ジョージ・ワシントン:建国の父の生涯
アレチヌスビトハギ
結構きれいだが、摘み取ってから半日と保たない。
それで、ひっつき虫が実る前に刈り取ってしまう
ヌスビトハギの下積みになっていた、キンミズヒキ、
ミズヒキ(赤、白) が起き上がってきた。
こちらは花持ちがよいので、1ヶ月はたのしめる。
よく、里山で撮影された秋草の群落を見かけるが、
その下に出番待ちの秋草があるかも・・と思う。
秋草は2階建てらしい。
🦊: 今回のテーマは「ワシントン礼賛」
これは、現在のアメリカ人の半分の頭から
すっかり消えてしまったワシントンの
共和精神、基本的人権の保護、産業化市場経済社会
における自己管理(誘惑や欲望の独走を制御し、
権力による上からの管理を排除し、市民自らが
合理的で生産的な生き方を成功させる)、などが
建国間もない時期に、アメリカ人から100%近い
支持をえて、以後民主国家アメリカの屋台骨となった
その頃に活躍した出版人と、本の行商人の物語だ。
「本の行商とワシントン伝」: メイソン・L・ウイームズと
建国期の書物」
山田士郎 著: 同志社アメリカ研究雑誌より
1994年 同志社アメリカ研究所 刊
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000008918
🔴: はじめに
「ジョージよ、庭の向こうのあの美しい小さな桜の木を
誰が切ったか知っているかい」と、父は尋ねた。それは
きびしい質問であった。ジョージは少しの間たじろいで
いたが、しかしすぐに気をとり直した。なにものにも
屈しない、言葉では言い表せない不思議な真実の力を
得たかれは、さわやかに輝く面持ちで父を見つめ、
勇敢に叫んだ。「嘘はつけないよ、父ちゃん。ぼく、
嘘はつけないよ。ぼくが自分の斧で切りました」
「私の腕の中に来なさい、最愛の息子よ」と、
父は駆け寄りながら叫んだ。
正直に告白したことを褒める父の腕のなかで、
おそらく涙したであろう6歳の少年が、ジョージ・
ワシントンであり、この逸話を盛り込んだワシントン伝
を著したのが牧師メイソン・L・ウイームズ
(1759−1825)であることは、よく知られている。
もちろん、その伝記に挿入された数々のエピソード
については後の歴史家たちによって真実性に乏しい
と指摘されていることは言うまでもなく、したがって
ウイームズを史実に依拠する正確な伝記作者とみなす
ことはできない。むしろ、荒唐無稽な逸話を捏造
しながら革命、建国の英雄像を創作することによって
新生国家の国民意識の形成に貢献した作家として、
ウイームズを捉えるのが妥当とされている。
しかし忘れてはならないのは、作者ウイームズが、
南部の各地を渡り歩き、人の集まる場所で、「婦女誘拐、
革命、殺人は如何ですか」と叫んで商売する本の行商人
であったことである。ヴァージニア州のある町の酒場の
軒先に店を出してトマス・ペインの「理性の時代」」を
売っていた彼は、ある聖職者からよくそのような社会に
害を与える本を売るものだと詰問されたときに、即座に
ペイン批判の書を取り出し「解毒剤を見てください。
毒と解毒剤の両方ございます」と言って売りつけようと
した行商人でもあった。(行商人としてのウイームズの
評価は、すでにマーカス・カンリフらによってなされて
いるが)ウイームズは輸送、流通機構の不十分な時代に
書籍の普及に精力を傾けた行商人として重視されている。
・・・書物の販売業者である本屋や書籍行商人は、著者と
読者との間に位置する「メデイア」的存在である。著述と
販売の両方を通してアメリカの活字の世界の形成に参画
