捨てられた憲法を拾え




捨てられた憲法を拾えーー暴力に抵抗する憲法


「法と暴力の記憶」2007年  東京大学出版会刊

高橋哲哉他13人による共著より

中島隆博・「1960年代の竹内好」p27

より抜粋


🛑中国共産党が政権を取ったその年、竹内好(タケウチ・ヨシミ)は「文学革命の

エネルギー(1949年)」という論文を書き上げていた。その中で中国文学の革新性について、

「伝統と革新という面から眺めると、文学革命は、伝統を否定することによって伝統を

全面的に蘇らせた運動である」と述べた。つまり、真の革命とは外から何か新しいものを

借りてきて古い伝統に対置してみせるのではなく、悪しき伝統であっても、いや、悪しき

伝統であるからこそ、その伝統を徹底的に自らがそれに他ならぬものとして抱きとり、

その上でその伝統を全面的に否定することなのだ。そに上で初めて、自らもまた、他なるもの、

新たなものとして変容していく。

窮鼠猫を噛むとか、毒を持って毒を制す、ということがあるが、究極の追い詰められた状態

とはそのようなものだろう。そして究極の場所でなければ、価値の転換は起こらない。


「全集7巻・p141」

中国文学は、「自己が自己であることによって他物に変わる」ことができた。これが、伝統を

伝統として体験化することで、抵抗としての主体を形成し、その上で、伝統を切断して自らを

自覚的に変容させる方法を有していたからだ。ところが、それは日本文学(そして日本)には

なかった。この論文の最後には日本文学は「文学革命を経験しなかった。つまり、断絶を経験

しなかった」と書き記されていた。

しかし、日本文学も伝統に対しても、ある仕方で体験化していなかっただろうか。それにも

かかわらず、日本文学を中国文学から隔てる徹底的な契機があるとすれば、それは何であるのか。

竹内の議論をまとめると、それは他に頼らず自ら判断することの欠如、そして何よりも「道徳」

の欠如である。

竹内はしばしば「ナショナリスト」であると批判されてきた。「国の独立」そして「愛国」を

事あるごとに口にしてきたからである。それはいかなる意味でのナショナリストであったの

だろうか。・・

「ナショナリスト」としての竹内の立場は明快である。「戦争責任の自覚の不足」、

「良心の不足」そして「勇気の不足」が「ナショナリズムとの対決を避ける」ように仕向けて

いるに過ぎない。「ナショナリズム」が必要なのは、自分で自分の責任に後始末をつけるため

であって、最低限の道徳のためである。「文学革命」そして革命一般には、このような

「ナショナリズム」と「道徳」が不可欠である。


p216     世代の断絶を超える

竹内は、「若い世代」と戦争体験に固執する「戦中派」との断絶をどのように繋ぐのかに腐心

していた。1960年代(安保反対闘争の時代)に、開高健などの若い世代とのやりとりを通じて、

若い世代と自らの断絶を感じ取っていた彼は、こう述べている。「その原因は、戦争体験の

一般化に失敗した私たちの世代の方にある」

遺産を拒否して戦う若い世代に対して、「戦争体験」を一般化してそこから相続すべき遺産を

整理して手渡すことができなかった悔恨を覚えていたのだ。「もし彼らが主観的に拒否すれば

戦争体験の世代と切れると考えるならば、そのこと自体が戦争の傷から開放されていないこと、

彼らもまた戦争体験の特殊化の被害者であることを証明している。遺産を拒否するという姿勢

そのものが遺産の虜である。歴史を人為的に切断するということには私は反対ではないが、

切断するためには「方法」をもってしなければならない。戦争の認識を離れてその方法が発見

できるとは思えない。・・・

とはいえ、断絶を埋めるのは容易ではなかった。竹内が成功例として挙げた吉本隆明との間にさえ

連帯を維持できなかったからである。それでも竹内は「戦争の傷」にこだわり続けた。

なぜなら、戦争はまだ終わっていないからである。


p111     捨てられた憲法を救えーー暴力に抵抗する憲法

(サンフランシスコ条約が批准された1952年に書かれた)「若い友への手紙」の第4章は

「憲法と道徳」と題されていた。

「なぜ、身についたか、時間の経過ということもあります。が、それだけではない。

白日の下に、新憲法が無残に犯されていくのを見ているうちに、いつとはなくこれで

いいのか、という疑問が起こってまいりました。人ごとのように眺めていていいのか、

自分のものではなかったのか。いつとはなく我が身に痛みを感ずるようになりました。

(中略)・・

私の場合には、為政者の憲法無視が、逆に憲法擁護の気持ちを起こさせた。これを、

先に述べた私流の歴史法則に照らして申しますと、与えられた憲法を否定する力は

自分にはなかったが、幸か不幸か、権力者が暴力的に破壊するので、その破壊をテコにして、

次第に自分のものとして受け入れられるようになった。これは一種の「弱者の知恵」

であります。旧憲法を自ら否定したのではないために、それを「結構な憲法だとは思ったが、

何だか眩しくて、他人事のような気が」していた竹内は、その新憲法が権力者によって

「無残に犯されていく」ことから反転し、それを抱きとり、我がものにしようとしていく。

なぜなら、それが魯迅を典型とする「弱者の生き方」すなわち、「自分の憎む者に自分が

憎まれるようになること」であるからだ。捨てられたからこそ拾い上げるという憲法擁護は、

「弱者の知恵」である。


1960年5月には、竹内は「闇が深まるときは暁の近づく時であります。絶望の底に希望が

生まれます」と述べることができた。しかし、そのわずか8年後には、「日本の戦後に

一度は希望を持ったことはあるけれども、今はありませんよ。幻想だったというほかは

ありません」と吐き捨てるほかなかった。

竹内が捨てた「希望」をどう拾い上げるのか。「戦争の傷」がさらに深く膿んでいる今、

これは不服従の遺産を相続する私達の問いである。


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🦊:    竹内氏は1910年生。かくいうキツネは1940年だから、戦後派の第1期生にあたる。

一方竹内は戦争にも行き、戦争の実態を知る「戦中派」だ。しかし、例えば炭鉱事故で

死にそうになった人が運良く助け出されて、ひさしぶりに外の清浄な空気を吸ったとする。

「誰が俺を助けたか?」と喚いて「頼みもしねえのによ!」とは有り得ない話じゃなかろうか。

今の「戦前回帰派」の言い草を聞いてると、清浄も汚濁も、中身の検証なしで、ただ、

「押し付けられた」と、そればかり。概ね70~80のお年寄り連中。まさに「狂気の戦後派」、

「白痴的マントヒヒ」の群れ。(ホントのマントヒヒさん、ごめんよ)



竹内が捨てた希望を、どうすくいあげるかは、若い人たちに託す他ないようだ。

戦争が犯罪として罰せられる世界は来るのだろうか?星印の旗を振るサルどもを

追い払い、軍事パレードに胸ときめかせる国民に冷水を浴びせるような、深刻な

変動が地球を襲う前に。


2月某日




2月    10日   東京に初雪

ipad を外に出したら、シャッターが下りない。

仕方なく、窓の中から撮影。ヤブツバキ。

この椿も鳥が運んだ種から芽が出て、西側の日除けになっている。