アカマンマ
12月の土手で元気に咲いている
草の姿が美しい。
ハキダメギク
菊といってもハキダメギクは地面を這い回って増える。
12月1日 ひだまりの斜面で。
東條英樹と天皇の時代
1980年 伝統と現代社 発行
著者 保阪正康
「東條英樹と天皇の時代」より抜粋
(第1章「忠実なる信奉者」に記された東條の生い立ち、経歴は省略)赤字は
キツネの書き込み
ーー中国戦線ーー
<<中国との戦争に、長期的にはどのような決着をつけるか、
このところ陸軍省と参謀本部は議論を重ねていた。(参謀本部の
消極策、「日中戦争三段階論=第一期作戦休止、第二期大軍事作戦
展開、第三期対ソ対支戦争に備えて軍事力増強」に対し、結局
(陸軍省の積極策が通り)陸軍省から転身した参謀本部作戦課長の
起案した早期作戦計画に基づいて中国作戦を展開することになった。
昭和13年3月、徐州、漢口、広東と作戦行動は一段と中国の奥深く
入った。>>
<<日本軍は中国軍を求めて奥地に入った。しかし総退却作戦の中国軍
を殲滅することはできなかった。5月19日、徐州全域を占領。だが
それは戦闘に勝って戦争に負ける一里塚でしかなかった。>>
<<このころ毛沢東は、つぎのように言っていたのだ。「中国の
国土は膨大である。たとえ日本が中国の人口1億ないし2億を占める
地域を占領しても、われわれはまだ日本と戦争するだけの大きな力を
残しており、日本は全戦争期間を通じて、つねに、その背後で防御戦
を行わなければならない。中国経済の不統一、不均衡は、抗日戦争に
とってはかえって有利である」。結果はまさにその通りになった。>>
(キツネ注:中国は広く、民間に流通する銅銭の種類も何百とあり、
また「民衆も外国の銀行も自由にそれを保存し、処分することが出来る
銀こそは、政府から独立した民衆(全国統一通貨は無かった)の手中に
ある最も安全な通貨である。・・銀通貨は民衆の約束あるいは黙約に
よって流通するものであるために・・」(島崎久彌"円の侵略史"より)
中国人から銀銭を回収して、金本位の円通貨を流通させるなどの
「経済侵略」は、中国では成功しなかった)
ーー関東軍参謀長・東條英樹ーー
<<関東軍参謀長室の壁には中国地図が掲げてあった。ここに
日本軍の進出を示す日章旗が乱舞した。三月下旬、漢口陥落、
南京には中華民国維新政府樹立、日章旗は一段と地図上に輝いた。
参謀長室に、週一回、満州国総務長官星野直樹や、関東局、
大使館、満鉄などの幹部が集まり、東條の戦況報告を聞いた。
「わが皇軍は目下破竹の進撃を続け、こうしてお話している間にも
わが皇軍兵士は前線で戦っているのであります」ーー東條は
その言葉が気に入ってしばしば繰り返した。
満州国を牛耳っている日本人官僚は、星野直樹を筆頭に関東軍と
二人三脚を組んでいた。知と武を組み合わせての巧妙な植民地
政策だった。
2月には満州国議会で国家総動員法を制定した。経済、産業、
教育は戦時体制に再編成するというこの法案は、満州開発5ヶ年
計画も手直しして、日本の戦時体制への資源供給を眼目とする
と謳い、鉄、石炭などの迅速な生産拡大をねらっていた。
そのための満州国重工業開発会社が設立された。官僚たちの
思うがままの満州であった。>>
<<国家総動員法は(日本の)議会で総反撃を受け、「これほどの
権限が政府の命令で行えるというのは憲法違反ではないか」と、
政友会も民政党も反対していた。国防目的を達成するために、
国内の人的物的資源を統制するとして、被服、食料、医療品から
航空機、車両、そして燃料、さらに通信、教育、情報、国民徴用、
経営、新聞から労働条件にまで統制が及ぶと謳い、違反すれば
重罰を加えるというのでは、議会人は容易に認めることができ
なかった。法案の運用によっては、実質的に戒厳令にもなると
批判した。戦争を国是とし、軍人を選民とする乱暴な法案だった。>>
<<陸軍は強力にこの法案の成立に動き、・・・結局、法律の運用を
憲法の範囲内で・・と近衛首相は約束して、やっと議会を通過し、
4月1日から交布された。
「これで日満一体の体制ができた」
法案成立を知った東條は、心を許した参謀達、田中隆吉、辻政信、
服部卓四郎、富永恭次を食卓に呼び、日満共同防衛の徹底充実で
時局の要請に答えなければならぬと言い、「速やかな支那殲滅」
を訴えた。>>
<<「関東軍の武勲は東條参謀長の力だ」
そういう声が軍内に満ちていくと、東條は自らの作戦を自慢気に
解説した。「とにかく恐れずに突撃していくこと、そうすれば
敵も気迫にのまれる。こちらが四分六分で不利だと思ったときは
五分五分で、五分五分だと思ったときは六分四分で、こちらに分
がある。軍中央での評価をあげたチャハル作戦には、実は隠された
ドラマがあった。(中略)
張河口での戦闘で、中国兵を包囲する東條旅団数千名は無勢だった。
ふつうの指揮官ならもうすこし旅団数を増やすか、あるいは
傷のつかぬ方法で収拾を命じるはずだった。東條もむろんそれを
考えた。そこでこの一帯の守備にあたっている支隊に出撃の命令を
下した。だがその支隊は動かなかった。支隊を指揮する将校は、
かつて尉官時代に東條とともに働いたことがある。彼にとっては
東條は虫の好かぬタイプであり、この作戦にも東條自身の功名の
ために兵隊を犠牲にする危険性があると考えた。攻撃に加わるだけの
戦備が整っていない、援軍に行く途中に中国兵の強力な部隊がある、
それを表向きの理由として、その将校は東條の命令を拒否した。
(東條は将校を難詰したが、その理由を持ち出されると、反論できず、
その将校を怒りにまかせて見せしめと称して前線に追いやった)
そういう非情さが、東條の性格の一部であるのを知って、改めて
彼を恐れる空気が、わずかずつだが醸成された。(中略)
半面、兵隊に接する時の東條は、慈愛に満ちた上官として慕われた。
それは利害関係のからまぬ関係だからとも言えた。戦場の強姦、略奪は、
当の兵隊と上官が罰せられた。(中略)
東條兵団の進撃が電撃的であったために、後方の補給がついていけず、
粟飯ばかりが続いた。しかし東條もまた兵隊とともに、そういう
食事を続けた。本来当たり前のことなのに、日本陸軍では部下思いの
参謀長として語られた。もし東條が師団長か参謀長で軍籍を離れた
ならば、これらはすべてかれの人間性を語り継ぐ挿話として残り、
名中将の根拠たりうる事実になるはずだった。
ーー東條英樹、陸軍次官に、そして陸軍大臣として指名される。ーー
<<天皇は陸軍と杉山陸相に、不審の気持ちを強く持っていた。
満州事変以来の相次ぐ大権(統帥権)干犯という陸軍の体質を信用
しなかったのと、上奏内容の不備を質されると口ごもり、しかも
日中戦争は2~3ヶ月で片付けると言いながら、一向に解決の方向を
上奏しない杉山の態度に不満だったのだ。>>
(天皇の意志を受けて近衛が想定した次期陸相は、板垣征四郎だった。
これに対し、杉山と梅津は「省の方針(強硬策)を忠実に守り抜く
人物を次官に据えて板垣を牽制しなければならぬ」として、東條を
推薦した。)
<<「東條というのはどういう軍人か」
東條を知らなかった近衛首相は、様々なルートで人物を探った。
「真面目で実直な男だ。軍紀を尊ぶ平凡な軍人。板垣のような
ヌーボーとした男には、緻密で事務処理にたけているああいう男が
いいだろう」そういう評判だけが届いた。(中略)梅津の真意が、
軍内強硬派、日中戦争早期殲滅派の総意を代表する人物として
推してきた背景を見抜く眼は近衛にはなかった。
こうして、近衛と東條ーーふたりの男の出会いは、錯誤からはじまった
のである。>>
<<足繁くソ連との国境視察に出かけている東條に、陸軍次官就任が
伝えられたとき、かれの表情は一瞬曇った。「俺たちは水商売の教育は
受けていない。陸軍士官学校以来、戦争以外は教わっていない」
"水商売"とは、政治家の世界を指す言葉だった。軍人は決戦を尊び、
あとは猛進し、それを達成するだけだ。ところが政治の世界はどうか。
人気とり、迎合、妥協、そんなふやけた世界は男の生きる世界か。
それは水商売ではないか。「だが命令とあれば仕方ないな」
東條のためにひと言弁護しておけば、彼は金銭には淡白だった。(中略)
参謀長の中には、御用ジャーナリストや浪人に機密費をばらまいて、
"私兵化"し、裏側にも権力構造をつくった者もいるが、東條は、そういう
方面にはあまり流用しなかったという。
この時、東條には関東軍から6千万円の機密費が出ていたし、陸軍省からも
年間2千万円が届いていた。8千万円という莫大な機密費のほとんどは
手つかずだった。甘糟を通じて、協和会の中に親関東軍の人脈をつくる
ため機密費が流れたのと、中国人の情報屋にわたされただけだという。>>
(東條は陸相板垣の下で陸軍次官を勤めるうちに、東條を支える司令官や
参謀の強硬発言が近衛と軍部の対立を激化させ、昭和13年末軍需工場への
民間資本導入案件についての発言をきっかけとして「次官が経済政策にまで
くちばしを入れる権限はない」として東條は陸軍航空本部長に移された。
板垣の事務能力欠如、閣議で立場を豹変させる「ぼんくら」ぶりが取り沙汰
されるようになり、近衛は自らの指導力が陸軍には通じないのを嫌気して、
辞職した)
<<昭和14年、(陸軍としては圧力をかけやすい)阿部信行内閣が成立したが、
昭和15年1月、阿部内閣が倒れ、代わって米内光政内閣が誕生>>
<<昭和15年、米内内閣誕生から10日後、日米通商航海条約が失効した。
日中戦争に不快を示すアメリカからの痛撃だった。これによって、日本の
生命が揺らぐのは、政治の中枢にいる者なら誰でも知っていた。くず鉄禁輸
は日本の鉄鋼業に打撃を与えるし、石油が止められれば日本は動けなくなる。
アメリカ批判は一気に高まり、陸軍と陸軍派議員はこれを巧みに米内批判に
からませた.
