赤化か復古かーー戦後民主主義をめぐる主張の単純化、勘違い等
「基地国家日本の誕生」
南基正 著
本文よりーーp263 右翼運動の本格化と自主国防論の登場
追放解除措置以降、元政治家らの政界復帰も活発になった。彼らは吉田の
「向米一辺倒の経済主義」を批判し、左翼とは異なる「自主独立」の民族主義を
強調し、再軍備の為の憲法改正を積極的に主張して乗り出した。1952年10月1日
の総選挙(第25回)と1953年4月19日の総選挙(第26回)、その1週間後(4月24日)に
実施された参議院選挙(第3回)には、元政治家のみならず、戦前右翼および旧軍人
が多数立候補した。1952年10月1日の総選挙に先立つ9月21日、当時の状況を
「朝日新聞」は次のように伝えた。ーー
政治を批判する力の弱い農山村に、チラホラとではあるが旧右翼とこれに
繋がる元官僚などが無所属や諸派を名乗って出馬しているのが見られる。
これらの候補者がほぼ一貫して呼びかけている主張は、現政権の腐敗と、
米国依存からの解放、独立。それに憲法(新憲法)の改正ないし“真正国軍”の
建設という3つの題目である。候補者の大半は当選圏外にあるようだが、
それでも今度の選挙では安定政権が生まれず、従って次の総選挙が近いと
見て、この際“捨て石 ”を打っておこうとの心組みに共通したものが見受け
られた。これらの人々の動きが、やがて日本の政治の一つの課題となる日が
来るかも知れない。ーーー
大日本愛国党の総裁として東京6区から立候補した赤尾敏は、次のような内容の
選挙公約を掲げた。「憲法改正と自主憲法確立、完全独立と自衛のための再軍備、
国賊日本共産党の撲滅、亡国左右社会党の打倒、腐敗保守党の粛清、反国家的
資本家の膺懲、日本の伝統に基づいた日本的民主主義の育成、道義の精神に立脚
した全面的政治革新、日米同盟への国論統一と赤化勢力の戦略的反米闘争の粉砕」
などがそれである。その選挙公約は、「赤旗革命か、日の丸世直し運動か」として
二者択一を問うていた。
こうした論法から導き出される結論は、必然的に憲法擁護、再軍備反対、日米同盟
反対の中立主義を採る態度は、全て「赤旗の下の革命」陣営に属することになり、
これを阻止するために伝統的な日本主義のもとに団結しようとの論理に帰結する。
1950年代後半以来、反核運動家たちが投げかけた二者択一型のスローガンの中の
有名なものが「赤化か死か」である。この言葉は、ソ連に対抗して人類の死滅を
意味する核戦争まで辞さないことよりは、いっそのことソ連の支配を受ける方がまし
だとの意味でよく使われた。これを赤尾の理論と繋げてみると、「赤化か復古か」
になるのであり、彼が投げかけた言葉は、赤化よりはいっそのこと軍国主義の復活
がましだとの含意を帯びたものと理解できる。すると戦後民主主義の成果は、皆、
赤化革命の途上にあるものとして否定されなければならない内容になってしまう。
こうした論法の裏を返せば、戦後民主主義の成果を擁護する立場としては、
追放解除者だったり共産主義者だったりその同調者だったりすることを自認し
なければならない状況が生まれてしまったのだ。
1952年10月1日の総選挙では、1943人が立候補した中で、26%に該当する329人
が追放解除者だった。かれらのうち、辻政信を筆頭に、只野直三郎(日本人民党)、
木村武雄(旧東方会)、平野義一(旧愛国学生連盟)、北玲吉(旧祖国同志会)、河野金昇
(旧東方会)ら、右翼的主張をしていた6名が当選した。追放解除者のうち、赤尾を
筆頭に、宗前清(新日本青年連盟代表)、本領信治郎(旧東方会)、竹本信一(旧維新同盟
委員長)、小田俊与(世界タイムズ社長)、薩摩雄次(改進党)、三田村武夫(独立自由連盟
中央委員)、野依秀市(帝都日日新聞社長)、永田正義(旧東方会)などは落選した。
1953年4月24日の参議院選挙では、右翼候補者のうちに全国区の当選者はなく、
地方区において現役の保安庁長官だった木村篤太郎が、無所属として当選しただけ
だった。しかし、結果如何にかかわらず、右翼が選挙に立候補することで、政治の場
に戦前又は戦時中の国家主義イデオロギーが再登場する契機になったことだけは
はっきりしている。
このように、戦後議会政治への復帰を達成した「戦後右翼」の活動や役割について、
堀幸雄は敗戦という現実によって右翼は新しい特徴を帯びることになったとした。
そして次の4点を挙げている。
