輸入し損なった民主主義とうまく根付いたサン・シモン主義




「サン・シモン主義と渋沢栄一」

鹿島茂一氏講演;     明治大学国際日本学研究

200年3月31日
http://hd1.handle.net/10291/13153

より抜粋

🗣(1867年渋沢は徳川慶喜の弟昭武の会計係として第二回パリ万博に

同行する)  徳川昭武一行の世話係の銀行家フリューリ・エラール

という人と、昭武の家庭教師としてついている陸軍大佐のヴィレットという

人がいた。当時、渋沢の時代の日本では、武士はオールマイテイ、

商人、農民はゼロということだったんですけれども、フリューリ・

エラールとヴィレット大佐を見ていると、その差は全然無い。

この平等な社会というのは、何で生まれるのだろう。それを俺は

見極め、封建的な社会を変えたいと考えて、渋沢は様々な形で

社会を観察してゆくことになります。その観察の元となったのが、

フリューリ・エラールという銀行家なんです。この銀行家にいろんな

所に案内してもらううちに、渋沢の頭の中に、日本の封建的な社会を

ひっくり返して、革命を起こして四民平等の社会を作るには何が必要

かということが朧げにわかってきたんです。それは何かというと、
ジャンジャック・ルソー流の、あるいはフランス革命的な平等思想

では全然なかったんです。これは意外ですが、

渋沢は、共和思想とかそういうものにはほとんど関心が無いんです。

そういう政治的、体制的なものには興味がない。

まあ、当時は第二帝政という、ナポレオン三世の帝国ですから

フランス革命当時の共和思想に触れる機会がなかったとも言える。

しかし、そうしたことよりも。渋沢が半商、半農で稼ぐ農民の

出身だったことが大きい。つまり、渋沢はじぶんの身分である

商人という視点から日本を平等社会にするには何をしたらいいかと

考えたわけです。そのあげく、社会革命の方法として、これだ!と

思ったのは、意外なことに「株式会社」だったんですね。株式会社

こそが革命の方法であると、彼はこう理解したんです。(中略)

しかし僕は、もしかすると渋沢が株式会社を大誤解して作り上げた

日本的資本主義システムと、第二帝政期についに変革の原動力と

なったサン・シモン主義というものは、何かしら共通点があるのじゃ

ないかしらとと、急に思いついたんです。


サン・シモン主義とはどういうものか、ここでちょっと説明しておきます。

最初にフーリエとサン・シモンが社会主義という言葉を使い始めた

けれども、(マルクス・エンゲルスの説と比べてみると)これは全然

社会主義とは関係ないということがわかる。サンシモン主義を

ものすごく分かりやすく要約しちゃうと、資本主義的エートス

(国民的、民族的な倫理観)が無い土地において、ブラックマーケット
p
型ではない、テクノクラートの調整する管理型の資本主義を外部注入

して、そこにいきなり高度資本主義を作っちゃえ、という考え方です。

では、このサンシモン主義の元祖であるサン・シモン伯爵というのは

どんな人かというと、・・・・・

若い頃にアメリカ独立戦争に参加して帰ってきたというから、一応

理想主義的な共和主義を信奉していたようです。しかし、フランスに

帰ってきて大革命を経験するうちに考えが変わってくる。フランスは

大混乱に陥っていたんです。

革命政府は金が無いので、アッシニアというもの(つまりペーパーマネー)

