一方、日本占領軍の軍政機構は、1949年まで米極東軍総司令官によって
統率される占領軍の編成に従いながらも、他方では日本占領だけのための
別途の組織を形成していた。特に地方軍政機構は、日本の地方行政機構と
対をなして編成された。横須賀は、他のすべての地方軍政機構と違って
特別地区として編成され、在日米海軍横須賀基地内に軍政府が設置されて
いた。ところで、こうした軍政機構も、朝鮮戦争の直前には大幅に縮小
されていた。対日講和に備えて占領業務が軍事的任務から民事的任務に変わり、
民事的任務も次第に縮小されて日本の行政部署に業務が移管されていたのだ。
さらに各府県の民事部は次第に縮小され、各地方民事部の指揮権は最高司令官
直属となった。横須賀の軍政府名称も民事部に改称された。
戦争初期に劣勢だった戦況を逆転させるうえで、海軍による海洋統制権の掌握が
決定的に貢献した。朝鮮戦争勃発以降、日本海域にいた米海軍艦船は極東海軍
司令官ジョイ(Turner Joy)提督の作戦統制下にあった。彼が司令官職にあった
第96機動部隊は、軽巡洋艦ジュノー、サムナー級駆逐艦4隻、デイーゼル潜水艦
1隻、旧型哨戒艦数隻で構成されていたが、朝鮮戦争勃発前には日本への密輸品
取り締まりと日本沿岸の機雷掃海作業をしていた。第96機動部隊の上陸機動捜査部隊
(司令官はドイル海軍少将)は揚陸指揮艦マウント・マッキンリー、攻撃輸送艦
カバリアー、攻撃貨物輸送機ユニオン、予備艦アリカラ、戦車揚陸艦(LST)1隻で
編成されていたが、在日米軍と共同で上陸訓練を行うために日本へ到着したばかり
だった。
朝鮮戦争勃発直後、ジョイ提督は駆逐艦ド・ヘイブン、マンスフィールド、コレット、
ライマン・スウェンソンを韓国支援船団に命名し、韓国海域に対する哨戒活動に
投入した。(英国もまた戦争勃発直後に艦隊を急派したが)、このうちの一部は
第96機動部隊に、トライアンフ、コサック、コンソートは第77機動部隊に
合流され沖縄に送られた。
米国が地上軍の投入を決定した翌日の7月1日、ジョイ提督の司令部は日本で
利用可能な兵力を集めて韓国に輸送する計画を立てた。初期に米陸軍第24歩兵
師団の一部は戦闘地域に空輸され、残りの兵力は日本商船管理局に所属して
佐世保に停泊していた第96・3機動船団所属のLSTに乗艦した。
これらのLSTは日本人の乗組員が操船していたが、朝鮮戦争の勃発前には
米占領軍に軍需品を調達し、アジア大陸から日本本国に送還される戦争捕虜
たちを輸送する任務を遂行していた。米軍の軍事海上輸送部の船舶によって
増強されたジョイ提督の上陸機動部隊(TF90)と、チャーターされた日本商船
は、米陸軍第24歩兵師団と第25歩兵師団を釜山に展開させた。
(中略)
(米極東空軍麾下の第13空軍はフィリピンに、第20空軍はグアムに、第5空軍が
沖縄に配置されていた)。日本から出撃した空軍のB-26とF-82は、地上軍の
作戦を航空支援する役目を遂行した。ところが、これらの機種は航続距離と
到達にかかる時間のため、標的上空での滞空時間に制限があった。B-26には
M2重機関銃、ロケット、燃料、4000ポンドの爆弾などを搭載できたが、
積載数が充分でないという限界を抱えていた。F-80は、日本から離陸する
しかない状況で、有効航続距離に制限を受けていた。この戦闘機はキャリバー
50機関銃を8挺搭載しており、高速ロケット18機を積載できた。しかし
燃料を全て積載すると、戦闘飛行半径は225マイルにしかならなかった。
したがって、F-80は戦闘地域でわずか数分だけ攻撃に参加し、日本に
引き返さなければならない状況だった。こうして、これに代わって
米本土からプロペラ式戦闘機のF-51ムスタングが投入されたのである。
p98 在日米軍の出動
(連合国軍は朝鮮戦争の勃発とともに戦闘部隊へと再編され、韓国の
最前線に送られた)最初に派遣された部隊は、米軍の緊急行動部隊として
派遣されたものだった。トルーマンは6月27日の国連安保理決議を待たず
26日の夜にマッカーサーへ米海軍と空軍の韓国出動を命令し、27日には
韓国における作戦行動権を付与した。マッカーサーは在日米軍第八軍のうち、
まず第24歩兵師団(小倉)を韓国へ派遣し、同時に第7艦隊を台湾海峡へ