① 反ソ親米をスローガンとした新しい反共思想
② 天皇制復活の尖兵を自認して登場した点
③ 戦前の天皇制への復帰のための方法としてクーデターを想定し、これを実践する
過程として自衛隊に注目していた点
4 選挙での敗北の結果として大衆運動を放棄し、いわゆる黒幕政治を通じてその
政治的意図を達成しようとしていた点などである。
このうち注目すべき特徴としては、「反共」を最も大きな目的として掲げた点を
挙げることができる。その象徴的な事件として、反共抜刀隊結成の動きを挙げること
ができる。朝鮮戦争の最中に講和条約が締結された1951年秋、三田村武夫、辻宣夫、
柏木勇などは「近代的反共運動」を推進しようと合意し、有馬頼寧(元農相)、
丸山鶴吉(元警視総監)、安倍源基(元内相)、後藤隆之介(前大政翼賛会組織部長)、
鹿内信隆(日経連専務理事)、太田耕造(元文相)などを常任世話人として、
日本青少年善導協会を組織することにして活動を始めた。これは、多分に行動主義を
標榜するグループだった。一方、これに対する協力要請を受けた法務総裁の
木村篤太郎は当初、反共の立場から共産党に対抗する「同志」の結集に注力することを
勧めた。これに対して辻が「命がけで共産党めがけて斬り込んでゆく特攻隊」を組織
すれば「20万くらいは集まるでしょう」と答えると、木村総監は態度を変えて積極的に
協力する意思をみせたという。彼は「20万も命がけの連中が結集出来る、それは有難い、
まさに天佑だ」と喜び、「お国のためご奉公」してくれと懇願した一方で、その志を
天皇に伝えることと、費用面では困らないように配慮するとの約束をしたという。
しかし、計画が推進される過程で年間3億7000万円の所用資金を予算処理してくれるよう、
木村法務総裁を通じて吉田首相に要請したところ、吉田はこれを一蹴し、結局ペテン師と
博打うちの再編、再組織に過ぎない結果を生んでしまったというのが実相だった。
その計画は失敗に帰したとはいえ、「政府ー右翼ー暴力団」という三角連携を通じて、
「反共行動部隊」を組織しようとの動きは、その後も続いた。こうした動きこそが朝鮮戦争
と前後して、国際共産主義運動に連動する形で保守右翼に対して鮮明な闘争路線を定式化
した日本の左翼勢力を刺激し、彼らをして一層過激な武装闘争路線に走らす要因となって
いた。
(中略)
旧将官級以上の追放未解除者の場合は、もはや政治活動に立ちあがろうとの活力を見せ
なかった。しかし、再軍備問題に関しては深刻に考えており、再軍備構想と関連して
意見交換し、いくつかの経路を通じてGHQや日本政府に意見を伝達しようと努力して
いた。 (中略)
右翼ならびに旧軍人の再軍備論議とは別に、現職の政治家が中心となって再軍備を
正面から主張した組織として、大山岩男の国土防衛研究会がある。敗戦後、大山は
自由党の宇都宮徳馬や難波田春夫などと共に「自由経済研究会」を結成していたが、
朝鮮戦争の勃発を契機として国土防衛研究会を組織したのだ。研究会の目的は「国土
自衛の国民的意思結集」にあり、このため国民運動を推進するというものだった。
一方、海軍再建の動きは、掃海部隊の活動を背景にしてより早く具体的に展開されて
いた。1950年から1951年にかけてまとめられ提起された「海軍再建構想」がそれで
ある。その中心人物として、野村吉三郎、保科善四郎(元海軍中将)、山本善雄(元海軍
少将)などがいたが、彼らのグループは、山本の名前を冠した「Y機関」とも呼ばれた。
保科が中心となって作成した日本の再軍備についての構想は「仮想敵国をソ連並びに
中国」とした内容だった。1951年1月、保科は日本の海軍再建案には戦略的攻撃力を
含まないとの修正案を作成してバーク極東海軍参謀副長に提出した。結果的に、
この修正案は吉田の反対で実現されなかった。
よく知られたように、吉田の反対は「状況的」なもので、経済力復興優先主義、
再軍備時期尚早論などとして理解できる内容だった。しかし、これも又よく知られる
ように吉田は
つきつめれば再軍備に対する用意があった。1951年8月、訪米前の伊藤忠商事会長の
伊藤忠兵衛と交わした会話に、その本心を垣間見ることができる。
伊藤は「駆逐艦一つ、巡洋艦一つ持たないようでは、日本の漁船ひとつ守れない」と不平を
漏らすと、吉田は「そうだ、鉄砲も大砲もない国ではダメだ。日本はある時期に自国を守る
