻想に近い.実際は
予防医療で生涯の医療費が減ることはなく,むしろ長生きする分,
増える可能性が高い.この認識は,専門家にほぼ共通する.
命長き社会を支える役目が市場だけに偏り,「カネの切れ目が
命の切れ目」になる社会.それは,誰も望んでいないだろう.>>
後期高齢者の立場で,キツネはこう思っている.
金持ちの高齢者からは3割,4割負担とし,「そんなのアホラシ.
保険料払わんぞ」というならば,保険対象外の豪華ケアマンション
に移って,医療費自己負担でお願いする(アメリカ式に).
社会保障費減は高額所得者向け増税で補う.
若年労働者が足りないから,景気が悪くなりそう.ならば,
「産めよ殖やせよ」で「子育て支援」.だが,財源不足で
満足な給与が得られない保育士には成り手がないし,男尊女卑の
世の中,夫は知らん顔で,奥さんと一緒に育児を分け合う気配も
ない.保育料補助に加えて大学授業料無償化の構想も,結局は
財源不足ではどうにもならず.かといって,さらなる消費税アップ
には上から下まで国民総スカン!!(必要ならば増税したらよい.
金持ちのプライベートジェットには「贅沢課税」を)
で,政府はどことやらから借金をしてくるが,これは「返済しなくて
よい」との認識だから,やたらばらまく.官民あげての腐敗蔓延.
「社会保障なんて要らない」と若者がいう.彼らは永遠に健康で
長生きするつもり,「だれの世話にもなるもんか!」すると,
「人生100年時代」などと,またも悪ノリの政治家が煽る.
PPKのKを「役立たずは殺しても良い」と解釈する若い犯人も,
自分の命は惜しいと思うらしい.だが「どの人にも寿命があり,
生きる権利があり,人生を楽しむ権利がある」,とは想像も
できないらしい.これは現在の政治家にも共通のビョウキ,
一種の「選良妄想」と言おうか,「われわれは選ばれしもの」
じゃと思っている.で,ふさわしいステータス・シンボル=爆撃機,
ミサイル,迎撃システム,兵隊などが欲しくなる.
せっせと借金して,兵器を買い込む.税収の〇〇%以内であるから
許容範囲,などと言ってる間に,さる外国の兵器メーカーに勝手に
注文し,カネは払ったが,納入は何年も先だとかいうはなしもある.
金持ち気取りで外国の戦争に加担し,どうしようというのか.
2020年 1月.トランプ政権による在イラク・イラン軍駐屯地への
爆撃(ややこしい)で,ハメネイ師の片腕ともいう「国民的英雄」が
殺され,両国間はまさに一触即発状態.
ガソリンを買い貯め,ちり紙を買いあさる日本の庶民と,
何やら夢見がちなおぼっちゃま政治家と・・・
生き物のうちで,助け合う種族は生き残る確率が高いというが.
例えばアフリカのブードゥー神は,精霊の導きを日常の中で自覚
するよう教えている.日本古来の八百万神の信仰に近いらしい.
これといった経典があるわけではなく,唯一神の権威を体現する
神職集団のようなものも存在しない.ただ人間と精霊の間をつなぐ
霊媒師のお告げがあるだけ.
ブードゥーに限らず,辺境探検の「文明人」たちが森や山地に入るには,
部落の長の許可が要る.ちょっとしたお供えとまじないの儀式で,
「このよそ者を,森に入れてもよろしゅうございましょうか?」と
森の神に伺いをたてる.
今では,「文明人」たちは,自分ちの庭からドローンを飛ばして,
よその国の人間を狙い撃ちできる.または地球を半周して,すごい
水素爆弾を他の大陸に打ち込むことだってできる.どんな神に許可を
得てか?「戦争」という名の神は,それ事態どこにも住処がなく,
人間界の世話をやく保護者としての役割,または創造主としての権威
もなく,又の名を「非常事態」という,ま,谷間の霧のようなものに
過ぎない.しかし古来よりその存在は知れ渡っている.