派遣した。28日には米極東空軍の韓国上空からの爆撃が、29日には米艦隊
の北朝鮮に対する砲撃が始まった。すでに6月29日付の日本の日刊紙では
「ジェット戦闘機や軽爆撃機が南朝鮮に向けてひっきりなしに飛び立っていく。
そして夥しい機関銃弾の跡をつけて帰ってくる」という内容を扱っていた。
朝鮮戦争の間、日本の15の空港が米極東空軍の基地となった。
また、米国政府は英連邦各国など友好国に、韓国への軍隊投入を要請した。
(7月7日には国連安保理決議に基づいて、マッカーサーが国連軍最高司令官
に任命され、すでに日本の占領・管理のための総司令部(GHQ)の置かれていた
第一生命ビルの屋上には、星条旗と国連旗が同時に翻ることになった)
(以下略)
p102 基地化の実相
以降、日本の基地は、朝鮮戦争に投入されて戻ってくる在日米軍の戦闘基地
として戦争に編入されていった。それはまさに「日本全土の基地化」と言い
うるものだった。数字上に表れる基地化の実相は次のとおりである。
戦争が終わる1953年1月31日現在、日本国内には733ヵ所の米軍基地が
あった。その広さは約14万haであり、これは日本の国土面積の0・378 %に
当たる。このうち陸上訓練場が76%、飛行場が13%、幕舎ならびにその他が
11%などである。過去700万人規模の日本軍が使用した軍用地が約30万ha
だったが、その半分を米軍基地が占めていたことになる。これだけ見ても、
組織構成あたりの米軍の基地接収面積が、いかに広大なものであったか
がわかるだろう。他にも海上訓練場が日本列島を囲むように散在していた。
1953年2月、水産庁の調査によると、防潜網と海底障害物を含む米軍の
施設総数は76ヵ所で、これに提供された日本の水域は4万8千㎢ で、九州に
匹敵する広さだった。これを訓練種目別に見てみると、対空射撃、空中戦、
対地射撃、砲撃、水上射撃、上陸訓練、乗船荷役、機雷投下、魚雷発射、
艦砲射撃など多様なものだった。
これらの基地は原則的に無期限接収であり、米国の要求に従って無限に接収・
拡大が可能だった。日米合同委員会が基地接収時に調印する「日米施設区域
協定」は、1952年7月26日に締結後の1年余りの期間に11回ほど改定され、
無期限使用のための接収件数が14件増加したばかりでなく、訓練場と
飛行場なども47ヵ所ほど拡張された。(中略)
1952年7月26日には、外務省で日米合同委員会の両国主席代表である
ウイリアムス准将と井関佑二郎外務省国際協力局長が調印して、
「行政協定に基づく日本国政府とアメリカ政府との間の協定」
が締結された。これは「日米施設区域協定」の名でよく知られている。
これによると、提供される施設や区域は、無期限で使用されるもの
(無期限使用)、移転場所が決定されるまで一時的に使用されるもの
(一時使用)、そして1953年3月31日までに返還される予定の民間所有
住宅など3種類があり、無期限使用は300件、一時使用は312件、
民間所有住宅671件(以降、196件追加)が米軍のために提供されていた。
無期限使用に分類されるのは、飛行場、訓練場、高射砲陣地、弾薬庫、
貯油所、武器修理工場、兵営、軍港などの主要施設で、大部分は講和発効
以前から使用されてきたものだ。また、一時使用に分類されるものは、
飛行場、練兵場、港湾司令部、兵器廠なおどの軍事施設の他に、主に集団
宿舎(兵士クラブ、士官宿舎、軍人軍属とその家族のための宿舎)、倉庫、
事務所、クラブハウス等だった。
無期限使用の対象は飛行場や訓練場のような主要施設であり、それは
拡大傾向にあったのだ。
p106朝鮮戦争と沖縄
一方、朝鮮戦争の勃発は沖縄にも大きな影響を及ぼした。
「最低限の駐機場整備」に止まっていた当初の計画が変更され、
7月には格納庫の追加建設が開始されるなど、軍事施設の拡張が進め
られた。6月27日、グアムのアンダーソン基地駐屯の爆撃部隊に対して
嘉手納への移動命令が下され、7月1日までに移動がほぼ完了した。
米本土から爆撃部隊が沖縄へ移動し、7月16日のソウル爆撃のために
47機のB29が嘉手納基地から出撃していった。8月中旬、横田基地と
嘉手納基地には計98機のB29が集中していた。格納庫の追加建設は、
