地球のガン化を防ぐ




身体の組織の一部が組織の表面を形成して、そこで止まり、それ以上の増殖を

やめてそれぞれ臓器に「成る」。それから臓器同士の連絡網や伝達物質や、

臓器の「保護機能」や、多様な機能が働いて人間が成長し、やがて老化して

機能を停止し、活動を止める。そのようにプログラムされているらしい。

ところが、組織の一部が止めどなく増殖し続けて、やがてはガラダ中に飛び火して、

正常な臓器を破壊し、人間を殺してしまう。今のところ、ガン細胞をそっくり取り

除く以外には治療の方法がない。・・と、これはキツネ流診断だから、と断っておくが、

「地球は完全にガン化している」というのが地球健康診断の結果だ。


「際限もなくどこまでも」がガンの特徴で、これを止める法も罰則もなく、ましてや

政治家にとっては「倫理」なんて邪魔な石ころ同然。

(防衛省幹部の発言ーー「国際ルールを無視する中国を相手に、日本だけが『倫理』

に縛られるわけにはいかない」=当ブログ“菊と学者”参照)

また、科学者は一般に、地球ガン化(その一部である地球温暖化)について、警告を

鳴らしつつも、その治療は「政治家の責務」であると言い、逃げを打っている。

この両者に加えて、資本家という、「ひたすら増殖だけが生きがい」という、ガン

細胞そのもののような人種がのさばっている。動物や植物や昆虫や、我々普通の

人間はーーどうなる?

どうなるって、捨てられてしまうのさ。彼らは早々と、他の星で人類が生き延びる

ための研究を始めているらしい。現在も地球の半分以上で飢えた子供や老人が

助けを求めているのに、やっとこさ、儲けたお金のほんの一部を「救済基金」として

(嫌々ながら)積み立てることにしたそうだ。



2022年11月25日         朝日新聞   ーーオピニオン&フォーラム

佐伯啓思氏へのインタビュー記事「アベノミクスの功罪」 より

🦊:  以前から続編を読みたいと思っていた佐伯氏の「異論」が

ついに出た。このインタビュー記事の見出しにこうある。

「デフレが最大論点・矛盾はらむ矢・でも放たぬ選択肢なし」



ーー聞き手・編集委員 原真人ーーアベノミクスがもたらした

財政規律の崩壊、金融政策の政治化も、(保守政権の本来の目的

として経済の背後にある我々の社会生活、オカネに代えられない

何かを維持すること、とするあなたの定義からすると)目に見えぬ

価値の喪失ですーー


🛑  「結果的にアベノミクスがそういう状況を作り出してしまった

かもしれません。ただ僕なりに言えばもう少し根本的な問題があると

思う。それは戦後日本社会そのものです。戦後日本の基本的価値観

は、自民党も含めてリベラルであり、近代主義的な価値観です。

集団より個人を重視し、人間の合理的作為を信じ、それを超えた

神聖な領域は存在しない、合理的なものが進歩で非合理な古いもの

は批判する。表面的なところだけを受け入れ、家も地域社会も

宗教の支えも無くなってしまった。保守はそれを立て直すべきでした。

だが安倍さんでも立て直せなかった。それどころかかつてなく経済

中心にしてしまい、個人主義や金銭主義を拡散しました。近代主義を

かえって拡散してしまったのです。これは安倍さんの罪と言うより

戦後の日本社会全体の問題です」     (‘中略)


ーー社会全体として反省すべき点があるかもしれませんねーー

🛑  左翼が安倍さんを『保守』とみなしてあまりにも攻撃し過ぎ

ました。それでかえって真の問題が分かりにくくなってしまった。

安倍さんだって何かに踊らされていたのですよ。状況に踊らされて

いると言うか、日本社会の構造に踊らされているというか。

問題は西欧が生み出した近代社会をどう理解するか、それを本当に

日本に持ち込めるのか。そのとき保守とかリベラルとか関係ありま

せん」


🦊:   佐伯氏は1949年の生まれとか。かく言うキツネは1940年生まれ

だから、彼よりも「若くはない」。しかも戦後の民主化教育で育った

世代、氏の言う通り「万事米国の受売り思想」が頭に染み付いている。

だが私は、個人の自由が保障され、集団への隷従なしに暮らせる

有難さを身にしみて思い返す今日この頃(特にウクライナ国民の窮状を

思うにつけ)、米国独立当初のワシントンの理想を「大いなる食欲で」

パクリと飲み込んだアメリカ農民の健全さを讃えたい。現今の

アメリカで、銃の所持やグレート・アメリカの旗印を、保守の

真髄と信じるバカ者も結構多いと聞くが、それでも「個人の自由」

の値打ちは100%揺るぎないものと、キツネはおもう。

キツネが己を保守と言うわけは、天皇制の存続を支持すること

(それで表向き国家の「品格を」かろうじて保っているから)

と、昔ながらの生活の良い点を(それは村の掟でもいわゆるキズナ

でもなく、宗教でもなく、自由な個人と自然の調和する世界、

ケイザイケイザイと鳴くだけのAIワシに大空を支配させない、

当たり前の日常を)取り戻したいという願望からだ。

というわけで、この「異論」が「保守本流」」というのであれば、

これは安倍氏の尊敬する祖父の世代が受け継いだ長州藩流の

政治理念によく似てるなーと思わずにはいられない。

氏は京大名誉教授であり、「京大人(京都大学に籍を置く学者、研究員)

と社会の未来研究院」の特任教授で、保守の論客として知られる。


氏は言う🛑 「大事なのは、経済の背後に、我々の社会生活があり、

オカネに代えられない何かがあると言うことです。それを維持するのが

保守、・・しかし、政治家が時代の流れや世論に抗するのはたいへんに

難しい。例えば政治家が国民にむかって「成長はあきらめ、ゼロ成長で

いい」とか「世界に冠たる国でなく、そこそこ満足できる国に」なんて

言えますか。メディアはそれを受け入れますか。よほどの政治家でないと

言えませんよ。」


ーーそれでも必要なら言わねばならないのが政治家ですよね。ーー

🛑  安倍さんには言ってほしかったし日本の大きな将来像を示して

ほしかった。・・やはり無理だったでしょう。政治家もそういう

大きなことは考えていないということです。」


🦊:  そして安倍さんは国葬になった。大変な栄誉であるにも

かかわらず、親族、友人からは「有難う、国民の皆さま」の

一声も聞かれず、早くも跡目相続争いが始まったんだとか。

なぜ彼が「日本の大きな将来像を示せなかった」のか、

それは彼が祖父を慕うあまり、その政治姿勢を復活させ、

顕彰し、自分こそ保守本流の血筋なりと示したいがため。

いくらバイデンが「安倍さんは常に国民のために奉仕する

ことを考えていた」と誉めそやしても、それは葬儀用の

派手な花輪みたいなもの。彼は国民と正面から向き合うこと

など殆ど無かった。彼の関心は経済界とアメリカ政府筋の

動向にあった。

この記事のもう一つのタイトルにこうある「カネ超えた価値

見失う・近代主義加速させた日本」・・つまり近代主義

そのものが亡国日本の「主犯」であり、安倍さんはその

巻き添えを喰らったにすぎないと。


で、見失った「カネ超えた価値」とは具体的に何なのか、

はっきりしない。やはり次回の寄稿を待つとしよう。


🦊  キツネの「聞いた話」

You  Tube で、元朝日新聞記者の鮫島浩氏と神保哲夫氏が、以下の

テーマで対談した(ようだ)。

「なぜ朝日新聞は、こうまで叩かれるのか」

🛑  鮫島ーー日本では今もって朝日新聞は、少なくとも一部の

人たちにとってはリベラル言論の象徴的な存在なのだ。

それは逆の見方をすれば、朝日はもはや組織内ではリベラルメデイア

の体を成していないにもかかわらず、表面的にはリベラルの旗を

挙げ続けることによって日本のリベラリズムの弱体化を招いている

ことにもなる。(鮫島氏のブログ=SAMEJIMA TIMES参照)

今となっては、朝日はリベラルだから叩かれるのではなく、実際には

リベラルと真逆なことをやっていながら、表面的にリベラルを気取る

から叩かれると言うのが、ことの真相だと言えるかもしれない。だとすれば

いま朝日がすべきことは、言行を一致させるか、リベラルの旗を下ろすかの

二択しか無い。

🦊:   たしかに最近の朝日は分厚くなった分、スポーツ、芸能関係の記事が

脈絡もなしにちりばめられ、全面広告が賑々しい印象だ。今回の「異論」を

読んで、確かに何かの体質改善?が進み、上層部が右へ方向転換したかと

思わせる雰囲気が感じられる。


「日本会議の正体」

青木理著・  平凡社新書     2016年刊

p50   「地方議会への浸透」

日本会議という右派組織が草の根の「国民運動」を目指し、「地方から都市へ」

という運動戦略をしばしば採ってきた。それは、中央政界を動かす衆参両院の

国会議員と同時に、地方議会への浸透も熱心に取り組んでいることを意味する。

だから、日本会議は、同会議の理念や政策に呼応する国会議員で作る

日本会議国会議員懇談会があるのと同様、全国の都道府県議会や市町村議会の

議員で作る議員連盟として「日本会議地方議員連盟」を存在させている。

そうした地方議員がどのように活動を繰り広げているのか、それを知るために

私はひとりの女性地方議員を訪ねた。東京杉並区議の松浦芳子。現在4期目

となる同区議を務めている松浦は、日本会議の東京都本部理事のほか、日本会議

首都圏地方議員懇談会の議会長もつとめている。・・

ーー現在の日本会議の存在をどんなふうにお考えですか。

「今は国会議員も集まっていますから、ある程度は力もありますが、以前は

何も決められない状態だったと聞いています」

ーーというと?

