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キツネ国戦記

キツネ国は火山列島と呼ばれ、

 

至る所温泉が涌き、山が多く

 

水は澄み、キツネ達は主に

 

農業、漁業で暮らしを立てて

 

いた。

 

やがて各地の権力者(農民を支配して土地を耕作させ、代りに年貢を

 

取り立てる者)が互いに争うようになり、農民達は兵隊として戦争に刈り

 

出された。 そういう代がおよそ1000年も続いたのち、最後に武士と

 

よばれる階級の一族が全国を統一支配するようになり、以後約300年は

 

キツネ同士の戦争は無かった。

 

ある時、長いこと孤立していたキツネ国に、海の向うから鉄の船に乗って

 

やってきた種族(トラや、ハリネズミ、うさぎ、ふくろうなど)が、

 

キツネ国との国交を迫ってきた。  さあ大変!断れば戦争になる。

 

キツネ国は鉄砲も大砲も持っていなかったし、鉄の船もなかった。 武士は

 

長い平和の間に戦い方も忘れて、役に立たなかった。

 

そこで、武士の中でも海外の事情を少しばかり知っている連中や、国の将来

 

について真剣に考える若者や知恵者などが中心になって、外国との戦いを避け、

 

通商を許し、各国に見習って議員制民主主義国会を取り入れ、武士階級の

 

支配体制を終わらせことに成功した。

 

さて、ここにRQという名の古孤がいて、支配の座から放り出されたくやしさ

 

から、ある計画を企てた。彼は議員達に入れ知恵して、隣国(うさぎ国)の

 

海岸からずっと内陸に通じる鉄道を作ってあげると約束し、それが完成

 

するまでキツネ兵を線路周辺警備のために送り込んだ。  一方で、

 

鉄砲や大砲を盛んに製造し蓄えた。

 

準備が出来ると、まずうさぎ国を占領、続いてずっと内陸のトラ国へ

 

向かって兵を進めた。これはキツネ軍の上層部が密かに命令したので、

 

国会は知らなかった。知っていたとしても止められなかった。

何故か?  RQはこう言った。「キツネ国の資源は乏しい。もっと石炭や

 

鉄や石油が必要だ」「内陸諸国に勝って資源を手に入れるには、強い

 

軍隊が必要だ」さらにこうも言った「キツネ国は神によって作られた

 

特別な国だ。負けるわけがない」と。そしてキツネ国は戦争を始めた。

 

また、一部の元気有り余る若者は、「大陸に理想の国を作ろう。そこでは

 

いろんな種族が仲良く繁栄する」といった甘い呼びかけに応えて海を渡った。

 

欲深いキツネ商人達は、トラ国にキツネ通貨を流通させ、大儲けしようと

 

企んだがこれはうまくいかなかった。  何しろタダの紙切れに昔のキツネ

 

大王の顔を印刷しただけのシロモノ。誰も欲しがらなかったのだ。

 

勝つためには、軍事物資や兵隊を養う物品を確実に補給しなければならない

 

のに、その資金も足りず、補給路も確保されていなかった。そのため、

 

飢えた兵達はてんでにトラ国の民家に押し入って食料を奪い放火し、

 

殺した。その兵自身もキツネ国に見捨てられ、使い捨てにされた。

 

最初から勝つ見込みのない戦いだったが、国民は「神の国キツネ国の勝利

 

のために」犠牲になるのだと信じていた。

 

キツネ国の敗戦後、不思議なことにRQは生き伸びた。 そしてこの頃、

 

軍神として復活の気配だ。

 

 

 

 

2020  3  13

 

1942 年1月 英国のパンチ誌にのった漫画「THE MONKEY FOLK」より,

絵の下手なキツネが模写したもの.マレー半島をシンガポールに向かって行軍

している日本軍兵士.

 

 

「容赦なき戦争」 ジョン.W・ダワー著  斎藤元一 訳

 

   2001年 12月刊 平凡社ライブラリー

 

 

 

p31 第Ⅰ部「敵」 

 

 

p81  「無差別爆撃への非難」

 

 <<日本が降伏し,連合国軍側の「非武装化と民主化」の命令を

 

意外なほど素直に受け入れたあとでさえ,極めて残虐な敵という

 

連合国側の記憶は生き続けた.1945〜51年にかけてアジアで

 

広く開かれた軍事裁判において,数千人の元日本軍人が残虐行為および

 

その他の通常の戦争犯罪で,有罪の判決を受けた.同時に46年はじめ

 

から48年なかばにかけて東京で開かれた極東軍事裁判(東京裁判)では

 

残虐行為の共同謀議の罪で,28名の日本の軍事および文民指導者たち

 

が,勝利した連合軍側によって告訴された.検察側によれば,彼らは

 

「戦場においてのみならず,民家,病院,孤児院,工場,田畑に

 

おいても人命を無差別的に奪い,その犠牲者は老若男女を問わず病人,

 

子供にも及んだ」とされた.しかしこの頃になると,連合国側にも

 

「残虐行為」の意味自体が,大量殺戮の時代において極めてあいまいに

 

なっていたことを認める見方も出始めていた.

 

 

東京裁判における唯一の反対意見として,インドのラドハビノッド・

 

パル判事は,日本の指導者たちに対する残虐行為の罪の追求を否定し,

 

それを認めるとすれば,勝利者の側にも,もっと大きな罪の裁きが

 

及びかねないとさえ示唆した.パル判事はその長い意見書の中で,

 

アジアの戦場における「無差別殺人」の最たる例は「連合軍側の

 

原爆使用の決定」と言えるかもしれないと延べた.

 

 パル判事のこの物議をかもす見解は,日本軍あるいは連合国側

 

の残虐行為に関する事実とは無関係の固定観念に,真っ向から

 

挑戦したばかりでなく,アジアにおける闘いにおいて,敵を残虐行為

 

の容赦なき実行者と見る見方は,民間人に対する爆撃によって始まり,

 

それによって終わりを迎えたという事実にも目を向けさせるものであった.

 

すなわち,1937年に始まった日本軍の中国への爆撃,44年,45年

 

のアメリカによる日本への爆撃,そして最終的には,広島,長崎への

 

「原爆投下」という展開である.

 

 

第二次世界大戦においては,一般市民を対象とする空爆があまりにも

 

頻繁に繰り返されたため,日本軍が37年に中国の都市への爆撃を開始

 

したときに受けた欧米のショックがいかに大きく,そして当時の日本軍の

 

行為がいかに非文明的と西欧人に受け止められたかについてはとかく忘れ

 

られがちではあるが,国際連盟およびアメリカ政府の日本に対する

 

非難には,この点が明示されていた.(中略)

 

 37年9月,アメリカ国務省は公式非難を行い,「こうした敵対行為が

 

無防備の地域に対する容赦なき攻撃という形で遂行され,多くの市民,

 

特に女性と子供の命を次々と奪っていったことに対し,アメリカの世論は

 

これを野蛮行為と見なす」と非難声明には書かれている.・・・・

 

 (またアメリカ上院での討論で)明らかにされたことは,日本人が「人道に

 

反する犯罪」の主犯であり,「原始的野蛮人が無抵抗の人々に対して行った

 

残忍行為を想起させるものである」と考えられていたということである.

 

(中略)

 

ドイツ軍による39年のワルシャワ爆撃および40年のロッテルダム,

 

ロンドン,コベントリ爆撃は,理不尽なテロと非難された.そして

 

39年にイギリス政府は「ドイツ軍による他国に対する非人道的

 

行為を非難し,「イギリス政府はドイツの政権がいかにあろうと,

 

非軍事目標を爆撃の対象とするものではない」と宣言した.

 

 またローズベルトも,全ての参戦国に対し,一般市民への爆撃を

 

止めるように繰り返し訴え,「アメリカは,常にこの非人道的な行為

 

を阻止する努力を率先して行ってきたことを誇りに思う」と述べて

 

いる.

 

 

p90  「連合軍による無差別爆撃」

 

1942年になると,戦況はまったく逆の展開を見せる.

 

すなわち,英米空軍が戦略爆撃のもっぱらの担い手となり,焼夷弾

 

による都市の大規模爆撃の技術を最高水準にまで高めると,今度は

 

枢軸国側が,自分のことは棚に上げて非難するようになったのである.・・

 

 43年のケベック会議の後,イギリスの情報相は,連合国側が,

 

「ドイツも日本も爆撃し焼き尽くし,とことん破壊する」つもり

 

であると報告し,その後それは現実の展開となったのである.(中略)

 

(米軍は初期の精密爆撃の方針を一転して)194339日,10日の夜,

 

334機の米軍機が東京を低空から焼夷弾で襲い,首都の400ヘクタール

 

を破壊し,100万人以上の市民が焼け出されたのだった.8万から10

 

の市民がと東京大空襲で命を失った.・・・

 

日本が降伏するまでに,広島,長崎を含む66の都市が精密および無差別

 

の市街地爆撃を経験した.焼夷弾と原爆で殺された市民の数はわからない

 

が,400万人に近いのではないかと見られている.>>

 

 

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ちょっと休憩:キツネ

 

ここらでお茶の時間にしたのは,ときどきルーペが要るような細かい字を

 

拾って書き写すのにくたびれたのと,この本の題目「容赦なき」の意味を

 

考えてみたいと思ったから.

 

 これまでの所,戦争はどんどん成長して,それ自身モンスターになっていき,

 

もはや正義も道義もぶっ飛んでしまい,「憎っくき敵の都市を焼き尽くし,

 

市民を殺し尽くせ!」と首相もオッサンもオバサンも叫ぶようになる・・

 

このあとは,この「敵憎し」と思う心のルーツは,その歴史的な背景は,

 

宗教や文化からくる偏見無知と,科学に名を借りたコジツケ人類学など・・・

 

 

 

この本には26枚の戦争漫画が載っているが,大部分は鉄兜をかぶり,

 

小銃を持っている猿の図だ..つまり日本人は黄色いサルのイメージだった.

 

それは未だに欧米人の心のどこかにあるかもしれない

 

 

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P222 「原始人,子供,狂人」

 

 

p224 「国民性研究」

 

<<ある国なり国民なりの特徴的な性格を思いめぐらす

 

ことは,大学において昔から行われており,時には顕著な

 

伝統でもあった.アメリカといえば直ちにトックビル,

 

日本といえば,ヨーロッパ初期の宣教師たち,ラフカディオ・

 

ハーン,それに古代中国史の中の「倭人」についての生き生き

 

とした一節さえ思い起こす.

 

国民性の研究は,これら初期のより文学的な叙述とは「科学的」

 

ということで一線を画していた.それは研究を生み出した戦争

 

によっても枠組みを定められ,対象とする国民とはかなり距離

 

を置いて研究され,調査そのものも心理戦用に立案されていた.

 

アメリカ最初の戦時の国民性研究は,日本,ドイツ,ビルマ,

 

タイ,ルーマニアを扱ったが,今では一般的に日本に関する研究

 

が断然興味深いと見られている.

 

 (フランツ・ボアズは,19世紀を通して欧米の人類学の主流を

 

なした生物学的な決定論とか,「科学的人種主義」といった諸説を

 

否定し,知力にせよ性格にせよ生物学的に優劣が生ずるという

 

説をしりぞけた.

 

それとは逆に,歴史的,人類学的な記録は,異なる人種の血統が

 

すべて高度に発達し,文明化した営みを作り出したり,それに

 

参加する能力があることを立証した)

 

 

 

 ボアズと弟子たちがかかわった「科学的な反人種主義」は,

 

ルース・ベネディクトにより詳述された.彼女は「文化と

 

パーソナリティ」に取り組む前提を,1934年の「文化の型」

 

という評判の良い本で,広範な読者に紹介した.そして10

 

あまりのち,戦争が終わってから「菊と刀」を発表し,日本人の

 

国民性について最もよく知られた解説書として登場した.

 

ベネディクトが1940年に発表した人種主義に対する批判は,

 

戦争中に改定され,発行された.その45年版の前書きに,

 

戦争は祖国がいかに人種上,由々しい不正行為を犯してきたか

 

を,多くのアメリカ人に初めて知らしめたとあった.

 

そして戦争が「白人の世界」のために遂行されたという印象を,

 

アジア,アフリカ,近東に残して終わるとするなら,平和を

 

勝ち取る望みはほとんどないであろう,と.

 

この他にベネディクトは,「人類の種族」と題する戦時パンフレット

 

の共同執筆もした.それが4310月に公表されると,アメリカ

 

陸軍およびUSO(軍人の娯楽施設を後援した民間の組織)によって

 

発禁となり,下院の軍事委員会に「共産主義プロパガンダの全手法」

 

を反映していると糾弾され,論争に巻き込まれることとなった.

 

(中略)

 

 

 

p288  「幼児期のトラウマ」

 

 

 

(ジョン.エンブリーの小冊子「日本人」で,かれはやはり幼児期初め

 

のきびしい用便のしつけの重要性を扱った)

 

<<また,下の子供が生まれると,母親がふいに甘やかさなくなることも

 

注目された.これが大人になっても持続性ある不安および憤怒の感情を

 

日本人の子供に植え付け,幼少の頃には癇癪,成人に達してからは「変質狂」

 

に近い行動となって現れると,エンブリーは感じた.

 

欧米人がたいそう奇妙に感じた社会的な習慣の多く,たとえば仲人を用いる

 

ことや,個人の責任より集団をあてにすることは,メンツを失って物笑い

 

の対象となることへの絶え間ない恐れを反映しており,幼児の深く傷ついた

 

相反する体験のせいにすることができるかもしれなかった.

 

エンブリーは,日本の政治シーンで極めて目をひく暗殺が,「丁重さの欠如

 

あるいは空想の侮辱に起因する大人の癇癪発作の表れ」であるとまで論じた.

 

 

エンブリーは,日本兵が海外で自制を欠き,途方もない残忍な行動に走ること

 

に同意し,ほぼ即座に「日本人男性の性格構造」のせいにした.西洋から

 

借用する際日本人は,事実上何一つ本質を取り入れてこなかった,と彼は

 

断言した.エンブリーは(ゴーラーよりはおだやかにであったが)日本人が

 

「世界中に日本の流儀をもたらすのは天与の義務である」と本気で思い込んで

 

いると断言した.(彼の文体はわかりやすかった)

 

(中略)

 

「日本人」に関するある論評は,「ジャップの残忍性は幼児期に遡る」と

 

題されている.

 

19438月,「ニューヨークタイムズ・マガジン」は,(エンブリーに直接

 

言及してはいないが)「ジャップのごろつき」という見出しで次の文章を

 

載せた.

 

「人類学者たちは,なぜジャップ兵士が獰猛で,執念深いゴロツキなのか

 

我々に語っている.彼の誕生の時から妹が生まれるまで,母親は度の過ぎた

 

可愛がり方をする.その後,彼は主たる関心事ではなくなり,冷淡な女中に

 

まかされる.これは成長期の大事なときに神経系統を傷つけ,かれはけっして

 

ショックから立ち直れない.もし産児制限が日本でおこなわれたら,かれは

 

成長して紳士になるかもしてない.もっとよいことに,かれは生まれて

 

こなかったかもしれない・・・とはいえ,このテーマは極めてきわどいので,

 

この辺でやめておこう.

 

 

 

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キツネの独り言

 

 これらの「人種主義人類学者」のあきれた論文の中にも,日本人の心を

 

チクリと刺す部分もある.普段はおとなしい農民が,戦場では冷酷無残な

 

仕打ちを平気でやる.それも敵国の女性に対して.(中には戦後帰国してから

 

一種の自慢話として語る者もいる)

 

また,「五族共和」などと言い,その盟主には当然「大和民族」が座るのだ,

 

とは,まさに「誇大妄想」に近い.また,「個人の責任よりも集団を当てに

 

する」国民性などは,相変わらずだ.

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P257 「原始性」

 

戦争の最中に好まれるのは,現存する偏見を強めるものとして理解できる

 

専門家の意見である.政策立案者はレートンが悲しげに結論したように,

 

聞きたいと思うことを聞くものである.そして学者はしばしば大衆感情が

 

見つけ出して欲しいと願っていることを発見する.この点こそが,日本人の

 

国民性研究において狭い範囲の関心を超えて,原始性,幼稚,情緒障害に

 

重要性を与えるにいたらせたものなのである.

 

猿と害虫,劣等人と超人といったたぐいも,日本人についての日頃の見解

 

から様々に作り出されたものであった.

 

 たとえば,戦争の初めから終わりまで,原始性とその同種のもの(凶暴

 

性,野蛮,同族意識)は敵国日本に関する連合国の日々の論評の中心で

 

あっただけでなく,あたかも歴史的または人類学的な観察の結果である

 

かのように言われるのが常だった.イギリスにおいては,アジアでの

 

戦争は明らかに第二次的な関心事であった.ジョン・プラット卿は

 

外務省の極東専門家として最も高く評価された一人だが,戦争なかばに

 

出版した本の中で「原始人的な野蛮人の獰猛さは日本人の内面とさして

 

変わらない」と延べた.これが定評に近かったことは,イギリス戦時

 

情報局にあたる情報省が19424月に出した日本人についてのパンフレット

 

で明らかである.「えんとつ,警官と交通信号,黒いコートと山高帽を

 

身につけた男たちを会社に運ぶタクシーといった多分ニューヨークでも

 

見られることが,日本の近代技術の証拠となっており,その原始的な心を

 

隠蔽している」.翌年,「日本国民」と題する出版物の中で同省は

 

「これら凡庸な人々」がえせ宗教,同族意識,残忍性,神の否定といった

 

事柄でドイツ人と似ているが,「ドイツ人は異端者であり,日本人が決して

 

知ることのない普遍的な規範から逸脱した」という点で違うと述べた.

 

この言い回しは,英米の著作の中で日本とドイツが論じられるさいの常道

 

であった.つまりドイツ人は悪いが日本人はさらに悪く,ドイツ人は

 

脅迫観念に囚われているが日本人は世界中でその最たるものであり,

 

ドイツ人は男根期(自我に目覚める時期)に退行しているが,日本人は

 

そこから脱したことはなく,前述したようにドイツ人は日本人が決して

 

知らない規範から逸脱したというのであった.

 

(中略) 

 

日本人の原始性について,えせ歴史的,えせ人類学的な概念が広まった

 

結果,野蛮な敵という認識は戦場以外にも広がっていった.つまり,

 

その認識を国民,人種,文化の全体に当てはめ,そうすることにより

 

自らの報復および懲罰という野蛮な行為を合理化,正当化したのである.

 

たとえば開戦後まもない19421月の覚書の中で,レーヒ提督は,

 

「日本の野蛮人と戦う際は,かつて戦争にルールとして認められていた

 

ことを全て放棄しなければならない」という巷間に伝えられていた

 

信念を引用している.戦争が暴力的な結末に近づいた頃,トルーマン

 

大統領はポツダムにおいて原爆実験成功を知り,それを日本に対して

 

使用することを直ちに決意した.彼は日記に,このことは遺憾では

 

あるが必要なことなのだ.なぜなら日本人は「野蛮であり,無慈悲,

 

残酷,狂信的」だからと記していた.

 

 

p261  「幼児性」 

 

<<西洋に行き渡っていた肉体的,感情的に未熟な日本人という

 

イメージは,1944年夏,マッカーサーの南西太平洋司令部が

 

プロパガンダ用に作成したレポートに生々しく表現されている.

 

真に驚くべき観察のなかで,日本人のちっぽけなサイズと幼稚な

 

性分が,戦争を引き起こしたと見ることさえできると示唆した

 

のである.「どこから見ても日本人はちっぽけな連中である」

 

とレポートは述べていた.「何人かの識者は,日本人があと

 

3インチ背が高かったら真珠湾攻撃はなかったであろうと

 

主張している.列島それ自体がちっぽけな陸地である.