を過剰発行して、それが当然大暴落。ところでこのアッシニアは、

亡命貴族から召し上げた土地、建物を担保にして発行されたので、

暴落したアッシニアをかき集めれば国有財産が全部手に入る。

サン・シモンはベルギーの銀行家と組んで一生懸命アッシニアを

買い集めて、よし、国家を乗っ取っちゃえということを始め

たんですが、革命政府の横槍で、それは失敗しちゃうんです。

その時に彼が言ったことは、「社会は、王様、貴族、僧侶、軍人、

官僚、こういう人は要らない。必要なのは実業人だけだ」という

ことを言うんです。つまり、工業、商業、農業、その他全ての

産業に携わって自分の労働によってお金を作り出していく人々、

ただし資本家と被雇用者の区別は彼の頭の中には無いんです。

そういう人たちが社会を作るのである。「産業人による、

産業人のための、産業人の社会」を作ろうというのが、

サンシモン主義の基です。そのためにはどういうものが必要

かというと、物が、人が、お金が動くこと、それがサン・シモン

の重要なコンセプトなので、物が停滞することは、何も生まない。

タンスの中にため込まれたお金は、富を産みださない。それに

対して、お金が動き回ると、それだけで富が産まれる。

同じように、人間が一か所に居るだけでは何らの国富というものは

生まれてこない。物がA地点からB地点へ移動することによって、

物というのは価値を持ち、そしてそれは富へと繋がっていく。

ならば、流通(サーキュレーション)を生み出すようなシステムを

作らなければいけない。という風に考えまして彼は、お金の

サーキュレーションとしての銀行、物と人のサーキュレーション

としての鉄道、それから物と人を結びつけてそこのところで

新しく何かを作り出すための株式会社を社会変革の原動力

に据えたんです。・・・・

ところでこの時代、ナポレオンの甥のルイ・ナポレオン・

ボナパルトがスイス、イギリスとかそういう所で亡命生活を

おくっているうちに、サン・シモン主義の布教パンフレット

を見て、ウーン、これはすごい、もし俺が皇帝になったら

全部これを実現しちゃおう、と思っていたんですが、・・

1948年に二月革命が起こって大統領選挙が行われ、

ナポレオン三世は当選して大統領になっちゃった。

思ってもいなかった権力が向こうから転がり込んで

きて、大いに喜んだナポレオン三世は、かねてより

心に誓っていたサンシモン主義のプログラムを実行に

移します。そうして抵抗に遭うとこれをクーデターで倒して

しまって、第二帝政というものをつくります。そして

ブレーンとしてサンシモン主義者を、特に分離派、分派の

ミシェル・シュバリエ、それからペレール兄などを雇います。

ミシェル・シュバリエは万国博覧会の産みの親であり、

英仏通商条約という関税撤廃システムの最初のアイデアマンです。

それから、ペレール兄弟というのは、ロスチャイルド銀行型とは

違ったベンチャー企業型の銀行を作ろうと思ったんです。

というのは、当時の銀行というのは産業投資のための銀行じゃ

なかったんです。A地点とB 地点と、C地点という3つの地点で

支店をもうけ、その為替差益によって利益を上げていくのが、

旧来型の銀行のシステムです。ロスチャイルドもそうでした。

彼らは大金持ちからの金を利率の高い外債に投資する。今の

ファンド・トラストと同じですね。アメリカでも、大金持ち

からの預り金を一番利益の上がりそうな所に投資するわけですね。

これは産業投資とは全然関係ないです。

ところが、ペレール兄弟はサン・シモン主義者の一員ですから、

小さな金を大きくして、それを産業に投資し、産業を

作り出そうと考えました。というのは、フランスというのは、

フランス革命が起こったために、イギリスから産業革命が

50年も遅れちゃったんです。この差はなかなか縮まらなかったん

ですけれども、ナポレオン三世の時代にサンシモン主義の登場に

よってこの差が一気に縮まった。第二帝政の後半にはイギリスを

追い越すまでになります。・・・・


さて、最後に話をまとめたいと思います。・・・・

渋沢栄一は、幕末にフランスに派遣されることで、必然的に

日本とフランスという2つの社会の「差」を意識させられました。

そして検討、分析を経て自分の問題点を見つけて行ったのです。

明治の日本人、特に渋沢栄一、福沢諭吉はこれをやりました。

🦊 🦊🦊:   異議あり!




