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憲法綱引き、どちらが勝った?

コウシン薔薇

 

植物の枝ぶりをデザインした,東洋のテキスタイルの美しさ.

英国流のこってりとした植物画とは違って,軽やか.

インド更紗の椅子カバー.

 

全くの安物の木綿地だが,ずっと愛用している.

 

 

ーー戦後の新憲法制定をめぐってーー

 

「敗北を抱きしめて」  第二次世界大戦後の日本人

 

2001年 岩波書店刊   著者:ジョン・ダワー  訳:三浦陽一

高杉忠明・田代泰子

 

 

この本のカバーに、このような文言がある。

 

 

<<敗北を抱きしめながら、日本の民衆が「上からの革命」に力強く呼応

 

したとき、改革はすでに腐食しはじめていた。身を寄せる天皇を固く抱擁し、

 

憲法を骨抜きにし、戦後民主改革の巻き戻しに道をつけて、占領軍は去った。

 

日米合作の戦後はここに始まる。敗北からの蘇りと簒奪された改革を壮大に

 

描いた20世紀の叙事詩、ついに完結。 ピューリッツア賞受賞。>>

 

 

 

 キツネの読書感想文: これを最初に持ってきてはどうかと思うが、

 

  一応戦勝国側の勝ちとされている「憲法骨抜き合戦」は、まだ決着は

 

  ついていない。お互い、「すねに傷持つ身」だ。日本は中国をはじめ

 

  東南アジア諸国に与えた莫大な損害をさっさと忘れてしまったし、

 

  米国は

 

  終戦前夜の日本において原爆や絨毯爆撃で多くの非武装の民間人を

 

  殺した罪を覆い隠して、「あれは戦争の早期終決のためやむをえず」と、

 

  いまだに言っている。もう一皮剥かなければ、ほんとのところは・・

 

  という具合に  キツネも思っている。

 

  それにしても、アメリカのジャーナリズムの健康さというか、強靭さ

 

  というか、  しつこさというか、まったく感心する。

 

  さて、本題。

 

 

米開戦の以前から、アメリカは日本人について心理分析を行い、軍事

 

作戦に役立てていた。その分析官達が、GHQの下でも戦後統治について

 

助言をしていた。その一人がボナー・フェラーズ准将である。

 

これに対し、なんとか「国体護持」の蘇りをねらった政府要人の打つ手

 

はほとんどなかった。せいぜいGHQ作成の憲法草案をわざとあいまいな

 

日本語に翻訳して目的をとげようと試みる程度だ。

 

キツネの疑問:「国体護持」=非民主化が「悲願」だと宣言する人々は、

 

当然強い軍隊あってこその国体であり、専守防衛では国民の結束も

 

おぼつかないし、戦争に勝てない、もうからない、・・ときて、

 

やっぱり憲法改正だと。だがここへ来てアメリカは「それは日本の

 

国内問題」とつっぱねながら、「でも、原爆買うなら売ってあげるよ」

 

みたいなよい関係なんだそうな。なぜかねー。

 

 

 

下巻 p44   ――(国民が)傍観者となる---より抜粋

 

<<フェラーズや他の西洋の分析官をあれほど幻惑した天皇崇拝は、

 

そのほとんどが、日本の言い方でいう「建前」でしかなかったかのよう

 

思われた。ひとたび敗戦が現実のものとなり、軍事国家が崩壊すると、

 

天皇制と国体に関するかぎりふつうの日本人の本音は、穏やかな愛着か、

 

我慢、あるいは無関心にさえ近いものであることが明らかになった。

 

このような一世紀天皇制への距離感は、戦時中や終戦直後に内務省が

 

作成した極秘の報告書にも現れていた。降伏に先立つ時期の警察の報告書は、

 

戦況が悪化するにつれて、不敬な事件が次第に増えていることにあきらか

 

に懸念を募らせていた

 

子供たちでさえも不穏な兆しを見せるようになっていた。新聞から天皇の

 

写真を切り抜き、それを戦死者の遺影をまねて首にぶら下げている子供が、

 

警察につかまった。1945年に東京へ空襲が始まった直後の警察の文書には、

 

幼い子供たちが皇居の焼失を期待する歌を楽しげに歌っていたということ

 

まで、神経質に記録されていた。

 

保守側のエリート達にとっては、歴史はもはや自分たちの側にはないのだと

 

感じさせる不吉な兆でもあった。日本人は、封建的な将軍制度と武士社会を

 

19世紀半ばまでほぼ1世紀間続けたが、あたかもすり切れた衣服のように

 

それを脱ぎ捨てた。彼らは、裕仁の祖父である明治天皇に始まる近代的な

 

天皇制支配を1868年以来世紀に満たない時期であったが経験した。

 

日本の歴史上、裕仁以外の誰も、外国軍に門戸をあけることはなかった。

 

こうしたことを考えるほどに、安心できなくなって行くのである

 

天皇制の支持者でも国際的な視野を持った者は、20世紀には君主政体

 

の死亡率が高いことに気づいた。(中国の皇帝制度は1911年に崩壊、

 

第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー、ロシア、トルコにおいて、

 

かつては強力であった皇帝制度を崩壊させ、1940年イタリアにおいて

 

サヴォイ王家が国民投票によって存続を否定された=同書より引用)

 

天皇制支持者からすれば、国内外そして過去現在の状況を観察するかぎり、

 

敗戦によって天皇制に対するあからさまな敵意とまでは言わずとも、少なく

 

とも皇居の奥にいる疎遠な人物に何が起ころうとも気にしないという

 

無関心さが、一般国民の間に生じるだろうと危惧するに十分な理由が存在

 

していたのである。

 

勝者が活動をはじめた後も、(日本の)思想警察は何週間にもわたって

 

活動を継続していた。8月、9月と10月初旬に出された思想警察の内部

 

報告書は、天皇に対する無関心さは、別の重大問題であると指摘していた。

 

(中略)

 

9月初旬の憲兵隊の極秘文書では、西欧のリベラリズムに触発された

 

「主権在民の思想」や「金権万能思想」といったさまざまな形の思想的

 

混乱が生じるだろうと予想されていた。9月のある報告書では、天皇裕仁

 

真珠湾攻撃の責任はないとする東久邇首相の声明に対する国民の反応を

 

扱っていたがそれは、事情に通じた人々はこの声明に懐疑的であると

 

結んでいた。天皇の命令で戦争に突き進んだ事実や、戦争を終えるに

 

あたって、天皇が決定的な役割を果たしたという当時の大宣伝と、

 

天皇には何の責任もなかったとする筋書きとを矛盾なく結びつけることは、

 

国民にとってはなはだ困難なことだった。(中略)

 

警察の報告書は、社会に広く浸透している「軍・官等指導部署に対する

 

不満、反感はきわめて深刻なものである」との懸念を表明していたが、

 

天皇がそうした批判の対象となることはほとんどなかった。(中略)

 

こうして、「国体」護持にとりかかった天皇制支持者にとって、当時の

 

状況は希望が持てるようでもあり、不吉なようでもあった。

 

人々の「軍部に対する憎悪」(別の警察文書の表現)のおかげで、天皇と

 

「軍国主義のギャングたち」との間に、まさにフェローズたちが言う

 

「くさびを打ち込む」ことは容易かつ自然となった。と同時に、各層の

 

人々がたちまち貪欲な反社会的な行動をとるようになったり、成り行き

 

まかせの反社会的な行動をとるようになったことは、日本人の忠誠心も、

 

実際には揺れ動く「ご都合主義的な」ものなのかもしれないとも思わせた。

(中略)

この他にも、天皇は決して取り換えのきかないものではないと考えられて

 

いたことを示すさまざまな動きがあった。たとえば2月には、SCAPの

 

現地情報員が下関地区で流れていた噂――天皇の先祖はインドから来た

 

のだから、「日本人ではない」というーーを報告している。この「新事実」

 

は島根県のある寺に存在する記録によって証明できるとされ、その結果、

 

「下関地区の住民の中には、インド人の祖先をもった天皇よりも日本人の

 

大統領の方が望ましいと表明する人々も出てきた」のである。(また、

 

この種の世情を騒がせた出来事の一つとして、)われこそが皇位の正統な

 

後継者であるとか、天照大神の真の子孫あるいは生まれ代わりであるなど

 

主張する人々が、何人も出てきたのである。自称天皇や女神たちの

 

パレードを眺めることはちょっとした楽しみとなって、当時の人々の

 

窮乏生活に明るさをもたらした。

 

「皇族や女神」たらんとする実に多彩な人々が現れた。岡山では

 

「酒本天皇」が、出現した。鹿児島では「長浜天皇」が、新潟では

 

「佐渡天皇」が、そして高知では「横倉天皇」が現れた、愛知県には

 

二人も現れて、「外村天皇」と「三浦天皇」を称した。

 

最も興味深いのは、1945年9月に菊の紋章の入った玉座をはじめて

 

GHQに持ち込み、翌年1月には巷の話題をさらうまでになった男の

 

ケースである。彼は熊沢寛通という名古屋の56才の雑貨店経営者であった。

 

熊沢がとくに注目されたのは、その主張が、皇統の南朝と北朝への分裂と

 

いう14世紀にまでさかのぼる天皇系図上の論争に基づいていたからである。

 

裕仁は北朝の系統を引くものであり、熊沢がその子孫であると主張する

 

南朝が正統であって、自分が皇統を継ぐべきだという主張は、無視できない

 