「要するに、宗教団体などいろいろな団体が集まっていて、ヘッドが多すぎる

のでなかなか物事が決まらない。・・結局何も出来なかったんではないでしょうか。

ーーかつて「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が併立している頃も

そうだったようですね。

「ええ、それを椛島有三(かばしまゆうぞう)さん(日本会議事務総長)たちが、

『ちゃんと結集しようよ』と」

ーーそして1977年には日本会議が発足し、2007年には地方議員連盟も

作られました。

「地方議員は年に1回、総会を兼ねて集まるんですが、最近は百数十人

ぐらいは来るんじゃないでしょうか。ズラッと並んで、かつてとは違い

ますよ。最近は櫻井よしこさんの講演会などもありますしね。影響も

大きいですよね」・・

ーー率直にお伺いしますが、日本会議に属していることの具体的メリット

は、地方議員としてあるんでしょうか。例えば、選挙の際に票になるとか。

「日本会議の杉並支部も、元々は私と支援者が作ったんですが、今はもう

何人も(日本会議や地方議員連盟に)議員が入っていて、票も分散して

しまいますよね」

ーー選挙の際の応援とか手伝い、:あるいは資金援助などは?

「応援は多少来てくれますが、お金の支援はまったくありません」日本会議

は貧乏ですから」

ーーそうなんですか?

「ええ、事務局の人にお給料を聞くと、カンパしたくなるらいですよ。

あまりにも安くて、申し訳なくて」

ーーそういう意味ではストイックですね

「日本会議は真面目なグループですよ。みんな大したものです。

「右翼』と称されるようなグループとは違います」



p56    、「安倍さんにとっては有難い存在」

従来の右翼団体とは異なり、真面目でストイックに活動を広げてきた

ーー松浦は日本会議の現状をそう語った。・・実を言うと松浦は

最近になって活動を始めた軽佻な右派ではなく、若い頃からの

筋金入りの活動家だからである。1948年、杉並区に生まれた松浦は

母が生長の家の信徒だった影響で高校時代から生高連(生長の家高校生

連盟)の活動に加わった。そればかりか、1970月に東京市ヶ谷の

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃した作家・三島由紀夫とも親交を結んだ。

その縁で松浦は、三島が主宰した「盾の会」の初代学生長だった故

持丸博と結婚し、家庭も築いている。そんな筋金入りの右翼・松浦は

日本会議の活動に一抹の「生ぬるさ」も感じつつ、安倍政権とリンク

しながら憲法改正などに突き進む現状を「安倍さんなら大丈夫」と

信じて支持しているという。


ーー松浦さんはお母様が生長の家の信徒だったんですね。

「ええ、それで私も錬成会(生長の家の教えを学ぶ講習会のような

もの)などに出ていました。最初は反発もしましたけれど、高校生の

時に高生連(生長の家高校生連盟)の東京都副執行委員長兼事務局長

をやっていて、全国に仲間もできて、いろいろな先生から、例えば

祖先の話や日本人としての心意気の話しなどを通じて若い人たちが

頑張らなくては、という思いをずっと聞かされてきました。

これが私の今の考え方の基本になっていると思います」

ーーやはり生長の家の教えがバックボーンいなっていると。

「私は宗教団体があまり好きじゃないんです。生長の家というのを

私は宗教団体と思っていません。それよりも哲学団体、谷口雅春哲学

ですね。平沼赳夫先生もそうですし、昔の政治家とか経済界の方々は

かなり谷口先生の「生命の実相」を読んでいる。政治も経済も一種の

哲学(が必要)ですから、一流になっている人はほとんど谷口哲学を

学んでいたわけです」

ーー宗教哲学かどうかはともかく、日本会議の中枢にいる方々を見ると、

生長の家、あるいはその学生組織である生学連、生高連で活動した人物が

多いですね。改憲派の憲法学者で、日本会議の政治委員にもなっている

百地章氏もそうでしょう。・・事務総長の椛島有三氏も生学連の出身です。

百地氏と同じく日本会議の政策委員で安倍首相のブレーンとも言われる

伊藤哲夫氏(日本政策研究センター代表)もそうだし、高橋史郎氏(明治大学教授)

もそうでしょう。そうして生長の家にルーツを持つ方々がコツコツと政治活動を

続け、日本会議のような組織にも繋がっていることをどうお考えですか。

「若い頃にしっかりと『日本人とは何か』という基軸を植え付けられているので、

・・植え付けられているって言うと洗脳みたいな感じですけど、それをきちんと

受け継いでいるのでブレることが無いんじゃないでしょうか」

ーーなるほど。最後に伺いたいのですが、安倍政権と日本会議の関係を考える

時、日本会議がかなり影響力を行使して動かしているのか、それとも相互補完

のような関係だとお考えですか。

「動かしているのではなく、支えているというのはあると思います」

ーー日本会議が安倍政権を?

「はい、やはり政治家は支えてくれる人たちがいなければ動けない。その支援力

になっているとおもいます。安倍さんとっては有難い存在ではないでしょうか」

ーー当面の最大目標は、やはり憲法改正ですか。

「そうですね。(憲法に)緊急事態条項がないのはやっぱり危ない。それに家族の

規定も憲法に無いでしょう。いま、家族が崩壊しそうになっている。家族は社会の

一番大切な単位であって、家族がしっかりすれば、社会が良くなると私は思って

いますから」


p85   「政界の谷口雅春信奉者たち」

国民主義の放棄と天皇主義。現行憲法の破棄と明治憲法体制の復活。一読すれば分かる

ように、頭がクラクラするほど復古的かつファナティックな主張ではあるが、こうした

政治思想や谷口の教えは戦後日本の右派に脈々と受け継がれており、右派系の文化人

ばかりか政界主流の与党幹部、財界人らにも広く信奉されてきた。・・(中略)