🗣(渋沢の業績としては)製鉄業、鉄道、化学肥料の工場、さらには

帽子、靴、劇場、社交場としての東京会館とか東京商工会議所、

東京証券取引所までつくりました。今の一橋大学もそうです。渋沢栄一が

いなかったら、日本はうまく資本主義社会になったかどうかわからないと

いえるのです。一方で渋沢は、各人は自分の儲け範囲というものを決め、

それ以上はぜんぶ社会に還元するという「知行合一思想」を広めようと考えた。

(これもサンシモン教会というものを作って、産業人にとっての倫理行動と

いうものを主張したサン・シモン主義に非常に近い)

渋沢栄一は、四民平等を実現し、日本を変革するその武器としての株式会社

および銀行というものを作ります。(渋沢が作った第一銀行とは、「国立」

という名がついていますが、日本では最初の民間銀行です)それ以後

渋沢が作った株式会社は500以上です。おかげで、日本は西欧の文物を輸入

しながら、日本というアイデンティティを」失わずにに済んだ。


🦊🦊🦊;     ちょっと待った!!


🗣これこそが、わが「国際日本学部」がやらなければならないことです。

日本人は・・海外から輸入されたさまざまな画期的なアイデアを改良すると

いうのはうまいですよね。しかし、問題自体を日本人が考え出すことは

殆ど無いんです。しかしこれからは、問題を輸入して改良するのではなく、

問題そのものを考えなくてはならない。そのためには、日本と国際を

比較して、差異と類似から独自の問題を育てていかなくてはならないのです。

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🦊🦊:   異議あり!

渋沢と福沢の学問は、それぞれ狭い範囲にかぎられており、渋沢は儒教の

伝統から先へ進むことができず、その先の「四民平等」も、これまでに

実現したことのない「夢物語」を語ったにすぎない。それ以上に、儒教由来の

「東洋は日本を中心に回る」説を土台にして、その上に「権力者と商人の」国家を

つくり、国民は商人の雇われ人として、人間であるような無いような存在だ。

「天は人の上に人を作らず」なんて言っても、福沢先生はアジア人については

バカ呼ばわりをしていたとか。彼も西洋通というにはちと狭い、「西洋に倣え」の

学者?というのが近頃の評価らしい。

 明治政権は民主主義を輸入しなかった。それでも、家のどこかにあるはず(明治の人

は偉いから)などと思っている人も多いかも。けど、「日本の民主主義を絶やすな!」

などといくら国会で叫んでも、「民を欺く」議員連中の対応をみれば、

「ウチには民主主義なんて元から無かったんだ!」と気付かされるばかり。



🦊🦊:   ちょっと待っl

キツネにもわかるように言ってくれ。「失わずに残った」というからには、

普通に見られる現象でしょうね。それとも神棚の奥に、大事に祀っているのかな?

i
8月某日

 
「両岸の旅人」イスマイル・ユルバンと地中海の近代

工藤昌人  著ーー東京大学出版会   2022年6月


🦊;   この本の帯封には、

「19世紀の地中海から開かれて行く新しい世界史に

向けての方法と見取り図」とある。正直言って、

これでは何のことやらわからん。本文の滑らかな

語り口に沿ってただよむだけでも十分たのしめる。

約40pに及ぶ出典を調べて学術書として読むなら

(🦊はごめんだが)それはそれでタメになることだろう。


要するに、19世紀のフランスが国力を増し、植民地主義の

国に変貌して対岸の土地を植民地化する間、そこに生きて

いた半フランス人(モスリムの母を持つ)の生涯の物語

だ。もちろんそこには彼の拠り所としたサン・シモン

主義のグループや、彼が一時期通訳、顧問として仕えた

皇帝ナポレオン三世やフランス本国の人々が熱望する海外

進出の旗振り役を勤めた有力な地政学者連中がいた。

15世紀には自らのアイデンティティを失わずに自由に

地中海を行き来していた両岸の人々が、次第に何国人か、

何宗派か、純粋フランス人かどうか、で厳しく選別され、

挙句に住居も土地も、侵略者フランス政府の「優れた

民族たるフランスは、遅れたモスリムの土地を有効に管理

し、彼らを教化し、文明化する義務がある」という、当時

世界的に大流行した、軍隊による土地奪取の正当化の波に

乗って、地中海北岸に領土をひろげた。

そんな時代に、「一応フランス人」の扱いだが、フランス国籍は

与えられない人々、北部のベルベル系の住民やモスリムの

人々から、言語や文化までも奪い去る「文明国の横暴」。

しかしその狭間で生きてゆかなければならない人々の声、

願い、反抗が語られる。


などと、キツネの下手なまとめよりも、ぜひこの本を買って

読むべし。(キツネのような年金生活者にはチト痛い値段ではある)