した人物として、ーー「書物の歴史」の観点からーー
ウイームズを捉え直す必要があるのではないか。
この行商人を、英雄神話を創造した人物として「アメリカン・
ヒーローの系譜」に収めることで満足してはいられない。
Ⅰ 放蕩息子の大覚醒
(ウイームズは1759年に「メリーランド植民地」に、
スコットランド出身の父親のもとに生まれた。
80年からイギリスにわたり、聖職者を
志して教育をうけ、84年に帰国し、英国国教会の牧師として、
生まれ故郷に近い教区で活動を始めた。しかしその後
書物の出版と行商の仕事に転じた。・・・
その背後には、革命後のメリーランドにおける英国国教会
の衰退と国教会聖職者たちの没落があった。同州の
国教会聖職者の3分の2以上が革命期にはロイヤリスト
の立場に立った。その彼らが、革命後に正常な教会活動を
維持し、国教会の信仰を説き続けることは容易ではなかった。
教会はかつてのエスタブリッシュされた地位を失い、牧師は
極度に貧しい境遇に陥った。・・イギリス帰りの彼が、他の
国教会牧師よりも良い境遇にあったとは考えにくい。・・
しかし、より重要なのは、「留守」をした間に、「家」に
生じた変化が、放蕩息子を目覚めさせ、新たな人生の出発
へと主体的に向かわせたのではないかということである。
アメリカの独立戦争は、自由、平等、主権、代表といった
問題を自己の問題として捉えることが出来る民衆を産み出して
いた。権威や伝統や地位を尊重する規範は薄弱となり、非エリート
であっても、世論形成を通じて自己の求める政治の将来を期待
することが出来た。これと同時に、宗教においては、自己のイメージ
に即してキリスト教を形作る希望を持つことができるようになった。
このような中で、メソジストとバプチストの猛烈な浸透、あるいは
黒人教会の台頭に代表される民衆レベルの信仰復興運動が革命後の
アメリカを揺り動かしていた。ウイームズがいたチェサピーク湾
地域ではメソジストのカリスマ的指導者フランシス・アズビュリーの
巡回説教が地方の零細農民や黒人の熱狂的な結集を作り出し、民衆に
回心の機会を提供していた。・・ウイームズも、福音主義的信仰の
激震に巻き込まれた同時代人の一人であったことを推測させる。・・
R・アイザックがヴァージニアについて論じるように、18世紀中ごろ
までの南部では低い識字率と伝統的な口承文化によって、一般民衆が
活字と直接接する機会はごく限られていた。・・こうした文化体系は
世紀中ごろ以降弱体化し、覆されていく。聖書とその解釈が一部の
学識者の独占から解き放たれ、多くの読者を集める宗教ジャーナリズム
の勃興に代表される福音主義運動は、「活字の大衆化」を促す重要な
役割を演じた。
宗教以外の分野でも、革命の進展と共和主義的言説の中で、特定の書物
によって培われた法曹の学識に体現される権威の概念も覆され、
非エリートを対象とする新聞やパンフレットがより重視されるように
なる。一方、18世紀末以降、新聞や雑誌にも変化が現れた。
「コロンビアン・マガジン」に代表されるように、1780年代から
90年代にかけて、政治から文芸まで総合的な内容を特色とする
建国期雑誌が花開く。学識ある一部のエリートだけでなく、職人、
ショップキーパー層も雑誌読者の中に含まれるようになった。・・
(中略)
🔴 本格的に書籍行商で身を立てる決意を固めた1794年、
ウイームズは南部で販売する書籍の仕入れのために
フィラデルフィアに立ち寄り、ケアリーと出会う。・・
ウイームズにとっては都会の活力は圧倒的であったろうし、
とくに目貫通りのマーケット街に決して小さくはない店舗を
構えるケアリーに対してある種の羨望と尊敬の念を抱いた