(支那事変を解決させ、国力を立て直さなければ、日本は国際的にも軍事的
にも孤立するとの恐れが、陸軍の中にも起こってきて、参謀本部の将校の中
にも、中国から兵力撤退をはかり、85万人から50万人に、数年後には30万人
に縮小しようと訴える将校もいた。だが直進するだけの陸軍内部にあって、
そういう将校の声は無視された。威勢のいい強硬論を吐いていれば左遷され
ることはない・・ゴリ押しは国内だけでなく、中国との政治工作にもあった。
重慶を脱出した汪精衛に、新政府樹立のための要求をつきつけたが、その要求
に汪は驚き返事を渋った。この新政権で政治顧問を約束されている日本陸軍
の将校には、「傀儡政府の指導者にしてやる」式の考え方があったからだ。
昭和15年の春、日本は国内でも国外でも、相手の立場を認めぬ強硬論だけが
勝利をおさめる悲しい国に変貌していた。>>
<<昭和15年5月から6月にかけて、日本を覆っていた重い雲が一掃された。
前年9月に1週間でポーランドを消滅させたドイツ軍は、この年4月に
デンマーク、ノルウエーを席巻し、5月に入ってからはベルギー、オランダに
攻撃をかけ、ついで英仏軍をダンケルクに追い詰め、5月14日にはパリを
占領した。日本全体に興奮が沸いた。英米中心の世界秩序は崩壊寸前に
あり、世界の歴史は現状固定から現状打破へ進んでいるという主張は、
ドイツ軍の進撃の前に説得力をもった。勢い込んで東亜新秩序や東亜ブロック
の構想が語られた。
対独提携を唱える陸軍省軍務局の将校たちは、この情勢を見て、「支那事変
完遂」のスローガンを「南進」へと変えた。そして支那事変完遂を妨害する
のは蒋介石を支える英米の北部インドネシアとビルマの補給ルートがある
からだといい、アジアの英仏の植民地にアメリカがとってかわると脅かし
つづけた。それは東亜新秩序の有力な裏付けとなった。
こうした声に刺激され、新党運動と国民運動再編成の機運が盛り上がって
きた。めまぐるしく代わる内閣ーー実は陸軍が陰で糸をひいているのだがーー
にかわり挙国一致体制が必要だとの声が高まり、戦時経済を確立し、国内
政治には挙国一致内閣が必要となった。(中略)>>
(1年半前に辞職した近衛は、再び首相の座につく決意を固めていた)
呼応するかのように、陸軍省の将校たちは陸相の畑に辞表を提出せよと
せまった。(畑の辞任のあとにわざと後任陸相を推薦しない。そうすれば
米内内閣は倒れる。陸軍大臣現役武官制が威力を発揮するのだ)
<<昭和15年7月、近衛は第二次近衛内閣を組閣する。(陸軍省内部の将校
たちは一致して東條を次期陸相として推薦した。「海軍、宮中、議会の
陸軍批判に抗しきれる個性の強い人物」という点で見込まれたのだ)
陸相東條英樹が省内に行った大臣訓示は、異例の内容だった。「政治的
発言は陸軍大臣だけが行い、いかなる将校の発言も許さぬ」というのである。
・・鷹揚に構えることの多かった陸軍大臣の中で、神経質さが目立つ軍人の
登場と受け止められたのである。だが神経質さだけでなく、まもなく大胆な
こともやってのけた。政治発言をする者を許さぬと約束したのを逆手にとって、
政治発言をしがちなタイプを人事移動で省部から追い払った。ある将校が、
東條の執務室に入ったとき、組織図を広げて人事を楽しそうに動かしている
のを目撃したが、これが「こんどの大臣は人事をいじるのを面白がっている」
という評判となって広がった。
(近衛は連日閣議を開き)7月26日に「基本国策要綱」を採択したがーー
すなわち、ここに支那事変完遂、南方武力進出を明確化したのである。
(中略)
ふたつの国策が決まったあと、東條は新聞記者に威勢よく答えた。
国策を決めたのは心強い。あとはこれを忠実に実行すること、それが
自分に課せられた任務だと思う」(中略)
新聞での東條の表情は謹厳だったから、そのことばは国民に厚い信頼感を
点火することとなった。いや国民だけではなかった。省部の将校や250万の
陸軍軍人にも、頼もしい大臣と評された。>>
<<昭和15年11月、東條は陸軍省戦備課長岡田菊三郎を呼んで日米戦力比の
資料を作るよう命じた。「帝国の物的国力は、対英米長期戦の遂行に対し
不安あるを免れない」ではじまる報告書は、対英米戦争後3年目から物量が
減少し、船舶問題は重大化、石炭搬出の減少で全生産がマヒ、軽工業資源の
窮迫が予想されるとあった。すべてに絶望的な数字が並んでいた。「これは
数字だけであり、皇軍の士気、規律を考えればいちがいに敗戦というわけ
ではありません」岡田は渋い表情の東條に付け加えた。
「むろんその通りだ。アメリカには国の芯がない。それに比べれば帝国には
三千年に及ぶ国体がある」東條は、この報告書を省部の上層部にしか知らせ
なかった。戦力比だけを見て、政策の決定を躊躇するのを恐れたのである。
部課長会議では、岡田の口から戦力比には差があるとしても、戦場が太平洋
であり、補給、日本軍の士気、戦闘力、作戦を個別に検討すると、日本軍が
優勢だから十分互角に戦えるだろうという楽観的な内容が伝達された。
ーー東條のアメリカ観は徐々に戦力軽視の方向にむかいはじめた。やはり
耳障りのいいことばに、かれの考えも傾いていくのであった。>>
<<昭和16年に入っての省部での東條の訓示は「本年こそ非常時中の非常時」
という意気込んだものであった。この年に国策転換をして支那事変完遂を
期するというのであった。1月8日には陸軍大臣東條英樹名で、「戦陣訓」を
発表した。ところがこの戦陣訓に、京都師団司令部付の石原莞爾がかみついた。
「師団将兵はこんなもの読むべからず」とはねつけたのである。「東條は
己れを何と心得てるのか。成りあがりの中将ではないか。それが上元帥の
宮殿下をはじめ、総指令官以下に対して精神教育の訓戒をなすとは、
天皇統率の本義を蹂躙したふとどき極まる奴である」
石原がいっこうに戦陣訓批判をやめず、「東條は統率権侵犯だ」と公言
するに至ると、東條は強引に「石原を予備役編入にせよ」と命じた。
昭和16年3月、石原は予備役に編入された。軍内の将校に、自らの
思うとおりに何でもやりかねない陸相として理解されることとなった。
明らかに東條は、政治的敗北を喫したのである。(中略)
つけ加える。石原莞爾の他に東條が嫌った軍人、多田駿、山下奉文、
西尾鋳造、谷寿夫、酒井縞次らには、(軍人であり、英樹とはそりの合わない
父)東條英教に通じる非政治的軍人の原型がある。一方、東條の側には、
帝国陸軍の陽のあたる道を歩いてきた長閥系軍人の悪しき政治主義がある。
昭和15年12月、16年1月、3月の人事で、東條は露骨に省部の要職に側近を
もってきた。(役職上やむをえず石原を予備役に追った阿南は、自ら東條の
元をはなれて第十一軍司令官に転じた。東條に愛想づかしをしたのだ)
憲兵隊を直轄する兵務局長に田中隆吉、人事部長には富永恭次を据え、憲兵と
人事を、東條の視線を凝視できぬ茶坊主で埋めた。軍内と軍外の政治折衝、
それに政策決定の要職である軍務局にも、息のかかった将校を送り込んだ。
これでやっと東條が自立できる人脈図が出来上がったのである。
ーー東條内閣誕生ーー(1941年10月から1944年7月まで)
(昭和16年、第三次近衛内閣が総辞職し、後任の首相として東條が就任した。
これは内大臣木戸の独断により、戦争の回避を望む"聖意"を実行する人材
として天皇に推挙され、承認されたものという。これは東條にとって予期
せぬことであったらしい:🦊キツネ注)
(昭和16年12月8日、午前7時に真珠湾急襲成功のニュースが入った)
<<このニュースを聞くと、東條はすぐに軍服に着替え、枢密院会議に出席
するために宮中にかけつけた。対英米蘭に宣戦布告すべきかどうかが議題
であった。戦線布告すべきでないと主張する閣僚や顧問官に、東條は
「すぐにでも布告すべきである。開戦時期の詳細な点は問題にすべきでない。
米英の帝国を圧迫する態度を広く世界に示さなければならぬ」と主張して、
宣戦布告することにより日本側に責任転嫁されるのではないかというみなの
懸念を押さえた。(中略)
東條には、この日は生涯の最良の日であった。輝かしい戦果、そして国民の
熱狂的な歓呼。しかも枢密院顧問官や閣僚の反対を押し切って、正々堂々と
宣戦布告をしての戦争と、なにからなにまで彼の思うとおりに進んでいるのだ。
(中略)
だが東條の知らない一面で、彼のもっとも嫌いな形容句"だまし討ちの張本人"
として、アメリカ国民の憤激がこの日から東條に向けられているのを、彼自身は
知らなかった。(この時点で彼はまだ参謀総長ではない。従ってだまし討ちの
張本人ではないとも言える:🦊)
アメリカの巧妙なアリバイ作り、その一方での駐米日本大使館の外交上の
不手際。そのことを抜きに、この戦争を語ることは出来ない。まさにこの
二つの出来事こそ、太平洋戦争の方向を形作る象徴的な事実であったのだ。>>
<<(昭和17年)日本軍の間断ない進撃が続いた。ジャワでオランダ軍が無条件
降伏、ビルマ戦線からも英国軍を追い払った。真珠湾の奇襲により、制空、
制海権を握った日本軍は、地上軍との連携作戦で予想外の戦果をあげたので
ある。
4、5日に一度開かれる大本営政府運営連絡会議での統帥部の鼻息は荒く、
占領地にどのような行政を行うか、今後戦局をどうするか議論は浮ついた。
そして3月2日の連絡会議では「帝国資源圈は、日満支および西太平洋地域とし、
インドはこれが補給圈たらしむる」と言う案が採択され、当初の予想より
ふくれて、豪州まで日本の補給圈とした。