それに、著作権でしっかり保護されているので、つまみ食い

も出来ないし。



8月某日



アメリカにとって特別な存在だった安倍晋三ーーー

バイデン演説から見える深い因縁ーー

2022年7月14日   YAHOO!ニュースより

山田敏弘(国際情勢アナリスト、国際ジャーナリスト、

日本大学客員研究員)


🛑2022年7月8日、安倍晋三元首相が凶弾にたおれ、

帰らぬ人となった。世界平和度指数をみても、日本は

世界で最も治安が良い国の一つに名をつらねている。

そんな国で元元首が遊説中に暗殺されるというのは

衝撃的であると同時に、安全な国だからこそ警備に

隙ができたと考えられる。・・

(各国から次々と追悼のメッセージがよせられたが)

特に印象的だったのは、アメリカの反応だ。過去を

振り返っても、安倍はアメリカと非常に近い関係で、

第一次政権時から米政府関係者と密に繋がっていた。

日本でも米大使館をつうじて、国務省などと

頻繁にやり取りをおこなっていた。

アメリカ側の認識もおなじで、安倍との関係は非常に

近かった。米政府関係者のみならず、筆者はCIA(米中央情報局)

の要職を務めた人物から安倍の側近らと親しいという話を

直接聞かされたことがあるくらいだ。

機密情報漏洩防止を目的とする特定秘密保護法や、集団的自衛権

の行使を容認する安保法制はそんな流れから生まれたと言える。


🛑CIA 「追悼の壁」の前で語られたスピーチ

じつは安倍が暗殺された7月8日、バイデンはバージニア州にある

CIA本部を訪問し、設立75周年を記念するイベントに参加

することになっていた、そしてホワイトハウスの声明を

出したのち、バイデンはCIA本部に出向き、75周年を祝う

スピーチを行ったのである。

そのスピーチは、CIA本部にある殉職者を追悼する「メモリアル・

ウオール」の前でおこなわれた。この壁には、名前も作戦もすべて

機密の中に死んでいったCIAの殉死者が出るたびに、壁に星が彫られる。

毎年そこには名前も明かされない殉職者のために新たな星が彫られ、

現在、139個の星がある。

バイデンは、そのスピーチで、改めて安倍に触れたのである。

「今日のイベントについて話すまえに、友人である安倍晋三元首相の

恐ろしくショッキングな殺害事件について少し話したい」と

バイデンは話しはじめた。安倍とはバラク・オバマ政権時の副大統領

としてよく話をしたと述べ、安倍について「「祖国と国民への

奉仕が彼の骨の髄まで染み込んでいた」とコメントしている。


🛑  祖父岸信介とCIAの密な関係

安倍がアメリカとの関係を重視した背景には、かれの祖父である

岸信元首相の存在があった。安倍が、祖父を政治家として非常に

尊敬したことはよく知られている。その岸信介がCIAと密接な

関係を築いていたことは歴史的な事実だが、その流れが安倍にまで

広がっていたことを考えると、バイデンがこの場所からスピーチを

したことは、非常に感慨深い。

岸信介は第二次大戦時、商工大臣であり、閣僚だった。そんなこと

から敗戦後は、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されていた。

ただ不起訴になって1948年に釈放されている。

その後は1955年に「自民党」と「民主党」が一つになる

「保守合同」で自由民主党が誕生する大きな役割を

果たすのだが、その際にアメリカ側と強く繋がっていたのが、

岸信介だった。じつは、48年の釈放後から55年までに、岸は

米国政府など関係者と関係を強めていった。

フォスター・ダレス国務長官やCIA関係者とも深く繋がり、

米ニューズウイーク誌の東京支店長から英語を教わるなどした。

そして1955年11月に自民党を誕生させるのである。


「スパイチャンネル〜山田敏弘」では、岸信介と安倍晋三、

CIAについてのさらなる詳細をひもといているので、ぜひ

そちらをご覧いただきたい。

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🦊:  岸信介は、巣鴨から出るために、さまざまな手を使って