としても不思議ではない。・・ウイームズが死亡するまで
30年間にわたって出版業者と行商人との関係は続いた。
その間、各種のアルマナックや、ギャンブル・飲酒・殺人・
姦通・決闘などを諌める教訓的な助言書を出版した。
また、ワシントン、フランクリン、ウイリアム・ペンの
伝記も書いて出版している。
Ⅱ 読書する国民の創造
行商人というと・・商品を馬の背や馬車に積んで気の向く
ままに旅に出、外部との交渉の少い小村を渡り歩く。
訪れた村では男も女も、子供も老人も、そのストレンジャー
を取り巻き、彼がもたらした商品を珍しげに眺め、
外の世界の情報に興味深く聞き入る。しかし翌朝には
行商人は、誰ひとり知らない間に村を去っていく。・・
これは多くの行商人の現実のスタイルであった。
それがまた彼らを歴史の闇の中に閉じ込めている原因
ともなっている。
この点で、ウイームズは当時の行商人としては例外であった
と言わねばならない。というのも、かれが出版業者ケアリー
に送った数百に及ぶ書簡が現存しており、しかもそれらは
私家版であるために、極めて希少部数ではあるが、エミリー・
E・F・スキールによって活字化されているからである。
その書簡の中に現れる行商人としてのウイームズは、前近代的
な農村社会を彷徨するストレンジャーというイメージからは
ほど遠い。
ウイームズはケアリー宛の手紙の中で、共和制社会における
出版・販売業の国家的使命を論じることがあった。
また、「私は『社会にとって』価値ある本を普及させることを
原則としています」とも書いたし、「国は闇の中にあり、民は
無知であり、人心はすさび、行いは野蛮である。人道と愛国の
精神は、声高に呼び求めている、本を、もっと本を、と」と
意気込んでいる。・・・
1801年末になると、別の印刷業者コリンズが出版する聖書との
競争に直面し、予約購買者を見つけるのに苦労するようになった。
コリンズが4ドルで聖書を販売しているのに対して、ケアリーは
8ドルの値段をつけていた。「あなたが7ドルで売ることを決める
ならば、それで売りましょう。しかし、私は6ドルで売ることを
進言します。聖書に関して、もしあなたがそれを生涯の儲けの源
としたいのであれば、共和国全体をあなたの顧客にしなければ
なりません。貴族的な値段をつけている限り、平民の財布を
当てにすることは出来ないのです。」
値段で特徴が出せないならば、せめて価格に見合う値打ちのある
装丁が施されるべきである。ウイームズの手紙を引用する。
「聖書に関して、世間の賞賛を受けるような図版にすることが
いかに重要であるかをあなたが十分に考慮しないのではないかと
不安です。彫版こそは、かかる大変高価な製品の主翼なのです。(略)
優れた彫版は魂にとっての贅沢、歓楽であります。悦楽と共に
想像がそこに宿ります。読者は本を閉じるのがいやになり、
またすぐにわくわくして本へ戻るでしょう。ああ、紙や印刷や
彫版の質を良くし、すべての人が両手を挙げて、眼を見開き、
<神よ、なんと優雅な>と叫ぶようにしようではありませんか。」
出版者ケアリーに差し出された手紙は、ウイームズが単なる
書物の運び手ではなかったことを告げている。読者による受容
の予測を基準に版型、紙質、印字、装丁、製本、価格、流通、
販売の方法にまでわたる出版文化の総体が彼の射程に入れられた。
書物を消費の点から捉えた最初のアメリカ人の一人ではなかったのか。
ワシントン伝は、そうした彼が目指す理想の書物にほかならない。
Ⅱ 知の意匠
99年12月14日、ワシントンが他界する。ウイームズは、ワシントン
の死後1か月ほどしてケアリーに手紙を書き、出版を依頼した。