 

日本人の家は,芸術的ではあるが薄っぺらで薄暗い.人々は

 

背が低く,ママゴト遊びをしているように見える.欧米人に

 

とって彼らとその国は,不思議なおもちゃの国の魅力をもって

 

いる.何世紀もの鎖国は,彼らの人生観の制限的な特質を

 

いっそう目立つものにしてきている.ちっぽけな連中である

 

日本人は努力と栄光を夢見たけれど,世界大戦に勝つための

 

物質的な必需品という現実的な概念を欠いていた.さらに彼らは

 

アメリカが現在欲しいままにしている大規模な作戦を立てることが

 

まったくできなかった」 

 

 

P264「異常性」

 

<<ある海兵隊員によれば,日本人は単に「徹底したキチガイ,

 

頭の中が病気,それだけのこと」であった.「アメリカン・

 

リージョン.マガジン」は,別の海兵隊員の話に「これら

 

ニップスはナッツ(気違い)だ」という題をつけた.これは

 

露骨であったが,日本専門家,社会学者,行動科学者が臨床的

 

な用語を使って言っていたことと本質において異なるものでは

 

なかった.1943年までには,アジアと太平洋の大半の日本兵が,

 

窮地に陥り敗北を運命づけられ,そのことを知っていた.

 

多数が病気または飢餓のために死亡した.他の何万人かは

 

狂信的な粘り強さを発揮して闘い,最後の闘いではしばしば逆上した.

 

無謀な攻撃をしかけて殺戮されるにまかせたり,敵に対して使える

 

豊富な弾薬がありながら手榴弾で爆死したり,天皇の名前のみならず

 

英語で奇怪な文句を叫びながら死の突撃をしたりした.この戦場での

 

狂乱ぶりや断末魔の苦悶は,むろん連合軍の兵士や従軍記者の

 

度肝を抜いた.その残虐行為により,敵は野蛮であると見なされる

 

ようになった.・・・・・・こうした戦場の地獄図から,個人と

 

あらゆる面での成長を妨げられた民族全体の肖像が現れた.

 

(中略)

 

キツネ注:(白人至上主義については,それが日本人専用のものではなく,

 

西洋の男性エリートが,他の人々を認識し扱うための基本的な概念として

 

何世紀もの間引き継がれてきたのであるとして,2つの文例を挙げている)

 

<<「知恵,技術,人間性などにおいて,これらの人々は大人と

 

子供,男性と女性の対比のように(英米人に)劣っている.すなわち

 

両者間には凶暴と忍耐,暴力と温和,ほとんど猿と人間のように,

 

大きな相違があると,私は言いたい」

 

「これら野蛮人は,まんざら気違いでもないが,当たらずといえども

 

遠からずといったところである.・・・彼らは気違いはおろか野生の

 

獣や動物同様,自制する能力がないか,もはや自制することが出来ない.

 

(彼らの愚かさ加減は)他の国々の子供や,すべての気違いをはるかに

 

上回る」>>

 

 実はこの文章は,16世紀スペイン人が,すべてのインディオに対する蹂躙

 

正当化するために書いたものであり,(英米人)は原文では(スペイン人)と

 

なっている.何世紀にもわたり,男性優先の西洋のエリート連中の,他の

 

人々を認識するための基本的な概念であり,日本人専用のものでは決して

 

なかったという)

 

 

 

 

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キツネどんの怒りのサケビ

 

「日本兵士は一人として生きて還すな」というのが,大本営の

 

方針であり,兵は「命を惜しんでは死んだ仲間に相すまぬ」または

 

「天皇陛下のご命令にそむくわけにはいかん」とかいう,欧米人

 

から見ればキチガイじみた「大和魂」を発揮して,つぎつぎに自爆

 

していったという.または一切の補給なしに熱帯の密林を何日も

 

強行軍させられ,餓死した兵も数しれず.(たまりかねて人肉を

 

奪い合ったというはなしも聞く)なんと・・・・

 

 

「その残虐行為により,敵は野蛮であるとみなされるようになった

 

・・・・・こうした戦場の地獄絵図から,個人とあらゆる面での

 

成長を妨げられた民族全体の肖像が現れた」のは当然の成り行きで,

 

グーの音も出ない.これも全て悪魔RQのしわざ,こいつが軍部の

 

頭を狂わせ,「生きて帰って,事実を暴露されては俺らが困る」とて

 

口封じをしたものか.

 

また,中国戦線では,まず負けた日本軍の聡退却が一夜にして終わり,

 

あとに残された日本人入植者はどうなったか.

 

鈴木健二氏の本の中に,この点を軍人会に詰問したのに対し,

 

「我々は終戦と同時に軍務を解かれて,日本人を守る義務はなかった」

 

という返事が帰ってきて,氏は怒り心頭に発したというくだりがある. 

 

 

これが「個人とあらゆる面での成長を妨げられた民族」日本人の

 

正体であろうか?この体験から学んで,今はすっかり成長した大人に

 

なったと言えるだろうか?

 

 今も悪魔RQを担ぐ人々が暗躍しつつある.

 

 

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p284  「黄禍論」 

 

(白人至上主義の盛り上がりにもかかわらず)ヘンリー・アダムズでさえ,

 

「色黒の諸人種がわれわれに追い迫っている」と心配し,この懸念に

 

優るとも劣らない軽蔑の念から当時の新しい趨勢を捉えた.すなわち,

 

白人優勢論があやうくなっているという恐怖である.これは19世紀に

 

数カ所から生じてきたが,その一つが中国だった.中国および中国人を

 

一方では軽蔑しながら,広大な国土と巨大な人口に対する畏怖の念も

 

あり,目覚めつつある「眠れる巨人」という懸念もあった.アメリカでは,

 

中国による侵略を描いた数多くの小説の第一号が,早くも1880年に

 

現れたが,「黄禍」ということばが世界に知れ渡ったのは,それから

 

まもなくのことだった.

 

(中略) 

 

 

北京と天津の外国公館が,神秘的な秘密結社とかかわりをもつ何千人

 

もの気違いじみた中国人に包囲された1900年の義和団の乱は,・・・・

 

キリスト教徒の狭い飛び地を,いまにも呑み込もうとする暴力的な

 

異教の東洋という具体的なイメージを与えた.これらの重なり合った

 

イメージが,日本に引き継がれた.

 

1882年以降,アメリカへ押し寄せるアジア移民の大波は,日本人が主流

 

になり,歪んだステレオタイプの重荷に苦しむことになった.

 

さらに義和団の乱の前に,日本はすでに日清戦争で中国を破って

 

おり,アジアでの真の新勢力としての地位を確立していた.だが,

 

このことが黄禍の恐怖の的を中国から日本に移し替えたのではなかった.

 

(中略) 

 

 

p289  「大衆文学に現れた東洋人」

 

 最初のフー・マンチュー小説が発表されたのは,1913年のことで,

 

10冊目は41年に出版された.作者はイギリス人で,母国とアメリカ

 

の双方で人気を呼んだ.アメリカでは本になる前に「コリアーズ」誌

 

に連載された.そのうちのいくつかは映画化もされた.1932年の

 

MGM制作(主演:ボリス・カーロフ)の広告は,これら大衆向け

 

出し物の感じをよく伝えている.

 

「フー・マンチューの仮面」では,邪悪な中国人医師が「指をピクピク

 

と動かすたびに威嚇を・・・・つり上がった目が見開かれるたびに

 

恐怖を伝える.フー・マンチューは中国人だったが,アジアの

 

エキゾチックな場所の群衆は彼の言いなりだった.彼は敵対する西洋人

 

の誰よりも才気煥発であった.・・・というのは,彼が西洋の言語と

 

科学に熟達していただけではなく,東洋の神秘を意のままにしていた

 

からある.作者のサックス・ローマーは,フー・マンチュー像を通じて

 

3つの不確かな不安の種をまくことに成功した.すなわち,アジア人の

 

西洋の知識および技術への精通,神秘的な能力による「解し難く恐ろしい

 

もの」への接近,それに黄色い大群の動員であった.先頭に立っている

 

のが中国にせよ日本にせよ,これが黄禍の本質だった. 

 

 

p291  「黄禍論への警鐘」 

 

(パールバックは中国文化の代弁者として,中国への尊敬を増す役割を

 

はたし,1938年にノーベル文学賞を受賞した.林語堂は,30年代から

 

ベストセラーを立て続けに出して「東洋の知恵」を伝えた)

 

こうした著作は,アジア人に対する偏見を押しとどめ,尊敬を増すのに

 

役立った.マスコミが,中国の日本に対する抵抗を好意的に報道した

 

ために,真珠湾攻撃後の親中国感情がいっそうの高まりを見せた.

 

とはいえ,日本の攻撃に対する反応がアメリカでもイギリスでも,あまりに

 

敵意に満ちた反「黄色」感情であったため,パールバック,林語堂,その他

 

彼らと同じ関心を抱いた人々は,潜在的な人種戦争の最も不吉な預言者と

 

なったのである.

 

・・・・そのような露骨な白人至上主義は,中国およびアジアの民族を

 

たやすく英米に敵対させ,日本の求めていたもの,すなわち反白人の人種

 

ブロックの一枚岩を結成させることになるからであった.

 

(1943年 ロサンゼルスでの講演で)パールバックは「最も強い人種的偏見を

 

抱いているのは白人である」と日本人が断言したのは,真実を語ったもので

 

あると率直に述べた.大抵の白人は,未来についての考え方が有色人種より

 

1世紀は遅れている.なぜなら有色人種は,植民地主義が時代錯誤である

 

ことを認識しているからだと彼女は語った.実際,平均的なアメリカ人の

 

非白人に対する独りよがりの軽蔑は,実社会に出ようとしている

 

「甘えん坊」になぞらえるほかはなかった.「喜んで知りたいことでは

 

ないでしょうが,私たちはすでに最も苛酷な長期の人類の戦争に引き込まれて

 

いるのかもしれません.すなわち東洋と西洋との戦争であり,白人とその世界

 

対有色人種とその世界の戦争を意味します」と,以前の講演で彼女は

 

言っていた.白人たちが構築した人種の障壁を急いで取り壊さないと,

 

ハルマゲドン(世界の終末における善と悪との最後の大決戦)に備えるほか

 

ないであろう・・・・・・

 

「・・・・そうなれば私たちは,とりわけ白人男性のために,途方もない

 

規模の闘争と戦争だけの将来に備えなければなりません.数の上での劣勢を.

 

最も野蛮で残忍なたぐいの軍備によって埋め合わせなければならないでしょう.

 

私たちは超兵器を準備しなければなりません.巨大な規模の化学戦にひるん

 

ではなりません.全文明を,私たちのものでさえ破壊しなければなりません.

 

数において圧倒的に優勢で,技術において私たちと互角の有色人種を抑える

 

ために.これは,どんな人間が望む未来なのでしょうか」

 

 

 

***************************************

 

キツネの感想:

 

このあと,本文は「日本人の自己認識」に移るが,戦後世代のキツネは,

 

民主主義教育に(たとえ名目だけでも)どっぷりつかって育った世代なので,

 

「異議申し立て」が一切出来ない年代の日本人というものを,よく理解

 

できなでいる.それで,国家神道や「アジアの盟主日本」の迷夢や,

 

政治家の無知無能や無責任と軍部のあきれた人命軽視について,聞けば

 

聞くほどはたしてそれにつける薬はないのだろうか?これから先,

 

パールバックのいう,「どんな人間も望まない未来」へ突入するのを防ぐ

 

道があるだろうか?と思うと,こころが暗くなる一方なので,健康のために

 

ここらでやめておく.

 

せめて原水爆禁止からはじめるべし!

 

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2,020  3 10 

 

 

キツネは1945年終戦の翌年に小学生になった.

 

この年代の若者について,鶴見俊輔氏が著書の中で触れている

 

部分が一箇所あるので,引用しておく.

 

「戦時期日本の精神史」 鶴見俊輔 著 岩波書店 1982年  刊 

 

 

<<(戦陣訓は)天皇に対する絶対服従を強制し,兵士たちに

 

生きて捕虜となってはいけないとさとし,兵士の家族には

 

戦死者の遺体がうちに戻らない場合もあるための覚悟をして

 

おくように伏線を準備しています.このような軍国国民と

 

しての徳目を小学校の少年少女にまで強制することを通して,

 

教師たちは,生徒に対し軍隊組織における上級者の役を演じ

 

ました.・・・・このような教師たちが,1945815日を

 

堺として,回れ右前へという動作をしたことは,彼らに教え

 

られていた子どもたちの心中に,目標に対する裏切り者と

 

しての忘れがたい印象を残しました.子どもたちがそれまで

 

使っていた教科書は,修身(道徳:キツネ注)の教科書だけなく,

 

歴史の教科書,地理の教科書,自然科学の教科書などを含めて

 

そんなところにまでちりばめられている日本の国体賛美の文章

 

の全てに墨を塗ったうえで,はじめて使用を許されました.

 

 

これらの墨を塗られた叙述のかわりに,子供たちは,それまで

 

国体を守るためには玉砕する用意があるべきだと教え,勅語を

 

暗誦するときにうまくいかなかったりすると殴ることをふつうに

 

していたそのおなじ教師たちが,こんどはそれこそきわめつけの

 

科学的真理であるというものを占領軍直伝の真理として教え込み

 

ました.このような大人の指導者に対して,降伏当時に

 

6歳から15歳のあいだの年齢にあった人たちのもった不信の

 

観念が,そののちもこの人たちについて回ります.この中には

 

占領不信の倍音が響いていることにも注意する必要があります.

 

 

かれらは,1960年に戦時指導者だった岸信介が総理大臣となって

 

米国と日本の間に軍事協定を新たに結んだときに,政党から独立

 

した抗議集団の中核を作ります.519日に岸総理大臣とその

 

率いる自由民主党は,多数決によってこの軍事同盟を衆議院で

 

可決しました.それは合法的手続きでした.野党はこの問題に

 

ついてもっと議論をすることを強く求めましたが,岸総理大臣は

 

待つことができないと感じました.というわけは,彼は米国大統領

 

アイゼンハワーが日本を訪問する日取りに合わせて彼へのお土産

 

としてこの軍事同盟を手渡すつもりだったからです.彼のとった

 

手続きは合法的なものではありましたが,力に任せた多数党の

 

強引な軍事協定可決への動きが戦時内閣の大臣によって,いまは

 

総理ですが,なされたということは,民衆のあいだからこれまでの

 

歴史になかったほどの自発的な広範囲にわたる怒りを呼び覚まし

 

ました.ほとんどひと月の間,抗議する人々が,国会を取り囲み

 

ました.その絶頂にあたる64日には全日本で抗議のデモを

 

行った人々は560万人あったと報道されています.衆議院可決

 

後この法律が成立した618日には,33万人の人々が東京の

 

国会を取り巻きました.国会にたいする抗議としては日本歴史で

 

最大の規模でした.この抗議運動の中で(618日に3日先立つ)

 

615日のことですが,学生の集団が国会に押し入り,警察機動隊

 

とぶつかるなかで,東大女子学生樺美智子(当時22)が,死亡

 

しました.アイゼンハワー大統領は日本訪問の途中にすでにあって

 

当時フィリピンに来ていたのですが,樺美智子死亡のあとで起った

 

抗議運動の強さを知って日本を訪問する計画を取りやめました.

 

岸総理大臣は辞職せざるをえなくなりました.しかし新安保条約は

 

法律として成立しました.日本はしっかりと米国の核のカサのもとに

 

置かれることになります  (中略)

 

このときに抗議に参加したのはどういう人たちだったのか.

 

もっと大きくくくってとらえるならば,この抗議運動のおこった

 

1960年には日本国民の過半数が15年戦争をくぐり抜けた記憶を持つ

 

ものであり,その記憶が日常の昏睡状態から呼び覚まされたと

 

言えます.抗議に参加した学生と市民は,全体として国会内の

 

左翼政党の呼びかけに応えてこの行動に入ったのではありませんでした.

 

学生たちのもっとも急進的な集団は,共産主義者同盟という組織に

 

属しており,それは日本共産党とは独立しておりこれに対して

 

批判的な組織でした.共産党も社会党もこの反乱のなかで抗議行動の

 

行方を左右する力をほんのわずかしかもっていませんでした.

 

反対運動の高まりは,岸が退いて池田勇人が首相となった後に退いて

 

いきました.池田隼人は低い姿勢によって知られ,日本国民の収入を

 

倍増するという経済計画に集中しました.このようにして反対行動が

 

終わったことは,大衆の抗議がイデオロギーに基づくものではなかった

 

という性格を示しています.それは主として15年戦争に対して責任を

 

持っていた首相の存在と,中国人に対して日本人がもっていた罪の感じ

 

によって古傷が引き裂かれて痛みを発したということに由来しています.>>

 

 

 

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🦊:ところで,この歴史的な抗議デモに,20歳のキツネは残念ながら

 

参加していない! 友人に向かって「(行かなければ)あとで後悔する

 

ことになるかもしれないな」と自分で言ったのを憶えている.友人は

 

多分行ったと思うが,キツネは行かなかった.軟弱な奴でもあったし,

 

全学連のいわゆる「対話集会」なるものにはヘキエキしていたし,

 

要するにモノグサからだ. 

 

しかし,現首相が,「おじいさんの名誉回復を誓って,墓参をする図」

 

を見たら,なにやらムズムズと悪寒が走った.「年寄りの妄想とは

 

言わせないぞ!我らはあの戦争のぞっとするような真実を忘れない.

 

国民の思いなど自分には関係ないって?そうして,強権で憲法を

 

捻じ曲げ,おじいさんの失敗を帳消しにしたいだと?もう,怒ったぞ!」

 

というわけだ.

 

だが,例えば東北の方々が原水爆廃止運動の先頭に立つことも,現政権に

 

ノーということも出来ないだろう.ロシアや米国の大統領の言う「大人の

 

事情」が色々あるもんね.こんな誰の関心も惹かないブログで,老人が

 

何をつぶやいても,世の中かわらないかもしれん.

 

だけど,「原水爆は日本にとって必要だ.世界の平和にとっても必要だ」

 

なーんて,いつまでも言わせておいていいのかい? 

 

 

2020  7  10

 

 

「三光」完全版

 

中国帰還者連絡会編:1982年 晩聲社刊 

 

 

まえがき  本田勝一「反省なき民族」のために (一部抜粋 

 

「人類には確かに共通する性格がある.

 

たとえば戦争での残虐行為と言うことになると,

 

アウシュビッツののナチ・ドイツとか,中国その他

 

での日本軍,ベトナムでの米軍,中央アジアでの

 

蒙古軍等々,特に侵略軍の側に特徴的である.

 

・・・すなわち,侵略を「する側」になるやいなや,

 

いかなる民族も残虐非道の鬼になりうる点で,

 

人類は共通の性格を持っている.

 

しかし,民族によって異なる歴史はもちろん,

 

異なる性格があることをも,他方では認めざるを

 

えない.日本の近代史,現代史をみるとき,その意味

 

での著しい特徴のひとつは,自らの力で体制を根底から

 

覆したことが一度もないという点であろう.天皇の名に

 

おいて何がなされようと,ついにこれが根底から批判

 

されて覆ることはなかったし,軍国主義路線の果にアジア

 

に惨憺たる状況をもたらした末,自国民をあれほどの

 

目にあわせたA級戦犯を,戦後も平気で総理にする神経

 

を持つ.この神経は,ときにはプラスに働いて,ある側面

 

では有利になることも在る.要するに反省なき民族という

 

ことであり,いちいち反省している民族よりも小回りがきくし,

 

「手段を選ばずモウケる」ときにも有効だ(中略)

 

けれども,日本人が世界の他民族と何とかうまくやっていく

 

ためには,この性格がプラスになるとはどう考えても思われ

 

ない.・・・

 

(この手記を世に出すにあたって)私たちが到達した認識は,

 

まず自分の犯した罪行に対しては実行者として自ら責任を取る,

 

その上に立って命令者の,またそのような状況を作り出した

 

為政者の責任を徹底的に追求する,ということであった.

 

ここに発表される手記はこのような認識に基づいて1955

 

ごろに書かれた手記の一部である.

