ロシア連邦・国境の調整


ドミトリー・トレーニン著  「ロシア新戦略」より


p82   国境の調整

(1991年のソ連崩壊後に)ロシア連邦は、時が至れば拡張

できるように国境線を未定のままにしておくと言うような

ことをせず、条約を結び地上における線引きを行うことで、

国境線を確定し始めた。

ゴルバチョフが1991年、エリツィン96年、そしてプーチン

が2004年にという2段跳びで、最も重要な国境線、つまり

4355kmに上る中国との国境の問題が解決された。

2008年には、国境の線引きは完了したのである。

この交渉では、1858と60年の条約ーー多くの中国人は

今でもこれを不平等条約だったと思っているがーーで、

ロシアと清朝が定めた現在の国境を中国が再確認する

代わりに、ロシアはアムール河とウスリー江に沿って

走る国境線は河川航路の真ん中に沿って走ることを

認める線まで譲った。ロシアは、双方の川とも中国側

の岸までがソ連領である、というソ連時代の立場を捨てた

のである。こうしてロシアは、2つと半分の島を中国に

譲ったが、その面積は375平方キロメートルに及ぶ。

これはロシア国内で小規模な反発を呼び起こした。ロシア

人の52%は引き渡しに後ろ向きで、中国との国境地帯では

いくつかの路上抗議が行われた。ハバロフスクの住民が

特に不満で、それは中国がハバロフスク市中心部から

わずか数キロの所まで前進して来るからだった。

しかし、なんの騒動も起こらなかった。・・・

プーチンその他のロシア要人は中国の台頭を見て、力の

バランスが中国に大きく有利になりつつある中、国境問題

を未解決のままにして置くことは愚行であることを理解

していた。彼らはあと数十年は合理的に行動し、国内の

経済的、社会的発展に力を傾注するだろうと計算していた

のである。


中国とは対照的に、ロシアはクリル(千島)列島の4つの

島に対する日本の要求に応ずることはしなかった。

プーチンが応ずる用意があったのは、最大限でも1956年

モスクワでの日ソ共同宣言ーー両国で批准されたものだがーー

に立ち返って、小さい方の2島、歯舞、色丹を引き渡すこと

だった。この2つを合わせても、日本が要求しているものの

7%の面積にしかならない。

中国と違って、日本の立場は硬かった。プーチンは2000年、

イルクーツクでの森喜朗総理との会談の決着をつけようと

したのだが、うまくいかなかった。日本の政治においては、

4島を分離して考えることは難しいので、どの内閣で

あっても領土問題での譲歩はほぼ不可能になってしまう。

この4島は日本にとっては、終戦後に受けた屈辱の象徴

なのであり、そのことが4島の実際上の重要性ーー漁業その他

水産資源においては重要なのだがーーをはるかに超えていた。

こうした状況だから、ロシアが島の共同開発など妥協を試み

ても、日本からにべもなく拒絶されるのだった。

ロシア側は、今この問題で動くことに利益を感じていない。

日本は脅威ではなく、将来も脅威とはならない。・・・

それにこの4島は1945年以来、ロシアが管理している、

というわけなのだ。


ロシアと旧ソ連諸国との間の国境条約はもっとうまくいっている。

ウクライナとは2003年、カザフスタンとは2004年、

アゼルバイジャンとは2010年、リトアニアとは1997年、

ラトヴィアとは2005年、エストニアとは2007年に国境条約に

署名した。(エストニアとのものはまだ批准されていない)