作戦の第一段階は、円滑な戦争遂行と、自存のために必要な油、米、鉄、石炭
などを南方から徴用する。そのため必要地域の制圧を4、5ヶ月で完了する。
ついで第二段階として、これらの地域に防衛線をひき、ラバウル、ソロモン、
ニューギニアへと進む。
第一段階から第二段階へは、アメリカの戦時体制強化を分析しながら移行する
となっていたが・・・国内の戦勝気分や新聞、ラジオの派手な報道に幻惑され、
指導者自身が勝利を既定のこととして議論を交していったのである。
そうしたことは、占領地に名称を付ける委員会が書記長の星野直樹を中心に
して設けられ、シンガポールを昭南、ニューギニアを新大和と改名すると
いった愚行となって現れた。
(参謀本部の将校は)アメリカの戦力分析において、甘い面をもっていた。
3月7日の連絡会議で、アメリカの戦力はかなりのスピードで上昇するだろう
といいいつつも、十項目の欠点をあげて、有効な戦略は組み立てられない
だろうと指摘した。その十項目には、人的資源の低下、戦勝の可能性の無い
ときには士気が衰退するなど、極めて抽象的な条件が指摘されていたが、
第十項にはーー戦況の悪化は米国民を悲嘆のどん底に追い込み、いまや
ルーズベルトもチャーチルも国民の信を失っているはずだ、それこそ国家統合
のシンボルを持たない自由主義国家の欠陥だ。ーーそういう願望とも期待
とも言える考えに取り付かれていたのだった。(中略)
連絡会議は「戦争指導の大綱」を決めた・・・つまり支配地域を日本の領有
とし、それを守り抜くというのであり、その圈内は第一段階の成功ですでに
大きく広がっているので、それを維持するために、膨大な人材と物資を必要
とするというのである。
そこに指導者と軍人たちの思い上がった性格と判断があった。
(戦況好転によって余裕の出来た東條は、国内を回って民情視察を行った。
戦争協力を呼びかけ、国内体制を固め、翼賛選挙の根回しという意味も
あった。)(中略)
内情視察に出かけるとき、かれはそこに次の考えを置いた。
「天皇親政の帝国にあっては、誰もが天皇に上奏できるわけではない。
私は赤子の代表として、天皇のお考えをすべての国民一人ひとりに
伝えるのが役目なのだ」
自らが天皇の意志の表現体だという抜き難い信念が彼に定着した。
それはいつか「自分に抗することは天皇への大逆である」という考えに
成長するのが眼に見えていた。(中略)
第78戦時議会に提案した「言論出版集会結社等臨時取締法」は、戦争遂行
のため一切の権限を政府が握るというもので、衆議院特別委員会で審議
された。議員の質問は、この法律をやむなしとしつつも、いうところの
「戦時下でない状況とは、具体的にはどういうことか」という質問が、
東條に向けられた。すると東條はいささかの躊躇もなく、平然と「平和回復、
それが戦争の終わりである」と答えたのである。「そうした説明ではなく、
法制的にはどういうことかと聞いているのです」「それは戦争の必要が無く
なった時です」(東條は法制的の意味がわからず、「戦争でないとき、平和
になったとき」と繰り返すことに終始した)>>
(昭和17年から19年にかけて、駆逐艦、潜水艦、輸送機、上陸用舟艇輸送船
の生産が飛躍的に増えた。)
人力と資源と時間のすべてが軍需生産に向けられた。日常生活は極端に悪化
した。あえて言うなら、国民の中に、戦争とはこれほど苦しいものでは
なかったはずだという思いが沸いてきたのである。「東洋経済新報」論説
委員石橋堪山はいみじくも、「・・・戦争に対する我が国民の認識は、
日露戦争時代のままに止まった。彼らは只だ当局を信頼し、その為す所に
まかせておけば、やがて日本海の敵艦隊殲滅戦は再現し、大東亜戦争は容易
に我が大勝利の下に終局するものと、容易に考えた」と書いたが、満州事変、
日中戦争と続く間に、戦火は自らの生活の周囲にこれほどの影響を与える
とは思わなかった。
ドイツやアメリカでは軍需生産ばかりでなく、適当に贅沢品の生産をつづけて
国民の消費意欲を満足させたが、日本の指導者は耐乏を訴えるだけで、
ひたすら軍需生産のみに熱をいれた。だから熱がひとたび冷えると、抗戦
意欲は急速に失われてしまうのであった。>>
ーーー陸相と参謀総長の兼任ーーー
<<昭和19年2月21日、東條は参謀総長に就いた。(この件については、著者も
十分な証拠を得てはいないので、ただ東條と腹心の軍務局長佐藤賢了によって
仕組まれ、天皇に上奏され、「憲法に触れぬか」との天皇の疑問には、「政治
と統帥とを明確に区別して任に当たるなどと説得し、お墨付きを得た、「虚偽
と詐術に満ちたクーデターだった」と推測している:🦊)
「人格を二分して考える。陸相が参謀総長を兼任するのではなく、東條英樹が
兼任しているのだ」彼は就任に当たってそのように自らを戒めた。はじめのうち、
参謀本部に入るときは軍服に参謀肩章をつけ、陸軍省では軍服を着替えた。・・
海軍もこれにならい、嶋田が軍令部長を兼ねた。だが海軍内部には国務と統帥
の合体への反発が強く、それは東條に盲従する嶋田への批判となった。
「統帥権の独立を犯す」「あれもこれも兼任して仕事が出来るわけがない」
「独裁熱に憑かれている」「東條幕府の時代だ」ーー東條を謗る言葉は
陸軍内部にも乱舞した。東條はそういう評判を気にして、一層憲兵を動かした。
陸軍省内部でさえ憲兵が闊歩したし、東條に練言に来た代議士がその帰りに
身柄を拘束されることさえあった。こうしたことで、東條の不人気はいっそう
広まった。
国民の間でも東條の評判が悪くなった。(中略)
1月からは学徒動員は年に4ヶ月が義務付けされた。3月になって大劇場、料亭
が閉鎖を求められた。貯蓄が奨励された。14歳から15歳までの
未婚婦人も軍需工場に動員された。大政翼賛会傘下の隣組制度が国家の
すみずみまでいきわたり、相互監視は一層強まった。国家の意志に反する
考えを持っている人物には、この国の制度は「奴隷制度」と変わりはなかった。>>
ーーあ号作戦失敗と東條の退陣ーー
(昭和18年、陸軍、海軍の共同作戦「あ号作戦」を開始した。その直前に、
アメリカ艦隊がサイパン、グァム、テニアンの日本軍飛行場を攻撃し、
不意をつかれた日本軍は地上での航空機のほとんどを失った🦊)
<<6月17日、豊田副武連合艦隊司令官は、小沢治三郎率いる機動部隊に
「あ号」作戦の発動を命じた。
小沢の機動部隊はサイパンへ向かった。それぞれ一隻の軽空母を含む三群の
輪型陣の前衛部隊が進み、その背後を三隻の空母を中心とする二群の輪型陣
の主力部隊が進んだ。しかし、日本艦隊の東進はアメリカ軍の潜水艦に発見
され、アメリカ軍は空母機動軍を編成して、サイパン西方で小沢の部隊を
待ち受けていた。(東京の大本営では)東條も嶋田も、間もなくはじまる開戦
が日本の命運を決するのを知っていた。日本の艦載機と地上機の同時攻撃で
敵空母群を撃沈し、続いて戦艦と巡洋艦が敵輸送船団とその支援軍艦を
たたけば、サイパンの日本軍守備隊は上陸した敵軍を殲滅できるはずだった。
だがこの作戦に敗れたらどうなるのか。(中略)
(作戦の失敗の責任を取らされるかたちで、東條内閣は総辞職した。東條は、
秘書官たちとの最後の会食の席で、重臣と反東條系の将校達の陰謀を悔しがり、
涙を流した)
<<「サイパンを失ったくらいでは恐れはしない。まだまだ戦機は微妙だ。
それなのにあらゆる手をつかって内閣改造に努力したが、重臣の排斥にあって
やむなく退陣を決意した・・・」 (中略)
東條の時代は、今や完全に終わったと言えた。自ら作り上げた時代によって、
彼は露骨に復讐されはじめたのである。
無残な終焉といえた。が、彼はたしかに「大日本帝国」の最終走者としての
地位にあったのだ。それは彼が去ってから徐々に明らかになってきたのである。>>
ーーー東京裁判(極東国際軍事裁判)ー
(昭和21年5月から東京裁判が始まった)
<<(東條に対する尋問で)つぎのようなやりとりがあった。
(検事側)ーー天皇は暴力の使用、あるいは自己の意見を他に押し付けることを
しないように日頃から言っていたというが、この点はどうか。
東條ーー陛下のお考えの強いこと、そして事を行うのに協調、中庸を尊ばれる
ことはよく承知していた。
検事ーーでは大東亜建設に暴力を使用したというのは天皇の意志に反したでは
ないか。
東條ーーれわれは陛下の精神をよく理解し、これを体して政治にあたるべき
と考えていた。戦争は英米が帝国の生命を脅かしたから発したのだ。
本来、大東亜建設は暴力で行おうとするのではなかった。しかし
戦争開戦後は、戦争に勝つことを目標にした。それが東亜から英米
を追い出し、東亜の民族を幸福にすると思ったからだ。
・・・彼は天皇の権限を問われる質問が出されると、頑なに自らの
責任に引き戻した回答を続けた。(中略)・・彼はすでに気持ちの上
では諦観をもち、・・天皇に責任を持たせないように回答すること
それ自体に新たな陶酔をもち、それを「別な世界」への架け橋にして
いた。>> (中略)
< <検事ーー統帥権独立というのは国政の運用上の障害になるだろうとは、総理に
なる前は考えたことがなかったのか。
東條ーー総理になってみて国政全体の責任を負うようになってから痛感した。
それが第一点。もう一点は、私はもともと政治家ではなくて軍人で
あり、それゆえ軍人の立場で統帥権の独立を必要なものと考えてきた。
この点は今も変わりはない。ただしその調整については困難を感ずる
に及び三省すべき点を見出している。
そう答えたときの東條には、大日本帝国憲法がもっていた最大の欠陥"統帥権
独立"に対する苛立たしさがあったろう。巣鴨刑務所での東條の発言には、