根拠に基づいていた。熊沢の3人の親類がすぐに、自分こそが熊沢家の

 

真の本家であると主張しはじめたことが、さらに話を面白くした。・・・

 

熊沢が人気を博したのは、その精気あふれる話し方も一因であったが。

 

少なくとも天皇に、第一生命ビルを占拠している勝者ほどの魅力を感じて

 

いない日本人がいたことを示していた。この自称天皇は、「裕仁は戦争

 

犯罪人だ」と語ったと伝えられている。――それにすぐ付け加えて彼は

 

こう言った。「マッカーサーは神の国から日本に遣わされた使者である」

 

 

占領が進むなかでも黒澤は、引き続きその時代のテーマを取り上げたが、

 

初期の作品の希望と理想主義には次第に影がさしはじめた。「一番美しく」

 

「わが青春に悔いなし」では女性であった主人公が、男性に変わった。

 

それもたいていは極めて人間的な、時には過去に呪われているが、大抵の

 

場合、拝金主義の不誠実な社会に足をとられて動きがとれなくなっている

 

男である。(中略)

 

(「酔いどれ天使」「白痴」と、三船敏郎主演の作品で)その境遇はどんどん

 

暗さを増していく。そこでの性、犯罪、両義性(中略)の描写は、同時代の

 

有り様を鏡のように写していた。

 

(一方)亀井文夫の体験は黒澤と対称的だった。黒澤はGHQの監視など

 

肩をすくめてやり過ごし、許容される枠内で想像力豊かに活動した。しかし

 

もっと理想主義的でイデオロギー的である亀井は、新しい民主主義という

 

この禁じられた領域を身をもって生きることになる。(中略)

 

1946年に大幅なカットを強要された(ドキュメンタリー)「日本の悲劇」

 

は、主として戦争中に撮影されていたフィルムを利用して、日本を侵略的、

 

破壊的な戦争に導いた支配層の力を痛烈に分析していた。(中略)

 

亀井は左翼であったが、共産主義者ではなかった。1920年代終わりに

 

ソ連でドキュメンタリー制作技術を学び、帝国陸軍とマッカーサー元帥の

 

司令部との両方に上映禁止の処分を受けるというユニークな経験をした。

 

1939年に中国での戦争を記録した陰鬱なドキュメンタリー映画

 

「戦う兵隊」は、公式に軍部の援助を得て作られたのだが、「敗北主義」

 

だとして即座に回収されてしまった。「日本の悲劇」の制作も、CIE

 

(民間情報教育局)からおおよそ同じようなかたちで強力な支援を受けて

 

いた。しかし、ウイロビー少将自らの介入で、封切りの3週間後には、

 

プリントもネガもすべて没収されてしまったのである。ウイロビーの

 

介入は、吉田茂首相の要請によるものだった。亀井の天皇の扱い方を不敬

 

とみた吉田が、ウイロビーの側近二人に、この冒涜的な作品を一緒に見て

 

くれるよう説得したのである。(中略)  

 

「このような天皇のラジカルな扱いは、暴動騒乱を誘発するかもしれない」

 

いうのが、この映画押収の表面向きの理由だった。「日本の悲劇」の

 

上映禁止は、SCAPの「デモクラシー」が実際のところ何を意味しているのか

 

と推し測ろうとしていた人たちに、少なくとも3つのことを教えた。>>

 

<<GHQが検閲処分(の対象と)したのは、

 

1. 降伏前の日本における軍国主義の濫用に対する日本人自身による

 

  批判であり、まさに占領軍が推進したいとしているような自由で

 

  批判的な論議だったと言える。

 

2. 真剣な批判には、耐え難いほどの重い値札がつくことがある。

 

3. イデオロギー。

 

  検閲の目的は変わっていた。その標的は、軍国主義、超国家主義

 

  から左翼へとゆっくりと、しかし確実に振れていた。>>(以下略)

 

p232より抜粋

 

<<この変化は、亀井と山本薩夫が野心的長編「戦争と平和」を完成させ

 

ようとしていた1947年にはすでにはっきりしていた。(中略)

 

「戦争と平和は」、「日本の悲劇」と同じように、最初は公式に奨励され

 

ていた。ただしこの場合は新憲法の理念を謳いあげる映画として、GHQ

 

意向に従って日本政府が奨励したのである。大手映画会社はすべて、この

 

新しい国家憲章に盛り込まれた理念を具体的に示すような映画を制作する

 

ように促されていて、その監督として亀井文夫と山本薩夫を選んだ。

 

CIE(民間情報教育局。占領下の文化、教育方面の情報収集と改革を担当

 

する)に指揮監督を受けながら完成した。

 

映画は、5月中旬に民間検閲部に提出されたが、たちまち「いくつかの

 

共産主義宣伝路線」に沿っているとして厳しく批判された。6月中旬に

 

書かれた極秘メモでは、「デモを賞賛している。天皇を不名誉な集団と

 

同一視している。降伏後の日本の飢餓と道徳的腐敗を過剰に露出している」

 

とされていた。

 

例えば、労働争議とデモの場面は、社会不安の煽動とSCAP(連合軍最高

 

司令官)に対する批判として削除された。(中略)

 

こうした削除にもかかわらず、「戦争と平和」は公開され、敗戦後の日本

 

を描いた最も気骨のある映画となった。この時代の苦悩、汚らしさ、緊張、

 

希望、情熱をはらわたで感じたまま伝えたことは、じつに稀有な映画だった。(中略)

 

(合計30分近くを削除されたにもかかわらず、この映画は批評家に絶賛され、

 

大勢の観客を集めた)

 

しかし、いかに野心作の「戦争と平和」でも、あの時代の政治的、社会的

 

雰囲気を正しく伝えることはしていなかった。外国の権威で、できなかった。

 

理由は単純で、そこにはアメリカがいなかったからである。占領軍が存在

 

していなかった。外国の権威がそこに見えなかった。見えてはならなかった

 

のである。(中略)

 

この禁止命令にも例外が許されることはあったが、それは穏やかでやさしい

 

征服者の姿が映される場合だけだった。映画監督の山本嘉次郎が、占領が

 

終了してまもなく、当時東京の撮影がどんなに難しかったかを回想している。

 

すっかり焼け野原になった土地はもちろん、米軍兵士、ジープ、英語の看板、

 

占領軍の建物など、すべて映してはならないことになっていたのである。

 

「占領下」のスクリーンには、新しい想像の世界映し出すだけではなかった。

 

あるはずのものを見えなくもしたのである。>>

 

 

<<増殖し続けるCCD機構(GHQ配下の民間検閲支隊。活動は極秘にされた。

 

一時期隊員は日本人を含め6000人を超えた)は、数の上でピークを超えた

 

のは1948年だった。リベラルな高官がGHQを去り、保守的な

 

テクノクラートがその後任として赴任するのに応じて、検閲はより厳しく、

 

恣意的で、編集者・作家の多くは検閲が事前から事後になったことで

 

自由になったと感じるどころか、それまで以上に恐怖を感じた。すでに

 

発刊された新聞なり雑誌、書籍が占領当局に不許可と判断された場合、

 

その経済的打撃は痛烈だったからである。(あいまいで恣意的な検閲は、

 

SCAPにとって都合がよかった)すでに市場に出した商品が検閲にひっかかる

 

危険をあえて冒せる出版業者などほとんどいなかったからである。

 

その結果、占領が進むにつれて、用心と自己検閲はますますあからさまに

 

なった。(中略)

 

 

p401  ・・エピローグ  成長、幻影、希望・・・より抜粋

 

戦後の諸制度には、戦時のシステムから引き継がれたものがあったが、

 

それは必ずしも軍国主義的なものではなかった。たとえば少数の民間銀行

 

への金融依存度の増大と並んで、産業の下受けネットワークも戦争の

 

システムの一部であったが、これらは全て、戦後経済において 系列と

 

呼ばれた構造を支える心臓部となった。大企業では、株主への配慮 よりも、

 

いわゆる終身雇用を含む雇用の安定が重要視された。これが戦後日本に

 

特有のシステムとして特筆されることも多いが、その本当の起源は 戦争中

 

に発する。経営や産業に対する「行政指導」の様に、政府が積極的に 役割を

 

果たすやり方も、戦争に起源がある。先の見えない戦後危機に直面した

 

多くの日本人にとっては、こうした従来の制度を維持してゆくことは、当然の

 

選択の様に思えたし、アメリカ人のご主人たちの渋々の同意の下に日本人が

 

やったことは、本質的には従来の制度を維持することであった。後に

 

「日本モデル」と呼ばれ、儒教的価値のレトリックで覆い隠された物の多くは、

 

実は単に先の戦争が産んだ制度の遺物だったのである。

 

そして戦後日本の設計者たちもこうした遺産を改良しつつ、維持して行ったが、

 

それは彼等が背広を着サムライだったからではなく、気の抜けない厳しい

 

この世界で、最大限の経済成長を推進するためには、それが合理的なやり方

 

だと確信したからなのである。

 

(中略)

 

このシステムを指導したのは高級官僚たちであった。占領軍が最も重大な

 

影響を残した行動とは、実は不作為と言う行動であったと言えるのは、この点に

 

 おいてである。つまり経済の面に関して、占領軍は官僚組織の力を抑制

 

しなかったのである。無論、アメリカの改革担当者たちが日本の政治経済の

 