だけの軍備を持つ用意はある。君の訪米中に、アメリカの軍部筋や銀行の頭取など、指導的
な人物に会ったとき、これが吉田の、日本の最高の政治責任者の本心だと伝えてくれ」と
語った。このように、将来における日本の本格的な再軍備を念頭に置いた発言をしたことが
伝えられる。
1957年8月4日、吉田は(8月に新設された)保安庁を訪れ、幹部を次のように激励した。
彼は「再軍備をしないというのは国力が許さないからで、一日も早く国民自ら国を守る
ようにしたい。安全保障条約だけでは十分ではない。保安庁新設の目的は新国軍の建設
である。諸君はそれまで新国軍建設の土台となる任務を持っている」と述べた。つまり、
吉田の再軍備反対は「状況的」なものだったのであり、「原理的な」ものではなかった。
しかしながらこれ以後平和憲法下において軽武装にとどまりつつ経済成長に集中する
吉田の政策が、「吉田ドクトリン」の名を得ながら戦後日本の「原理的」路線として定着
していったのは、「基地国家」の現実と「平和論」の理想の結合が作り出す「奇妙な」
空間が日本に用意されたためだったと言える。
p285 コミンフォルム批判の衝撃
1945年10月10日に府中刑務所から釈放された徳田は、日本共産党再建運動の中心
となった。1927年の第三回党大会から実に18年ぶりに開催された第4回党大会で、
徳田は「連合軍は我々の敵ではない、のみならず民主主義革命の有力なる味方
でありわれわれにとってまさしく解放軍そのものである」と規定した。日本共産党は
徳田の一般報告を受け入れ、民主化と非軍事化という、いわゆる2D政策を掲げた
米占領当局を民主化革命の友軍と看做した。GHQとしても、上からの改革を推進する
ためには下からの支援が必要であり、占領初期には日本共産党にそうした支援を期待した。
1946年1月12日、ソ連および中国大陸における長い亡命生活の末に、野坂が帰国した。
「平和革命論」は野坂が帰国した後、2月3日付け「アカハタ」に掲載され、第五回党
大会で採択された。その特徴は、「二段階革命」を主張し、ブルジョア民主主義革命と
社会主義革命の両段階において、「平和的手段」によっても革命は可能であると主張
している点である。すなわち、第一段階においては民主主義を「平和的に、且つ民主
主義的方法によって完成」し、さらに第二の社会主義革命の段階においては「暴力を
用いず、独裁を排除し、平和的教育手段をもってこれを遂行」するというものだった。
(🦊 野坂は日本の敗戦後、モスクワに行き、ソ連当局と接触し、朝鮮半島を南下して
帰国したが、その際北朝鮮で金日成または朴憲永(パク・ホニョン)と会談したらしい)
こうした路線は、野坂独自の判断だけで提起できるものではなく、当然、国際的権威の
承認があっただろう。こうしてモスクワの決定に表明されたソ連の東アジア政策、即ち
ヤルタ協定で確認された対米協力政策を支持し、これに従うことを論議、確認したもの
と考えられる。
ソ連が米ソ協調の基調を維持する限り、日本における野坂参三の「平和革命論」は有効
だった。しかし、1950年1月6日、コミンフォルム機関誌『恒久平和と人民民主主義の
ために』にオブザーバーの署名で「日本の情勢について」という論文が掲載された。
いわゆる「コミンフォルム批判」である。論文は、超重量爆撃機が1日に3500回出撃
できる航空基地を沖縄だけでも25ヵ所保有し、日本の国土全体を米軍の軍事的冒険の
ための主要基地・前進基地に見なそうとする現在の野坂の「平和革命論」とは、
「日本の帝国主義占領者美化の理論であり、アメリカ帝国主義称賛の理論であり、
従って、これは、日本の人民大衆を欺瞞する理論である」と批判したのだ。
さらに論文は、現条件において日本の勤労大衆は明確な行動綱領を持つ必要があり、
決定的な闘争に立ち上がらなければならないと叱咤した。スターリンは日本共産党
に対して「基地化」に抵抗せよとの直接的なメッセージを投げかけて、徹底した
対米闘争を要求したのだ。
「コミンフォルム批判」を受けて、日本共産党の指導部は分裂した。
主流派の野坂参三と徳田球一は従来の立場のまま、批判を拒絶する「所感」を発表した。
これに対し、主流派の指導方針に不満を抱いていた志賀義雄と宮本顕治が、主流派に
国際批判を受け入れよと要求し始めたことで、党は「所感派」と「国際派」に分かれ、
深刻な対立が発生した。
3月11日になってようやく、日本共産党中央委員会は「民族の独立のため全人民諸君に