ここに戦争を起こそうと望む人間がいるとして,彼はまず「戦争の神殿」
日本でいうなら「靖国神社」に詣で,護国神と化したかつての兵隊達の霊に
呼びかける.「あなた方の死を無駄にはいたしませんから,どうぞ我々の
悲願にお力添えをお願いいたします」などと.それから彼は氏子のハッピを
着て(背中に「非常事態!非常事態!」と書いてある) 神輿を担ぎだす.
さて,戦争を始めるには,現在とんでもないカネが要る.だから「カネの神」
も呼んででこなくてはならない.「土地神」や「自由の女神」などはお呼びで
ない.アメリカ人はカネの力を借りるのが民主政治の本道と思っているらしい.
それで中近東やアジアの「土地神」を買収して,基地化する.兵器を売り込む.
核兵器は科学立国アメリカの優秀な科学者とパトロンの政治家によって生み
出されたというのに,(かの有名なアインシュタイン氏も推奨したといい,その
世論に与えた影響は大きかったとキツネは聞いている)今になって核兵器の世界
への拡散を心底恐れているらしい.だから地球上のどこにでも米軍基地と
迎撃機を置きたがる.「日本を守ってやる」なんてウソ.日本にミサイル迎撃
兵器を置きたいだけのことだ.ついでに兵器産業も大いに潤うし.
日本の「土地神」はどこへ隠れたのか?
日本人なら,本気で探さなければなるまい.
2020 6 2
キツネの巣の在り処はグーグルで辿れる.(これは
奇跡だ!)だがキツネはSNSには乗らないようにして
いる.
SNSは,全国どこで栓をひねっても出てくるガス管
みたいなもので,臭気フンプン,良いものも悪いものも
生で出てくる.で,中にはもろに中毒死する人もあり,
たまには国会まで影響を及ぼす民意となるものもあり.
また南米のある国では,田舎の電波塔が,村人の
襲撃によって破壊された.近頃流行りの5G波
とやらは,新型コロナウイルスを国中に送り込む
「悪魔」の道具だという噂が広まったためらしい.
”拡散希望”とはなんだろーね.昔の2チャンネル全盛
のころに「便所の落書き」と己を茶化しつつ,せっせと
カキコミをしていた人たちは,今どうしているだろう.
とにかく老人のカキコミなど誰も読みやしないし,
「妄想」と片付けられるのがおちだ.
それでも書き続ける.いつか酔狂な若者がカミツイテ
くるのを楽しみに待つ.いつだったか,「こんな
ところ(無料のコミュニティー)で妄想を披露せずに,
自分のブログでやりなさい」と手痛い一言をいただき,
それもそうかなと納得.年間1万円は安いもんだ.
老人ひま潰しには.つまりそれは,便所の落書き相当
のものか.
自分のポケットに30万の札束を無理やり押し込まれても,
「んん?なんでこんなにくれるの?」から「まあいいや,
もらっとこ」の間に悪魔も妄想も無し.水は高きより
低きに流れる.国会議員選挙に地方議員の「協力」は
欠かせない.「領収書なんて,書かんでくれよ」とか,
「あんたと私の仲じゃろが」とかセンセイは言うらしい.
「選挙民のナマの声を中央政府にお訴えをする」のが
地方議員の役割だとかいうが,それよりも「政府を
もり立てる」のに忙しい.「国民のためになるイージス・
アショアを,なぜやめるんだ!」と地元議員がSNSに
アップして「拡散希望」という話は聞かない.でも,
彼らの反民主的地下水脈は相変わらず太く流れる.
法面の上のスイカ 7月
積み石の下の水抜き穴から植物が・・・
という写真は,これまでいくつか
このブログにのせた.カラスウリや
オニノゲシなど.
だが,これはなんと西瓜が!
2020 7 2
若い頃,カレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」を
読んだ.中年になってからは「カレルチャペック紅茶店」
のレシピ本を買って読んだ.この2冊がどういう関係だか
いまだにわからない.(関係ないのかもしれない)
そして年寄りになって,グーグルで牽くと各地に展開して
いる「紅茶店」の広告に隠れて,「こちらを探しますか?」
とあり,やっと作家チャペックの作品に出会う.