「ご存じのように、ワシントンが逝きました。数百万の人々が
彼について何か読みたくて口をあけて待っています。」自著は
ワシントンの生誕から革命軍の指揮、大統領就任までをたどり、
彼の信仰、愛国心、勤勉といった[偉大な徳を我々の若人の
規範として提示します。興味ぶかく面白い逸話で輪郭を描く、
生き生きとした内容です。」牧師や教師など数人の知識人に
読んでもらったが、皆出版を薦めてくれた。「25セントか
37セントで素早く売れるでしょうし、(1冊の製作費は)
10セントかからないでしょう」と書いた。(が、結局
ケアリーはこの依頼には応じず)1800年、別の印刷業者
(ボルチモアのG・キーテイング)に依頼して出版することに
なった。以後、ウイームズは頻繁に手を加えながら、伝記
を自分の理想に近いものへと仕上げていくが、その過程で
読者獲得のために出版の諸装置を活用することになる。
(当時前評判の高かった合衆国最高裁主席判事ジョン・
マーシャルによるワシントン正伝を、ウイームズは大いに
期待して南部における販売を計画していたが)実際には全6巻
という途方もない大きさであり、これだけでも、極めて
限られた読者しか読むことはできなかったはずである。
ウイームズはケアリー宛の手紙で、マーシャルの伝記は
「私のほど道徳的でもないし、リパブリカンでもない」
と不満を漏らした。マーカス・カンリフが言うように、
ウイームズが「リパブリカン」という言葉で示そうとしたのは、
フェデラリスツに対する党派的な規定ではなく、私的な生活に
おける徳と公的な行動とを不可分な関係とする共和主義的規範
であろう。1809年のトマス・ジェファソン宛の手紙では、他の
伝記作家のように、民衆にとっての軍人ヒーローとして褒め称え
たり国家の進路を誤らせた貴族として非難するのではなく、
「我が国の若人全てが知っておくべき、また彼を愛し彼の徳に
見習う真のリパブリカン」としてワシントンを捉えたことを
強調している。
1806年、ついにケアリーが、ウイームズの伝記を第5版として
出版し、50セントで販売を開始し、ページ数はそれまでの版と
同じ80ページだが、内容は大幅に書き換えられている。幼児期の
重要な逸話が挿入され、桜の木やキャベツ文字のエピソードが
ここで初めて登場する。・・・
1808年に、ウイームズは著作権をケアリーに1000ドルで譲渡
した。「故ジョージの遺骨(ワシントンの伝記)に宿る巨額のお金」
をケアリーの手に渡してしまったことを後悔した。しかし後悔の
もう一つの理由は、「いくつかの最も価値ある章がまだ付け加え
られるべきだから」である。改訂すればもっとよくなり、もっと
売れるという気持ちが表明されている。(同時代に現れた多数の
ワシントン伝の中でも)ウイームズの伝記が最も長く愛されることに
なるが、それは書物の中に込められた、読者にアピールする仕掛け
と無関係ではないだろう。(中略)
ウイームズの伝記における会話の多用、およびその会話における
通俗的な日常的表現には驚かされる。18世紀においては、野卑な
通俗的な言葉と洗練された言葉とが明確に区別され、日常語の
中では「徳ある知性」を表現したり理解することは出来ないと
された。しかし、革命と福音によって作られた共和政社会に
おいては、普通の人々の日常表現にも徳の存在が見出され、
むしろ道徳や信仰の問題に関しては、共和国市民同士が意見交換
するときの平等な回路として日常的なるものが賞賛されるようになる。
こうした変化に対して、多くの読者にメッセージが到達するよう工夫
されたウイームズの戦略の表れではないだろうか?