訴う」という声明を発表し、コミンフォルム批判後初めて公式に軌道修正方針を示した。
しかし、このような党中央の事態収集の努力にもかかわらず、地方では依然として分裂
状態が続いていた。その分裂の有り様については日本共産党の「恥部」であるだけに、
公式党史からは消えた部分である。日本共産党地方組織の動きを追跡してきた特別審査局
(以下、特審局)資料が、消えた歴史を構成するうえで重要である。
特審局資料は「コミンフォルム批判」が出た後、地方の活動家らがこの批判を歓迎している
様子を伝えてている。1950年1月30日、富山県のある労組指導者は、「コミンフォルムの
野坂批判 によって共産党の指導方針は非常にすっきりした。今までの平和革命論と労組運動
の矛盾は実際に指導に当たっている者には痛切に感じられていたところだ」として、
コミンフォルム批判を大歓迎した。2月5日、鳥取県のある地方委員会の会議で、県委員長の
竹本節は「野坂批判については国際プロレタリアの期待にそう立場に立って活動することに
なった」と歓迎した。同日、岡山県委員長の伊藤勇太も「同志野坂に対するコミンフォルム
批判の論法に則り」県内各地における「争議を強力に発展せしむべきだ」として、積極的な
闘争を予告した。関西と四国でも、「コミンフォル批判」については高く評価していた。
このように、中国、四国、九州北部、京都を中心とした関西、群馬など関東の一部を含めた
広い地域で、「コミンフォルム批判」に対する好意的な反応が起きる中で朝鮮戦争が
勃発した。ソ連の意図は受容されていったようだ。
1950年、日本共産党はGHQと日本政府の弾圧の中で分裂と混乱を繰り返していた。その最中
に党指導部は北京に移動して中国共産党の指導を受けており、日本の革命運動は北京の徳田と
野坂が遠隔操作する形となった。
1951年度に入ると、日本共産党は主流派と国際派の分裂を克服した形で、2月23日から3日間、
非合法の第四回全国協議会を開催した。日本共産党史で最も「悪名の高い」いわゆる
「四全協」である。この会議で中核自衛隊の組織、平和擁護闘士団、愛国闘士団などを結成
し、遊撃隊による組織的な武装闘争と労働者ならびに農民運動を結びつけるとの軍事方針が
正式に決定された。それは朝鮮戦争が、今や戦争(米)と平和(中国、ソ連)の2つの陣営の政策が
勝敗を決する全世界の階級闘争の場になっており、日本は二者択一の岐路に置かれていると
して独自的な道を否定した。すなわち「戦争と奴隷(米軍の基地国化)」の道を選ぶのか、
「平和と独立」を取り戻すかの選択があるだけであり、「断じて第三の道はない」として、
中立の道は無いという結論を下したのだ。
日本共産党は、1951年の講和条約、安保条約調印による情勢変化に対応するため、10月に
第五回全国協議会を開催し、新綱領を採択した。綱領は「吉田『自由党』反動政府」を打倒
する「民族解放民主革命」が避け難くなってきたとして、これは「暴力革命」によってのみ
達成できるとした。この会議以降、武器製造に関する、教科書が「栄養分析表」という
タイトルで偽装された冊子として発刊、配布され、また武装闘争の理論的基礎の学習のため、
軍事問題論文集が「球根栽培法」というタイトルで偽装、配布された。日本共産党は中核
自衛隊、抵抗自衛隊という軍事組織を中心に武装革命を試みていた。
p371 新聞の論調と避戦の思想
朝鮮戦争勃発の翌日、「朝日新聞」が発表した社説には、朝鮮半島で起きた事態を「戦争」
として受け止めがたいという意識が作用していた。朝鮮半島で起きた「事件」が必ずしも
珍しくないが「理解しがたいこと」であり、「憂慮すべきこと」であると規定した。この
「事件」の性格は、国際法上は「内戦」であり、「国際的紛争」と見ることは難しいが、
国連がこれをいかに解釈するかによって問題解決の方法が異なり、国際法的な解釈よりも
事件に対する「政治的解釈」に沿って解決するされるものと予測していた。こうした規定は、
敗戦以降「文明国家」としての再建を誓った日本国民が、いかなる形であれ「事件」に介入
せずに距離を置くことを、暗黙的に訴える効果を帯びていた。これは「避戦」の思想だった
のであり、朝鮮戦争前の日本の新聞の論調を支配していた。
米国の介入により朝鮮半島における「事件」が国際戦の様相を帯び始めた7月1日の社説に
おいてそれはよりはっきりと表れた。「戦火はなるほど近い。しかしそれは日本の関わり