重要部分を変化させたことは事実である。著名な例を挙げれば、農地改革、

 

財閥の持ち株会社の解体、労働組合にかつてなかったほどの権利を付与した

 

法律の制定である。

 

 また、占領軍は官僚制に具体的な改革を強制し、その後に長く影響を与えた。

 

 たとえば軍事組織を除去し、警察と地方政府を支配する強力な官庁であった

 

内務省を解体した。しかし、官僚組織のその他の大部分(1940年システム)

 

に対しては、 占領軍は便宜のために手を付けなかった。既存の経路を使う

 

方が、占領政策の実施が容易であったし、すでに状況が混乱している上に、

 

システム全体を根本的に変えれば、大混乱が生じるかも知れなかったから

 

である。・・・・・・

 

 強力な官庁である通商産業省が創設されたのが、占領が終わる3年前で

 

あったと言う事実は、日本の官僚組織を強化したのはアメリカであったこと

 

を鮮明に示す例である。 しかし、それより何より重要なのは、連合軍

 

最高司令部自らが仕事のやり方を 通じて、官僚組織としての模範を示した

 

ことであった。・・・・

 

占領軍それ自体が官僚組織であった。マッカーサー元帥の権威は「最高」で

 

あり、マッカーサーの司令部が発する命令は絶対であった。・・・

 

東京の「リトル・アメリカ」と呼ばれた地区に集まった統治組織全体が厳格な

 

上下関係によって規律されていた。この政府の上の政府は、「透明性」など

 

ゼロ であったし、日本の誰に対しても説明責任を全く負わなかった。ある

 

(日本人) ジャーナリストは、我が国の首相は占領軍に対してイエス・マンに

 

なるしかなく力がないと書こうとしたが、GHQの検閲官の青鉛筆のおかげで

 

できなかった。

 

こうした状況下にあっては、問答無用主義、権威主義、権威崇拝、和合第一、

 

 全員一致重視、自己規制といった傾向が強くなる。そうなるには、古い儒教的

 

文化の伝統を受け継いだ人間である必要などなかったのである。

 

 (中略)

 

 

(占領軍のこうした支配は、終戦後の1952年に占領が終わるまで続いた)

 

これは窮屈な民主主義であった。しかもマッカーサー元帥は天皇を異常な

 

までに丁重に扱い、そのため社会の真の多元化や、市民の社会参加や、行政の

 

説明責任といったことが促進されるよりも、むしろ遅滞し、問題は一層複雑化

 

した。すなわち、日米合作の官僚崇拝、戦争から平和への移行期を生き延びた

 

大政翼賛会的な古い体制、天皇が象徴する神秘性を覆いにした説明責任の回避、

 

新たに導入された天皇制民主主義のうちの成長不全の部分が残存することに

 

なった。しかしそれでもなお、日本の社会は大きな変化を遂げたのだと

 

マッカーサーが述べたとき、彼はそれなりに正しかった。戦後の日本は、

 

帝国日本よりはるかに自由で平等な国家であった。この国の人々は、世界でも

 

珍しいほど軍国主義と 戦争に対して警戒的になっていた。・・・・

 

権力は保守派と中間派がガッチリと握ってはいたが、政治の議論の場では

 

 社会主義者や共産主義者が発言を許され、合衆国では考えられないほどの

 

意見の幅広さが保たれた。

 

(こうした互いに相容れない議論や主張の対立の例としては)かの素晴らしい

 

 新憲法をめぐって渦巻いた議論がある。アメリカ人の征服者がいなかったら、

 

 この様な国家憲章は生まれなかったであろうし、一旦占領が終わったら、国会

 

 が憲法改正に乗り出すことを妨げるものが何もなかったのも事実である。

 

 とはいえ、実は、憲法制定から日が浅いのに改定を望み、そのための工作を

 

した のはアメリカ人自身であった。すなわち憲法九条の故に日本の再軍事化が

 

紛糾し、当然のことながらアメリカ人たちは、総司令部が指揮した、かの

 

小さな秘密「憲法制定会議」の一週間さえなかったらと後悔したのである。

 

しかし、1997年に憲法施行50周年の祝賀が行われた時でも、結局憲法は

 

ただの一語も改正されていなかった。日本の保守派は改正に必要な国会議席数

 

3分の2を超えることができなかったし、改正を発議した場合に起こるで

 

あろう民衆の怒号に、正面から立ち向かう勇気も、彼等にはなかったのである。

 

 近い将来、憲法の改正が現実になる可能性はある。その場合も、

 

憲法問題が現代日本における民衆の政治意識をうかがう格好の材料で

 

あることに変わりはない。憲法9条は、絶え間ない攻撃にさらされ、

 

「自衛力を保持」するという名目の下で次々と拡大解釈が重ねられて

 

来たにもかかわらず、全文の力強い戦争反対とともに依然として

 

9条は不戦の理想を魅力的に表現したものとして今日まで生き延びて

 

きた。その「戦争廃絶」という理想は、第二次世界大戦を経験した

 

世界中の多くの人々の心の琴線に触れた。ただ、それを憲法や法律

 

に明記した例は、ついに日本以外では見られなかった。そこで

 

日本では再軍備をめぐって意見の衝突が起こる度に、法律や憲法による保守

 

とはどうあるべきかという基本問題や、戦争と平和という基本線へ

 

と必ず議論が戻っていった。これは他の国では考えられないことで

 

あった。かくして、誰が計画したわけでもなく、占領初期の

 

「非軍国主義化および民主化」という理想は、半世紀以上にわたり

 

民衆の政治意識の中に生き続けたのである。(中略)

 

 以上のことは、まだなにひとつ決着をみていない。日本がどこへ

 

着陸するのかだれも分からないし日本がナンバーワンだとつぶやく者

 

ももういない。・・

 

高望みがなくなってきたことは健全なことであり、(占領初期の

 

改革が掲げた「非軍事化と民主主義化」という理想を受け継ぐと

 

いう夢が失われたことは)ある意味で悲しいことでもある。

 

 

1946年に非公式ながら日本に計画経済を実現するという青写真

 

を描いた日本の経済学者や官僚たちは、その意味で見事なまでに

 

明確な目標をもっていた。彼らは急速な経済復興と最大の経済成長

 

をめざしたが、同時に非軍事化と民主主義を経済面で実現すること

 

もまた目標としていた。そして彼らが推進した「指導された資本

 

主義」は、この目標をかなりの程度まで実現した。日本は裕福に

 

なった。生活水準は社会のすべてのレベルで飛躍的に向上した。

 

階層別の所得配分は、合衆国よりもはるかに平等となったし、

 

雇用は確保された。軍産複合体や兵器輸出に過度に頼ることもなく、

 

経済成長は達成された。

 

・・・しかし、日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして

 

崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義という目標も

 

今や捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また

 

多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入ってない>>

 

  

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PC不具合により、フォントがメチャクチャで、ごめんなさい。

 

 

 

「天皇の戦争責任」

 

 

 

加藤典洋:橋爪大三郎:武田青嗣  共著

 

2000年  径(コミチ)書房 刊

 

 

 

(この大部の本をつまみ食いするに当たって,失礼ながら,

 

橋本氏をコジュケイ,加藤氏をハコガメ,と言うふうに呼ばせて

 

いただきたい.そのほうが,「どっちがどっちだっけ?」と迷う

 

読者が少なくなるんじゃないかと思うので.あしからず)

 

 

 

P084  「天皇言説のゆがみ」 より

 

<<コジュケイ:まず,明治日本は,科学文明の進んだヨーロッパ

 

諸国と同時代に生きなければならないというショックから始まった

 

わけでしょう.そこで,ヨーロッパ先進列強に並ぼうということが

 

至上目的になって,さんざん無理をして,天皇もその部品の一つ

 

として使われて,まがりなりにも近代国家を作りあげた.だけど,

 

それに対する猛烈な反動が起こってきて,東亜新秩序でも大東亜

 

共栄圏でもいいんですけれども,そういう欧米先進列強の世界を

 

引っくり返しにしたような構想を作りあげた.この構想のポイント

 

は,欧米と正面から戦ってそれを乗り越えたいというところには

 

なくて,欧米と無関係になりたい,ということなんです.つまり,

 

同時代の中に自分と異質なものがいて,多様な社会があって,

 

共通の国際ルールがあって,そのなかで日本という独自な共同社会

 

を運営していく,という緊張に耐えることができなかったわけです.

 

自分が何か意味のある中心になり,西欧はともかく,とにかく

 

アジアである勢力圏(テリトリー)を作りあげる.そこは他からの

 

干渉を排除したエリアとして,天皇を中心とする空想的な共同体

 

として,日本人だけが存在できる.そういう幻想の甘さに負けて

 

しまったと思う

 

 

 

は,戦後の日本はどうなっているかというと,独立国の形式を

 

とりながら完全に独立していないという面があり,日本の外交関係

 

や軍事的関係は,まずアメリカに包摂され,アメリカを通して

 

国際関係の中に位置づいている.そして世界の多様性にある意味で

 

目をつぶり,パリやミラノやニューヨーク という先進国の文明に

 

対して一方的なあこがれを抱き,「日本の現状はそれよりも劣る

 

けれども.まあ,いいや」というなあなあの安逸した共同社会で

 

あって,いっぽう,アジアや第三世界にはあんまり関心がないという

 

そういう段階になっていると思うんです.けれど,これは水平なる

 

多様性をそのまま認識して,日本がどういうふうに行動していけば

 

いいかと考えるやり方とは全然違って,緊張感がないと思う.