 

・・・いったい日本は中国で何をしたか.私達がかつて体験した

 

加害者としての戦争体験を訴えることによって戦争の実態を

 

暴露し,あのような過ちを次の世代の人たちに二度と繰り返え

 

させてはならないと言う悲願をこめ,私たちをあのような状況に

 

陥れた当時の為政者ーーその残党は今なお健在であるーー

 

を告発し,現在の為政者に警告を与える.これが本書を世に問う

 

ゆえんである」

 

 

 

あとがき  富田正三(中国帰還者連絡会会長)

 

「『三光』は世にも数奇な運命を辿った本である.

 

いまから27年前(1957)神吉晴夫氏によって

 

カッパブックスの一冊として出版されるや忽ち

 

ベストセラーとなったが,すかさず右翼の妨害を

 

受け,市場から姿を消した.(その後,第1集と

 

2集を合わせて光文社から出版が計画されたが,

 

これも右翼の猛烈な攻撃にさらされて,日の目を

 

みることはかなわなかった)

 

その後,曲折を経て第一,第二集をまとめて

 

完全版『三光』としてまた世の中にすがたを現す

 

ことになったのである.私たちの手記が『三光』の

 

名を冠して世に出るのは,これが最後であろうこと

 

を思うと,いささかの感慨を禁じえない.

 

ここに収録されている手記は私達の体験のほんの

 

一部である.私達は満州事変ーー関東軍が自分の手

 

で鉄道を爆破,それを中国軍がやったとして事変を

 

捏造したことが戦後明らかになり,その延長上に

 

盧溝橋,太平洋戦争があるーーを契機とする道義なき

 

対中国侵略戦争の中で非人道の蛮行を重ねたので

 

あった.これが侵略戦争の実態であり,・・・

 

私たちだけが特に例外だったのではないということ

 

である.もちろん,こう書いたからといって,

 

私たちの当時の蛮行がいささかも免罪されるわけ

 

ではないことはいうまでもない. 

 

私たちは,1950年,対中国戦犯としてソ連から

 

中国に引き渡されたのち,必ず酷い報復を受け,

 

生きては帰れまい,というヤケクソの気持ちで

 

中国側に反抗的な態度を取り続けたのだった.

 

ところが,中国人民・戦犯管制所の職員は,

 

私たちの予想に反し,私たちにいささかの復讐的

 

態度もとらず,一度も侮辱的言辞を使用しなかった.

 

「罪を憎んで人を憎まず」という中央政府の戦犯

 

処遇の方針を厳守したのである.食事は職員は

 

一日2回の食事であるのに,戦犯である私たちには

 

3回与え,病人がでると徹底的に看護し,重病人は

 

外の病院に入院させるという状態であった.はじめ,

 

私たちはそうした中国側の態度を疑ったが,それが

 

1年,2年とつづくうちに,なるほど人間の取扱いは

 

本来こうあるべきもので,かつて私たちが中国人を

 

人間としてではなく虫ケラ以下に扱って来たのは

 

間違っていたと自分の過去を見直す眼が開かれて

 

いったのであった.

 

また,「上司()の命令さえなかったら」という

 

自己合理化,自己弁護の思想も,殺される被害者の

 

立場から見れば,上官の命令か本人の意志かの区別は

 

問題にならないこともわかった.

 

このようにして次第に認識を高めて,最終的には程度

 

の差はあれ,これではどのような刑罰を受けてもそれは

 

当然であると考える心境に私達はなったのである.

 

このような段階(1955年ごろ)で,本書に収録された

 

手記が書かれたわけだった.自分の過去を断罪する

 

意識の高揚の中で書かれた手記であるため,自分らの

 

悪を極度に強調する傾向があることは否定できない.

 

しかし,書かれている内容は事実であり,それは

 

各手記の後につけられている現時点での筆者の感想

 

でも明らかなことである.1956年春,軍事法廷が

 

儲けられ,千百余名中45(うち9名は太原組)が起訴

 

され,他は不起訴即日釈放となった.56年中に帰国,

 

起訴された人は禁固12年から20(ソ連5年,

 

中国6年,計11年を含む)の刑に処せられたが,

 

1964年に3名の釈放を最後に,全員帰国した.・・・・

 

(職員のある人は抗日戦の兵士,または全員が,身内が

 

日本兵にひどい目に合わされた体験を持つ人であった

 

という.在る看守は「奴らを北満の荒野に引き出して

 

皆殺しにすべきだ」と叫んだ.また,「おれたちは

 

2度の食事で我慢しかれらには3度も食事を与えて

 

いるのに,あの態度は何事だ!」と怒りを顕にする

 

ものもあり,所長は中央の方針に従い説得するのに

 

骨を折ったという)

 

しかし,私たちの態度が変わるにつれ,職員も政策の

 

正しさに自信を持ち,職務に精励し,それがまた

 

私たちに反映し,政府の方針と管制に当たった職員の

 

個人的感情を乗り越えた高度の人道的精神にふれて

 

私たちは鬼から人間へ立ち返ることができたのであった. 

 

読者のかたがたが本書に収録された手記によって,

 

日本人は中国で何をしたか,戦争は人間を鬼にする

 

こと,また,中国人民が高い道義性を発揮して私たち

 

を鬼から人間に生還させてくれたことを分かって

 

いただけたら幸いである.

 

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🦊キツネの「頭の整理」 

 

「三光」とは中国語の焼光,殺光,搶光,つまり

 

「焼き尽くし,皆殺し,奪い尽くす」の意味で,

 

中国側が日本軍の野蛮行為を名付けたものであり,

 

別に「三光作戦」などという日本軍の作戦名は無い.

 

 

実態は,日本軍が冀東地区(河北東部)における「愛護村」

 

(抗日根拠地=あるときは赤軍に,あるときは蒋介石軍

 

につき,村民か兵か区別もつきかねる状態で,攻略

 

は困難であった)を一掃し,治安維持をはかるため,

 

北支方面軍はここを「無住地帯」とし,地区の全住民

 

 

を,持てるだけのものを持って追い出し,残された

 

家屋,食料の穀類の一切を焼き払い,長城線より4キロ

 

離れた地に移転させ,幅4キロ,全長100キロ余の

 

地域を「無住地帯」と定め,住民の復帰を禁じた.

 

 

(その際働ける男子を軍事工事の人夫として強制徴用し,

 

 

工事終了後に殺害したという)

 

この命令に反抗して惨殺された者200余名,家屋は5万戸,

 

非戦闘員10万人を追い出した.これは北支方面軍の陸軍

 

歩兵団その他の公式記録による. 

 

ところで,「三光作戦」などというものはウソッパチだ,という

 

一派が居て,次のように言ってます.

  

「三光作戦」て何・・・・(脱・洗脳史講座:田辺敏雄)

 

2006(平成18)春から使用されている中学社会科で,

 

「三光作戦」の記述のある教科書は,日本書籍新社の

 

一社だけです.・・・最近まで4社が記述していましたが,

 

ようやく1社にまで減少しました.もう一息でしょう.

 

もっとも高校用はまだですが> 

 

(これは,「作戦」の部分つまり三光は中国側が後からつけた

 

呼び名であって,それを冠した「作戦」を日本軍がやるわけが

 

ない,という点で,その間違いを指摘しているだけのことだ.

 

三光は「作戦ではない」というのは正しい.じゃあそれは

 

何だったかというと,それは「中国側の宣伝で中身は

 

根っからのウソッパチだ」とおっしゃる.「証拠はちゃんと

 

抑えてある」というのだが,さて,どうなんだか.

 

 「キツネの悪い頭の整理」に時間がかかってしまったが,

 

次に読んでいただきたいのは,生還した日本人たちの証言集です.

 

あまりにショッキングな証言集は,ベストセラーにもなるが,

 

同時に激しいバッシングにも会う.この場合は右翼諸氏の

 

餌食になり,教科書から消され,まもなく「無かったこと」に

 

されてしまうのだろうか?

 

彼らは生き証人が全てこの世から去るときを待ち構えているに

 

ちがいない.これがウソッパチならば,なぜ証言者に面と向かって

 

「ウソをいうな!」と言ってやらないんだい?

 

彼らの期待するのは「証拠隠滅」というやつだね.

 

キツネ思うに,この分では検証しない歴史が文部省の監修を経て

 

生徒の頭に詰め込まれ,「反省なき国民」の伝統は受け継がれる.

 

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完全版三光」より 

 

 

「強姦」ーー赤ん坊を殺し母親を犯すーー石田幹雄:兵長 

 

<シュッ・・マッチがすられ,硫黄の臭いが鼻をつく.

 

ボーッと鈍い光がだんだんと強くなって,暗闇の中から

 

オンドルにのべられた布団の上に壁を背にして赤ん坊を

 

抱いた若い女の姿が浮き出して,幅広い壁に斜めに

 

ゆらいでいる.その前に薄汚れたカーキ色の服に帯剣を

 

ぶらさげた兵隊が,ニヤツと歯をむき出して,満足そうに

 

頬をゆがめて笑っている.反面に黒く影がさした顔に

 

不気味に光る眼鏡が狼の眼のように光って,おののく女の

 

瞳が怒りをこめて大きく見開かれ,声もあげることも

 

できず,身をすくませて後ずさりをする・・照らしていた

 

マッチが消えて再び闇になった. 

 

 

中国に初年兵として上陸以来,いまだ半年にも満たないのに,

 

私は擲弾筒手として,4回もの「討伐」行動に加わっていた.

 

戦闘をやることよりも,行く先々の農家に踏み込んで牛,豚,

 

鶏を殺して,腰掛け又は農具等,ときによっては棺桶までも

 

焚物にして,かき集めた油や粉で「夜戦料理」をこしらえて

 

喰うのが「討伐」だと思うようになっていった.古年兵たちは

 

「『討伐』に行けば酒も女もついてまわるし,賭博の”もとで”も

 

転がっているもんだ,員数(生命の意)さえ飛ばぬように気を

 

つけりゃ,討伐さまさまだ」と口癖のように言っていた.

 

私は入隊以前に満州や上海からの兵隊の帰還者から戦地の話を

 

聞き,その猟奇的なものに心を惹かれて,俺も戦地に行きたい

 

ものだと思っていたのだが,それが30歳の補充兵として実現

 

されたのであった.二回,三回と「村落掃討」が重ねられる

 

なかで,村から逃げ遅れた女を見つければ決まって古年兵たちは

 

私たち初年兵を門番にして,その婦人を手ごめにした.都会で育ち,

 

16歳にして銭で女一人を一晩弄ぶことが出来る世の中を知って以来,

 

多くの女を弄んできた私は,それを見せつけられて,官能を刺激

 

され,早く自分もあの真似をやりたいと考えるようになっていった.

 

魯東作戦中,大熊兵団に配属になって福山県城から67キロ隔たる

 

この村に,私たち59師団直轄自転車中隊が着いたのは,1942

 

11月下旬の雪模様で風が強い日の午後3時ごろであった.田島少尉

 

の命令で,思い思いの獲物を求め蜘蛛の子を散らすように門を潜る

 

兵隊に混じって,山口上等兵と別れた私は,散々あちこちひっかき

 

まわしたあげく,誰もいないと思って西端の家に入ると,そこには

 

意外にも色白の美しい女の姿を診てビックリしたのであるが,次の

 

瞬間,けだもののような情欲がはげしく燃え上がってきたのだった.

 

日本のためにならない「匪賊」を退治するのが戦争だと学校の

 

先生も,お役人も,坊さんもそう教えた.私はお国のために尽くせる

 

兵隊となって戦地に渡った.だが,私が旗の波と歓呼に送られ,

 

訳もなく心で泣いて国を出てから,なにをしていたか?父母も.

 

私の友達もほんとうのことは知らなかったであろう・・・

 

私は中国に渡ってから,まったく戦争というものの虜となって,

 

目先が見えなくなり,銃剣を持っているがゆえに,なにも持たぬ

 

中国の人たちを思うままに出来ることに有頂天となっていた.

 

何の抵抗の意志もなく,野良仕事をしている百姓を撃ち殺し,

 

百姓の家を焼き払い,婦人を蹂躙して喜んでいた.(中略) 

 

 

夜を待って再び農家に忍び込み泥靴で布団の上に飛び上がり,

 

大手を広げて壁際の女をめがけて襲いかかった私の体の下を

 

潜り抜けて,素早くオンドルの片隅へ身を寄せた婦人は,じっと

 

闇のなかで私の次の行動を見つめていた.・・・

 

再び,母親の体をめがけて猟犬のようにとびかかった私は,

 

相手の肩を鷲掴みにして壁から引き離した.

 

闇の中で2つの塊が一つになって,オンドルの中央へ転がった

 

とき,突然赤ん坊の泣き声が 耳をつんざいた.あたりに人の

 

気配はないと思っている私はドキッとして,あわてて,赤ん坊の

 

口に手をあてがった.息を詰まらせて首を振る口を押さえた私の

 

指を伝って,よだれが流れ出し,母親は私の手を離そうと懸命に

 

なった.母親の襟首をつかんで引き倒すと,再び赤ん坊の口

 

から鳴き声があがり,私の気持ちを高ぶらせ,「この餓鬼め」と

 

口をふさぎながら片手で母親の服を剥ぎ取ろうとした.だが,

 

しっかりと我が子を抱きしめ,身を守ろうとする母親の力は強く,

 

私の意のままにはならなかった.戦争に勝った者が負けた者を

 

好き勝手にするのが当たり前だと思っている私には,女一人を

 

意のとおりできないので誇りを傷つけられたように思い,

 

それもこの餓鬼がいるから出来ないのだと,抱かれている

 

赤ん坊が憎くてたまらなかった.・・・こいつを片付けんこと

 

には,泣き声で仲間に知られるおそれもあるし,早く始末して

 

からだ・・・

 

私が服から手を離し,子供の襟首に手をかけた様子に,わが子

 

の危機を知った母親が両手で子をかばおうと気を引き締めるのを

 

片足で母親の肩を踏みつけ,赤ん坊の背にまわされた母親の手を

 

捻じ曲げ,生木を引き裂くように力いっぱい子供の体を上に

 

つるし上げた.ギャーッと悲鳴をあげて宙に浮いた赤ん坊が,

 

紅葉のような手を動かしてもがくのをどうして始末してやろうか

 

思案する私の頭に,昼間見たオンドルの焚き口にかけられて湯気

 

をあげていた中国特有の大きな釜が浮かんできた.

 

「よし,あそこだ」思わず口に出た言葉を飲み込んで,釜に近寄る

 

私の足にしがみついてきた母親を蹴飛ばし,搗きたての餅のように

 

フワフワした赤ん坊の足首を握りかえして,頭を逆さまにしたまま

 

釜をめがけて投げ込んだ.ギャーッ・・釜の湯を吹き上げ,

 

ひときわ高い赤ん坊の悲鳴が,私の耳に錐をもみこまれるように鋭く

 

食い込んできた.そして,一瞬静寂に返った空気の中に,キーッと

 

絹を裂くようにわが子を奪われた母親の叫びが壁をゆすぶった. 

 

 

自己の欲望を満足させるための邪魔になるからといって,生きている

 

人間の子供を・・・ようやく舌がまわりはじめたなんの罪もない

 

赤ん坊を,煮え湯の中に投げ込んでしまったのだ.わが子を気づかい

 

必死に釜に駆け寄ろうとする母親を,「餓鬼をかたづけりゃ,今度は

 

お前をゆっくり・・」と私は勝ち誇った頬をゆがめて腰を蹴り上げる

 

と,母親は壁に当たってオンドルに転がった.「フンッ」と鼻を

 

鳴らして,「お前がおとなしくしないからだ」と,わが子の名を

 

呼び救いを求めて悲痛な叫びをあげる母親を,「なんとわめこうと

 

百年目だ」とばかり口をふさごうとした.その手へ歯をもって逆らう

 

手強い抵抗に,ますます野獣の本性をあらわした私は,頭から布団を

 

おっかぶせ,その上に馬乗りになって,身悶えするのをついに蹂躙

 

したのだ.私は隣国の中国の領土に侵入して,なんの恨みもない,

 

平和を愛し勤勉な沢山の人達を殺し,多くの婦人を姦してきたことを

 

振り返るとき,あまりにもけだものに似た自分の行為を責めずには

 

いられない. 

 

私の手によって煮え湯の中で殺された赤ん坊が生きておられるならば,

 

立派な中学生として,中国を背負う未来の若者となっているであろう.

 

私が犯したーー人間が人間をころすことを楽しみにし,己の欲望の

 

ために罪ない赤ん坊を猫の子のように投げ殺すーー帝国主義の

 

侵略思想に毒された,私の思想の罪悪性を心から憎まずにはいられない>

 

 

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🦊:キツネの感想文

 

  これを読んで,世の中学生のお母さんならば,「うちの子に

 

  こんなものを読ませたくはない!とんでもない」と叫ぶだろう.

 

  当然のことで,無理もない.お母さん自身も知らなかった戦争の

 

  実態だ.

 

  キツネは終戦の翌年に小学生になった.世の中は180度ひっくり

 

  返って「民主主義」教育が上から押し付けられ,その中に浸って

 

  大きくなった.だが,この手記が戦争の実態だということは,

  

  当時の小学生にもよくわかっていた.戦争の悲惨な体験を人前で

  

  しゃべりたくはない.けれども戦友会などで一端酒が入れば

  

  たちまち「自慢話」が始まる.それは上の手記と同様,日本の男

 

  の本性ともいうべき「なにも減るもんじゃなし」の一言で表され

 

  うる結構な「男の優位」,「獣的本能」むき出しの,負け戦の後

 

  のせめてもの自己肯定.

 

  おぞましい限りだが,それが市中にワッと出回ったカストリ雑誌,

 

  写真週刊誌その他で拡散し,日本人に戦争の実態を知らしめたのだ.  

 

  それにしても,この人物の行為にはヘドが出る.それにも増して

 

  細部が型にハマって丁寧に描写されて,一層気持ちが悪い.

 

  そして「帝国主義の侵略思想に毒された,私の思想の罪悪性」

 

  を心から憎むという.最後の文は明らかに中国共産党の「洗脳」

 

  の成果でしょう.

 

  戦後,中国から帰った子どもが,「共産党少年団員」みたいな

 

  口をきくのを映画でみかけたが,その後はどのように育った

 

  だろうか・・・

 

 

  ******************

 

     

 完全版「三光」より

 

 

「村落掃討」 上級将校の罪行  野間栄作:少佐 

 

 

194110月,河北省涿県城に駐屯していた独立歩兵第七九大隊は,

 

「普察冀(万里の長城の南側一帯)辺区作戦に参加するために房山県の

 

西部,張坊鎮に部隊主力の約350名を集結し,拒馬河河峪(河の両側が

 

山になっている谷)及び百花山周辺の八路軍を圧倒することを狙って,

 

その行動を準備したのであった.当時新任大隊長小野真吾大佐と中尉

 

の中隊長との間にあって,大尉の副官として功績と人事業務をおもに

 

扱い(副官に命令権はないが,大隊長が新任のため,代わって指揮して

 

いる),各中隊を勝手気ままに使いまわし,自分の功績のために夢中で

 

あったのが私であった.

 

 

その夜の二時,寝不足の目をなでながら張坊鎮を出発,六渡村の

 

払暁攻撃を計画して行動した.真っ暗な河峪道を約1時間前進し,

 

乾河村の東方高地にさしかかったとき,突然大きな火の玉が目いっぱい

 

に映ると,河原をひっくり返すような爆音がして,約4キロの長蛇の列

 

を河原にへばりつかせた.私はとっさに尖兵中隊がやられたと思った

 

ので,あわてて馬から降りて石の陰に身を隠すと,退却しようか,どう

 

しようかと考え,尖兵中隊の報告をいらだちながら待っていた.しばらく

 

して,「尖兵の前方で敵の手榴弾二発炸裂す,信号用と判断す」と報告が

 

きた.私は,こんな真っ暗な峪地で伏撃されたら大変だと,冷水を浴びた

 

思いで地にはっていたが,信号用とわかったので,ヤレヤレと胸をなで

 

おろしながら小野大佐に報告した.