得ないものであり、日本が出来ることとは、せいぜいが「赤十字活動をもって惨禍の軽減に
努める」ことに過ぎないというのが、その結論だった。そこには「なんとか戦争に
巻き込まれるのは避けたい」という「避戦」の態度が克明に表れている。
1951年3月3日の世論調査で、日本国民の77・2%が、講和後にも米軍の駐屯を希望しており、
63%が再軍備を支持していた。こうした雰囲気を反映するように、「毎日新聞」はソ連など
社会主義陣営を排除した自由民主主義陣営との多数講和については、支持する立ち場を明確に
表明した。
このように、「再軍備問題の議論を先延ばし、まずは非武装でいく」という立場や、
「全面講和論は自分勝手な希望論である。米国との単独(多数)講和を全体として受け入れる」
という立場こそが、他ならぬ吉田路線の基本である。毎日新聞は、同紙4月7日付け社説で、
一層はっきりとした立場を表明した。「我々は繰り返す。米国の講和草案を、たとえ単独講和
でも受け入れるべし」と。
p383 朝鮮戦争と世論
朝鮮戦争に中国が介入すると、「読売新聞」は12月16日と17日の両日間、世論調査を実施し
これを22日付け新聞で発表した。中国軍の介入で日本の安全に脅威が加わったと感じている
人が過半数(55・8%)を占める中で、軍隊の創設に対する賛否を問う質問において43・8%が
賛成し、38・7%が反対、17・5%がわからないと答えた。賛成理由の中で最も多かった意見が
「自分の国は自分で守るべきだから」という自衛論の立場が68・1%を占めた反面、反対する
理由のうち「戦争に巻き込まれ易いから」が42・9%を占めた。続いて「戦争放棄の憲法を支持
するから」は30・9%を示した。
これは「読売新聞」の4ヶ月前の調査と比較すると、「わからない」という人が減った反面、
賛成論と反対論がそれぞれ約5%ずつ同時に増加したものである。中国の参戦によって国際情勢
が再び急変して危機感が一層高まっており、こうした危機感が態度を保留していた人々に
賛否の二者択一を強いたものと解釈される。
1951年2月16日から三日間、ダレスの訪日直後に実施された「毎日新聞」の世論調査では、
米軍の駐屯継続を望む意見、すなわち基地提供に賛成する意見が77%を超え、再軍備について
賛成する意見が初めて反対意見を圧倒する結果を見せた。
少なくともこの時期には日本国民の大多数が集団安全保障について肯定的だった。
(中略)
日本国民は結果的に吉田の現実路線、即ち「軽武装・基地提供」路線を容認した。
しかし、朝鮮戦争を契機として高まった国民の「再武装」要求は、吉田の緩慢な
再武装路線を圧迫するほどであった。
一方、再武装要求の高まりが、これを積極的に主張した「反吉田戦線」を助ける
方向に作用しなかったという点は、日本国民一般が「再軍備問題と超国家主義の
結合」について危惧心を表現し、これを牽制していたことを意味する。この危惧心
こそが、戦後日本の本格的な再武装を内部的に抑制する力として作用してきたと言える。
p410 「基地国家」の平和
日本でいわゆる「戦後」の時代は、「思想」の時代であり、「知識人」の時代だった。
日本の東西に散在し、思想的にも偏差が大きかった「戦後知識人」らの中心で、彼らを
束ねる求心的役割を果たしたのが「平和問題談話会」(以下、談話会)だった。知識人
とは、並々ならぬ才能を所有し、道徳的に卓越し、「人類の良心」を代弁する哲人王
たちであり、彼らは時代と場所を問わず小規模集団として存在した。知識人たちは
いわゆる「聖職者集団」を形成する傾向がある。談話会はそうした意味での聖職者集団
だった。戦後日本の安全保障論議は、憲法第九条問題に抵触して、「神学」論争に近い
様子を見せてきた。談話会という聖職者集団の聖典として、「戦後平和主義」が中身を
整え、これが安保政策と憲法の間で「神学」的解釈の基準となる上で、丸山眞男という
「司祭」の役割は徹底的に大きかった。彼は談話会内部に潜在した新旧世代間の葛藤
並びに多様な小集団間の意見差を調整し、彼らの間の最大公約数と最小公倍数を探って、
いわゆる「戦後平和主義」の原型を作った。
彼らの中で最大公約数となったのは、戦前に知識人の集団が個別撃破されたことで、
軍部の独走を効果的に牽制できなかったという、「悔恨」の感情だった。丸山の
表現を借りるならば、「談話会」は「悔恨共同体」であったのだ。「絶対平和主義」