 

緊張感が無いという意味は,同時代の多様性を引き受けて,その中の

 

一つとして日本の共同社会というものを維持する,,そういう構想力

 

がないということです.それは大日本帝国の場合と同じです

 

 

 

ハコガメ:・・僕は今の戦後の日本社会には,ぼぼ12歳くらいの

 

 

子供たちから90歳くらいの老人までを貫く基本感情が浸透していて,

 

 

それは自分たちはいい加減だ,ウサン臭い存在だ,出発点からして汚れて

 

 

いる,というような感情だろうと思っています.それは,今の学生も

 

 

共有している.どうせ言葉なんてきれいごと,日本っておかしいよなー,

 

 

といったニヒリズムの根源であります.では,どうすればこの基本感情を

 

 

解体できるのか.僕は,この感情の淵源は,戦後,戦争に敗れることで

 

 

日本が抱えることになったむずかしい問題を日本の社会が自力で解くこと

 

 

が出来なかったことに在ると思う.そして,その一番はっきりした現れの

 

 

ひとつが,戦後半世紀過ぎてなお,この国が近隣諸国,関係諸国,つまり

 

 

どのような国とも,まともな信頼関係をつくりあげられないでいること,

 

 

また,この国で政治が力を失って久しいことだと思う.学生に聞かれたら,

 

 

僕は,天皇の戦争責任をはっきりさせることは,キミが社会と関係を持て

 

 

ないでいることの淵源に光を当てることでもあるんだ,と言うだろう.

 

 

今の日本の若者が自分と社会の関係をうまく取れないようになってしまって

 

 

いることは情報社会化とか高度資本主義の問題とか色々要因が在るだろう

 

 

けれども,やはり,この政治,言葉が,信頼を勝ち得ていない,戦後固有の

 

 

ニヒリズムが大きく作用している.その象徴が,結局,自分の戦争をめぐる

 

 

考えを一言も言わずに死んだ昭和天皇の戦後のふるまいだった.

 

 

 

p93  「正統性の根拠」

 

ハコガメ:なぜ天皇について考えることが大事か,もう少し言ってみます.

 

僕は戦前の日本人は,自分が日本という国のなかでどういう存在なのか,

 

あるいは日本の国民とはどういう存在なのかについての認識を,非常に

 

明確な形で持っていたと思う.国民というか臣民としての倫理のような

 

ものは,教育勅語にも明文化されていた.戦前の日本人は,天皇との関係

 

で,自分を理解出来ていたからです.でも戦後になると,憲法によって

 

国民主権が明示されますが,自分たちで作った憲法ではないので,その結果,

 

たとえば日本国民とは何なのかとか,戦後の日本人はどういう存在なのか,

 

ということがわからなくなった.でも,戦前が天皇との関係で自分を決めた,

 

いうなら,戦後求められているのは,主権者である自分と他者の関係を

 

自分で決めるということなんですね.誰も決めてくれないんだから,自分の

 

ほうから,自分と憲法の関係は,こう,自分と政治の関係は,こう,と決めて

 

いくことが,自分が誰かということを確定していくことにつながる.(中略)

 

自分と天皇の関係を国民が自分から定義することが,本当は主権者になる

 

ため,避けられないことなのではないかと思うわけです.

 

 

 

コジュケイ:(今まで続いてきたものはすべて正統性をもって続いてきたのか,

 

という議論についてーー)まず第一に,帝国議会を再召集すべきだという

 

正統感覚をもった議論があっていい.日本の右翼はだらしがないから,そこが

 

ポイントだということに気づかなかった.その分,日本の言論はバランスを

 

欠いたものになり,国民は右翼を甘く見るようになった.もっとも右翼が

 

このことに気づいたとしても,戦後民主主義を支持する天皇が在位し続けて

 

いるわけだから,どうしようもないわけですけれどもね.

 

次に,この憲法は押し付けられた憲法だし,自主憲法を制定すべきだ,という

 

議論がある.これはさきほどの右翼の議論とは違った,保守派の議論です.

 

そこで,自主憲法とはどういうことかと聞いてみると,内容はともかく,

 

押し付けられたことがよくないので憲法を「改正」するということらしい.

 

そして,どの憲法を改正するのかと聞いてみると,戦後の日本国憲法である

 

という.改正するという以上,改正する以前の押し付けられた憲法も,

 

正統な憲法だと認めていることになる.腰折れもはなはだしい.

 

こんな腰折れの議論でも,左翼を脅かす効果はあったとみえて,憲法を

 

改正させない「護憲」勢力というものが出来上がった.天皇条項が入って

 

いる憲法をそのまま「守る」など,左翼の風下(ママ)にもおけない反動です.

 

第九条はそのままでいいから天皇制を廃止し共和制に移行すべきだ,という

 

議論ならまだわかるのですが,そうではない.

 

これと別なアイデアとして(一水会の鈴木邦男さんの提案するような)

 

「国民投票」の規定は,憲法にないのだから,もし日本国憲法の正統性を

 

確認するために国民投票などをやってしまえば,それは非憲法的な行為に

 

なり,非合法になる.・・憲法の上位に立って憲法を否定できる,革命的

 

行為をもろに提案していることになる.しかもそういう自覚なしに.

 

 

 

以上,3つの可能性について私が思うのは,なんと意気地がない,という

 

ことです.弱くて戦争に破れ,無条件降伏した国が,あたかも敗れなかった

 

かのように無傷の正統性を再生させることなどできない.敗れても,日本

 

國民は存在しているのだから,その主体性を信じればよい.つまるところ,

 

押し付けだとか,経緯がごちゃごちゃしているとかいうことは,この際

 

どうでもいいことです.この憲法のもとで,50年間,日本国を営んできたと

 

いう実質がある.この実績そのものが憲法の正統性を日々に更新している

 

のだから,ここから出発する以外にない.

 

 

 

武田:とすれば,そこで結論は結局同じになるんじゃないかなあ.・・

 

「これは正統である/正統でない」とか「もういっぺん自主的に憲法を

 

つくりなおさなくてはいけない」というような議論に,いちいちい従わ

 

なくていいという意見が,われわれの中で広がりをもっているということです.

 

 ハコガメ:うん,それはかなり重要なポイントだよ.

 

武田: もう50年、こうやって住んできて、そのことに対してもう違和感を

 

となえる人は少なくなっている。いろいろあったかもしれないし、

 

 詳しいことはよく知らないけれども、これはこれでもうやってきちゃって

 

 るんだ、と。そういう一般の人の感覚が日本の憲法や戦後の政体の基本

 

 原則に正統性や正当性を与えているわけですね。ハコガメさんは、憲法に

 

 ついて国民投票でもう1度選びなおしをやろうと言っているが、それは、

 

 憲法に正統性がないから国民投票で選び直そうと言っているわけではない

 

 と思う。要するに、感覺としてなんとなく正統性を持ってはいるが、

 

われわれがその主体であるということをはっきりした形で確認するには、

 

そういう方法がある、という話ですね。

 

 

ハコガメ: 僕の言葉でいえば、「法の感覚」の回復ということですが、

 

それはいわゆる「正統性」を回復するという話とは大分違います。

 

・・僕が言うのは、憲法は押し付けられた。それはいい。それを認めた

 

 上で、現憲法の改正条項〔第96条)の規定に基いて憲法改正の手順を

 

 踏み、国民投票を行い、この憲法を自分達の意志を体現したものに作り

 

替えよう、ということです。そのポイントは、例えばその国民投票法の

 

 結果、第9条がなくなると言うリスクがあったとしても、憲法が自分達

 

 の力で選び直されることで、自分達の作った憲法という感覚が回復される

 

 としたら、その方がよい、という点です。憲法第9条が大事だと思えば

 

それを回復する運動を行えば良い。つまり、内容よりも、法を自分達で

 

 作る感覚の方が今は大事だ、という観点です。・・

 

 武田:つまり、ハコガメさんの正統性の議論のポイントは、過去はどうでも

 

 いいということではなくて、今の時点で自分としては国との関係をどう構想

 

 できるかという視点をまずつくり、そこから過去をそう受け止めなおせば

 

 いいかをはっきりさせる、ということだと思いますが、コジュケイさんの

 

 言う正統性について、もう少し説明してしてください。

 

 コジュケイ:私の議論を、いろいろあるけど50年これでやってきたから

 

 いいんじゃないかという、なあなあの議論と間違えないでほしい。

 

 民主主義は、法的な正統性を最も重視し、それをとことん追求するという

 

 態度としてしか可能ではないのです。戦後日本という歪んだ空間でそれを

 

 やって、やり抜いて、着地するところが50年間の実効的な統治なのです。

 

 ところで、憲法は変わったけれど、法律体系の全体としては戦前と戦後は

 

 連続しているということも、もうちょっとよく認識していく必要があり ます。

 

ハコガメ:それは同感です。

 

コジュケイ:まず刑法は、基本的に変わっていない。民法は家族法などが

 

改正された以外に骨格は変わっていないし、商法も変っていない。

 

主要な法規は変わっていないわけです。それから陸海軍省は解体され

 

陸海軍は亡くなったけれども、内務省は編成を変えられただけで官僚の

 

 身分も変わっていないし、司法官も組織は変わったけれど身分は

 

変わっていない。それから、医師の資格なども、全部、持ち越され

 