 

小野は「オイ副官,地形は悪いし,敵情は不明なのに,前進して大丈夫

 

かな」とふるえ声であった.私はここだと思って,「暗闇ですからこの

 

地形でも前進できるのです.明るいときでは一個分隊の敵に抑えられます」

 

と思い切った強がりを言った.小野はしばらくして,自分の大佐の肩章に

 

気がついたらしく,「そのとおりさ,しかし敵情がさっぱりわからない

 

からな」と不安を隠すようにうつろに笑いだした. 

 

 

10月の朝の5時は払暁であった.拒馬河の畔の六渡村を東北方から包囲

 

した部隊は,獲物をねらう狼のように包囲網を次第に狭めて,530分,

 

山砲の砲撃とともに,4丁の機関銃が村をめがけてめくら射撃をはじめた.

 

しかし村からはなんの反応もない.危険と思ったので,まず県警備隊

 

(中国人の投降兵で構成されている)40名を村に侵入させてから日本軍を

 

進めた.村に敵なしと見た県警備隊は村の中央まで前進し,家屋に押し

 

入ろうとして門先の敷石を踏んだ途端,轟然と炸裂した地雷に撃たれ,

 

たちまち1名はのびてしまった.

 

「地雷だ!注意しろ!」と叫んでいるあいだに,別の部隊のほうでも

 

炸裂音が2発,3発と起こった.私はあわてて,「前進待て!」と

 

山村中隊に伝えていると,西と東の山頂から急激な射撃を受けて,

 

ますます混乱してしまった.山村中隊の一部小隊は村落内で地雷と

 

射撃の挟撃を受けて動きがとれなくなってしまった.私はあわてて,

 

山砲と機関銃で山頂の敵を射撃させて状況を見るよう小野にすすめ,

 

山田中隊の1小隊をもって西方の山頂を占領させ,それでやっと

 

敵の射撃を防ぎとめた.

 

私が村に馬を乗り入れてみると,顔面を地雷で焼かれた県警備隊員

 

が道路の真ん中に倒れて,「熱い,目が見えない」と大声で泣いて

 

いた.また,別の場所では,膝から下をメチャクチャにくだかれて

 

倒れている者もあった.だいたいの状況を見て取った私は,小野の

 

ところに引き返すと,「村落内は空室清野(侵略日本軍に一物も与え

 

ないように家屋内を空にし,畑野も清掃しておく村民の抗日戦法の

 

一つ)で,ただあるのは地雷だけですが,あまり強力のものではなく,

 

負傷者数名でています.村落の略奪はやめて焼き払うことが上策と

 

思います」と話した.小野はちょっと首をひねって,「しかし

 

今晩の宿営地をどうするか」と言った.私は,「寝るには北方の村

 

が警戒が楽だと思います.地雷を埋めた六渡村は全滅にしましょう」

 

と強硬に主張した.「遅いか,速いかの問題だ.よし,焼いてしまえ」

 

と小野はやっと決断した. 

 

私は早速,山村中隊長を呼びつけると,村を焼き払うことを命じた.

 

1時間半かかって放火に使う粟殻やコウリャン捍の山が5つも出来た

 

ので,西半分の各家の入り口,本屋の入り口など,火のつきやすい

 

ところを選び,コウリャン捍を束ねた”たいまつ”で1軒ごとに火を

 

つけた.2軒,3軒と黒い煙は,やがて紅蓮の炎と変わり,10戸,

 

20戸と広がっていく.地獄絵に見る赤鬼のように,真っ赤に顔を

 

ほてらせた日本兵が,”たいまつ”を振り回しながら駆け巡っている.

 

風上から火を放たれた村は折から巻き起こった旋風にあおられて,

 

みるみる黒煙におおわれ,火炎と変わり,灰塵となっていった.

 

私は山田中隊の警戒部隊に「村が焼かれるのを見ると撃ってくるから

 

よく警戒せよ」と伝えた.「よく燃えますなあ,これで地雷もなにも

 

みごとに掃除されます」と小野に笑いかけると,彼も「火祭りを見物

 

しながら食事をすませて,あとの仕事の準備をしようか」と笑って

 

言った.私は山村中隊に終結を命じ,山田中隊,山砲隊,機関銃隊には

 

現地で警戒をしながら食事をとるよう命令した. 

 

六渡村がまったく焼け落ちたころ,部隊は一部警戒兵力を残置して六渡

 

村の北方約3キロの村落に侵入した.今度は十分用心してかかったので,

 

「仕掛け手榴弾」による負傷者2名をだしたのみで,扉や櫃,机や椅子,

 

天井裏やオンドルまでも打ち壊して,村の破壊を行った.私が村に入って

 

巡回してみると,「空室清野」で炊事鍋ひとつ無い.居座りをするのに

 

炊事具がないと不便だと考えたので,山村中隊全員を使って探させ,

 

しばらくして鍋を五つ六つ発見し,宿舎配当のときに分配し,居座りの

 

準備もできたので,六渡村付近の糧秣略奪を計画し,残留の牧田中隊長

 

あてに「明後日7時までに六渡村に到着するように,搬出人夫300名を

 

派遣すべし」と打電した.

 

翌日は,歩兵2個中隊をもって,六渡村を中心とする地区の糧秣略奪を

 

始めた.各隊は数組に分かれて,畑に残された粟やコウリャンの穂の

 

切り取りと,刈り取った糧秣を保存してある耕地や山の中の穴蔵を探し

 

まわった.「一物も残さんように,徹底的に蒐集せよ」と作戦前から

 

耳にタコが出来るほど聞かされていた各中隊は,競争で集めたので約

 

20トンほどの糧秣を集めた.第三日は張坊鎮から来た300名の人夫を

 

使って,前日蒐集した糧秣を袋詰めにさせた.「コラ,ニイコウ(中国人

 

の蔑称)クワイクワイダ(早く)やれ」と鞭を持った下士官が怒鳴って

 

まわる.搬出に駆り出されてきた農民は,気の進まない顔つきで粟の

 

穂をすこしづつ袋の中に詰めている.横で見ていた兵隊が,農民の所に

 

近寄り,ゴツンとげんこを食わせて,「オイ,この野郎,早く詰めないと

 

日が暮れるぞ,こうやるんだ」と怒鳴ると,農民に袋の口をもたせ,

 

両手で抱えた粟の穂を袋の中に押し込み,泥靴で上からグングン踏み

 

つけた.

 

「どうだ,ミンパイ(わかる)か,リャンゴレン(二人)でやるんだ」と,

 

そばで見ていた農民の袖を荒々しく引っ張り,詰めかけの袋のところに

 

突き飛ばすと,「両個人で快快的でやれ」と怒鳴った.農民は憎悪に

 

燃える目でに睨みつけながら,しぶしぶと二人で詰め込みに取り掛かった.

 

私は「10時までに荷造りを終わってしまえ」と現場を監督してまわった.

 

監視兵は「快快的」とわめきたて,犬か豚を追い回すようにして小突き

 

回して40キロ詰め袋を300個つくるために追い立てた.1030分に

 

荷造りを終えたが,まだ200袋分くらいコウリャンの残りがあると聞いた

 

私は,「一袋50キロまで追加しろ」と命じた.

 

300人の農民を10キロ増すためにまた段々畑に追い返した.「私は足の

 

具合が悪いので,追加は駄目です」とはれあがった足を出す老人に,

 

「うるさい奴だ,全部お前にくれてやるんだぞ.お礼を言って持っていけ」

 

と怒鳴りつけて詰めさせた.池谷主計が「まだだいぶ残るのですが,どう

 

したらよいでしょうか」と当惑しているのを,私は「焼き捨てろ」と吐き

 

捨てるように怒鳴った.「焼いてしまうのですか」と池谷は不服そうに

 

言った.「村民に食わして抗日の力をつけるか」と冷笑すると,「ハイ,

 

わかりました」と,また顔を赤らめて固くなった.

 

私は「部隊の人夫や馬糧に持てるだけ持たせて,残ったのは焼き払え」

 

と言うと,村落内の本部に引き上げ,小野大佐に「搬出隊」の状況を報告

 

し,明日からの行動について相談した.

 

翌朝,その村を出発した部隊は,北方に前進して,南窖(ナンコウ)村から

 

侵略行動を起こした北村中隊を指揮下に加えて,その後約1週間,西方

 

百花山周辺まで侵略し,糧秣を集めては焼き払い,家屋は宿舎に利用する

 

以外は手当たりしだいに焼き払って,ひとまず「糧秣補給」のための

 

駐屯地下庄村に引き上げて,3日間の休息をした. 

 

下庄村に引き上げた翌日,下庄〜張坊鎮間の「封鎖線」の進捗状況を視る

 

ために作業現場に出発した.「封鎖線」は,八路軍地区に対し,物資の

 

交流を阻絶するためと八路軍関係者が駐屯地内に入ることを防止する,

 

軍民離間工作のひとつであった.壕の大きさは上幅5メートル,深さ4

 

メートル,底幅3メートルで,この構築は,今度の「侵略作戦」によって

 

八路軍の武力を遠く後退させ,その機会を利用して一挙に遂行したもので

 

ある.

 

下庄〜張坊鎮間の約13キロは,岩盤地帯も相当あったために,房山県,

 

涿県,固安県の住民約6万名を使役し,2キロごとに監視望楼(58

 

収容)を築き,郷内を縦射出来るように電光形に作った.この種の封鎖壕

 

は,全中国12000キロの長さにおよび,中国人民の労働力を銃剣の

 

もとに酷使して構築したもので,その労働量のぼう大なことと人民の負担

 

は,言語に絶するものであった.名刹西城寺の南方約3キロの構築現場

 

に出かけた私は,農民が,固い粘土層を木製円匙(シャベル)で掘っている

 

のに驚いた.そこで牧田中隊長に「これで壕が掘れるか」と尋ねた.牧田

 

は半分くらいに減った鉄製円匙を指して,「これで掘り起こして,木の

 

円匙は「土はね」が主です.しかし軟土はこれでも掘れます」と答えた.

 

「ほかに器具はないのか」と聞くと,牧田は苦笑しながら「農具も焼いたり

 

壊したりしたあとは補充品がないのです.今頃は鉄類が手に入らないよう

 

です.いま農民の困難は,家畜が少なくなったために,農耕の畜力と肥料

 

難,それと農具不足の問題です.新民会に城内の鍛冶屋を調べさせましたが,

 

新品を作ることができません」と答えた.「作業もあと10日くらいだ,その

 

間にできあがるか」と聞くと,「大体できあがる予定です.壕の作業は,

 

日本人がガヤガヤ言うより,彼らにまかせるほうがうまくやります.先日も

 

壕が深くなったので,畚(もっこ)で土上げをやるようにさせたのですが,

 

彼らの計画した”二段掘り”のほうが効果的で,また資材もいらないので

 

上策でした.土木作業は確かに優れています」と牧田は感心したように語った.

 

昼食時になると,約100名くらいの集団が集まって腰をおろした.赤銅色

 

に日焼けしたしわだらけの老人,青白くやせた145歳の少年もいる.

 

大部分の人が裸足で,血の気の失せた顔に目玉だけギロギロと光らせていた.

 

やがて,黒い焼餅をかじる者,生葱や塩漬け大根をかじる者,頭を深く両足の

 

間に垂れて食事をせずにいる者もある.誰一人として声高に話す者もなく,

 

ときどき静かな声で話し合い,うなずき合っている.

 

私は「このごろの人夫は静かだな」と独り言を言いながら食事をしない農民に,

 

「なんで食事をとらないのか」と尋ねると,「食べるものがない」と言った.

 

「県公署から壕掘りに来る食料をもらわないのか」と聞くと.「留守の子供が

 

食べるにも足らない」とソッポを向いた.私は「食わずに壕が掘れるか」と

 

聞くと,「掘るよりほかに方法がない」と言いながら,たぎりたつ憤怒を

 

つばに込めて,地面にペッと吐きつけた.私はドキリとしたが,無言で

 

睨みつけた.男は両腕でひざを抱いて,大空を仰いでいた.

 

下庄に帰ってきた私は,下庄の隊長林少尉から,「部隊が八路地区に侵攻

 

してから,反対に八路工作者が占領地区内を安全地帯として潜入した

 

ようです.特に「日本軍警備隊」近くの村落が利用されているようです」

 

という報告を聞いて,<やりそうな戦法だ.灯台の下にもぐれば,日本軍の

 

行動は手に取るようにわかる.よし捕らえてやろう>と考え,「林少尉の

 

報告は八路軍のやりそうな戦法と思います.小隊の兵力も2日休養しました

 

から,明日五家村の地下組織を打ちこわしましょう」と大隊長に報告した.

 

小野は無造作に「よし,うまくやれ」と言ったので,私はさっそく山村を

 

呼び寄せると,下庄東北方約5キロの五家村の組織破壊の準備を命じた.

 

翌朝未明,私は歩兵1中隊と機関銃隊および山砲隊を指揮して,五家村

 

を包囲した.五家村は西は山を背に,南に長い日当たりの良い百戸ほどの

 

村落であった.村の西南方に砲,その横の高地に機関銃,北方の道路の

 

縦射に機関銃,東方に機関銃2挺を配置し,その間隙にそれぞれ小銃,

 

機関銃を据えて,1名でも逃げだすことが出来ないように準備すると,

 

山村中隊を3組に分けて村落の組織破壊を準備した.

 

山村中尉は部隊の一部を連れ,村の西端の一軒の扉を叩いた.家人は

 

何事かとズボンをはき,上衣をかけて扉を開けた.戸口に立った銃剣

 

が胸板を狙いながら,「外に出ろ」と引っ張り出し,「歩け」と薄闇

 

の中を村落外に連れ出して銃剣で取り巻いた.「村長」の名前は?

 

何歳くらいか?村民の評判はどうか?」と簡単なことを尋ねてから,

 

村長の家に案内を命じた.何事かわからないが,断れる問題ではない

 

ことを知っている村民は,しぶしぶと村長の家に案内した.

 

村長も急いで起き出して戸口に顔を出したとたん,拳銃で取り巻かれて

 

しまった.「何事ですか」と不審そうに尋ねる村長を伴って,村公署に

 

ゆき,戸口調査簿を没収した後,この調査簿によって村民を調査する

 

から,病人でもなんでも30分後に全員,廟前の広場に集合刷るよう

 

手配しろ」と村長に命令した.村長は言われるままに,村公署の書記

 

と炊事人と案内者を使って村民に伝えさせた.

 

山村中尉は,さらに村長を引っ張って村の南端の廟に入った.不安に

 

おびえる村長に,「お前の村に八路軍の工作員が潜入した確報を

 

つかんだのだが,お前は工作員とここの住民でない者を全部報告すれば

 

工作員を村に入れた責任は許してやる.しかし村長が報告したことが

 

村民に知れると,立場上困るであろうから,のぞき穴から見て前を歩く

 

人が村民でなかったときは,内証でこの将校に知らせよ.他の場所でも

 

同様に取り調べておる.もしお前がうそを言ったときは,家族ともども

 

銃殺にするから,よく考えて間違いなく報告しろ」とおどしあげ,安達

 

少尉に白の小旗を渡して,村長の監視を命ずると,廟を出て南の広場に

 

向かった.

 

広場では日の丸の旗を持った日本兵が一人立っており,村から駆り立て

 

られた人々が数名の日本兵に怒鳴られ,こずかれ,蹴飛ばされながら,

 

旗のほうに追い立てられている姿が,朝霧の中に浮かんで見える.孫を

 

抱えた老人,子供の手をとった母親,病人を背負った婦人,腕を組んで

 

目玉をギョロギョロさせながら重い足を引きずっていく50歳前後の男,

 

親を尋ねて泣き叫ぶ子供もある.噛み付くような怒声がこれらの人々を

 

追い立てていた.

 

やがて村民の集合が終わったのを見届けた山村は,準備しておいた3

 

の調査隊をして,村落内の点検を始めた.家の中はもちろん,納屋や

 

豚小屋までも人間の隠れそうなところはくまなく捜索し,水瓶を倒し,

 

櫃の中をかき回し,天井は破り,珍しいものは略奪した.重病で動けない

 

人を土間に引きずり下ろして殴りつけ,動ける者で居残った者は捕らえて

 

村の西端の畑の中に集めた.この破壊行動は2時間以上をかけて実施された.

 

ついで,朝の寒さと不安に3時間もさらされていた村民を一列縦隊にして,

 

村長ののぞいている廟の東側を歩かせ,内側にいる安達少尉の白旗が左右に

 

振られたときに前を通った者を,列外に引き出した.

 

1時間半後に,検挙者3名と,村落点検のときに捕らえた2名と合わせて

 

5名を縛って下庄に引き上げ.拷問を加えたが,村落内で捕らえた2名は

 

「病気で寝ていたが,日本軍が侵入したことを知ったので,ただ恐ろしく

 

て隠れたのだ」と言い,他の3名は,「行商のために五家村に来た」と

 

言い,いくら打っても叩いても,それ以上はなにも聞き取ることが

 

できなかったので,癪にさわって労工要員として処理するように命じた.

 

 糧秣の補給と整備を終えた部隊は,翌日の午前2時,下庄を出発して

 

第一次の逆コースをとり,房山西北部の山間村落を焼き,略奪して

 

百花山東側に進出した後,反転して117日未明,拒馬河上流の

 

十渡村を北方から侵略攻撃した.

 

村落の北方3キロ地点で小勢の八路軍の伏撃を受けた部隊は,たちまち

 

混乱状態に陥ったが,多勢を頼んでようやく交戦体制を整えて,2時間後に

 

八路軍が転進したあとの十渡村に侵入,西方の高地を歩兵1小隊と機関銃で

 

確保させて村落に侵入し,天井裏を破り,オンドル床を壊し,瓶の底を叩き,

 

櫃の中をひっかきまわし,血眼になって兵器や糧秣を探したが,まったくの

 

「空室清野」でめざすものはなにひとつ見つけることはできなかった>

 

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キツネの感想文

 

まさに中堅将校の「活躍」,上層部の評価がアガルこと間違い無し.なにしろ

 

素人同然の大隊長を補佐し,思いのままに動かして「作戦」を実行して

 

行く.そして中国農民の運命はこの少佐の人間性に左右され,蹂躙されていく.

 

北支那の独立混成旅団と(中国農民の言う)「日本鬼子;リーベンクイツ」の所業

 

は,まだ十分に検証されていない.終戦時の周恩来の「罪を憎んで人を憎まず」の

 

宣言に甘えたこの75年は,内なる「鬼子」をまたぞろ復活させようとしているか.

 

 

 

雨の日 窓ガラスと日よけのよしずの隙間にヤモリが2匹,雨宿り.

雨がやんでしばらくすると,いなくなった.

翌朝,ポリバケツに半分の水の中で,3匹のヤモリがもがいているが,

すべって這い上がれないでいる.コンクリートの上に水ごとぶちまけて

やったら,コチンと固まって動かない.すぐに動き出して逃げていったが,

よほどビックリしたらしい.こっちもあわてて,写真に撮リそこなった.

やっぱりスマホ買おうかなー.

 

 

2020 7. 15

 

 

 

「知られざる兵団」帝国陸軍独立混成旅団史  藤井非三四 著

 

2020 2月 国書刊行会刊  

 

 

この本は出版元からも分かるとおり,右翼系の学者(軍事史研究家)

 

によって書かれた真面目な研究書であり,墓の下のご先祖様も喜んで

 

くれるだろうと,軍人遺族にとっては待望の一冊だろう.

 

ただし,キツネが知りたい「三光」については一切取り上げていない.

 

<昭和初期から126個も編成され,終戦まで,中国,フィリピン,沖縄

 

など各地で苦闘した独立混成旅団の真実が初めて解き明かされる!!>

 

とキャッチフレーズにはある.

 

ただ1箇所だけ,軍紀に触れた1節があるので,それを書き出してみる.