中央政界で谷口思想に憑かれた大物政治家の代表格が鳩山一郎であろう。鳩山は1954年

から約2年間、首相として政権を率い、日ソ国交回復などを成し遂げたが、首相の座に

就く前に脳出血で倒れて闘病生活を余儀なくされたことがあった。この際、鳩山は谷口の

「生命の実相」を熱心に読んで感銘を受けたらしく、谷口と共著の形で『危機に立つ日本

ーーそれを救う道」なる教団パンフレットに近い著作を発表、挙句の果てには「新時代の

バイブル」と絶賛するほどだった。前出した大谷壮一の「谷口雅春論」もこれを取り上げ、

谷口と鳩山をこんなふうに辛辣に皮肉っている。「神様業は」一度味を占めたらやめられない。

人間の無知と盲点の存する限り、その上にあぐらをかいておればいいのである。一方で出て行く

者がある代わりに、新しいカモも続々やってくる。最近の最上のカモはなんと言っても鳩山一郎

である。谷口と鳩山の共著で「危機に立つ日本」と題するパンフレットまで出ていて、鳩山は

“生長の家”の宣伝に百パーセント利用されている」・・

意外なところでは、ハト派として知られた元首相・三木武夫も1964年、生長の家が政治結社

・生長の家政治連合を結成した際、この式典に参加して祝辞を述べるなど谷口と深い関係に

あった。生前の三木を知る自民党の元参院議員らによれば、三木は学生時代に肺を病み、その

際に谷口の「生命の実相」に触れて感銘を受けていたのだという。

政界の右派に位置付けられる大物政治家の中では、元首相の中曽根康弘も谷口に信を寄せて

いたらしく、行政管理庁長官時代の1982年、参院委員会の答弁でこう発言している。

「私は年来、民族が持っておる根源的なエネルギーというものを非常に重視しておる

人間なのであります。それで生長の家というのは、『生命の実相』等を読んでみましても、

キリスト教あるいは神道を融合した一つのお考えが新しく展開されておりまして、その

背後にあるものは、やはり一つの生命科学と申しますか、そういうものに近いものでは

ないかと拝察しておるのであります」

このほか、近年の中央政界では、谷口の信奉者であることを公言している人物には

やはり日本会議のメンバーや関係者が圧倒的に多い。その代表的人物が日本会議

国会議員懇談会の会長を務めている衆院議員の平沼赳夫、生学連出身の衛藤晟一、あるいは

現在、自民党政調会長の座についている衆院議員の稲田朋美らがいる。・・・



p91   「生長の家の政治との断絶宣言」

ところが生長の家は1983年、政界進出から僅か20年弱で突如として方針を大転換し、

政治とのかかわりを一切断つと宣言して激震を引き起こした。この年の8月には、

生長の家本部から地方組織に向けてこんな通達が飛んでいる。

・生政連は解散する。

・今後、生長の家は政治活動を一切しない。

・特定候補の選挙支援やカンパもしない。

(この理由として)生長の家が目指すものと政策の不一致。(例・生命の尊厳を否定

するものだとして人工中絶に反対)また参院選挙での比例区順位をめぐって、自民党

選挙区名簿の上位に位置づけられるのは当然と考えていたのに、結果は落選。

生長の家内部に怨嗟の声が上がった。「これまでの恩を仇で返すのか」

「都合よく自民党に利用されているだけじゃないか」。

第3代総裁・谷口雅信率いる現在の生長の家も、現実政治への影響力の行使などは

全くしていない。それは一般の右派運動に対しても同様であり、もちろん、

日本会議の運営や活動とも無関係である。むしろ昨今の生長の家は「エコロジー」に

力を入れる環境左派の色彩を強め、安倍政権の有り様には批判的にすらなっている。

2016年6月9日、生長の家は次のような文書を公式ホームページに突如掲載した。

「来たる7月の参議院選挙を目前に控え、当教団は、安倍晋三首相の政治姿勢に

対して明確な反対の意志を表明するために、与党とその候補者を支持しないことを

6月8日、本部の方針として決定し、全国の会員・信徒に周知することにしました。

安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を

顧みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に

注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や運営を行なってきたからです」

「この間、私たちは、第二代総裁の谷口清超先生や谷口雅宣現総裁の指導に基づき

時間をかけて教団の運動の在り方や歴史認識を見直し、間違いは正すと共に、

時代の変化の要請に応えながら運動の形態と方法を変えてきました」

「当教団では、元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者に

よって説かれ、すでに歴史的役割を終えた主張に固執し、(略)活動を行なっていることに

対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。(略)日本会議の主張する政治路線は、

生長の家の現在の信念と方法とは全く異質のものであり、はっきり言えば、

時代錯誤的です。彼らの主張は、(略)古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギー

に陥っています。宗教的な観点から考えれば“原理主義“と呼ぶべきものです」

「私たちは今回、我が国の総理大臣が、本教団の信者の誤った政治理念と時代認識に

強く影響されていることを知り、彼らを説得出来なかった責任を感じるとともに

日本を間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に『反対』

の意志を表明します」


p112     「楯の会」1期生の証言」

伊藤邦典(=両親が生長の家の信徒だったことから東京・赤坂にあった生長の家の

学生道場に入り、鈴木邦男らと共に右派の学生運動の最前線に立った。・・

生学系の全国学協の運動・・「盾の会」の第1期生・・新右翼団体「一水会」の

創設メンバー・・)氏へのインタビューから(🦊)


ーーまずは伊藤さんご自身のことを伺いたいのですが。

「1967年に上京後、赤坂にあった生長の家の学生寮に入ったんです」

ーーということは鈴木邦男さんと一緒ですね。

「ええ、うちの親も生長の家の信徒で、鈴木さんもそうでしたから。

小学校の高学年くらいから鈴木さんとは知り合いでした」

ーーそうして学生道場に入る人は多いんですか。

「そうですね。赤坂だけじゃありませんでしたから。いずれ教団の

本部職員になるというような人材を集めていた面もあったんでしょう。

ある程度は学費を面倒見てくれたりして、その代わりに卒業したら

本部に何年か勤務しなさい、というような形で・・」

ーー学生道場の生活は厳しくて大変だったそうですね。

「はい、朝の4時頃から起こされ、勤行みたいなことを5時くらいから

やって、大学から戻ってからもお祈りなどの行があるのは当たり前の

生活でした」

ーーそうした生活を送りつつ、生学連などの活動に?

「そうですね。当時はやはり日学同と生学連が(右翼組織の中では)

大きな組織でしたから。椛島有三さんや安東巌さんたちが左の勢力に

対するアンチテーゼとして声を上げ始めて、私はそういう時期に

学生になって、鈴木邦男さんと一緒になってあちこちにオルグに

行きました。政策研究センターの伊藤哲夫さんは新潟大に居たんですが、

彼をオルグしに行ったのは鈴木さんと私でした」

ーー伊藤哲夫氏は安倍首相のブレーンと言われるようになっていますが、

もともとは生長の家の信者だったわけですね?(中略)

ーーその生長の家も政治と断絶したのに、日本会議には今なお生長の家

出身の方が多くかかわっています。日本会議と生長の家、生学連の

繋がりをどうお考えですか。

  • 「単刀直入に言えば、根っこというか、大元は確かに同じだと思います」

ーー大元は同じ、ですか。では、生長の家に出自を持つ人々がなぜ

これほど長くコツコツと運動に関わり、日本会議をここまで大きく

育て上げたのだとお考えですか。ある人は「生長の家の信者は真面目

だから」とか、ある人は「彼らはしつこい」などとも言っていました。

「真面目だからというより、宗教から発しているからです。宗教心という

ものがあるかないかで違ってくる。私はそうおもっています」

ーー宗教心ですか。

「言葉を変えれば『軸』ですね。根っこがどこから出発しているかによって

あっちに流されたり、こっちに流されたりする。小さい頃から生長の家で

育てられ、谷口雅春先生の教えで生きてきた。それに一片の悔いもない。

若い頃にきっちりと大元を持ってしまったら、なかなか変えられないんですよ。

良いか悪いかは別にして、それが宗教のすごいところなんだと思います」

ーー失礼ですが、陳腐な言葉で言えば「洗脳」と言えなくもありませんね。

「人から見れば、お前らは洗脳されているよ、と言われるかもしれませんが、

別にそれならそれでいい。そういう鈍感さもあるかもしれません。それが

宗教心ということじゃないかと思います」


p118    「「根底にある宗教心」

🛑  日本会議という右派組織の“実相”を表現するならば、

次のようになるだろうと私は考える。

正確に言うなら、生長の家に出自を持つ者たちによる政治運動が

日本会議に連なる戦後日本の右派運動の源流となった、と記すべき

だろう。

改めて強調しておかねばならないが、現在の宗教団体・生長の家は

一切の政治活動を行なっておらず、日本会議とは組織的な関係を

全く有していない。ただ、日本会議という巨大な右派団体を作り、

育て上げた者たちの中枢や周辺に、全共闘運動華やかなりし頃に

右派の学生運動を組織した生長の家の者たちがいることは、消せない

事実として厳然と存在する。

そうした者たちは、生長の家を創唱した怪人物・谷口雅春の教えを

熱心に信奉し、生長の家が現実政治からの決別を宣言した後も

谷口雅春の政治的な教えーーそれはごく普通に見れば極右的で

超復古主義的としか言いようのない政治思想であり、時に

エスノセントリズム=自民族中心主義に陥りかねない危険なものである

のだがーーを信奉し続け、右派の政治運動と右派の組織作りに全勢力を

傾け続けてきた。

そんな者たちは、おおむね極めて真面目であり、富や名声を求めず、

時には裏方に徹して組織の拡大と維持充実に尽力する滅私心も持って

いる。出版宗教という生長の家の成り立ちのゆえ、一定程度のインテリが

信者に多く、勉強熱心でもある。・・

左派の学生運動や市民運動からそのノウハウを吸収して築き上げた面も

あった。だからなのだろう、「地方から都市へ」などという毛沢東ばりの

運動戦略をしばしば取り、組織の前面には著名な文化人や財界人を

押し立て、自らはあまり表舞台にシャシャリ出てこない者も多い。

・・幼い頃から植え付けられた「宗教心」は容易に揺るがず、容易に

変わることがない。変えることもできない。人からどう見られようと

気にせず、あきらめず、信ずるところに向かってひたすら真っ直ぐに

歩を進めていく。だから強い。だから曲がらない。だからしつこい。

(だから日本会議のような組織を育て上げるのに成功したといえる

のだが)、同時にその運動の根底には抜き難いほどのカルト性が

内包されているようにも私には思えて仕方ないのである。


p237   「日本会議の存在は大きいのか」

・・東京都議古賀俊昭(日本会議東京都議会議員懇談会の役員などを

歴任)はこう語っている。

「自主憲法制定は、自民党の党是ですし、共通目標にそういうことを

訴える国民運動が自民党の議員や議員になろうとする人に届けば、

「やっぱりそれはやっておいた方がいいかな」ということで、

決して積極的な参加でなくても、お賽銭を入れるような感じでおつきあい

しておこうという人が多いと思います」

たしかにそういう面はあるのだろう。となるとやはり、日本会議が安倍政権を

牛耳っているとか支配しているというよりもむしろ、両者が共鳴し、共振しつつ

「戦後体制の打破」という共通目標へと突き進み、結果として日本会議の存在が

巨大化したように見えていると考えたほうが適切なように思える。

古賀の言葉ーー

「安倍さんだって、そんな深いもの(政治思想)はないですよ。それを日本会議が

ある程度リードしている部分はあると思います。原理的なことを、日本会議が

きちんと主張してくれていますから」

私は最近、安倍晋三の生い立ちと素顔などを追跡するルポルタージュを発表

したが、その取材では、安倍の成蹊学園時代の同級生や知人、恩師、会社時代の

  1. 上司、同僚らに片っ端から話を聞いたのだが、政界入りにをするまでの安倍に

現在の政治スタンスにつながる気配を感じた者は皆無に近かった。少なくとも

現在の政治スタンスにつながる知性を鍛え上げた様子も、政治史などの知識を

積み上げた形跡も、ほとんど見られなかった。そんな安倍を会社員時代の

上司はこんなふうに評した。

「子犬が狼の子と群れているうち、ああなってしまった。僕はそう思っています」

その安倍が政界右派のサラブレットとして脚光を浴び、政界の階段を一気に

駆け上がっていくまでの途次、「宗教心」などを背景とする筋金入りの右派が

安倍に接近し、“ブレーン”や“兄貴分”として周囲をガッチリ固めていった。

かつては生学連の活動家だった参院議員の衛藤晟一、日本政策研究センター代表の

伊藤哲夫などは代表格であろう。・・

加えて記すなら、「安倍政権的なもの」を許容するようになってしまった日本社会の

変質についても、触れないわけにはいかない。


p240    「右派勢力へのアンチテーゼの消滅」

(日本会議の源流は)谷口雅春の創始した「生長の家」や1060年代の全共闘に対抗する

学生組織として結成された生学連ーー生長の家学生会全国総連合ーーに突き当たる。

その運動手法や手口を徐々に発展、進化させ、神社本庁や他の新興宗教団体の支援を

受けつつ・・半世紀近くも前から同じような運動を繰り返して来たに過ぎないとも

言える。しかし、「宗教心」を背景とした活動家らは、まったく諦めることなく、

小異を捨てて大同につく形で日本会議の立ち上げに成功し、戦後70年を経て安倍晋三

率いる格好の政権を戴いて悲願の実現に向けて猪突猛進している。

(🦊:  これについての、元日学同委員長・玉川博己へのインタビュー記事より)