ている。財産権なども保証されている。台湾、朝鮮半島などにあった

 

日本人の資産は、補償なしに放棄する形になりましたが、戦前からの

 

所有権なども全部含め、法空間として連続している。そういうことが、

 

やはり正統性を保証しているということを見通すべきなんですよ。

 

ハコガメ:背骨は折れているけれども、肋骨は残っているから、全体

 

としては繋がっている〔笑)

 

コジュケイ:それから大日本帝国が結んだ様々な条約も、全部日本は

 

継承している。それが戦争責任をもつということの一つの意味でもある

 

訳です。大日本帝国が及ぼした効果を日本国が継承するということが、

 

日本国の正統性の根幹になる。正統性がない国家は外国には相手に

 

されないわけですから。

 

ハコガメ:僕のいう正統性とコジュケイさんのいう正統性は、僕のが、

 

自分達にとっての内的な正統性だとすると、コジュケイさんのが、

 

対外的な正統性だということだと思う。そう考えると、われわれの意見は

 

それほど違っていないのかもしれない・・

 

コジュケイ:そうすっきり2つに分かれるか私は知りませんが、それは

 

置くとして、さらにつけ加えると、正統性とは、個々の人間にとっての

 

価値基準、行動の基準、思考の基準に結びついている。自分の属して

 

いる国とは何かとか、自分が個人的であることや家族を営んでいること、

 

地域社会的の一員であること、それからたまたまここにあるこの国家の

 

関係とは何かということに関して、ある程度考えていて、そしてそれを

 

いつも何処かで意識してしつつ行動するということは、人間の、特に

 

近代人の人格の一部だと思うわけ。そうであって初めて、例えば組織の

 

中で行動するときにはどうしたらいいかとか、家庭人として行動する時

 

にはどうしたらいいかとか、芸術的表現をするときにはどうしたらいいか

 

とか、そういうことのバランスというか、感覚が計れるようなところがある。

 

良かれ悪しかれ、それが近代というものである。近代はこの先超えられかも

 

しれないけれども、それを踏まえた上で主体的に超えるのでなければ,

 

とても近代を超えることはできないと思う。

 

例えば若い人が天皇について「私は全然関心がない」とか「考えたことも

 

 ない」とかいうふうに言った場合、今述べた人格的な成熟を期待すべくも

 

ないように思うので、彼(女)が何か話をしたとしても、なんというか、

 

聞くに耐えず(全員笑)、それから何か新しい情報を発信するということを

 

ほとんど期待できず、それが日本社会の中で何か間違った事情で関心を呼ぶ

 

としても、それ以外の社会の中で何事かとして反響を呼ぶということは

 

ないんじゃないかなと思う。

 

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

 

 

 

キツネのちょっと待て!

 

 「聞くに耐えず」とはなんということをおっしゃる。

 

今の(2020年代の)若者は、ある意味では国家をはみ出している。

 

 NETの世界はだだっ広く、日本社会の中の「何か間違った事情」なぞは

 

 糞食らえ、かもしれない。むしろ地球規模で、現在の醜い国家同士の陣取り

 

 合戦を批判しているかも知れず。だから「天皇制がどうしたって?それは

 

 あんたらの世代にとっての借金みたいなものだろ。あんたらが返せば

 

いいじゃん」となる。彼らは音楽、映画、テレビ、SNSで世界中の仲間と

 

連帯している.

 

それに、彼等を未成熟な人格形成のままに捨て置いた責任は、我ら老人世代に

 

ある。「彼らをペシミズム日本から救いたい、本当のことを知ったら、彼らは

 

日本人であることを恥に思うだろう」との老婆心から、本当のことを教え

 

なかった。。たしかに彼らは打たれ強くはない。いじめに弱い、反対にいじめに

 

加勢するのは得意だ。しかし、気軽に他国民との民間交流を楽しむ、そこから

 

民主主義も学ぶだろう。

 

だからむしろ、民主主義を学ばず、「日本は天皇を中心とした神の国でしょ?」

 

 なんぞとしたり顔にほざくおいぼれ政治家こそ「借金踏み倒しても国威発揚」

 

ヤクザ、「聞くに耐えない」、のではなかろうか。

 

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

 

 

 

p109 「戦争放棄」・・はトバして・・

 

 

p139 「神聖にして犯すべからず」より

 

(コジュケイ:シヴィリアン・コントロールの意識を欠いたまま、自衛隊

 

の軍事力だけが突出してしている。そこで、まずとにかくシヴィリアン・

 

コントロールの構図をきちんと出し、それを通じて国内に議論の場を作る。

 

そして、世界に対する構想を出す、という順序になると思います。)

 

武田:では、そういう構想を考えていく手がかりとして、天皇をどう

 

イメージするか、天皇に戦争責任があるか、という問題に戻ってみたいと

 

思うんですが。

 

コジュケイ:そこに戻って言えば、私が天皇を評価する最大の理由は、

 

いくつかの局面で天皇が法律による軍隊のコントロール、憲法による

 

国のコントロールを最大限に追求したからです。彼が守ろうとしていた

 

憲法体制とは、役割と権限と地位と義務と権利とからできている憲法体制

 

であって、少なくともそういうやり方で日本国内を運営しなければ、この

 

国は同時代の国際的な水準に立てなくて、どうしようもない国になって

 

しまうと考え、そういう義務感のようなもので動いていたと思う。

 

だから彼は憲法とか条約とかいうものを最高の格率にして、それから逸脱

 

する要素を自分の内部から排除し、できる限り自分の周囲からも排除

 

しようと思ったんですね。

 

ハコガメ:それは戦前ということ?

 

コジュケイ:そうです。戦後においても、退位しないということでそれに

 

貢献した。

 

ハコガメ:どういう意味、退位しないことによって、というのは?

 

コジュケイ:簡単に言えば、退位の規定がないのに退位をしたら、それは

 

憲法的な行動ではないからです。そして、戦後的価値に反対するする人々

 

を元気付けることになる。

 

武田:そういう面で天皇を評価する?

 

コジュケイ:ええ。戦前の日本の非合理的な国家体制の中で、最も合理的に

 

行動しようとした。天皇はそう言う個人である、と評価する。

 

ハコガメ:そう言う評価もあるとは思うけど、僕の昭和天皇に対する

 

評価は、やはりコジュケイさんと大分違うな。僕から見るとコジュケイ

 

さんの評価は、かなり昭和天皇に甘い。たしかに、当時の文献記録を読むと

 

天皇は「憲法を守れ」と言うことを、いろんな局面で言っている。当時の

 

首相とか陸相とか軍人とか内務大臣とかに比べると、はるかにそのことを

 

強調している。しかし、そのことをもって総体として最も合理的に行動した

 

と評価するのは、違うと思う。僕の場合は、そのことを昭和天皇自身が

 

戦後になってどう自分で評価したか、と言うことまでを含めて問題になる。

 

そしてそこまでを含めて、昭和天皇がどういう人物であるかと言う評価が

 

でてくる。

 

結論をいうと、昭和天皇はよく頑張った。しかし総体としては「結果オーライ」

 

のお調子者というところがあり、その点、統帥者として弱かった、というのが

 

僕の評価です。

 

たしかにいろんな局面で法的なものを守ろうとはしたし、そういう人間が

 

当時の日本の主要メンバーの中でごく少数だった。だけど、近隣諸国の住民に

 

対する侵略の責任、戦争の死者に対する政治的配慮、道義的責任が天皇にある

 

ことには変わりない。しかもそういうことに天皇自身は戦後、口を拭っている。

 

コジュケイ:日本に侵略された外国の人々が日本を非難し、恨み、そしてその

 

主権者である天皇に責任があると考えて攻撃するする。これは当然のことだと

 

思う。日本から外に向けた顔としては、彼しかいないんだから。

 

ハコガメ:侵略された国の人が天皇を非難しているということは、日本国民を

 

非難しているということでもある。

 

コジュケイ:しかし、日本国民が戦争が終わった後で、戦争責任というかたちで

 

天皇に対して非難の目を向けるというのは、全然意味合いが違うと思う。

 

武田:「事後的に天皇の責任を追及することはできない」ということと、

 

「天皇はがんばったんだから責任を追求することはできない」ということとは

 

別のことでしょう。そこはどうですか。

 

コジュケイ:道義的な責任ということで言えば、自分だったらどうできたのか、

 

という対等な個人の立場を抜きにしては語り得ないと思う。そこで、彼個人の

 

 個々の状況における行動や判断を、私がそのポジションにいたらそこまで

 

できただろうか、というレヴェルで考えると、よくやってると思うことが多い。

 

ハコガメ:それは政治的な意味で?