しきりにこの発言が繰り返されていたからだ。>>
(中略)
(すべての尋問が終了し、戦犯収容所の中の28名に対して起訴状が手渡された)
<<「本起訴状の言及せる期間(昭和3年から20年までの18年間)において、日本の
起訴状は、28名の被告が軍閥そのものか、あるいは軍閥の共同謀議に加わった
者ばかりと決め付け、さらに55項目の訴因をあげて、各被告の責任によって
30項目から40項目で起訴するとあった。
東條は50項目で起訴されていた。(中略)つまり昭和12~13年のソ連、中国での
戦闘をのぞいて、すべての訴因が彼に抵触しているというのである。(中略)
起訴状に統帥部門の責任者が免責されているのは、大統領の名のもとに一切
の権限が集中しているアメリカの政治形態を、そのまま日本に当てはめてみて
いるからに違いなかった。しかも中堅幕僚が起訴された裏に、開戦時の陸軍
兵務局長田中隆吉を協力者としてかかえることに成功したキーナン(アメリカ人
検事)の作戦があった。田中は私怨がらみで、起訴名簿の作成に手を貸したので
ある。(中略)
半ば恫喝で田中を検察側証人に仕立てあげたキーナンは、田中を含めて日本人
指導者の無節操と無定見にあきれていた。彼らは疑心暗鬼になり、責任を
なすりあっているだけなのだ。キーナンは、田中を利用しつつも、彼に気を
許さなかったが、のちに述懐しているように、ふたりの被告だけは評価した。
「広田と東條、彼らふたりは徒らに弁明しない。つまり死を覚悟しているのだ。
しかも質問しないかぎり決して答えようとしない」ーー。このふたりを起訴状
どおりに裁けるかどうか。キーナンはいささか不安だったのである。(中略)
(マッカーサー元帥の意向を受けて、天皇に対する訴追を避けようとする
キーナン検事は、東條の証言が、戦争が天皇の意志であったことの証明として、
天皇の戦争責任を追求する各国検事団に利用されかねないことを憂慮して、
田中を利用し、また直接東條に説得を試みた。東條は、「天皇のご意志に
背くものは日本人の中には誰一人として居ない」という自分の主張が、なぜ
天皇有罪を証明することになるのか、わからなかったが、最後に折れたもの
と思われる:🦊)
キーナン検事ーーさて1941年すなわち昭和16年の12月当時において、戦争を
遂行するという問題に関しまして、日本天皇の立場およびあなた
自身の立場の問題、この二人の立場の関係の問題、あはたはすでに
法廷に対して、日本天皇は平和を愛する人であるということを
前もってあなた方に知らしめてあったということを申しました。
これは正しいですね。
東條ーーもちろん正しいです。
キーナン検事ーーそしてまたさらに2~3日前にあなたは、日本臣民たるもの
は、天皇の命令に従わないというようなことを考えるものはない
ということを言いましたが、それも正しいですね。
東條ーーそれは私の国民としての感情を申し上げておったのです。責任問題
とは別の問題。
キーナン検事ーーしかしあなたは実際合衆国、英国およびオランダに対して
戦争をしたのではありませんか。
東條ーー私の内閣において戦争を決意しました。
キーナン検事ーーその戦争を行わなければならないというのは・・行なえと
いうのは、裕仁天皇の意志でありましたか。
東條ーー意志と反したかは知れませんが、とにかく私の進言・・統帥部その他
責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実
でしょう。しかして平和の御愛好の御精神は、最後の一瞬に至る
まで陛下はご希望をもっておられました。なお戦争になってからに
おいてもしかりです。そのご意志の明確になっておりますのは、
昭和16年12月の御詔勅の中に、明確にその文句が付け加えられて
おります。しかもそれは陛下の御希望によって、政府の責任に
おいて入れた言葉です。それはまことにやむを得ざるものなり、
朕の意志にあらざるなりというふうな御意味の御言葉があります。
(中略)
ウエッブ裁判長ーー証人以外の何人が天皇に対し、米国並びに英国に対し宣戦
するようにということを進言したか・・
東條ーー・・・日本が開戦に決定したのは、連絡会議、御前会議ならびに
重臣会議、軍事参議官会議で慎重審議した結果、自衛上やむを得ず
戦争をしなければならぬ、こういう結論に達したのである。
そこで最後の決定について、陛下に直接お目にかかって申し上げた
のは私と両総長であった。私と両総長は、日本の自存を全うする
ため、平たくいうならば、生きるためにはもう戦争しか道はあり
ませんということを申し上げた。しかして御嘉納をいただいたの
です。・・・
ウエッブはそれ以上追求しなかった。天皇を法廷に引き出すのは不可能と
知ったからである。>>
<<東條英樹が一軍人として生きたならば、彼はアッツ島で、ガダルカナル島で、
サイパン島で、硫黄島で、沖縄で、広島・長崎で、そして本土決戦で死んで
いった500万人の一人として死を迎えるはずだった。あるいは彼自身もそれを
希望していただろう。だが結局、彼は処刑まで待たなければならなかった。
軍人であり政治家であったがゆえの当然の帰結であった。それは東條にとって
も不幸なことであったが、東條を指導者として仰いだ国民にとっては、それ
以上に不幸な事態だったといえる。
昭和23年12月23日午前零時1分、東條は65歳の生を閉じた。しかし、いつの日か、
"東條英樹"はもういちど死ぬであろう。彼に象徴される時代とその理念が
次代によってのりこえられるときこそ、"彼"はほんとうに死ぬのだ。>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
キツネの読書感想文
著者がこの本の最後に記した言葉をそのまま引かせていただく。
<<東條英樹をねんごろに葬るのは、つまり功罪をつきつけて葬るのは
次代の者に与えられた権利と義務である。しかし、それがいつか、そのために
どれほどの時間を要するのか・・・むろん私にも確かめるこができないし、
それは私の時代でもありえないだろう。>>
また、本書のまえがきに、次の文を掲げている。
<<昭和20年代、私は小学校、中学校教育を受けたのだが、そのとき「東條英樹」
は前時代を否定する象徴として、私の目の前にあった。学校教育でそうであった
だけでない。当時の社会情勢においても、東條はそのような位置づけをされて
いたと思う。正直に告白すれば、私の潜在心理には嘔吐感の伴った人物として、
「東條英樹」が存在しているのを隠そうとは思わない。いやそれは、私の前後
の世代に共通のものではないかとも思う。
しかし、日本近代史に関心をもち、多くの資料、文献を読み、当時の関係者の
話を聞くにつれ、実は、東條英機をこうした生理的感覚の範疇に止めておくの
は、戦後日本の政治状況の本質的な局面や、そこから生じる課題を隠蔽して
おくための効果的な手段ではなかったかと、私は考えるようになった。
東條英樹と陸軍中枢をスケープゴートにすることによって、極東国際軍事裁判
の論理は一貫しているし、その判決文の断面は戦後民主主義の土台をもなして
きた。私は、民主主義のイデーが現実の社会から乖離していくのを自覚する
たびに、極東国際軍事裁判と連結した戦後民主主義の詐術と作為と、そして
その脆弱さをはっきりと意識するようになった。(中略)
ひるがえってここから、私はふたつの問題をひきだしてきた。
ひとつは、東條英機と陸軍中枢だけが、昭和全史における全き否定的存在
なのか否かという問題である。それともうひとつは、東條英樹の指導者と
しての資質や性向を、たくみに近代の政治、軍事形態の負の側面に重ね
合わせることによって、問題の本質が歪曲されていないかという点である。
東條英機を悪罵する論者も、肯定の側に立つ論者も、意図的と思われるほど、
しばしば論理が類似しているのは驚くべきことだ。そのことは、近代日本の
政治、軍事形態が、制度的に明確さを欠いていたことをものがたっている。
統帥権という、だれも理解しえない魔物の存在などその例だ。
具体的に言えば、昭和19年2月に、東條が首相・陸相のほかに参謀総長を
兼ねた状況は、「東條が権力欲に憑かれて独裁体制を布いた」という面と、
「大日本帝国憲法を現実的に運用して、東條は国務と統帥の一体化を
はかった」という側面の、二つの論で比較できる。
実際このふたつの論は、基本的には異なっているのに、論理構造だけは表裏の
ように類似しているのである。
東條英機をとにかく一度解剖する必要を感じるのは、この段階に止まって
いてはいけないと思うからだ。>>
>>>>>>>>>>>>
キツネ:たしかに東京裁判はアメリカの、アメリカによる、アメリカのため
の裁判であったかもしれないが、GHQの残した大きな贈り物として、新しい
日本国憲法が今もここにある。
日本を民主化しようという、占領軍の思惑は大成功を収めた。そして70年も
の間、アジアの平和に貢献したが、ここへきて、事実上日本を軍事基地化
しようともくろむアメリカ政権、日本を核武装し、軍国主義化しようという
平成版「東條英機」が首相の座にあり、「かいけん、カイケン」と叫んでいる。
改憲論者の言い分は、「押し付けられた」の一点につきる。ならば、現状の
「半植民地日本」は押し付けられたのではなかったのか。「同盟国」とは
偽りの名称であり、実態は秘密裏に持ち込まれた「核爆弾の貯蔵庫」となって
いる、あるいはいつでもその状態に持ってゆける、
とんだ独立植民国だ。それは押し付けられたんじゃないってのか?