ロシアはさらにカスピ海北辺の大陸棚を巡っても、

カザフスタンと2002年に合意に達することができた。

ただこの合意は、イランとトルクメニスタンがカスピ海全体に

関する取り決めに合意しないと発効しない。・・

ロシアは北極海について、要求を持ち出している。ロシアは

2007年、深海艇で北海の海底に小さなチタン製国旗を立て、

これを世界に宣伝した。それと同時にロシアは、国連の委員会に、

120万平方キロに及ぶ北極海大陸棚をロシアのものとして認める

ようにという要求を登録した。ここがロシアの排他的経済水域

として認められると、ロシアの天然ガス埋蔵量は30%ほど増える

ことになろう。さらに、これまで砕氷船がないと通れず、かつ

沿岸インフラも整っていないために重要性がなかったロシアの

シベリア北岸を通る航路が(氷が溶けることで)経済性を持つ

ようになるかも知れず、そうなるとこの北洋航路は大西洋と

太平洋を最短距離で結ぶものになる。北極が温暖化しつつある

ことが、ロシアをこの地域に駆り立てているのである。

ロシアが北極で突然活発になったということは、西側、特に

カナダを心配させることになった。しかしロシアはすぐ、こうした

懸念を注意深く取り除いた。2010年、実に40年間の交渉の結果、

ロシアはノルウェーとバレンツ海の係争水域を等分に分割する

ことに同意したのである。政治的な動機から、ロシアはさらに

スピッツベルゲンの炭鉱をめぐる1920年条約での合意も守る

決意である。ロシアは北極海における領土問題は法的、あるいは

政治的に解決する用意があることを明確に示したのである。



p87  新しい国の領土

1991年ソ連が崩壊した時、運命も定かでなかった旧ソ連諸国は、

その全てが生き延びたばかりでなく、領域もおおむね保持して

いる。いくつかの国は独立国として、その領土を既にほぼ確定

させた。



<ウクライナ>


非常に重要なことだが、ウクライナはレーニン、スターリン、

そしてフルシチョフがいろいろ改変した末のウクライナ・ソヴィエト

社会主義共和国時代の領土を維持している。1939年と45年に、

ソ連はポーランド、チェコ、そしてスロヴァキアの領土の一部を

ウクライナに併合したのだが、幸いなことにこれらの国から

返還要求は来なかった。ソ連時代のウクライナ・ルーマニア国境は、

1997年署名された条約で確定した。黒海の大陸棚の問題は未解決

として残っていたが、2009年国際司法裁判所がウクライナの蛇島は

岩礁に過ぎず、排他的経済水域とはならないとの判断を示し、

ウクライナ政府はこれを受け入れざるを得なかった。


クリミア半島の問題はもっと重要で、かつ問題になりやすい。

1954年フルシチョフは、主にロシア人が住んでいるこの半島を

ロシア共和国からウクライナ共和国に移し、それによって

「ロシアとウクライナの合同」と呼ばれた出来事の300年祭を

祝ったのだった。ソ連が存在し続けていれば、これはあまり

問題にならなかった。クリミア半島の閉鎖都市セバストーポリ

が、ソ連黒海艦隊の司令基地としてモスクワから直接管理されて

いたから、なおさらだった。だがこの問題は、実際のところ

クリミア半島は、ロシア連邦の外側にあるものの中では、ロシア

人の多くがその政治的信条の如何に関わらず、強い思いを

抱いてきた対象である。


1991年エリツインはクリミア半島返還の代わりに、ウクライナが

ソ連時代に保有していた核兵器を放棄することで手を打った。

1993年、エリツイン大統領に歯向かうようになっていたロシア

最高会議(議会)は、セバストーポリのロシアへの返還を主張する

ようになった。その論戦は、ソ連時代セヴァストーポリはモスクワ

が直轄していたので、クリミアと共にウクライナに引き渡された

ものではない、というものだった。エリツイン大統領はこの要求

を無視した。だが1994年初めには、ウクライナの内部に1991年

以来形成されていたクリミア共和国で、ウクライナからの分離を

唱える親露主義者が大統領となった。これは、ウクライナの領土

保全にとっても最も危険な時だっただろう。この緊張は急速に

収束した。エリツインが1993年10月に最高会議を破り、1994年の

12月にはチェチェンの独立派に対して戦争を仕掛けたからである。

クリミア共和国の大統領はロシアの支持を得られないまま、

1995年にその職を廃され、共和国は次の年には自治権を持つ

だけの地位に落とされた。ウクライナの第2代大統領レオニード・

クチマが後に述べたように、エリツインが1993年と94年に

しっかりとした立場を示していてくれなかったら、ロシアと

ウクライナはクリミアをめぐって戦争を始めていたかもしれ

なかったのだ。

1997年ロシアはウクライナと、ソ連崩壊時に存在していた国境を

承認する条約を結び、クリミア半島がウクライナにとどまることを

再確認した。ソ連という一つの国家の中にあって、ロシア・

ウクライナ両国間の境界は実際には引かれていなかったので、

現場では問題が起きることもあった。 (中略)