アメリカ軍やCIAが彼の罪を軽くし、反対に東條を

追い詰め、(証拠書類をすべて焼却し)自身の釈放にもちこんだ。

それから、総理となるまでにそう言う関係はつづいた。

安倍氏の秘めた願望が、岸信介おじいちゃんの名誉回復

にあったこと、改憲と言い、憲法の手直しが必要

と言い、経済はアベノミクス、選挙は統一教会に

任せて安心、「自民党はびくともしない」の

気炎をあげ、国民に正統保守であるかのような

錯覚を与え、(現に、国葬賛成の日本人は

50%に迫り、歴史に新しい恥を書き込もうとしている)

バイデン演説が安倍氏を何と持ち上げようが、国民は

知っている。彼の頭には「国民」は無い。

そして、かれの政権のもとで、なるべくして成った

「国会における言葉による意思疎通の崩壊」・・・

佐伯氏は言う、「それは彼の罪とばかりは言えない」と。

キツネはそう思わない。何もかも「時の勢い」のせいに

してしまったら、民主的選挙の意義はどこにあるのか。

佐伯氏は、「保守の義務」として、法治主義、言論の自由

その他の「リベラルな価値」を尊重し、「それらをあまり

急激な変化にさらさないようにする」こと、という。

身近な例をあげよう。

キツネは退院に際して100万円ほど必要になった。

自称保守の怠け者であるから、キャッシュカードなどは

持っていない。ところが、銀行窓口では、この金額では多すぎる、

もしやオレオレ詐欺か?と勝手に思い込んで、渡してくれない。

生活費に〇〇万円、他行の自動支払い口に補填、電気ガス代、

それに見舞いに来た親類から借りた金も返さねばならん。

だが、「当行の基準では多すぎます」の一点張り。

一緒に親類の子を(身分証明書つきで)つれていって、

オレオレ詐欺じゃないと分かってくれ!と嘆願したが

だめ。病院からの請求書と親類への借用書も必要。

委任状を書いたら?それも偽造だといけないから、

当行では不採用だと。たまりかねて「警察をよべ!」

とわめいたら、渋々額面通り渡してくれた。よほど

警察が苦手なんだねー。

なぜ窓口があるか。それは警察の方針に従って、超遅れた

老人の生活指導のためだろうか。とにかくボケる前に

キャッシュカードを作っておくのが、「リベラル」。

ところで、キャッシュカードなら、絶対に詐欺事件は

起こらないか。そうでもなさそう。


🦊:  オムツを濡らし放題の赤ん坊みたいな「民主主義国」

只今の政治家連中のあたまには、リベラルも矜持も

なんのことやら。かく言うキツネは保守に属すると思って

いるが、佐伯氏は「グローバルな大競争の時代にあって、

政治は、リベラルな普遍的価値という「公式的価値」を

高く掲げ、技術革新を推進し、社会を流動的に

変化させなければならない」という。しかし

一方で、「その結果、日本社会が保持してきた「非公式的

価値」を蝕むことになった。それは安倍氏ひとりの罪

ではない」と言う。

一億総懺悔(いちおくそうざんげ)・・かな。それで

新聞の面目は立つ、わけかな。素人向けに

さらなる説明がほしい。「日本社会が保持してきた

非公式的価値とは何ぞや。まさか「良さげなお上には

逆らうべからず」とか「個人の自由にも限度あり」

「社会生活にも、家庭生活にも、権威を示す管理職が必要」

「戦争、それは男の本分」などと「良さげ」に騙される

理屈嫌いの国民性のことかな。違うよねー?




8月末日



ギボウシの青いタネにとまる、ナミアゲハ

卵を産みつけているのか?

翌日、楽しみに見ると、卵はなし。アゲハは

何度もこのタネに戻ってきたから、よほど

気に入っていたんだなー。何でかなー?