7月1日の朝日新聞の記事によって,「白い病」の翻訳
が,NETに公開されていることを知る.以下はその
「つまみ食い」です.
阿部賢一氏のブログより
「白い病」カレル・チャペックの戯曲.翻訳者阿部氏は
東大チェコ文学準教授.
・「白い病」とは,1918年(大正7年)〜1920年にかけて
世界中に広がり,多くの死者を出した流行病ペスト.
この戯曲の中から,第2幕の第2場と第3場を抜き出して
みたが,何やら現在の世界情勢を100年前に予測したか
のようだ.
「白い病」 第2幕第2場
ガレーン博士の診療所に並ぶ患者たち.長い列の最後には
父と母がいる.
患者1. ほら,首のところ・・・
患者2. だいぶよくなってるぞ.
患者1. 俺もそう思う.きれいになっていると先生も
言ってくれた.
患者2. 俺にはこないだ,だいぶ動けるようになったと
言ってくれた.だいぶ,小さくなったって.
患者1. ほらな,言っただろ!
患者2. でも,最初は診てくれようとしてくれなかった.
「パン屋なら貧しくはないでしょう.私が診る
のは貧しい人だけです」って.でも,こう
頼んだんだ.「先生,病床のパン屋からは誰も
パンを買ってくれません.そういう意味じゃ,
私は物乞いよりも貧しいんです」.そうしたら,
どうにかこうにか診てくれたーー
(二人は診察室に入る)
父 ほら,母さん,あの人もしまいには診てもらえた
ようだ.あのパン屋さんも.
母 ああ,心配でたまらないーー
父 先生の前に出たら膝をついてこう言う.「先生
どうかお願いします.子供たちもまだ養わないと
いけません.懸命に仕事をしている人間が高い地位
に就くのは罪でしょうか?生涯,身を粉にして働いて
きた人です」.そう言えば,あの医師もそんなに
意地を張らないはず.
母 でも,あの先生は貧しい人しか診ないって!
父 お前を診てくれないとしたら,見ものだ.こう言って
やる.いいかーー
母 やめて.先生にそんな態度にならないで!
父 いや,人としての義務とは何かって尋ねるだけだ.
先生,何はともあれ,病気になってるのは私の妻の
ほうなんです,ってーー
(ガレーン博士が出てくる)
ガレーン博士 何か・・ご用ですか?
父 先生・・お願いです・・うちのかみさんが・・・
ガレーン博士 あなたは?
父 私は・・クリューク社で・・財務部長をしています.
ガレーン博士 クリューク社で?・・無理です・・残念ですが,
診断するのは貧しい人だけなんです・・・
父 先生,お願いです!一生恩に着ます・・・
ガレーン博士 いや・・おやめください・・いいですか,私が
・・診るのは貧しい方だけなんです・・貧しい人は
何もできない.ですが,そうでない方には出来ること
がある・・・
父 何でもいたします・・どんなに高くついても.
ガレーン博士 あのですね,裕福な方は何か出来るはずです
・・例えば,戦争を予防するとか.色々と出来るはず
です・・影響力をお持ちなのですから・・貧しい人
よりも大きな力を・・・それぞれの人が自分の
影響力を使うよう働きかけてください.
父 先生,そうしたいと思います.ですが,私一人では
何もできないのです.
ガレーン博士 ええ,ええ,みんなそう言います.あなた自身
で,クリューク男爵に掛け合ったらどうです・・大砲や
軍需品の製造をやめるようにクリューク男爵を説得
できれば・・
父 それは無理です,先生・・そんなことはできません・・
絶対無理です!
ガレーン博士 そうですか,では私に・・出来ることは・・残念
ですが・・・
父 先生お願いです,どうか人としての義務を・・・
ガレーン博士 そうです,私は背負っています.まさにそういう
義務を・・それはとてつもなく重いものです・・クリューク
男爵の会社での仕事をおやめになるか・・それとも,軍需
産業で働く気はないと男爵にお伝えになるか・・
父 その後,私はどうやって生活していけばいいんです?