「同盟国がそう言うんだから戦争協力しないわけにはいかない」とこれが
現外務大臣の答弁だが、実は同盟国じゃなくて、「宗主国」の意味なんだろ?
一昔前には自民党の綱領にも「真の独立を目指す」意味の文言があり、
現時点のやむを得ざる政治、経済上の取引を、「必要悪」として認識して
いたらしい。
現在はどうか。「アメリカとの提携'(実は従属)」は絶対必要条件、が政府の
スタンスで、しかも「誤って押し付けられた民主憲法を、本来のアメリカの
目的、アジア太平洋制覇に都合よく変えること、すなわち明治憲法に戻すこと、
これが「我が党の結党以来の悲願」という。
うそつけ!
天皇の統帥権を復活させることで、自民党にどのようなメリットがあるのか?
あるいは阿部氏自身にとってそれがどんな意味をもつのか?また日本国の将来
にとっては?なぜ改憲を急ぐのか、理由はまだ明らかに提示されていない。
70年間もそれに慣れてしまうと民主の意味も曖昧になるが、それでも国民は
その中で安泰に暮らしていくのを望むだろう。
政府がウソをついていなければ、「護憲」といい、「非核化」といい、
「国民にテイネイニ説明する」といい、「経済は好調、財政赤字でも
将来的に問題なし」という、その言葉が本当であるならば。
しかし、ここへきて、「この政府はうそつきだ」との評判が立ちつつある。
政府と一体になっての官財癒着が取り沙汰されている。「大政翼賛」思想
は首相個人に留まるものなのか、現自民党の党是なのか、財界の道具なのか?
この本の目標について著者が言うよう・・
<<東條英機は、歴史的には山形有朋や伊藤博文がつくりだした大日本帝国の
「拡大された矛盾の清算人」であったと思う。誰かがどこかの地点で、
清算人になる宿命をもっていたのだ。そのことを踏まえつつ、東條英樹の
性格が権力者としての立場にどう反映し、時代の様相をどのように変えた
のかを検証していきたいと思った。>>
阿部氏が英雄となるか、それとも「矛盾の清算人」として退陣するかは、
著者やキツネの時代をとっくに過ぎて、次世代も過ぎてまた次の世代へと、
決定は先送りされようとしている。
2018年 12月
東條英機と天皇の時代 下巻
1980年 伝統と現代社 刊
🦊これは昔買った本であるのに、今も下巻まで十分に読み切って
いない。(下巻だけでも、新書版p223に、小さい文字でエピソードが
ぎっしり、というわけで、目が疲れる)
東條英機はついに、統帥権(陸海軍を動かし、戦争を遂行する
最高権限)を持つ天皇の「お膝元」にいて、天皇の意思に従って
軍を動かし、天皇の言葉を国民に伝える「神子」の役割を演じた。
第3章 敗北の軌跡
「1941年&昭和16年)12月8日、午前3時半過ぎ、首相官邸に
軍令部から連絡が入った。「海軍部隊ノハワイ急襲成功セリ」・・
鹿岡と赤松は、東條の執務室に走った。
「ただいま第一報が入りました。真珠湾奇襲は成功しました」
二人は東條が得意な時に見せる目を細める表情を期待したが、
それは裏切られ、日頃の堅い表情のまま「よかったな」とだけ
言った。それから一呼吸して付け加えた。「お上には軍令部から
ご報告申し上げたろうな」それが東條の乾いた第一声であった。
午前7時にJOAKの臨時ニュースが開戦を国民に伝えた。「大本営
陸海軍部発表、12月8日午前6時。帝国陸海軍は本8日未明西
太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」・・
このニュースを聞くと、東條はすぐに軍服に着替え、枢密院会議に
出席するために宮中に駆けつけた。対米英蘭に宣戦布告すべきか
どうかが議題であった。宣戦布告すべきでないと主張する閣僚や
顧問官に、東條は「すぐにも布告すべきである。開戦時期の微細な
点は問題にすべきではない。米英の帝国を圧迫する態度を広く世界に
示さなければならぬ」と主張して、宣戦布告することにより日本側に
責任転嫁されるのではないかという皆の懸念を抑えた。
こうして正午に宣戦詔書が発表された。
この後、すぐにJOAKのスタジオに行き「大詔を拝して」を読み上げ、
国民に呼びかけた。「今、宣戦の大詔を拝しまして今日恐懼感激に
耐えず、私、不肖なりといえども一身を捧げて決死報国唯々皇国を
安んじ奉らんとの念願のみであります」と前置きして、甲高い声で
朗読を続けた。「凡そ勝利の要決は、必勝の信念を堅持することで
あります。建国2600年、我らは未だ嘗て戦いに敗れたるを知りません」
「帝国の隆替、東亜の興廃、まさにこの一戦にあり。一億国民が一切を
捧げて、国に報い国に準ずるの時は今であります。八絋を一宇と為す皇謨
(ボと読む。図る、企てるの意。スメラギの思し召し?🦊)の下にこの
尽忠報国の大精神ある限り、英米といえども何ら恐るに足らないので
あります」ーー。
東條はラジオ放送を終えると、大政翼賛会の第二回中央協議会に
出席した。東條と海相嶋田繁太郎が姿を見せただけで、出席者たち
の歓声が上がった。東條は彼らに救国の英雄と映ったのだ。
首相官邸には国民からの電報や電話が殺到した。重臣の岡田啓介を
はじめ要人たちも相次いで訪れ、相好を崩した。それだけではない。
私邸にも人々の喚呼が押し寄せてきたのである。・・
東條には、この日は生涯の最良の日であった。輝かしい戦果、
そして国民の熱狂的な歓呼。しかも枢密院顧問官や閣僚の反対を
押し切って、正々堂々と宣戦布告をしているのだ。何から何まで
彼の思う通りに進んでいるのだ。「戦争はやはり正面から正々
堂々と宣戦布告をした上で進めなければならない」と言っていた
彼の日頃の言もここに実証された。」
🦊ところが、彼の最も嫌いな形容詞「騙し討ちの張本人」という
汚名が以後東條に付き纏うことになったことをを彼は知らなかった。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
「昭和史ー1 1926〜45」 中村隆英 著
1993年 東洋経済新報社 刊
本書によれば、「1941年11月、アメリカ国務省は、モーゲンソー
財務長官らが作成した、極めて強硬な10項目を(日本側に)提示
することに決心し、25日夕方には大統領、ハル国務長官、軍部
首脳の会議が開かれ、この提案を行うときは、対日開戦を決意
しなければならないが、アメリカに多大の危険を招かぬよう配慮
しつつ、日本にまず攻撃させるように仕向けることが合意された。
翌26日、いわゆるハル・ノートが野村(駐米大使)、来栖(特命
全権大使)に手渡された。その内容は極めて厳しいもので、日、米、
英、ソ、中、オランダ、タイとの多辺的不可侵条約の締結、日本の
中国(満州を含む)、仏印からの一切の軍隊の撤退、重慶政府
のみを中国の正統政府と認めること、日独伊三国同盟の否認が
その主要な内容であった。日本が1931年の満州事変以前の状況に
戻ることがハル・ノートの主旨だったのである。アメリカ側は、
これをアメリカ側の一提案と称し、交渉の素材であると述べた
けれども、日本側はこれを最後通牒と受け止めた。
ハル・ノートを受け取った東郷外相は、もはや手の打ちようも
なく、日本政府の空気は戦争に一決した。最後の午前会議は12月
1日に開催され、英米蘭に対する開戦を決議した。翌2日、それ
までに開戦の準備を行っていた統帥部は、12月8日開戦を意味
する「ニイタカヤマノボレ」の電報を陸海軍の司令官に発した。・・
戦争が太平洋上に展開される以上、その主力となるのは当然海軍
である。連合艦隊司令長官山本五十六は、良く知られているように、
「大局より考慮すれば、日米衝突は避けられるものならばこれを
避け、この際隠忍自重臥薪嘗胆すべきは勿論」と考えていた。
しかし、主将として対米戦争の可能性を考えるとき、南方資源地帯を
攻略するにあたって、アメリカの艦隊が横合いから出撃する危険を
未然に防止するために、開戦と同時に、ハワイにある米艦隊を奇襲、