結語ーー読者の共同体
建国の父の子供時代をあえて創作することに典型的に示されるように、
ウイームズの主たる関心事は、偉人の私的側面を採り上げることに
あった。第一章において、公的な人物としての偉大さではなく、「私的
生活の陰の中に、我々はその人物を見つめるべきなのである。」なぜなら、
「私的徳こそが、すべての人間の卓越さの基礎であり、ワシントンをして
「コロンビアの最初で最大の息子」とならしめたのであるから」と論じ、
「この私生活における偉大さを、私たちの子供たちの憧れの眼差しの
前に何よりもまず提示しようではないか」と述べる。
しかし、ウイームズが強調する私的生活における徳の行いーー尊敬される
べきワシントンの4つの気質たる、信仰、慈愛、勤勉、愛国心ーーは、
(「前近代的な古典的共和主義」の枠を超えて)経済的、物質的な成功
に結びつくことをも例示している。
独立戦争が終わり、ワシントンは本来の幸福で健康的な農場にもどった。」
しかし彼はすぐに、農民が「増加する農産物を国内の市場に輸送できなければ、
栄誉ある国土の名誉と利点を長期にわたって享受できないことを知り、
合衆国を流れる良好な河川すべての間に運河や堀割を作ることが最大の
重点であることを理解するよう国民に促した。その結果、ジェームズ、
ポトマック両川の航行を拡張することを目的に2つの会社が設立された。
ワシントンの提言に感謝するため、会社は4000ドル近い額に相当する
会社の株式を進呈すると申し出たが、ワシントンは即座にそれを拒絶した。
もし受領するならば、「次に何を提言しても、お金が動機であろうと
世間は疑うようになっても仕方ないだろう。自分の国からお金を取ろう
とは欲してもいないし、もしお金を求めるなら、お金よりもずっと
価値のある国に奉仕する権限を失うであろう。」
出現しつつある社会が、止まることを知らない欲望と野心を醸成する
ことを知るウイームズは、単なる勤勉だけでなく、合理的で生産的な
生き方を追求する鉄の自己管理こそが成功への道であることを説く。
ウイームズは、自分の著作を、他のワシントン伝から区別し、一定の
読者を得るために、建国の英雄の物語のなかに、産業化・市場経済に
おける生き方を示す手引きを注入したと言える。そしてこの手引きは、
日曜学校、ライシーアム(19世紀アメリカで盛んだった、公共の
プログラムやエンタテイメントの提供を目的とする組織),
図書館などの施設の創設や、マインドコントロール、骨相学、
禁酒運動に着手したショップキーパー・自営職人・製造業者らには
有益なテキストと」なりえた。彼らは、新しい社会の到来による機会
の拡大を欲しながらも、それらが引き起こす社会変動を憂慮し、
秩序維持のために上からの権力の行使ではなく、市民による自発的な
自己抑制、自己向上の手段を探求していたのである。しかも重要なことに、
これらの人々は、南北戦争後のアメリカにおいて活字文化を支える中心的
な役割を担うことになる。数々の助言の書や同人機関誌の発行、あるいは
図書の収集などを通して、一定の自立した固有の言説の生産ーー享受の
循環が作り出され、いわば一種の解釈共同体作りが進行し、拡大していく。
読者の読みのベクトルを方向づける出版の諸装置を備えた、ウイームズの
ワシントン伝は再読され、再吟味され、再生産されていくのである。
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🦊: 国会の出口で、議員さんに「徳ってなんのこと?」と聞いてみんしゃい。
「トクッて得のこと?」または
「知らせてはならない内部事情をうまくくるみ込んで丁寧に嘘をつくってことかなー」
というのもある。キツネの保守論では、「嘘は恥である」と「親分の云うとーり、は
恥である」、「ちゃんと筋だてて議論できない者は去れ」だから、ただ口八丁だけでは
失格。また「国からお金を取ろうとは思わないが、統一教会のような慈善団体?に
仲良くしてもらうのが、なんで悪い?わからん・・」という、「すべて飲み込む」ひとも
いる。保守というのは、基本、、ケチであるべきだ、というのがキツネの本性であるから、
「ばら撒きで人気取り」は失格。しかし国の経済はケチだけでは回らない、というならば、
「新たな産業を興し、誰もがそこそこ豊かに暮らせるようにする。」との公約を実行しない
ものだから、あの約束は何処へいった?と、棺桶の外で囁かれているのだが、本人は
もう、口を開かない。「政治家の資格は、まず嘘をつかないこと、実行できないことを
約束しないこと、理論的な会話が成り立つだけの知性を持つこと、くらいかなー、
ごくやさしい「徳目」だと思うんだがなー。無理かなー
政治家の「徳」は大事だ。ワシントンに倣え。
9月13日