ガレーン博士 ご覧なさい,あなたも戦争で生きているじゃ
ないですか?
父 財務部長以外の職があれば・・先生,ようやくこの歳で
この職にたどり着いたのです・・そんなことを私に命じる
のはお門違いです.
ガレーン博士 そうです,人に命ずることはできません.どう
しようもありません,どうしようも・・残念ですが,失礼
しますーー (その場を去る)
母 ほら・・ほら・・
父 見たか!無情な卑劣漢だ!せっかく手に入れた職を失える
わけないだろ!
幕
第2幕第3場
枢密顧問官の執務室
枢密顧問官 (ドアのところで)さあ,どうぞ,お入りください,
クリューク男爵.
クリューク男爵 (中に入り)ありがとう,顧問官.ここで君に
会えるとは思ってもみなかった.
枢密顧問官 ええ,このようなご時勢ですからーーどうぞお入り
ください.ここのところ,要望が多数寄せられているの
でしょう?
クリューク男爵 ああ,要望は多い.たしかに.
枢密顧問官 重要な時期ですから.
クリューク男爵 ん?政治的な意味でかね?そう,重要な時期だ.
重要かつ困難な時期だ.
枢密顧問官 男爵におかれましては大変な時期かと存じます.
クリューク男爵 どうしてそう思う?
枢密顧問官 というのもーーもはや戦争は不可避という時期に
戦争の準備をしなければならないーーその上,このような
困難の時期に,クリューク社の舵取りをこなさなければ
ならない.それは,容易いことではございません.
クリューク男爵 そうその通りーー顧問官,こちらに寄付したいと
考えていてね・・(白い病)の研究費として.
数道顧問官 それはそれは,クリューク男爵.このような緊迫した
一大事に,学術目的でご配慮いただけるとはーーいつもと
変わらず,寛大でいらっしゃる.男爵,喜んで寄付を
賜ります,我々どもの力が及ぶ限り,研究に邁進いたしますーー
クリューク男爵 (テーブルに分厚い封筒を置く)
枢密顧問官 受取りを出しましょうか?
クリューク男爵 いや,結構.ところで,状況はいかがかな?
ジーゲリウス君?
枢密顧問官 チェン氏病のお尋ね,ありがとうございます.
感染は我が国でも広がっておりますーー幸いにも,
今,国民の頭は,(白い病)よりも,来たるべき戦争の
ことでいっぱいです.クリューク男爵,情勢はきわめて
楽観的なものです.完全に信頼を得ていますから.
クリューク男爵 病気は打ち負かせると?
枢密顧問官 いえいえ,我が国が戦争で勝つと.全国民が,元帥,
男爵,我が国の傑出した軍隊に全幅の信頼を寄せて
います.かつてこれほど切望されたときはなかった
でしょう.
クリューク男爵 それでーーまだ薬は開発されていない?
枢密顧問官 いえ,まだです.目下のところ,ガレーンの治療法
のみです.もちろん,懸命に作業を進めておりますが.
クリューク男爵 君の助手を努めていた人物は?ーー何でも病人が
その男のところにに集まっているそうじゃないか.
リリエンタール病院の治療法を使って,治しているとか.
枢密顧問官 どこにでもある詐欺まがいの治療です,男爵.我々
とは何の関係もありません.あいつを追い払うことが
でき,せいせいしていますよ.
クリューク男爵 そうかーーところであいつは,今どうしている・・
ガレーン博士だったか?
枢密顧問官 貧しい患者を診ています.あれは,人々を扇動する
振る舞いですーーですが,あの変人の治療がうまく
いってるんですーー
クリューク男爵 たしかか?