撃破することが不可欠の条件であると考えた。そのために、約1年に
渡ってハワイ奇襲の作戦をたて、手中にある6隻の第一級航空母艦を
集めてハワイを攻撃する案を作成したのである。東京の軍令部は、
第一線空母を全て投入する危険を恐れてこれに反対したが、結局、
職を賭してもこれを実施したいとする山本の意思に負けて、この
作戦が決定されたのであった。
この一方、南方資源地帯の攻略は、西回りおよび東回りの2つの
方向で進められることになった。開戦と同時に、まずマレー半島
北部に上陸してタイ国に進駐し、やがてビルマに侵入する一方、
マレー半島を南下して、やがてシンガポールを攻略する西回りの
部隊と、フィリピン、グアム等を経て、ボルネオ島から更に南方を
指向する東回りの部隊とが、最終的には蘭領東インド(ジャワ、
スマトラ)に向かうというものであり、作戦期間はおよそ半年と
定められた。
勿論、開戦と同時に、上海、その他の租界や香港は直ちに攻略
される予定であった。
連合艦隊は山本の指揮下に、開戦の準備をした。ハワイを奇襲する
航空艦隊は、南雲忠一の指揮のもとに、11月22日、千島の択捉島
に集結し、北方航路をとって、同26日既にハワイに向けて出撃して
いた。こうして、海軍は12月8日の開戦に向けての作戦行動を開始
したのである。
一方、東京においては、海戦を決意するとともに宣戦布告文書を
作成し、暗号電報をもってワシントンの大使館に逐次送逹された。
しかし、信じられないことだが、当時の駐米日本大使館は事務体制
が整っておらず(日曜休日)、宿直者も置かれていなかったために、
ワシントン時間の12月7日の正午を期して国務省に通達されるはず
の電報は、同日の朝、まだ山積みのままだったから、暗号を解読し
タイプするのに手間がかかって、12月8日朝、ハワイ空襲が開始
された時、宣戦布告文書はまだ国務省に届けられていなかった。
この遅延が日本の奇襲、騙し討ちという、絶好の宣伝材料を
アメリカに提供してしまったのである。」
🦊一方、アメリカは日本側の暗号電報を解読し、近くハワイ沖で
奇襲があるという情報を得ていたため、あえてそれを妨害せず、
日本の国際的な評価を貶めるために利用したらしい。
前掲書「東條英機と天皇の時代」に戻る
「東條は4つの新聞を読んでいた。毎朝、順々にそれを読み耽った。
彼が知りうる情報というのは、情報局が統制している新聞からで
あった。それを今彼は貪り読むだけだった。かつて戦況の全てが
彼の元に集められたが、今は虚飾に満ちたニュースを味気なく
読むだけだった。
昭和19年秋、戦況は悪化しているのに、新聞はまだ、戦意高揚の
ためと称して、それを伏せていた。事実は無惨だった。9月27日、
グアム、テニアン両島の日本軍壊滅。10月20日,アメリカ軍、
レイテ島に上陸。そしてレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅状態になる。
こうした軍事的敗北の前で、彼は依然として精神論の中にあった。
昭和19年の暮れ、彼はメモ帳に「偶感」として次のように書いて
いた。
「活殺自在の利剣を味方の掌中に収めるには寂として声なく漠と
して形なく、敵の心理を全く支配して敵をして見るに能わず聞くに
能わざるに至るを要す。孫子曰く
<微なるか微なるかな無形に至る、神なるか神なるかな無声に至る、
故に能く敵を指令をなす>
と、戦は武力のみにより勝つ能わず、すなわち他民族が精神的に
共鳴し来れば武力による征服より有力なる征服が可能なる訳で
ある」
これはどういうことか。彼には、今や精神論に傾くだけの凡庸な
一国民の感覚しかなかったのだ。もし些かでも冷めた眼があるなら、
この戦争の敗北を見抜くのが容易であるのに、現実を見つめよう
とはせず、取り止めもなく聖戦完遂を叫ぶだけだった。<現実>
とは、認めない限り存在しないと考える夢想家のそれであった。
昭和20年に入った。元日付けの新聞は金切声を上げた。「年頭の
諸御議、前線将兵に大御心畏し、野戦食を召させ給う」「感状上
聞、特攻中核に沖縄猛攻、山本飛行隊」という具合に、天皇の
慈悲、天皇への死を誓う忠節が強調された。まさに日本をあげて
人間爆弾の局面を作り出そうという意図が紙面に流れていた。
1月18日の最高戦争指導会議は、本土決戦即応態勢確立と全軍の
特攻化を決めた。国土の一木一草まで戦うと決意した。だがそれは
国民へ向けての強がりだった。陸軍省と参謀本部の将校の会議では、
既に航空戦は無理だという冷徹な数字を確認していたのだ。
航空機の生産は下がる一方で、昭和20年1月には2260機の目標の
うち、完成したのは3分の1の809機に過ぎなかった。物資もなく
勤労動員も鈍り、生産体制は既に息も絶え絶えだった。、客観的に
見れば、戦争終結が具体化しなければならなかった。
ある。日本軍は局地的な抵抗を繰り返すだけで要衝を失った。
🦊重臣たちの「東條内閣倒閣」の企み、(重臣木戸、岸、寺内等
の長州閥による寺内内閣画策)、海軍内部の反嶋田(軍令部長)
の中堅将校たちの動き、これらに加えて、内大臣木戸の言葉ーー
(7月12日、木戸との会談で)「今日の問題は、一内閣の問題
ではない。一歩誤れば御聖徳への批判につながる」と言って懸念を
示した。「東條一人に国家の運命をおまかせになってそれで
よろしいのか、という風説をしばしば聞く有り様ゆえ、意見を
述べてみた」東條の失敗は天皇の責任につながる恐れがあり、
そのことに宮中周辺は不安を抱いていると、木戸は正直に告白
したのである。この木戸の言に東條は脅えた。そこには天皇の
意思が含まれているように思えたからである。
・・官邸に戻った東條は蒼白であった。
天皇からの信任が失われたと彼は考えた。(部下を呼んで相談
すると)「天子さまのところへ行かれて、私に対して退めろと
いう動きもありますけれど、お上の御意見はどうでしょうかと
お尋ねになったらどうですか」この時天皇と東條の間に、どの
ような会話があったかは不明だ。資料はない。しかし「木戸幸一
日記」によれば、・・天皇の言葉には国務と統帥との兼任を解き、
嶋田の辞任を勧める意味合いが強い。必ずしも東條退陣の意味合い
はないとも言える。
宮中から戻った東條は、天皇から言われた通り、参謀総長と軍令
部長に選任者を置き、島田の辞任を認めることで、この状況を
切り抜けることにした。
7月17日、東條は冨永、佐藤、赤松、井本らの将校を呼び、
対策を打ち合わせた。将校たちの怒りは深く、木戸や重臣は
君側の奸だ、彼らを外して直接天皇を説得しようという案も
語られた。(民間右翼や陸軍兵を利用したクーデターまがいの
案も出された)
ところがこの席に新たな情報がもたらされてから、東條の意思は
急に萎えた.
その情報とは平沼邸での重臣会議の結果、挙国一致内閣樹立が
必要で、一部の閣僚の入れ替えでは何の役にも立たないという
結論であった。東條内閣では人心掌握はできないというのが切り札
だともいい、初めから重臣たちは(改造で延命を図ろうとした
東條内閣への)入閣の意思などなかったことも明らかになった」
🦊重臣たち(首相経験者)は、かつて東條を担いで神輿に載せた
当事者であるのに、今や反東條に結束していた。陸軍将校たちは
重臣を目の敵にしており、天皇を軍人集団から遠ざけようとして
いる「君側の奸」として排除、天皇親政さえ望んでいる。
南洋戦線での数々の敗北が、東條の軍指揮官としての無能を
曝け出し、ついに彼を首相の座から引きずり下ろした。・・
新内閣は、挙国一致で戦争継続を決めたのはいいが、なんの
具体策もなし、「全軍特攻化」、最後に残った望みは「国体護持」
で、何やら怪しげな宗教集団のようだ。国民からの信任が唯一の
武器だし、侵略した国々からの称賛と信頼が当然のこと・・だって
神の国日本なんだもん・・
「精神で戦う」日本国が本当にあったんだ。今では信じられないと?