 

 

 

p137 「軍紀崩壊の危機」 

 

昭和17(1942)2月に行われた第一次の独立混成旅団から師団への

 

改編だけでも,6個師団が編成されたのだから,それに伴う人事異動は

 

大規模なものとなる.今日でも大きな組織では,事故は人事異動の直後

 

に起きるとささやかれている.数万人にも及ぶ規模,しかも殺気立った

 

戦地での人事異動だから,何が起きても不思議ではない.人事異動が

 

頻繁な将校は,「命のままに,人事はひとごと,他人事」と諦観を

 

装うが,実のところの心情は複雑だ.国民の義務として召集された兵員

 

は,よりストレートな不満を抱くのも当然だろう.

 

独立歩兵大隊5個の独立混成旅団が,大隊8個基幹の師団を新編するには

 

算数どおり大隊3個を新編することになる.その新編大隊の基幹要員に

 

送り出された者は災難だ.古巣から,「お前なんかいらないよ」と冷たく

 

宣告されたと思いつめる人もいるだろう.年月をかけて築いた部隊での

 

顔や権限を捨てて,新しい部隊でいちからやり直しとなる.日本の軍隊

 

とは,階級よりも年功を重んじるから内情は複雑で,当分は新参者で

 

しかない.新しい部隊それがたとえ隣の部隊でも暖かく迎えてくれるとは

 

限らないし,冷たくされたと落ち込むのが普通だ.

 

まずいことに,各レベルの人事担当者は指揮官と相談の上,これは好機と

 

厄介者払いをしがちだ.いわゆる編成道義を守らない思潮が根底にある.

 

転入者の名簿を見て,「なんだこれは.処分を受けたものばかり,受け

 

入れられない」と言われても,言い訳はどうにでもつく.「ごもっとも

 

ですが,多くは酒の上の話しでして,根は良い奴です.ここ一番で役に

 

立つでしょう」がよく使われる口上だ.「こんな奴を転出させれば,

 

こちらが笑われる」と良心的な指揮官が渋っても,「新天地を与えれば

 

心機一転となるでしょう.奴のための人事です」とまで言われれば,

 

納得せざるをえない.

 

編成道義を守らず,厄介者払いを重ねた結果,昭和1812月に

 

関東軍でとんでもない事件が起きた.おそらく警備大隊だったろうが,

 

中国戦線から移動してきたいわゆる兵隊ヤクザが中隊を乗っ取り,

 

そこは独立愚連隊と化した.支那派遣軍の部隊が編成道義を守らな

 

かった結果だ.そこにまた人事異動があり,これ幸いと兵隊ヤクザと

 

その同調分子を隣接部隊に転属させた.するとこの兵隊ヤクザは,

 

再び中隊を独立愚連隊にすべく画策,まずは食い物から抑えろと

 

炊事場を襲撃した.これで抗命,暴行脅迫及び殺傷,軍用物破壊の

 

罪を問われ,軍法会議となり,なんと80人が有罪となり,首謀者は

 

懲役20年となった.

 

あの帝国陸軍で,どうしてこんな事件が起きたのかと不思議に思う

 

だろうが,程度の差こそあれ,無法地帯となった部隊があっても

 

おかしくなはい.日本は昭和6年の満州事変から戦争を続けており,

 

復員帰郷かと思えば即日召集なのだから(キツネ注:召集された兵は,

 

2年間の服務の義務があり,その後復員できるが,兵員不足を補う

 

ため,即日再召集されることもあった)だれの心も荒むのは無理

 

からぬことだ.そしてこの関東軍の事件のような出来事は,戦後の

 

捕虜収容所でよく見られたことだ.無法者が娑婆の稼業で磨いた腕を

 

ふるって勢力を糾合,炊事場を握り,相撲大会や演芸大会を通じて

 

収容所全体を支配するというのも珍しいことではなかったのだ.

 

そしてまた,日本軍では軍律,軍紀といったもので秩序や建制を保つ

 

と同時に,また別の規範があり,その方が強力だった.それが悪名高い

 

私的制裁だが,それによって営内班が無法地帯と化していた.

 

どうしてそんなことになってしまったのかと考えると.日本の軍隊

 

には真の宗教が浸透していなかったからだ.だから日本軍の編制には

 

軍僧がいない.もし信じるに足る宗教の縛りがあれば,無抵抗な者を

 

殴る,抵抗出来ない捕虜を恣意的に殺害することなどできないはずだ.

 

軍紀崩壊の危険水域に達しつつあるのではと危惧されるような事件

 

は,すでに起きていた.それのに,何の対策も講じられないから,

 

前述したような関東軍での事件が起きる.すでに起きていた事件とは,

 

昭和1712月末の館陶事件だ.河北省との省境付近の館陶県に駐屯

 

していた第59師団歩兵第53師団の独立歩兵第42大隊第五中隊で

 

起きた抗命,武器を持っての暴行脅迫及び殺傷,逃亡,軍用物破壊

 

事件だ.年末の人事異動で異動となった一人に中隊のボス的存在の

 

三年次兵がいた.古参の上等兵だったろうが,自分が築いた天下から

 

追い出されたという被害者意識にかられ,おおいに不満だったことは

 

容易に想像できる.そして送別会となったが,その宴席がそまつで

 

酒も口にあわないワインが少量,これを見て件の三年次兵が暴れ出し,

 

無許可で外出,街の飲食店で多量に飲酒,その勢いで帰隊して暴れ

 

まわった.それも小銃を乱射,手榴弾を投げると凄まじい.それが

 

3日も続いたという.

 

たまたま中隊長は討伐に出ていて不在だったが,誰かが制止するはず

 

と思うが,みな逃げ回ってしまった.そこに決定的な軍紀の崩壊を

 

見ることができる.隣接部隊がかけつけて,ようやく事態は収束した.

 

軍法会議が開かれ,首謀者6人に対し死刑2人,有期刑3人となった.

 

59師団が新編される前は独立第10旅団で,昭和141月に編成

 

され当初は,旅団司令部を済南に置き,主に膠済線の沿線警備に

 

当たり,八路軍の駆逐に追われていた.月に3回,4回の出動も珍しく

 

なかった.当初は戦闘単位となる中隊ごとに分駐ということだったが,

 

長大な鉄道警備となると,より細かく分散して配備されるようになる.

 

昭和158月,独立混成第10旅団は,司令部を済南の南10キロの

 

泰安に移し,山東省西武の治安粛清作戦に当たることになった.

 

独立歩兵第42大隊は,済南から直線で180キロ,黄河,大運河を

 

渡った館陶に駐屯することとなった.館陶は河北省との省堺,西に

 

90キロほどで京漢線の邯鄲だ.新しい配置は,以前よりも拡散して

 

いた.そして昭和172月,改編されて第59師団に編合された.

 

師団となったにしろ,給養が良くなったり,復帰帰郷が早くなるわけ

 

でもない.中将で親補職(天皇が直接任命する武官)の師団長を戴く

 

とは言っても,日本軍は師団長自ら戦線を歩き,問題点を指摘して

 

是正をうながし,部下を激励するといったタイプの軍隊ではない.

 

旅団長もそんなことはしない.上級指揮官が本来課せられているはず

 

の管理責任を放棄している軍隊,それが日本軍であった. 

 

非正規戦に従軍した人は,必ず正規戦よりはるかに難しいと語る.

 

敵が誰だかはっきりしないし,なかなか会敵せず,一定の戦線と

 

いうものがないので困惑させられるのが非正規戦だとする.そして

 

不気味な民衆の中で行動し,しかも糧食の多くを現地調達に頼るの

 

だから不祥事は付き物で,軍紀の乱れは不可避となる.この問題に

 

ついては早くから憂慮はされていた.

 

いつ終わるか分からない泥沼の戦場で,現地復帰,即日召集を重ねて

 

いれば,士気は減退し,軍紀が弛緩するのも無理ないことだが,それ

 

を言ってしまえばおしまいだ.その他の原因究明となって第一にあげ

 

られたのは,治安粛正作戦特有の高度分散配置だった.事態の深刻化

 

に伴い部隊はどんどん分散し,班や組単位で配置するのが普通となった.

 

分哨に下士官が配置されていれば良いほうで,兵長の下に数人という

 

配置がごく普通だった.それもローテーションのシステムが確立して

 

おらず,いつのまにか固定配置となる.指揮権を持つ将校がいない

 

のだから,軍紀の維持が望めない.

 

そこで現場の尉官が分散した部隊を駆け回り,軍紀の振作に努め

 

なければならないが,それだけの数の尉官がおらず,機動力も

 

ないので回り切れない.しかも下級将校の質が低下してしまい,

 

その指導力はあまり期待できないとも指摘されていた.今日でも

 

若年幹部の識能不足が常に指摘されているが,飛躍的に改善されたと

 

いう話も聞かないから,これは永遠のテーマなのだろう.

 

極論すれば,将校としてのリーダーシップの発揮を期待できる人材が

 

独立混成旅団には配置されていなかったし,いたとしてもごく限られた

 

人数だ.終戦時の数字になるが,精強部隊として知られていた,独立混成

 

第三旅団の歩兵将校の出身区分は次のようになっていた.正規陸士の士官

 

候補生出身は二人しかおらず,一人は旅団長,もう一人は大隊長で応召の

 

中佐だ.少尉候補者出身が8人,特別志願が10人,予備少尉出身の応召者

 

13人だった.

 

次なる問題は,部隊に団結や建制をもたらす歴史や伝統の欠如だ.前述

 

したように,後備歩兵大隊から独立歩兵大隊へ,独立混成旅団から師団へ

 

5年ほどで繰り返したのだから,部隊の歴史はないと言ってもよいだろう.

 

編成地と補充担任が同じならまだしも,これが異なっていたり,改編毎に

 

変わっていては,建制の確立を求めても無駄だ.ではどうしたらよかった

 

のか,どう改善すればよいかと問われれば,返答に困るのが実情だ.

 

 

 

さらなる問題は,日本軍全体,ひいては日本の社会そのものが抱える

 

通弊だ.それは都合の悪いこと,恥になる事はなかったことにする,

 

隠蔽するという体質だ.あらゆる組織,レベルがこの体質だから,

 

部隊という生き物の現況が全体として共有できない,舘陶事件を起こした

 

中隊は,事件の少し前に「団結良好と認む.よってこれを表彰する」

 

とされていたのだ.これは社会全体にわたる体質なのだから,軍隊だけが

 

何事も隠蔽しないと力んでも仕方がないことではある. 

 

 

そしてまた繰り返しになるが,編成道義が守られないことだ.人事異動が

 

あると,これ幸いと厄介者,無能で部隊の足を引っ張る者を追い払うこと

 

だが,これまた軍だけの話ではなく,一般社会でもよく見られる現象だから,

 

どうにも改善できない.編成道義が守られない人事異動を数回繰り返す

 

だけで,兵隊ヤクザが一箇所に集まって独立愚連隊が生まれてしまう.

 

日本陸軍では,平時には3月,8月,12月と年に3回の定期異動があった

 

から,その影響はすぐに形となって現れる.まして戦時,戦地では,損耗が

 

出るので頻繁に補充が行われるから,編成道義が守られない大変な事態を

 

招きかねないことは,前述の2つの例だけでも,それが実感できよう.>

 

 

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キツネの感想文

 

指揮官の指揮管理能力不足,怠慢,とめどない戦線拡大,

 

無理やり兵員増強,糧食現地調達,下級将校の恣意的殺人命令,

 

小隊の「愚連隊化」

 

対中国抗日戦線の「見えない敵」との「軍旗なき戦い」

 

日本社会に付き物の「隠蔽体質」,「恣意的懲罰」その他・・

 

いずれも日本社会に共通の伝統である以上,軍隊だけが

 

「イイコぶってもしかたがない」.せめて仏様のお力を借りて,

 

綱紀粛清出来るとよいが・・・・? 

 

 

と,キツネが読んだは僻目か.

 

 

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2020  8  17 

 

「天皇の軍隊と南京事件」 吉田裕 著

 

1986年  青木書店刊 

 

 

p154 <<当時,ニューヨークキリスト教青年国際委員会

 

書記として南京に駐在していたジョージ・A・フィッチが

 

東京裁判に提出した宣告口述書のなかには,彼の日記に基づく

 

次のような証言が見られる.やはり集団虐殺や略奪にふれた

 

箇所も含めて引用する.

 

1215日,私は私共の野営所(民間人のための難民キャンプ)

 

の一つから連れ出されたばかりの平服を纏うた約13百人の

 

人々が着剣した銃を持った兵隊によって約100名の集団別に整列

 

させられて互いに綱で縛られているのを見かけた.私が隊長に

 

抗議したにも拘わらず,彼らは射殺されるために連れてゆかれた.

 

 1219日は全く無政府状態の一日であった.兵隊の手で放火

 

されたいくつかの大火が荒れ狂い,その後も尚多くの火事が約束

 

されていた.『アメリカ』の旗は多数の場所で引き裂かれた.

 

軍当局は兵隊の統制ができない.

 

 1220日,月曜日,蛮行及び暴行が阻止されることもなく

 

続行された.市街中最枢要の商店街,太平路は全く火災に

 

包まれた.私は火を放つ前に店舗から取り出された掠奪品を

 

積載した多数の日本軍貨物自動車を見受け,又兵隊の一団が

 

建物に現実に放火しているのを目撃した. 

 

 

また,1221日,南京在住の22名の外国人が連名で南京

 

日本大使館に提出した要望書のなかにも,『市の大部分に

 

対する放火をやめ,残りの部分を,気まぐれから行われたり,

 

組織的に行われたりする放火から救うこと』という要望事項

 

がみえる. 

 

同時に,中国婦女子に対する強姦も随所で頻発した・・

 

「強姦をやらない兵隊なんかいなかった.そして,たいてい

 

やったあとで殺しちまう.憲兵に分かると軍法会議だからね.

 

殺したくないけど殺した.もっとも,南京にはほとんど憲兵

 

はいなかったけど」 

 

 

p166  軍幹部の責任の問題

 

さらに軍幹部は,南京事件そのものにも直接の責任を負っている.

 

いうまでもなく,その最大のものは,捕虜の処分命令を軍幹部

 

自身が発していることであり,さらには無差別の虐殺に直結

 

した「便衣兵狩り」を何の配慮もなしに強引に推進したことである.

 

加えて,一般民衆をも対象とした集団虐殺に軍司令部が直接関与

 

していた可能性もある.それは,当時,松井軍司令官の直属副官で

 

あった角良晴少佐が次のように証言しているからである.

 

「このような事件が起こった当時の方面軍司令部内の雰囲気は

 

次のとおりであった.1218日朝,第6師団から軍の情報課に

 

電話があった.「下関(南京市の西側に位置する)に支那人

 

123万人居るがどうしますか」情報局長,長中佐()は極めて

 

簡単に『ヤッチマエ』と命令したが,私は事の重大性を思い情報課長

 

の電話は軍司令部の意図に反すると確信した.このことを軍司令官

 

に報告した.軍司令官は直ちに長中佐を呼んで『下関のシナ人

 

123万人の解放』を命ぜられたが,長中佐は『シナ人の中には軍人

 

が混じっております』という.

 

軍司令官は『軍人が混じっていても,却って規律を正しくするために

 

必要だ』と強く『解放』を命ぜられたので,長中佐は『分かりました』

 

と返事をした.私は長中佐の過激な性格と,過去の命令違反の行状を

 

考えて,さらに長中佐の行動に注意していた.

 

 ところが約1時間くらい経って再び第6師団から電話があった.『下関

 

の支那人をどうするか』である.長中佐は再び前回同様『ヤッチマエ』

 

と命じた.・・・」 

 

すなわち,多数の中国軍民を中支那方面軍司令部の命令で虐殺したと

 

いう証言である.(中略)

 

つまり,長勇のような無法者に近い参謀の,常軌を逸した専断行動

 

に対して軍司令部としてのチェックがきかないという問題である.

 

満州事変前後から陸軍内では,中堅のエリート幕僚層の台頭が顕著

 

となり,行動力に富むこのグループが上級幹部を突き上げ,あるいは

 

上級幹部を無視して軍の実権を握る「下剋上」的傾向が一般化していた.

 

また,これにともない上級幹部の中にも幕僚の専断的行動を黙認する

 

風潮がひろがっていった>> 

 

 

 

**************************

 

 

 

南京事件について  キツネの感想文 

 

「南京大虐殺」とは「まぼろし」であり,当時南京にいた

 

日本の兵士も民間人も,それを目撃していないし,噂にも

 

聞いたことがないという「まぼろし派」と,「南京占領に

 

よって,約20万人の犠牲者が出たが,その半数は兵士,

 

残りの10万人は民間人だった」とする派が対立して,

 

たがいの証言者を嘘つき呼ばわりし,証拠の記録がない

 

(終戦時にすべて焼き捨てられたから)のをいいことに,

 

15年も延々と続いた戦争を「自衛のためやむをえず」,

 

いや「侵略戦争だった」と激しく争っている.

 

現政権はどうかというと,昨今の公文書改ざん,隠滅事件

 

からも分かるとおり,軍が公に虐殺命令したわけじゃない.

 

ふとどきな一部兵士の「いたずら」さ,という立場だ.

 

そして南京大虐殺(軍民の者40万人と推計)とは,すべて

 

中国政府の国際的な宣伝工作の成果であり,日本の

 

ジャーナリストはホイホイとこれに乗せられたのだという. 

 

個人の証言を「学問的に」検証するのは難しい.「確かに

 

見ました」といっても,実は其の場にいなかったり,日にち

 

が合わなかったり,経歴にうそがあるなど,100%事実だと

 

言えない場合も多い.ましてジャーナリストにも「生活」

 

があるから.それでも軍隊日誌や軍人自身の回想録などから

 

真実がチラホラ見えることもある.だれもがウソつきという

 

わけでもない. 

 

「強姦も強奪も虐殺も,兵士にとっては戦争からの報酬,

 

娯楽の一種かもしれない」というのは,悲しい現実だった.

 

「北支派遣軍」の古参兵は中国人から「三光」と恐れられた

 

無頼の者たちだった.それが南京にやってきたのだ.

 

<<さらに,問題が一層深刻なのは,南京における捕虜,

 

敗残兵,一般民衆に対する虐殺には,敵愾心や復仇心などの

 

激情と重なり合いながら,ある種の殺人嗜好性が色濃く

 

つきまとっていることである.これに関しては当時,南京

 

日本大使館の参事官であった日高信六郎が,「一度残虐な

 

行為が始まると,自然残虐なことに慣れ,また一種の嗜虐的

 

心理になるらしい.・・・みんなが勝手に徴発を始める.

 

床をはがして燃やす前に,床そのものに火をつける,荷物を

 

市民に運ばせて,用がすむと,『ご苦労さん』という代わりに

 

撃ち殺してしまう.不感症になっていて,たいして驚かないと

 

いう有様であった」と回想している>>(前掲書より) 

 

日本軍は兵士の軍紀違反を大目に見ていた.そうしないと,

 

この大義無き戦争を続けられないから.というのも,松井石根

 

司令官は,南京への侵攻を強引に推し進めた張本人であるから,

 

兵士の蛮行を嘆きつつも,軍指導部に対して強く統制すること

 

も出来かねる.