枢密顧問官 残念ながら,ほぼ100パーセント.我が国民に理性が
あるのがせめてもの救いです.あの変人のガレーンは,
自分が薬で脅迫できると思っていました・・無意味な
ユートピアをつくるとたわ言を述べて.ですが,彼に
近寄る者はほとんどいません・・少なくとも地位がある
者は.ここだけの話ですが,警察当局は,密かに来訪者を
監視しているそうですーーわれわれの国民の愛国心が
ここで示されるというものです.ガレーン本人だけではなく,
彼の奇跡の薬もボイコットしているわけですからーー興味
深いですな?
クリューク男爵 ふむ,とても.ガレーン博士は診ないそうだな・・
金持ちは?
枢密顧問官 そうです.妄想を抱いてるんです.幸いにも,私の助手を
していた者がいます上客は皆彼のところに行っていますーー
ガレーンがここにいる時に秘密の処方を持ち出していたよう
ですーー成果はまだ出ていませんが,診療に訪れる者は
ひっきりなしの様子です.ガレーンのことはほとんど知られて
いません.貧しい人たちの中で埋もれてしまったようですーー
ただ永遠の平和を妄想しているだけ.哀れにも,心を患って
いるのです.今日,永遠の平和を夢見るとはーー彼は,
精神病院で診療を受けたほうがよいと,私は医師として思い
ますね.
クリューク男爵 このような状況下では,打つ手はないということ
かね・・(白い病)については?
枢密顧問官 いえ,あります,男爵.幸いなことに,ここ数日で
ようやく実現できました・・極めて素晴らしい成果
です.まもなく,チェン氏病の拡大を防ぐことが出来る
ようになるかと.
クリューク男爵 それは結構なことだ,ジーゲリウス君.私も嬉しく
思う・・でもどうやってーー
枢密顧問官 まだこれは内密ですがーー近日中に,感染者の隔離を
義務とする法律が公布されます.これは私の案です,
男爵.元帥閣下自ら,この件を手配すると約束して
くれましたーーこれは,チェン氏病に関して世界が
行った最大の成果に外なりません.
クリューク男爵 ふむ,そうだろう・・素晴らしい.だが,どういう
隔離を考えているのだね?
枢密顧問官 収容所ですよ,男爵.患者は全員,白い斑点を発症した
者は全員,監視下の収容所に移送されるのです.
クリューク男爵 そこでゆっくりと死ぬのを待つ.
枢密顧問官 ええ,医師の監視の下で.チェン氏病は,病人が
次々に感染させていく病気です.我々への感染を
防がなければなりません.感傷的な感情というものは,
犯罪にほかなりません.そのキャンプから脱走する
ものは,射殺されます.40歳以上の国民は皆,月に
一回,医師の検診を義務化する.チェン氏病の感染を
武力を用いて鎮圧するのです.他に防御する術は
ありません.
クリューク男爵 君の言うとおりだ,ジーゲリウス君,もっと早く
それができなかったのは残念だが.
枢密顧問官 ええ,そうです.愚かなガレーンの薬のせいで,
すこし時間を無駄にしました.この間にも,(白い病)
は広がりましたからーー今こそ,病人を有刺鉄線の
内側に閉じ込める時です.そう,一つの例外も認める
ことなく.
クリューク男爵 (立ちあがる)そう.まずは一つの例外も求めない
こと.ありがとう,顧問官.
枢密顧問官 (立ち上がる)どこか具合でも,男爵?失礼しーー
クリューク男爵 (胸元のシャツを開ける)すこし診てくれないか,
ジーゲリウス君ーー
枢密顧問官 失礼!(明かりを当て,男爵の胸を診る)何か感じませんか?
(しばし沈黙)服を着ていただいて結構,男爵.
クリューク男爵 ーーそれでーー?
枢密顧問官 今のところはとくに何もーーただの白い斑点だけです.
ーー単なる皮膚病でしょうーー
クリューク男爵 どうしたらーー
枢密顧問官 (どうしようもないという素振りを見せ)ガレーンに無理
言って診てもらうしかありませんーー
クリューク男爵 ありがとう,ジーゲリウス君.最後に握手をーーいや,
もうしないほうがいいか?
枢密顧問官 誰ともなさらぬよう,男爵.誰ともなさってはなりません.