「僕たちが学生の時、『自主防衛』だとか『核武装』なんて言おうものなら、

すぐに『ファシスト』『軍国主義者』と徹底的に批判されました。でも、今は

どうですか。テレビでもネットでも、あるいは本屋に行けば、そういう主張を

堂々と記した雑誌が山積みになっている。一方、かつての『朝日ジャーナル』

のような本なんてほんの少ししかない。50年前とはえらい違いです。それが

良いことか悪いことかは別にしてね」ーー右派が勢いづいたというより、

左派がいなくなっただけだーー

右派勢力へのアンチテーゼの消滅。その背景に横たわるものを解析してみれば、

冷戦体制の崩壊もあったし、社会党や労働組合の衰弱もあった。これに反比例

するように右派や右派的な言説、活動は次第に勢いを増してきた。(隣国の中国や

韓国の飛躍的な経済発展、しかも日本国内には格差や貧困が広がり、かつての

右肩上がりの時代は過ぎ去り、将来への漠然とした不安や焦燥が広がっている)

そうした現状は、排他的な言説や不寛容の風潮を強める土台になっている。

政治家にしても、文化人や学者、メディア人にしても、排他や不寛容を煽るような

言葉を吐く者は掃いて捨てるほどいる。隣国やマイノリティに公然と差別的言辞を

吐き続ける愚か者が多数派になったとまでは言わないが、日本は他国よりも

優れた「特別な国」であるかのようなムードを振りまくメディアの記事、ニュース、

番組、書籍等々は枚挙にいとまがない。これが「美しい国」を称揚する安倍政権や

日本会議に止まるものではなく、言わば日本社会そのものが病に侵され、日本会議は

その深刻な状況を表象しているに過ぎないとも言える。


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🦊:    「明治への回帰」ねー。明治時代が王道楽土を実現して美しく「実在」していた

とは、到底思えない。(当ブログ=「軍国主義は死なない」ーー山縣有朋の項参照)

それで思い出したのは、キツネが田舎に疎開していた戦後の頃、日本全国はノミ、シラミに

占領されていた。小学校の体育館に全員集められて、頭からDDT(殺虫剤)を浴びる。

ゲホゲホ・・・これが戦後という時代だ。戦争がノミを運んでたわけではない。進駐軍はDDT

を持ってきた。ついでに「民主主義」」や「国民主権」や「恒久平和」の憲法を注射していった。

で、キツネの体内では未だに薬の効き目がおとろえていない。

「戦争にもどりたい」なんていう人は1人も居なかった。写真入りの週刊誌で見る「シベリア

抑留」の記事に怖気を振るい、父親を失った友達の悲しみを共感した。100%の「現実」だ。

しかし、あの戦争が侵略戦争であったかどうか、などという議論は子供の耳には届かなかった。

そのまま大人になり、「あの戦争はアメリカの石油禁輸のせいで始まった。日本としては

やむを得なかった」と未だにに言うジイサマが案外多いのは当然かも知れない。

「歴史に学ぶ」以前に「歴史を一部分つまみ食いした」だけの日本人(これはアメリカ人も欧州人

も同じ)

そして「今度は勝つぞ」(アメリカさんのお助けで)と、最近威勢のいいこと。ついでに

「昭和は美しかった」とノタモウ。????


🦊:    追記:12月19日

昨日のテレビで、岸田内閣の某閣僚が、首相の発言として「国防は国民の義務」との

談話を発表した、と報じられ、さすがに首相はこれを否定して「国民の義務とは言ってない。

『国防は我々の義務』と言ったんだ」・・そうな。この言葉、例の改憲派佐伯氏の著書の

中にも出てくる、まさに現憲法と真逆のことを言ってるわけで、「今まさに好機到来。

憲法なんぞ屑籠に放り込め!」とばかりに再軍備に向けて国民を煽る発言だ。

さすがに「我々の義務」と言い直したが、つまりは増額すべき軍事費の算段だ。

いきなり総額を国会に示して「これを呑め」とは乱暴な、というので与党議員からも

反対が出る始末。何を買うからいくら要る、という見積書の提示を、国民が要求するのは

当たり前。これ(=アメリカの兵器メーカーの見積書)を「今すぐに」見せたらマズイ、という

「我々政府の」思惑。

この取り組みを捌く行司は紛れもなく「憲法9条」だ。憲法9条は立派に、役に立っているじゃ

ないですか。自民党だとて、さすがに行司を暗殺するわけにもいかず。その前に国民投票という

儀式が待っている。「殺せるものなら殺してみやがれ」と啖呵を切る、痩せ細ったキツネでした。


🦊:    本日16日の朝日の記事「強権2国  不安定なユーラシア大陸」

梶谷懐(経済学者・1970生)と池田喜郎(ロシア現代史・1971年生)の両氏の対談

より抜粋


池田ーープーチン氏のウクライナ侵略を批判する立場から、戦後秩序をどう

構築するか。欧州を含めた多様な地理・政治・経済的な空間に平和と安定を

もたらすには、モスクワ中心の国家的統制ではない地方同士のネットワーク、

ローカルな付き合いが役割を果たすと思います。約100年前のロシア革命や

ソ連建国の時も、ロシアは決して一枚岩ではなかった。知床の観光船事故

の対応で協力関係が見られたサハリンやシベリア、旧ソ連諸国などの

地域単位、経済や文化芸術などの各分野で、一緒にやれる人たちとの

交流を増やす必要があります。


梶谷ーー香港の民主化運動も、同じ広東語を話す広東省など華南地方から

の「新移民」と連帯できれば道が開けたかもしれません。中国政府からの

圧力が強まる台湾の人々も中国全体との対立は望んでいないでしょう。

日本も、危機を煽らず「正しく恐れる」難しさがあります。戦争は認め

られないと何度でも確認し、多少の死者も厭わない「大国の論理」に

対し、人権や人間の安全保障の理念を掲げ続けることが平和と安定に

繋がります。


この若い人たちの新鮮な言葉と、70〜80代の、何やら神がかった言草と、

較べるまでもない。ジジイどもいい加減に引っ込め!と言いたくなる。


この頃、アメリカは新たな「エネルギーの錬金術」を編出したそうな。

それをどう使うのか、考えるだけでも恐ろしい。

池田氏と梶谷氏が語る、簡単な言葉「一緒にやれる人たちとの交流が

大事」「戦争は認められないと何度でも確認し、多少の死者も厭わない

大国の論理に対し、人権や人間の安全保障の理念を掲げ続けること」

・・知恵や忍耐力、人間としての常識と相互理解、地球への愛情、・・

それらをブッ飛ばしてしまう「自国を大国に」、「他民族への人種差別」、

果ては「神国ニッポン」の幻想。

「戦争はイヤだ」の大合唱をまず世界中に広げよう。戦火の下で震える

幼な子のように。


🦊:  12月17日   朝日新聞夕刊  「ガザに戻った青い海」より

”下水処理場からの排水に悩まされ続けた10年“

「天井のない監獄」と呼ばれるパレスティナ自治区に、今夏

久しぶりに明るいニュースが舞い込んだ。汚染されていた目の前の

海が、泳げるほどまでに浄化されたのだ。だが、それでも「泳がない」

人がいる。なぜなのだろうか。(ガザ=高久潤)