 

コジュケイ:天皇としての職責を果たすという意味でね。

 

ハコガメ:そこは考えが違う。

 

コジュケイ:だけど、道義的な意味において彼を責めうる立場の人は、どこに

 

居るのかと思う。

 

ハコガメ:一般的に一個人の政治的な行為をそれとして評価しようというなら

 

そういえるかもしれないが、ここではある公的な人間の政治的行為をそれと

 

して評価しようというんだから、自分だったらどうできたか、ということを

 

判断基準に据えるのは違うんじゃないかな。コジュケイらしくない。

 

コジュケイ:今、個人として自分だったらどうできたか、と言ったのは、

 

道義的な問題についてですよ。政治じゃなく。天皇を一種の政治的存在と

 

考え、政治家と同列にその政治的行為の責任を追及するというのは、

 

間違いだと思う。天皇は、天皇という国家機関上の職責を果たした個人と

 

考えるべきだ。通常の人間が出来ることには限度があって、完全を求める

 

ことは出来ないでしょう。平均的な人間ならなかなかあそこまでできない

 

だろうというレヴェルでその職責を果している場合、それ以上どうやって

 

非難出来るだろう。

 

ハコガメ:だから僕は、いわゆる統治権者としての天皇の政治的責任と、

 

天皇の一個人としての道義的責任というものを切り離したつもりなんですよ。

 

道義的な意味において彼を責め得る立場の人はどこにいるかとコジュケイさん

 

は言ったけど、それが戦争の死者なんです。・・彼は政治的な役割りを

 

担ったんだから、そこから生じたものを結果責任として負わなければならない。

 

公的な人間として公的な帰結について責任を負わなければならないのは明らか

 

じゃないだろうか。その上で、彼はそれにしてもよくその職責を果たしたという

 

評価は出来ると思うけど。(中略)

 

そういう諸々のこと、また自分が犯した誤りと判定され得ること一般について

 

天皇が口を拭い、意思表示をしないまま死んでしまったということがはるかに

 

大きい問題になる。僕が言っている戦争の死者に対する道義的責任というのも、

 

戦前のそれぞれの時点では生じていない。それは戦後になって生じている。

 

(中略)

 

武田:ただ、まず素朴なことをいうと、日本は侵略戦争を起こした、ということ

 

を認めるとすると、天皇はその最高責任者ですね。その法的責任というのは

 

問われないわけかな?

 

コジュケイ:そのことですが、こんなふうになっているのではないでしょうか。

 

まず明治天皇は、途中で憲法(明治憲法)が出来たから、前半は専制君主、後半

 

は立憲君主なわけです。そこで後半の立憲君主制下での天皇ということに限定

 

して考えると、大日本帝国憲法第一条に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ

 

統治ス」と書いてあって、第二条を飛ばして、第三条に、「天皇は神聖ニシテ

 

侵スべカラス」と書いてある。それから、天皇の統治行為は憲法の定める

 

ところによって行う、となっているわけです。では実際に、天皇が国家の

 

主権者として、どのような行為を行うかということですけれど、大部分の

 

行為は行政府、すなわち内閣が行なう。内閣は天皇を輔弼する、つまり

 

助ける義務があって、その政治責任は国務大臣が取ることが憲法で決まって

 

います。具体的にはどういうことかと言うと天皇に「こういうことをし

 

ましょう」と提案する場合、内閣が閣議を開いて国家の意思決定を行い、

 

そして書類を天皇のところに持って行く。天皇が署名することによって

 

それは効力をもちますが、天皇の署名の横に国務大臣が署名(副署)を

 

しない限り効力を持たない。副署がある限りで効力をもつ。天皇は、

 

内閣の所管する事柄に関して、形式的には署名という形で意思決定を行う

 

が、実質的には何もしない。そして意思決定の責任は全て内閣が負う。

 

これが旧憲法のシステムです。

 

軍についてはどうか。軍も政府機関の一部ですから、予算や人事などで

 

政府の コントロールを受け、通常の行政手続きに従う。しかし、これは

 

統帥権の独立に関係するのですが、陸軍と海軍は大日本帝国憲法よりも

 

古くから存在する組織だということもあり,内閣ではなくて天皇に直属する

 

と憲法で定められた.軍は一面,行政府と独立の存在なのです.ですから

 

国家機関は二股になっている.作戦時,軍隊は作戦命令にしたがって動く

 

のですが,その作戦命令を起草立案するのは陸軍の参謀本部と海軍の軍令部

 

で,その命令を全軍に下す最高指揮官が大元帥であるところの天皇です.

 

ただし,大日本帝国憲法は曖昧で,天皇が陸海軍を指揮する場合に,

 

だれが補弼の責任を取るかを明示していないんです.

 

そこで,慣例上,陸軍の参謀総長,海軍の軍令部長(昭和8年以降は

 

軍令部総長)が輔弼責任をとり,陸軍の作戦命令は参謀総長が起草し,

 

天皇が署名して,それをそのまま下達する.海軍の場合も,軍令部長が

 

起草し,天皇が署名して,下達する.これを奉勅命令というわけです.

 

これによって具体的な戦闘行動を行う.その責任は,輔弼機関である軍の

 

統帥部が負うと考えられます.しかし,戦争を始めるかどうか,開戦ですね,

 

それから終戦,これは国務事項ということになっていて,内閣で審議して

 

行う.そういうことになっていますから,開戦や終戦の詔勅が無い限り,

 

戦争は始まらないし,終わらない.つまり,戦争の途中は軍隊は独自に

 

動きますが,いつ戦争をするか,いつ戦争を辞めるのか,ということに

 

関しては内閣も関与します.そして,陸軍と海軍の調整のために双方の

 

連絡機関として大本営というものがおかれ,大本営と」政府機関の連絡

 

をするために大本営政府連絡会議というものが置かれ,それがいわゆる

 

御前会議として運営されることもあります.

 

(中略)

 

天皇は大元帥ですから,軍の最高指揮官であり,なんでも命令できるような

 

イメージが一般にありますが,御前会議に臨席しても,会議のメンバーでは

 

ないから,黙って座っているだけで,原則として発言しないんですね.統帥部

 

の判断に裁可を与えるという立場であり,権威を与えるという立場であった

 

と思う.

 

天皇は公的人間(国家機関)ではあるけれど,政治的決定を下す立場にない.

 

政治的な決定をしないから,政治的責任もないのです.ここが,結果責任を

 

問われる政治家とは違う.政治家は政治的意志決定をくだしたい人が,

 

なりたくてなるものでしょう.けれども天皇は,そういう選択の余地なく,

 

生まれてみたら天皇になる運命を負っていた.そして折々,これは憲法の

 

欠陥なのですが,天皇として政治的な行動をせざるをえない状況に追い

 

込まれた.そういう個人を捕まえて,政治責任を問うのはフェアでない.

 

武田:つまり,もしいま天皇の法的戦争責任を問うのであれば,彼がその時

 

現実的にどういう機能の中にいて、彼の意思決定がどういう形で存在し、

 

その意思決定が効力を持つ可能性がどの程度存在したかということを、

 

事実に促して検証しないと、アンフェアだということですね。

 

 

 

※※※※※※*************************!

 

 

2020年9月

 

軍部支配の性格

 

 「昭和史」I中村隆英 著  東洋経済新報社 1993年刊

 

 

p367    軍部支配の性格

 

<<戦時日本の政治を事実上支配したのは、軍部、特に陸軍であった。陸軍と

 

言っても、政治に関わるのは陸軍大臣とそれを補佐する陸軍省軍務局長と

 

軍務課のスタッフが中心であって、これに参謀本部第一部(作戦)が強い

 

発言力を持っていたのである。そこから、軍部をファシスト集団と捉える

 

考え方が生じる。また、それを拡大して当時日本の支配体制を日本ファシズム

 

(ナチズム)と捉える見方がある。その点については伊藤隆は、ファシズム

 

という言葉の意味が明確に定義されていないのに、どうしてそう言えるのか

 

という疑問を提出し、議論が盛んに行われたことがある。確かに当時の日本

 

は軍国主義を鼓吹し、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと同盟して

 

第二次世界大戦への道を歩んだのだから、広い意味でファシズム諸国に

 

共鳴して、帝国主義的膨張を企図したと言えるであろう。また国内に

 

おいても、経済思想、国民生活の隅々までを政府の統制下に置き、反軍、

 

反戦的な一切の行為を取締りの対象とした。その意味で、日本の戦時体制と

 

ファシズムを対比するのは 無理からぬことと思われる。

 

しかしながら、日本の戦時体制とドイツ、イタリア、あるいはソ連の戦時体制

 

とには、大きな相違があったことははっきり指摘しておくべきであろう。

 

明治憲法のもとでの政治体制は、多くの国家機関が存在し、それぞれが天皇に

 

直属する形になっていたために、内閣の権力も限定され、首相兼陸相の東条

 

さえ、統帥に関与できなかったことはよく知られている。戦争末期になっても、

 

この意味における明治憲法体制には一切の変更が加えられなかった。

 

国家総動員法以下の委任立法制によって、立法府の地位が低下したのは事実で

 

あるが、制度的には変更されなかった。議会の力が低下したことは、その分だけ

 

行政府の力が強まったことを意味しているであろう。諸官庁、商工、農林、鉄道、

 

通信などの経済官庁は統制の権限を振るって睨みを利かせたし,警察と隣組を

 

通じて内務省は国民生活の末端にまで支配網を形成した。そして行政府のうちで

 

最強の力を発揮して国家の運命を左右したのが陸軍だったのである。(中略)

 

 1939年に反英運動を展開し、日独伊三国同盟の成立のために画策した有末精三、

 

 大政翼賛会の成立の際ナチス張りの一国一党制を強力に推進した武藤章らは

 

その代表的な一例である。けれど、彼らにしても、有末なり、武藤なりという

 

個人に力があったのでは無く、軍務課長、軍務局長の地位にあったから発揮

 

され得たのである。東條英機が独裁的な権力を振るったことはよく非難される

 

が、それも、首相、陸相を兼ね、当初は内相を、のちには参謀総長をも兼務

 

したことによって初めて可能になったのである。

 

 それは、変貌していたにせよ、官僚制の枠内での出来事であった。その

 