は彼らの中で最小公倍数となった。談話会は「身に寸鉄を帯びずして剣戟の林の
中に進んでゆく」という絶対平和主義思想を採択し、これがその後の日本の戦後
平和主義の根幹となったのである。
談話会の出発点は、ユネスコ声明(1948年7月13日に米国、ブラジル、フランス、
カナダ、英国、ハンガリーからの計8名の科学者が参加して開かれた討論会によって
出された声明)であった。この会議は、人文科学者が中心となり、経済還元論的な
マルクス主義よりも、むしろ人間の主観的な面に関心を持った人々の集まりであり、
初期談話会に集まった保守的な自由主義者にとっては、より見慣れた内容だったろう。
(その声明の内容は)ーー「今やわれわれ人間は、戦争へ導くもろもろの緊迫の原因に
ついて、これを科学的に研究しうる歴史的段階に到達した。この小さな集まりは、
多くの国の国民が、彼ら自身作り出した一つの国際的組織を通じ社会科学者たちに
向かって、現代におけるいくつかの重要問題に対し、彼らの知識の適用を要求した
実に最初の機会であり、その意味でそれ自体時代の兆候をなしている。ーー
声明は、戦争が「人間性」そのものによって必然的に不可避に作り出された結果で
あるとの考えを否定し、戦争の原因には経済的不平等と不安定、失望などがあるが、
問題はこうした事実が誤ったイメージを信じさせたり、煽動家に利用されて
しまったりすることにあることを、自覚する必要があると強調した。さらに、国家的
自負心を持たせる神話と伝統、象徴などが国家主義的色彩を帯びないように、国境を
超えた思想の自由な交流が必要であり、教育と通信などを活用して平和の機会を広げる
うえで、国連などの国際機関が特別な責任を負わなければならないとした。そして、
国家的、イデオロギー的、階級的差異によって世界の社会科学者らが隔離されている
現実を打開し、国際的規模で社会科学者たちの協力とこれを通じた国際的教育機関の
設立が、戦争原因の解消に大きく寄与するだろうとの展望を示した。
(この声明の出身地である欧米における反応は冷淡なものだった。1948年11月号
と12月号の「ニューヨーカー」誌は、「8名の著名な国際的科学者によって署名された、
驚くべきユネスコの報告は、戦争を招き寄せる諸々の社会的緊張の原因を取り出した。
だが今日に至るまで、どこのいかなる元帥も提督も議員も、明らかにこれを一読しよう
とはしなかった」として、その冷淡な反応について不満を示した。
ところが、ヨーロッパから遠く離れた日本では、この声明が熱烈な歓待を受けることに
なった、というのだ。
吉野源三郎は、ユネスコ声明に呼応して、日本でも知識人らによる談話又は声明が必要
だと感じた。吉野の勧めで声明を読んでみた清水幾太郎と久野収(クノオサム)は、吉野
の問題提起に呼応してそれぞれ東京と関西で事務連絡の役割りを担い、平和問題に
積極的な日本知識人たちを糾合し、組織化に立ち上がることとなった。
p140 戦後平和主義の定式化
討議会の声明はその出発点が外部から与えられたという面において、日本の憲法がGHQの
主導で日本政府に強要された、他律的な側面が強かったことに似ていた。しかし、「他律的」
な戦後の憲法が国民一般に内在化され「日本化」したのと同様に、ユネスコ声明もまた
そにまま受け止められたのではなく、「日本化」の過程を踏んだ。
討議会が「絶対平和主義」の立場に立つのだとの意思は、議長に選出された安倍能成の
開会の辞にすでに表れていた。安倍は「過去に」われわれが平和と文明の名にふさわしき
行動をしなかったということは、われわれの甘受しなければならない咎でありまして」
と述べ、過去の軍国主義に有効な抵抗をしてこられなかった知識人として、これに反省
するとの意思を明らかにした。
「身に寸鉄を帯びずして剣戟の林の中に進んでゆくということは、あたかも物語の中の
一つの荒唐なヒロイズムのようでもありますけれども、しかしながらこれは、今日の
われわれにとっては決して空想的なことではないのであって、むしろ最も現実的な活路
だと信じます。」
ここに、絶対平和主義思想が濃縮して表現されている。
(🦊 午後の 会議は、平和の問題にに関する討議に先立ち、丸山眞男は、「先の戦争」の
性格を明確にしなければならないとの立場で発言し、)その中ではっきりと「侵略戦争」
という用語を使用し、討議に参加した会員たちは特別な異議を提起する者もいなかった、