`🛑  ガザ地区はイスラエルに周囲を壁などで封鎖され、人やモノ

の移動も制限されている。「天井のない監獄」と呼ばれる所以だ。

日本の種子島ほどの広さの地域に約200万人が密集して暮らし、

失業率は50%近くで高止まりが続く。・・

そんな中で、海だけが別世界に見える。この海はどうかわったのか。

ガザ地区には元々3つの下水処理施設があったが、老朽化などで

使えなくなった。だが、修理に必要な建材の多くは理屈上、軍事転用

が可能なため、イスラエル当局は「壁」を通過させることに慎重だと

されている。この10年ほどはゴミ混じりの廃水が直接、海に流れ込み、

深刻な環境汚染を引き起こしていた。

転機は、環境団体の仲介で国際的な資金援助が実現したことだった。

排水の7割は下水処理施設で浄化できるようになり、残り3割も

一定の浄化が可能になる目処がついた。

援助を実現させたのは環境NGO「エコピース・ミドルイースト」。

イスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダンにそれぞれ事務所を持ち、

専門家が当局と交渉してこの地域全体の環境問題に取り組む。

「海は繋がっているからね」。このNGOの共同代表を務める

ギドン・ブロンバーグさんは今回の取り組みが成功した理由を

こう説明する。

ガザの海に流れ込んだ汚水はイスラエル側の海岸にも達し、

水質の極端な悪化が見られたり、海水浴場の一部が閉鎖

されたりしていた。下水処理施設の復旧への協力は、イスラエル

側にもメリットがあった。

「軍事的、政治的な対立があっても、近くで生きていく以上は

同じ「自然環境」を共有しないといけない。環境の危機を通じて

現実を変える方法はある」

海水の汚染は、この5年で最も低いレベルまで下がった。現在

ガザ沿岸の65%は「泳ぐのに十分な安全性を保持している」と

港湾責任者は話す。・・


🦊:  この取材の翌月に、イスラエル軍と武装組織「イスラム聖戦」の

軍事衝突が起きた。(子供17人を含む49人が屋外で死亡)子供たちは

海に近づけなくなる。

「この地で生きる人々が自分たちの海を心から安心して「美しい」と

思える日は来るのだろうか」・・と記事は結んでいる。


🦊:   「三つ子のタマシイ百まで」のことわざ通り、ジイサマ議員の大真面目発言

「女性議員は口を慎め」とか「日本は天皇を中心とした神の国デショ」とかは、

彼の幼少時代に、祖父から刷り込まれた(ということは明治時代ものの)カルト

的な信仰心の、抜きがたい現れでしょう。「語るに落ちる」とはこのことだ。

だからこのようなカルト信者は、しつこく、己れの仲間の延命を図るために、

「日本会議」のような好餌に吸い寄せられて群れ、又は似非学者や文化人の

くちを借りて、布教に余念がない。

日本は政治の近代化に失敗し、今は経済の現代化(地球規模の見取り図と、

全人類の幸福実現への意思を共有する)に失敗しようとしている。

若い人たちは、このカルト思想に染まってはいけない。オジイチャンから

ではなく、世界中の若い仲間から学んでほしい。互いに影響しあってほしい。

大丈夫だよね!


12月19日



朝日新聞 12月24日   「民主主義がはらむ問題」佐伯啓治氏コラムへの疑問


🛑  2段目:  ・・今日の人々は、おのれの生の意味づけや幸福を自らで定義

し、自分の力でそれを実現しようとしなくなった。人は全体主義や権威主義を

批判して個人の自由を主張するが、逆に自分で自分の人生を選択し、そのことに

自分で責任を持つのは面倒なのである。

だから「自分の人生がうまくいかないのは政治が悪いからであり、自分が不幸

なのは政治家が怠慢だから」と考える。・・

3段目:・・古代ギリシャやローマの政治家がしばしばそうであったように、

大衆政治家は多かれ少なかれポピュリズムへとなびくが、それは民主主義の

歪みというよりも、むしろ民主主義の本質と言わねばならない。少なくとも

民主主義を民意の実現などと定義すれば、民主政治とは、民意を獲得する

ための政治、つまりポピュリズムへと傾斜するほかなかろう。

民意を敵に回してでも重要な決断をすることを政治家に求めるならば、

「民主主義は民意の実現」などと言うわけにはいかないのである。

4段目:・・判断は一人ひとり異なって良いし、それを強制されてはならない

と言う自由主義の原理が持ち込まれれば、民主主義は価値判断についての

完全な相対主義に陥る。(こういう価値相対主義が現在の民主主義の本質で

あるとすれば)現世の利得、損失に関わる事項に真理などという概念は意味を

なさないであろう。それなら政治家は多数派の「民意」を恃むほかないであろう。


6段目:・・古代ローマ帝国の崩壊は、民衆が過剰なまでに「パンとサーカス」

を要求し、政治があまりにも安直にこの「民意」に応えたからだとしばしば

いわれる。社会から規律が失われ、人々は倫理観を失い、飽食と

エンターティンメントに明け暮れる。内部から崩壊するうちに、ローマは

異民族に滅ぼされた。・・民衆の「パンとサーカス」の要求に応える

のが政治であるという事情は、民主主義でも権威主義でも変わらない。・・


🦊:   正直なところ、何やら迷路の中を引っ張り回された気分。どの道が

正解なの?何処へ行けばいいの?の質問には答えない。

ひたすら「利害が多様化して入り組み、にもかかわらず人々は政治指導者に

わかりやすい即断即決を求めるという今日の矛盾した状況にあっては、

  • 由緒正しい民主主義が政治に機能しないことは明白である」という。

(我々は即断即決など求めていない。反対に「十分な討議を」求めている

んですが?)

🦊:     古代ローマのことはさておき、ある日の国会で、終了後に記者が「あなたの

任命責任はどうなるんですか?」と食いついた。それに対して安倍前首相は

「適材適所!」とただ一言、ドアの外へ消えた。その顔に浮かぶなんとも

言えぬ表情。「ドヤ顔」とでも言っときましょう。きっと心の中でチロッと

赤い舌を出していたろう。(そういうふうに見えたんだからしょうがない)

「安直に民意には応えない」「わかりやすい即断即決(閣議決定)でノータリン

の国民を黙らせるなんてチョロイもの」ときて、全ては反民主主義、本当は

「明治に帰れ」、そこには「神である天皇の権威」を利用した独裁政権が

あり、体制翼賛の人民がおり、家庭は個人の欲求を押さえつけ、国民は兵士と

して(母国の平和の「守り神」の尊称を押しつけられ)、最初から死者扱い。それが

明治政権をささえ、現在にも生き残る「長州閥」のやり口。

故安倍氏はおのれの派閥と米国の主戦派のご機嫌をとりつつ、しかも「国民の多数の

票を得ているのだ。文句あるか」の姿勢だから、佐伯氏の言う「民主主義に毒された」

気の毒な政治家にはあたるまい。

氏は改憲派であるらしいが、どのように改憲するのが良いか、具体的にどうぞ。




さて、次は国連の実務畑で37年間も働き、しかも日本人やマスコミにはあまり知られて

いない、長谷川祐弘氏の本を紹介したい。


国連平和構築ーー紛争のない世界を築くために何が必要か

長谷川祐弘 著    2018年    日本評論社刊




🦊:  著者長谷川祐弘氏の経歴(ウイキペディアによる)

1942年生。1966年ミシガン大学政治学部卒。

1974年にワシントン大学博士号取得(国際関係開発論)

国際公務員として1969年から37年間、国連開発計画、

国連ボランテイア計画して(UNV)、国連開発計画(UNDP)

国連ボランテイア計画(UNV)、国連平和維持活動(UNPKO)

で幹部として活動。

1978~1980    ネパール・UNDP常駐副代表

1980~1984  インドネシア・UNDP常駐副代表

1994~1996  サモア、クック、ニウエ、トケラウなど

                          南太平洋地域におけるUNDP常駐代表

1986               UNVジュネーブ本部事務局次長

1993              カンボジア総選挙における立案と行政を担う

                         ためのUNV選挙監視団総括責任者

1,994             第二次ソマリア活動(UNDSOM)政策企画担当部長
     
 1995             ルワンダ国連常駐人道調査官

1996             UNDPニューヨーク本部・アジア太平洋地域局次長

1999             UNDP駐日代表

2002            緊急危機復興に関するUNDP総裁顧問

2002             東ティモール民主主義共和国での国連担当調整官

2002             国連事務総長特別副代表(東ティモール担当)及び

                       国連東ティモール支援団(UNMISET)代表

2004             国連事務総長特別代表(東ティモール担当)及び

                       UNMISET代表

2005            国連東ティモール事務所(UNOTIL)代表

2006           国連事務総長特別代表(東ティモール担当)