政治力はその地位を離れれば失われてしまうものであった。東條も、

 

重臣や議会内の反東條勢力に抗しきれずに職を去らねばならなかったし、

 

有末や武藤は、人事異動の辞令一つで戦場に転出させられたのである。

 

今も昔も変わらない日本型官僚制下の決定機構は、課長ないし課長補佐クラス

 

が政策の立案に当たり、順次上位者に説明して承認を得て、やがて政府の決定

 

になっていくというシステムである。もちろん、上司の意向があらかじめ

 

示されることもあり、立案の修正が必要になることもあるけれども、むしろ

 

例外である。

 

日本の運命を決めるような和戦の岐路においてもそのシステムに基本的な

 

変わりはなかったのである。それはヒトラーのドイツ、チャーチルの

 

イギリスやルーズヴエルトのアメリカ、スターリンのソ連とは基本的に

 

異なっていた。彼らはトップが大綱を決め、その細部官僚機構に委ねた

 

のである。

 

日本では、例えば1941年7月末のアメリカの石油全面禁輸が決められたあと、

 

それまで慎重だった海軍や陸軍省の物動担当部署までが主戦論に変わり、

 

「10月中旬」までに日米交渉妥結の見通しが立たなければ開戦という

 

9月6日の御前会議決定になだれ込んで行ったのである。その主導者は

 

陸海軍の関係部局であって、近衞首相でも、東條陸相でも、及川海相でも

 

なかった。外側からみた陸軍も、凛義制のシステムのもとで、「曠古」

 

(未曽有)の大戦への突入を決めて行ったのであった。

 

 全ての機構に優越する独裁者のいないファシズムというものがあるの

 

だろうか。あっても差し支えないにしても、少なくとも戦時日本の実態が、

 

ドイツとも、ソ連とも異なっていたことは確かである。同時に、その異なった

 

形態のもとで、ソ連に近い社会体制が実現したのもまた確かなのである。>

 

 

 

✳️✴️***************************

 

 

キツネの「わからん!」

 

9月 某日 

 

安倍「プロンプター」首相が突然の辞任発表.

 

大勢の官僚たちが、天皇をかついで、軍部は勝算なき戦争を始め、拡大し、

 

経済官僚は国民生活を統制し、内務官僚は「警察や隣組を通じて」国民の

 

思想を支配した。この独裁者なきファシズムは日本の伝統的官僚制に今も

 

残る稟議制、つまり「課長ないし課長補佐クラスが政策の立案者となり,

 

順次上位者に説明して承認を得て、やがて政府の決定になってゆく」という、

 

何やらお馴染みのシステムが作り出したものだという。

 

そういえば、安倍さんは突然辞任し、後任の自民党総裁候補の有力議員と

 

支持者(それと安倍ファンの国民60%)は、破綻した安倍路線の継承を

 

目指すという。安倍氏には己の「悲願」として憲法改正を挙げていたが、

 

どこをどう改正したいのか、はっきり言わなかった。コロナ禍で痛んだ

 

国民経済の回復策もまだ白紙状態だ。 お伽噺にある、石の地蔵様を担いで

 

川を渡ろうとする猿の群れが「猿の尻は濡らすとも、地蔵の尻は濡らすなよ!」

 

と掛け声をかけて行ったということだが、地蔵様が「ワシは降りる」と言い

 

出したのが、川の真ん中だ。どうするのか。投げ捨てるわけにもいかず、

 

というところか。菅氏は己が身代わりの石仏になるとの覚悟か。

 

独裁も困るが、行方もわからぬ神輿かつぎ内閣も困ったもんだ。しかも国民の

 

60%が「石でもなんでも有難い仏」だというのがどうもわからん!

 

 

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キツネのななめ読み

 

91

 

この20年の世間の変わりように改めて驚く。

 

今日誰も天皇の戦争責任など考えても見ないだろう。それが良いことか、

 

悪いことかは別にして。キツネの天皇評価はほぼコジュケイさんに近いが、

 

 ひとつ、許しがたいことがある。それは「軍事的集団安全保障と日米安保」

 

は 戦後の国際政治の常識であり、これは日本国憲法と不可分のセットであると、

 

断言しているところだ。ほんとにそうだろうか?

 

米国の軍産複合体がアメーバのように増殖し、核兵器を小型化し、使い勝手を

 

改善し、海外に売り込み、米国政府の収入源となり、失業者対策として有効で

 

 ある限り、軍縮も核廃絶もあり得ない。集団的自衛権は自衛隊に海外派兵への

 

道を拓いた。そして「同盟国が派兵するというなら、日本としても黙って見て

 

いるわけにはいかん」と、防衛大臣がのたもう。それじゃ、「親分の言うとーり!」

 

 の子どもの遊びみたいだ。親分の言うままに従って、ほんとに無事なのかね?

 

今後は、「侵略しない」「無辜の市民をころさない」「原子力兵器を造らない、

 

使わない」「国際的人道法規を守る」さらに地球環境破壊を止めるため、

 

全世界の共通の取り組み、また脅しやいじめによる国益拡大策ではなく、

 

「対話による相互 理解の常識化」、つまり小学生や中学生のいう言葉を馬鹿に

 

せずによく聞き、政治に活かす、これが出来ればよし、そうでなければ

 

日本は2度崩壊する。

 

地球の余命はあと数十年だという。

 

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キツネのナナメ読み・・追加

 

 この本の2人の論者は,天皇の戦争責任を,「戦争で死んだ300万人」

 

への(戦争中の)責任と,「戦後の民主政治の構築,その実態への責任」とに

 

切り分けて論を戦わせている(らしい).つまり前者の責任で言えば,

 

昭和天皇の退位は必要なかった.後者の場合ならば,天自らが退位を

 

表明し,国民並びにアジア諸国に対し何らかのお詫びの言葉を述べる

 

べきだった,となる..

 

キツネは,天皇個人への評価では,概ねコジュケイに賛成だが,一方,

 

戦後の集団的自衛権,日米安保について,戦後民主憲法とは一体の,

 

切り離せないものだと明言していることには,賛成できない.

 

「同盟国が出撃すると言ってるんだ.日本が黙って見ているわけには

 

いかんだろ」と防衛大臣がのたまう.あの軍事大国で,軍産複合体が

 

のさばり,政府の懐をうるおし,失業対策にも貢献しているかぎり,

 

軍縮も核兵器廃絶も,絶望的だ.そこにしっかり糊付けされて,どう

 

やって核廃絶を「主導」できるものか.

 

 

この本,論争500ページ,資料編およそ100ページもあり,最後に

 

日の丸,国歌論議におよぶ.だが,これは2000年の話で,それから

 

20年余,地球は急激にヨボヨボになり,もはや余命数十年とも

 

言われているというのに,それどころじゃない,という気がするが?

 

イギリスやオランダが王国だからと言って,民主主義国でないとは

 

だれも言わない.反対に「中国式民主主義」を名乗っても,明らかに

 

専制君主を頂いて居る国もある.だから今では,皇室とは相撲や

 

歌舞伎と同列の,日本の伝統文化に過ぎないと,キツネは思う.

 

 

 

今,各国が取り組むべきは,純粋な「反戦」の普及,軍事同盟を

 

ガッチリとかためて,その緊張と脅威の下での平和が唯一生き延びる

 

道だという大嘘をあばき,「お前のとこがやるならオレも倍返しだ.

 

準備はできてるぞ」的な好戦国(実は軍産複合体に足元を掬われている

 

頭でっかち国家)の宣伝に乗せられない,民衆の平常心を取り戻す運動

 

だと,元来イナカッペのキツネは思う.反戦,核兵器廃絶,空と海と

 

土と森林を全ての生き物のために保護し,無駄遣いをつつしむことが

 

たった今やるべきことだ,と.

 

 

 

 

 

キツネの「あなたのメガネは明治〇〇年製?」

 

2020  9  16

 

 

憲法改正論者の中には、明治憲法へのノスタルジーに取り憑かれている

 

人々がおり、それが近年数を増してきたように思える。彼らは決して

 

表立って反民主主義を唱えるわけではない。彼等も自身が受けている

 

 民主的社会の恩恵=言論の自由については納得して受け入れ、大いに

 

 活用しているわけだから。

 

 しかし、彼等は言う「明治の御代には、我等は自分が何者なのか、

 

について、天皇との固い結びつきにおいて理解し、それを揺るぎない

 

自分の本質として受け入れてきた。日本人の心の拠り所、不屈の大和魂、

 

それを導くのが 「神聖なる天皇家」であり、その系譜は天孫降臨の昔より

 

続く、何人もそれに 逆らってはならぬものだ」とか。(昔,不敬罪という

 

のがあって,天皇様の悪口をいう者は牢屋に入れられた)

 

 また彼等は言う「良い統治者に国政を委ね、その野心を遂げさせるのは、

 

賢い国民の義務だ。そうでなければ、国の繁栄はない」とか。(昔、

 

戦争準備のための国民総動員組織である「大政翼賛会」と言うのができ

 

ました。国民を小単位に分けて、国防婦人会とか隣組とか自警団とか、

 

思想警察の下で働く民間組織もできました。学校では、「教育勅語」を

 

暗唱させ、統治者の野心に過ぎないものを「天の声、神の声」として

 

受け入れるよう訓練しました)

 

 つまり彼等は理想の統治者、理想の憲法、理想の教育は明治時代にあり、

 