グーグルで調べると、どうやら水分補給のためらしい。

どこに水分があったのか、写真では分からず。

雨の後でもないし。

ある記事によれば、水を飲むのは大体オスなんだって。




狭い庭の西南の端。

ここは唯一日の当たる場所で、秋草がよく茂る。

今年はアレチヌスビトハギと、キンミズヒキの

ひっつき虫コンビが大繁殖だ。もちろんタネが

稔るまえに、全て引っこ抜いて更地にしてやる。

土さえあれば、タネはどこかから自分でやってくる。

昨年はホトトギスと赤マンマとヨメナ、

その前はワレモコウとヒヨドリバナ、てなぐあいに。

虫がはこぶのか、風が運ぶのか知らないが、アレチ

の名がついたのは大抵外国から来た、繁殖力旺盛な

植物と決まっている。例えば今年の公園には

アレチヌスビトハギがのさばっているのに、

キンミズヒキは1本も無し。うちの庭土が、公園よりは

居心地がいいということか。そう言えば、鳩が庭木に

巣をつくった。数種のチョウが、この庭を通り道に

して行き来している。数年前に多量に入れた赤土に、

野草の種が眠っていたのかもしれない。


🦊:   このテーマはいきなり渋沢栄一からはじめたので、

「何のことやら」と思う人も多いかもしれないが、

要するに「一万円札史観」だ。聖徳太子・・これは

文句なし。太子は民のために政治を行ったとつたえられる

から。次に福沢諭吉・・この人は天は人の上に人を作らず

「といえり」と、米国の大統領の言を借りて、万民の

平等を宣言したかのように誤解され、まるで彼が、

民主主義を輸入した明治のインテリ第一号みたいに

株を上げたが、問題は明治政府が政治形態を

形式のみでなく「民主主義の実践に当てた」かのように

はやトチリするとんだ歴史感が育ち、いまもって健在である

ことだ。(1万円札史観)

だから、次は渋沢栄一、彼は権力と商人の協力によって

国を富ませる(今で言う日本式資本主義)の元祖であることは

間違いないが・・彼の頭に「民」はなかった。

次は誰かな・・と考えて見ると、このままでいけば

山縣有朋かな〜、とキツネはどこかに書いた。

汚職と警察権力と、議会制度の骨抜き、偽情報で

国民を戦争に誘導する(いまのロシアみたいに)など、

立派な?成績をおさめて「明治の元勲」の仲間入り。

あ、そういえば、彼は長州閥として有名だ。その

筋からいくと、つぎの1万円は同じく長州閥の

安倍氏かな。「国葬」の箔もつきそうだし。

地元は大喜びでしょう。

政治の「びくともしない」争いでも、是非ぜひ、

「白河越え」を望む。保守でも革新でもかまわん。

政治の「白河越え」を。


それと、自称歴史家の「明治は美しかった。民主主義を

輸入して実践した」のフェイク情報に、いまだに囚われておる

人たちに、口を開かせないことだ。「何がわるい。只今の世論が

求めている情報=だれが日本の資本主義の発展につくしたか、に

答えるものだ」と彼らは言うだろう。だけど、「誰が民主主義の

実践に力を尽くしたか」は問われもせず、「明治の元勲」と言われる

からにはそれくらいのことは当然やったにちがいない」と、思われている。

どういたしまして。明治は汚職と権力闘争に明け暮れた。

そして現在、経済はそこそこ(周囲の国々の発展に左右されながら)

まわっているが、民主主義や地球の未来について、カラッポの

あたまを(知的な議論の場であるべき国会においても)開けて見せては

なるまいと、墨塗り文書で誤魔化す呆れた自称民主政治。

ええ加減にせんかい!