現在の任務

京都芸術大学平和構築センター長。日本国際連合協会理事。

地球憲章アジア太平洋日本委員会理事。国連システム学術評議会

(ACUNS)東アジア連絡事務所長。特定非営利活動法人日本国際平和

構築協会理事。


現在の研究関心

平和構築での指導者の役割。移行期の正義と司法制度。紛争後国での

正義と和解の実現。紛争再発のリスク度合い。




p249     政治文化と政治行動ーー指導者の役割りはどのように変化

したか


🛑   ルシェン・パイは、「政治文化の概念は、個々の個人が学習し、

周りの人々や地域共同体の必要性についての知識や感情をその個人

自身の人格に組み込んでいくことを仮定している」と述べているが、

・・すなわち、政治文化とは、政治制度の歴史と、現存する制度を

作った個人の人生史の産物である。そのため、紛争多発国家や

紛争後国家の社会に「それは根付いている」のである。この点から

見ると、独裁政権の下での警察官たちが上司からの指導や命令を

実行するにあたって、社会に起こりうる結果を判断することなく、

盲従する傾向にあることは理解できる。・・

本章では紛争多発国や紛争後の国々で、社会での政治文化と指導者

の役割がどのように変化してきたか掘り下げて考察してみよう。そして

紛争後に平和な国家を築き上げ、国民が恩恵を受ける社会を推進

してゆくために、指導者はどのような役割りを果たしてゆくべきか

を吟味してみよう。

政治文化は、なおかつ、国家そして社会の指導者の態度と行動に

決定的な影響を与えるのであり、国家の政治体制が変わっても、

政治文化が変化しなければ、紛争などに明け暮れる社会は安定を

成し遂げることは不可能である。著者は1978年から3年間、ネパールに

UNDPの常駐次席代表として、政治や政党の指導者たちと緊密に折衝

し、お互に知り合った。その後、政情不安が続いていたが、2006年に

対立グループの間で包括平和が成立し、2008年には制憲議会選挙を

実施し王政が廃止され、連邦民主共和制に移行した。多様なイデオロギー

を持った指導者たちが政権をとり国家を運営してきた。その後も政権の

交代が頻繁に起こってきている。国家の利益と国民の利益向上のために

尽くす志を備えた強力な指導者が欠けている。・・

政治文化は指導者たちと国民の心理的思考と振る舞いに決定的な影響を

与える究極の枠組みとなると言えよう。アルモンドとパーウエルが

50年ほど前に指摘したことは現在でも的を射ている。すなわち、政治文化

とは「全ての住民の中に息づく態度、信条、価値と能力、そしてその住民の

別々の部分に見られる特殊な傾向とパターンから成り立っている」。・・


冷戦終結後の1990年代には、筆者は自由民主主義の原則と法の支配が、

過去の不正や紛争そして暴力に苦しんだ人々に、平和と安定をもたらす

と信じた。そして国際社会が武力闘争で荒廃した社会や国家に安定と

平和をもたらすことは、民主的な政治体制を確立することにより可能

であるとも思った。・・伝統的な価値と習慣によって治められていた社会に

自由主義的な統治体制を植え付けることは、新しい国民が主体となる国家を

構築できる「民主化の早道」であるとも考えられた。・・早急な自由民主化派

は、民主主義原則に基づいた新しい社会契約が形成され、現地の民衆が

迅速に政治資産の所有権を十分に得られるように、政治圧力と軍事的圧力の

混合で介入することが可能であると信じていた。

(それに対し)緩やかな民主化派は、「国家構築の究極の目的であるべき

『民主主義制度』は、それが構築される特有の文化的、歴史的社会情勢に適合

しなくてはならない」と提案した。この考え方に、筆者は心から賛同する。

国連など外部から民主化を支援してゆく者にとって、平和構築の必要条件を

的確に把握するためには、現地の政治文化環境を分析するにあたり

パラダイムシフト(見方を変える)をすることが必要である。それは民主化プロセス

だけでなく、近代化の過程を含めた歴史的な発展をカバーするべきということである。

また、対象となる社会における歴史的政治的構造、経済環境や社会的伝統を検証する

ことが必要であろう。すなわち当事国での政治治安状況を分析するにあたって重要

なのは、政治文化と政治行政の間の関連性である。

さらに理解しておくべきことは、政治文化とは地域共同体や社会が共有している

規範や習慣の根底の基盤となっており、指導者の行動を左右するのである。

そして、新しい国家の指導者グループが紛争後の国家を統治する権利を引き継ぐ

とき、権力と富への貪欲の罠にはまりがちなことである。民衆は教育を受けて

おらず、繰りやすいため、新しい権力保持者は往々にして権力と財力を維持する

欲望を制御できないのが致命的な点である。哲学者カントが述べているように、

安定した社会の実現には指導者が、自立心を持ち、自己の欲望を制御できるかに

かかっている。・・


過去の数年間、平和構築支援活動を行う者は、ガバナンスのための最も望ましい

手段として民主主義制度の確立と実践活動を支持するようになった。

安全保障理事会は、ブルンジ、シェラ・レオネと東ティモールにおける平和維持

活動を遂行するようにマンデートすなわち任務を与えてきた。これらの課題は、

必要性の高い制度改革と能力構築を想定していたが、紛争後の社会における政治的、

社会、文化的な規範や習慣、そして国家や地方の指導者たちの心構えと

考え方を平和志向の枠組みへ進化させることが決定的に重要である。そのような

政治文化と心理の進化は、外部からの価値観や概念を押し付けることで成し遂げ

られるものではなく、現地の指導者と国民によって自発的に受け入れられ、発展

させられなくてはならないことが明白になってきた。・・(中略)


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🦊:    長谷川氏はこの本の中で、国連職員やPKOに参加する若者の給料については

全く語っていないが、実は国連の台所は大変なことになっている。


国際連合広報センターー平和維持活動についてーーより

🛑  平和維持活動は加盟国が自発的に提供する。事務総長が指揮をとる。加盟国は

平和維持予算のもとに分担金を払う。

2005年の世界サミット成果文書「人間の安全保障」パラグラフ143において、

各国首脳は、「すべての人々が、自由に、かつ尊厳をもって、貧困と絶望から

解き放たれて生きる権利」を主張するとともに、「すべての個人、特に脆弱な

人々が、すべての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させる平等な

機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有していること」

を認めました。・・・

現在では、先進国、途上国を問わず、全世界の人々が多種多様な安全が脅かされうる

状況下で暮らしているからです。こうした脅威は各国の政府にとって、ともに深刻な

課題を突きつけています。・・

人間の安全保障は、安全、開発、人権の間の相互関連性を認識し、これらを人間の

安全保障、そして、国家の安全保障の「礎石」とみなすものとなっています。

さらに、人間の安全保障が欠如する原因とその現れ方は国やコミュニティによって

大きく異なるため、人間の安全保障では、各地の現実に根差し、各国のオーナーシップ

に基づく解決策の策定強化を図ります。人間の安全保障は、各国の政府と国民がその

潜在力を高め、貧困と絶望の無い状態で、尊厳を持って生きる能力を高めることに

なります。


国連の資金不足ーー分担金の確実な支払いが重要

2019年10月:  公明党新聞

🛑   国連が深刻な資金不足に陥っている。10月の国連総会行政委員会で、グテレス

事務総長は「国連が2億3000万ドル(約250億円)の赤字を抱えており、10月末にも

資金が払底する」と訴えた。この赤字額は過去10年で最大だ。実際、資金不足を

理由に継続できなくなった国連の活動も少なくない。加盟国は、国連の資金確保に

向けた取り組みを急ぐ必要がある。特に、人道支援に関わる国連の活動が停止に

追い込まれている現状を無視するわけにはいかない。

例えば、国連児童基金(ユニセフ)によると、紛争や自然災害などで不安定になった

シリアやイエメン、バングラデシュなど59カ国で生活する、約4100万人の子供たち

への食糧供給や医療支援などに必要な資金の半分ほどしか確保出来ていないという。

そのため、今年度の最終四半期は、ユニセフの活動の継続が困難となっている。

このままでは、国連加盟国が共有する「持続的な開発目標」(SDGs)の達成にむけた

取り組みが停滞する。貧困と飢餓を撲滅し、「誰も置き去りにしない」世界を

実現するというSDGsの理念をもう一度想起すべきだ。

国連の資金不足は、加盟国の分担金未払いに起因する。グテレス事務総長に

よれば、10月4日の時点で分担金の停滞国は65カ国に上る。中でも、分担金

の比率(分担率)が最も高い米国が未払いである影響は大きい。

トランプ大統領は、米国の負担が過大だとして、分担率の見直しを求めている。

しかし、19年から21年までの各国の分担率については、昨年12月に米国も

含めた国連加盟各国が同意したはずである。米国など分担金未納65カ国は

分担金を早急に支払うべきだ。

分担金の未払い問題の背景には、国連に大した力は無いと冷笑し、無視する

風潮が強まっていることもある。


いうまでもなく、国連は世界政府では無い。国連創設時に参考にされた、

ドイツの哲学者カントの著書「永遠平和のために」で示された構想は、

各国が利害の対立を対話で解決しようと努力する場としての国際組織

であり、それが国連だ。世界に一つしかない貴重な場を大切にすべきだ。



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🦊:    やれやれ、やっぱり最後はカネの話か。ひたすら貪欲に金を喰らって

増殖するガン細胞をどうにかしないと、「人間の安全保障」も実現不可能か。



戦前回帰  ーー『大日本病」の再発

山崎雅弘  著    2018年   朝日新聞出版刊


🛑p28     戦前、戦中の日本は本当に軍国主義だったのか?