 

<<略奪は軍上層部にまで及んでいた・・(高価な略奪品を私物化

 

して,国内に送ったり,中には天皇に献上された品もあるという) 

 

 

<<(前掲書p157)兵士の蛮行に対する軍司令部が知り得た婦女

 

暴行事件の件数は,あくまで氷山の1角にしか過ぎなかった

 

のである.(この多数の暴行については,さすがの軍も手を焼いて)

 

18歩兵第124連隊の軍属をしていた石橋徳太郎は,南京陥落後

 

1223日,上海・南京方面の各連隊各師団の軍属と共に

 

上海の兵站司令部に集められ,「今夜上海発長崎行きの輸送船に

 

便乗し日本内地に赴き,兵員慰安用の女を集め,1231日までに

 

本司令部まで戻れ」と命じられたという.>>

 

この結果,1938年に上海に「陸軍娯楽所」,1946年には南京に

 

中国,朝鮮,日本から連れてこられた女性によって慰安所が開設

 

された.・・組織された売春制度のもとで女性を兵士に「あてがう」

 

という極めて即物的な対症療法によってはじめて,暴行事件の鎮静化

 

を図ることができるという点に,日本軍の軍紀の質が露呈していると

 

言えよう.>>

 

(ここに,韓国での従軍慰安婦問題の根っこがある.日本軍は韓国の

 

親から「買ってきた」からと,金を払ったからいいだろう,式の

 

言い方をする日本人もおる.真に恥ずかしい限りだ)

 

 

 

 

「十五年戦争史論」ーー原因と結果と責任とーー

 

岡部牧夫 著  1999年 青木書店刊 

 

 

p246 「戦争責任と國民文化」 

 

15年戦争期(キツネ注:1931年の満州事変から1945年の

 

日本の降伏まで)にくらべ,世界は著しく狭まり,日本は

 

ふたたび大国になった.日本人が他国民と接する機会は

 

飛躍的にふえた.・・・・・そうした中で,日本人の責任

 

意識や人格の練磨が諸国の国民文化の倫理水準よりそうとう

 

低ければ,隠然,また顕然とした文化心理的な摩擦が

 

おこらざるをえないし,げんにおきている. 

 

とくに問題なのは,日本の政治家が,戦争責任の問題について

 

日本社会の健全な成員をふくめた現代人の世界常識にはずれた

 

発言をし,しばしば国益を損なってきたことである.これは

 

戦後日本の一面を象徴する特異な社会現象のひとつであり,

 

1995年には戦後史辞典の項目にまでなった.この現象は,

 

1960年代から90年代にいたるまで一貫してみられ,実例は

 

枚挙にいとまがない.この十数年の現職閣僚や政権党の役員

 

の場合にかぎって振り返っておく. 

 

1984年に大韓民国大統領全斗煥が来日したとき,昭和天皇は

 

「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存した

 

ことは,まことに遺憾であり,再び繰り返されてはならない」

 

とのべ,日本の侵略責任にいちおうふれた.これは日本国家の

 

公式の行動である.

 

ところが1986年,文部大臣藤原正行は,侵略は日本だけが

 

おこなったわけではなく,日本の韓国併合は,当時の韓国側

 

にも責任があるとの見解を「文藝春秋」誌上にしめした.韓国

 

の世論が憤慨したのは当然であろう.時の総理大臣中曽根康弘

 

は藤原を罷免した.しかし韓国側の危惧は消えず,19905

 

の盧泰愚の来日に際して,天皇の「お言葉」の内容を外交を

 

通じて異例の確認をとっている.

 

1988年,竹下内閣の国務大臣奥野誠亮が記者会見で,

 

「白色人種」こそが侵略者であると断定し,日本の侵略性も

 

否認して,内外の激しい批判をかわせず辞任した.

 

1990年には自民党幹事長小沢一郎が,日本はこれ以上

 

「土下座する必要があるのか」と語り,韓国の反発で陳謝

 

した.さらに94年,羽田内閣の法務大臣永野茂門は,新聞の

 

インタビューで,「大東亜戦争は日本が生きるために立ち

 

上がったもので,日本は植民地の解放をまじめに考えており,

 

侵略が目的ではなかった」とのべて,撤回,陳謝のうえ辞任

 

に追い込まれた.

 

3ヶ月後の同年,村山内閣の国務大臣櫻井新も,日本の戦争

 

政策で,アジアはほとんど独立できたと述べて侵略性を否認

 

し,これまた辞任をよぎなくされた.彼らはまるで,罷免や

 

辞任が目的で公職についたかのようである.

 

盧泰愚訪日のおりの「お言葉」にあった「痛惜の念」という

 

文言も,韓国側の要求に応じて編み出されたもので,日本が

 

主体的,自発的にえらんだ当為とは言いにくいから,たとえ

 

謝罪の意味があったにしても,効果はうすいものに留まった.

 

被害者に言われてしぶしぶ謝罪するのでは,誠意ある姿勢

 

とは言えない.韓国に対しては,少なくとも19656月の

 

日韓基本条約締結のときに政府が公式に表明しておくべき

 

であった.当時の大統領朴正熈の特別談話は,両国が真の

 

善隣関係を築けるかどうかは日本の姿勢にかかっていると

 

釘をさしているのだから. 

 

ただ,被害国(この場合は韓国)の世論もにのぞまれるのは,

 

日本の戦争責任・植民地支配責任を問題にする場合,事実を

 

踏まえた客観的な論議をする態度である.

 

たとえば昭和天皇は,「今世紀の一時期」とわざわざ時期を

 

限定しており,今の天皇(平成天皇)もそれを引用したが,

 

この点について韓国からの疑問や不満は聞かない.もし批判

 

がないとすれば,韓国国民は日本の砲艦外交や不平等条約の

 

強要,数々の内政干渉,出兵,妃殺害などの19世紀の

 

事態は許容していることになり,20世紀の日本の行為を

 

批判する論拠を逆にうしなうといえよう.批判に没論理性が

 

あってはならない.

 

また,日本国民のあいだにもともと続いている戦争責任への

 

応責行動,すなわち教科書裁判,在日韓国・北朝鮮人への

 

処遇改善運動,残虐行為の証言と研究,松代大本営保存

 

公開運動,その他日本社会の草の根に広がるさまざまな営為

 

や志向を客観的に認識し,検討し,公平に批評することも,

 

被害国民の義務と言ってよい.主体的な責任感に基づく国民

 

の応責行動は,たんに個人の修養や訓練ではなく,望ましい

 

人間関係形成をめざす社会的実践であるから,肯定するか

 

どうかは別として,相手も主体的に正当に受け止めるべきで,

 

頭から無視してよいものではない.つまり応責には,

 

被害民族側の積極的対応をなかだちにした,民衆相互の

 

国際協力が不可欠なのである.真の善隣関係は,まさに

 

この民衆間の国際交流からしかうまれない.

 

国家としての謝罪や賠償,援助は別として,国民の戦争責任

 

の解決には,迂遠のようだが,度の過ぎた国家主義,民族主義

 

に傾かない,民主的で節度のある社会の実現と,そのもとでの

 

成熟した国民文化の醸成が前提となる.

 

やはり私たちは,問題を来世紀にもちこしそうである.>

 

 

 

**********************

 

🦊:きつねの感想文:

 

これが書かれた20年前から世紀をまたいで,世の中は裏返り,

 

軍国主義強権国家が3本の大積乱雲のように立ち上がり,その

 

根元に身を縮めているのが日本だ.ここにいれば,落雷を

 

避けられると勘違いしているんだろうか?

 

核兵器は無くなるどころか,小型化,強力化,自動化,おまけに

 

羽が生えてきた.侵略戦争を,儲けたいための戦争を何としても

 

止めなければ.

 

1941年生まれでキツネと同世代の筆者が言うように,戦争の

 

真実を知り,各国の民衆の間で語り合い,互いに理解を深め,

 

力を合わせて戦争を止めるしかない.

 

 

2020  7  17

 

 

 

 

 

 

 

「十五年戦争史論」(岡部牧夫1999)より

 

 十五年戦争期の植民地と占領地

 

 

P139ーー ファッショ的人民統制ーー 

 

前世紀の末に島民の強固な武装抵抗を軍事力で鎮圧して

 

ようやく領有した台湾では,保甲制が採用され,統治に

 

効果をあげてきた.保甲制とは,前近代の中国で発達した

 

独特の治安組織で,住民のおよそ10戸で甲を組織し,10

 

で保を組織する.保長,甲長が任命され,住民から費用を

 

徴収して治安維持や地域の諸負担の割当などを行う.さらに

 

犯罪者や違反者を出した場合,その保甲の成員が連帯して

 

罰をうける.つまり個人を独立した責任人格とみなさず,

 

住民の相互監視と他人への監視で犯罪や反抗をふせぐ封建的

 

制度であった.日本はこの封建遺制を台湾統治に利用した

 

のである.保甲は地方行政単位である街や庄と重複し,

 

それらの下部組織,警察の補助機構として1945年まで存続し,

 

ファッショ的人民統制の手段となった.満州国もこの制度を

 

取り入れ,1933年に暫行保甲法を公布した.・・・・・・・

 

この他15年戦争期の植民地,占領地では,治安政策と並んで,

 

日本の支配に協力させるため,さまざまな形で民衆の組織化と

 

統制が実施された.

 

 このほか15年戦争期の植民地・占領地では,治安政策と

 

並んで,日本の支配に協力させるため,さまざまな形で

 

民衆の組織化と統制が実施された.それは従来の植民地

 

支配の動揺に対する統治の再編策であり,一切の自発的

 

な運動,思想,生活態度を封じ込めようとする上からの

 

ファッショ的強制であった.民衆は公私にわたり,日常生活

 

のすみずみにまで権力の介入を受けることになった.戦争の

 

進展,拡大とともに,強度の経済統制によって植民地の資源,

 

産業,労働力を全面的に動員しなければならなくなると,

 

これらの人民統制組織は行政機構と一体化し,物資の収集・

 

配給,労働力の徴用などの実施をにない,民衆の生活に

 

生殺与奪の権をふるった. 

 

この種の統制組織の先駆は満州国協和会である.協和会は,

 

柳条湖事件につづく関東軍の政略工作に協力してきた満鉄

 

社員山口重次らが,国民党に対抗するために構想した満州

 

共和党の構想を軍がとりあげ,政党色をなくした政府の

 

補完組織として,19327月に発足させた.協和会の目的

 

は,「建国精神を遵守し王道を主義とし民族の協和を念とし,

 

以て我国家の基礎を鞏固ならしめ,王道政治の宣化を図る」

 

こととされた.執政を名誉総裁,,国務総理を会長とし,

 

政府の高級官吏と民間の実力者を理事につらねる,まったく

 

の官製教化団体であった.

 

以後,協和会は地域・職域の分会を通じて民衆を組織し,

 

満州国の統治に服させるためのイデオロギー工作,治安

 

工作を強力に推進した.また,議会が開設されない満州国

 

では,協和会の各級の連合協議会が「上意下達・下情上達」

 

の場になり,行政を補完する役割をになった.日中戦争期

 

には,協和会は生活必需品の配給,食管制度のもとでの

 

農産物の収買,各種の労働動員の実施など,満州国の戦時

 

政策に民衆を強制的に参加させるための機関になっていった.

 

協和会の規模は年々拡大した.19369月に1717分会,

 

会員数257000人余だったものが,382月には2917

 

分会,約100万人に増し,424月になると,280万人を

 

こえた.

 

中国本土の占領地にも新民会(華北),大民会(華中)など

 

同様の組織が作られた.日本国内でも193710月,

 

行政機構と表裏一体の国民精神動員連盟が設立され,国民

 

の戦争協力を目的にさまざまな教化政策をすすめた.

 

1940年には全ての政党が解散し,戦時下の政治,社会の

 

全般的な統制をめざす大政翼賛会が成立した.満州国で

 

はじまった画一的な人民統制組織は,本国と植民地をつうじて

 

日本ファシズムに特有の人民統治手段に発展した.

 

(中略)

 

朝鮮,台湾などの直轄植民地でも,日中戦争期の総動員体制

 

の支柱として,本国にならって,国民精神総動員運動が展開

 

され,国民総力朝鮮連盟,台湾皇民奉仕会が行政機構と一体に

 

なって住民を統制した.のちにはジャワ奉仕会など,東南

 

アジア占領地にも同種の組織がひろげられた.・・・・・・

 

(朝鮮)連盟の最高目標は「高度国防国家体制」すなわち

 

総力戦体制の確立にあり,その実現のための「思想の統一」,

 

「国民総訓練」,「生産力拡充」の3項目の「実践大綱」が

 

かかげられた.この大綱はまた「内戦一体の完成」,「職域

 

奉公の徹底」,「増産の遂行」などの6つの「実践項目」に

 

わかれ,それぞれがさらに細分されて「宮城遥拝(皇居の方角

 

に向けて最敬礼する)」,「神社参拝},「国語の普及」,

 

無為徒食(ブラブラと働かず,無駄に日を過ごす)の排撃」,

 

「買溜,売惜(売り惜しみ),闇取引,「暴利行為の撲滅」,

 

「勤労倍加」など30あまりの具体的な「実践項目」が定め

 

られた.人民は愛国班をつうじて不断にこれらの実践項目を

 

押し付けられた.

 

こうした強力な人民統制制度を背景に,朝鮮,台湾では植民地

 

住民の民族性を否定し,あらゆる面で強制的な日本への同化を

 

はかろうとする「皇民化」政策が展開された.その手段は,

 

神社遥拝,「皇国臣民ノ誓詞」の唱和,日本語の常用,日本式

 

氏名の採用など多岐にわたった.まず神社政策であるが,朝鮮

 

では19361(面は村に相当)ごとに1神社を設置する方針が

 

打ち出され,神社の建立が積極的におこなわれた.とくに

 

1939年に忠清南道の扶余(百済の首府)に建立された扶余神社は,

 

古代の日朝関係を象徴する応神天皇,神功皇后などを祭神とし,

 

「内鮮一体」のイデオロギー政策を体現していた.またすべての

 

人民に日常の神社参拝が強制されたが,伝統的に熱心なキリスト

 

教徒の多い朝鮮では,参拝を拒否して弾圧された信徒がすくなく

 

なかった.・・・・・・

 

193010月に朝鮮総督府の制定した「皇国臣民の誓詞」は,

 

後述の朝鮮教育令改定の際の3大綱領で,また総督南次郎の施政

 

の基本方針ともなった「国体明徴・内鮮一体・忍苦鍛錬」を

 

スローガンにしたものである.誓詞は「①我等ハ皇国臣民ナリ 

 

忠誠ヲ以テ君国ニ報ゼン ②我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ

 

以テ団結ヲ固くクセン ③我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬力ヲ養ヒ

 

以テ皇道ヲ宣揚セン」の3条で,これを学校,職場,各種会合

 

などで朝鮮人に唱えさせた.

 

日本語の強制は,「皇民化」のもっとも基本的な手段であった

 

1932年以来,10年計画で日本語普及が進められてきた台湾では,

 

同民族を敵とする日中戦争の開始以後,住民の動向には特別の

 

注意がはらわれ,中国語文章の発表,中国語劇の上演などが一切

 

禁止された.朝鮮でも初等教育の必須科目から朝鮮語が除外された

 

結果,児童は公的に朝鮮語を学ぶ機会をうしなった.

 

これと並行して,1940年には台湾,朝鮮の人民に日本式氏名に

 

改めることが強制された.自国語や本来の氏名に固執し,それを

 

使うことは,学校,職場をはじめ日常の社会生活全般にわたって

 

有形無形の不利益や迫害をまねき,植民地民衆にはかりしれない

 

苦痛を与えることとなった.>>

 

 

 

**********************

 

 

 

キツネの国家神道イジメッコ論

 

 何という思い上がりであろうか.いや,夜郎自大ならばまだ

 

人間らしい.「皇民化」というにせ宗教に憑かれたロボット民衆

 

と,それを見事に操った暗黒集団「国家神道」の,おどろおどろ

 

しい祭り.しかもこの集団は罪に問われもせず,今も健在だ.

 

それどころか政権内部にも国粋主義者を送り込んでいるらしい.

 

 明治初期に政府が派遣した欧米視察団に随行して,「米欧回覧

 

実記」を書いた久米邦武という学者は,1891年に「神道ハ

 

祭天の古俗」と題する論文を「史学雑誌」に発表したが,

 

これは「神道は古代の天を祀る儀式であって,宗教ではない」

 

との指摘であり,これが神官や国粋主義者の逆鱗にふれて,翌年

 

出版禁止に追い込まれた.しかし久米は自説を取り下げようとは

 

しなかった. 

 

東京裁判では,(キツネはよく知らないが)宗教者は裁かれなかった

 

のだろうか.東京裁判は,「勝者の裁き」と言われる.

 

戦勝国の裁判官が合議し,敗戦国すなわち日本のみを被告と

 

定めて,日本が第二次大戦中に犯した罪=侵略戦争を行い,

 

度々国際法を侵犯し,(ナチ同様の)残虐行為を行ったことに対し,

 

「厳しくこらしめねばならぬ」という執念を,あくまで押し通し,

 

ついに「平和に対する罪」,「人道に対する罪」を創設して,

 

死刑を含む大小の刑を執行した.

 

創設,というのは,それまでそのような名目で国際裁判が

 

行われたこともないし,そのような法律や条例があるわけでも

 

ない.裁判官は既存の法律に基づき裁判をするのであって,

 

自らに立法の権限はないからだ.更にナチス・ドイツの場合と

 

違って,誰がこの犯罪の「共同謀議」の首魁であるか,誰が

 

どのように命令を下して,だれがそれを幇助したのか,具体的な

 

証拠をついにあげることはできなかった.それでも多数決による

 

審判は,軍人,政治家,外交官等を23人選び出し,ナチス同様の

 

「共同謀議」に加わったとして刑を宣告した.粗末な米軍の作業

 

服姿で処刑された軍人らの他に,刑務所で生き伸びて減刑,出所

 

した者もあり,逮捕されると聞いて自殺した者,また当時中枢

 

にいた政治家や,戦争の陰で暗躍した大商人など,するりと

 

抜け落ちて,戦後いつのまにか復活した輩もある.アジア各地の

 

民衆に対する残虐な仕打ちと「アジアに冠たる日本民族」の

 

恥ずべき自己欺瞞は,国際的にも証明されている事実なのに,

 

その犯罪の育ての親,設計者である神社本庁はどうなったのか.

 

極東軍事裁判では,そのような今日の歴史家の研究課題となる

 

ような,「侵略戦争」と「植民地支配」,ファッショ的な國民

 

教育といった側面はまったく念頭になく,ただ日本に懲罰を与え,

 

15年戦争にけりをつけるための証拠集めが行われ,多数の裁判官

 

がそれに同調したということだ.(また,其の点を追求すれば,

 

今度は勝者の側の,同様な大罪が暴かれるだろう)

 

で,無傷で生き残った神社本庁は,まるで明治の生き残りのような

 

国粋主義者と右翼政治家の保護の下に,また息を吹き返しつつある.

 

これを歴史の事実と共に検証し,断罪するのは別の国際裁判ではなく,

 

我々日本國民の仕事だとキツネは思う.

 

 

日本政府の植民統治については,現在80〜90歳前後で「やっぱり朝鮮

 

じゃ」なんていう詞を頻繁に吐く人,その後ろに乗っかってヘイト・

 

スピーチを得意そうにやる馬鹿な若者.その他の国民はほとんど

 

朝鮮統治時代のことを知らない.何があったか,知っていたとして

 

も,「勝ちゃあ,何してもいいんだろ」ぐらいの認識で,だから

 

韓国の人々がどれほどの無念な仕打ちを,しのばなければ

 

ならなかったか,一向に理解できず.「なんだって日本人をあんなに

 

毛嫌いするんだろ」と言う.それには深いわけがある.前世紀から

 

韓国人の内に積み重なった恨みの感情は都合よく消えるものじゃない.

 

イジメッコが「なーんだ,そんなこと昔の話だろ.いい加減忘れろよ」

 

といったって,ねー.イジメラレタ方はトラウマがひどく,その後の

 

人生を狂わせてしまうことだってある.厳しい罰則で,命を落とした

 

人もいるのだ.

 

そこら中に〇〇大神を祀って拝めだの,「我等ハ皇国臣民ナリ・・」

 

などと暗誦させられ,大事な氏名を日本名に変えられ,韓国語を

 

禁止されるなんて,あなたが韓国人だったら我慢出来ますか?

 

また,「台湾統治時代は良かった.現地の人たちにも感謝されていた」

 

などというデマを信じ込まされている人も,またいまだに「台湾統治は

 

ウツクシカッタ」と言い,うっとりしてみせる政権寄り文化人もおる.

 

要注意.