こうして増派されたB29部隊を収容するためのものだった。11月からは、
読谷、ボーロー、普天間などに造られた補助飛行場の拡充整備が始まった。
一方、7月が終わる前に沖縄駐屯部隊の大部分は韓国の戦場に移動し、
戦闘に参加していた。7月下旬には新しい歩兵部隊が沖縄に到着し、3週間
の訓練を受けて前線へと派遣されていった。1950年9月から11月まで、
読谷、嘉手納、宜野湾、浦添、真和志(マワシ)など、沖縄の随所でいわゆる
「一掃」と表現される施設や土地接収が展開された。沖縄の基地問題が
ここに始まっていたのだ。
1951年5月18日付け「沖縄タイムズ」には、「沖縄の大海軍基地の完成が
間近であるとの記事が 載せられた。沖縄県の嘉手納を中心とする極東最大の
飛行基地が建設されていたが、この飛行場には米国の保有している最強の
戦略爆撃機B-36の着陸が可能になるということだった。このために
約6500万ドルの巨費が投入される予定であるという事実も指摘されて
いた。(予備基地も合わせると5ヵ所の飛行場が「嘉手納飛行基地群」を
構成することになった)沖縄駐屯第20空軍司令官ステアリー少将は、これら
飛行基地群を太平洋の関門とみなしていたが、それはここが東シベリア、
満州、中国本土、東南アジア、インドなどの広域をカバーしていたからだ。
日本本土やフィリピンの基地とは異なり、「太平洋のジブラルタル」沖縄は、
南北の両側に展開可能な便利な基地だったのである。
1951年8月10日の「沖縄タイムズ」の記事は、日本の建設会社が基地建設を
下請け受注したとの事実を伝えている。清水建設が240万ドル、大日本土木が
110万5000ドルの契約を受注したとの内容だった。沖縄の「軍作業」の募集
人員は大幅に増えた。1950年に入って6ヶ月の間に約9000人増加したのだ。
朝鮮戦争で急増した軍作業がなければ、沖縄の経済は彼ら5万人の失業者を
抱えていたのだ。朝鮮戦争と結びついた沖縄における軍関係の労務は、
一種の「救済であり恩恵」だったと言える。(中略)
p115 兵士と物資輸送の中継基地
開戦当時、日本に駐屯していた米軍は約12万5000人だったが、朝鮮戦争の
期間に最大時で35万人が駐屯していたという話もある。彼らはすべて日本
を通過して韓国の前線に向かった。投入される部隊の規模が次第に大きく
なったことが鉄道輸送が必要となった主な理由だった。
米軍と英連邦軍など国連軍兵士の輸送に加えて、韓国軍の輸送にも国鉄が
動員されていた。その一例は「鉄道終戦処理史」に確認できる。これに
よると、米第七師団の第32歩兵連隊が日本に移送され、日本で戦闘訓練を
受けた後、韓国の前線に入った。5日間で計9つの地域から客車72両で輸送
された事実を見ると、相当数の韓国軍兵士が日本に上陸し、訓練を受けた
ことがわかる。右の資料から確認されるのは、韓国の前線に編成、投入
された米第七師団は、約8000人の韓国軍を編入して作ったものだ。
さらに、マッカーサーの要請で、米統合参謀本部は州兵師団を増派したが、
これらの部隊は日本を経由して韓国の前線に投入された。
韓国の前線で使用された弾薬は、米国の本土から一度、日本各地の在日米軍
弾薬庫に収納された後、韓国に輸送されていった。
1946年に規定された第三鉄道輸送司令部業務第28号には、火薬類は標記トン
数の3分の2を超えて積載することは出来ない、と規定されていたが、在日
兵站司令部はこれを全面改訂し、大型爆弾の輸送が可能なように圧力を
加えた。日本の運輸省は、1950年11月17日、米軍の砲弾類の輸送は、
火薬類のトン数を制限する「火薬類輸送規則」に沿わなくても問題に
ならないとの解釈を伝えた。日本の法令がもともと占領軍には適用され
なかったために問題にならないというのが、そうした解釈の根拠だった。
佐世保市もまた、出撃基地であると同時に物資輸送の最前線基地だった。
特に仁川(インチョン)上陸作戦開始後、艦船の佐世保港への出入りが急増した。
1日70隻余りの入港と出港、常時港湾に係留中の大小船舶は100余隻に達した。
さらに渇水期を迎えた韓国で深刻な水不足現象が報告されると、佐世保は
飲料水補給港の役割まで担うことになり、数多くの民間タンカーが飲料水
運搬船に改造されて、釜山港へ向かう給水作戦に動員された