いわゆる軍国主義という言葉は、英語では「軍事的合理性」

や「軍事的優越性」を価値判断の最上位に置く国家体制の

ことです。政策決定を始め、国家運営に関するあらゆる

物事を、軍事優先で考え、評価し、実行する国が、本物の

軍事国家です。・・

戦前、戦中の日本も一見すると、国家運営に関するあらゆる

物事を軍事優先で考え、評価し、実行したかのように

見えます。絶対的な上位者である天皇以外には、何人たりとも

陸軍や海軍の方針に口出し出来ず(統帥権)、首相や大臣ですら、

軍に関わる問題についての決定に異議を差し挟むことは「統帥権干犯」

として激烈な反発に遭いました。けれども実際には「軍事的合理性」や

「軍事的優越性」が必ずしも価値判断の上位に置かれていなかったという

意外な事実に気付かされます。たとえば、戦前から戦中にかけての日本

では、陸軍と海軍がそれぞれ似たような目的の兵器を開発していましたが

「用途がほぼ共通なのだから一緒に開発しよう」と相談して、開発コスト

の削減や運用テストの効率化、各種データの共有、弾薬や部品の共通化

による兵站部(補給)面での合理化といった協力関係を築くことは殆ど

ありませんでした。また、当時の日本陸軍やに日本海軍には、それぞれの

戦いで得た軍事情報、特に敗北に関する情報を相手組織と共有する習慣も

多面的な分析と反省を徹底的に行なって同じ失敗を繰り返さないようにする

という合理的な発想もありませんでした。1942年6月に発生したミッドウェー

海戦は、日本海軍史上最大の敗北とも言える出来事で、日本はこの戦いで

大事な主力空母を4隻も一度に失い、海軍の保有する航空戦力が著しく

低下する大打撃を被りました。しかしそのような重大な事実は、個人の人脈を

通じて情報を得ていたごく少数の幹部(首相就任後も陸軍の役職を兼任した

東條英機など)数人をのぞき、日本陸軍の軍人には2年以上も知らされないまま

でした。全体的な戦略の相談は、大本営でなされましたが、陸軍と海軍を統括する

形での総合的な「戦争全体の戦略方針」に基づいて戦略指導がなされることは、

結局戦争中は一度もなく、陸軍側と海軍側の意向を均等に採り入れた、優先順位の

よくわからない命令文書に落ち着くこともしばしばでした。・・・

当時日本の同盟国であったドイツでは、こうした軍組織間の面子や縄張り意識は

さほど顕著ではなく、陸海空による作戦面での協力もふつうにおこなわれていました。

しかし、当時の日本陸軍と日本海軍は「戦争に勝つ」ことを優先順位の第一位にせず、

組織間の縄張り争いや意地の張り合い、面子を保持するなどに無駄なエネルギーを

費やして、ただでさえ限られていた人的、物的資源を有効活用しませんでした。

つまり、太平洋戦争を戦っていた時期の日本は、少なくとも「軍事的合理性」や

「軍事的優越性」を徹底的に追求して、優先順位の第一位に置く国ではありません

でした。表向き国民向けに政府が語る言葉だけを見れば、あたかも戦争に勝つことを

最上位に考えていたかのように見えますが、内情は違っていました。その意味で、

完全な「軍国主義」の国ではなかったという見方も出来るわけです。


p31    異常なほど「人間の命」を軽視した昭和の日本軍

・・・そして、組織間の縄張り争いや意地の張り合い、面子と威信の保持に無駄な

エネルギーを費やして、ただでさえ限られた人的、物的資源を有効活用せず、全体

すなわち「国」の利益ではなく自分の「省」の利益を優先する思考は、戦後の日本の

官僚にも色濃く引き継がれてきたことから、こうした傾向を日本のエリートに特有の陥穽

とみなす論も、戦後の日本では数多く語られてきました。戦前戦中の官僚であった

陸軍海軍の軍人と、戦後の官僚との間には、決定的な違いがありました。

それは人命の重さ、または軽さに対する認識です。軍人の士気(モラール)が低下すれば、

軍という組織全体の能力もさがり、やがて対外戦争で敗北することになります。そのため、

過激な境遇に置かれた兵士に、それでもなお、お国のために献身する意欲を持たせる

ためには、単に上層部に対する忠誠心を強制するだけでなく、自分達の命が「粗末に

扱われていない」という確信を、個々の兵士に抱かせることが必要になります。

同じ「大日本帝国」下の日本軍でも、明治期の日清・日露戦争や大正期の第一次世界大戦、

シベリア出兵などにおいて、日本軍の上層部は決して前線の兵士たちを「粗末」には

扱いませんでした。・・・

そして、自軍が戦いに敗れた場合には兵士が捕虜となることを許し、自軍に投降した

敵軍の捕虜に対しても、敬意を払いつつ、当時の国際法に定められた通りの

権利を与えていました。戦争に勝っても負けても軍人の命をむやみに粗末にせず、

味方も敵も戦後まで生き延びることを「当たり前」のことと理解していました。

ところが、日中戦争から太平洋戦争に至る時期の日本軍は違っていました。まるで

宗教の「神」のような絶対的存在を、価値判断の最上位に置き、その「威信」に

国が従う社会構造を維持するため、という形式であれば、人間の命がどれほど

失われても問題視されない風土が、軍組織の上層部から末端まで広く浸透して

いったのです。


p36    特攻(体当たり)攻撃と自殺的攻撃兵器の開発

当時の日本が戦争末期に、特攻という恐ろしい手段を多用したことは有名ですが,

爆弾を積んだ戦闘機や攻撃機、爆撃機を敵の軍艦に体当たりさせるという、

既存の通常兵器を本来の目的とは違う形で運用した「特攻」に加えて、日本海軍は

搭乗員の生還を最初から度外視した「特攻兵器」の開発を、敗戦より1年以上前から

進めていました。それが海軍の人間魚雷「回天」や特殊潜航艇「海龍」、小攻撃艇

「震洋」、特殊滑空機「桜花」など、数多くの種類を持つ体当たり兵器でした。

戦争指導部の判断ミスや、陸軍と海軍の協調性の無さ、統合的な軍事戦略の

欠如など日本軍の劣勢を生み出した組織内の欠陥、問題点には目を向けず、

指導部がそれらの責任を取る代わりに、前線の兵士の命を犠牲にする方策が

とられたのでした。そして、特攻という悲壮感に満ちた戦法が、殉国美談

の物語として国民の間に知れ渡ると、我が身を捨てて国に殉じた乗組員を

賛美するムードが形成され、戦局悪化を招いた指導部の責任という大きな問題から、

国民の目が逸らされることとなりました。


p38    イランやイスラム過激派と日本軍の共通点

こうした人命無視の戦争遂行術について、戦後の歴史認識では、一般的に当時の

日本の軍国主義における典型的な「非人道性」や「冷酷さ」として説明されて

きました。しかし、明治後期の日本も太平洋戦争時と同じく、軍人が危機感を

もって清国やロシアと戦いましたが、「特攻兵器」などという人命無視の発想は

ありませんでした。たとえば、日露戦争で日本海軍が実行した、三度にわたる

旅順港閉鎖作戦の目的は、石炭などを満載した船を旅順港の狭い入口に沈めて

ロシア海軍の大艦隊を同港に閉じ込める作戦は、港を護るロシア軍砲台の

射程距離内で実施されたため、日本側に多くの死傷者が出ることが予想され

ましたが、乗員が生還する望みを捨てず、手を尽くして彼らを救出し、一人でも

多く生き延びさせるというのが大前提でした。

太平洋戦争時の日本軍と同じような形で自軍兵士に組織的な自殺攻撃を命じ、

兵士がそれに従った「国家」として挙げられる数少ない例の一つは、1980年

から1988年にかけて「イラン・イラク戦争」を戦った、中近東の産油国イラン

でした。(イランは当時の最高指導者ホメイニの下で、厳格なイスラム国家を築き

始めたばかりでした)そして、イランの最精鋭部隊である「イスラム防衛隊」は、

対イラク戦の劣勢を挽回するために、イラン人の少年兵で突撃部隊を編成し、

イラクの陣地に隊列を組んで前進させ、「イラク軍が埋めた地雷を少年兵に

踏ませるという非情な戦術を使いはじめました。イスラム聖職者であるホメイニ

は、こうした少年兵に対し「死後はアラーの(神の}許へ行けるようにとの祝福を

与えており、革命防衛隊に志願する少年たちは、自分も「偉大な革命を護る戦いに

参加できる」という高揚感と使命感に酔い、「自分達が死んでも、その死は

無駄ではない」と考えていました。イラン軍やイスラム過激派の場合、戦いによって

護ろうとする、あるいは実現しようとする対象は、彼らが絶対に正しいと信じる「厳格な

イスラム法の支配する体制」でしたが、太平洋戦争期の日本軍の上層部が特攻という

手段を用いてまで護ろうとしたのは、「国家神道」を基盤とする宗教と政治の融合した

特殊な国家体制でした。単に軍事的合理性だけを追求する「軍国主義」ではなく、

宗教的な政治思想を軍事的合理性よりも上位に置いた時、戦争を行う先頭集団は、

人間を戦いの道具として使い捨てしても許されるという、人道的感覚の麻痺に

陥ります。(中略)


p53      ドイツの場合、ヒトラー親衛隊(SS)ですら「玉砕」を拒否

第二次大戦期のドイツ軍には、通常の国防軍に加え、「武装親衛隊」(SS)

と呼ばれる軍事組織も存在しました。これは、ヒトラーへの忠誠とナチ党の

教義への絶対的服従を誓う人間ばかりで構成されていました。第二次大戦期に、

ヒトラー命令を拒否あるいは無視したドイツ軍人が少なくなかったことは、

驚くべきことですが、武装親衛隊においても繰り返し発生していました。

例えば、1942年から1943年にかけての冬、東部戦線のドイツ軍はスターリングラード

周辺で実施されたソ連軍の大反攻作戦によって戦略規模での敗北を喫し、

広大な領域で撤退を強いられていました。それを知ったヒトラーは、ウクライナの

重要都市ハリコフ(現在のハルキウ)を守る軍団長パウエル・ハウサーS S大将に、

「いかなる情勢になろうともハリコフを死守せよ!」と厳命しました。しかし

ハウサーはこの命令に従って部下を全滅させるのは、軍事的合理性の面から

無意味と考え、上級司令官の許可を得ることもなく、独断で指揮下の部隊を

ハリコフの市外へと撤退させ、将兵を生き延びさせました。

(その他にも、ハンガリー戦域でのヨーゼフ・デイートリヒSS上級大将の

例がありますが)興味深いのは、ヒトラーの側も、自分の死守命令を無視

して部下を撤退させたハウザーやデイートリヒを逮捕したり処刑したり

しなかったことです。当時のドイツでは、全滅するまで戦う「玉砕」の

の考え方い同意する人間は、軍上層部はもちろん、ヒトラーを崇拝する

武装親衛隊においても極めて少なかったからです。・・

そしてデイートリヒらに率いられた、ドイツ人から成る武装親衛隊の

各部隊は、ヒトラーとナチスの体制を見張り、西部戦線に移動して

米英連合軍へと降伏しました。


p55   「日本の場合」部下の命を救おうとしなかった上級指揮官たち

(同じ枢軸国に属したドイツと日本なのに、なぜこれほどまでに部下の

命に対する扱いの違いが生じたか、という疑問が湧き起こりますが)