それでも、ロシアの評論家たちはウクライナが北大西洋条約機構

(NATO)に入ればロシアとの国境の全ての丘、全ての谷は戦場と

なるだろう、と暗い警告を放っていたのだ。

もっと深刻だったのは、オレンジ革命の際、ウクライナの統一維持が

試練に会った時である。新たに選ばれたヴィクトル・ユシチェンコ

大統領を西ウクライナの利益を代表するものと見做し、首都キエフ

での政局の展開に不満な東部、南部の地方当局のいくつかが、

ユシチェンコの政策に反対するための団体を作ったのである。

これは、西ウクライナが中欧の方を向いている一方、東部、南部の

方は文化的にロシアに近親感を抱いている、ということを如実に

示すものとなった。ウクライナがこのようにアイデンティティの

分裂を抱えているということは、それがNATO加盟の是非のような

選択に直面すると、国を引き裂く可能性があったのである。

2008年4月、プーチン大統領がブカレストでNATO諸国首脳に

対し、ウクライナは「一つの国になっておらず」、「分離して

しまうだろう」と言った時、彼はおそらく、ウクライナの統一性は

脆弱で深刻な試練に耐えることはできないだろう、ということを

強調したかったのだろう。最も、だからと言ってモスクワは、

ウクライナとNATOの関係について強い反対意見を持っては

いなかったということではない。その時も、ロシアが支持するのは、

同国が(NATOに加わらず)中立を維持した時だけであるという

ことは明白であった。ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアは

最低でもクリミア半島のロシア復帰論者を支持していたことだろう。

そのことを証明するかのように2008年NATOがブカレスト首脳会議で

ウクライナとグルジアに加盟国とすることを約束し、グルジアで戦争が

起きた時、クリミアの独立運動がにわかに問題化した。両国のNATO

加盟の可能性が後退すると、クリミア独立運動も目立たないうちに

沈静化し、2010年ウクライナで(親ロシアとみなされた)ヴィクトル・

ヤヌコーヴィチが大統領になると、完全におとなしくなったのである。


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🦊; この文を読む限り、2010年以前には、ロシア政府の頭も正常に

働いていたようなのに、10年後の今は、何というか、例の「二股作戦失敗」

やら、「ウクライナ軍の脆弱性という思い込み」やら、「世界中を敵に回して、

一体誰に勝ったのか?」「勝った後はどうする?」など、昔風に言えば、

「分裂病」患者のようだ。だから狐ごときがわかった風のことは言うまい。

ただ、これはどこかで見た、または読んだ覚えのある出来事だ。

「国民から支持を得た独裁者」がプーチンであり、政府の宣伝にうまうまと

乗せられやすい国民がロシア人で、それが「家父長的指導者」大好きと言う。


あれ、これは日本人が経験済みのことじゃないか?え?日本人をバカにするとは

けしからん!て?バカじゃないけどうぼれやすく、自分に甘い。権威主義に弱い。



現に、ウクライナ事件をいいチャンスとばかり、防衛、防衛、と俄に喚き出し、

大敵中国を相手に一戦やるつもりの勇ましい人たちが出てきたが、肩の上に

しっかりしがみついた「海の老人」を、どう引き剥がすのか。そして、対話や

外交によって日本独自の「世界との付き合い方」を実行できるか。

戦争のやり方なら、良いのも悪いのも詳しく歴史書に書いてある。

ついでにどうやって民を騙したかも、詳しく書いてある。

ただし、プーチン氏のように、「負け犬の屈辱を抱えて」それを

肥大化させるような、「目的に合わせた」読み方もできてしまうのが

言いたい放題社会の困ったところだと、狐は思う。



2002年    3月30日