クリューク男爵 (ドアのところで)たしかに・・病人の隔離の指示は..
近日中に公布されるとーーなら,私も指示を出さねば.
工場での・・有刺鉄線の製造を急がなければ.
幕
**********************************
キツネの感想文:
100年前のこの戯曲を読むと,当時は「狂気のさた」と思われていた
貧乏人の発言権が,今は保障されていること,(国政選挙権,国民投票権
その他国を相手の訴追権など)有刺鉄線の代わりに治療薬と病院と医師
その他の医療従業者が患者を迎え入れてくれる建前になっていること
(あくまでも建前),だが,一方で,変わらないことも在る.
貧乏社員は「生産性,生産性」と唱える資本家に首根っこをおさえ
られている.「平和共存」を唱える人は狂人であること,それは現在の
社会秩序の破壊そのものだからだ.
もう一つ,自然災害やテロへの恐怖,ただ失った昨日の暮らしを悲しみ,
それに対する備えも先人の知恵も,すべては為政者にあずけてしまい,
だまされたとしても為政者の無能を見抜くことも出来ない,「学習不能人」
たちが国の大半を占めて(金持ち・貧乏に関係なく)国家を漂流させている
ことだ.「学習不能」とはウマイ言葉で,さるアメリカ人学者の言葉から
借りてきて愛用しているが,屁理屈だろうが,妄想だろうが,自分なりに
「これでいいんかいなー」と考えて見ないひとが,多すぎる.知恵はそこら
の自然の中にもある.と,キツネは歯ぎしり.
カレル・チャペックは,文筆家の兄をアウシュビッツで亡くし,本人は
ナチスに踏み込まれる直前に,病気で亡くなったそうだが,嵐の後の庭を
整理しようと無理をして,持病を悪化させたのだとか.いかにも「園芸家」
らしい.
2020 7 8
オオバギボウシ
梅雨の庭の主役.美しい座布団みたいな葉っぱの上に,
キジバトのカップルが追っかけっこのとちゅうで,ドシンと
不時着するので,棒くいを何本もたててある.
2020 8 5
「遠近両用めがね」の証言者
ー広島の被爆者 切明(きりあけ)千恵子さん(90歳)
朝日新聞8月4日オピニオンフォーラムよりー
「広島の旧被服支廠 加害の地の歴史も 4棟全て
保全を」
<<実家が正門近くにあって,毎朝,目の前の狭い
道を工員さんたちが通勤しよる,ザクザクいう足音で
目覚めました.母が会計係として働いておったので,
私は構内の保育所にあずけられました.小学校2年生の
ころに日中戦争が始まりましたけどね,ダッダッダッと
電動ミシンの音が外にまで響いて,新しい軍服が次から
次へと縫われていました.構内に鉄道の線路が引き
込まれていて,倉庫から荷物を貨車に積んでは港へ送って
いく.今は4棟しか残っていませんが,当たり一面が
被服支廠の構内.それはそれは広くて・・
(太平洋戦争が激化するころ,女学生の切明さんは被服
支廠に動員された)
<<広島には被服支廠,兵器廠,糧秣支廠と3つの
軍需工場がありました・・学徒動員で,この陸軍3廠
すべてに行きました.被服支廠では,最初はミシンで
軍服縫っていました.戦争末期になると,軍服の古着の
山を洗濯する仕事になりました.銃弾の跡でしょうか,
穴が空いていて,反対側にべっとりと血がついている・・
血染めの軍服を洗濯板の上にのせ,固形石鹸とタワシを
こすりつけて手洗いする.乾いたら破れた部分を繕う.
新しい軍服を縫う材料がなかったんだと思います.
「日本は大丈夫でしょうか」と先生に聞いたら,「言霊が
生きて,本当に負けてしまう」って叱られて,口にチャック
をしました」
(1944年には広島地方専売局に動員される.
そして45年8月6日を迎える)
<<専売局に動員されていたおかげで命が助かったんです.
あの朝,2時間ほど休みをもらって病院に向かう途中でした.
爆心地から2キロあたりでピカッと光って,気を失いました.