その理由の一つとして、ドイツ軍の軍人は、軍人であるのと同時に

独立した「個人」として、善悪などの価値判断基準を内面に抱いて

いたのに対し、国家体制に忠誠を誓う思想教育がドイツの場合よりも

徹底されていた昭和初期の日本の軍人は独立した「個人」という

意識が極めて弱く、価値判断基準を内側に持つ人は極めて少数であった

事実が挙げられます。特に、軍組織の上層部を占め、大勢の部下の命を

握る将官レベルで、その違いが顕著でした。・・

日中戦争から太平洋戦争に至る時期の日本軍で、総司令官あるいは

軍司令官で、部下の命を救うために命令違反を行った人は、ただの

一人も見当たり ません。(中略)

(ノモンハン事件やインパール作戦における、師団長クラス以下の

ランクで、いくつかの例外はあるが)自分が大勢の部下の命を預かる

指揮官として何をすべきか、という価値判断基準を内面に抱く軍人は

極めて少数の例外に過ぎず、しかも彼らは軍全体の階層では下部に

属していたため、彼らの行動は日本軍内部では実質的に無視される

ことになりました。

以上のように、太平洋戦争期の日本は、戦争遂行の「やり方」に

おいても、敗北がほぼ確定した後の「負け方」においても、他の国

とは大きく異なっていました。端的に言えば、「自国民の犠牲が著しく

増えるやり方」で戦争を行い、「自国民の犠牲が著しく増えるやり方」で

敗北を受け入れました。(ここに今までとは違う角度からあの戦争を

見直す必要が出てきます)つまり、あの時代の日本は、その他の国と

比べて兵士の能力や兵器の数と性能、弾薬や燃料などのハードウエアの

差とは次元の異なる、それらの運用を司る「ソフトウエア」に根本的な

問題を抱えていたのではないか、という疑問です。


p61   「軍隊が市民を守らなかった戦い」としての沖縄戦

2015年4月1日付けの沖縄県の新聞「琉球新報」は、

「本島上陸70年ーー軍隊は住民を守らない。この教訓を

忘れまい」と題された社説を掲載しました。その冒頭部分

では、次のように述べられています。

沖縄戦の最大の教訓は、「軍隊は住民を守らない」である。

これは抽象的なスローガンではない。無数の実体験、戦場の

実際によって立証された事実である。こう言い換えてもいい。

「軍隊がいると住民は犠牲になる。とりわけ、心の底では

住民を同胞と思っていない軍隊が一緒にいると住民はむしろ

死を望まれる」

沖縄に展開していた日本軍人は住民を守ってくれなかったのか?

その疑問への説明が、同じ社説の中で述べられています。

沖縄戦に先立ち、軍部は中学生を含む住民に壕を掘らせ、

戦争準備を強制していた。従って住民がアメリカ軍に投降すれば、

どこに司令官がいて、どこに弾薬があるか、敵に知られてしまう。

だから住民が生き残るよりは住民の全滅を願う。「むしろ死を

のぞまれる」とはそういう意味だ。強制集団死(沖縄住民のいわゆる

集団自決)はその結果である。そして沖縄戦の最終局面で日本軍が島民に

対して取った冷酷な行動について、次のように記述しています。

「これ(日本軍の本島南部への撤退)以降、日本軍による食糧強奪、

住民の壕からの追い出し、壕内で泣く子の殺害が頻発する。

出血持久戦でなければ無かった悲劇だ。果ては方言を話す住民を

スパイ扱いしての殺害も起きた。住民を同胞扱いしない軍との同居の

危険がここに顕在化した。」


p68    政治権力によって意図的に解釈された「教育勅語」

伊藤博文は、教育勅語の「国家主義的教育」の側面を悪いとは考えて

おらず、大日本帝国の基礎を固めるには天皇の権威を強化する教育は

欠かせないと考えていました。そして昭和に入ると、教育勅語に基づく

教育方針が、日本国民を次第に「排外主義的国粋主義」の方向へと

導いていくことになります。教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」

という文言は、国家神道の政治体制下で重要な意味を持つ施設である

「靖国神社」と組み合わせる形で教科書に盛り込まれ、国民は「常日頃

から、いざという時には天皇を頂点とする神聖な国家体制を守るために

犠牲となる覚悟をしておく」ことが重要だという、「悲壮感のある

姿を国民の模範とする風潮」が国全体を覆うことになりました。

1935年に「教育勅語普及会」が刊行した「教育勅語と我らの行道」によれば、

「靖国神社は、国家の有事にのぞみ、家を忘れ、国家の存在に代わりその身を

滅ぼした多くの忠魂(忠義な軍人の魂)を、別格官幣(国家のために功労のあった

人臣を祀る神社の社格)として祀るもので、これは実に尽忠愛国の赤誠(まごころ)

に対して天と地の感動が表れたものと言える。ここにその神社を掲げて、国家守護の

神として敬仰(謹んで仰ぐ)するので、永遠に義勇奉公の大鑑とし、国家の犠牲となった

忠義に背くことのないようにしてほしい」

公民教育の方針はこうして完成していったのです。・・

沖縄県民は、教育勅語文言を、米軍との戦いに置き換え、大人だけでなく、中学生くらいの

年代の子供までもが自発的に、日本軍の防衛戦に協力する意欲を燃やしました。沖縄県民から

すれば、日本軍は自分たちと共に「義勇公に奉じ」て、共通の目的のために骨身を惜しまず

献身する「仲間」のはずでした。ところが、沖縄戦中に発生したのは、日本軍人による

沖縄県民の「切り捨て」や「見殺し」という悲惨な事態でした。戦いの中で「お国のため」

という形式で命を落とした軍人は、靖国神社に祀られて顕彰され更なる皇民化教育のための

材料として、未だ命を落としていない軍人たちの「模範とする風潮」を作り出していきました。

当時の日本軍人にとって理想的な死とは、敵に降伏せず、戦場で敵弾を受けて戦死するか、

又は敵の捕虜となることを避けるために自決するかのどちらかでした。

沖縄戦を指揮した牛島満中将は、6月32日未明に摩文仁の司令部が米軍の攻撃にさらされると、

長勇参謀長(🦊: 長勇の南京事件における「ヤッチマエ」命令については、当ブログ

「キツネ国戦記」の、「天皇の軍隊と南京事件」参照)

と共に摩文仁高地で割腹自殺を遂げました。彼が残した最後の軍命令の文言は、

「これ以降、各部隊はそれぞれの戦場で生存する上級指揮官の下で最後まで戦闘し、

悠久の大義に生くべし」

この命令により、第32軍は米軍への組織的な降伏の機会を失い、洞窟に籠る日本軍の

残存兵は、絶望的な戦闘の継続を義務付けられました。そして、一緒に洞窟へ避難している

市民が米軍に投降すれば、自分たちの居場所や市民の協力を得て築いた地下陣地の情報が漏れる

との理由から、市民が洞窟を出て米軍に投降して生き延びることを許さず、自分たちと運命を

共にさせました。そして、「部隊の全滅」や「市民の死亡」を「戦争指導の失敗」とは捉えない

価値観を道義的に正当化する上で、決定的に重要な役割を果たしたのは、靖国神社でした。


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🦊:    この後、増補版では安倍政権下での「戦前回帰」志向と、「神社本庁」、「教育勅語問題」

等々、著者の言う「大日本病」の再発を憂えて、話はつづくが、最後に「あとがき」の中の

著者の言葉をここに記しておこう


「私が本書で指摘しているのは、戦前、戦中の価値観や国家神道政治思想が、安倍政権下の日本で

急速に復活しているという事実の指摘であって、社会的な物事の全てが「戦前、戦中と同じだ」と

主張しているわけではありません。(これに対して、ここが戦前とは違う、だから戦前復帰ではない、」

などという意見も多くあるが、そのような傍観者的視点からのゲームのような論争をしている場合

ではありません)

1895年の7月25日、当時文部大臣として国家主義によらない「第二教育勅語」の必要性を説いていた

西園寺公望は、「教育時論」に次のような文章を載せています。

「日清戦争の結果により、我が国民は他の国民からの注目をあびることとなったが、より一層深く

(尊敬される国民に)なりたいなら、我が国民たる者は常に国際情勢に注目し、世界の文明と協調して、

国運を長く前進させることを図らねばならない。もしそのようにせず、長く東洋の偏狭な思想に

しがみつき、唯我独尊の考え方に陥り、他の国民をいじめたり差別したりし、または世界文明と共に

発達することを忘れたときは、必ず国家に不幸な結果がもたらされるだろう。」

この、西園寺公望が同時代の日本国民に向けて書いた言葉は、123年という長い時を越えて現在、

つまり2018年を生きる日本国民にも語りかけているように思います。そしてこの間の、

西園寺の懸念が現実のものとなった十数年の間に、この国がどれほど困難で苦しい境遇に陥ったか、

そしてどれほど深刻で重大な「迷惑」を諸外国の国民にかけて、大勢の人々の命を奪ったかを考え

れば、今を生きる我々もまた、当時の西園寺のように「これからの日本国民」に対して、重い責任を

負っていることを痛感します。」


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🦊:   ちなみに先の大戦での戦死者数、約310万人、その内軍人、軍属の60%強の140万人が

「餓死」であったという。また、沖縄戦の全戦死者188136人中、沖縄県出身兵

28’228、他県出身兵65908人、一般県民と准軍属合わせて94000人であったという(推定)。


2023年1月





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