 

 

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ジョン・ダワー  「敗北を抱きしめて」より

 

 

<戦後経済のシステム>

 

それは必ずしも軍国主義的なものではなかった。たとえば少数の

 

 民間銀行への金融依存度の増大と並んで、産業の下受けネットワーク

 

も戦争のシステムの一部であったが、これらは全て、戦後経済において

 

系列と呼ばれた構造を支える心臓部となった。大企業では、株主への配慮

 

よりも、いわゆる終身雇用を含む雇用の安定が重要視された。これが戦後

 

日本に特有のシステムとして特筆されることも多いが、その本当の起源は

 

 戦争中に発する。経営や産業に対する「行政指導」の様に、政府が積極的

 

に役割を果たすやり方も、戦争に起源がある。先の見えない戦後危機に

 

直面した多くの日本人にとっては、こうした従来の制度を維持してゆく

 

ことは、当然の選択の様に思えたし、アメリカ人のご主人たちの渋々の

 

同意の下に日本人がやったことは、本質的には従来の制度を維持すること

 

であった。後に「日本モデル」と呼ばれ、儒教的価値のレトリックで

 

覆い隠された物の多くは、実は単に先の戦争が産んだ制度の遺物だった

 

のである。

 

そして戦後日本の設計者たちもこうした遺産を改良しつつ、維持して

 

行ったが、それは彼等が背広を着たサムライだったからではなく、気の

 

抜けない厳しいこの世界で、最大限の経済成長を推進するためには、

 

それが合理的なやり方 だと確信したからなのである。

 

(中略)

 

このシステムを指導したのは高級官僚たちであった。占領軍が最も重大な

 

影響を残した行動とは、実は不作為と言う行動であったと言えるのは、

 

この点においてである。つまり経済の面に関して、占領軍は官僚組織の

 

力を抑制しなかったのである。無論、アメリカの改革担当者たちが日本の

 

政治経済の重要部分を変化 させたことは事実である。著名な例を挙げれば、

 

農地改革、財閥の持ち株会社の解体、労働組合にかつてなかったほどの

 

権利を付与した法律の制定である。

 

また、占領軍は官僚制に具体的な改革を強制し、その後に長く影響を与えた。

 

たとえば軍事組織を除去し、警察と地方政府を支配する強力な官庁であった

 

内務省を解体した。しかし、官僚組織のその他の大部分(1940年システム)

 

に対しては、 占領軍は便宜のために手を付けなかった。既存の経路を使う

 

方が、占領政策の実施が 容易であったし、すでに状況が混乱している上に、

 

システム全体を根本的に変えれば、大混乱が生じるかも知れなかったから

 

である。・・・・・・

 

強力な官庁である通商産業省が創設されたのが、占領が終わる3年前で

 

あったと言う事実は、日本の官僚組織を強化したのはアメリカであったこと

 

を鮮明に示す例である。

 

しかし、それより何より重要なのは、連合国最高司令部自らが仕事のやり方

 

 指導して、官僚組織としての模範を示したことであった。確かに米軍は、

 

共産党 までが一時認めた様に、「解放軍」としてやってきた。そして

 

一連の華麗な 改革に手を付けたことも確かであった。しかし、占領軍は

 

それ自体が官僚組織 であった。マッカーサー元帥の権威は「最高」であり、

 

マッカーサー司令部が 発する命令は絶対であった。GHQ`の下級官僚が

 

ほのめかした言葉でさえ、非公式の命令の様な力を持っていた。東京の

 

「リトル・アメリカ」と呼ばれた 地区に収まった統治組織全体が、厳格な

 

上下関係によって規律されていた。 この政府には、「透明性」などゼロで

 

あったし、日本の誰に対しても説明責任 は全く負わなかった。ある

 

ジャーナリストは、わが国の首相は占領軍に対して イエス・マンになる

 

しかなく、力がないと書こうとしたが、GHQの検閲官の青鉛筆のおかげで

 

できなかった。

 

こうした状況下にあっては、問答無用主義、権威主義、権威崇拝、和合第一、

 

全員一致重視、自己規制といった傾向が強くなる。そうなるには、古い儒教的

 

 文化の伝統を受け継いだ人間である必要などなかったのである。

 

(中略)

 

(占領軍のこうした支配は、終戦後の1952年に占領が終わるまで続いた)

 

これは窮屈な民主主義であった。しかもマッカーサー元帥は天皇を異常な

 

までに丁重に扱い、そのため社会の真の多元化や、市民の社会参加や、行政の

 

 説明責任といったことが促進されるよりも、むしろ遅滞し、問題は一層複雑化

 

した。すなわち、日米合作の官僚崇拝、戦争から平和への移行期を生き延びた

 

大政翼賛会的な古い体制、天皇が象徴する神秘性を覆いにした説明責任の回避,

 

新たに導入された天皇制民主主義のうちの成長不全の部分が残存することに

 

なった。

 

しかしそれでもなお、日本の社会は大きな変化を遂げたのだとマッカーサーが

 

述べたとき、彼はそれなりに正しかった。戦後の日本は、帝国日本より

 

はるかに自由で平等な国家であった。この国の人々は、世界でも珍しいほど

 

軍国主義と戦争に対して警戒的になっていた。・・・・

 

権力は保守派と中間派がガッチリと握ってはいたが、政治の議論の場では

 

社会主義者や共産主義者が発言を許され、合衆国では考えられないほどの

 

意見の幅広さが保たれた。

 

(こうした互いに相容れない議論や主張の対立の例としては)かの素晴らしい

 

新憲法をめぐって渦巻いた議論がある。アメリカ人の征服者がいなかったら、

 

この様な国家憲章は生まれなかったであろうし、一旦占領が終わったら、

 

国会が憲法改正に乗り出すことを妨げるものが何もなかったのも事実である。

 

とはいえ、実は、憲法制定から日が浅いのに改定を望み、そのための工作を

 

したのはアメリカ人自身であった。すなわち憲法九条の故に日本の再軍事化が

 

紛糾し、当然のことながらアメリカ人たちは、総司令部が指揮した、かの

 

小さな秘密「憲法制定会議」の一週間さえなかったらと後悔したのである。

 

しかし、1997年に憲法施行50周年の祝賀が行われた時でも、結局憲法は

 

ただの一語も改正されていなかった。日本の保守派は改正に必要な国会議席数

 

3分の2を超えることができなかったし、改正を発議した場合に起こるで

 

あろう民衆の怒号に、正面から立ち向かう勇気も、彼等にはなかったのである。

 

 

 

ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」(下)より

 

p425 

 

(終戦後)日本が抱いた平和の夢は、慰めをもたらす様なものではなかった。

 

それは第二次大戦の拭い難い恐怖の記憶を最大の母体とするものであった

 

からである。何百万人という日本人がいかに無駄に命を捨てたか、大規模な

 

空襲にあって、そしてもちろん広島と長崎によっても、戦争の意味がいかに

 

胸に沁みたか、戦争が終って何年もの間、次の食事にありつくことがいかに

 

覚束なかったか、わが父、わが兄弟たちが、殺人者としていまだに世界から

 

ののしられている以上、戦死者として公式に慰霊することがいかに叶わぬ

 

ことであったかーーこの様に日本人は自分たちはひどい苦難と犠牲を受けた

 

のだという感覚があり、他の国々は自分では守っていない判断基準を持って

 

日本を裁いているのだという考え方によって、この感覚は一層強まった。

 

他国は二枚舌であり、他国のいう正義とは所詮勝者に都合 の良い正義に

 

過ぎないという感じ方は、東京裁判以来付き纏ったものである。そして

 

他の国も残虐行為や事実否認や虚偽の証言をしていることが次第に明らかに

 

なっていったこともあって、時と共にそうした考え方はむしろ強くなって

 

いった。日本の平和活動家の中には、ニュルンベルクや東京の戦争裁判が

 

掲げた理想を支持し、日本人の残虐行為を立証し公開することに努力した

 

人たちがいるが、そうした人々でさえ、東京裁判のやり方や天皇の戦争責任

 

を免除したアメリカの決断を支持することは出来ないでいる。そして

 

アメリカが、のちに首相になった岸信介のような右翼の戦争犯罪人を、

 

冷戦の寒気の到来と共に釈放したかと思うと公然と抱きしめ、かばいだて

 

したことも支持できないでいる。

 

戦後の長い期間を通して、日本を見事な復興へと導いたエリートたちの

 

ほとんどが、戦争と敗戦を自ら体験した世代の人々であった。彼等は

 

日本の遅れた科学や技術や物質資源からいって、あの戦争は愚かであった

 

と考えた。彼等は、あの様な惨事を2度と起こしてはならないと常に思って

 

きたし、もしも日本がその気になればいとも簡単に製造できるであろう

 

核兵器をもって決然と立ち上がり、本気で軍事国家になろうとしたならば、

 

世界中から非難を浴びるであろうことも十分承知していた。

 

彼らの中には、敗戦後、進歩派や左翼の学者たちが抱いた「悔恨共同体」

 

のように、自己批判的な感情を持った者もいた。悔恨とまでいかなくても、

 

敗戦と共に「後悔の共同体」を作った者もいた。

 

「大東亜戦争」とは、中国の共産主義や軍閥、それに東南アジアを支配して

 

いる欧米の帝国主義を駆逐するための戦争だったという記憶を信じ続けた者

 

も相当数いた。日本が行なったとされた極悪非道な残虐行為については、

 

多くの者はそんなことはあるはずがないと思い続けた。そして事実上彼らの

 

全員が、国家に奉仕して死んでいった友人や知人を、心からの悲しみを

 

もって回想した。そして彼らは、白人の勝者たちが、自分たちをしばしば

 

「小男」として見下した時の驚きと困惑を、敗戦後何年も忘れることが

 

できなかった。

 

こうした指導層は、今やほとんどが舞台から姿を消した。そして裕仁が

 

在位した最初の20年間に日本が犯した略奪行為を、わかりやすく誤解のない

 

言葉で認めて謝罪することに関しては、この世代の指導者は残念な結果しか

 

残さなかった。彼らにして見れば、それは「東京裁判史観」の鵜呑みに繋がる

 

と思われたのであろう。それは彼らには到底考えられないことであった。

 

彼らのこうした愛国心のおかげで、日本は世界の多くから軽蔑と不信を

 

受けることになった。ということは同時に、この世代のエリートたちは、

 

後継者たちに一つの未解決の問いを残したということである。ーー日本は

 

どうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力で持つことなく、

 

世界の国々や世界の人々から真面目に言い分を聞いてもらえる国になれる

 

のか?この問いこそ、「憲法九条」が残し、「分離講和」が残し、

 

「日米安保条約」が残したものである。それは軍事占領が終結し、日本が

 

名目的な独立を獲得した時の従属的独立(subordinate independence

 

の遺産である。憲法九条の精神に忠誠を誓えば、国際的嘲笑を招くーー。

 

それは1991年の湾岸戦争で、イラク攻撃のために日本が実戦部隊を派遣

 

せず資金だけを提供した時、あざけりを受けた心痛む経験によって明らか

 

になった。他方、憲法九条を放棄すれば、日本は過去の敗北を取り消そうと

 

しているという激しい抗議を招くことは疑いの余地がない。日本の保守派

 

以外に、南京虐殺を忘れている者など誰一人としていないからである。

 

こうして、平和を求める日本の夢は、罠にかかって動けない様な苦しみが

 

付きまとってきた。

 

敗北と占領が残した、この複雑にもつれ合った遺産は、ある種の循環を

 

描いて展開した。日本は軍事的にワシントンからの指図に従属しているが

 

故に、外交的にも 否応なく従属してきた。そうである以上、戦後の

 

ナショナリズムを満たすべく日本の指導者たちに残された唯一の方法は、

 

経済面にしかなかった。日本人がひたすらに経済成長を追求した背景には、

 

自らの脆弱性への抜きがたい自覚と共に、国としての 誇りnathonal pride

 

を求めて止まない、敏感で傷付いた心情があった。そして実際、この

 

経済成長によって、屈辱の敗戦からわずか4半世紀後に、日本は束の間の

 

 大国となったのである。この目標追求の過程に見られた特徴は、商人的な

 

頭の使い方とほとんど病的なまでの保護主義的な経済防衛策の網の目の存在

 

である。それはさほど驚くべきことではない。詰まるところ、人は自分以外の

 

誰を本当に信用できるというのか?

 

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2020  7  25

 

キツネの素朴な提案

 

 

銃を撃たない自由」について. 

 

今日ネットで,フリントロック式の古い銃のことを

 

しらべていたら,面白い記事にであった.歩兵の武器が

 

槍から先込め銃になって,「数撃ちゃ当たる」式に,

 

訓練もそこそこに集団でやたらぶっ放せば勝てるように

 

なった.ところが,中には撃たない兵もいて,その銃の

 

中には何発もの弾が残っている.先込め式だから,引き金

 

さえ引かなければ何発でも詰められる.「撃つふりをする」

 

兵の中に「人間らしい感情を失わない男」を認めてほっと

 

させられると.

 

「人間らしい感情」,これが大事だ.これを失くして

 

ロボットのような兵士になる,そのための洗脳,しつけ,を

 

いかにうまくやるかが,軍国主義政権とその取り巻きの

 

悪知恵というもんだ.

 

この頃NETで流行るヘイト・スピーチだが,「日本の

 

悪口を言うやつは許さん!」の一点張り.「もしかして

 

相手はホントのことを言ってるかも.オレはそれが余計

 

気にくわんのだ!」でも「ぜーんぶ作り話さ!」でもなく,

 

「ワンワン,キャンキャン,ガウガウ,噛み付くぞ!!」

 

と,まるで番犬みたい.其の人物がもともと番犬だからか,

 

それともうまく教育されたからなのか? 

 

 

ワンチャンでも人間以上に人の心が分かるのもいるそうだ.

 

「何国人だから噛もう」などという犬もいない.

 

「わが民族だけが最高!」なんてのは狂犬または病犬だ.

 

 

 

コロナウイルスは日本人の中にいる尊大な「アジア人嫌い」

 

を呼び覚ましたらしい.自分だってアジア人じゃないのかい?

 

欧米人の中にある「黄禍論」から除外される「特別黄色人種」

 

とでも思ってる?くやしかったら,高慢ちきなヨーロッパ人と

 

対等に付き合ってみなさい.まずフランス語がネックだ.

 

それとも特別エラーイ国,キレーナ国と言いたいだけ?

 

 

「むかしむかし,戦争というものがあったげな」とだけ聞かされて

 

大きくなり,いきなり「中国の脅威!!」なんて耳に吹き込まれると

 

其の気になって,「それ中国人韓国人を日本から追い出せ!」と

 

走り出し,「鉄砲をくれ,おれにも鉄砲を!」となり,お上は

 

「戦争だ,戦争はナチスがいいお手本だ.まず遊んでるおとこを

 

刈り出せ」というので,女を家庭に押し込めて,あとの男を残らず

 

兵隊にとる.(雇用率100%達成)次にこれらヒラの兵隊にやる気を

 

起こさせなくてはならん.「愛国心」,「大義」,「王道楽土

 

(地上の楽園)構想」など,あの手この手で國民をのぼせ上がらせ,

 

やる気にさせるのだ.

 

 

鉄砲を撃ち,匍匐前進・・の戦争ゴッコはゲームだけにして,

 

まず「人を殺さない」こと,「他国に攻め込まないこと」,

 

「戦争を起こさぬように,日本政府を見張ること」が,

 

我々に課せられた使命だ.(憲法に書いてあるとおり)

 

 

増して核ミサイルで,だれが救われるものか.反対に

 

誰がそれで儲けるのか,考えてから弾を込めよう.

 

 

引き金を引かぬ勇気をもとう!

 

 

 

「普通の人々」ホロコーストと第101警察予備隊

 

クリストファー・R・ブラウニング著・・谷喬夫訳

 

(ちくま学芸文庫・・・20195月刊)

 

 

 

🦊キツネのお詫びーーこの本の主役である第101警察予備大隊については

 

このブログ にて公開したことがあるが、どういうわけか消えてしまった。

 

(後日,無事復旧.「地獄のアルバイトから生きて帰った人びと」参照)

 

 要するに前半は「行状記」なのだが、内容があまりにもセンセーショナルなので、

 

そのての記事かと誤解した方々がいたのかもしれない。この本は読みやすいだけ

 

でなく真面目な研究書でもある。出版後まもないこともあり、入手しやすいと

 

思われる。ぜひ読んでいただきたいと思う。

 

 さてここではその後編として、ただの中年警察官がナチの「ユダヤ人狩り」に

 

 加担させられて、「引金を引いて」しまった、その「立ち位置」というか、

 

 「戦場での役回り」というか、またその対極に居るナチ親衛隊のエリートの、

 

 直接血を見ていない「政策実行人」としての役回りの両方に焦点を当てている。

 

 

本文p258     普通の人びと

 

「ジョン・ダワーが『容赦なき戦争ーー太平洋戦争における人種差別』という

 

注目すべき書物で述べたように、人種戦争にとって、憎悪は戦争での犯罪を

 

誘発せずにはおかないーー(人種差別的でない在来的な戦争に比べて)

 

ナチによる東ヨーロッパの『絶滅戦争』や『ユダヤ人に対する戦争』から、

 

太平洋における『容赦なき戦争』そしてごく最近のヴェトナム戦争に至る

 

まで、兵士たちはあまりにもしばしば、無防備な市民や捕虜を苦しめ、

 

虐殺し、その他数多くの残虐行為を実行してきた。

 

ダワーは、太平洋戦争でアメリカ軍の全部隊が日本兵を『捕虜にしない

 

(収容所その他にかける費用が節約できるから=射殺)』方針を公に自慢して

 

いたことや、日本兵の死体の一部を戦場土産として日常的に集めていたこと

 

などを明らかにしているが、これは、戦争での残虐行為はナチ体制の専売特許

 

だと考えて自己満足している者にとって、ゾッとさせられる書物である」

 

と述べ、「人種差別に基づく『人種戦争』は、野蛮に通じ、野蛮は残虐行為に

 

通じている。・・戦争、すなわち『敵』と『我が国民』との間の争いは、二極化

 

された世界を創造、その中で、『敵』はたやすく具象化され、人間的義務を共有

 

する世界から排除されてしまうのである。戦争は、政府が『政策的残虐行為』

 

を採用し、それを遂行してもほとんど問題にならないような、格好の環境を提供

 

してくれるのである。ジョン・ダワーが考察したように、『他者を非人間化する

 

ことは、殺戮を容易にする冷淡な心理状態に計り知れないほど役立ったのである。』

 

 

 本文p7'7    101警察予備大隊

 

1939年ドイツがポーランドに侵攻した時、ハンブルグを本部とする

 

101警察予備大隊は、国防軍の後方に付属して最初にポーランドに送られた

 

大隊の一つだった。

 

 ・・1939年秋に召集された中年の予備警察官が配属された。10405月、

 

訓練期間終了後、ハンブルグから第三帝国に新たに編入された西部ポーランド

 

地区の一つへと派遣された。大隊は5ヶ月の間「移住作戦」を展開した。

 

新たに併合された地域を「ゲルマン化」しようという、すなわち「人種的に

 

純血のドイツ人」を植民させようと するヒトラーやヒムラーの人口統計的な

 

計画の一環として、すべてのポーランド人やその他の好ましからぬ連中ーー

 

ユダヤ人やロマ人(以前の言い方で言えばジプシー)ーーは、併合地域から

 

ポーランド中央へ排除されねばならなかった。その代わり、 ドイツとソビエト

 

連邦の間の合意に従って、ソビエト領内に住んでいるドイツ系の 人々は

 

ドイツ側に送還され、追放されたポーランド人のアパートや、無人化した

 

農場に移住することになっていた。・・・

 

大隊は、対象となった5万8628人の内、全部で3万6,972人を追放

 

した。・・召集された警察予備官ブルーノ・プロブストは移住作戦における

 

大隊の役割を思い出している。(彼は、ルートヴィヒスブルクの本部に保管

 

されている、連邦共和国のナチ犯罪に対する裁判記録に登場する)

 

「土着の民を移住させる作戦に従事して、主に小さな村々で、私は初めて暴行

 

殺戮を体験しました。それはいつも次のようでした。我々が村に到着すると、

 

すでにそこには移住委員会ができていました。・・・いわゆる移住委員会は、

 