頭にガラスが刺さっていることも気づかず,昼前,自宅に
戻りました.
後輩は爆心地近くに建物疎開の後片付けにいっていて,
多くが犠牲になりました.何人かは学校まで戻ってきました
けれど,助ける手立てもない.全身水ぶくれで裸同然,
真っ黒いワカメのようになった皮膚を引きずっている.それを
先生が手でちぎって捨てたら,細い声で「ありがとう.これで
ちゃんと歩ける」って.実験用の机をベッドにして寝かせると,
「お母ちゃん,お父ちゃん」っていいながらふとや安らかな顔になる.
次から次へと死んでいく.木造校舎の窓枠をへし折ってマキの
代わりにして,この手で焼きました.
火がまわると,胃とか腸とか空気が入ってる臓器が,自転車が
パンクするようにパンパンって破裂して,刺激で手脚が動くんです.
「まだ生きてるじゃありませんか」仰天したら,先生が「見るな」
って.見まい思うて横を向くんですけど金縛りになって動けない.
震えながら見てしまった.下級生たちの骨は桜の花びらのような
淡いピンク色をしていました.それを見て初めて涙がでた>>
(このような体験を,彼女は母校へ慰霊に訪れる生徒だけに語ってきた.
ところが,5年前,85歳で証言活動を始めることとなった)
<<就職,結婚,出産,そして出版社を営む夫の手伝いなどに追われる
なかで,積極的に思い出すこともなかったですしね.でも,憲法に
縛られているはずの政治家が憲法を守らないような状況に,背中が
ぞわぞわっとするような予感が生まれてきたんですよ.
戦争を忘れ去ったら,人間はおなじことを繰り返す.戦争の
恐ろしさや無謀さ,むごさをちゃんと伝えて,若い人に考えてもらわ
ないと,一人でも多くの人に伝えていかないと,おおごとになるぞ
って.後いつまで生きているかわからないようなときになって,初めて
本気になったの.昨年からは,講座に通って委嘱を受けて,広島平和
祈念資料館で修学旅行生に語る活動を始めました.>>
(被爆体験の前に,それ以前の広島がどんな所だったか,の話から始める)
<<広島は三角州の上で,ちょっと掘りゃあ塩水が出て,作物が豊かに
実るわけでもない.戦争のおかげで大きくなった街なんです.日清戦争の
時なんか,大本営が広島に来たんですから.
被服支廠は,太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル.広島が
軍都だったこと,原爆被害を受ける前は加害の地であったことの証明です.
そんな歴史も知らず,「原爆にやられたかわいそうな被災地でござい」
って平和を叫んでも,虚しいものがある.だから,戦前から話すんです>>
*******************************
これぞ遠近両用メガネ!!
「歴史の裏と表をよく見る目」をお持ちの方です.
キツネもかく在りたいと常に思っています.
アニメ的戦争観しか知らないくせに,「戦争にも良いところが・・
脱軍国主義,核廃絶なんぞとは老人の妄想」とか,言うやつは
どこのどいつだ!
近所の公園のサンゴジュ。
見事だったが、この後小さく
刈り込まれてから、2度と実を
見ていない。何のための植樹か。
鳥のためでも人間のためでも
ないらしい。植木やさんのため
と言ったら言い過ぎか。
ヨーロッパの公園など、テレビ
でみると大木が枝を広げて日陰を
作っているし、道端にサクランボ
やレモンの木があったりする。
昨秋久しぶりに奈良へ行ったが、
柿の木を見かけなかった。養魚池
の畔にコスモスも小菊も咲いて
いなかった。寺院の庭は手入れされて観光客を呼び込んでいるが、五色椿も
刈り込んで低い竹垣で囲い、ひな壇飾りみたいになっている。昔、春に訪れた寺
で、大きな伸び放題の五色椿の下で村人が祭りの準備をしていたが、足元に
ボタボタと落ちた花は拾い集めて仏前にお供えする。いかにも「仏あっての寺」
であり、村人のための寺だった。今は観光客への「おもてなし」か・・・・