丸山にとって敗戦と植民地の離脱は、日本的近代に根ざした真の国民創出の新たな機会
と映った。そのためには、過去の日本の行動が「侵略」だったという点を、明確にして
おく必要があったのだ。このことからわかるのは、いわゆるオールドリベラルと呼ばれる
保守的自由主義者たちもこうした性格規定を(戦争中の日本の行動が「侵略」だったと
いうこと)を受け入れていたという事実である。
p344 講和問題についての平和問題談話会の第二声明
講和問題が政治日程に上がった状態において、具体的な案件を扱わざるを得ず、次の
ような4つの要求を掲げて「講和問題についての談話会声明」(第二声明)が出された。
1。講和問題について、われわれ日本人が希望を述べるとすれば、全面講和以外にない。
2。日本の経済的自立は単独講和によっては達成されない。
3。講和後の「安全」保障については、中立不可侵を希い、併せて国際連合への加入を
欲する。
4。理由の如何によらず、如何なる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対に反対
する。
(基地化の現実を批判することにより)GHQを始めとして当局の注目をうけることに
なった。警視庁と特審局は、談話会を政治団体と認定するので、「団体等規制令」に
則って正式に申告せよとの圧迫を加えた。しかし吉野は、安倍、大内の名を挙げつつ、
この談話会が純粋な研究団体であることを主張した立場を貫いた。万が一この談話会が
政治団体に規定されれば、責任者は細部事項について申告をしなけれならない義務を負う
ことになり、会員の大部分が国立大学の教授として公務員の身分にあった関係から、
活動は停止せざるを得なかった。つまり談話会は、せっかく生成していた日本の「戦後
平和主義」勢力を主導的に組織してゆかなければならない立場に立つや否や、自ら
そうした地位から降りてしまったのであり、ここにその限界を発見できる。
p147 朝鮮戦争の影響と意図された欠陥
朝鮮戦争の勃発によって生まれた当時の雰囲気は、ダレスの語ったいわゆる「真空論」
に大きく影響を受けていた。すなわち、真空状態にあるところに空気が流れ込むのが
必然的であるように、非武装状態はむしろ侵略を誘発しやすいとして、再軍備論が
勢いづいていた。韓国に進駐していた米軍の撤収が北朝鮮の侵略を誘発したというのが
その根拠だった。また共産主義との平和共存が不可能だというのは、先制攻撃を加えた
側が共産主義陣営の北朝鮮だったという点で、充分に証明されたとする主張が説得力を
得ていた。こうした状況において、談話会は朝鮮戦争以降に発表された外務省声明
「朝鮮の動乱と我らの立場」に表明された「国連協力、すなわち対西側協力」という
図式を批判するために、自らの論理を一層高度化しなければならなかったのだ。
「第二声明」を前後して談話会会員の間には、講和問題を巡って立場を異にするグループ
が現れていた。(第二声明の)討論会に参加していた吉川幸次郎は、「非署名者の所感」を
発表し、次のように主張した。
この「談話会」の報告の趣旨は、日本人はもはや戦争をしない国民として、どこまでも
終始したいこと、そうしてその前提としては、連合国の人々にどういう風に行動して
ほしいかということを、切々として訴えるにある。(現実の政治の方向について直接
政策的な発言を行うことは談話会の任務ではない)。その趣旨には誰も賛成であり、
署名していない私も賛成である。ただその措辞(そじ=物言い)には、希望が切実なあまりに、
押し付けがましく聞こえるところが万一あるとすれば、それは希望の切実さがそうさせた
のであるとして諒恕ありたいことを、署名をした会員のためにお願いしたい。この諒恕は、
中国、韓国、フィリピン、タイ、ビルマなど、日本の暴挙を、ついこの間まで舐め尽くした
近隣の国国に対しては、いっそう鄭重に求められねばなるまい。ーー
「討議会」の最初の合同討論会からずっと参加者たちを支配し続けてきた欧米志向的な思考
方式を考えてみる時、こうした自己批判はむしろ新鮮さを感じさせるものだった。
しかし、彼の批判を受け入れることの出来なかった談話会が、韓国での戦争勃発にも拘らず、
「韓国と日本」すなわち自己反省を要求する主題について真摯な討論を一度も持てなかった
のは、ともすれば当然の結果だったと言える。
p357 「戦後平和主義」の司祭ーーー丸山眞男