そうでもない。国民からの付託とは、白紙委任状のこと・・
と思っている役人や議員は実に多い。また、日本は神の国、と言う
政治家がまだいるし、万世一系の類まれな国体を大事にしよう、
という物書きやブロガーや学者も多い。「信じて従え」はいい加減
にしてほしい。
ヨーロッパの王族はキングであってゴッドじゃない。せいぜい
文化と文化財の保護者、ファッションリーダー、外交上のお飾り
として役立つ。日本だって同じじゃなかろうか。
2021年4月30日
***********************************************************************************:
人肉事件の父島から生還したブッシュ
「昭和史の謎を追う」(下)第32章より
秦郁彦著 1993年 文藝春秋社刊
🦊 1944年、9月2日、のちの米大統領ジョージ・ブッシュ
は20歳の若さで海軍パイロット(中尉)としてアベンジャー
雷爆撃機に乗り込み、小笠原群島の主島である父島の攻撃に
向かった。
「さて南方から父島に接近したVTー51の編隊は目標の無電台に
投弾、次にブッシュ機が爆撃コースに入った。その後の経過を、
VTー51の戦闘日誌は次のように記録している。
『ブッシュ機は8000メートルから降下進入を開始した直後、
エンジンに被弾、煙を吹き出したが、なおも降下を続け、無電台
を狙って投弾し、命中させた』
その直後にブッシュは島から遠ざかろうと東側へ急旋回したが、
この時は機種が煙と炎に包まれ、高度は低下した。彼は指揮官に
無電で落下傘降下すると伝えた。南島の北東9マイルの位置、
高度約3000フィートで、ブッシュともう一人が落下傘で飛び出す
のが目撃された。ブッシュの落下傘は開いて無事に着水し、
ゴムボートで漕ぎ出したが、もう一つの落下傘は開かなかった。・・
救難潜水艦はVFー20の戦闘機が上空を警戒している間に無傷の
ブッシュを救いあげた。
(中略)
脱出操作をミスして、落下傘を機体に引っ掛け早く降下したのに、
コブを作ったぐらいで助かったブッシュは強運の持ち主だったに
違いないが、そのごの経過も幸運の連続であった。ゴムボートは
かなり離れた海中に漂って見つからなかったが、メルヴィン少佐機
が位置を教えるために降下と上昇を繰り返したので、泳ぎつく
ことができた。(中略)
第41代アメリカ合衆国大統領ブッシュその人であるが、彼は
父島での経験を『私が戦争中に経験した最悪の時』と自伝に書いて
いる。では、この意味慎重な表現で彼は何を語ろうとしていたの
だろうか。しばらく舞台を当時の父島に移して、『最悪の時』を
探ってみよう。
適任の参謀長を・・
1944年7月、サイパン島が陥落した後、東京を目指す米軍の次の
目標を硫黄島と判断した日本大本営は、第109師団(師団長栗林
忠道中将は小笠原兵団長を兼任)以下、約2万の陸海軍部隊を
送り込んだ。200キロ余りの父島は、日本本土から硫黄島へ向かう
補給の中継地となり、米軍の侵攻も予測されたので、陸軍は古く
からあった父島要塞司令部を改編した混成第一旅団(長・立花芳夫
少将、独立歩兵第304〜308の5個大隊基幹)など約9000、海軍は父島
方面特別根拠地隊(司令官・森国造少尉)、父島通信隊など約6000の
兵力を配備していた。
(🦊8月19日の硫黄島への米軍上陸作戦開始から1ヶ月、硫黄島の
日本軍は玉砕、栗林中将の最後は今もって判然としない。)
先に栗林は信頼する堀江芳孝参謀を混成第1旅団の作戦参謀として
父島に送り込んでいた。硫黄島が玉砕すると、大本営は、陸軍の
立花少将を中将に昇進させ、第109師団長に昇進させた。この
人事と、もう一つの問題は、堀江参謀が、新たに第109師団の
実権を握った立花中将の直属の部下に変身させられたことである・・
「堀江は内報を知ると「事情あり適任の師団長を派遣せられたし」
という電報を大本営に打った。しかし、返事がないので、「適任の
参謀長でも良いから派遣せられたし」と重ねて打電したが、返電は
「絶海の孤島につき不可能」であった。・・この電報が打たれた時点
では、捕虜の処刑、喫食という第二次大戦における最大級の猟奇事件
はほとんど終わっていた。4月以降は米軍の空襲が下火になったこと
もあって、対象にする捕虜が入手できなかったせいもあるが、結果的
には幹部と入れ替えても後の祭りであったろう。
では「父島唯一の良心」と言われた堀江がなぜこの蛮行を食い止め
られなかったのか、堀江や寺本軍医の回想録を軸に、ざっとした経過を
追ってみることにする。
1944年7月4日、落下傘降下して捕らえられた米空母「エンタープライズ」
の飛行士コンネル中尉が、堀江参謀のところへ連行されてきた。早速
尋問を始めたが、手マネ足マネに筆談を加えなんとか通じたかという程度
なので、堀江はショックを受けた。中国、陸士、陸大と10年以上も勉強
した英語が役に立たない悔しさから、堀江は中尉を家庭教師にして英会話の
猛勉強を始めた。寝起きをともにしながら、1日3時間から13時間もやって
メキメキ上達し、入手した情報は硫黄島や大本営に通報した。
ところが何人かの軍医がやってきて「参謀殿、その捕虜はいつあくの
ですか」と聞く。「あく見込みはない。英会話の先生は手放せないよ」
と答えると、「内地ではモルモットさえろくになく、十分な実験ができ
なかったのです。ぜひ頂きたいのですが」と熱心に説く。それを断った数日後、
東京からコンネル中尉をさらに尋問したいから輸送せよ、と迎えの飛行機が
きた。万一を考えて飛行機まで同行すると、横合いから下士官がいきなり
捕虜に殴りかかった。やっとの思いで飛行機に乗せたが、父島にいた日本軍
のモラルが上下を問わず荒みきっていた様子が推察される。
その責任の半ば以上は、のちにグアム島裁判(米海軍によるBC級裁判)で
主役と認定された四人の幹部、すなわち立花、森、吉井静雄大佐
(父島海軍通信隊司令)、的場末勇(すえいさむ)少佐(陸軍の独立歩兵
第308大隊長)に帰せられよう。
一人や二人なら異常性格者で片付けるのも可能だろうが、最高指揮官を含め
陸士、海兵を出た四人の高級将校が揃いも揃って同じ狂態を演じたとなると、
組織論にまで踏み込んだ分析が必要になりそうだ。
本来なら若手将校や下級兵士の獣性を抑える立場にある者が先頭に立ち、
時には競い合うように暴走したところに、この事件の特徴がある。
法的手続きを経ない捕虜の処刑自体は、必ずしも珍しい事例では
なかった。むしろこの時期のBC級犯罪では最もありふれたケースであったが、
少将・旅団長ともあろう者が金属のステッキをを振るって捕虜に襲いかかった
例は他にない。(中略)
立花のような男がいかに戦争末期とはいえ、親補職(天皇の直接の任命に
よる)の中将にまでなったのは理解に苦しむが、日常生活の方もかなり
乱調気味だったらしく、半年ぐらい当番兵をやった鍵和田松雄上等兵は
次のように証言している。
「将軍は銭形平次の捕物帳をよく読んでおられました。酒飲みで、よく
メモを持って主計のところへ酒をもらいに行かされました。
1升ビン2本をもらって来ますと、将軍は飲んだ分量を測ってメモリを
つけていましたので、少しでも失敬するわけにはいきませんでした。
兵隊は卑しいものと思っていたのか、威張りくさって思いやりなど
さらさらありませんでした。
「それでも」、と鍵和田は言葉を継いで。「立花さんは部下に暴力を
振るわないだけ、的場少佐よりはましでした。人肉事件も張本人は
的場少佐だったと思います」と語る。
その的場の凶暴性を伝えるエピソードは数多いが、身にしみて実情を
見聞したのは、大隊付きの軍医として44年秋に赴任した寺木忠であろう。
北大医学部出身の寺木はその頃31歳、開業医から応召した見習い士官
だった。着任すると早々に、衛生兵から少佐の悪口を聞かされた。
酒が好きで、毎晩のように他の部隊の将校連を招いて酒宴を開く。
そのため下士官兵には酒の配給は全くない。気が荒く、気に入らない
ものは将校であろうと兵隊であろうと片っ端からぶん殴るという。
飛んだ部隊に赴任したものだと、初日から気分が滅入った。・・
数日すると、的場大隊長に殴られて半死半生になった将校が医務室に
はこびこまれた。軍医の仕事は隊長に怪我をさせられた部下の手当か、
と思われるほどだったという。何がこの男をこんな凶暴にさせたのか、
聞いてみると、シンガポール攻略戦で奮戦、負傷したのに軍医学校の
戦術教官、ついで離島の大隊長に左遷されたのを根に持って性格が
歪んだらしいとのこと。・・だが、この時の旧部下に聞き合わせて
見ると、風評はあまり芳しくない。的場が第18師団歩兵第56連隊の
第一大隊長としてマレー戦線に着任したのは42年1月、前任の大隊長が
負傷入院したためだったが、武道計十数段の豪勇ぶりを発揮して猪突猛進
の癖があり、無駄な死傷者を出した。シンガポール陥落の直後、山下
軍司令官以下の軍民幹部が出席した映写会に一杯機嫌で乱入して暴れ、
フィルムを引きちぎる椿事を引き起こした。陸士同期生の朝枝参謀が
駆け寄って引き留めたが、尚も暴れたというから、尋常一様ではない。
おかげで大隊長を在任1ヶ月で更迭され、内地へ送り返されてという
のが真相だったようだ。この的場が父島で立花に出会って、お互いに
「おやじ」「おぬし」と呼び合いながら酒乱同士の交情を確かめた席が、
人肉食事件の発端になった。
英語の先生も食われた
1947年1月13日、東京裁判の法廷でロビンソン検事が朗読した的場の
供述書は次のように述べている。
「最初の人肉食事件は1945年2月23日から25日までの間に起こり
ました。当日私は司令部に赴き立花将軍に飛行士(米軍捕虜の)は
末吉隊で処罰されるべき旨を報告した。司令部で酒を出され、話題は
ブーゲンビルやニューギニア駐屯の日本軍のことに移り、食糧の備蓄
及び供給が絶えたる部隊は人肉を食さねばならぬという話が出ました。
(中略)そこへ佐藤武宗大佐(独歩307大隊長)が我々のために設け
られた宴席に来られたいとのことで赴いたところ、酒も肴も十分にない
ことがわかりました。このために将軍は不満足で、何か肉類の食物を
持って多量の酒を得られるところはないのかという」話になりました。
将軍は私に処刑のことを尋ね肉を手に入れられないかと尋ねました
・・肉と甘蔗酒1斗が届き、肉は加藤大佐の部屋で料理され、その座に
居合わせた者は全部少しづつ味わいました。もちろん誰一人美味かった
者はありませんでした」