黒い制服の親衛隊と保安部隊(SD)員、さらに民間人から成り立っていました。

 

委員会から我々は数字の記されたカードを受け取りました。村内の家々には、

 

カードと同じ数字が貼られていました。受け取ったカードは、我々が立ち退かせ

 

なければならない家の番号だったのです。初期には、それが老人であれ、病人

 

であれ、小さな子供であろうと、すべての人を家から連れ出そうとしました。・・

 

正確に言えば、移住委員会はそうした連中は不要であることを我々にわからせる

 

ことで満足した。私の記憶している2つのケースでは、老人や病人は集合場所で

 

(下士官によって)射殺されました。」大隊の5ヶ月にわたる移住作戦に続いて、

 

大隊は「鎮圧作戦」を展開した。村と森を通してパトロールし、大隊は、以前に

 

立ち退きを逃れた七百五十人のポーランド人を逮捕した。大隊の任務には困難が

 

待ち受けていた。なぜなら、ポーランド人に代わって新たにやってきたドイツ血統

 

の人々は、ポーランド人の無許可滞在を必ずしも報告しなかったからである。

 

彼らはポーランド人の安い労働力を利用したがっていたのだ。

 

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🦊キツネの残念

 

この後に続く第101警察予備大隊の運命は、過酷なものだった。読んで楽しい

 

 ものじゃないし、今日、ドイツ人でさえ、「そんな話は聞きたくない」と

 

拒否する人も多いらしい。しかし、事実を知らずに結論を出すことはできないし、

 

正しい歴史認識を得ることもできまい。そして「アウシュビッツなんて嘘さ」

 

とか日本人のにせ歴史家がおおぼらを吹いているのに、それを信じてしまう人も

 

いるという。まさに「見れども見ず」。残念至極だがしょうがない。

 

事実については本をご購入なされてご覧ください。

 

 

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p312「ユダヤ人狩り」

 

「ユダヤ人狩り」や銃殺部隊に参加したくなかった隊員は、三つの行動方針に

 

従った。まずかれらは殺戮に対する生理的な嫌悪を隠さなかった。次に志願し

 

なかった。そして最後に「ユダヤ人狩り」パトロール部隊や銃殺部隊が編成

 

される時、将校や下士官からできるだけ離れているようにしたのである。

 

いく人かは、彼らの態度がすでによく知られていたので、一度も選ばれなかった。

 

ユゼフフで最初に不参加者として一歩前に出たオットー・ユリウス・シムケは、

 

しばしば対パルチザン行動(ソ連の共産ゲリラ向けの)を命じられたが、決して

 

「ユダヤ人狩り」には指名されなかった。彼はこう述べている。「排除された

 

わけではありませんが、あの一件以来私は対ユダヤ人作戦から解放されました」

 

アドルフ・ピットナーも、大隊の対ユダヤ行動に対して早くから隠さず反対して

 

いたために、自身はそれ以上巻き込まれrなかったと考えている。「私が強調

 

しなければならないのは、最初の日から私は戦友たちの中で、そうした手段に

 

賛成できないこと、決して志願しないことをはっきりさせたということです。

 

例えばユダヤ人探索の最初の時に、私の戦友の一人が私の前でユダヤ人女性の

 

顔を棍棒で殴りました。そこで私は彼の顔を殴ったのです。報告がなされ、

 

かくして私の態度は上官たちの知るところとなりました。私は公式には罰を

 

受けませんでした。・・しかし、公式の処罰がなくとも、それを充分に

 

埋め合わせできる可能性があるのです。だから、私は日曜の勤務を割り当て

 

られたり、特別な歩哨に立たされたりしたのです。」グスタフ・ミヒェルゾン

 

は、戦友たちの嘲笑にも関わらずトラックの間にぐずぐずして、任務をやり

 

過ごしていた。・・彼は「ユダヤ人狩り」について、こう回想している。

 

「こうした作戦に関して、だれも私に近づいてきませんでした。そうした

 

作戦行動のために、将校たちは「男たち」を連れて行ったのです。彼らの目

 

から見ると私は「男」ではありませんでした。私のような態度と行動をした

 

他の戦友たちも、そうした行動への参加を容赦されました。」

 

 

 

p207ユダヤ人狩りの最も一般的な形は、報告のあった個々の掩蔽壕を一掃

 

するために行われた、森の中への小規模のパトロールであった。大隊は、

 

密告者、密猟者ないしは猟師のネットワークを作り上げていた。彼らが

 

ユダヤ人の隠れているところを探し、発見して来るのである。他にも多くの

 

ポーランド人が自発的にユダヤ人の情報を漏らした。・・(パトロール部隊の)

 

警官たちはポーランド人の道案内について直接隠れ家に着き、隙間から手榴弾を

 

投げ込んだ。最初の手榴弾攻撃を生き延び、掩蔽壕から出てきたユダヤ人は、

 

すぐうつ伏せにさせられ首筋を撃たれた。死体はいつもそのままに放置され、

 

近くのポーランド人の村人によって埋められたのである。

 

こうしたパトロールはあまりにもしばしば行われたので、ほとんどの警官は、

 

自分が一体何回くらい参加したのかを思い出すことができなかった。

 

「それは多かれ少なかれ日々のパンのようなものでした。」

 

ユゼフフから数ヶ月の間に、多くの隊員は殺戮に対して感覚が麻痺し、

 

無頓着になり、さらにいくつかのケースでは熱心な殺戮者にさえなった。

 

「ユダヤ人狩り」はこれまでほとんど注意を引かないできたとは言え、・・・・

 

それは、猟師が獲物を追跡し、直接面と向かって対決して殺す、そうした

 

不屈の、冷酷な、継続的作戦行動なのであった。それは決して一時の局面

 

ではなく、発見される限りの一人までユダヤ人を殺してしまおうという、

 

不断の準備と意図を持った実在の状態であった。

 

 

 

p119  最後の大作戦ーー「収穫感謝祭」大作戦

 

 

19421028日、ポーランド総督府の親衛隊=警察高級指揮官(HSSPF)

 

ヴィルヘルム・クリューガーは、ルブリン管区では8ヶ所のユダヤ人ゲットーが

 

残されることになると宣言した。・・・10月、11月の移送の際に森へ逃れた

 

多くのユダヤ人は、一方で飢餓や野晒しによる耐えざる死の危険に直面し、

 

他方で密告や射殺に怯えていたために、やがて復旧されたウークフと

 

ミンジチェンツのゲットーに戻り始めた。冬の季節の到来は森の中での生活を

 

ますます困難で危険なものとしていた。少しでも動き回れば雪に足跡が残ったし、

 

凍った排泄物によって、乾草の山の中に作られたユダヤ人の隠れ家が判明して

 

しまうというということすらあった。

 

かくして、強制移送が終了したと思われた時、隠れていた多くのユダヤ人は、

 

このまま森の中で撃たれる獲物でいるより、許可されたゲットーの一つにいた

 

方が生き延びるチャンスが多いのではないかと計算したのである。(中略)

 

危険がないわけではなかったとは言え比較的平穏だった4ヶ月が経って、

 

終局がやってきた。194351日、第101警察予備大隊第二中隊の警官たち

 

ミンジチェンツのゲットーを取り囲んだ。そこで前年の秋、第二中隊の

 

隊員は何回も強制移送を実施したのであった。

 

またしてもトラヴニキから来た(傭兵)部隊と合同して、彼らはその日の朝

 

ゲットーを閉鎖し、ユダヤ人を市場へ集めた。(その数は1000人〜4000人と

 

言われた)再びユダヤ人たちは、グナーデの考案した脱衣小屋で徹底的に

 

身体検査され、持ち物を 取り上げられて、列車に詰め込まれたが、あまりに

 

寿司詰めだったので、ドアがなかなか 閉じられなかったほどであった。・・

 

さらに、トラブニキからきたウクライナ人外人部隊をつれたルブリンの親衛隊

 

部隊がウークフのゲットーを一掃し、さらに3000人から4000人のユダヤ人を

 

トレブリンカへ移送した。(中略)

 

コブレンツにあるドイツ連邦文書館には、2種類の通常警察資料が収められて

 

いる。最初の資料は、1940年から1944年までの間に通常警察「イデオロギー

 

教育」課によって発行された、二つの毎週配布されたシリーズである。いくつか

 

の巻頭論説は、ナチの有名人、イデオロギー的扇動者によって書かれている。

 

ヨゼフ・ゲッペルズ、アルフレート・ローゼンベルク(ヒトラーに任命された

 

ソ連占領地区担当相)、ヴァルター・グロス(党人種政策局長)等である。

 

もちろん、人種差別主義者の一般的観点が、これらの資料に浸透している。

 

しかしながら、全部で200ほどの論点のうち、反ユダヤ主義やユダヤ人問題には、

 

比較すると、わずかのスペースしか割かれていないのである。「ユダヤ民族と

 

犯罪」という論題は、いわゆるユダヤ人の特徴を次のように結論付けている。

 

「節度のない」、「虚栄心」、「詮索好き」、「現実否定」、「魂の欠落」、

 

「魯鈍」、「悪意」、「残忍さ」、これらが「完全な犯罪者」の正確な特徴で

 

あるというのである。

 

こうした単調な文章を読むと、読者は思わず眠りに誘われたのではないだろうか。

 

こうした文章が警官たちを殺人者に変えた、などということはなかったのは確実

 

である。・・・・「ユダヤ人のいないヨーロッパ」という究極目標に関連して、

 

ヒトラーの予言を思い起こしたり、ヒトラーの権威に訴えたりすることは、

 

もちろん、親衛隊の教育教材に特有のことではなかった。同様なメッセージは

 

一般の世界で広く流布されていた。さらに、こうした教材が、警察予備官を

 

大量殺戮者に変えるための「洗脳」に当たって、ほとんど教示されなかったことは、

 

他の論説から見て取れる・・・

 

警察予備官が偉大な任務を遂行するために、彼らを人間性を超えて非人間に

 

なれるように鍛えようとするどころか、論説は、警察予備隊が特別重要なことを

 

何もしていないと考えていた。おそらく退屈さに脅かされていた彼らの士気を

 

高めるためだろうが、この論説の中で「年長の警察予備官たち」は、している

 

仕事がどれほどつまらない ように見えても、総力戦においては「誰もが重要

 

なのだ」と激励されていたのである。

 

 この時までに、第101警察予備大隊の「年長の警官たち」は、ユゼフフ、

 

ウォマジーでの大量虐殺、や、バルチェフやミンジチェンツからの最初の強制

 

移送を、すでに実行していたのである。彼らは、ルブリン北部のゲットーに対する、

 

六週間にわたる血生臭い、頂点ともいえる襲撃の前夜に立っていたのであった。

 

隊員の誰かが、この論説は重要であると、言わんや感動的だなどど思ったという

 

ことはあり得ない。 

 

 

p289・・通常警察のイデオロギー教育の為の特別パンフレット・シリーズ 

 

1942年に発行された「血の問題」についての特別号から始まり、とりわけ

 

1943年の「人種の政治学」の中で、人種教義とユダヤ人問題の取り扱いが極めて

 

綿密かつ体系的なものとなった。それによれば、ドイツ「民族」ないし

 

血の共同体」は密接に関連した6つのヨーロッパ人種の混合として構成された

 

ものである。その内最大のものが 「北方人種なのである。北方人種は世界の

 

どの人種よりも優れている。・・

 

 ドイツ民族は、自然の掟によって定められた絶えざる生存競争に直面している。

 

自然の 法則によれば、「虚弱な劣等者は全て破壊されねばならず」、「力の

 

ある強者だけが 繁殖し続けるのである。」この生存競争に勝利するために、

 

民族は2つのことを成し遂げなければならない。すなわち、さらなる人口増大に

 

対応できる生存圏を確保することと、健康な自覚に対して、主要な脅威は、

 

人間の本質的平等を宣伝する教義からやってくる。

 

 最初のそうした教義は、ユダヤ人パウロによって広められたキリスト教で

 

あった。第2の脅威は自由主義であり、これはユダヤ人秘密結社フリー

 

メーソンに扇動されたフランス 革命ーー「人種的劣等者の暴動」ーー以来

 

出現したものである。

 

「ユダヤ人は人種的混合であり、他のすべての人々や人種と対照的に、その

 

本質的な特徴を 何よりもその寄生虫的本能によって保存しているのである。」

 

論理や首尾一貫性などお構いなしに、パンフレットは、ユダヤ人が彼の宿った

 

主人を混血によって破壊しながら、 ユダヤ人種の純粋性を保持してきたのだと

 

主張している。

 

 これらのパンフレットはいかなる明確な目的のために書かれたのであろうか。・・・

 

「血の問題」も、「人種の政治学」も、敵性人種を抹殺せよと呼びかけて終わって

 

いたわけ ではない。むしろ、これらのパンフレットは、より多くのドイツ人の

 

誕生を奨励するのが 結論だったのである。人種戦争は、部分的には、「繁殖」と

 

「淘汰」によって決定される 人口学的戦いであった。戦争は、「反淘汰の純粋な

 

形式」であった。なぜなら最良の者が戦場で倒れるばかりでなく、彼らは子供を

 

持つ前に倒れてしまったからである。「戦争の 勝利」は「子供の勝利」を必要と

 

する。親衛隊はドイツ国民のうちから主に北方的要素を 持つ者の選抜を行なった

 

のであるから、親衛隊員は若くして結婚する義務を負っていた。

 

 人種的に純粋な、若くて多産な花嫁を選び、大勢の子供を儲ける義務があった

 

のである。

 

(したがって、これらのパンフレットによる警察予備官の教化については、次の

 

ような要素を考慮すべきである)まず第一に、最も詳細で徹底したパンフレットは、

 

1943年 になるまでは発行されていなかったことである。(その時までに、

 

101大隊の保安区域 であったルブリン北部は、ほぼ「ユダヤ人のいない世界」

 

になっていたのであった。それらの パンフレットが、この大隊を大量殺戮者へ

 

教化するために何らかの役割を果たすには遅すぎたのである。第二に、1942年の

 

パンフレットは、若き親衛隊員の家族形成義務にはっきり 目標を絞っており、

 

特に中年の警察予備官には関係ないことであった。中年の警察予備官は、

 

 もうかなり以前に結婚相手を決めており、子供の数もすでに決まっていたから

 

である。・・

 

3に、他の方法でナチ教義を浸透させるには警察予備隊員の年齢の問題が

 

影響した。ナチ犯罪者の多くは極めて若年であった。彼らは、ナチの価値観が

 

自分たちの知る唯一の「道徳規範」であった世界の中で育てられてきた。

 

そうした若者たちは、ナチ独裁下で 学校教育を受けて育ってきたので、単純に

 

それ以外のより良き者を知らなかったと言えよう。ユダヤ人の殺害は、彼らが

 

育てられてきた価値体系と矛盾するものではなかった。・・・

 

 (主に中年の隊員から構成された第101警察予備隊員は)1933年以前の世界で

 

教育を 受け、青春期を過ごしてきたのである。しかも隊員の多くは、ナチズムを、

 

どちらかといえば受け入れない社会環境の出身であった。・・彼らはナチ以前の

 

ドイツ社会の道徳規範を、完全によく知っていたのである。それによって、彼らが

 

実行することを 求められたナチの政策を判断したのである。

 

 第四に、通常警察官のために用意されたイデオロギー的パンフレットは、時代の

 

雰囲気 や政治文化を反映していた。そうした雰囲気や政治文化のうちで、隊員

 

たちは訓練を受け、教化され、過去10年に渡って生活してきたのであった。

 

ドルッカー少尉は極めて控えめにこう述べた。「時代の影響下で、ユダヤ人に

 

対する私の態度はある種の反感でした」

 

ユダヤ人に対する中傷、またドイツ人種の優越性の宣言は、不断に、あちこちで

 

容赦なく行われていたので、それが、平均的な警察予備官を含むドイツ人大衆の

 

一般的態度を形成してきたことは間違いない。

 

最後になったが第五に、(そのようなパンフレットは、ユダヤ人のいない

 

ヨーロッパの 必要性を宣言していたが、ユダヤ人を殺すことでその目標を達成

 

する事業に)個人的に参加するようにはっきりと督促したことはなかっ

 

たのである。・・・

 

要約していうと、・・(こうしたナチの価値観の宣伝は、第101警察予備大隊の

 

隊員に対して)ゲルマン人の優越性といった一般的観念や、ユダヤ人に対する

 

「ある種の反感」を増強するのに、かなりの効果を持ったに違いない。しかし

 

ながら、イデオロギー 教化資料の多くは、・・年長の警察予備官を対象とした

 

ものではなかった。そして、 ユダヤ人を殺害する任務のために、警察官を冷酷に

 

することを特に意図した資料は、 残存する文書には目立って見当たらないので

 

ある。・・大隊はユダヤ人を殺害するように 命令を受けた。しかし個々人は

 

そうではなかった。しかし80%から90%の隊員が、ほとんどはーー少なくとも

 

最初はーー自分たちのしていることに恐怖を感じ、嫌悪感を 催したが、にも

 

かかわらず殺戮を遂行したのであった。列を離れ、一歩前に出ること、

 

はっきりと非順応の行動をとることは、多くの隊員の理解を全く超えていた

 

のであった。彼らにとっては、射殺する方が容易であったのである。

 

 なぜであろうか。(撃たなかった隊員にとって)、射殺を拒絶することは、

 

組織として 為さねばならない不快な義務の持分を拒絶することだったのである。

 

それは結果的に仲間に対して自己中心的な行動をとることを意味した。

 

撃たなかった者たちは、孤立、拒絶、追放の危険を冒すことになった。ーー

 

撃たなかった者たちは、全員ではないが、 直感的に、そのことによって生じ

 

かねない戦友への批判(善良ではないことへの)を 和らげようとした。彼らは

 

自分たちが「あまりに善良」だからではなく、「弱すぎて」 殺せないのだと

 

主張したのである。こうしたスタンスならば、戦友の評価に疑問を 投げかける

 

ことにはならなかった。その反対に、それは「頑強さ」を優等な資質として

 

正当化し、是認することになったのである。

 

 

無防備な、非戦闘員の男性や女性、子供を殺せるほど十分に「頑強」であることは

 

肯定的資質であった。・・一方で良心の要請があり、他方で大隊の規律があるが、

 

両者の 矛盾を処理することは、多くの苦し紛れの妥協を生み出した。その場で

 

幼児を射殺しないで 集合地点まで連れてゆくこと、ユダヤ人を処刑場まで連れて

 

行っても意図的に誤射すること、 などである。

 

 例外と言って良いほどの少数だけが、同僚からの「弱虫」という侮辱に無頓着で、

 

「男では ない」とみなされる事態の中で生きることができた。

 

 ここで我々は、不断の宣伝とイデオロギー教化の悪しき効果によって、戦争と

 

人種差別主義 は相互に強め合うという、ジョン・ダワーによってすでに述べ

 

られた問題に再び戻ることに なる。(中略)

 

 

反ユダヤ主義宣伝の年月(ナチ独裁以前の、声高に叫ばれたドイツ・

 

ナショナリズムの) は、戦争が生み出す敵味方の二極化効果と組み合わされた

 

のである。人種的に優れた ドイツ人と人種的に劣ったユダヤ人という二分法は、

 

ナチ・イデオロギーの中心であるが、戦闘中の敵に包囲されたドイツという

 

イメージとたやすく合併された。・・ナチが人種戦争を遂行するのに、戦争

 

それ自体ほど助けになったものはないのである。ユダヤ人を「敵」の

 

 イメージの中に組み込むこともいともたやすいことであった。

 

 

 

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🦊この評論は、所謂『屑ども』の集まりである、中年警察官の戦場での苦い

 

経験と、生き残って戦後の裁判で語った生々しい証言に基づいて、「彼らは

 

なぜ引き金を引いたか」という疑問を解き明かそうとしたものだ。

 

*前半部分はブログ「地獄のアルバイトから生きて帰った人たち」 に

 

載せておいたので、一読くだされば,この評論とのつながりが理解して

 

いただけるとおもう.