日本の「戦後平和主義」は「平和問題研究会」という「聖職者集団」の聖典となり、そして
その中の絶対平和思想は、安全保障の現実と憲法第9条の理念との間の空白を解釈する基準
となり、結局その論争は「神学」的領域にまで格上げされた。丸山は戦後の思想界に彗星の
ように現れた「カリスマ」だったが、彼の文章はどこか苦悩する「司祭」の姿を湛えている。
(中略)
丸山が敗戦直後に自らに投げかけた課題は2つあった。一つは日本ファシズム論であり、もう
一つは福沢諭吉の研究だった、これら2つの主題は、「近代の日本をどう捉えるか」という
問題意識と理論、すなわち縦横2つの軸をなすものだった。特に彼は、終戦直後の米国による
「第2の開国」という現実を前に、福沢が直面した「開国」に立ち帰って日本の近代を再解釈
しようとしたのだ。また開国に立ち会った知識人として、福沢を通じて自らの役割を発見
しようとしたのだ。
丸山が自認したその役割は「啓蒙」だった。「啓蒙」を語ることはすなわち福沢を語ること
であると言っても過言ではないと断言していることを考えれば、彼の福沢研究は極めて実用的
であり、実践的であり、・・・彼は福沢を通じて自らの存在意義を確認しようとしたものと
理解できる。民衆を啓蒙することこそが彼にとっては知識人としての政治的実践だったのだ。
「自発能動的な国民的連帯意識を作り出そうとする教養主義の袈裟の下に家父長的な鎧を
ちらつかせる殆ど古典的な自由主義的国民主義者の姿が発見されもするが、その姿には殆ど
「憂国の志士」を彷彿させる側面があった。
そのような丸山も、冷戦の激化とそれに伴う米国の対日占領政策転換に直面して以来、
「啓蒙的実践」から「政治的実践」へと知識人としての重心を動かし始めた。こうした態度
の変化が現実政治に対する介入であることを自覚していた。
しかし彼は、吉田茂ならびに日本共産党の現実主義と対決せざるを得なかった。自らの選択し
た道こそが「現実的」な妥当性を帯びるのだという点を証明しなければならなかった。
再軍備問題に対する新しい現実主義の立場を、丸山は次のように整理している。
彼は吉田政権が推進する「抜き足差し足」の再軍備であれ、改進党の主張する憲法改正後の
「大っぴらの再軍備」であれ、これに対する原則的な反対の立場を変更しなければならない
根拠を発見できなかったと主張し、「再軍備是非論の具体的内容それ自体よりもそうした論議
の底に流れる人々の思惟方法なり態度なりの問題」に注目した。彼が戦わなければならなかっ
たのは、「全面講和、再軍備反対の立場に対し加えられる「非現実的」という非難だった。
ここで丸山は「現実」という言葉の構造と内容を明らかにしようとした。・・・
さらにこうした「現実」觀を相手に戦うための、その戦線を作ってみることさえできずに屈服
してしまった過去を、次のように反省している。
「国体」という現実、軍部という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変(日中戦争)という
現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実ーーそうして最後には太平洋戦争
という現実、(中略)そうして仕方なし戦争放棄から今度は仕方なし再軍備へーーああ一体
どこまで行ったら既成事実への屈服という私達の無窮動(perpetuum mobile)は終止符に
来るのでしょうか。
丸山の把握によれば、日本において「現実主義」とは「既成事実への屈服」に過ぎなかった
のである。それが矮小なファシズムの原因になったのだ。ならば、「既成事実への屈服」
とはまた何なのか。丸山によるとそれは「すでに現実が形成せられたということがそれを
結局において是認する根拠となること」を意味する。
🦊 p371 朝鮮戦争勃発と日本国民ーー基地国家の選択
以下100頁にわたる章は、狐にとって荷が重すぎる。第一、韓国史を全く知らない。
また、著者の言う「基地国家からの脱皮と普通の国日本への道」が具体的にはどう展開
するのか、またはすべきなのか、見当もつかない、とんでもない世界の現状だ。
60年安保闘争の時代、キツネは20歳の学生だった。学内には共産主義の気配もなく、
たまによそからのオルグ集会がある程度。吉田さんの政策に、「まあ、それ以外に
しゃあないだろ」というボケ学生だった。というわけで、興味のある方は本書の続きを
読んでね。
では。