と言い、本当は明治憲法に戻せと言いたいらしい。それが言えずに

 

「憲法改正、憲法改正」と言い、新憲法の部分的手直しとして、「戦争は

 

やるべし」「戦争放棄など現実に合わない」と言うところまでモゴモゴと

 

やってきて、そこで「戦争なければ平和なし」「核兵器あれば戦争なし」

 

なんて筋の通らない標語を並べて見せるが、そこまで。彼等の本音は

 

「明治憲法に戻せ」なんだ。その証拠に、ある老国会議員の言う様「日本は

 

天皇を中心とした神の国でしょ!」だってさ。これは第二次大戦後に生き

 

残って、新憲法の下で民主的に選ばれ議員になったが頭は明治、の老人たちと、

 

一種ロマンチックな若者中年。「統治が良ければ、民主的かどうかなんて

 

どうでも良い」と言う。

 

良い統治とは?「テキパキと決めてくれる統治」「経済的強者のための政治」

 

(これは、ナチの一党独裁に期待を寄せた旧ドイツ国民の思いと同じ)

 

 民主主義の真ん中からでも独裁者は生まれる。

 

そして「教育勅語って、案外良い線行ってるじゃん」的な、「いっぺん牢屋に

 

入ってみたい」と言う様なノーテンキな発言をなさる方々。また教育勅語全文

 

 はまずいから、部分的にちょくちょく取り入れて指導要領を変えていくと言う

 

文科省の目論見。

 

どれをとっても、日本をまた「アジアの盟主」、「神国にして負け知らずの強国」

 

としたい、と言う様な鎖国の願望と世界各国と交わること拒む駄々っ子ニッポン

 

が、具体的には「明治憲法」が息を吹き返しつつあると、キツネは感じる。

 

 

 

 

2022年 1月24日 朝日新聞 より

ーー辺野古「黙認」の現職再選ーー

名護市長選・政権が支援。

 

🦊:名護市の市長選は1月23日に投開票の結果、現職の

 

渡具知(とぐち)武豊氏が再選された。投票率は過去最低の

 

68.32%だった。

 

<渡具知氏は「県と国が裁判を繰り返している中で、推移を見守る、

 

それ以上のことを首長ができるのか」と語った。

 

これまでの4年間と同様に、(米軍飛行場の辺野古移設に関する)

 

賛否を明言せずに「黙認」する姿勢で、政府は引き続きことを進める。

 

渡具知氏は、「移設反対」の前市長時には交付されなかった国の米軍

 

再編交付金を受け取り、学校給食や子供医療費などに充ててきた。

 

選挙でも移設についてはほぼ語らず、「子育て支援」を実績として

 

アピール。財源には触れず、政権との協議路線を強調した。

 

(野党推薦の)対立候補、岸本洋平氏は、移設反対を前面に打ち出し、

 

「軟弱地盤で完成は不可能。これ以上国民の税金を費やすことは

 

許されない」と主張。賛否を語らない渡具知氏を「市長としての

 

責任放棄」と批判したが、浸透しなかった。

 

 

『視点』・・那覇総局長 木村司

 

<復帰50年を迎える節目の年の初めに選ばれたのは、米軍基地

 

問題に「沈黙」する市長だった。

 

半世紀前、日本は戦争で奪われた沖縄を米国から取り戻す。しかし、

 

「祖国」復帰を果たした沖縄の人々には喜びと共に苦悩があった。

 

基地の集中は解消どころか、強まったからだ。

 

およそ半世紀ののち、痛ましい少女暴行事件の発生によって

 

動き出したのが、普天間飛行場の返還だ。負担を減らす。政府と

 

沖縄の人達の思いは一致したかに見えたが、日米が合意した条件

 

は「県内移設」。期待は再び裏切られ、混迷が始まった。

 

基地ノーか、地域振興か。理不尽な二者択一を迫られた市民は、

 

ぎりぎりの選択を続けた。しかし、使用期限など条件付きで

 

受け入れると、条件は反故にされ、受け入れの事実だけが利用された。

 

反対すると、予算を使った露骨な「アメとムチ」が駆使された。

 

狭められる選択肢の中、その先に誕生したのが賛否を語らない市長だ。

 

この4年、政府は軟弱地盤の存在を認めないまま土砂投入を開始。

 

県民投票による7割のノーも顧みず工事を加速させた。市には、

 

移設受け入れを前提とする米軍再編交付金を支給。市長は子供医療費

 

や給食費を無償化し、市民生活を支えた。沖縄県知事が設計変更を

 

不承認としたことで、移設工事の進捗は見通せない。それでも、

 

工事は止まらないという諦めが広がった。ならば目の前の暮らし

 

を楽にしたい。ーー当たり前の市民感情が「沈黙」を選択した。

 

コロナ禍の不況も後押しした。

 

沖縄の基地負担をいかに減らすのか。日本にとっての重要課題が、

 

沖縄が基地を受け入れるか否かの問題に変わっている。

 

「沈黙」しているのは誰なのか。基地の在り方を問われるべきは

 

全国の私たちではないか。名護が問うている。

 

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🦊:『憲法綱引き』はまだ終わってはいないが、もう決着は付いて

 

いる。勝者はアメリカ政府であり、敗者は沖縄を含む全国の日本人

 

だ。半植民地沖縄を引きずったまま、アメリカは新たな冷戦に

 

乗り出している。日本政府は「同盟国」という銘柄の鎖に自分自身を

 

縛り付け、アメリカの友情を自慢にしているように見える。

 

 

アメリカはもはや、どこかの国を「護る」だけの圧倒的戦力を独占

 

しているわけだはなさそうだし、「民主主義の旗頭、護教の戦士」と

 

いうには些かお粗末な「金持ち民主」の実態をみんなに知られて

 

しまった。考えてみれば、気の毒なアフガニスタンは、大昔から

 

ユーラシア大陸のど真ん中で、交通の要衝、各国から狙われる

 

存在だった。それと比べて、アメリカ大陸はだだっ広い島国と言っても

 

良い。熊や鹿や野生の七面鳥が暮らしていた。そこへいろんな経歴の

 

人間がなだれ込んできて、結局「民主の国アメリカ」を立ち上げたが、

 

その憲法制定の時期に、ある国会議員が言ったそうだ。「アメリカに

 

民主主義なんて無理だ。連中は根っからの商人だ。金が第一なのさ」と。

 

また、例のトランプ支持者の大衆は、我々に、体の大きな田舎者という

 

印象を与えた。理屈抜きで群れている彼らの理想はグレート・アメリカ。

 

それを可能にする金満国アメリカ。

 

もちろんジャーナリズムの一角に素晴らしい勇気ある人々がいて、

 

自国の行く末に警鐘を慣らしているし、日本についても真の意味での

 

独立を目指せと忠告をしてくれているのだが。

 

 

日本政府のスタンスというものは、名護市長のスタンスとそっくりだ。

 

つまり「賛否を詳らかにしない」態度、例えば「護憲」と言いながら、

 

改憲の綱引きでは、敵側=つまり憲法を押し付けながらそのミスを後悔

 

している側について、綱を反対方向へ引っ張る。また、原爆の悲惨を世界に

 

知らしめる活動をしているとかいうが、肝心の核廃絶には反対する。

 

なぜなら、御主人の気に入らない発言をして、愛想尽かしをされては

 

困るから。囲われ者じゃあるまいし。

 

記者の言う『基地の在り方を問われているのは、日本全国の私たち

 

ではないのか』は、重い問いかけだ。

 

米軍基地を日本から追い出そう!と言ったら、「日本の護り本尊

 

アメリカを追い出そうなんて、馬鹿野郎!」と、日本全国から

 

クレームが殺到することだろうな。それも、「内心で思ってることを

 

あからさまに言ってはならん」という慎ましい人が半分かな。

 

日本政府同様に。

 

キツネの巣穴のある辺りは、長年厚木米軍基地から飛び立つ輸送機

 

の轟音に悩まされてきた。市民と市長の、粘り強い働きかけにより、

 

2018年に基地が岩国に移転して、空はすっかり静かになり、住民も

 

そのことを忘れ去っている。うちの近所のことでなければどうでも良い、

 

では、沖縄の人々はいつまで経っても救われないでしょう。

 

 

 

 

 

2022   1

 

ドローンの飛行禁止法 (防衛省ホームページによる)

2021年から、国の重要施設その他、法律で定める区域における

ドローンの飛行を禁止する法律が施行され、その区域でドローンを

飛ばすには関係官庁の同意申請書を提出しなければならない。

 

在日米軍の場合には、飛行予定日の30日前までに、対象防衛関係

施設の管理者に申請を行う必要ありと言う。

自衛隊の厚木海軍飛行場もそれに含まれており、「うるさくない」

兵器が上空を飛び回ることになるだろう。すでに米軍は、ドローン

兵器の日本への持ち込みを予定しているらしい。

と言うことは、厚木基地は他の国のドローンの標的でもあり、だから

誤爆もあり、米軍機の整備不良や操縦ミスによる墜落もあり、

『積荷』による被害もあるだろう。その時に、日本の警察は

例によって手も足も出せないのだろうか?その辺はホームページ

には書いてない。

 

米軍が目の敵にしている中国が、南太平洋海域で同様のことを

やれば、それは『悪』であり、米軍がやれば『善』である。

と、これは日本政府の言いそうなことだ。

不戦の誓いはすでに反故同然だ。