いささか舌足らず気味な陳述だが、引用を省略した部分も合わせて
判断すると、人肉食の動機が現在の食料不足ではなく、将来の予見か
戦意高揚または単純な好奇心にあったことがわかる。また立花がその
頃司令部の会議で「敵は獣である」と放言言し、公然と人肉食を説いた
事実から見て的場主動とは言い切れず、立花との合作と見るのが妥当
のようだ。
供述書に出てくる不運な捕虜の解体を命じられたのは、寺木軍医であった。
「昨日海軍の末吉隊で処刑した捕虜から肉を1貫目とキモを取って大至急
届けろ」と的場から命令がきた。寺本は断れば自分が代わりに処刑される
かも、と恐怖におののき、数人の衛生兵を連れて前日に埋葬したばかりの
捕虜の死体を掘り出した。胸には銃剣で突かせた傷がいくつか認められた。
・・肝臓を切り離し、随行の軍曹が左大腿部の中央あたりの肉1貫目を
輪切りにして硫酸紙に包んだ。本部で待っていた運転手が2つの包みを
受け取り、トラックを運転して307部隊へ運んだ。2日後には別の捕虜が
引き出され、・・(中略)
流石に人肉食の宴会には呼ばれなかったが、入ってくる噂を耳にして、
堀江参謀は苦慮していた。特に硫黄島との連絡が切れた後立花一派の
反感は高まり、3月に入ると、捕虜で最後まで残っていたホール少尉を
引き渡せという圧力がかかってきた。ホールは2月の空襲で捕まった
一人で、2代目の英会話の先生役を務めていただけでなく、重要な
情報提供者でもあった。話し合っているうちに二人は次第に打ち解け、
堀江も、戦争が終わったら日米の掛橋となってともに働こうと約束した
が、心中では彼を終戦工作と戦後の工作に利用したら、と考えていた。
(そこで、例の「事情あり、現参謀総長の代わりの適任者の派遣を」と
本部に要請し、帰りの便でホールを送ろうとしていたが、それも実現せず、
何度か引き伸ばした挙句、立花に連行されてしまった)
解体作業は、不在の阪部軍医に代わってまたも寺木軍医に回ってきた。
グアム島裁判にはこの時、的場が出した次のような口頭命令が証拠
として提出されている。
1、大隊は米人飛行家ホール中尉の肉を食したし。
2、冠中尉はこの肉の配給を取り計らうべし。
3、阪部部隊は処刑に立ち合い、肝臓、胆嚢を取り除くべし。
1945年3月9日 午前9時 場所 三日月丘本部
発令方法・・冠中尉並びに阪部を面前によび口頭命令、
報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ
(中略)
その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に招集され、
ホール少尉の試食を目的とする大宴会となった・・
死刑5名、終身刑5名
まもなく終戦の日が来て9月2日、米艦が到着、翌3日、立花中将を
正史、森中将を副史とする一行が米艦に赴き正式に降伏した。
予備会談の席で、米側は開口一番、「パラシュートで降下した連合軍の
パイロットは何名いたか。どうなっているか知りたい」と聞いてきた。
堀江参謀が「防空壕で全員爆死しました」と答えると、相手のスミス
大佐は露骨に不満の素振りを見せた。
すでに日本側は戦犯ノガレための綿密な口裏合わせを澄ませ、捕虜の
墓地まで作り、部隊の全員に黙秘せよと指示を出していた。
それでも、ヒソヒソ話は兵士たちの間に広がった。どうして米軍の
追求を逃れ早く故国に帰れるか、彼らの関心はそこに集中していた。・・
10月初めに進駐してきた米軍は、指揮官のレキシー海兵大佐が横浜
生まれの親日家だったせいか、意外に穏やかな態度で接し、日本軍の
復員も順調に決まったので、渉外役の堀江は胸を撫で下ろしたが、
なぜか的場大隊の復員だけは許されなかった。この間に米軍は調査官
を日本に派遣して、帰国者から証言を集め、密かに証拠固めを進めて
いたのである。
満を侍した米軍のシェーファー少佐は46年2月初め、堀江を呼んで
「残虐行為の首魁は陸軍では立花と的場、海軍では森と吉井だろう」と
凄まじい形相で詰め寄った。・・
グアム島の米海軍による軍事裁判は、5月から9月まで半年かけて
進められた。父島関係の被告は立花中将以下の25名で、トラック島の
捕虜生体実験など中部太平洋の各地で起きた諸事件を加え、計63名に
達した。
もっとも注目を集めたのは父島事件で、凄惨な証言が次々に登場した。
中でも立花中将の当番兵が人肉を供した酒宴の様子を述べ、立花が
「これはうまい。お代わりだ」と要求したくだりになると、法廷は
水を打ったようにシーンとなってしまった。
米軍新聞のグアム・ニュースは連日、「カニバリズム」の大見出しを
つけて裁判の経過を報道し、一部は本土の新聞にも転載されたが、ある日、
記事がパタリと止まった。堀江参謀が聞くと、米本土の母親達が<息子は
名誉ある戦死と信じていたのに敵に食べられてしまったとは>と大統領に
訴えたので、記事掲載が禁止されたのだという。堀江は「申し訳ござい
ません」と担当官に泣き声で謝るほかなかった。
BC級犯罪を調査している岩川隆は「人肉嗜食という行為は猟奇の感を
免れないが、法的には、いわゆる<死体棄損侮辱>という種類のもので、
グアム法廷の長であるマーフィ大佐も、特にこれを戦争犯罪として訴追
しなかった。曲がりなりにも、感情と法は別、という態度が見て取れた」
と書いている。そして米陸軍の裁判規定(SCAP規定)を準用できるのに、
米海軍法会議独自のルールや手続きを適用、日本人戦犯にも米人被告人に
与えられているのと同じ「被告人としての権利・地位」を与え公平な
裁判を貫こうとした、と指摘している。
また3段階にわたる再審制(グアム法廷→太平洋艦隊→海軍長官)を適用、
その結果、一審での判決が再審段階で大幅に軽減された。例えばグアム
裁判では一審における死刑20名が最終的には13名に、クエゼリン裁判
では11名が1名に減った。だが父島事件の再審は厳しかった。一審判決
で絞首刑を宣告された5名「立花、的場、伊藤、吉井、中島)は一人と
して減刑されず、終身刑の5名(森中将、加藤大佐、山下、東木、佐藤大尉)
も同様であった。このうち森はオランダ軍の裁判に移され、死刑となって
いる。海軍の神浦少佐(参謀)は勾留中に自決、内地に復員後、逃亡した
小山少尉(魚雷艦隊)は浅草の小学校教師時代の教え子の一家にかくまわれ
たが、逃げ切れぬと観念して八ヶ岳山麓の自宅付近の山中で頸動脈を切って
自殺した。やはり逃亡して、遅れて裁判にかけられた寺木軍医は4年の刑で
済んだ。(中略)
立花や的場は遺書もなく、その心境は伺い知れないが、死刑執行までの
約1年、米兵たちの連日連夜の虐待を受け、半死半生の体で絞首台に登って
いったと伝えられている。
カニバリズムとブッシュ
第二次大戦でカニバリズム(人肉食)が登場するのは、太平洋戦争の
日本軍だけのようだ。大小の戦場に置き去りにされ、飢餓の淵をさまよう
戦争は、日本軍にも初経験であった。200万を超える戦没者の7割前後が
広義の飢餓によって倒れたとする試算もあるくらいだが、実数は確かめ
ようもない。
指揮系統が切れ、軍紀が崩壊した前線の末端でカニバリズムが横行した
という風聞は、決して少なくない。ニューギニア、ガダルカナル、
フィリピン、インパール戦線の従軍記には、この種の内輪話がよく出るが、
事柄が事柄なのでほとんど間接話法で語られている。
東京裁判には、ニューギニア戦線で、第18軍司令部から「連合軍の屍肉を
食うことは許すが、友軍の屍肉の場合は処罰する」旨の軍令が発せられ、
該当する4名の兵が処刑された事実が報告された。
それ以上の詳細は模糊として掴めないが、カニバリズムが連合軍の法廷で
裁かれたのは父島事件だけであり、それも飢餓という極限状況下の事件で
なかっただけに人々を驚かせた。文献によっては父島の食生活が窮迫して
いたとするものもあるが、カニバリズムを少しでも正当化するほどの条件
がなかったのは事実である。
部隊により給養の程度に差はあったが、前記の鍵和田は終戦直前まで
定量5合の(1合は約180cc)白米が2合7勺に落ちた程度で、終戦後は
3合5勺に増量された、と回想する。日本内地よりはむしろ恵まれた
食料事情と言って良い。その他の条件も父島は決して悪くはなかった。
空襲も断続的、散発的で死者も毎回数名のレベルに止まっていた。
島民は内地へ疎開していたので、被害はなかった。処刑と人肉食が硫黄島
上陸の直後に集中しているので、苦戦する友軍への同情が、復讐感情の
爆発をもたらしたと見る向きもあるが、父島部隊は硫黄島部隊とは
編成が全く別で、連帯感はなかったという。
そうなると、原因はある種の集団的異常心理としか考えられないが、死刑に
なった中島大尉が判決直後に「捕虜にすると国賊扱いにする日本国家の
あり方が、外国捕虜の虐待へと発展したのではないでしょうか。捕虜の
虐待は日本民族全体の責任の問題なのですから、個人に罪を被せるのは
間違っていませんか。・・私は国家を恨んで死んでいきます「とポロポロ
涙を流しながら堀江に訴えたのが、カギになるかも知れない。
確かに捕虜になるのを禁じられた日本人に、敵の捕虜を愛護する感情が
生まれるはずはなかった。孤島父島の将兵は、いわば逃げ道のない袋の
ネズミであった。きっかけがあれば、その抑圧感からモラルが止めどなく
堕落していく可能性はあったと思われる。・・
万事に控えめなブッシュは戦争体験をあまり語らないが、・・
1987年ブッシュ副大統領は、戦中体験にも触れた自伝を刊行した。
父島からの生還記はマスコミにも取り上げられ、レーガン大統領の
陰でくすみがちだった「弱虫ブッシュ」のイメージを大きく変えた。
・・ブッシュが父島の戦歴について複雑な思いを抱いているらしいことは
想像がつく。自伝が刊行された直後に、反対党の民主党側は、パイロットは
同乗者の脱出を見届ける責任があるのに、それを怠ったのではないか、と
責めた。確かに同乗者二人の運命は、完全に確認されていない。かれらが
日本軍の捕虜となっていたら、と気を回す人もいたにに違いない。・・
(BC級戦犯の全貌を表した公文書にも)ブッシュの同乗者だった
ホワイトとデラニーの名前はないので、彼らが「バーバラ」号と運命を
共にしたのはほぼ確実と判断するが、もしやと疑う人がいても否定
し切れないのは残念である。
二人の若い家庭教師から英語を学んだ堀江芳孝は、在日米軍の日本語学校
で教えたのち、都内の私立大学で英語の講師を務め数年前に引退した。
ホーキギクと草紅葉(キンミズヒキ)
11月
コメントをお書きください