というテーマなのでした。おしまい。



🦊の「付け足し情報」

アメリカと違って、日本国では、「民主主義を旺盛な食欲で、腹に収める」

大衆はいなかった。代わりに荷物を受け取った者たちは、これをゴミ箱に

捨てた。・・・・・・


「長州藩政治のDNA」       永井明彦

新潟市医師会ホームページより

🔴明治150年の昨年、明治時代を顕彰する動きの一環だろうか

NHK大河ドラマも「西郷ドン」だった。ドラマはご多分に

もれず薩長史観(官軍教育)による明治政府に都合の良い

解釈で展開し、“大西郷”は篤実温厚で庶民的なヒーロー

として書かれていた。(中略)

しかし、大河ドラマでは、戊辰戦争に関しては西郷のすぐ

下の弟、吉二郎が戦死した北越戦争が僅かに描かれただけで、

悲惨な会津戦争や赤報隊の蛮行など、西郷の負の側面には

意識的に触れられなかったように思う。北越戦争では、当時の

日本では数少ないガトリング銃を装備した長岡藩の河井継之助の

奇襲攻撃を受け、長州の山縣有朋が瓢箪ぶら下げて褌一つで

逃走したという。山縣は同郷の吉田松陰を神格化し、陸軍を

創設した日本軍閥の祖であり、統帥権を独立させ、あの悪名高い

「戦陣訓」の下敷きとなる軍人勅諭を作った。山縣が北越戦争で

戦死していれば、後の陸軍はもっと真面目で性格も穏当なものに

なっていただろう。権力は必ず腐敗すると断言したのは福沢諭吉

だが、同じ“明治の元勲”でも自由民権運動の板垣退助や官吏の

汚職に厳しかった江藤新平と違い、山縣に代表される狂信的な

長州人は、国家権力を私物化し、長州汚職閥政治は絵に描いた

ような腐敗にまみれた。山縣が関係した山城屋事件と

三谷三九郎事件、「三井の番頭」と西郷に皮肉られた井上馨の

尾去沢鉱山事件など、その権力犯罪は典型的かつ大々的なもの

であった。維新3傑のひとりで、「逃げの小五郎」と言われた

長州藩総元締の木戸孝允(桂小五郎)は、内政からも逃げ、

岩倉使節団に参加したが、帰国後は子分の伊藤博文、井上の

汚職の後始末や自身も絡んでいた小野組転籍事件のもみけしなど

部下の救済に奔走せざるをえなかった。


質実な薩摩人だった西郷の長州汚職閥の腐敗に対する静かな怒り

が、西南の役の遠因だが、西郷の後は山縣が、大久保の後は伊藤

が、ともに長州人が後継者になったのが長州閥政治の発端であり、

近代日本の不幸であった。政や官が特定の民に便宜を図り、共に

利益を得る長州型縁故政治の下、軍国日本は松蔭が主張した

対外侵出に没頭する。太平洋戦争の敗戦を経てもなお同じ

政治形態が生き続けていることは、長州出身で反知性的な

“背後どん”首相が惹き起こした森友加計問題の出鱈目ぶり

をみれば明白である。・・・(中略)


佐伯啓思京大名誉教授によると、明治150年は73+4+73年

に区分されるという。山縣、伊藤、桂太郎らによる

長州藩閥政治が、国粋主義の下、対外侵略へと暴走した

あげく、73年目に太平洋戦争に突入し、4年間の地獄を見た。

敗戦後、一からやり直しでひた走り73年が経過、この国は

再び沈没しようとしている。昨今の国会審議の知的衰退ぶりは

その象徴なのだという。先の大戦では大本営が情報を隠蔽偽造

して敗戦に導き、現在の日本も“アベノミクス偽装“のための

GDP粉飾や基幹統計不正の果てに他国の信用も失い、今度こそ

破滅に突き進むのではないだろうか。

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🦊;    以上、日本ゴミ屋敷化を憂うる論客も、やっとここへきて

口を開きだした。それでも「自民党はびくともしない」と

去勢を張る古だぬきもいる。びくともしないのは、国民が

支えているからだ。英国民の故女王への愛着と、支持と、

「義理の国葬」に招待された日本の議員連中のしたり顔と

の、救い難い違いはなにか。日本人は皇室抜きの「国葬」

を支持し、国民抜きの閣議決定を支持し、挙句に

「これはわれわれが選んだ”選良“だから逆らうべからず」

と、相変わらずのご贔屓ぶり。民主主義の表札を掛けた

「ゴミ屋敷」か、日本は。



9月某日